12月の始め。およそ1か月に渡って待たされた勅使達はようやく将軍・家茂と会見するに至った。その場には柳川左門と名乗る武市も同席し、土佐下士の身分にして将軍の御目見えとなっている。はつみはそんな武市に対し『もはや自分の言葉が届く様な人ではないのかも知れない…自分の都合で彼の運命を変えるなんてできないのかも知れない』と思いながらも、乾退助との『取引』によって得た最大の好機に対峙しようとしていた。
…かつて自分を引き立てようとしてくれた参政・吉田東洋。その東洋を己の右腕の様に起用していた土佐前藩主・容堂公との会談である。
武市の運命について容堂との確執が最大の壁となるのなら、その歴史的な定めを変え得る何かしらの一石を投じたいとの一心だった。乾の好意を利用した形で『取引』したのも、その為なればの事である。しかし、『運命を変えるのだ』と気負い過ぎた上に時代の傑物・容堂公を目前にしたはつみは自分のペースで話をする事はできず、ただ容堂の知己を得ただけの会合となってしまっていた。
容堂公が乾によるはつみの斡旋を受けたのは、その気鋭さを気に入って傍に置いている乾が直々に斡旋してきたからというのも勿論あったが、実は他に、寺村左膳による話があった事も考慮の一つとなっていた。京において寺村が桜川はつみと対談したという話は、用意周到な寺村の手腕もあって殆ど外部には知られていない事実であった。当然容堂公には報告があがっており、かつて東洋が期待を寄せていた『桜川はつみ』なる身元不明の男装娘の事はその記憶に更に刷り込まれていたのである。当然、重宝し、一時期は土佐の藩政を一任させる程に信任を寄せていた吉田東洋による桜川への聴取や交流における報告はしっかりと容堂の元へと届いており、これを機とばかりに容堂は『東洋が斡旋した長崎屋横濱での経験』に加え、『開国富国強兵』『産業革命、殖産興業』『海外貿易』『教育』などについてはつみに訪ねるという、比較的前向きに興味を示したとも言える雰囲気となっていた。
とりわけ容堂公においては、ここ数日、土佐尊王攘夷派が事後報告で取り付けてくる朝廷との関りと幕府、佐幕派大名間での調整や会合、長州絡みの炎上対応などでキリキリ舞いであった心情の癒しともなる会談であった様だ。通常であれば西洋の文化を知る者など一握りに過ぎない現状の日本国において、それらについてはつみが的確に返答をする事にも大変満足であったし、東洋が評していた『俯瞰の先見性』についても体感できた事が、容堂公の深い知性を刺激するに値する才であると納得した様だった。気を良くした容堂公は、土佐出身漁師でありながらアメリカへ渡り、帰国後はその語学力と西洋知識を以て幕臣へと取り立てられた中浜万次郎、はつみにとっては『ジョン万次郎』の名で知られた人物が記した『英米対話捷径』を賜り、大変上機嫌な様子で『励めよ』との言葉を下す。
……それで会合は終わってしまった。
容堂は、乾から見ても昨今あまり見られない程に上機嫌であった事は間違いない。だがそれは、容堂がはつみの知才に満足しただけの事ではなかった。この様に開けた知性を発揮するはつみが何故とは思いながらも、今や目の上のたん瘤とも言える武市の傍にいる娘であるという事は当然容堂も把握していた。彼女がいかな手段を用いてでもここへ辿り着いたというその目的も、恐らくは武市に関する事が真の目的であったのだろうと察している。はつみ自身も襲撃に遭ったという事もあり、彼女が間者であったとか東洋や京の要人を次々と屠った忌々しい天誅に加担しているとは到底思えないながらも、勢いだけで『一藩勤王』を唱えながらも実際には主に上士と下士間に大きな隔たりのある佐幕派尊王派問題に危機感を覚え、武市との間を取り持とうと考えたのでは…とも考えた。容堂や寺村からの報告通りであれば、彼女にはそれを察する知性があると見込んで。
故に、はつみとの対話ではあえて主導権を渡す事はなかった。質問をさせる隙を与えなかった。
その事が上手く回った事にも満足しての、『上機嫌』であったのだった。
一方、促されるがままに退出するはつみ。もっと容堂公と尊王派、とりわけ武市との間が自然と狭まり認め合えるきっかけとなる様な話題を切り拓く予定であったがまったくそうはならず、流石は幕末の四賢侯とまで言われた山内容堂公の掌に転がされるだけでおわった事を痛感していた。吉田東洋から自分の事が報告されていた上に乾からの口添えがあればもしや興味を持ってくれるかも知れないとは考えていたが、当然、自分が武市に近い距離にいる事も把握しているはずだ。目通りとなる奇跡がおきたとてそこを警戒されるのは当然であり、あとは出たところ勝負、己の力量次第という覚悟はしていたものの、ものの見事に、『力量』の更に上を越されてしまった様だと実感していた。極めて当然の事だが、容堂公の方が一枚も二枚も、数枚分も上手であり、今、その膝元で起こっている事の広くを把握しているという事を思い知らされた。
思う様な話ができず浮かない顔で出て行くはつみの横顔を、乾は黙って、視界の角で見送るしかできずにいた。
※仮SS