仮SS:虫の居所


 11月。京では良い形で別れた高杉を尋ねる為、長州藩邸へ手紙を出していたはつみ。それを受け取った伊藤が旅籠を訪れてくれたので、そのまま寅之進、以蔵と一緒に彼のいる料亭へと足を運ぶ事となった。しかし想像もしていなかった程に『飲んだくれた』日々を送っていたであろう高杉を目の当たりにする。伊藤は相変わらず気さくであったが、笑顔の目の奥で全てを見通し観察するかの様な鋭さは以前にも増しているかの様だった。最近では池内蔵太や柊智、そして伊達小次郎といったはつみとゆかりのある者達とも交流をしているなど、笑みを交えて話してくれる。だが、高杉がどうしているかを尋ねると『まあ、会ってからのお楽しみっちゃね』とはぐらかしているかの様でもあった。

 料亭に付くとちょんちょんと三味線の音が聞こえる。混乱を極める時勢であるからこそなのか、昼間から芸妓を呼び飲む者もいるのだなと思っていた矢先、それが外ならぬ高杉である事を知る。部屋先に突如現れたはつみを見た高杉は一瞬眉を上げて驚く表情を見せるが、すぐに機嫌が悪そうに…しかしどこかバツが悪そうに視線を逸らす。ここまで案内をした伊藤がこっそりとはつみに耳打ちした。

「…実は、あんたをここへ呼び立てたんは僕の独断じゃけぇ」

 「そうなんですか?えっ、いや何で?」

 「高杉さん、江戸に来てからひと月引きこもっちょって、そん後、脱藩まがいなことまでしよっちゃってのぉ…」

「な、何があったんですか?」

「おい!何をコソコソと耳打ちし合っとる!乳繰り合うなら他所でやれ!!!」

 高杉の鋭い怒号を受けた二人は揃って肩をすくめ、隣で三味線を鳴らしていた芸妓も驚いて手を止めてしまった。焦った様子で再び視線を合わせた伊藤は『(こりゃいけん)』と言わんばかりに顔をしかめて首を横に振り、退席に向けて身をひるがえしながら、芸妓らにも『(はよう!いくっちゃ!)』とばかりに呼び込む動きを見せる。はつみが『えっ?えっ?』と取り残されている傍らを通って芸妓たちもそそくさと撤退し、最後に振り返った伊藤が両手を合わせながら

「そんでは、あとは是非、ご本人から…オナシャス」

 と言ってはつみを中へと押し込み、ぴしゃりと襖を締め切ってしまった。

「ええっ?!いや、ちょ、伊藤くん?!」

 一緒に来ていたはずの寅之進も伊藤に取り込まれる様にして離れ離れになってしまい、襖の外の気配はまるで潮が引いていく時の様に躊躇いなく掻き消えて行った。…以前にも、伊藤によって機嫌の悪い高杉と二人切りにさせられた事があったが、まったく同じ状況だった。まったく何て奴だと思いながらも、まるで魔王の様に部屋の奥に陣取り、酒を煽っている高杉に向き合う。


 京にてはつみとも話をした通り、高杉の上海視察では対西洋列強への理解と備えが早急に必要である事を再確認し、西洋軍備増強に基く防長割拠論、つまり幕府の封建制度から脱却した強い藩となり帝を直に御守するといった主張をおこなうつもりだった様だ。これまでよりも具体的な『ビジョン』を以ての主張となっており、その大筋と目的は上海視察前から彼が唱えていた持論と殆ど大差ない。しかし帰国してみるや長州の藩論は『破約攘夷』を極め、『小攘夷を以て主張を繰り返し、夷狄の排除と幕政改革を急務とする』論を掲げるものとなっていた。公武合体論として『航海遠略策』を周旋していた長井雅樂に対する工作がようやく実を結んだというのもあったが、よく話を聞けば長井に継ぐ公武合体論として既に朝廷と幕府に取り入る形となっている薩摩との感情悪化に伴う面も大きいというのが、出国中の話を聞いた高杉の見解だと言う。
 『尊王』と言いながら朝廷を利用した『勅使東下』が短期間の内に『公武合体論の薩摩』と『尊王攘夷論の土佐』で行われている事にも、その待遇でオロオロと一貫した姿勢を保てない幕府にも『情けない』と腹ただしい様子。そして敵の真の姿も知らずに『夷狄は排除』と『ウワの攘夷』を唱える者達、その中にあって西洋軍備増強を唱える自分は完全に孤立している事に極めて不快であり、そして焦っている様でもあった。

「どいつもこいつも大義を見失っておる!上海まで行き世界から日本を見た僕は、戻ってみれば蚊帳の外じゃ!」

 相手が思想を共有するはつみという事もあって、堰を切ったように不平不満を言い並べる高杉であったが、はつみが冷静に『わかります、高杉さん…』とその焦燥を慮った事で、却って苛立ちの矛先が『また』はつみへと向いてしまう。虫の居所が悪くては、元来の短気な性根を抑え込む事はできずにいた。

「僕の心を知った風に言うな。不愉快じゃ」

 手にしていた杯を音を立てる様にして膳に捨て置く。

「長州には僕が必要だと君は常々言うておったが、上海から帰ってきた今もホレ、このざまじゃ。ひと月も部屋に引きこもっておったが、僕の有無に関係なく小攘夷の議論はよう進んでおる様じゃぞ。今僕がこの江戸にいる理由、それはただ藩のお勤めを果たす為だけにここにいる、それだけじゃ!」

 じろりとはつみを睨む高杉は、更に、江戸に来てから他にもいくつかの真実を知った事を勢いのままに告げる。今、土佐の勤王派が突然台頭しているのは、この春に参政・吉田東洋が『天誅』された事に始まると。そして以前から東洋に勧誘され、あまつさえ日頃から開国論者めいた発言が見られた男装の浮世人・桜川はつみも命を奪われかけたと。

「先日会うた時、何故そんな大事な事を言わなかった?―ハッ。どうせ君も、僕のなど信用しておらんのじゃろう」

 そう言った所で、心なしかはつみが『カチン』と固まったかの様な反応を見せる。そして、それまで口を紡いで辛抱強く高杉の言葉を聞いていた彼女が突然、声を張り上げるに至った。

「―そんな訳ないじゃないですか!!!」

 頭ごなしに怒鳴られて、思わず視線を向ける高杉。生まれの良さに加えて彼が備え持つ覇気故に、こうして誰かに怒鳴られるという事自体稀な経験であった。反射的に「なんじゃと?」と反論しかけるが、今度ははつみの『緒』がキレてしまった様で、高杉と同等かそれ以上によく回る口から幾重もの言葉が雪崩のように発せられていく。

「私だって言いたくても言えない事も沢山あります!伝えるだけ伝えたって余計な心配させるだけだとか、そもそも私なんかの事なんてわざわざ報せるまでもないとか…生まれ故郷もこの世界にはなくて、身分もへったくれもない根無し草で、誰かの支援がなくちゃ何もできない私の気持ちこそ、生まれながらに身分のいい高杉さんにはわからないでしょう!?」

 確かに身分の低い者からあれやこれやと私的な報告が入るのは普通の事ではない。…だが、高杉が言いたいのはそういう事ではないのだ。去年の江戸で同じ様に喧嘩になった時も、素直に『君と桂は既に男女の関係なのか?』『桂に言われたから、僕と話をしに来たのか?』と聞けないところから始まってしまった経緯があった。今回の事も『君が心配だから長州で僕が引き取ってやってもいい』とまで言った自分を頼ってほしかった。せめて、あるがままの出来事を話して共有して欲しかった…。要するに、どういう訳かはつみには八つ当たりをし、更に自分でも気付かぬ内に求めすぎて空回り、ただ彼女が心配で頼ってほしかっただけなのに、喧嘩腰になってしまっていた…。

 陽頑で短気であるため暴れ牛にも例えられる高杉ではあったが、日頃は武士として『弱い女子供相手に怒鳴り散らしたとて』とも考え、自分の妻などを含め女子供に対して怒鳴る事はほぼ無い。それが何故…。喧嘩の原因はいつだって自分にあると冷静に考えればいつも分かっていたはずなのに、何故、彼女を前にすると自分はこうも…調子を狂わされるのか。

 それはいつも、彼女に対する自分の気持ちばかりが大きくなってしまっているからだと気付かされ、それが一方通行の様で、傲慢にも苛立ちを隠しきれなくなってしまうからだと…分かりかけているのに、認めたくない自分もいた。


 バツが悪そうに舌打ちをするが、頑固さでは誰にも負けない高杉はここまで来たら引っ込みもつかないので

「…僕が君をどう思うかなど、それこそ知った風に言うな。僕は今、兎に角機嫌が悪い。その減らず口を黙らせないと…今すぐにでも塞いでやるぞ」

 そう言いながらはつみの目前まで迫り、帯に差していた扇子を取り出すとはつみのすぐ横にドンと音を立てて突き立てた。そしてそのまま鼻先が触れそうな距離まで近付き、間近にその鼈甲色の瞳を睨みつける。

 …高杉の周りに、彼に対しここまで逆らって怒らせようとする者もいなければ、不機嫌極まりない炎へ更にを油注ぐ様な真似をする者もいなかった。しかし目の前の、よりによってこの男装の女だけは、いつも、なにもかもが違う。

「なんですか?またわたしを犯すぞって話ですか?それで気が済むんでしたらどうぞ?」

「はあ?」

 また思いもしない反抗的な返しに思わず眉を歪ませ浮いた声を出してしまう高杉。確かに、以前にも似たような状況で怒りやら何やらの感情を抑えられず頭に来た勢いで『手籠めにしてやるぞ』と脅した事もあったが、それにしたってあまりに可愛げのない言い草だ。だがはつみも高杉による先ほどの発言がよほど心外だった様で、怒り始めた彼女の『ぼるてーじ』は収まる気配が見られない。

「私の覚悟は何も変わっていません。それで高杉さんがの気が済んで、冷静でまともな思考に戻るんならどうぞ好きにして下さい。どうせ…私なんて子供もできない身ですから!」

 …もし身籠れる身であったなら、『あの時』、想いを寄せる人の子を宿す為の合意とその意思表示ができていたら…という悔恨の念がまったく無いといったら嘘になる。だがそれだって結局は『たられば』話なのである。子を宿せない事実は変えようが無い。女としての幸せを願ったり、女として守るべきものも無い。この時代で出会った男達がこんなにもあからさまに女の身体に興味を示す事が、この時代の価値観に染まり切れないはつみにとっては極めて斬新すぎる程であったが、『彼らの性の求めに応じる事』が何らかの役に立つのであれば『自分が持つ少ない武器として、この身体を使ってやる』という気概は、虫の居所が悪いせいで自制が聞かなくなりわがままを言っているだけの高杉の苛立ちをあっけなく凌駕した。

 それにもう、遅かれ早かれ、恐らく自分は他の男に抱かれるのは確定している。『歴史を変える、運命を変える』その道を切り拓く為に、そういう取引をしたのだ。

 高杉を眼前に着物をはぎ取ったはつみはそのままシャツに手をかけ、自らボタンを外していった。胸元のさらしが曝け出され、高杉ははつみの「どうせ子供もできない」という発言にも感情が追い付かないままに、いよいよギョッとした表情で止めに入る。

「お、おい……」

「なんですか!?思い通りにいかなかったらいつもお酒と女に逃げて、高杉さんが言うからお望み通り身体差し出そうとしたらそうやってドン引きして!!!このいくじなし!!!!!」

「なっ…いくじなしじゃと?!」

 またもやあんまりな言葉を浴びせられ再び反射的に彼女を睨みつけたが、服を脱いでいて見えなかった彼女の目にはなみなみと涙が湛えられていた。二呼吸、三呼吸ほど見つめ合った後に彼女が瞬きをした時、まるで朝露を湛えた葉が堪え切れずに満を持して雫を落とすかの様に、大粒の涙がぽろぽろぽろっと一気に流れ落ちて行く。そしてまるで堰を切ったかの様に、はつみの言葉も溢れて行く。

「だってそうじゃないですか!私は…この世知辛い時世の中で出会えた高杉さんの事をずっとずっと同士だと思って……信じてたのに!!!」

「―っ……」

「私の数少ない同志だと思ってたのに…私が思う事、知っている事、持っているもの、高杉さんになら話してもきっと大丈夫だって思えたから共有できて凄く嬉しかった!私達の考え方が今は殆ど受け入れられないって分かってても、いつか来るその時まで高杉さんも同じように辛い思いをしながら頑張ってるって思ってたから、私も思い通りにならないし、望む未来にも向かっていかない毎日の中で頑張ってこれた!…それなのに……」

 まるで悔し泣きの様に、顔を赤くした怒り顔で涙をボロボロとこぼしながら想いを伝えるはつみ。それを間近に真正面から受け止める高杉は、彼本来が聞きたかった言葉ではなかったものの、正直それ以上の言葉、そして想いがもたらされている事に唖然とし、言葉を失う。

「高杉さんこそ酷いよ…高杉さんだって、私の事なんて信じてないじゃない!!!」

 高杉を突き飛ばし、突き飛ばされた高杉は尻もちをついたまま驚愕の表情ではつみを見ていた。赤ら顔を涙でぐちゃぐちゃにしたはつみは、ここまで激高してしまった理由が高杉一人のわがままによるものだけではない事を、頭の角においては十分に理解しているつもりだった。高杉には高杉なりに、上海にまで行き満を持して持論を掲げたのに藩からは全く相手にされない状況、元々の身分の高さに加えてプライドの高さもあり、彼なりに煮え切らない日々であった事も十分に理解できる。―彼がその不平不満をぶちまける姿を見ていて自分の不遇や不安と折り重なって見えてしまったのか、むしろどこか共鳴してしまうかの様にボルテージがあがってしまった様な節もあったのだ。
 『僕の事など信じていない』となどという言葉も、まさに逆鱗に触れるといったもので、その後の事は…今この通りである。

「…高杉さんの馬鹿っ!!!」

 臆する様子もなく睨みつけてから定番の様な台詞を真正面から投げつけ、乱暴に涙を拭うと脱ぎ捨てた着物を鷲掴みにしてバタバタと部屋を飛び出していってしまった。外ではつみを引き留めようとする店の者の声が聞こえると同時に伊藤と寅之進が部屋に飛び込み、尻もちを付いた状態の高杉を抱き起こしながらも一体何があったのかと困惑しきりで様子を伺っている。

「…ただの喧嘩じゃ。大した事じゃない。池田君、いきたまえ」

「―はいっ!」

 訳が分からないながらも高杉からはつみを追う様促された寅之進ははじかれた様に深々と礼をし、伊藤にも礼をしてから部屋を飛び出していった。高杉は自らの力で座り直すと手酌酒で一献煽り、『フゥ』と息をついた後にフンと鼻で短く笑い、伊藤に話しかける。

「…僕よりも数倍、虫の居所が悪かった様じゃ」

「はあ…」

 『高杉よりも虫の居所が悪い』とはよっぽどの事だが、迎えに行った時のはつみは『いつも通りの見眼麗しい華やいだ男女』だったけどなな…と、若干同意しかねる伊藤。そんな伊藤の様子など意に介さない様子で仰向けに大の字となった高杉が、ぐーっとその四肢を伸ばし、落ち着いたところでまた『フウ』と息をついて天井を眺めた。

「僕はどうしようもない馬鹿だなぁ」

 などと、誰に言うでもなくしみじみとつぶやくものだから、伊藤はますます首をかしげる事態となった。

「…何があったんです?」

「…帰るぞ。…僕は僕のできる事をやり遂げるまでだ。」

「あっ、はいはい!」

 完全に独り言だったのか、それとも思いついた事でもあったのか。高杉は伊藤の反応を見る前に勢いよく立ち上がると颯爽と部屋を出て行ってしまった。具体的に何が起こったか分からないながらも、やはりはつみを連れて来た事は間違いではなかったし、やはり高杉はあの娘に『心底惚れている』のだな、と察する伊藤。先ほどまでとは全く別人の様な足取りで部屋を後にする高杉の後ろ姿から無人となった部屋へと振り返り、眉を上げ小首をかしげながら、額の当たりをポリポリと掻いたりなどする。

「……こりゃあ、僕なんかが手を付けない方がよさそうだなぁ。」

 器量良しの女子には目がない伊藤は、実の所、はつみに対して思う所がなかった訳ではなかった。心から尊敬し慕う高杉の『想い』を尊重し、形になりそうだった想いを『そこに置いて』、部屋から出て行くのであった。






※仮SS