9月下旬、海援隊がライフル3000丁を伴って土佐に到着した。脱藩罪を赦された坂本龍馬およびはつみらも此度は上陸し、坂本家や武市家などに顔を出していると聞く。殊更驚かされたのは、長崎にてはつみが外交の手腕を発揮し、再びの事件勃発を阻止しただけでなくイカルス号事件をも解決に導いた事についてであった。
ある日、乾のもとへ坂本龍馬が現れる。
容堂公をはじめ、藩論が『武力を伴わない大政奉還案』となっている。いまや土佐勤王派の首魁とも言える存在感を発揮している乾は、参政という強力な立場にありながらも、時世の舵取りを行う藩政からは遠ざけられている節があった。日々の仕事をして過ごしていたが、長崎にてほぼはつみと行動を共にした佐々木三四郎からの報せにより、彼女が主体となってイカルス号事件を解決、英国との外交問題を極めて友好的にまとめたと知る。江戸留守居役の頃にはつみと横濱へ行き、『時務を識る者は俊傑に在り』と感じたが…言葉通りに才を開花させたはつみに、誇らしささえ感じた。
そんなある日、坂本龍馬が一人で乾のもとへとやってきた。後藤とはつみの事で、相談があると言う。後藤と龍馬…といえば、乾にとっては『大政奉還』『船中八策』が連想される。てっきり時世についての話かと思い、龍馬に対峙していた。
「おんしと後藤は大政奉還案を練って勤王派をひっくり返したじゃろう。俺に何の用があるぜよ。」
「はあ、いやいや。今は、はつみさんの件で伺ったとこですき」
「……はつみがどうした。」
乾がはつみに骨抜きであるというのは、彼と一番初めに『共同作業』をした安政6年のころから分かり切った事であった。二人の間で何があったのか、詳しくは聞いていない。だが共に横濱見学に行った時の事や、土佐からの脱出を己の保身もなく手助けした事、はつみの願いを聞き入れて以蔵を取り立ててくれた事、そして今も、政策で真っ向から対立する自分の話を頭ごなしにはねのけるのではなく『はつみの為に』会話を試みてくれる事…。やはり彼は、大義においては私心を持ち合わせていない様に、物事の分別があり、私事は私事として割り切る事のできる人物であった。
そう期待はしていても実際は内心緊張をしていた龍馬は、安堵した様子ではつみの事を話し始めた。
龍馬の話曰はく、今回のイカルス号事件解決に際し、最終合意の会合が長崎で行われる運びとなったのだが、卓越した英会話力とグローバル思想に富み、事件解決の一翼を担ったがはつみこそが土佐側の通訳官として相応しいのではないかと指名があった。女性を公的な職として採用するなどまったくもって異例な事であるが、彼女の実力については亡き吉田東洋の折り紙付きである事はすでに周知のとおりであり、英国公使館とも友好的な人脈を持つ彼女を添えておくことは間違いなく『心強い』以外のなにものでもなかった。
だが、はつみはこれを頑なに辞退しているのだと。
「……後藤か。容堂公か。」
ここまで話を聞いて、率直に二名の名を挙げる乾。龍馬は頭を掻きながら『ちゃちゃちゃ』と苦笑し、
「…流石乾さんじゃ。ようわかっちゅう。」
と頷いて見せた。
武市や土佐勤王党弾圧の一件以来、はつみは後藤を信用しきれずにいた。いや、正確には信頼云々ではなく、武市に与えられた罪状にまったくもって納得がいかず、その怒りが遺恨という形で後藤、そして容堂公へと向いている。海援隊や土佐商会の仕事に差支えはなく、イカルス号事件の解明にも積極的に協力してくれたが、後藤とは直接関わろうとしない。小松に仲介を申し出てグラバー商会で海外貿易などを独自に学び出したのも、もしかしたらそういった感情が少なからずあったからなのかも知れない…と、龍馬はつづけた。
―土佐勤王党を弾圧・処刑する為に、土佐藩が、つまり容堂公があらゆる強引さと執着を以て挑んできたのは、武市が処刑された直後に異例中の異例とも言える『論功行賞』などというものが大々的に行われた事からも明白である。更にはその前後において、吉田東洋の義理甥であり吉田を亡き父に代わる育ての親ともする後藤が、特に嫌疑などもなく大目付の職を解任されたり再任されたりとしていたのも、東洋暗殺の件に詮議が絡み、何かしらの考慮が後藤に成されていた事は間違いないと、乾も考える。…ましてや、はつみはまるで武市の運命がこうなる事を知っていたかの様に、文久年から慶応にかけて飛びぬけた行動が…まさに命を懸けているといってもいい、無謀とも言える行動が目立っていた。
そこまで思い入れて行動をしていたはつみが、かの『論功行賞』までして『祝杯』をあげる土佐の面々に何も確執を感じないという方が無理な話ではあるのだが―。その私怨は想像以上に深いものの様だ。武市への愛が深かった分、それも深くなっていったのだろう。
しかし、かたや龍馬は、海援隊や土佐との間に過去の遺恨を持ち込む気はないとこの場ではっきりと言葉に示した。後藤と同じく土佐上士であり、武市投獄時に大監察役も請け負っていた乾が、もしはつみを説得できる様な詳しい事情を開示できるのならそうして欲しいと。
「はつみさんは聡明すぎる程に聡明なおなごじゃ。かわいそうじゃち言うて、話題を避けてねんごろにするっちゅうんは逆効果やき。」
獄中闘争で何があったのかを少しでも明らかにしてやる事が、はつみを真の意味で解放してやれるのだと。乾もその事には同意を示しながらも、己を過信することなく懸念点を返した。
「じゃが俺は途中で罷免された身じゃ。処刑の判断どころか、詮議ですら俺の思うようにはできなんだ。あやつに言ってやれることは何もないぜよ。」
―それも確かな事である。もし何か知っている事があれば話してやってほしいと言うのは理想であって、そこに望みはないと言われてもまだ、龍馬が乾にはつみの事を託そうとする確固たる理由は存在していた。
―それを言おうとして、膝の上に置いた手に思わず力が入る事は想定していなかったが。
「…それでも、乾さんははつみさんにとって特別な土佐上士の一人ですき…。いや、ひとりの友として、行動を共にしちゅう訳でもないのにこがあに信頼を得ちゅう男は、他におらんがです。」
「……なぜおんしにそがなことがわかる。」
「誰よりも長く、はつみさんを見守っちゅうき…。それに、乾さんとはつみさんの間には、わしらあには知らんような絆があるがじゃろう。」
いつもニヤニヤとたたえている龍馬の笑みがフッと色を潜ませ、一見穏やかそうなその瞳の奥に鋭く射貫いてくる様な光を感じさせた。
「…その絆が何なのかまでは分からん。けんど、乾さん本人がそれを感じてないんであれば、わしの思い過ごしじゃったか」
「………フー……。」
龍馬の意を汲んだ乾はこれを引き受ける。
「…わかった。じゃが、どうなっても知らぬぞ」
元治の年、はつみを土佐から逃した時に放った言葉、そしてその想いを、乾はずっと忘れてはいない。壊れた関係の中で何年も抱き続けてきた想いを彼女にぶつけられる機会があれば、『どうなっても知らぬ』という意味だ。そして、敢えてそのような私情を龍馬に伝えたのにも意味がある。…龍馬のはつみに対する感情は『保護者』のそれを気負っている様に見せかけているが、そうではない事を見抜いたからだ。
「おまんはまっことそれでえいがか。」
感情の浮き沈みはなくとも芯を食った様な真っすぐな物言いは、いつも本心をはぐらかす龍馬の胸にも刺さる。
「…まあ、乾さんがどこまでも正直な御仁やき、ふぇあ~であるべきじゃち思うから言うがの…。わしももう、保護者としてはつみさんを見ちょらん。…けんど…わしはきっと、近ぉおりすぎた。」
脱藩をすると決めたあの頃から、一緒に来ないかと告げたあの時から、自分の想いには気が付いていた。だが、彼女の心には武市がいる事もとっくの前から気付いていた。抱いていた愛情は『誰かが彼女を守らなければならない』という使命感に燃え、ずっと保護者面をして彼女の側に在り続けたが……。今年の春に起きたいろは丸事件のころから、一線を保てなくなる瞬間が確実に増えていた。もう抑えられないのだろうと自分でも思う。だが、自分はもう、彼女にとって『男』ではなく『身内』であり『仲間』なのだと想うと…臆病な、本当の自分が全ての想いを堰き止める。
今、はつみが囚われているのは、その才に関わる事でも政治や派閥に関わる事でもない。
愛する男を『殺された』という、私怨だ。
その気持ちを打破するには、理屈ではどうにもならない。政治の事を考えて政治の事でぶつかり合うのなら、政治の為に説得する事はできるだろう。だが彼女がこれまで地道にその才を伸ばし、あらゆる危険や痛みを乗り越えながら東西奔走していたのは、全部愛する男の為だった。そこに政治の観点でいくらものを言った所で彼女には響かないのだと龍馬は考えるのだ。その『男としての言葉』を、はつみの守護者たる自分には発する資格が無いとも…。
「…おんしの言いたい事はなんとのう分かった。…意外と『臆病』な事もな。」
「…わしの事はええですき。」
大概の「武士」であれば、こう発破をかけられれば激高し、本音と共にやる気をだすものだ。あの中岡慎太郎もそうだった。だが龍馬は、はつみの周囲にいる男共というのはそういう意味では実にやりにくい。今も最後の警告のつもりだったがのらりくらりとかわされ、乾自身もしからばと割り切るに至る。
「わかった。明日の昼、華月楼に呼べ」
それだけ言って、乾は颯爽と部屋から立ち去ってしまった。残された龍馬も、彼が最後まで龍馬の気持ちを汲み、男として問いかけてくれていた事に気付いてはいたが…いまだ乗り越えられない自分の古傷にもどかしさを感じてしまう。
華月楼は、はつみがまだ坂本家の居候であった頃に乾が初めて呼び出した際に利用した料亭だ。あの時は、すんでの所で自分達が飛び込み『事』なきを得たが……今回はむしろ、邪魔をされるようなことがあってはならない。特に寅之進や陸奥が、はつみの為にと乗り込んでいくような事がないようにしなければ…。
はつみと、乾の逢瀬のために……。
乾を受け入れるかどうかははつみ次第だが。―もしはつみが乾の言葉やその先の挙動を受け入れる事で心に変化が訪れ、土佐と和解をし、世界へ咲き誇る日本の桜となれるのなら…と、乾に託すのだった。
※仮SS