時世を見極めきれない容堂は乾を再び大目付へ昇進させ、軍備御用を兼任させる。乾に対しこの様な人事が行われるのは、もう何度目の事だろう。しかし根強い佐幕派が多い土佐藩政にあり、何よりも土佐勤王党への弾圧も完了した所で乾が今日に至るまで『無事』で居られたのは、優柔不断ともみられる容堂の迷走人事あってこそなのだ。時勢を見極めんと常に思案を繰り返し、乾が大きな政犯を犯す前に彼を失脚させ、そしてまた時勢に乗り遅れぬ為に再抜擢を繰り返している。この事が、乾や土佐が決定的な『過ち』を侵さずに済んでいたとも言える。もちろん土佐の命運を第一に考えての駒でもあったが、それ以上に、乾は容堂公からの寵愛、信頼を受けていたのだ。
土佐藩内は未だ藩を挙げての思想統一には至っておらず、小八木ら佐幕派や寺村ら公武合体派などがこぞって乾ら勤王派と対峙している形ではあった。昨年は、投獄された武市ら勤王党を釈放する様にと活動を興した野根山の二十三士を、同じく勤王派であり乾とも勤王の誓いを立てた小笠原唯八に処刑させるという酷い出来事もあった。そして乾についても、佐幕派及び公武合体派からの嫌がらせ、もしくは『勤王派ではないとする実績作り』なども考えられる中、そこまで露骨ではなかったが乾も大目付に昇進させられた直後に武市への対立尋問を後藤の監視付きで執り行わされるなどといった『分からせ』の様な命令が課される事もあった。
だが、そんな乾達の状況にまで冷静に思考が及ぶ郷士達は少ない。故に乾は京で天誅の対象とされる事態にまでなっていたし、その後においても抜擢と失脚を繰り返すが為に、勤王派からは信用されないとする色が濃厚であった。小笠原は23士を処刑した事が尤もたるきっかけとなり、各地に潜伏する土佐勤王党員や勤王派からは嫌厭される状態となっている。
しかし要約の時を経て、ここに集う乾らこそが、上士の中で最も信頼すべき勤王派であるという事が見えて来た様だ。乾が藩政に返り咲くなり、いまだ獄中にとらわれていた土佐勤王党の面々を釈放した事や、中岡が勤王派の郷士達に向けて発した『乾のもとへ集え』とする檄文、そして長州が幕府軍を打ち破り薩摩が幕府を見限るなどといった時世の後押しもあるだろう。乾が京にて独自に締結させた『薩土密約』に備え、いつ『倒幕』となっても動ける様、長州の英雄高杉晋作の軍事を目の当たりにしてきた中岡から助言を受けつつも自身が江戸で数年かけて取得した西洋式軍隊の知識を駆使した大がかりな軍備改革と人事斡旋に取り掛かっていた事も、目に見えて明らかな変化だ。
幾度も失脚させられ誰に何と言われようとも勤王の志士として臆する事無く突き進んできた乾らの真の姿が、ようやく伝わり始めていたのだ。
今後について語り合う乾、佐々木、小笠原。
変わりゆく時勢を目の当たりにし、容堂は迷いをみせている。もはや日本の港は世界に開かれ、外国人たちは各地を闊歩している。世界を知った各々の大名や武士らが、異常に閉鎖された日本という国の真の姿・実態を知り、方々への制御が効かなくなった幕府の権威は地に落ちた。公武合体を掲げこれまで朝廷と幕府の橋渡し的な活動すら行ってきた薩摩にまで見限られた幕府は、もはやいつ討たれ瓦解するやも知れない風前の灯火という状態だ。
かの武市半平太を殺してでも公武合体論を唱え続けて来た容堂でさえも、もはや『幕府を守る』のではなく『山内家を取り立てこの土佐を与えたもうた徳川を守る』という方向転換を余儀なくされる程に差し迫っていた。
今後の佐々木の京入りに関して「上京の上大義のある方向が見えれば決行せよ」と付け加えるとは、そういう事なのだろう。
あとは、乾がまとめ上げるだけだと肩を叩く。
かねてより裏表のない一本気なその姿勢が広く愛され、何度言われても勤王の思想を変えようとはしなかった事、藩論に背く行為を自ら容堂に告白し切腹の覚悟を示した時も、結局許され何度もこの大目付という大身職へと舞い戻り、西洋式軍備への改革及び配置まで任されている乾に、盟友たちはその想いを託す。
「長州には高杉晋作という、先見の明を持った御仁がおられたそうじゃ。我が藩にその類の英雄がおるとすれば、それはおんしじゃ。乾。」
「土佐勤王の盟主となれ」
乾は不動のその顔にフと笑みを浮かべると、迷うことなく返した。
「もとより、俺は成すべき事を成す為ならばいつでも死ぬ気でおる。おんしらもその覚悟はしておけよ」
※仮SS