仮SS:虫の居所


 11月、江戸。
 夏場の京で再会した高杉と会うべく、はつみは準備をしていた。互いの思想を語り合い、共有し、上海帰りの土産物まで手渡してくれた高杉。彼は現在、長州世子の側用人として江戸桜田藩邸にいるはずで、はつみは自身が江戸入りした事を報せる手紙を出していたのだった。


「やあやあお久しぶり。ささ、高杉さんが待っちょる。話しながら行こう」
 伊藤俊輔が旅籠を訪れてくれたので、そのまま寅之進や以蔵と一緒に高杉のいる料亭へと足を運ぶ事となった。伊藤は相変わらず気さくで、自身はこの江戸において池内蔵太や柊智、伊達小次郎といったはつみとゆかりのある者達とも交流をしているなど、笑みを交えて話してくれる。だが高杉がどうしているかを尋ねると『まあまあ、会ってからのお楽しみっちゃ』と、本当に『お楽しみ』であるのか、それとも『はぐらかしている』かわからない態度を見せていた。

 そうこうする内に料亭へ付くと、「座敷には上がらん、外で待つ」と言う以蔵を軒先に残し、はつみと寅之進の二人が伊藤に続いて二階へと案内されて行く。階段を上がり切る前からちょんちょんと三味線の音が聞こえてきたので、時勢がこんなにも荒れている中で昼間から芸妓を呼び、飲み遊ぶ者もいるのだなと、なんとなく考えるはつみ。それが、伊藤が立ち止まり振り返ったのが件の三味線の音が聞こえる部屋の前であった事で、中で遊んでいるのが外ならぬ高杉である事を悟った。

「ささ、どうぞどうぞ。」

 伊藤に促されて襖を開けると不意に三味線の音が止み、突如現れたはつみを見た高杉が一瞬眉を上げて驚く表情を見せながらもすぐに機嫌が悪そうに…否、どこかバツが悪そうに視線を逸らした。

「…チッ…」

「た、高杉さん……」

 はつみは酒の匂いが充満する部屋で芸妓遊びをしている彼の姿にも驚いたが、それ以上に、まったく歓迎する雰囲気ではない様子を察して反射的に伊藤を振り返る。視線が合った伊藤はスッと一歩近づくと、こっそりと耳打ちした。

「…実は、文は高杉さんが放置してたので勝手に読ませてもらいました。」
「えっ?」
「それで君をここへ呼び立てたんは僕の独断でして。」
「え、え、いや何で?」
「高杉さん、江戸に来てからひと月も引きこもっちょって。それでこの間は脱藩まがいなことまでして、少し騒ぎになっちょった…」
「うそ…だってこの間京で会った時は凄く活き活きされてたのに…何があったの?」

「おい!何をコソコソと耳打ちし合っとる!乳繰り合うなら他所でやれ!!!」

 高杉の鋭い怒号を受けた二人は揃って肩をすくめ、隣で三味線を鳴らしていた芸妓も驚いて手を止めてしまった。焦った様子で再び視線を合わせた伊藤は『(こりゃいかん)』と言わんばかりに顔をしかめて首を横に振る。状況を呑み込めないはつみを尻目に身をひるがえし、芸妓らにも『(はよう!いくっちゃ!)』とばかりに退席を促す動きを見せた。

「ちょ、ちょっと、俊輔くん!?」

 芸妓たちもはつみの横を通ってそそくさと撤退し、最後に振り返った伊藤が両手を合わせながら

「そんでは、あとの事はお二人で…オナシャス!!!」

 と言ってはつみを中へと押し込み、ぴしゃりと襖を締め切ってしまったではないか。

「ええっ?!いや、まって俊輔くん?!」

 一緒に来ていたはずの寅之進も伊藤に取り込まれる様にして離れ離れになってしまい、襖の外の気配はまるで潮が引いていくかの如く一気に遠のいてしまった。…去年も伊藤によって機嫌の悪い高杉と二人きりにさせられた事があったが、アレとまったく同じ状況だ。まったく何て奴だと思いながらも、まるで魔王の様に部屋の奥に陣取って酒を煽っている高杉に向き合う事にした。

「…高杉さん……藩論は、まだ高杉さんの視野に追いついていませんでしたか」

「………ああ。…そのように言うのは、ほんに君だけだ。」

 京にてはつみとも話をした通り上海視察を経た高杉の見立てでは、対西洋列強への理解と備えが早急に必要である事を再確認し、西洋軍備増強に基く防長割拠、つまり幕府の封建制度から脱却した強い藩となり帝を直に御守するといった主張をおこなうつもりだった。だが先ほど伊藤がポロリと口にした「ひと月も引きこもっていた」という話は恐らく、その主張がまったくもって上手くいかなかったが故の事だろうと悟った。はつみ自身が独特に持つ『現代知識としての歴史』でも、高杉の混迷の時期はまだもう少し続くと記憶していた。…彼が歴史の表舞台に力強く立ち、まさに藩から求められる人材となるのはもう少し先の話なのだ。

「海外を視察し学んでいざ帰国してみるや、長州の藩論は『破約攘夷』を極めておった。」
 彼は手酌酒をしながら、しかしやはりはつみへ視線を投げる事はなく、不機嫌とも拗ねているとも取れる態度で話を続けて来た。半年ぶりに戻った長州藩内では『小攘夷を以て主張を繰り返し、夷狄の排除と幕政改革を急務とする』といった策が藩論を強固に掌握していたと彼は言いう。
『幕府はもういらない』というその主張は後に『倒幕』といった言葉へと昇華されてゆく発想でもあったのだが、今はまだまだ、なんだかんだと幕府を批判してはいても『幕府を無くす』といったものは現実的ではないと取られる事が大半であった。実際今も、朝廷を取り込み朝廷から『勅令』という形で幕府の動きを何とかさせようとしているという策が、長州や土佐の間で現実的とされているのである。去年、はつみが極論として『新しい政府の存在』について話をした際に、あまりにも無謀で突飛な発想であった故に桂や高杉らを驚かせ、伊藤にして「日本一の過激論者」と言わしめた事もあったぐらいだ。しかし今、高杉はそれを現実のものとして本気で見据えていた。朝廷をないがしろにし勅令もないままに開国をし、将軍継嗣問題と合わせて多くの罪なき主張を権力の元にねじ伏せ葬って来た幕府。西洋人に振り回された挙句大量流出する国産金銀の相場を狂わせて物価高騰を呼び起こし、民の生活さえも取り替えしのつかない程に脅かし打続けている幕府。そういった幕府を糾弾する精神は高杉の望むところである。しかし『攘夷』に対する本音のところは、また別だった。

「尊王攘夷!!!」

「わっ!びっくりした」

 よく通る覇気のある声でそう叫んだ高杉は、『話のわかる』はつみが聞いてくれる事で興が乗ってきたとでもばかりに、その饒舌な口をますます活発に動かし始めていた。

「口では攘夷攘夷と申すが、どいつもこいつも現実を見ておらん。今闘っても西洋には勝てんのだ!西洋を叩けば西洋だけでなく幕府も一緒になって長州を叩きにくるぞ。腐っても幕府じゃ、まだ諸藩への影響もあるから長州は文字通りの袋叩きに遭うであろうな。我らが意地を見せた所で、そんなものは玉砕にもならん。ただただ長州が滅び、毛利公の御血筋を断絶させるだけだ。」

「そうですね…。朝廷もこの半年の間だけで公武合体論の薩摩と攘夷論の土佐から工作を受けて勅使を出していますから、いざという時に長州の味方になってくれるかは分かりませんよね」

「ああ。まさにそれだ。ハッ、何故皆にはそれが見えんのだ?今は幕府の封建から脱却して藩を強うし、強うなった長州こそが朝廷をお守りし、夷狄へも的確に対処していく。…例え幕府が攘夷を決行したとて、今の備えでは海を手取る西洋に勝てるとは思えん。向こうの軍事力はまさに圧倒的じゃった。」

 早くから横井小楠の開国論に刮目し、自身も西洋諸国に『租界地』とされた上海帰りである高杉の目には、対外貿易や殖産興業によって富国強兵を成し西洋軍備増強を唱え、幕府の封建制度から脱却し防長割拠して帝を御守する事こそが急務であると映っていた。なんなら、実際に横井小楠を長州に招く事さえも提案していた程だ。だが高杉の主張は俄かにも受け入れられる気配はなく、その為に、ここ一か月近くも自室に引きこもっていたという訳である。
 仲間達と思想を違えている訳ではない。だが一つも二つも先を見据える高杉の視野を真に理解する者は今の長州にはいなかった。

「戻ってみれば蚊帳の外。ははっ。君も驚いただろうが、一番驚いておるのは僕自身だぞ。」

「…わかります。高杉さん…」

 堰を切ったようにを不満や鬱憤を並べる高杉であったが、はつみがその焦燥を慮った事で、却って苛立ちの矛先が『また』はつみへと向いてしまう。虫の居所が悪くては、元来の短気な性根を抑え込む事はできずにいた。

「…僕の心を知った風に言うな。不愉快じゃ」

 手にしていた杯を音を立てる様にして膳に捨て置く。今のはつみの台詞に、思う所があった様だ。

「長州には僕が必要だと君は常々言うておったが、上海から帰ってきた今もホレ、このざまじゃ。ひと月も部屋に引きこもっておったが、僕の有無に関係なく小攘夷の議論はよう進んでおるぞ。今僕がこの江戸にいる理由、それはただ藩のお勤めを果たす為だけにここにいる。皆が国事にいそしむ中で、僕だけが、だ!」

 じろりとはつみを睨む高杉は、更に、江戸に来てからを知った他の事についてまで勢いのままに告げる。-今、土佐の勤王派が突然台頭しているのは、この春に参政・吉田東洋が『天誅』された事に始まる事を知ったと。彼らは天誅を続け、京を席捲した。そして以前から東洋に勧誘され、あまつさえ日頃から開国論者めいた発言が見られた男装の浮世人・桜川はつみも、その土佐の過激な連中から目を付けられ、実際に事件も起きている。…見ようによっては命を狙われていると、近々の様子について詳しく耳にしたらしい。

「先日会うた時、何故そんな大事な事を言わなかった?―ハッ。どうせ君も、僕のなど信用しておらんのじゃろう」

 そう言った所で、心なしかはつみが『カチン』と固まったかの様な反応を見せる。そして、それまで辛抱強く高杉の言葉を聞いていた彼女が突然、声を張り上げるに至った。

「―信用してないって…なんでそんな事言うんですか?そんな訳ないじゃないですか!」

 頭ごなしに怒鳴られて、思わず視線を向ける高杉。生まれの良さに加えて彼が備え持つ覇気故に、こうして誰かに怒鳴られるという事自体稀な経験であった。反射的に「なんじゃと?」と反論しかけるが、今度ははつみの『緒』がキレてしまった様で、高杉と同等かそれ以上によく回る口から幾重もの言葉が雪崩のように発せられていく。

「私だって言いたくても言えない事、沢山あります!今高杉さんが仰った事だって…この間は凄くいい形でお会いできて嬉しかったから、楽しい雰囲気に水を差したくなかっただけです!」

「……」

「伝えるだけ伝えたって余計な心配させるだけだとか、そもそも高杉さんのような身分の高い人に私みたいな根無し草の事をわざわざお知らせするまでもないんじゃないかとか、色々考えてたんです。でも、それだけです。信用してないなんて…なんでそんな事言うんですか。」

 確かに彼女の返答について理解できない訳ではない。だが高杉が言いたいのはそういう事ではないのだ。不機嫌そうに酒を煽った高杉の脳裏には、去年の江戸で同じ様な喧嘩になった時の事が思い浮かんでいた。あの時も、素直に『君と桂は既に男女の関係なのか?』『桂に言われたから、僕と話をしに来たのか?』と聞けないところから始まって、妙な苛立ちが募った結果暴言に至ってしまった経緯があった。今回の事も、要するに『君が心配だから長州で僕が引き取ってやってもいい』とまで言ったあの時、自分を頼ってほしかったという気持ちが素直に出せず、虫の居所の悪さから八つ当たりのように口をついて出て来てしまったのだった。今彼女が言った『身分が違うから報告するべきではないと思った』という心境を聞き入れてやるのだとしても、せめて、あるがままの出来事を話して共有して欲しかったと思う。

 …要するに、どういう訳かはつみには自分でも気付かぬ内に何かを求めすぎて空回り、それが苛立ちとなって八つ当たりとなり、喧嘩腰になってしまっていた…。

 陽頑で短気であるために『暴れ牛』にも例えられる高杉ではあったが、日頃は武士として『弱い女子供相手に怒鳴り散らしたとて』とも考え、自分の妻などを含め女子供に対して怒鳴る事はほぼ無い。それが何故…彼女を前にするとこうも調子を狂わされるのか…。

 それはいつも、彼女に対する自分の気持ちばかりが大きくなってしまっているからだと、心のどこかではとっくに気付かされていた。ただそれについて触れようとした時、その想いはどう見ても一方通行であると思い知らされそうになってしまう。それ故に、傲慢にも苛立ちを隠しきれなくなってしまう。

 …高杉の周りに、彼に対しここまで逆らって怒らせようとする者もいなければ、不機嫌極まりない炎へ更にを油注ぐ様な真似をする者もいなかった。しかし目の前の、よりによってこの男装の女だけは、いつも、なにもかもが違う。そんなはつみに対する想いは、今まで出会った女子達には感じた事のないようなものだ。それを分かりかけているのに…手に入りそうにないからと、心を認めたくない自分がいた。


 はつみの言葉を最後に、二人の間には沈黙が漂っている。高杉がバツが悪そうに舌打ちをするが、頑固さでは誰にも負けない彼はここまで来たら引っ込みもつかないので、また啖呵を切る様な真似に出てしまった。乱暴に膳を押しのけるとズイと体を乗り出し、はつみの正面へと押し迫る。

「…僕が君をどう思うかなど、それこそ知った風に言うな。」

 それは間違いない。まさか自分がこんな想いを抱きつつある事など、彼女にとっては微塵とも感じていない事なのだから。

「僕は今、兎に角機嫌が悪い。その減らず口を黙らせないと…今すぐにでも塞いでやるぞ」

 そう言いながら帯に差していた扇子を取り出すと、はつみのすぐ横にドンと音を立てて突き立てる。そしてそのまま鼻先が触れそうな距離まで近付き、その翡翠と鼈甲が混じった様な不思議な瞳を睨みつけた。自分でも何故こんな突っぱねる事をしてしまうのかは分からない。江戸に来てからの苛立ちや鬱憤を彼女に受け止めて欲しいのか…理想を共有しあった彼女だからこそ『癒して』くれると、心のどこかで期待してしまっているのにそうはならない現実が余計に自分を苛立たせているのか。

 そんな高杉に対するはつみの反応は、また意外なものであった。

「なんですか?またわたしを犯すぞって話ですか?それで気が済むんでしたらどうぞ?」

「はあ?」

 思いもしない反抗的な返しに思わず眉を歪ませ浮いた声を出してしまう高杉。確かに、以前にも似たような状況で怒りやら何やらの感情を抑えられず頭に来た勢いで『手籠めにしてやるぞ』と脅した事もあったが、それにしたってあまりに可愛げのない言い草だ。だがはつみも高杉による先ほどの発言がよほど心外だった様で、怒り始めた彼女の『ぼるてーじ』は収まる気配が見られない。

「それで高杉さんがの気が済んで、冷静でまともな思考に戻るんならどうぞ好きにして下さい。」

 行き詰っているのは何も高杉だけではなかった。吉田東洋の肝煎り開国派、開国論者かと思いきや勤王家、日本一過激な幕府批判、見た目や物腰にそぐわぬ烈火の論客、土佐勤王の首魁・武市半平太が囲う女、英国ジャーナリストによる風刺冊子に登場する『抑圧された女神』のモデルとなった男装の日本人女性、かぐや姫の如き浮世めいた男女…いかな形であれ方々で名を広め始めたはつみであったが、如何に男装をし、この時代では希少ともいえる『才』を磨き続けたとて、男達と同じ様に『志士』として活動する事がどうしてもできずにいた。男として認められない、それはこの時代にとっては詰まるところ、表舞台では何の力も持てぬ事と同じなのである。そしてその事は、目前に迫りつつある武市半平太の運命を変えたいと奮闘するはつみにとって如何ともし難い、乗り越え難い壁として立ちはだかり続けていたのだ。

 そんな中ではつみは、『男達の性の求めに応じる事』が何らかの役に立つ事をまざまざと思い知らされる。日本の舵をとるような政治の裏でも女性の身を捧げる事によって事態が掌握される例も多くあるのだと実感し、であれば、歴史改変などという恐らく前人未到で前例のない目的を達成する為には『自分が持つ少ない武器としてこの身体を使う事も厭わない』と心に抱いた堅い覚悟とその気概は、たかが虫の居所が悪いせいで自制が効かなくなりわがままを言っているだけの高杉の苛立ちをあっけなく凌駕した。

「どうせ…私は子供もできない身ですから。」

 吹っ切れた理由の大きなところは、この事実も間違いなく大きかった。実際、体を武器に使うと考えたのならこれは『深刻な不安事』が一つなくなるという事実もある。しかしそれ以上に、女性として思う事も当然あった。それにもう、遅かれ早かれ、自分は他の男に抱かれる事が確定している。『歴史を変える、運命を変える』その道を切り拓く為に、この江戸でやってきた。そういう取引をしたのだ…。

 最大の目的に対する如何ともし難いほどに逼迫した状況を打開する為に決意した感情を伴わない性行為への覚悟と、心外な事を言われたが故の逆上。これらははつみの感覚を狂わせる。高杉を眼前に着物をはぎ取ったはつみはそのままインナーシャツに手をかけ、自らボタンを外していった。胸元のさらしが曝け出され、高杉ははつみの「どうせ子供もできない」という発言にも感情が追い付かないままに、いよいよギョッとした表情で止めに入る。

「お、おい……」


「なんですか!?思い通りにいかなかったらいつもお酒と女に逃げて、高杉さんが言うからお望み通り身体差し出そうとしたらそうやってドン引きして!!!このいくじなし!!!!!」

「なっ…いくじなしじゃと?!」

 またもやあんまりな言葉を浴びせられ再び反射的に彼女を睨みつけたが、服を脱いでいて見えなかった彼女の目にはなみなみと涙が湛えられていた。二呼吸、三呼吸ほど見つめ合った後に彼女が瞬きをした時、まるで朝露を湛えた葉が堪え切れずに満を持して雫を落とすかの様に、大粒の涙がぽろぽろぽろっと一気に流れ落ちて行く。そしてまるで堰を切ったかの様に、はつみの言葉も溢れていった。

「だってそうじゃないですか!私は…この煮え切らない時世の中で出会えた高杉さんの事をずっとずっと同士だと思って……信じてたのに!!!」

「―っ……!?」

 一手前の罵声とは違って、また別の意味で思いもしない言葉を投げつけられ、高杉は眉間に力を込めたまま唖然とはつみを見つめ返す。こんな混沌とした状況ではあったが、彼女の中にある『自分への気持ちや評価』を今、もっと聞きたいと本能で思った。そしての願いは、それを汲み取った訳でもなくはつみ自らの発言によって叶えられる。

「…私が思う事、知っている事、持っているもの、高杉さんになら話してもきっと大丈夫だって思えたから共有できて、凄く嬉しかった!私達の考え方が今は殆ど受け入れられないって分かってても、いつか来るその時まで高杉さんも同じように辛い思いをしながら頑張ってるって思ってたから、私も誰からも認められず思い通りにもならないし望む未来にも向かっていかないような毎日の中でも頑張ってこれた!高杉さんは…私の数少ない同志だと思ってたのに…それなのに……」

 まるで悔し泣きの様に、顔を赤くした怒り顔で涙をボロボロとこぼしながら想いを伝えるはつみ。それを間近に真正面から受け止める高杉は、彼本来が聞きたかった言葉以上の言葉と想いをぶつけられている事に唖然とし、言葉を失っている。だがその言葉がない事で、はつみは更に感情が加速してしまった。

「高杉さんこそ酷いよ…高杉さんだって、私の事なんて信じてないじゃない!!!」

「ーうおっ!!」

 高杉を突き飛ばし、突き飛ばされた高杉は尻もちをついたまま驚愕の表情ではつみを見ていた。赤ら顔を涙でぐちゃぐちゃにしたはつみは、ここまで激高してしまった理由が高杉のわがままによるものだけではない事を、頭の角においては十分に理解しているつもりだった。高杉には高杉なりに苦心していたのだと。上海にまで行き満を持して持論を掲げたのに藩からは全く相手にされない状況などは、実に自分の状況とに通っている。それに加えて彼には元々の身分の高さと家柄故のプライドもあり、故に藩を掲げて行われる国事事について必要とされないというのはいかに煮え切らない日々であった事かも想像ができる。―彼がその不平不満をぶちまける姿を見ていて自分の不遇や不安と折り重なって見えてしまったのか、むしろどこか共鳴してしまうかの様にボルテージがあがってしまった様な節もあったのだ。

「…高杉さんの馬鹿っ!!!」

 臆する様子もなく睨みつけてから定番の様な台詞を真正面から投げつけ、乱暴に涙を拭うと脱ぎ捨てた着物を鷲掴みにしてバタバタと部屋を飛び出していってしまった。外ではつみを引き留めようとする店の者の声が聞こえると同時に伊藤と寅之進が部屋に飛び込み、尻もちを付いた状態の高杉を抱き起こしながらも一体何があったのかと困惑しきりで様子を伺っている。

「…ただの喧嘩じゃ。大した事じゃない。池田君、いきたまえ」

「―はいっ!」

 訳が分からないながらも高杉からはつみを追う様促された寅之進ははじかれた様に深々と礼をし、伊藤にも礼をしてから部屋を飛び出していった。高杉は自らの力で座り直すと手酌酒で一献煽り、『フゥ』と息をついた後にフンと鼻で短く笑い、伊藤に話しかける。

「…僕よりも数倍、虫の居所が悪かった様じゃ」

「はあ…」

 『高杉よりも虫の居所が悪い』とはよっぽどの事だが、迎えに行った時のはつみは『いつも通りの見眼麗しい華やいだ男女』だったけどな…と、若干同意しかねる伊藤。そんな伊藤の様子など意に介さない様子で仰向けに大の字となった高杉が、ぐーっとその四肢を伸ばし、落ち着いたところでまた『フウ』と息をついて天井を眺めた。

「僕はどうしようもない馬鹿だなぁ」

 などと、誰に言うでもなくしみじみとつぶやくものだから、伊藤はますます首をかしげる事態となった。

「…何があったんです?」

「…帰るぞ。…僕は僕のできる事をやり遂げるまでだ。」

「あっ、はいはい!」

 完全に独り言だったのか、それとも思いついた事でもあったのか。高杉は伊藤の反応を見る前に勢いよく立ち上がると颯爽と部屋を出て行ってしまった。具体的に何が起こったか分からないながらも、やはりはつみを連れて来た事は間違いではなかったし、やはり高杉はあの娘に『心底惚れている』のだな、と察する伊藤。先ほどまでとは全く別人の様な足取りで部屋を後にする高杉の後ろ姿から無人となった部屋へと振り返り、眉を上げ小首をかしげながら、額の当たりをポリポリと掻いたりなどする。

「……こりゃあやっぱり、僕なんかが手を付けない方がよさそうだなぁ。」

 器量良しの女子には目がない伊藤は、実の所、はつみに対して思う所がなかった訳ではなかった。心から尊敬し慕う高杉の『想い』を尊重し、形になりそうだった想いを『そこに置いて』、部屋から出て行く。

 …そしてこの数日後、高杉は『小楯組』を立ち上げ、無人且つ新築の英国公使館へと火を放ったのだった。

 この小攘夷によって幕府と英国の関係悪化を狙い、尊王攘夷の思想を強固に主張する。また、成破の盟約にもある政治的工作において、盟約とは関係のない土佐にすら後れをとっている長州にも、尊王攘夷を成す気概はあるのだと示す事にもなった。

 だが高杉は思うのである。今回の焼き討ちでは確かに幾ばくかの心象的な効果を見られるだろう。だが誰も住んでいないし使っていもいない屋敷を一つ焼き払った事で、どれほどの効果があろうか。桜田門外の変で大老井伊直弼が討たれたという前代未聞の大事の後でも、幕府はその首をすげかえただけで何事も無かったかの様に今も自分たちの前に立ちはだかっている。その事を思えば…己の真の主張を隠し、ただ『ウワの攘夷』を成しているという矛盾が、焦燥に逸る彼の心を蝕んだ。長州における志士達、そして仕えるべき世子らがこぞって京へと向かう中、高杉は一時的に世子の側を離れる許しを請い、伊藤俊輔と共に江戸に残った。

 仕えるべき君主も、仲間も、そして喧嘩別れをしたままの桜川はつみも、皆それぞれの成すべき事を胸に抱き、京にいる。

 己の主張はやはり『長州・防長割拠』、『西洋貿易を展開し富と知識と兵器を得ての富国強兵』なのである。

 高杉は新たな己の名に『狂』の字を入れて名乗り、それでも『狂』になり切れない己に苛立ちを抱えながら句を詠んだ。


『西へ行く人を慕いて東行く わが心をば神ぞ知るらん』


 そして間もなく1月。
 年は明けても、高杉の心が明ける事はなかった―…






※仮SS