仮SS:他人行儀


 容堂公と乾ら大坂に入った1月22日。乾は岡田以蔵へと使者を送り、彼からはつみの所在地を確認したところで『25日に明保野亭にて待つ』との文を送っていた。

 だが、昨年の梅屋敷事件や青蓮院宮令旨問題に続き、またも大きな事件が土佐藩…いや、容堂公らの精神を揺るがす。容堂公が大阪に入り、土佐郷士達への三カ条布告と大叱責を行ったその日、池内大学という旧知の仲である時世を語りあかしていた池内大学が、帰宅途中である深夜、何者かに殺されたのだ。下手人は不明であったが、容堂は土佐軽士らの仕業と察知し、激しく激怒する。

 更に深刻な事に、先日容堂が下士達の政治周旋工作などを全面的に禁止し大叱責を飛ばしたばかりだというのに、過激勤王派に組する上士・平井収二郎が凝りもせず京師達の間を駆け巡り、火に油を注ぐ行為を続けていた。

 こういった大問題を多く抱え込んだまま、容堂らは京・河原町藩邸へと移動する。その最中のこと、乾は来る約束の25日の件は見送るべきかとも考えていた。しかしこれまでの容堂公との会話からはつみの才や立ち位置については容堂公自らが気にかけている点でもあった事を踏まえ、一度容堂公の耳に入れてから数刻の暇を許可してもらうべく、正面から打ち明ける事にした。容堂公への報告には、はつみが東洋暗殺時の殆どまったく同じ時間帯に何者かに襲撃され、岡田以蔵によってその一命がとりとめられていた事、そして年の秋、武市の寓居内にて袋に入れられ刻まれたねずみが、はつみの寝室前に投げ込まれていた事などを報告した。
 とくに後者の袋の鼠事件については、先日遭難した池内大学の遺体が切り刻まれ、要職に就く公卿らの元に投げ込まれ辞職に追い込むという手口とそっくりであるとの推測を添えて。

「…きな臭い話がどんどん舞い込んできておるのお。あれの様子を確かめて参れ。」

「―はっ。」




25日。明保野亭に桜川はつみは現れた。

膳を前に胡坐をかいて待っていた乾であるが、酒は飲まず、茶を所望していた。外から真辺の声がかかり、「かまわん、入れ」と返すとスッと乾いた音を立てて襖が開く。

「…あ、久しぶり、乾」

 現れたはつみは相変わらずスラリとした男装をしながらも麗しい顔立ちをしていたが、心なしかその力ない笑顔には影が色濃く落ちて見える。今日もまた追従していた寅之進は、はつみ自身の配慮により、真辺と共に別室で待つ事になる。

部屋には乾とはつみ二人きりとなり、膳を挟んだ状態で互いに向き合っていた。


(以下略)
乾→はつみと小松、薩摩の関係について質問。袋の鼠事件、東洋の件。武市の庇護について。勝海舟との会談と龍馬の脱藩罪罷免について報告。
はつみはありのままに全てを答えた。自分を襲撃した人物については結局分からない事が多く、証拠となる小袋も今は手元にない。犯人の特定も特に望んではいないが、必要ならまたの機会などで乾にその小袋を見せると約束する。


はつみ→弾圧の有無。摂津海防策に対する容堂の反応と攘夷派への感情、乾の立ち位置について質問。

 乾は尊王の志を違えるつもりはないが武市らの過激派に組するつもりはないとキッパリ明言する。土佐(容堂)は徳川恩顧の念もあって幕府擁護がすぎるとも意見するが、士道としては何一つたがえていないとも。容堂公は帝と幕府の御為にと忠誠の道筋を立て、身を粉にして道を切り拓こうとしている。自分も勤王の思想を抱きながらも君主である容堂公や藩主を補佐する立場として藩の中から一藩勤王を唱え、一君万民への筋がたつものだと、こたび初めて明確にはつみへと説明をした。はつみいは感銘を受けた様子で深く頷き理解を示してくれたが、二言目にはやはり、「それでも、武市さんも今、上士と下士の間を必死に取り持とうとしている。これだけは忘れないで」と武市を擁護する言葉を放つ…。

 飲み込めない何かを喉奥にひっかけた様な気分のまま、乾は更にもう一つ、間崎らの「令旨問題」についてはつみが絡んでいない事を確認した。朝廷の要人たる青蓮院宮から無理矢理令旨を得たこの件に関しては、容堂公も露骨に激怒している重大な事件だ。この件については、先日の郷士らに対する大𠮟りでは済まない程の厳しい追及が成されることが想定されたため、はつみが関わっていない事を祈りながら尋ねたのもある。

「…江戸から帰ってきてから、武市さんには会う事もあるんだけど、周りの人達からは距離を置かれてて…。だけど、小耳に挟んだ事はあるよ。」

「どこで。誰が話ちょった。」

 乾の声に起伏はないが、いつも自分に接してくれる時の雰囲気とは違う事に、緊張を覚えるはつみ。

「ごめん、どこかで食事をしている時にその言葉が聞こえてきただけだったと思う。その時も、ただ親王様がどうかされたのかなって思っただけだから…」

「まこと、詳しい事は知らんがか」

 本当は、青蓮院宮令旨事件の事は知っている。これが容堂公の逆鱗に触れ、土佐勤王党の崩壊へと続くきっかけになった事を。だがそれは『歴史上』の知識として知っていただけであり、且つ、細かい所まで明瞭にその記憶がある訳ではない。ましてや現実において誰かがその事を画策している様子を見聞きしたわけでもなかった。

「…うん…。」

 少し困った様な顔で返答をするはつみの目を、じっと見つめ返す乾。

「いや……知らぬのならいい。…この件にはこれからも関わるな。」

 とだけ返す。ふいに潜んだ彼女の眉に、江戸での取引に応じた際の艶めいた表情がよぎってしまうのを振り払うかの様に目を閉じた。彼女は今の状況、すなわち容堂公と武市ら派閥の溝がより深く決定的になっていく様を、どのように思っているのだろう。江戸での取引とは、はつみにとっては容堂公と武市の間に何らかの変化を呼び込みたいが為の、まさに一身を投じた機会であっただろうに。その功をまったく成していないという状況なのだから。

…武市の為に、俺に抱かれたというに…


 そこから少しの間不自然な沈黙が漂い、乾は一つ息をついて再び視線を上げると再びはつみを見つめる。すると今度は彼女の方が、どこか遠慮をするかの様に視線を落とし、沈黙を続けた。今の彼女にとっては何をしていても頭を離れない武市への懸念事があるが故の表情でもあったのだが、かつて乾からの求婚が実を結ばなかった時でさえこんな重い空気にはならなかった事を思えばこそ、乾は彼女に対し問わずにはいられなかった。

「…俺と会うんは、やりにくいかえ。」

「―ううん。そんなことない。問題ないよ。」

 さも、「あの事は取引であったのだから」と強調せんばかりに、視線を強くして即答してくるはつみ。そんなはつみの返答を得た乾が思う事と言えば―

「(俺よりもよっぽど、江戸での事を割り切っちょるがか…らしゅうないがは…執着しちゅうがは、俺の方かえ)」

 容堂公に言われた、はつみを妾にせよとの言葉が頭をよぎる。運が良ければ子を授かる事もあるやもしれない。まだ嫡男の生まれていない乾にとって『好いた女』を傍においておけるのであれば、試す価値はある。そしてはつみを傍に置いておくのは、これまで時世の為にひたむきに隠していたその牙を剥かんとする容堂公の怒れる火花から守る術にもなるかも知れない。

 と、『らしくない』と自覚してしまう程に感情が先に立ってしまう自分への、わずかな苛立ち、戸惑いであった。


 だが乾もまた、はつみの心中を察するに及ばない。彼女の言う「問題無いよ」がただの強がりであり、気丈に振舞おうと必死な姿である事。例え歴史を知っていたとしても自分だけでは到底どうしようもない容堂公と武市の関係について、誰か助けてくれる人があるとするならば、それは今のはつみにとっては乾しかいない。助けてほしい、だけど、これ以上協力を仰ぐのは、きっと乾の立場すらも危うくさせる
に違いないのだ…。

だから、これ以上は何も言えない。言うべきではない、と……。


身体は結ばれたというのに、心はまるで他人の様に寄り添わない。

二人の心は、あの江戸取引の日から大きくすれ違ってしまっていた。






※仮SS