1月。高杉には「小三」という馴染みの芸者がいたが、口が軽かった為一方的に別れを告げていた。このように、彼はまた、酒色に溺れるや廃れた日々を送っていたのだが、そこへ思いもよらぬ、土佐からの客人が現れた。岡田以蔵という軽格の武士だ。
長州世子、定広はとっくの前に江戸を出立している。世子小姓の聞多らも同行するが高杉は江戸に残り、女酒の他に「狂」の字を好んで変名や詩を詠む生活を送っていた。特に「西へ行く人をしたひて東行く 心の底そ神や知るらむ」と詠った詩には、小攘夷を繰り返せどどうにも同調できない藩論、思想、時勢への焦燥が感じられる。
去る1月13日、高杉は人生で初めて『人斬り』を断行していた。いわゆる幕府方へ通じていた間者を見つけたのでこれに『天誅』を下した形の『小攘夷』であるが、小物一人を斬ったところで何も変わらない、がら空きの公使館を焼き討ちした所で何も変わらないのと同じ分かり切った結末が、高杉自身をどんどん失望させ堕落させていた。
京からやってきたという土佐の岡田以蔵の事は、実際会うまではあまり名を聞かない人物ではあった。だが『京から来た土佐人』という所に興味を覚えたので惰性で会う事にしたに過ぎない。その背景にあるのは、今は京にいるはずの桜川はつみの影を期待しての事だったといっても過言ではないが、以蔵を見た時に期待通りになった事を確信する。
彼の事は、文久元年の江戸滞在時からはつみと行動を共にしているのを何度か見た事があった。やたらに重い前髪と伸ばし放題で強引にくくり上げた髪で顔面が見えないのが印象的であったので、恐らく間違いはない。
「して岡田君。僕に何用だ?」
「…江戸の知り合いを頼って来たけんど、居場所の見当もつかず金が尽きてしもうたき…」
金の無心か、と却って力を抜き楽な姿勢となった高杉であったが、続く言葉を耳にして思わず前のめりになってしまいそうになるのを全力で堪える事態となる。
「桜川がいつも『同志』じゃち言うちょった御仁ならば、金を貸してもらえるのではと思うたがです」
「…んっ?なんじゃと?」
『影』どころか唐突に本人の名前が出て来て思わずむせてしまう。それがあまりにも耳障り良く感じるものだったのでつい馬鹿正直に「詳しく聞かせろ」などと言ってしまった。
「…おれは…世の中の事も色々言われたけんど、ようわからんき…桜川と同じ考えを持ちゆうがは誰じゃち聞いた事があった。」
「…」
はやし立てるのも品がないと敢えて黙る高杉は、貧乏ゆすりでも始まってしまいそうな足を押さえつける様にして以蔵の話が進むのを待つ。…とにかく冷静を装って、待つ。
「…桜川は、それは長州の高杉晋作じゃち言うたがです。」
よく知りもしない者から呼び捨てにされているにも関わらず、内心グッと力強く握り拳を握る高杉。
「その後も、何かち言う事があれば高杉さんの名を聞いたき…俺が覚えた数少ない名前になったがじゃ。」
「そうか。…それは光栄だ。」
内心、久々に機嫌よく三味線でも鳴らしたい気持ちになるのは何故だろうとも思わず、ただ込み上げそうになる感情や『他に僕の事を何か言っていなかったか?』と聞きたくなるのを奥歯で噛み殺し、以蔵にはあくまでいち長州藩士として接する様務める。
「…はつみ…ゴホン、桜川殿と近しい間柄という事は、君は武市殿の周辺の人間なのか?…天誅には参加したのか。」
急に核心を突いた様で、以蔵は重い前髪の下にある視線をハッと高杉に向ける。その事で『同志』と思っていた連中からも後ろ指を指されて自信喪失していた以蔵は、それをここでも言われるのではないかと一瞬構えたのだった。だが高杉が落ち着いた様子でじっと待っていた為、以蔵も話を続けた。高杉はそんな表情の変化を見せる以蔵を見て、率直に嘘を付いている様子はなさそうだとも察する。
「…天誅とはお国の為に斬るっちゅう仕事の事じゃろう。」
「ん…まあ、そうだな。」
「俺は桜川の護衛に回されちょったき。斬ってもおらぬのに人斬りじゃち天誅の仕置き人じゃち言われる噂が流れる事もあったが、結局お国の事についてはようようわからん。…じゃが、お国の仕事につかせてもらえん俺に、命を守る為の活人剣こそが俺の剣じゃち言う者もおった」
「うん。そのような酔狂な事を申すのは、桜川殿くらいしか見当がつかんな」
「……」
その通り、とも言わんばかりに、以蔵は無言で首を縦にふるう。高杉は逸る心を押さえ、しかし前向きに彼の話を引き出そうと問い掛けを続けた。
「それで、桜川殿が言う君の剣とはどのようなものなのだ?」
「…俺は…誰よりも強い」
「ほう」
「…やき、守れと言われれば守り通す事はできる。じゃが無造作に殺すは良くないち言われた。それが活人剣じゃと。…人を斬った事はまだ無い。」
なるほど、無名の剣豪とはいつの世にもいる訳だが、すでに襲撃された経験のあるはつみに対して武市が付けた信頼できる強力な護衛、それでいてあのはつみが敢えて酔狂な思想を忠告をした人物…。であれば、恐らくはこの只ならぬ雰囲気を醸し出す男は武市の懐刀とも言える程の剣豪なのかも知れないと考える。この天誅が渦巻く時代にあって己が持つ力の加減を知らぬ剣豪に『活人剣』などと言う酔狂な思想をもたらそうとするなど、さすがは『浮世人』の考えそうなものだ。
「…なるほど、気に入ったぞ岡田君。君に金を渡してやってもいいが、もう一つ教えてくれ。君ははつみの護衛についておったと言うていたな。その護衛の任は如何した?」
「……」
「藩邸を頼らず、いるかどうかも分からぬ僕を訪ねて来た所をみるに、恐らくは脱藩してきたのでは無いか?」
「……」
以蔵の無言は図星の暗黙と見なし、高杉は更に問いかけてゆく。
「あれは今、どうしておる。京師における時勢の動きは過激の一途をたどる状況であろう。君のような手練れの護衛がいなくなっては立ち行かぬのではないか?」
先ほどもハッと反応を見せる瞬間があったが、今度の反応はあからさまに動揺が見て取れた。俯き、『困った』と言わんばかりに頭の横などを指で掻いてはそわそわしている。…まさか…斬ったのか…?と良からぬ考えが横切った所で、非常に口ごもった声色で以蔵は白状した。
「…あいつを…勢いで手籠めにしてしもうたき…もうそばにはおれんがじゃろうち思うて」
「……は……ああ?」
思いもしない斜め上の話に、高杉は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。酒の席での痴情話は嫌いではないが、今は明らかに場違いであったし、何よりも…はつみを手籠めにしたとは一体…?口ごもりやす以蔵の活舌故に聞き間違いであって欲しいと真っ先に思う一方で、しっかり聞き分けた上にこの状況で以蔵が嘘を言う訳もないという事も理解してしまう。
「待て……ちょっと待て…」
自分でも驚くほど頭が回らない事に更に動揺してしまうが、一旦目を閉じ、乱れる心を鎮める様、鼻で深く息を吸い長いため息を吐き出した。そして改めて以蔵を見やり、一語一句間違って伝わらない様、ゆっくりと、だが迫りくる気迫を以て問いかける。
「…あいつを…手籠めにしたと、言うたか…?」
「はあ」
「………なぜ……」
まるで妻が不貞を働いたのを見破った時の様な感情が込み上げてくるが、当然はつみは『妻』でもなければ『恋人』でもない。ましてや買って遊べる類の女でもない。そこは頭の隅っこでちゃんと分かっているからか『誰と寝ようが自由だが…』等とかなんとかまどろっこしい事を考えて理性を保っていたが、以蔵から詳しい話を聞くまでは納得できそうにないし気を抜けば今にも腸が煮えくり返って暴れてしまいそうなくらいには衝撃を受けていた。
そんな高杉の心情など露知らず、以蔵は聞かれた事を素直に答えてゆく。
「…この間の江戸滞在の折、上士に身売りをしちょったと知ったき」
「み、身売りじゃと?!」
この間の江戸滞在といえば、喧嘩別れをしたあの秋冬の時期…そう遠くない、1か月2か月ほど前の話だ。身売りと聞くとやはり遊女の類を連想してしまったのだが、気になる一言が付いていることを見落としてはならない。
「…『上士に身売り』とは一体どういう事だ…?」
「なんちゃあ詳しい話は聞いちょらん。ただ、乾と寝る取引をしたち言うちょった。」
当然今度は『寝る取引とは何だ!?』との疑問が脳内を突き抜けてゆく。だが目の前の以蔵に怒鳴りつけるのも甚だ筋違いというものであろう。何度も自分に言い聞かせるが、はつみは自分にとっては『知己』あるいは『友人』でしかない女なのだ。流石にそこまでの傍若無人さは押さえ込んだ高杉であったが、頭を抱え急速に思考を回す必要があった。目の前の男がはつみを抱いたという衝撃とその一方で、そもそもの発端とも思わしき『上士』格の男についても怒涛の勢いで記憶を巡らせる。
乾…土佐の上士、乾何某とは聞いた事があった。確か土佐藩江戸留守居役が乾という御仁ではなかったか。土佐山内容堂公の動向については長州でも注目されていただけでなく、先だっては若き土佐藩主の元へ毛利の姫が嫁いだという事もあった。その際に、土佐留守居役として応接役をまとめていたのが、他でもない乾だったのである。顔はよく思い出せなかった。若い男だ。勤王派だという事も聞いていたが、何かしら表立って活動をしている訳ではないのか殆ど彼に関する情報が記憶にない。
だが、あのはつみが『取引』として抱かれる事を承諾する程の権力、もしくは他の何かがあるという事か。容堂公と在京の土佐勤王派との間に囁かれる不安要素を鑑みるに、思い当たらない事が無いとも言えないが…。
いずれにしても、はつみはこの一か月二か月の間にとんでもない環境の変化があった様だ。少なくとも、その乾という土佐の身分高い男と、そして今目の前にいる一介の軽格の男二人と寝た。…ましてやこの以蔵は、どうやら慕情で狂った挙句はつみを犯した様である事が、一連の話に紐づけて想像する事ができた。
「………これを持っていけ」
先ほどまでは打って変わって声色を変えた高杉は、袖口から3両を取り出すとぢゃりんっと以蔵の膝元に投げつけた。無表情のままそれをかき集め拾い上げた以蔵は無言のまま頭を下げ、ちらりと高杉を見やる。殺気とまではいかないが、明らかに不機嫌さが見て取れる。前髪の隙間から見つめてくる視線に気が付いた高杉は今すぐにでも追い払ってしまいたい気持ちをぐっと抑え込み、
「…話の途中で遮ってしもうたが…なぜ、君がその様な狂奔に出る事になったのだ。」
と尋ねた。慕情によるものだったのだろうという見当はついていたが、はつみを抱いたという男の口からしかと直接聞いておこうと思ったのだ。一方で、その問を投げかけられた以蔵もなかなか言葉に出せない様子が伺えた。
「…俺の剣であれば、天誅で世に名を馳せる事もできた。じゃがそうせなんだは、武市先生からは桜川を守るように言われ、桜川からは人を斬る剣だからこそ活人剣である事が最も尊いち言われちょったからじゃ。じゃが、あいつと共におる内に、例えお国の為に功をあげんでもあいつの為に俺は役に立てちょるち思うちょった。じゃが、あいつが成そうとしちょった事は、上士なんぞに抱かれる約束をせねば、叶わぬ様な事なんじゃと知った…」
「…君がやってきた事、抑圧されてきた事は何だったのかと…逆上してしまったということか」
理解の早い高杉の言葉に、以蔵はうなずいてみせる。
「…何故あいつを手籠めてしもうたんか、自分でもわからん…俺は自分が狂ってしもうたと思うた。やき、あいつの元を離れた。…あいつの元を離れたちいうことは、武市先生の命に背いたちいう事にもなる。…やき、土佐を出て江戸へきた。」
はつみを抱いた、手籠めにしたなど、正直すこぶる腹ただしいところではあった。だが以蔵の様な者の気持ちが分からないでもない。身分は随分違えど、高杉も長年、思想を抑圧され今もなお悩みに悩み堕落してもまだ諦めきれずにいるも、ふてくされて色酒に溺れる日々を送っているのだから。ただ、その相手が桜川はつみではないというだけの話で…。
観察眼の鋭い高杉から見た以蔵は、その話し口からして十分な教養があるとは思えず、不躾で厚顔無恥な言動がチラホラと見て取れる、いかにも軽格の者といったところだ。ーだが、決して傲慢さからくる無礼ではない事だけは伝わっていた。とりわけ土佐では軽格に対する蔑視が激しいとも聞く。その視野の狭さを加えて想像するに、目の前の事を考え対処する事に精一杯な日々を生きて来た結果、広く時勢を見、誇りと志を以て生きる事が彼にはできなかった。いや、そうする事を自ら辞めたのかも知れない。しかしそんな彼に対して目をかけてやり『剣』の才を伸ばしてやったのが恐らく武市なのであり、そして『今時酔狂な』剣の在り方を教えようとする者がいた。それが桜川はつみだったのだ。
はつみの言葉は彼にいかような響きと啓蒙を与えたであろう。天下に剣豪、人斬りなどと名を馳せる事よりも、『活人剣』を奮ってはつみを守らんとした事に価値を見出していた発言を鑑みれば、その答えは手に取るようにわかる。彼にとっては目の前にある関心毎が彼の視野だった。口先で『お国のこと』とはいっても、恐らく深い事は理解できていなかっただろう。だからこそ、やりがいを見出していた彼女の護衛という仕事に自分が捧げて来たものが彼女にとっては力不足であり…地位ある男に抱かれる事で何かしらの打開策とした彼女の姿に失望したのかもしれない。相手に狂おしいほどの嫉妬をしたのかもしれない。殊更、視野が狭いという事は『目の前の事が全て』という状況にも陥りやすい。日頃からの慕情が嫉妬や無念、怒りや欲望にまみれた時、歯止めとなる思考がなかったのだろう。
「…高杉さんに聞きたい事があるがです。」
「…うん?」
話も締めかと思われた時、不意に以蔵から尋ねられる。受け入れた様子で高杉が発言を促すと、以蔵は手にした金を横に置き、彼なりに姿勢を正して問うてきた。
「活人剣とは何ですろうか。」
「ふむ」
ここまでの話を聞くにあたり、はつみが伝えたという『活人剣』という剣に心を映す精神論は、今の以蔵にとって最も拠り所になっているものだと見受けられる。活人剣そのものの意味を説く事はできるが、彼が求めているのはそういう事ではあるまいと、思考を巡らせる様に腕を組んだ。
「そう思うた仔細について、話してくれ」
「…桜川を守る事がお国の為に繋がるち言われた事がある。そいで桜川も、守るための活人剣こそが俺に相応しい、誰かの為になるち言いよります。じゃが、世間ではお国の為にこそと天誅が行われ、天誅をせなんだ俺に臆病者じゃ、裏切り者じゃち言う者もおった。しかしまた、国を守ろうと誰かを守る俺の剣こそが、お国を守る事に繋がっちょるという者が現れた。…俺にはもう、なんちゃあ分からん。はつみに聞く事もできん。…やき、はつみが同胞じゃち言いよった高杉さんも聞きたかったんじゃ。」
はつみに対し狂奔に出る程苛まれていたらしいと予想した通り、色んな者の言葉がそのまま彼の中で昇華されず、混乱を来たしている様子が手に取る様に伝わってきた。だが、着眼点は悪くない。やはり、考える事をやめた彼は頭が悪いのではなく、考える事をやめた結果、ただ『無知』だったのだ。無知である事を罪だと言う者もいるが、高杉はそうは思わない。これから刮目し、色々な事を知り、自らの頭で考えて行けば、必然と見えてくるものもあるだろう。それは、これまで知識を得る事こそが真実を見極め選択肢を増やす事であると励んできた、高杉の道と重なる所でもある。
深く腕を組み、少し考えてから再び顔をあげる高杉。
「君にとっての『活人剣』とは何か。君の事も君の剣も知らない僕に、その真意はわからん。だだ、僕が思う事を述べるがよいか?」
「はあ」
「見聞を広げたまえ。」
「?」
「土佐を脱却したのであれば、寧ろ君は自由だ。これからその目を開き、多くの事を知りたまえ。さすれば、君の大切な人が君に『活人剣』を説いたその理由も、おのずと見えてくるだろう。」
高杉の言葉は、今までの以蔵であれば『ようわからん』といって思考を放棄する様なものだった。しかし不思議な事に、その言葉を聞いてフと、はつみが金魚を飼おうと言い出した日の事を思い出していた。『命があるんだよ』と。『知っておいてほしいんだ』と言っていたその声が、高杉の言葉に重なり、高杉の言葉と共に、これまではからっぽだったと言わざるを得ない自分の体に染み行く様だった。
上士から理不尽な暴行を受け続け、その元凶となっていた顔を前髪で隠し気配を消す事で、自らの身を守るしかなかった。その為に個性をも殺した幼少期。息子の個性を殺す事でしか息子を守ってやれない自分達の無力さに両親が嘆く姿も、訴えた所で理不尽を握りつぶす上士による藩政が成す事も、何も見たくなかったし何も考えたくなかった。一人でいたかった。前髪で隠された視界は物理的にも精神的にも、彼の外向性すらも全て覆い隠していた。やがて『何も見たくない』という思考は『全てどうでもいい』という言葉となっていたが、武市と出会い、龍馬やその仲間達と出会い、そしてはつみと出会い…道と出会って、彼の心が『外』を求め始めていた。
『どうでもよくない』。
どうしても知りたいと思ったから、はつみ自身が『心の同志』とまで言っていた高杉の所までやってきた…。
「…何を見れば…何を知ればえいですか。」
「そうじゃな…まずは君が大切だと思う人の生活を。そうすればいずれは、はつみが知る広い世界をも知る事もできるだろう。」
『世界。』
長くはつみの側にいれば、何度も聞いた様な言葉だった。だが具体的にどういう事なのだという事までは聞いていなかったし、覚えてもいない。だが、
今、ここからなら、そこへ辿りつけそうな気がした。
「そして君の剣が本当に『誰よりも強い』ものであるならば、いつか本当に『お国の為に』剣を振るう日が来るかもな。」
昨今時勢の事で皆が張りつめすれ違いを起こしている中で、こういった話ができたのは高杉にとっても新鮮であり、考えさせられるものもあった。まさかよく知りもしない土佐の男からはつみのとんでもない話を聞き、人生相談の様なものまで受けるとは…。『世界』とは言ったが、世間は狭い。そこで重なる偶然もまたおもしろいものだと。時勢と己の境遇を考えれば焦燥と陰鬱でしかない日々であったが、今だけは不思議と、心持ちが良くなっていた。
「…ありがとうございました。」
そう言って以蔵が高杉の前から捌けようと席を立った時、手元い置いた金が置きっぱなしになっているのに気付き、声をかける。
「おい以蔵君。金を忘れとるぞ。」
「ああ。いらんがです。」
「…は?」
しれっとした声色でまたも斜め上の事を言ってくる以蔵に、高杉は据わったまま彼を見上げ眉をひそめた。
「…江戸の知り合いに会いに行くいうがは本当ですが、金を借りに来た言うがは嘘ですき」
「では何故そのような嘘をついた?」
以蔵は真正面に高杉と向き合い、
「…桜川が『同志』ち言いよった高杉さんの話を聞きたかったけんど、桜川と高杉さんは懇意の仲じゃち言うても俺はそうではない。いくら桜川の同志じゃち言うても、金も貸してくれん器の小さい奴に話す様な事ではなかったですき…」
「……なるほど」
意外にもそういう所には知恵が回っている…いや、彼の視野の届く所であれば、そのように生きた鋭い知恵を巡らせることもできるという事なのだろう。
「…気分を害してしもうたかえ…」
「いや、今日は久々におもしろい御仁と会えて良かった。生きておれば、またどこかで会おう。」
「……はあ。……では」
以蔵が去った後で、高杉は堪え切れず大きく振りかぶってから四肢を放り出す様にして大の字になって寝転んだ。
「あーーーーーーーっ」
何ともし難い、やり場のない苛立ちから声が漏れ出る。考えているのは、やはり『はつみが男に抱かれた』という事についてだ。
ここで亭主面をして怒り出すのはいくら何でもお門違いであるとは分かっているが、いままでにもし、自分も吹っ切れて狂ってしまえば、時世の事も、はつみの事もどうにでも出来たのだろうかと…つい思い馳せてしまう。事ある毎に『あいつは僕が抱く様な女じゃない』と豪語していたというのに、いざこの事実を聞かされた自分の堪え切れない感情、その体たらくにも呆れてしまう程だった。
ひとまず、土佐の乾という男について調べる必要がある…はつみとの間で交わされた『取引』についても。そしてもし次にはつみと再会する事があったら、一体どんな顔をすればいいのか…?。
一方で、師・松陰の『狂いたまえ』という言葉はこんなにも難しく深甚なものだったのかと改めて思う。狂人の様に振舞ってみても、結局焦燥や不安、苛立ち、嫉妬に欲望…そのような思考で頭がいっぱいになってしまい、吹っ切れる事などできずにいる。吹っ切れられなかったのは、多くの事を学ぼうとし、思考を巡らせ、『世界』を見つめる程の広い視野を持っていたからこそ、思いとどまるべきあらゆる思考が歯止めをかけているのであって、そこが、狂奔を成し得た以蔵とは違う所であるとも分かってはいるのだが…。
そんな事を思いながらもまた、今は身も心も疲れ廃れてしまっているであろうはつみは息災だろうかと、『狂』からは程遠くまた思考を馳せるのであった。
※仮SS