文久元年12月。
12月を以てはつみ、龍馬、内蔵太、以蔵らの江戸滞在期限となっていた。乾は寅之進からの書状ではつみらの送別会に招待されていたが、これに参加する事は辞退し、代わりに非番の日を使って築地中屋敷に現れ、はつみが宿泊している旅籠を尋ねる。外出中だと知ると、その外出先である桶町の千葉道場にまで顔を出した。
土佐の江戸留守居役が突然訪ねてきた為に緊張が走る小千葉道場の重太郎と佐那子。笑いつつもどこか気まずそうな龍馬。重太郎は乾とはつみの為に気を利かせて人払いをするが、はつみが帰藩するにあたり『文をよこすように』とする乾の話を物陰から聞いてしまい、衝撃の事実を知ってしまったと言わんばかりに口を押さえながら『どういう事だ?』『恋文か?』『いや報告じゃないか?』等と龍馬にふっかける始末だ。龍馬は愉快そうに話をしてやるのだが、佐那子にはそんな龍馬が少しばかり無理をして明るく振舞っている様にも見えていた。
単刀直入に『文を送れ』と話すだけ話した乾は重太郎に改めて礼をとり、颯爽と立ち去ってしまった。『文を出す様に』これだけの事をわざわざ話す為だけに来てくれた乾に置いて行かれた形のはつみであったが、先日の横濱帰りの事といい、少し気になったので彼を追いかける事にする。龍馬は快く送り出し、重太郎は場が戻った事を受けて改めて呑み直そうといい、佐那子は重太郎に肩を抱かれて奥へと連れられる龍馬の後ろ姿を少し切なそうに見つめていた。乾を追いかけていったはつみを、一瞬だけ、龍馬が切なそうな笑みで見送っていた事に気付き…先ほど彼が無理をして愉快に振舞っているのではと察した事が、思い過ごしではなかった事を突き付けられたという状況であった。
乾を追って外へ出たはつみは、ほどなくして彼に追いついていた。少し一緒に歩く途中、神社に立ち寄り、帰藩の途につくはつみの旅の安全を祈る。神仏への信仰は低そうな乾も、こうして念を捧げたりするのか…と、手を合わせる彼の横顔を見て思うはつみ。一瞬目が合って慌てて視線を逸らしたはつみも神に挨拶をし、境内をでようかという所で乾がはつみに振り返った。
「これだけは言うておく。嫁を得ようが、子を得ようが、生きる場所が遠かろうが…俺の気持ちは変わらん」
「おんしの説く思想についてはもう一考してやってもええと思うておる。俺はこの江戸で、真に帝の御為となる事とは何かを見定める。」
そう告げて、夕焼けがかった陽に照らされて橙に透けるはつみの髪をそっと優しく撫でた。いつも毅然として無表情ですらある乾の瞳に、愛おしく切な気な色が滲んでいる様に見えて、流石の鈍感なはつみも何となく察して言葉を見失ってしまう。髪を撫でる手を受け入れるはつみに惜別の想いを増した乾は、そのまま流れる様に彼女の頬に触れ、そっと引き寄せる様に顎を持ち上げる。
「……っ…乾……」
「………」
顔を傾けてゆっくりと唇を落とそうとするその刹那、何か言わんとするはつみの瞳を至近距離から見つめる乾。静かなのに射抜かれる程に情熱的な視線に思わず胸が高鳴ってしまい、『だめだよ…』と彼の奥方を思って顔を背けるが、捉えられた顎先は彼の力加減でいとも簡単に操られてしまう。再び吐息がかかる程間近にある乾の顔を前に、はつみは観念した様に肩をこわばらせ、瞳を閉じる。
「…愛い奴」
フと笑った様な吐息がかかってハッとして目を開くと、逆に目を閉じた乾の顔が目前に迫り、同時に唇が暖かく湿った粘膜に食まれる感触を得た。はむ、はむ…とはつみの麗しい唇を味わう様に、優しく、しかしどこか押し迫る様な、官能的な口付けが施されてゆく…。
いつからか…乾のこういった想いは隠される事無く、率直に伝えられる様になっていた。鈍感が極まるはつみも明確に認識させられる程の言動は、拒む事を躊躇ってしまう程に真っすぐで…。いや、それでも嫌ならば退ければいいものをついつい流れで受け入れてしまうのは、『キス』ぐらいならいいのではないかと思ってしまっているからなのか。それとも、ここまで想いを寄せてくれる妻子持ちの乾に対し、自分では認識していない所で好意を持ち始めてしまっているからなのか…。鈍感だとは言いながらも気付かせられた以上は何かしら考えてしまう訳で、故意的に深く考えない様にしている所もあるなど……もう自分でもよく分からない心境だ。
夕暮れがかった境内の片隅で、愛しい人との別れを惜しむ口付けは長く続いた。ようやく離された時にははつみの瞳はすっかり潤み、上気した頬や唾液に濡れた唇が異常なほどに煽情的で、流石の乾も自制の為に目をそらさずにはいられない程だった。だがこれ以上はと、乾も思い留まったのだろう。
「…文の事、忘れるな」
唇を離しただけの距離でそれだけ呟くと、名残惜しそうに通常の距離へと離れていった。…才や教養を褒められるはつみも、決して聖人君子と言わんばかりの清純な娘という訳ではない。そういう事に興味のある健全な女子といって過言ではない。だからこそ、自分をこんなに絆してきて、その上想いを抑え込んでいる様な乾の横顔を見て、思ってしまうのだ。
もし……
勢いに任せて『欲しい』と言ったなら…乾はどうするだろうか…。
…上気にあてられてついそんな事を考えてしまった頭をブンブンと振り付け、正気に戻るはつみ。だが乾もまた、彼女と同じ事を考えながら、ただ押し黙って帰路を歩み始めるのであった。
仮SS