8月。別撰隊に加入し、ひとまずは圧倒的強さを以て歩兵伍長となった以蔵。髪を切り、皆から歓迎され、自分の存在意義を初めて見出しているかの日々を送っている。
乾は、あの激動の文久年を武市の懐刀でありながらはつみと共にあり続けた以蔵の精神をさらに見極めようとしていた。
何より獄中拷問にあっても何も漏らさなかった心根の強さについては是非もない。あとは武士としての物の考え方がどれだけ芽吹くかなど課題はある様に思えたが、次第によっては更に取り立てるつもりでいた。学識に乏しく武に突き抜ける以蔵が若く無鉄砲だった頃の自分に似ているとも見えた。彼は自分よりもたった一年だけ年下なだけであったが、自分が若い頃に読みふけって深く影響を受けた孫子の書を以蔵に与え、読み込む様、個人的に指導する。
そんな乾に対し以蔵は、流石に220石もの大身である彼がここまで良くしてくれるその心情を汲み、興味のない孫子も素直に手にする。だが、一つ気にかかっている事があった。ある日、以蔵は珍しくも自分から声をかけ、乾にその事を打ち明ける。
文久2年秋、勅使東下に随行して江戸に赴いていた以蔵は、はつみが何らかの理由で上士である乾と一線超えた事を察し、衝動的にはつみに手を出した事がある…と。
「…手を出した、とは、乱暴を働いたということか」
俄かに燻る気配を得てまっすぐに突き抜けてくる乾の視線を、以蔵は怯えた様子もなく受け止めたまま、ぼそりと返す。
「…わかりやすう言うたら、手籠めにしたちいうことですき」
「……ほぉ……まあええ、おんしの話を全部聞いてからじゃ。」
腕を組む乾に促され、しかし以蔵な何ら気負ったり怯える様子もないまま、話を続けた。
まず、あの頃の以蔵にとって上士はその存在自体が嫌悪の対象であったと。時世は土佐勤王党が望む流れとなっていったが、自分はただただ護衛の日々で、はつみを守る事に異論はないが一方で武市の役には立てているのだろうか、蚊帳の外に置かれているのではないかという自己肯定感の低さから鬱憤もたまっていた。そこへ来てはつみと上士・乾が何らかの理由で『通じた』と察し、それまで積み重ねてきた諸々の何かが一気に崩れ去り、常に無に近かった感情が自制が効かない程に沸き上がり、剥き出しとなり、噴き出た。
『上士が良くて何故俺はだめなのか』
と歯止めが効かなくなってしまったのだった。事後、自分の下で衣服を乱し涙しているはつみと、強く握り過ぎた腕やがむしゃらに吸い付きむさぼり過ぎた胸元のあちこちが赤くあざとなっているのを見て、逃げ出した。はつみに抱いていた良く分からない感情が『恋』だったという事にその時気が付いた。以降、仲間たちからの疎外感だけでなく武市に対しても顔向けできない上、はつみの傍で護衛するという居場所すら失ったと思い込み、そのまま出奔する形となった。その後、土佐藩に囚われてからは知っての通りであると。
―以蔵の話にはまだ続きがあると見抜き、沈黙を貫く乾。以蔵は彼に訪ねる。文久2年の秋、武市の為に一身を投げ打っていたはずのはつみと何があったのか、否、何をしたのか…自分が察した事は事実であったのかと。そしてその後はつみとはどうなったのか、はつみが本当に辛い時に乾は何をやっていたのだ、武市の事はどうにもならなかったのかと。
時世への興味や理解は回天する志士らには及ばず、そもそも興味も示さない以蔵ではあったが、彼もまた考える事は当然あったのだ。その生い立ちから考える事をやめ学ぶ事もやめたという経緯もあるだろうが、寡黙ながらも切り出す言葉は常に要点を捕らえ、着眼点は鋭い。元来地頭は効くのかも知れない。乾もまた常から堂々としているという意味では不動の心を持つ人物であったが、これには少々驚いた様子を見せつつ、嘘偽りなく江戸取引以降の実態について明らかに聞かせた。
はつみは武市をあの結末から救うため、たった一人誰よりも早くから行動を起こしていた。江戸で容堂公への謁見を取り計らうよう自分に願い出たが、それが例え容堂公の覚えめでたい乾の立場を以てしても容易にできる事ではない事をはつみも重々承知しており、条件取引を持ち出してきた事。乾はその取引を受け入れ、容堂公への謁見を実現させ、取引の対価としてとしてはつみを抱いた。…だがその後は特に何もない。元治元年に土佐へ帰ってきた時に拘束されかけていたはつみを助けてやって以来、最近までは文の一つも交換していなかったと。その2,3年ごしに送ってきた手紙が、先日の須崎湾英軍艦投錨事件に届けられたものである。そこには自分の事などよりも『以蔵の事を見ていてほしい』と散々に書かれていてうんざりしたが……と、あきれた様に短く鼻で笑い、以蔵の視線に気付いてすぐに表情を戻す乾。
「…あとは、おんしの知っちゅうとおりぜよ。」
と、以蔵の言葉を使って返した。
以蔵は理解を示し、腹を割って話してくれた事が全て真実であろうと納得できた事に一つ頷く。
そして、上士であるはずの乾を、武市と同じ様に一人の人間として信じる事にした。武市が目指しよく口にしていた『上下一体』という言葉が、初めて以蔵の意識の奥底から成立する。だが乾からはまるで『返す刃』の如くはつみについての感情をつつかれる以蔵、結局、当時の様子も含め打ち明けざるを得なかった。この時、京にいる女性(道)との間に子がいる事も打ち明ける。
「おまん…京に妻子がおったがか。孕ませたか」
「まあ、そういうことですき」
「おんし…フハハ…はつみもこの事は知っちょるがか」
「…知っちょるも何も、女が産気付いた時、大八車引っ張って産婆を連れてきたがはあやつですき」
「大八車じゃと?どういう状況ぜよ?」
これはこれで男子特有の盛り上がりを見せたのだった。普段は不動の乾の顔も、思わぬ話に心なしかいまばかりはとほころびを見せているかの様であった。しばらくこの話が続いた後、乾は腕を組み、はつみについてまだ諦めてはいないと言い放つ。
「おんしは一度あやつを抱いて満足したがか。」
「ようわからん。慕情は抱いておったと思うが、いつの間にかそれ以外のもんに成り代わっちゅう…。何か特別な事をされた訳ではないけんど、なんとのう、あやつは俺の…俺の剣の道を示してくれた、恩人じゃち…そう思っちょりますき…」
「…そうかえ。手紙ではおまんの事をしきりに気にしちょったが、それでもか。」
「……乾さんはまだあやつを諦めちょらんちいうことですか」
「…まあな。」
乾の真っ向な返答を受け、以蔵は「諦めの悪いやつ」と呆れながらも、一本気で諦めの悪い乾だからこそ『今』があるのだとも分かっていた。
※仮SS