仮SS:時務を識る者は俊傑に在り


文久元年12月。

 土佐藩江戸留守居役である乾退助の思想は変わらず『尊王攘夷』であったが、東洋の狙い通り、はつみとの語らいによって巷で流行り病の様に吹き荒れる安直な其とは一段違う思考へと変貌しかけていた。

 そんな江戸のある日、乾は噂に聞いた幕府文久遣欧使節団の出港視察と称して横濱へ出る許可を容堂から得た様で、異人と対峙した際の通訳代わりとこじつけてはつみを呼び出すが、『またもや』龍馬と寅之進がついてきてしまう。普段は不動の表情に露骨なしかめ面を見せる乾であったが、集まってしまった以上やむを得ず4人で横濱へ向かう事となった。

…どうやら『視察』以外の名目もあった事は、乾本人は勿論はつみ以外の誰もが気付いていた。


 さて、年の始めに長崎にてはつみと別れ、江戸赤羽に拠点を移していた15才のアレクサンダー・シーボルトは、この江戸での生活において二度目の東禅寺事件現場を目の当たりにして大きなショックを受けたり、父が再び強制帰還の途に着く事となり己一人が駐日ロシア海軍という厳しい場所で自立して生きて行かねばならない状況に陥るなどの紆余曲折を経て、今、英国公使館付特別通訳官(sir)に任命されていた。
 元々極めて語学習得力の高い少年ではあったが、あらかじめはつみから勧められていた事もあって既に習得していた英語力は英国公使ラザフォード・オールコックからもかなり高く評価されるに至る。アレクサンダーは母国蘭語と英語・日本語を含む6か国語を習得しており、この開国間もない日本に押し寄せる各国の情報を直に見聞きし、且つ理解に足る母国英語に吹き換えて情報共有できる事は極めて有用な才であると認められたのだろう。

 その英国公使館付き通訳官となったアレクサンダーが、ここ横濱にて本屋から領事館へ戻る所で偶然はつみと鉢合わせた。

『ねぇ!君!?…はつみだよね…?!』

『はい、そうですけど……もしかして、アレク?』

 はつみは、およそ一年の間に自分と同じくらいの背丈へと急成長していたアレクを一目で認める事ができなかったが、その分、彼がかつての別れ際に『離れたくない』と言って泣きじゃくっていたアレクサンダーだと理解できた時には、あまりの偶然的な出会い故に手に口をあてて声をあげ、咄嗟に抱き合ってしまっていた。
 目の前ではつみを抱き締める異国人に対し流石の乾も何事かと眉間にしわを寄せ構えを見せようとするが、彼が怒気を放つ寸での所で、あらゆる事情を知る龍馬と寅之進が仲介に入る。

 一先ず

「おーおー!いくら友じゃちいうても男女が往来で抱きおうてはいかんぜよ!こりゃニッポンの『まなー』じゃき!の?」

「アナタはリョーマ!お久しぶりデス!私はアレクデス!トラも!!」

 と間に割って入った龍馬のおかげで、はつみとアレクは『適切な』距離に戻る事ができた。間に入ってきたのがはつみと同様に長崎で見知った龍馬だと気付いたアレクは、改めて嬉しそうに彼と握手をする。はつみと同行する者達の中に寅之進の姿も認めて挨拶をし、そして残る一人が彼らよりも身分の高い武士であろうという事を、その身なりや雰囲気などから察した様だ。物事には動じず表情を変えない『二本差しのサムライ』である乾には、アレクにトラウマの悪夢を見る日々を与えるきっかけとなった東禅寺事件での様な事がおこりはしないだろうかと緊張感を覚えた事だろう。緊張した表情で『礼』をしていた。

 しかしはつみは構わず再会を喜んでいた。その様子に背中を押されるアレクは、無表情で威圧感のあるサムライに緊張感を覚えつつも夜に皆で友好的に食事をする事を提案。良くも悪くも不動の乾との間をはつみがとりなす形で食事の約束をし、時間まではまだ勤務時間であるアレクの事情もあって一旦別れる事となった。
 結局乾は最後まで一言も言葉を放つ事は無かったが、異国人を見るなり刀を抜いたり罵声を浴びせるという暴挙に出る事もなく、また、珍しがって絡んだり呆けたりする様な事もなかった。はつみはその事について大変喜ばしい笑顔で礼を言い

「アレクとの食事会に乾も一緒に来てくれる?」

 と良い返事を期待したが、流石に突然異国人と席を共にする事は考えられない様だった。

(前編・後編)


その日の夜、外国人向けのホテルレストランにてアレクとの食事会が行われた。―とはいえ参加者ははつみと寅之進のみであり、互いが日英語の修練中ということもあって殆ど勉強会の様になっていた。

 この一年で『英国公使に認められる程』英語をマスターしたアレク。日本語は引き続き学習中だが、日本語しか話せない日本人と会話をしていてもほぼ差し支えのないレベルにまで修練されている。英語の習得を勧めたのははつみの方であり、見方によってはあっと言う間に実力差をつけられてしまった形ではあるのだが、素直にアレクを尊敬し、更に彼から英語を学ぼうとしていた。互いに日英語を交え、食事会というよりは殆ど勉強会の様な形で、しかし極めて朗らで良質な学びの時間が流れていく。



 一方、アレクらの席に乾は同席はせず、その酒飲みに付き合う龍馬。はつみの言う『真の攘夷』について理解できるかと問う乾に、龍馬は率直に

「正直はつみさんに見えちゅう『世界』の形はまだようわからんが、はつみさんが言う『尊王と開国は相反せん』っちゅう考え方は、今の朝廷と幕府をみちょれば何となくはわかるのう。…ま、これもはつみさんから教えてもろうた事じゃが。」

 と答える。 「異人と」 乾は腕を組みなおし、それに続く。

「…今土佐は蚊帳の外じゃが…長州と薩摩は公武合体論を推しておるそうじゃな」

「そもそも開国自体は、異人嫌いじゃった帝も容認された事じゃったっちゅう話ですき。ただその後に幕府が結んだしゅーこーつーしょー条約っちゅうのが良うなかったと。」

「長年の財政難に加え将軍継嗣問題、さらには勅許無き不平等条約の締結。幕府の無能故に日の本のカネや資源が巻き上げられ、いずれはそこに付け込まれる。」

「そうぜよ。そんではつみさんの言う『真の攘夷』っちゅうのは、『正しい世界的視野を以て異国と対等の条約交渉を進める政治家と、そして正しく言葉の壁を取り払う通訳官が所属する様な政治組織が機能すればいい。そしてそれが幕府である必要はない』ち言うところなんじゃ。幕府が阿呆でしょーがな時にゃあ、賢い頭脳をもった輩を集めた世界に通用する組織を幕府の代わりに置きゃええ。世界は必ずしも争いばっかいを続けちゅう訳ではなく、条約や法律っちゅう世界の理を以てある程度の均衡が保たれちょるんじゃち……全部はつみさんの受け売りじゃがのっ?」
 しゃべりすぎたとばかりにおどける龍馬であったが、『じゃが乾さんも嫌いな話じゃないがじゃろう?』と一献傾けてくる。『龍馬が言う通り』と言うには妙に見透かされている様にも聞こえて少々癪にさわるが、大義があればこそ過激な発言は乾も好むところだ。

「…嫌いかどうか、俺の私心は大義とは別事じゃが。」

 しかし思う所がありそうなのは、不動の表情からも何となく察しが付く。かねてより乾の胆力や利発な様子を評価していた土佐参政・吉田東洋は、これまでも何かにつけ乾の目を学問へと開かせようと機会を費やしていた。しかし一方の乾は尊王思考が極めて強かった為、その賢人とされる存在感を以て朝廷と幕府の間で注目される容堂公や、その容堂公が絶大の信を置く東洋らの『公武合体論』に対し物思う所があったというのが正直なところであった。
 しかしある日突然土佐に現れた桜川はつみという娘を『中浜万次郎の再来』として東洋が目をかけ始め、そしてその娘を『使い始めて』以来、乾もついに、その利発さを『外』へと向け、その分思考も多様性を伴い洗練されていく―といった状況となっている。…東洋は自分の私塾にはつみや自分を引き入れ『指導』したがっていた…どちらもその素質や才は認めた上で、考え方の過激な所は自らの『指導』によって角を取ろうとしていたのかも知れない。

 そんな事を思い馳せる様になった事自体、『乾が尋常でない熱量ではつみを見染めている』と見抜いた東洋によって講じられた『策』が、見事に功を成しつつあると言う事なのだ。


「時務を識る者は俊傑に在り…ちゅう事かえ。」

「じむ…?」

「東洋殿が言うておった言葉じゃ。三国志のナントカらしいが、俺は詳しゅうないき詳細は知らん。」

 『時勢を知り必要な時に的確な言動を取れる者こそが俊傑である』と三国志の劉備玄徳に対し述べた司馬徽の言葉だが、成程東洋の言いたい事が今になって分かった様な気がした。
 開国黎明期にある今この世にあっては中浜万次郎やはつみのような存在は極めて奇特な人材である事はもとより、思想を述べるにもしっかりと相手を見極めての事なのだと意味も含めて。


 頃合いを見計らって外に出た乾は馬に乗り、龍馬にひかせながら待ち合わせの場所へと向かう。アレクと別れの挨拶を交わすはつみをみかけた。…なんと往来で抱き合い、異人の方から頬を合わせている。はつみもはつみで嬉しそうに相手を受け入れているではないか。先程の話といい珍しく虫の居所が悪かった乾は手綱を握り直し、無言のまま馬を進ませた。異国人らも移動に馬を愛用し、横濱には競馬場という娯楽まであるというのもあって馬自体は珍しくはない様であったが、『袴に白足袋を履いた身なりの良い二本差し』で更に『馬に乗る』となると『位の高い侍』との認識が高い様で、外国人の目が乾に向く。しかし乾にとってそんな視線など意に介す価値もなく、少しずつ近付いてくる楽しそうに談笑中のはつみだけが視界に入っていた。
「…乗れ」
「あ、乾。あ、アレクを紹介したいんだけど―えっ、ちょっ?!」
「…おんしに聞きたい事がある。いくぞ」
 話の途中で馬の上から手を取られたはつみは、引き上げられるがまま止むを得ず馬の上にまたがる事となった。アレクは先日の東禅寺事件の現場を目の当たりにした記憶も新しく、『侍』が強硬とした態度を出す事に少々怯えた様子を見せる。咄嗟に寅之進が「大丈夫ですよ、彼はよく知る人物です」とフォローに入ったが、慌てたはつみが馬上からアレクに声をかけようとすると乾は構わず走り出してしまった。

「ご、ごめんねアレク!また連絡するから…!ちょっと、乾!?」

 はつみの声と姿は明らかに落ち着かない内から小さくなりながら、突然アレクの前から去ってしまったのだった。

「あ~あ~どこまでいくぜよ…走るのがダルいんじゃ言うちょるのに…まったく…」
 乾には走らされっぱなしの龍馬が『またか』と大きなため息をつき、呆れながらその進行方向を見つめる。アレクサンダーは乾の圧と共に子女が連れされられると言う状況に唖然としていたが、気付いた寅之進が
『大丈夫、心配しないで下さい。何といえばいいのか…あれがあの方の愛情表現なのです』
 と、自分で言うのも恥ずかしい説明をし、暴力沙汰などではないことを伝える。
 3人は走り去った馬の行方を遠巻きに見つめ、村の入り口近くに建つ茶屋へ入った事を認めた龍馬と寅之進は視線を合わせて『了解』とばかりに頷き合った。そしてアレクサンダーに丁寧な別れの挨拶を済ませ、去っていくのだった。
「早く行きましょう…!」
「まあまあ、乾さんにも時間をやろうのぜよ。の?」
「何の時間っ…何言ってるんですか龍馬さん!?はやく!行きますよ!」



 一方の乾。馬駆け途中で入った茶屋にて一室を取り、灯りも付けずにはつみを押し込む。乾は時世への思想も含めずっと『大義に対し些末な私事』として黙っていた事をはつみに打ち明けていた。

「……俺はおんしの才を認めちゅう。帝に無礼をはたらく幕府に寄り添うつもりはないが、尊王と開国と、その真の攘夷とやらについて俺なりに考えようと思う。」

「あ…ほんと?!」

「……俺に話せ。何でも。…おんしのいう事であれば、一旦は耳を傾けちゃるき」

「…乾……ありがとう。」

 はつみは心底嬉しそうに彼を見つめ、微笑みながら頷いている。

…その顔を見るのはたまらなく好きだ。

その器量が既に好きだという事でも勿論あるが、自分の言動が彼女の心に響いている事を確かに実感できる。惚れて通えば千里も一里、心が彼女を求めているのだと気付かされる。

そして、美しく才ある彼女をつなぎ止めるのは誰なのか…。異国人からも愛されるはつみを見て、たまらなかったのも本心であった。


「……へ…えっ…?ちょ、いぬ……んっ…」

 部屋の中央に落ち着く前に、立ったまま突然唇を奪われる。口をふさがれ彼の上品な香りがふわりとはつみを包み、熱い手に掴まれた肩が震えながら緊張感を帯び強張ってゆく。

「…往来でこのような事はよせ。わかったか?」

「ふぇ…?な、何の事…?」

「……おまんは時務を識りすぎじゃ…俺に理解を求めるなら、もそっと俺に歩みを合わせろ…」

 まるで違う価値観に面食らう事はこれまでにも多々あった事だが、まさか往来で抱き合ったり頬を合わせたりするなど見た事も聞いた事も無かった。そういった意味で乾にっとっては強すぎる刺激でありまだまだ容易できぬ文化であった事を、この状況的に何となく察しながらも、『俺の心情を分からせ』られるかの様な再度の口づけに後ずさりする。
 その不動の表情の下ではもしかして嫉妬がうずまいているのだろうか?乾の想いはかねてより『まだ続いている…?』と何となく気付いていたが、あまりにもはつみが鈍感、そしてあまりにも展開が急すぎるあまり、後ずさりが止まらない。乾のほのかで上品な香りや口づけに絆されそうな精神を『ちょっ!?まっ!?』の精神を以てギリギリ支える状況だ。

「まっ…あっ…?」

 ここで躓いて転んだりしたら尚まずいと、考えるではなく本能で感じながらあたふたと対応するはつみ。そこへ、茶屋の入口の方から若々しく張りのある声と共に騒がしい足音が響いて来た。

「はつみさん!!!お迎えに上がりました!!!!」

「まてまてまて寅、乾さんもおるき…」

スパン!ドタドタ…

スパン!「あ、申し訳ありません」ドタドタ…


「……寅くんと龍馬だ、ね?」

 動きの止まった乾へ視線をやると、無表情の中にも呆れた様な色を浮かべて廊下へと視線を投げていた。おかしくて笑い出したはつみにチラと視線をやり、はっきりと深くため息をつきながら彼女から離れる。

そこへ、ズパンと襖をあけてついに寅之進がはつみを見つけた。微妙な距離感の二人を見て、この初心な男子が何を思ったかは分からない。だが後ろからひょっこり顔を覗かせた龍馬は、察して苦笑いを浮かべていた。

「あー、腹を割って話し合えたかの?」

無言ではつみの側へ行き二人の距離感を改めている寅之進に代わり、龍馬が頭をかきながらヘラヘラと取り持ってくる。乾は咳ばらいをし、
「ここで休んだら江戸へ戻るぞ」
と言って、適当な場所に座り込む。はつみも『しょうがないな』とばかりに笑って『問題はなかった』と言わんばかりにくつろぎ始めた。

寅之進と龍馬は顔を見合わせ、その後で龍馬は乾を見てチラと視線が合い、『やれやれ』と笑いながら、茶菓子を4人分注文するのだった。



茶屋へ入っていった二人を見つめ、更に、先ほど突然毅然とした威圧的な態度ではつみを攫い茶屋に入っていった乾とはつみを思うアレクサンダー。はつみの周りには、彼女を慕う男達が沢山いるという事を突き付けられ、先ほどまでの再会の喜びは少しだけほろ苦いものへと変貌していた。






※仮SS