乾が吹井の武市生家を訪れ、以蔵との会談を希望する。緊張した面持ちで出て来た富に、乾は無言ながらも丁寧に礼をとり、武市の無念に対する意思を表明した。彼が城からやってきた何らかの使者ではなく一個人としてやってきたという話を信じた富は、乾を居間へと通す。
暫く待たされた後、現れたのは申し訳なさそうな富であった。以蔵はいるには居るのだが、どうしても奥の離れから出てこないのだと言う。
「どれ、俺が直接見てこようと思うが良いか?」
そう言う乾に勿論ですと頷く富は、奥の離れで武市の書物などを読んでいるという以蔵の元へと乾を案内した。
「俺は話すことなどなんちゃあない」
上士である乾を夏の炎天下に立たせたまま、静かな声色に断固とした決意を漲らせて返す以蔵。はらはらと乾の顔色を伺う富に『大丈夫だ』との視線を送った乾は、以蔵にしかと届く様声を張って更に話しかける。
「獄中でも何度か対面して以来じゃな。此度は詮議や取調べなどではない。一人の男としておんしに会いに来た」
じっと身動きせず壁ごしに乾の気配を察知し続けている以蔵は、武市が残していった本を手に考える。以蔵の生涯にとっては『上士』そのものが敵であったが、乾の事はそれ以外の何かを感じていた。武市と『勤王』の志を共にしていた事、これまではつみを何度も助けている事、はつみが信用していた男であるという事、…そして、はつみと寝た男であるという事…。
沈黙を破ったのは乾の方だった。
「先日土佐沖に異国の船がやってきた。今はもう去んだが、異国の者らぁと一緒に坂本やはつみらも一緒じゃった。」
音もなくハッと顔を挙げる以蔵。そして乾の後ろでは富もまた小さく反応を見せていた。
「はつみから、おんしと会いこれからの事を話す様頼まれた。おんしの剣はこれからの世の為に磨かれてきたもんじゃとあやつは信じておるぞ。それを無下にするちいうなら、俺は帰る。如何か。」
また暫く沈黙が続き、じりじりと焼け付く様な日差しと蝉の声が辺りを覆い尽くしていく。心配そうに待つ富とは裏腹に根気強く待つ乾の耳に、離れの中から何かがゴトッと動く音が聞こえた。そして引き戸がガタガタと動き出し、スッと開いた隙間から以蔵がその整った顔を覗かせる。富は安堵した表情を浮かべて胸をなでおろし、乾もフンと鼻で息をつきながら腕を組んで見せる。
「おう。ほいたらこっちで話すぜよ。奥方、構わんか?」
「はい、勿論で御座います。」
出てきても尚黙する以蔵であったが、乾を受け入れようとする余裕が見られた。改めて居間へ案内をする富に続き、乾と以蔵は歩き始めるのだった。
改めて富から茶が出される中、今日ははつみから以蔵の話を聞いた故に話をしにきたのだと単刀直入に言うと、以蔵の瞳に光が灯る様に変化が見て取れた。
―以蔵がここに留まる理由は何だと聞く。
武市の墓を守っているつもりだと返す以蔵。
―だが、見た所大小も持ち合わせていない。それでどうやって守るつもりなのだ?
大小については買い付ける金がない。しかし大小は無くてもいい。自分の剣は『活人剣』であるが故、そこの木刀で充分である。
『活人剣』。はつみが手紙の中で何度も言っていた、以蔵の剣の事だろう。その卓越した剣は守るべきものの為の剣であると。だが護身的な意味合いでもない『守り』を主体とする教えを施す武士など殆どいないと推測される。ということはやはり、彼の精神ははつみによって再構築された、新時代に向けこれからの世にあるべき武道の道とも言えるのだろう。刃の殺傷力に物を言わせず木刀で事足りるという覇気の在る答えも、乾の心に小気味よく響いた。
―『活人剣』とは何の事かと問う。
「はつみから言われた…。人を活かす為の剣、お国を守る為の剣じゃ」
「おんしはその剣をどう思う」
「俺は…はじめはようわからんかった。じゃが、江戸や京で色んなことがあって…学んだち思う。斬らねば守れんものもあるが、斬る事を目的としてはいかんちゅう事じゃ。」
「…その目的とはなんぞ」
「…目的は、守る事じゃ。守るために、必要なら斬る。守ったもんがお国に必要な御仁であったり…おんしにとって大切な者である場合もあるじゃろう…」
以蔵の愁いを帯びた深い瞳が乾の心を暴く様に見据えてくる。二人の間には、はつみの姿が共有される様に思い描かれていた。
以蔵の想いを汲み取り、先日のはつみからの手紙に書かれていた『他の人が成し得ない様な変化をその人生に見出し、今、生きています。』という一節の意味を垣間見た気がした。そして明らかに思うのは、乾が大目付として対応した獄中取調べの時にはなかった熱が、そこには籠っているという事だ。そして、彼が獄中で放った言葉や拷問に耐える精神力は、決して偽りや虚勢で成されたものではなかったと。はっきりと分かった。
「ちっくとおんしの剣を受けてみたい。外で手合わせんか」
「……ええですが、怪我せんで下さいよ…面倒じゃき…」
(以蔵さん…!)
無礼な物言いに心の中で悲鳴を上げる富を尻目に、乾は気にする様子もなく足袋を脱ぎ捨て、刀の下げ緒を肩回りで八掛けに結びつける。そして中庭に飛び降りると、その後にのっそりと立ち上がった以蔵も続いた。
乾が以蔵らと共に解放した土佐勤王党の面々は今も城下で活動を続けており、その内何名かは、獄中での以蔵の有様から成長を感じ取りちょっとした話題になっていた様だ。彼を再び勧誘せしめんと何人もの同志が送られてきたが、誰も以蔵を説得できなかったと聞いている。
「おんし、島村らあの誘いも断ったがじゃろう。あやつらもおまんの剣を望んじょったがか」
「……しらん。武市先生の弔いじゃ、大義じゃち言いよったが…俺はここで武市先生の墓を守るんが弔いじゃと言うたら、帰っていったき」
なるほど、確かに「国を守る為の剣」と言う程物事を大きくは見ていないのかもしれないが、さっきの活人剣に関する話と言い、彼は彼の目線で見えるものを深く真っすぐに、そして正しく捉えている様に思われた。島村ら勤王党員から以蔵の勧誘に失敗しているという報告を受けている間は彼らに一任させるつもりでいたが、はつみに推される形となったとはいえここに来た事は大いに正解であった、以蔵こそ自分が好む人材である事を確信する。
「ええ答えじゃ。ほいたら、かかってこい。遠慮はするな」
皆が一度は迎えに行こうとするその腕前を見せて見ろと素手で構えを取る乾。
以蔵はそこらにあった木の枝を掴み、気構える事無く下に垂らして立っていたが、乾が素手で来いというのを聞いて少し意外そうに、その陰鬱な眉を挙げて見せた。
「…はあ……けんど乾さん、得物は」
「いらん。」
身分の差は大きくあれど、乾と以蔵は1つしか違わない。体力面の差も年齢を考慮する程の差はないだろうし、何より乾は剣もさながら柔術においても達人と言われており、多少は腕に覚えありであった。
フーと息をついた以蔵は枝を持ち上げ、構えを取る。居合いかと察した乾との間で一瞬の無音の隙間に張りつめた空気が一気にはじけるが如く、凄まじい速さで以蔵が突っ込んできた。
「ーっ!!!」
刀の様に空気をも切り裂く形状ではなくあからさまに無骨で均等でもない太柄だは、抜き出されたその速さと遠心力、空気との摩擦で大きくし鳴りながらブウンと乾へと襲い掛かる。避けなければ本当に叩きつけられる様な間合いで乾は身を翻し、その軽快な足さばきで深く踏み込み以蔵の腕を叩こうとしたが、直ぐに払われてしまった。二人はまた間合いを取り、次は乾から踏み込んでいく。剣の間合いではなくとにかく軽く動き回る乾に流石の以蔵も手をこまねいていたが、次第に場の主導権は以蔵へと移っていくかの様に思われた。何度組み直しても以蔵には攻撃を1つも当てる事はできなかった。それでいて毎回、喉元に木刀を突き付けられる訳である。
「…ちっ…まだやるかえ」
真夏の太陽に照らされながら大汗かいて息が上がる中、呆れた様に以蔵が言い放った瞬間、好き有りとばかりに乾の足払いが綺麗に入っていった。乱取り中という事もあって集中を切らしていた所に思い切り充てられた以蔵はついにその場に崩れ、油断したとはいえ思いもしなかった負け方に唖然とした表情を浮かべた。
乾は汗で張り付く前髪をかき上げて姿勢よく正し、フウッと息をついて以蔵へと視線をやった。
「油断したのお。俺は諦めの悪い男じゃき」
だがこの勝利はほんの偶然だという事は乾自身が良く分かっていた。以蔵は、間違いなく武市の穢れなき懐刀と言って過言ではない。皆が彼の剣を求めるのも納得の圧倒的な強さだった。そして、一歩間違えば恐ろしい殺人犯とも成り得る強烈な強さだと。
無言のまま座り込んでいる以蔵に一歩近づいた乾は、躊躇うことなく手を差し出した。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんのその剣で、土佐を、この国を守れ」
「………」
乱取りをするまでは物憂げだった以蔵の瞳が、汗を流し顔に土を付けてこちらを見やる乾の顔を写し込む。
上士に虐げられ続けた自分が、上士から手を差し伸ばされている。
武市が言っていた『一藩勤王』『上下一体』。それはあの時はまだ上辺だけのものであったが、今度こそそれが成るのか?
この乾という上士のもとで、あらゆる事が『変わっていく』のか?
―だが…と、奥で心配そうに此方の様子を気にかけている富へと視線を送る。それに気付いた乾は更にこう申し出た。
「さしあたっては給金も出る。当然、おんしの自由にしてええ金じゃ」
以蔵が大小を持ち合わせていない理由の一つに、武市の墓守をしながら合間を見て出稼ぎで稼いだ金を、殆どこの武市家へ仕送っているという報告も受けていた。みなまで言わずとも『それも立派な理由だ、恥じることなどない』と平然と真っすぐに言う乾に、以蔵はようやく首を縦に振る。
「…わかった。あんたの言う通りにする。」
「俺の言う通りにせんでええ。ただ組織の中で、自分で考え、その剣を活かせ。」
「…難しい事を言う。」
乾、早速以蔵に城下へ来る様要請。
まる富に対し、武市の墓には『すべてのカタがついてから、改めて参る』として去っていった。
※仮SS