7月。長州世子の小姓役として江戸勤務となっていた高杉は、長井雅樂の『航海遠略策』に異を抱きつつも父親からの『関わるな』『勤めに専念しろ』といった押さえつけに従い、『志士』としての大事を成せずにいた。
尊王思想でありながらも海外知識や外国語のたしなみがある男装のはつみを、桂は色んな意味で注目してくれた様であった。先日長州藩邸で初顔合わせをしてからそう日も経たぬ内に、わざわざ常駐の旅籠にまでやってきて食事に誘ってくれたのである。
「長州の桂様…お美しい…」
旅籠の女中たちが熱視線を投げかけている横を慌てて駆け抜けたはつみは、桂の近くまで走っていくとフワリと彼の香りに包まれるのを実感し、思わず胸が高鳴ってしまう。
「急がせてしまったかな。急に来てしまって、すまない」
「い、いえ!大丈夫です!すみません!」
品高く優しい香りに包まれると同時に、自分にだけ向けられる柔らかな声と端正な笑顔…。
『惚れない方がおかしいやろーっ!』と内心叫びながら、なんとか平常心を装って江戸の町へと繰り出していった。
そして歩き初めて早々に、伊藤俊輔と、高下駄を履いた着流しの武士に遭遇する。 桂小五郎や久坂玄瑞らが『成破の盟約』の為に日々『尊王攘夷』の謀に明け暮れる中、父元を離れ江戸務めとなった高杉もこれに加わりつつ、一方で師・吉田松陰の『夷狄を知る』とした教えに重点を置いた思想を抱いていた。師の生前に友好歴があり、高杉自身も既に面識のあった横井小楠を長州へ迎え入れる様進言を続けるが、ようやく時世が『尊王攘夷』という『破』の機運高まる中、安直に開国派と見なされる横井を迎え入れる事など流石の桂らも『今はまだ早い』と茶を濁す様な返答しかできないでいた。高杉は、長井雅樂が掲げ現藩論とする『航海遠略策』に反する『破約攘夷』といった思想には同意としながらも、では幕府無くしてどのようにして異国から日本を守るのかと考えた時に『敵の情勢も戦力も分からず真の攘夷とは成り立つのか』との考察をいまいち分かち合えない、悶々とした日々を送っているのだった。
そんな折、伊藤俊輔を連れて街を歩いていた所、桂が見慣れぬ人物を連れていた所に遭遇する。帯刀し袴を着用しており長身でもある所から一見『男・武士』の様にも見えるが、振り返ったその顔を見れば何とも華やかな女子の様で一瞬言葉を失う。髪も肌もやけに明るく、やけに色艶のよい…健康的というべきか。髷を結んでいる様だがやけに個性的な結い方であったし、着物も内に着込んでいるのは異国の形状を模したものではなかろうか…?そういった真新しい要素があちこちに見られるというのもあってか、全体的に異様に垢抜けているというべきか…兎に角やけに『眩しい男』である様に見えた。あの桂が表情を緩めきって共に歩いていたのも気になる。桂の嫁事情については耳にしているが、まさか男色に走ったか…?と一瞬頭をよぎるものの、『土佐の桜川はつみ』だと自己紹介をしてくる相手の異様な輝きを前にどうも何かが引っかかる。…どこで自分の事を聞いたのか『あ、あの高杉晋作…さんですか!?』等と、変に興奮している様子も無視し難い…。
いずれにしても桂が『懇意』としている相手であるのなら深入りするのは不躾か等と思いつつも、かの人物と既に面識であるらしい伊藤が「桂さんではありませんか。やーやー先日はどうも」と二人に挨拶をした事で更に絡む事態となる。『いったい何者なのだ?』とする真相を知りたがる高杉の視線は、自分が思っているよりも真直に桂へ突き刺さっていた様だ。桂にしては珍しく人払いをしたい事情があり、またそうしたい焦りを隠しきれない様子がその顔色や表情から見て取れた。
「こちらの御仁とは桶町千葉の坂本君を通じて知り合ってね。つい先日、江戸へ入られたばかりなんだよ。」
『御仁』。やはり男なのか…?と思いチラとはつみを見やるが、やはり高杉には『…これが本当に男なのか…?』としか思えない。桂の手前投げかけたい質問をぐっと飲み込んで形ばかりの会釈をし、これにて一旦お別れかと思った矢先、目の前の女男が思いもよらぬ提案を投げかけてきた。
「あ、あの!もしよかったらこれから一緒にご飯に行きませんか?これから桂さんと行くところだったんです!ね、桂さん」
「えっ?…あ、ああ…そうだね…」
この桂からこんなにも『何ともし難い』といった表情をいとも簡単に引き出すとは…。断る理由もない高杉は敢えて気を利かせずに承諾の意を示す。若干肩を落とした様子にも見えなくもない桂を見て見ぬふりして、三人は桂お勧めの料亭へと向かうのであった。
桂としては今日ここで時事を語り合う事は考えていなかったのだが、時勢が時勢なものだからそういう話で頭がいっぱいの者がいればそういう話になってしまうのは仕方ない…と、話の手綱を高杉に握らせてやることにした。握らせてもらったとも気付かない高杉ははつみに対し率直に『江戸へは何をしにいらしたのか』など尋ねる。一番は折を見て横濱へ行き自分の出身地なのかどうかを確かめ、可能であれば英国などの様子を見ておきたいとも答えたから、高杉の興味は更に深くはつみへと刺さっていく。更には伊藤のダメ押しである。
「はつみさん、高杉さんに聞かせてあげてくださいよ。この間話ししてた、幕府の事どう思ってるかっていう話」
「こら、俊輔…」
「いや是非お聞かせ願いたい」
「晋作……はつみ君、申し訳ない。」
無茶振りの伊藤に常識人の桂、そして我道をゆく高杉とテンポの良いやり取りを見てフフッと笑ったはつみは、先日久坂に聞かれた『この時世にあって幕府についてどう考えるか』という所について『私の個人的な意見なんですけど…』と話をしてみせるのだった。
この話が終わった時、高杉は雷に打たれたかの様に瞬きを繰り返していた。よく見れば鳥肌まで立っていると気づいた者は、流石に居なかったが。
『真の攘夷と開国論は必ずしも相反しない。』夷狄に対抗するためには『新たな軍備、新たな価値観、新たな仕組みを目指すべき』とする思想。問題なのは …これこそが、高杉が吉田松陰や横井小楠、佐久間象山から譲り受けたと自負する『識』にしっくりとくる思想そのものだった。江戸に来て以来仲間達と共に智謀を巡らせるが、自分の思想に心底同意してくれる様な『識』を兼ねた者は自分の周りにはいない…と、江戸に来て以来打ちひしがれていた所でのこの出会いなのである。
この後、話も一区切りついただろうと場を取り繕ったのはやはり桂であった。江戸では恙なく過ごせているか、夏祭りが多い時期だが知ってはいるか、などといった穏やかな話が繰り広げられる。―が、高杉は不機嫌になる訳ではないものの妙に黙りこくっていた為、彼と初対面であるはつみとしては『怒っちゃったかな…』と内心気になってしまっていた。
『でも高杉さんって…よく尊王攘夷の急先鋒でとにかく風穴開けろの過激派みたいな表現されてたけど、実は富国強兵の為なら開国にも一定の理解があってそれだけじゃないっていうのは本で読んだと思ってたんだけどな…』
東洋に『認められ』目をかけられた事と井口村永福寺事件などをきっかけに「尊王攘夷」に血気逸る土佐郷士らから強烈なバッシングを受け続けてきたはつみも、こういった思想を述べるのは流石に『打算』を発揮するというか、相手を選ぶようにはしている所でもある。だが自分が書物を読んだ際の情報や解釈が『史実通りだった』あるいは『今ここにいる彼らを忠実に描いたものだった』は別の話でもある。
黙する高杉を気にかけつつ、桂の物腰柔らかさや伊藤の人懐こさに助けられつつ昼食を楽しむのであった。
※仮SS