8月。乾から再び呼び出され、仁淀川での鮎釣りへ連れ出される。乾に呼び出されるのはこれで三度目であり、はつみが目当てであるとはいえ彼女との逢瀬の為に下級武士の家へと出向く乾の姿に、坂本家の人達は未だに嘘の様だと思いつつも、一方では、これほどまでに他人の目も気にせず真正面からはつみの元へと通い、彼女を匿う坂本家の面々に対しても武士としての礼節を以て対峙する彼の言動に大きな感銘を受けている様子であった。
一方で、現代における身分格差のない生活や自由な恋愛観という価値観の元で育ったはつみにとって、こういった武家の倣いはまさに『机上の空論』の如きものである。かつて史実書籍などからそういった文化であった事を学んではいても、実際自分の身に降りかかるとなかなか理解しがたく、大変窮屈なものであるといった印象から抜け出せないでいた。
馬に乗せられ、はつみは生まれて初めての乗馬となった。乾の前に座る形で乗馬しているのだが、尻がナニにあたるからもそっと姿勢を正せなどと真顔で下ネタを言う乾も内心浮かれている。目的の場所に到着すると、美しくきらめく仁淀川のほとりで魚釣りが始まった。龍馬達との川遊びで戯れに竿を持った程度の経験しかないはつみに、乾は呆れる事無く都度都度丁寧に指導してくれる。
彼は鮎の塩焼きや半熟卵が好きらしく、仁淀川では乾がつったものや焼いたものを一緒に食べたりして楽しんだ。
上士、下士(郷士)、あるいは武士の家というものにまだ実感がわかないはつみであったが、上士である乾もこんなに気さくで自然派なところがあったのだと、今日ほど良く思った事はなかった。また、乾は先日はつみが東洋に呼び出されていた事を口にし、女だてらに『中浜万次郎の再来として期待されている』事や、『尊王思想、そして攘夷と開国』についてを落ち着いた様子で話す。
少し距離が縮まったかの様にも思えたのだが、日が暮れる前に帰らなければならないと帰り支度をしていた時のこと。不意に話しかけてきた乾は、家の祝言が決まった事などを淡々と話して伝え、「俺とは一緒になれぬと思え」等と言い始めた。乾の結婚には驚きつつも最後の台詞には「?」な反応を見せるはつみに若干モヤった表情を見せた乾は
「…叶わぬのならせめておんしを抱きたい」
と率直に述べる。
「恋人にもなってないのに『せめて抱きたい』は順番が違くない?」
と相変わらずのツッコミを入れるはつみであったが、突然乾の顔が真正面に迫り、そのまま唇を重ねる形で口を塞がれた。唖然として固まるはつみ。少し経ってからそっと唇を離した乾は、まるで『せいせいした』とでも言わんばかりのどこかスネたような視線をしてはつみを見つめていた。これははつみのファーストキスであったが、よくある漫画の様な『私のファーストキスが!!!』といった感情よりも、ただ驚いて、乾がよほど本気であった事に言葉を失うはつみ。しばらくはつみの反応を見つめ、彼らしくもなくその視線に何か言いたげな色を秘めたまま、じっとしている乾と不意に目が合ってしまう。
はつみは沈黙の意味を察し、何か答えなければと頭を働かせ始めた。だが、今できうる答えとしてはやはり「まだ、自分がここにいるという実感すら湧いていない。位の高い武士の家に嫁ぐという事が一体どういう事なのかを、想像できない」といった事だった。
「乾が悪いとかじゃなくて…」
「…もうえい。」
とっくに心は決めているのだと言わんばかりに見える乾に、はつみは申し訳なさそうに黙り込んでしまう。だが、乾の心が決まっているなど、それこそ決めつけでしかなかった。彼の心はある種の別れを告げた今でこそ、波間に晒される砂山の様にもろく、移ろいやすい状態のまま、答えを出さなければならなかったのだから……。
帰りの馬上では、はつみが異常に意識してしまった為に変に空回った会話になるか、無言でいる時間も多い様に感じた。
後日、乾が武家の娘と祝言を挙げた事を知り、彼の言っていた事や願っていた事、身分を越え時間をかけて二人の時間を築こうとしていた事の本質を知る事となる。
…つまり、彼は家の為に、病床の父を安心させるために、婚姻の道を急いでいた。
本気ではつみを好きで、本妻にしたいと願っていた。
…という事を。
※仮SS