1月下旬。容堂が京に入った事を受け藩主豊範はそうそうに土佐へ帰藩する事となる。この4月に土佐勤王派が藩政を掌握した当初から藩主の側近へと取り立てられていた谷干城に会った乾は、『佐幕派の上士たちの間の中で武市を斬るといった話がある』という藩主近辺における話を聞いていた。
一方で、容堂の動きを警戒し、かつ強硬な佐幕派として容堂を補佐する上士らを疎む声が下士勤王派から多く聞こえており、その中には、容堂により江戸留守居役に抜擢されその側用人も務める乾をも斬ろうとの声があると言う。乾は、容堂に直接仕える上士の中では異彩を放つ程の『れっきとした勤王派』であるが、その様に見境なく『天誅』を見舞おうとする血気盛んなだけの者も多くいる様だ。それ自体は今に始まった事ではなく、乾も自分の命が惜しい訳ではなかったが、不意に言葉を断ってしまったのははつみの安否を思案しての事だった。
「して乾君。おんしはあの開国女をどう思うぜよ」
乾の思考を読んだわけではなかろうが、谷が改まった様子で声をかける。
。
「…なぜ」
ぶっきらぼうに一言だけで返す乾に怯む事なく、谷は続ける。
かの吉田東洋が目をかけていた桜川はつみという『いわくつきの娘』が、去年の秋、江戸にて容堂公のお目見えとなったと聞くに及んだ。そして、その背後には他でもない乾の動きがあったと。郷士たちに乾が狙われているのはその噂を聞きつけた所以でもあるのではと言うのだ。
「あれが今まで首を斬られずにおれたがは、武市が直々に『内政への野心は到底見られん』ち言うてあれを擁護しておったからじゃ。じゃが今、容堂公の御目見えになるとは…これは立派な内政干渉じゃろう。放っておいてもえいがかよ?」
どうやら谷は『はつみを斬りたい派』の人間である事を乾は察する。だが乾も引き下がる事は無かった。また、この様な輩ははつみの『尽力』を知らずに平然と『内政干渉』などと言う。
「容堂公の御目見えになったとてそこで公が何を話されたかおんしらは知っちょるがか。」
表情の不動を通り越してもはや坐った視線を突き付けてくる乾に、谷は『いや…』と返答をした後、閉口した。
「到底幕政改革や朝廷工作に及ぶ話題などは皆無であったし武市の『た』の字すらも出なんだ。ただ異国事とジョン万次郎の事を話し、公からは万次郎が描いた英会話の手習い本が贈呈された。それだけじゃ。ウワだけの尊王攘夷論者は蘭学者も含め異国の話をする者は片っ端から『開国論者』じゃち決めつけ、今おまんが言うた様に首を斬って天誅とするがか?天誅と言うからには帝がそれを望んでおられるちと思っての事なんじゃろうが、その帝は異国との和親条約自体はお認めになられ、懸念されておられるのは無能の幕府がニ度目の無勅許にて取りつけた修好通商条約の内容についてじゃ。おんしらの言う天誅と帝のご意思はまるで疎通しておらぬよな。」
乾も谷も生粋の尊王攘夷論者であったが、谷は殆ど異国の事に詳しくない状態のまま、この怒涛の時勢を藩主の側で過ごしていた様だ。かたや乾は桜川はつみというもっとも浮世めいたものと出会い、深く交流し、その末に横濱にまで足を運ぶなどとして、自然と目を開き、聞こえにくい耳を傾け、そして見聞を広げていった。若い頃の喧嘩っ早さは大人の理性によって抑えられたものの、真正面からの論武装で相手を圧倒する頭の回転とその歯に衣着せぬ物言いこそが、例え思想がちがえど容堂公に愛され将来を期待される逸材たる所以なのだ。
「…それを俺に問うちゅうことは、おまんは俺らが天誅をしたち言うがか。」
圧倒される谷であったが、それでも毅然とした姿勢で乾へと返す。今の問いには谷にとっては状況を見極める『賭け』の一つであったが、どうやら心当たりのない乾はそのまま再び激論を浴びせて来た。
「今『首を斬る』などと言うたのはそもそもおんしの方じゃろう。ええか、あやつは実際開国論者ではあるが、あれを斬ろうとする者らの中であれの話をよく聞いた者はおんしを含めいかほどおるぜよ。おんしら土佐勤王派を牽引する武市があれを匿っておるのは、武市もまたあやつの話を聞き納得しちょるからに外ならん。あれの話を聞くに、一言目には必ず『帝ありきの日本』と言い、幕府の無能を断罪できぬのであれば幕府に代わる然るべき組織にて確固たる知識を以て富国強兵と成し異国に対峙するべしと明言する生粋の尊王論者ぞ。殊に一君万民の思想はそこらの勤王派よりもよほど明確な絵図を以てその精神に根付いておる。それをおんしらは斬ろうち言う。『おんし』がそうでのうても、京におるおんしの同志がはつみに何を言い、何をしたかを知らぬ訳ではあるまい。流行り言葉に乗っかり気に入らぬ小物を斬るだけの馬鹿ばかりで、俺らの様に一見土佐勤王派と言えどまったくもって一枚岩にも『一藩勤王』にもならん事こそ遺憾に思うが如何か。」
大局を見て正論を突き付け正義を説くのは、乾が若くして地元喧嘩組の総長へと押し上げられる程人心を得た理由の最もたる所である。他の地域で同じく総長に就いていた谷は、乾という男の真骨頂を目の当たりにして内心嬉しくも頼もしくも思う一方で、二心がある自分の内心について乾は『知らない』のだと確信していた。
東洋が暗殺されたあの日、桜川はつみを急襲したのは他でもない自分であるという事を。
『俺らが天誅をしたというのか』この話題を以ても桜川襲撃について詰めて来られないという事は、その犯人にが谷であると疑いすらもしていないという事だ。谷はあの行動を公開した訳ではなかったし、今でも桜川の様な『周囲に影響を与える』開国論者は消しこそすれ必要ないと考えている。『今生かぐや姫』などと言われ男を誑かしてゆく浮世の女であれば尚更の事であると。
「なるほど、ようわかったき。おんしの言う事も確かに一理ある」
悟られれば厄介である事は事実だが、そうでなければ『やりようは』いくらでもある。『大義』の為であれば成す事を成す。その剛毅さだけをみれば、谷と乾は同類とも言える同志であったはずだった。
とはいえ、実際乾の言う事にも道理を感じてはいる。谷の考えでは開国論自体が好まぬ所ではあったが、かといって今の土佐が『一藩勤王』と言うにはほど遠い現状にあるとするその危機感は、時勢や藩政を見渡す者であれば懸念すべき第1項である。京在中の『勤王派』へは容堂公自らが対峙しているという今の状況では、薩摩の同胞が討ち合った寺田屋事件がいつ起こっても決しておかしくはない程の緊張感が張りつめているだろう。…そうさせない為に勤王派の面々は更なる朝廷工作を行っているが、これも極めて、非常に危険な橋渡りである事を谷も心得ていた。自分は藩主の側近として仕えてはいるが、この夏上洛途中の大坂でひと月も行列が停滞していた時の事を今でも思い出す。この土佐藩は藩主を動かしても尚一藩勤王となる事はできない。ご隠居たる容堂公を説いてこそ、藩の命運が決まるのだという事を。
容堂公と桜川の会見を実現させたという乾が言いたいのは、恐らく桜川はつみという存在こそが、藩内における尊王攘夷派の武市と公武合体・佐幕派の容堂公の橋渡し的存在にもなりうるという所なのだろうが…。
乾と同じぐらい無骨な谷には、まだ乾の見ているものが見えていなかった。理解しようとも思っていなかった。そしてその思考は、在京の武市率いる尊王攘夷派、つまり土佐勤王党員のほとんどに共通するものであった。
「互いに命捨てる覚悟の上、一藩勤王の道を参ろう。」
「いわずもがな。俺は俺のやるべきことをやる。」
「乾君らしい」
会話だけを見れば、二人の見る方向は同じ様にも見えるが。
かくして、谷干城は藩主山内豊範に付いて土佐へと帰っていった。
―その矢先、乾と谷が話していた懸念の一つが早速実行に移される事となった。隠居にして土佐の絶大な精神的支柱である山内容堂が、河原町藩邸に土佐軽格15名らを呼び出し、身分も省みず朝廷に対する行き過ぎた工作を行う事を良しとしない大叱責を行ったのだ。これには土佐勤王派の『徒党の如き』『勝手極まる』政治斡旋をやめさせる目的もあってこその、類を見ない直接の大叱責だった訳である。
…だが、『自分は上士だから大丈夫』だとでも思ったのか、武市の右腕とも言える平井収二郎という上士は容堂大叱責の直後であるにも関わらず公卿衆らと会って政治工作など行い、これが露見する事となる。いよいよ容堂の怒りを買う事態となってしまった。
容堂が怒っている理由は直近に起こった事件にもある。容堂の友人である池内大学が、容堂と時事談議に及んだその帰りに斬り殺された。そして容堂が軽格15人を召しだして大叱責を行ったその日にも、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇が斬られている。両者とも『天誅』であり、恐らく土佐の尊王攘夷派の仕業であろうとの噂が一気に広がっていたのだ。
『自分が上洛すれば土佐の過激派を必ず押さえる事ができるだろう』
江戸を出る際、幕府関係者や薩摩要人らにそう言い切って上洛した容堂は顔に糞泥を塗られたようなものでもある。それ以上に、吉田東洋の遭難を彷彿とさせる殺人の横行は何を以てしても耐え難い痛恨の極みであろう。だからこそ、土佐尊王攘夷派は恐れられた。
一藩勤王どころか、土佐内勤王派と佐幕公武合体派の溝は完全に分かたれた。
藩主を、そして藩の精神的支柱である容堂さえも必要としないと言わんばかりに過激な工作を繰り返す勤王派の一味に対し、賢公と謳われた容堂自身が、その腰を上げ立ち塞がろうとしている。
土佐藩内における『内部分裂』…つまり、土佐勤王派への『弾圧』が始まろうとしていた。
※仮SS