1月、入京。容堂の思想は明らかに公武合体と言われるものであり、京へ入った狙いも、上辺には武市の根回しを受けた朝廷からの招集に応えた形ではあるものの、実際には容堂の意に反して行われる郷士達による政治的挙動を停止させる事に目的があった。
土佐藩内にて徐々に『攘夷派弾圧』の気運が高まりつつある中、乾もまた『尊王攘夷、一藩勤王』からの『一君万民』といった思想を胸に抱きつつも、武市らのそれとは見解がやや違うという事を確信していく。京朝廷にて大きな存在となったとはいえ、彼らの成している事は決して『一藩勤王』に基くものではない。これでは『藩』に対する大義が成っていない、つまり彼らはただ傍若無人の極みを京師で行っているという事になる。
現に、此度江戸を発つ際、乾は容堂公から一つの質問をされている。
「あやつらのやり口はまっこと無礼千万じゃ。暗殺で周囲を黙らせ、藩主を恐喝し、身分もわきまえず京師をわが物のように動かし江戸城をも闊歩しておる。退助よ、このような不届き者はどうすればええか?」
「―は。主君に仇なす不忠者にあれば、そやつらと戦って死ぬか、恥を飲んでそやつらに従うかの二つに御座います。」
「そなたならどうする」
「無論、戦って死のうと思います。」
「―はっはっは!そうさのお。さて、ではどうするか…」
このこの会話が示す通り、時世に対する主義主張や政治工作の前に、通すべき忠義があるはずなのだ。無論、帝から直接勅命が下ったのであれば話は別だが、此度の事にあたっては、自分達の主義主張を通す為に殺人まで犯している。今や土佐の藩政は、吉田東洋公暗殺の上、京坂における相次ぐ天誅の上に勢い付いた専横政治以外のなにものでもない。
未曽有の国難を眼前に、土佐藩は一枚岩どころか真っ二つに切り裂かれてしまっている。そしてその皺寄せが、容堂公が動き始めた今、ついに現れ始めていたのだ。
そしてもう一つ。江戸を発つ前の容堂公との談話において、乾の私事について問われる場面があった。
「して退助よ。そなた嫡男はどうなった?」
「―は。まだ…」
そう。乾は上士馬廻り格150石の当主であり、今年26才になる。今の正妻とは婚姻して
「なんじゃ、まだか?江戸に嫁を呼べばえいち言うたじゃろう」
「容堂様のお心も休まらぬそのお傍で夜伽などできませぬ」
「はーっ!はっはっは!ああ、ああ、それもそうじゃな。ふっふっふ」
乾の、ある意味『歯に衣着せぬ返し』を気に入ったのか、容堂は随分と機嫌が良さそうに笑っている。少しして笑いが収まると、何やら思い出そうと目を閉じ指先で頭をトントンと叩きながら、改めて乾に問うてきた。
「あー、あれはどうした。あの男装をしたはちきん娘は。」
直ぐに誰の事か察しがついた乾は、その不動の表情を動かす事すらなかったが思わず膝上に置いた手に力が入ってしまう。その矢先、扇越しの容堂の視線が鋭くその動きを認めた事も気付き、内心『一本取られた』と思いながらも更に『一本取られたからには、はぐらかすだけでは済まない』と腹をくくらざるを得なくなってしまう。静かに鼻から息を吐き、握った手を緩めてから、改めて容堂の質問に答えた。
「…桜川の事であれば、あれは子を成せぬ女子ゆえ。ご容赦を。」
「なんじゃ、随分と他人行儀だの。好いた女子であれば手元に置けばよかろう。」
容堂公は酒のみならず女への趣向も強く、妾を何人も侍らせ、かの大老阿部正弘公が亡くなった際にはその愛妾であったお鯉尾を自分の所へと呼び寄せたという強烈な話もある。とはいえその容堂も、乾がかつて2人もの生娘を嫁に迎えては離縁をし、3人目を娶る際には渦中の桜川を娶ろうと柄にもなく随分と励んだという話を東洋から雑談程度に聞いていた。だからこそ、容堂なりに「思い切って妾にしたらどうか」と背中を押す様な発言をしたのだろう。勿論、嫡男の話も家の事を考えれば大事な事ではあったが、話題の半分としては桜川の名を出す為の伏線にすぎないという訳だ。
「…畏れ入りますが、今は嫡男についての話に御座りましょう。であれば、子を成せぬ桜川を所望する理由は見当たりませぬ。」
そんな乾の返答に、容堂はわざとらしく大きなため息をつき、手にしていた扇をヒラヒラさせた。直ぐに閉じると畳の上にドンと突き立て、それを支えにして身を乗り出す。
「察しの良いそなたが、随分と遠回しじゃのお?退助。それとも、桜川の話であるからしてその様に頑なになっておるのか?」
主義主張は曲げぬがこの様な『猥談』において容堂公に詰められれば全く歯が立たないのは分かり切った事だった。天下泰平にまつわる話ではなく己の話であれば議論する余地もないと早々に諦めた乾は、目を伏せ
「…後者にあるやもしれませぬ」
と白状する。―とすれば、容堂はまたも満足そうに笑った。乾は黙りながらも内心でため息をついていたが、思わず桜川の話で頑なになってしまう心情を打ち明けただけで満足する様な人でもなかった。
「だっはっは!そうかそうか。まあその桜川の事じゃが、そなたの側におらんのであればいまだに武市の所におるのか?」
「…確かな情報は入っておりませぬ故断言はできかねますが、恐らくは。」
恐らくこれが、容堂公が真に話をしたかった事なのだろう。
「そうか…。では、そなたが桜川を連れてきよった時に、侍女にでも任じればよかったかの」
「…は?…と申されますと?」
容堂の言う意味が分からず、いや、その意図を推し量れず、乾は頭を下げながらも発言を促す様に尋ねた。
「不忠義者の側にあの才を侍らせておくか?おんしの妾にでもなっておれば、いざという時にも飛び火せずに済むであろう。」
「……」
「でなければ…枕元に侍らせて異国の事でも語らせれば、さぞ寝つきもようなるか」
「……容堂様、御戯れが過ぎまする」
腹の内を探らせない会話術に長けているというのは容堂公の強みの一つだったが、この様な場面で発揮されると大変にやりにくいものであった。結局は乾をからかう様な冗談のつもりだった様だが、一瞬、はつみを側女として迎える事に興味があるとでも言われている様に聞こえ、応答に戸惑ってしまった。とはいえ、容堂公からの助言の様なものも、今の会話には含まれていた事に気付いていたが。
「桜川への格別なるご配慮、私からも感謝申し上げまする。然るべき時に裁きの対象とならぬ様、出来る限り注視しておきまする。」
「―おう。いずれ、土佐の役に立つ時が来るかも知れんきの。」
そして最後の最後に、またも重い一言を残して容堂公は去っていったのである。
「ああ、嫡男の事じゃが。腕の確かな医者に良い娘がおるそうでな。土佐に帰った暁には会うてみるがよい。」
「―はっ…?」
「武士たるもの死をも恐れず大義を成す。頼もしいかぎりじゃが、おんしには家を継ぐ男子を成さねばならぬという義務もある事を忘れるな。」
―さて。
容堂公の小姓からこの度馬廻りへ格上げとなった真辺正精と共に一足先に明保野亭に入った乾は、芸妓を呼ぶ事もなく膳の前であぐらをかき、腕を組んでいた。何をどれから話せばよいのやら…と内心思案を巡らせている。
この真鍋は乾より11才も年下の、今年15才になる美少年だ。11才の頃より容堂公の小姓として仕えていたが、現在は馬廻り組領地68石の真鍋家当主として、江戸藩邸詰めにて長年の付き合いでもある乾と行動を共にしている。真鍋本人は乾と同じく勤王思想の強い傾向にあったが容堂公への忠誠心が厚く、恐らくは、容堂公から乾の目付け役も兼ねて出されていると思われる。ただ、個人的には乾を兄貴分として慕っている様だ。
明保野亭に現れたはつみは寅之進を従えていたが、真鍋と共に一旦席を外す事となった。そしてはつみ本人は、江戸で再会した時よりももっと深刻に表情を病み、明らかに輝きを失っていた。
乾→はつみと小松、薩摩の関係について質問。勝海舟との会談と龍馬の脱藩罪罷免について報告。
はつみ→弾圧の有無。摂津海防策に対する容堂の反応と攘夷派への感情、乾の立ち位置について質問。
乾は尊王の志を違えるつもりはないし土佐(容堂)は幕府擁護がすぎるとも意見するが、武市一派の天誅や朝廷、そして藩主に対し不躾すぎるやり方は到底『一藩勤王』とは言えず目に余ると言う。故に武市らと思念を共にするつもりは今の所はない。外国の事についてははつみの話を聞いてもいいと言う。
もう一つ、容堂公側は間崎らが青蓮院宮から無理矢理令旨を得た事を掴んでおり、はつみがこれに絡んでいない事を確認した。これについては容堂公が露骨に嫌悪を露わにしていた事もあり、今後の大きな火種になる事が予測された為だった。
終始、時勢にまつわる事務的な情報交換のみで会話は進み、それも終わってしまう。
乾から得た情報は、はつみを一層暗澹たらしめるものであったと察する。それもそのはず、武市の為にと好きでもない男に抱かれてまで容堂公との溝を深めようとしていたものが、一切功を成していない状況。寧ろ状況は完全に悪化していると言っていい。こうなるであろうことを早い段階から見抜いていた先見の明は素晴らしい才であると言えるが、彼女が変えようとしているものは到底彼女一人の力で動かせるものではなかったという事だ…。
つまり、はつみがどうしても阻止したかった武市半平太の『危機』が、目前に迫っているという事。
冒頭において『弾圧』についての質問をしてきたあたりで、そのような事が近々容堂公の手によって始まるのだろうという事も、とっくに察している様だった。
最後に…はつみと個人的な話がしたくて、乾は一問を切り出した。
「…俺と会うのは、やりにくいかえ。」
「ううん、大丈夫。…乾は?乾も立場的にはかなり厳しいんじゃない?私なんかと会って、大丈夫だった?」
「……おんしの気にする所ではない。こちらは問題ないき。」
…それが、はつみの強がりであり気丈に振舞おうと必死な姿である事に到底気付けない程、二人の心はあの江戸取引の日からすれ違ってしまっていた。
話そうと思っていた事も、今となっては『互いにはもう関係のない個人の事』に過ぎないと思い直す乾。何かあればまた連絡をよこせとだけ言って席を立つ彼を、はつみは遂にすがる様な視線で追いかけるのだが…悲しいかな、乾は己を奮い立たせる意味も含めて、はつみを振り返る事はなかった。
女であるはつみの方が、自分よりもよっぽど『割り切り』上手で男女の小事にも『大義』を左右される事無く見据えている。
何とも情けない話だ、これが本気で女に惚れた男の末路なのかと。背中の哀愁で語り掛けたとて、はつみに届くはずもなかった。
※仮SS