浅草クリスマス:前編



 幕府による遣欧使節への参加内定が取り消しとなり、目に見えて意気消沈していた高杉晋作。
 ところがこの文久元年歳末、12月23日になって急遽、上海視察団への加入が決まった。

 上海視察団の出航は江戸から遥か遠くの地である長崎を予定しており、それも1月下旬から2月頃との事。これに参加する幕府の面々もは、とっくに江戸を発っているという。高杉も取り急ぎ、遅くとも10日以内には江戸を出立しなければならない状況となっていた。


 目の前にある時世や藩政への憂いを、一旦据え置いての上海視察。更には、外洋へ出る大航海ともなれば命を落とす危険も大きくなる。…そう考えれば、江戸を出立するまでの短い期間の内にやるべき事は沢山あった。
 ―世子定広公への挨拶に始まり、小姓役の引継ぎ業務。各方面への報せ。当然ながら自身の旅支度に加えて、上海視察についての概要もしっかり吟味しなければなるまい。参考書を読んだり思案事をまとめるだけならば、長崎までの長い道中に刻を割く事も可能だろう。だが、多くの識者や資料が集うこの江戸で出来る事は、言わずもがな『今』のうちに限られてしまう。とにかく急ぐ必要があった。

 そこで、残りの江戸滞在は出立準備に掛かり切りになってしまうと踏んだ高杉は、刻が足りない中で急遽、桜川はつみを呼び出す事に決めた。
「都合をつけられるのは25日の八つ頃か…帰る事には日が暮れるな…」
 色々と考え、調整した結果、はつみと過ごす為にまとまった暇を取れるのは25日の午後だけだった。更に懸念はもう一つある。日程に空きがないのは、高杉だけではないという事だ。


 ―桜川はつみという男装の男女は、生い立ちを始めとする故郷の記憶などが欠落していると聞く。本来ならば身元の証明が難しい状況でありながら、土佐参政・吉田東洋による異例の抜擢と格別の計らいによって土佐預かりの客分身分となり、居候先である坂本龍馬の実家から手厚い支援を受けている。それら支援があってこそ、彼女は長崎遊学や江戸遊学に出て来れているのだ。
 そんなはつみの江戸遊学における滞在期限が、この12月末に迫っていた。つまり、彼女もまた、帰藩に向けた準備で忙しくしている事が予想されるのである。
 ましてや彼女は自分の財力で土佐を出れた訳では無い。女という事もある。
 互いに今いる江戸を離れれば、次に会えるのはいつになるか皆目見当もつかない。

 依って、来る12月25日の昼下がり。

 雨が降ろうが雪が降ろうが、会いに行けるのはこの日しかないという事だ。


『それでもはつみが会えぬと言えば、これにて一生会う事もなくなるかも知れない…。』


 別に、こんな風に考えているからといって、彼女を恋しく思う訳ではない。―と、どこかで自分に言い聞かせたりもする。
 だが、上海を租界化した西洋の在り方、その軍事力を肉眼で見る事ができる事について「しかと見極めて来る」と直接伝えたいと思う気持ちには、向き合うべきだと感じていた。


 …彼女とは喧嘩ばかりであったが、『勅許無しの開国条約を結んだ幕府の断罪ならびに幕政改革』とする尊王思想と『攘夷を成す為こその富国強兵』、これこそが西洋列強と真に渡り合う為の大攘夷論だと主張する二人の意見は、同じ方向を見据え、一致している。
 だた、富国強兵とはいっても日本国内で完結させるものではなく『西洋の制度や軍事、経済から富国強兵を成すべき』とする、海外貿易や殖産興業による発展を視野に入れての発言だった。
 ここで厄介なのが、この主張だけを聞けば『開国論』と捉えられがちであるし、開国というだけで話も聞かぬ、浅学な者らからすれば『佐幕派、公武合体派』と捉えられる事もしばしばある、という事だ。はつみは土佐において露骨にその洗礼を受けているし、高杉にとっては、今まさに、長州内部で対立している長井雅楽の『航海遠略策』に含まれている富国強兵策と同じところでもあるのだ。
 だが高杉とはつみの本意は、あくまで帝を全ての主とし、その一線を越えた幕府を断罪し、幕政改革によって外敵による侵略に対する現実的な国防力をあげること。―公武合体派として藩政改革を推進する長井とは、目指す先が違うのである。

 しかし一方で、水戸と結んだ成破の盟を拠り所とする桂小五郎や久坂玄瑞といった藩内攘夷派とも、高杉の考えはほんのわずか、『今、どれを優先事項とするか』という点において噛み合わなかった。
 その僅かなズレについて大きく色分けをするのであれば、彼らは『まずは藩論を変える事に注力すべき』と内面工作を最優先としている事に対し、高杉は『攘夷の為にこそまずは敵を知り、今すぐ備えねばならぬ』と外向傾向に考えている、という事だ。
 どちらも必要という事、そして幕政改革へ至るための共有事項ではあるが、全てを同時に進行させる余裕ないという状況であった。

 …言い方を変えれば、高杉の立ち位置は藩内のどこにも落ち着く場所を持たないという事だ。松下村塾の門下生の中で高杉の対として双璧と言われた久坂などは、破約攘夷に向けた藩内工作が次々に採用され、尊攘志士としてめきめきと頭角を表している。しかし高杉の富国強兵に対する策や進言は、いまだ日の目を観ない。
 高杉の思想は理解されながらも選ばれる事なく、宙に浮いたまま置かれていたのである。

 そしてその事は、武市半平太を筆頭とする過激な尊王攘夷論に沸き立つ土佐におけるはつみも、同じ立場にあった。そんなはつみと何度も喧嘩をしたのは、思想のズレや違いからくるものではない。同じ視点を持っていたからこそ、周囲から相手にされない事で腐った自分が無茶な生活や暴挙を成して破滅の道を歩もうとしていた事に対して、彼女だけが、人として真正面からぶつかってきてくれたという事だった。

―軟弱な女男が。あるいは、男装などで身をごまかす女如きに何ができるのかと彼女を侮るのは、時世を、そして世界を真に捉えていない愚者のする事だ。
 そう思える程に、はつみの言葉や為すべき事を貫こうとする姿勢には真があった。不機嫌な高杉と喧嘩を繰り返しながらも、彼女と思想や現状について語りあう時間は実に有意義だと感じた。

 ウワではない、確かな筋道。
 誰よりも冷静に、俯瞰で時世を見つめる者だと思えた。

 まだ海外を見た事のない自分なりに思い描く、新しい日本の形が見えた様な気もした。


 …だから、彼女には必ず会っておきたいのだ。



 お互いに江戸滞在の猶予が無い事実に立ち返り、別件で書きかけだった書状を脇に避け、新しい紙を用意する。

「…暢気な奴め。結局いつも、僕から誘ってやっているではないか…」

 人知れずそんなボヤキをこぼしながら、躊躇うことなく筆を走らせた。


『十二月二十五日、昼八ツ。桜田藩邸。』


 いつもの様に、要件だけを綴った紙を四つに折り畳み、下男を呼びつけて届けさせる。
―だがよほど急いでいるのか、いつもなら伝言を届けさせるだけだったのが、今回は少し違う用向きであった。

「この文を見せたら、その可否についてその場で返事を聞いてこい。」
「へえ。何の可否についてで御座いますか」
「な、中身は知らんでいい。あやつにそれを読ませて、『可』か『否』だけを聞けばよい」
「はあ、可か否だけですか…」
「はよういけ」

 そうして、はつみが寝泊まりしている旅籠へと、急ぎ使いに出したのだった。


・
・
・

 暮れ六つ。日が暮れて外は闇。
 師走の寒さも一層厳しくなる刻限に、先ほど慌ただしく出て行った下男が汗をかきながら戻ってきた。高杉は桜田藩邸内の官舎にある自室で各方面への書状をしたためていたが、報せの声を聞くや否やすっくと立ち上がり、寒い廊下に膝をついて応答を待つ下男の前にある襖を勢いよく開け放った。

 ―スパァン!!!
「ヒッ!」
「ご苦労。で、何と云うておった?」

 妙に急いてくる高杉に対し、下男ははつみから直接預かってきたと見られる薄墨の桜模様が印象的な紙を手渡す。『口頭で可否を伝えてくれればそれで足りる』と考えていた高杉には、『文を持ち帰ってくる』という発想そのものが無かったのだろう。一瞬だけ驚いた表情を見せたが、それならそれで内容の確認が待ちきれず、下男の目の前でその紙を広げた。

 そこには、大きく描かれた〇の中に、見慣れた可愛らしい字で『可』と書かれてあった。

「―良しっ!」

 思わず握り拳を作った高杉は、はっとして我に返る。そして目が合ってしまった下男に向かってほんの一瞬言葉を見失った後、わざとらしい咳払いを一つしてから、再度口を開いた。

「……ンンッ。もう下がってよいぞ。大義だった」
「はあ……」

 下男は小首をかしげたい気持ちをグッと堪え、頭を低く保ったまま一歩下がった。当然、文の中身までは見ていない。だがそれでも、この夏の折りから幾度となくあの麗しい御仁への文を届け続けて来た身としては、思う所もある訳で。
 『仮に察するところがあっても、余計な口を挟まない』。
 それは下男として当然の心得ではあったが、とりあえず、高杉が嬉しそうに拳を握りしめた瞬間は率直に目に焼き付いてしまっていた。
 普段は藩邸の奥から鋭い論議の声を飛ばし、機嫌の悪さも、酒に酔っての素行の荒さも隠そうともしない高杉が、自分のような下の者にこれほど機嫌よく「ご苦労」だの「大義」だのと労いの言葉をかけるとは…。
「 (―あの『桜川はつみ』という御仁は、よほど高杉様の関心を惹いておられるに違いない。) 」
 …下男はそう結論づけ、改めて深く頭を下げてから、廊下を辞していった。


 一人自室へ戻った高杉は、行燈の明かりの下でもう一度、薄墨桜の模様紙を広げる。
「…可か否かだけを聞いて来い、とは言うたが。」
 〇の中に収められた、ややクセのある『可』の一文字を指でなぞり、自然と口元が緩みそうになるのを堪える様にフッと息を吐いた。
「フッ…つくづく、変わっておるな。」

 その紙を丁寧に畳んでから、本や日誌、はつみから貰った英単語帳などをまとめた行李にそっとしまう。そして『可』とされた刻が来るのを人知れず楽しみにしながら、期限の迫る旅支度を急ぐのであった。




―浅草クリスマス:中編へ続く―




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