「……おんし、そこにおるかえ」
「―えっ?」
部屋を仕切る襖の向こうから突如声がかかり、びくりと振り返るはつみ。深夜に灯りをもって廊下を歩く者の気配を感じる事は、別に初めての事ではなかった。見廻りなのか宿泊客に用があってなのかは分からないが、それ自体取り立てて珍しい事ではない。だが、今の状況でこの部屋を訪ねて来る者がいる事は、特異な事ではないかと自分でも思う。…それも、聞き覚えのある声に聞こえたから尚更だ。
その声の主は、時世の憂き目にあって失脚している最中。後藤や寺村たちとは異なる思想を持つが故に蚊帳の外へ置かれているのみならず、無事かどうかも分からないと今まさに思い馳せていた相手である。…後藤達が毎日のように通い、どこかから見張られているかも知れないこんな場所へ来るなど……。
だが、心が疲弊しきっていたはつみはすがる思いでその名を呼ぼうとした。
「…いぬ」
「―しっ。…はいるぞ。」
名を出そうとしたところで、声の主は声を低くして遮る。そしてスッと襖を開くと、はつみの部屋の灯りで薄く照らし出される形でその顔を露わにした。
「…―っ…乾…?」
思わぬ人の来訪に、涙で塗れた頬を拭う間もなく驚きの表情を浮かべ、しかし声を押し殺してその名を呼ぶ。
黒い羽織に着流し姿で現れた乾は、一つ頷くと後ろ手に襖を閉じ、そしてまっすぐに、布団で泣き明かしていたと思われるはつみの元へと歩み寄ってきた。はつみの視線を真正面から受け止めながら、彼女の前に膝をつく。
「……泣いちょったがか。」
乾の薄茶色の瞳が、覗き込む様にしてはつみの泣き顔を見つめてくる。掌でそっと頬に触れると、その温かさが濡れた頬のみならずはつみの心にまでじんわりと広がっていく。すると安堵感からかはつみの瞳が揺れはじめ、周囲の闇を翡翠色に反射させながら、まるで何か憑き物が落ちたかの様にぼろぼろと涙があふれかえっていった。
「…うっ…うう、乾……っ」
それでも乾の胸に飛び込むのはいけない気がして、両手で顔を覆って俯くはつみ。そんな彼女をいじらしく思ったのか、乾は躊躇う事など二の次にして、はつみの肩に手を回し、引き寄せた。乾の香りと力強いぬくもりとを感じて心が震えるはつみは、ついに彼を拒絶する事無くその胸の中に震える身を委ね、顔を覆った両手に涙をぽたぽたと落としながら嗚咽を漏らし始める。
「…ごめん…乾…ひぐっ…うっ…」
「…謝ることなどない。おまんの置かれちゅう状況をはかりきれなんだ、遅うなって悪かった
乾こそ悪くはないとばかりに、顔を覆ったまま横に振りつけるはつみ。そんな彼女に対して乾は、腕の中でふるふると頭を振るう仕草に安堵すると共に、これまでずっと押さえ込んでいた愛しさや逢いたかった想いが込み上げていた。震える肩から、どれだけの時を孤独と不安の中で過ごしてきたかが伝わり、彼女を抱き締める腕にも力がこもってしまう。
「こがなところでひとり、よぉ耐えた。それでこそ―」
『俺が惚れた女子じゃ』と言いかけて、思わず言葉を飲み込む乾。それを聞いていたはつみも、期待していた訳ではない、いや期待する資格などないはずなのに、まるで乾の心が肌を通して直に浸透してくるかの様に、飲み込まれた言葉を察していた。だが少しだけ沈黙が漂った後、乾は静かに息をついてから、低く、冷静に、だがはつみを慰める様な優しさをにじませて囁く。
「……それでこそ、俺が認めた女子じゃ」
はつみはその言葉以上の想いを感じ、堰を切ったようにまた涙が溢れた。彼に対する信頼と友愛の念だけではない、江戸取引で彼を『利用』した事が、ずっとはつみの心に引っかかり続けていた。それなのに、これ以上、都合のいい時に乾の想いに甘え縋るなどあってはならない。土佐に来たのも乾の為だけではない。囚われの身である武市の為に何かできる事がないかと、勇み足も同然でやってきた結果がこれだというのに……。
乾の力強い腕、優しく包み込む様な微かな香り、そしていつだって真っすぐに向けられる言葉と想いが、はつみの胸の奥で絡みついた不安や孤独をゆっくりと解かしていく。支えになってくれている…。
「……来てくれて……ありがとう……」
嗚咽も収まりかけてきたはつみは、乾の腕に抱かれたまま、彼の顔を見上げるでもなく震える声で呟く。その声はか細くありながらも確かに再起せんとする強さを秘めており、乾はその一言に応えるように、彼女の背中を抱き続けていた。
はつみが落ち着きを取り戻すと必然的に乾も彼女を開放し、二人は深夜の静寂につつまれる部屋の中で小さな灯りを挟み、座っていた。
「乾、今は寅くんと一緒にいるの?」
「おお。あやつは今、正式な沙汰を待つようにと自宅待機を言いつけられちゅう。」
「えっ、それは…謹慎処分って事?」
「いや、謹慎ほど重ぉはない。じゃがあまり自由に外を出歩く事はできん状況じゃ」
「そっか…」
寅之進とは城下に入った所で突然強引に引き離され、その後拷問でもされるのではないかと心配で不安だったと話すはつみ。腕を組み真摯に話を聞く乾は、表情こそ変えはしないが、彼女の不安を取り除くかの様に一つ一つ出来る限り応えてやっていた。寅之進は拷問などは受けていないし、目立って心身を病んでいる様子は見られないとも改めて伝える。一旦安堵するはつみに、乾はゆっくりと一つ間を置いてから改めて尋ねた。
「寅之進から色々聞いた。京や土佐に来るまでの間で襲撃に遭うたとか、関所で足止めをされ、俺の文もおんしに届いておらざった事もな」
腕を組んだまま、乾の指がぐっと拳を握る様子が視線に入る。
「…あの岡田以蔵や寅之進らあに命を救われたがか。女子が二度も暗殺されかけちゅうなど聞いた事もないぜよ。無茶しよって。」
「無茶は…するよ。乾だって無茶してたでしょ?板挟みできつい想いしてるって、命まで狙われてるって、一言も言ってくれなかったじゃん…。」
そんなはつみの言葉を返す前に『手紙も届かないから、心配したんだよ』と言われ、思わず眉をあげ言葉を失ってしまう乾。反論を呈しながらもどこかすまなさそうな色を含んだ視線でこちらを見据えられ、なぜこうも男の弱い所に絡みつく仕草を取るのかと、大きなため息をつきたくなる。しかし直ぐに理性を取り戻し、続けてはつみに問うた。
「…俺のことはえいがじゃ。日頃から鍛えちゅう。武の心得もない上にこじゃんと目立つおんしの事やき、注意しちゅうぜよ」
直球の正論を返され「そうだけどさ…」と拗ねた様子で閉口するはつみ。そんな彼女に絶えず視線を送りる乾は、心のどこかでは久方振りに見れるその表情を楽しんでいる。そんな自分へ常に冷水を浴びせる想いで背筋を正し、不動の表情のまま話を続ける。
「文の件に関しては後で話すが、今回の様子じゃと土佐において俺以外のツテがあった訳でもあるまい。寅之進にも聞いたが、あやつは頭がえい割におんしが行くち言うたら行くいう真直な男じゃき、今のところ俺は何も肝心な所を掴めちょらん。おんしがそがぁに覚悟してまで土佐に来た理由、土佐でやりたい事をまず話せ。どう助けてやるがはそれからじゃ。」
確かに、敵派閥に独自の行動が露見してしまう危険を冒してまでここへ来てくれたのなら、その問には真摯に応えるべきなのだろう。だが内容的には、こうして自分の為に来てくれる乾だから…心を寄せてくれる乾だからこそ伝えにくいものでもあった。一瞬まごつくはつみであったが、正論を好む乾だからこそ中途半端な誤魔化しは良くないだろうとも思う。
「土佐に戻ろうと思った理由は、三つだよ」
心を決め真剣な表情で呟くはつみに、乾も腕を組み真正面から見つめたまま、顎を引いてみせる。正直三つも理由があるとまでは想定していなかった。だがそれでも、落ち着いた口調で返す乾は相変わらず不動の表情だ。
「ほう。言うてみい」
「一つは…勤王派の弾圧が始まったのに土佐の様子が殆ど分からなかったから。京大坂内での攘夷派浪士たちへの取り締まりが厳しくなったのもあるけど、土佐藩士に関しては何もしてなくても帰藩命令だとかで締め付けが強くなる一方だったから…。」
武市の名を出さないのははつみなりの配慮のつもりだったのか。黙ったままはつみの話を聞いている乾の視線からは俄かに下へずらした彼女の視線が、江戸取引以来のうしろめたさを隠しきれていない。乾からすれば、自分に体を捧げてまで容堂公と接点を持つ道を探り、容堂公と武市の間に深まる溝を何とかしようとした彼女であれば、武市の為に土佐へ戻ってきたであろう事は安易に想像がついていた。故に、はつみの心境が…自分に対して良くも悪くも気を使っている様子が垣間見えてしまうのだ。かたやはつみは、乾を気遣いながらもその本心には気付きもしない様子で、話を続けていった。
「二つ目は、海軍操練所の事を容堂様にお伝えする機会が持てればと思って。」
はつみはまた、国事や藩政に関わってくる様な画策を練っているらしい。乾は呆れた様に小さく息を吐き、だが責めるのではなく諭す様に、低く落ち着いた声で反応した。
「…おんしは江戸で容堂公の御目見えになって以降、ますます勤王派での立場を悪うしたじゃろう。まだ国事に首を突っ込もうとするかえ。」
「私は国事に関わろうだなんて思ってない。相手が誰であっても、何かしたかと問われればきちんと理由を以て返す事はできるよ。」
「そのような甘い考えが通じん事は、その身を以てよう知っちゅうろう。誠おんしの言動がただ一心の忠義に基づくもんであっても、すべては国事に関わる事じゃち思われる。…特に今、武市に関わる事はな。」
「……っ」
彼の言葉は彼自身の境遇にも通じるものがあり、はつみもそれを理解しているだけあって他の誰に同じ事を言われたとしても重みが違って聞こえた。かたや乾はこう思う。真の武士が己の保身や命さえも省みない様に、はつみもどこか己を省みない所がある。端からみれば女子ながらに見上げたものだとも言えるが、彼女の行動の根幹には全て武市救済のための思案が渦巻いている事は既知の通りだ。幕臣勝安房守の肝入り事業である海軍操練所の事も、一見真新しく容堂公の興味を引きそうな話題ではあるが、はつみはそこを如何様かにして武市に絡め、恩赦でも狙っているのであろうと察しがつく。どのように話を繫げるかははつみの知識と視野の広さ、手腕の見せ所だが、前回の謁見が実を結ばなかった事を考えれば、今回の件で彼女がどれだけ意気込み、勝算を持ってこの土佐にやってきたかも想像がつく。
……故に、危険だ。
今の土佐、今の容堂公にとって、武市に絡む話を持ち込むのはあまりにも大きな賭けである。ましてや、いくら勝安房守の後ろ盾があるとはいえ、彼女自身は土佐『預かり』の身分であり、女でしかないのだから…。
一方のはつみが言葉を失ったのは、図星を突かれたのもあるが単純にそれだけではない。乾に対し、自分が武市の事を考えてこのような行動を起こしていると知られる事、悟られる事にうしろめたさを禁じ得なかったからだ。必死になって言い分を返せば返す程、それだけ武市の為に必死であると言う事を乾に突き付ける事となってしまう。
他の男の事を気にかけている場合ではないのは自分でも重々分かっているのだが…。これが無理強いをして身体を重ねてしまった事の弊害なのか、どうしても彼に対する罪悪感のようなものが拭いきれないのだ。
「…ごめん、私もわかってる…。でも、わたしにも土佐にツテはあったよ。乾を頼ろうと思って、関所まで来れば相談も出来ると思って…それが3つ目の理由。」
自分の名が土佐におしかけた理由に並ぶとは思っておらず、眉をあげて反応を見せる乾。『続けてくれ』とばかりに沈黙が続いたので、はつみの方から改めて状況を説明した。
「乾からの連絡が来なくなって、何度か手紙を送ったけど返信がなかったから心配だったの。ちょうど大和挙兵の政変もあったし、勤王派への弾圧も強くなっていったでしょ?」
「…俺も何度かおんしに文を出した。」
「えっ、そうなの?」
どうやら互いに『相手からの返信が来ない』という状況になっていた事に気付き、両者それぞれ腕組みを深めたり口元に指を当てたりして考え始める。去年の春以降、二人の間で手紙が交わされたのは一往復のみ。はつみが勝海舟預かりになった報告を乾に送り、それに対して乾が返事をしたものが互いの間で確認の取れる手紙であった。当時、乾はまだ罷免される前であり、はつみもまた、田中新兵衛らの襲撃を受ける前の事だった。
その後、818政変を機にそれぞれが手紙を発していた事が発覚。だがそのどちらも両者の元には届いておらず、次いではつみが11月頃に追加で発した手紙についても、乾の元には到達していなかった。
直ぐに思い浮かぶのは、第三者の介入だ。
「…間引かれたか。」
「えっ、手紙を…?」
先日の関所において半月も待ちぼうけを喰らわされた挙句、かたくなに乾への取り次ぎをはぐらかされ続けた件もある。手紙を間引きするなど、そこまでするのか…?とも考えるはつみであったが、そのような事もありうる。『無い』と証明する方が難しいだろう。そして、手紙を間引きされる程、乾とはつみの繋がりは注視されているのかもしれない。そしてその繋がりをよく知り得る者とすれば…それは容堂公や寺村、後藤ら以外には心当たりがない。関所に留め置かれるはつみらを迎えに来たのが、かつて吉田東洋の門弟であった岩崎弥太郎であった事を鑑みれば、なかなかに妥当な線ではなかろうか。
口元を手で押さえて驚愕している様子のはつみに、乾は冷静な声色で語り掛ける。
「おんしは俺を頼りに土佐まで来たっちゅうが、今の俺は要職に就いちょらん。俺の同志もまた然り。容堂公に御目通り願いたいのであれば、俺よりも後藤や寺村らに直接従順の意を示した方が、事は上手く運ぶやもしれんぞ。」
自分を頼ってくれた事には殊の外か心が動いた。だが実際考えて、はつみの力になり得るのは失脚の憂き目に遭っている自分ではない事も明白だった。…期待を向けられているのに歯がゆい想いがない訳ではない。だが真実を虚勢で塗り替えるという考えを、このどこまでも背真っすぐな男は持ち合わせていないのだ。
はつみは難しい問題に直面したかの様に硬い表情をしたまま、動かない。本当にただ自分の目的だけを考えるのであれば、或いは乾の言う通りなのかもしれないと思う。だが……
「…腹が決まっちょらんがか」
薄闇の中で真っすぐな声と視線が心身に刺さる。見透かされている、だがどこまで見透かしているのだろうと思わせる乾の瞳に、はつみは苦湯でも飲むかの様な表情で俯いて見せた。
「…正直迷ってる。色んな人達から色んな助言をもらって、それでもここまで押し通して来たのに…。」
「…一番懸念しちゅう事は何ぜよ」
歴史の事、時世の事、身の回りの人達の事…事ここにきて殆ど混乱していると言っても過言ではないはつみに対し、乾は単刀直入な質問を投げかける。はつみはハッとしたような表情で乾を見つめ、視線を落として長く息を吐き、己の胸に改めて問う。そしてぽつりと答えた。
「寅くんと乾を…巻き込んでしまった事。」
まず、乾は歴史に聞いていた通り失脚はしていたが、その心身は無事であった。藩の様子…勤王党弾圧の様子も歴史で知る所と大きく変わらない状況だ。歴史上存在しなかった自分であれば、ここで何か手を打てば歴史が変わる機会もあるかも知れないが、今回の切り札でもあった海軍操練所が担う未来と、そこへ訪れた英国ジャーナリストとの対話、幕府軍艦奉行並勝海舟と宇和島前藩主であり賢人として名高い伊達宗城よりの推薦状だけでは『弱い』という事も思い知らされた。特に賢人二人からの手紙は、後藤らに取り上げられる様な形で手放さざるを得なかった。破棄されるといった畏れ多い事は流石にしないだろうと信じたいが、容堂公の手に渡っているのだとしても、はつみを受け入れる気がないのであれば中身だけを確認した状態で知らん顔をされるのが関の山だ。
また、逆に自分が関わったせいで歴史には無かった問題が巻き起こってしまっているのも事実だ。乾については、自分と深く関わっているが為に何者かに手紙を間引かれ、直接入るべき情報すらも伏せられる程の警戒を持たれてしまっている。
寅之進は文久元年の三月の時点で切腹するはずだった運命を乗り越え、もはやはつみが知る歴史の範疇を越えて生きているが、それがここで潰える様な事があってはならないと強く思う。
歴史にはない被害を受けている彼らに、勤王党弾圧の首魁である武市に味方しようとする自分のせいで更に何かがあったらと思うと…。土佐は予想以上に頑なで手段も手荒い。かつて吉田東洋の覚えめでたく良くしてもらっていた事で、目が霞んでいたとも言えるだろう。ここに来てようやく、はつみは土佐の恐ろしさを、容堂公の虎視眈々とした動きとその怒りの深さ、絶大なる権力を目の当たりにしていた。
多くを語らないはつみが重く口を閉ざした時、乾は彼女の底知れぬ何かを感じていた。だが問いただす事はしない。自分にできる事は、彼女の望みや懸念に対し、今の自分が出来る事を考える事と心得ているからだ―。
「一旦土佐を出て、勝海舟の元で考え直した方がええんと違うか。」
冷静な判断は、迷い打ちひしがれるはつみにストンと深く刺さった。すがるような視線で顔をあげる彼女に言葉を続ける。
「おんしの先見の明に開けた才は誰もが認めるじゃろう。じゃが、土佐は今、通常状態ではない。」
「…ううん…私は…明らかに冷静さを欠いてた…。全部乾の言う通りだと思う。」
噛みしめた唇が言葉を放つと、うっ血された血流が再開され、薄闇の中でも赤く花開くかの様に紅色が浮かび上がって見える。小さなろうそくの灯りに照らされる瞳は、一体どこの色を落とし込んでいるのか翡翠色が混ざっている様にも見え、思わずその視線に吸い込まれてしまいそうになる所へ、決意をにじませた声が乾に向けて放たれる。
「…寅くんを連れて、土佐を出る。もっときちんと考えて、もっと強い切り札を持ってくる」
「……そうかえ。」
はつみの決意に対し、乾は心なしか微笑み満足そうにしているいるかの様にも見える。はつみは一瞬ためらった後、しかし思い切って彼に尋ねた。
「…乾も、一緒にいこう?」
その言葉を聞いた途端、ほのかに滲んでいた乾の柔らかな表情はスッと影に消えていった。真一文字に結ばれ、感情の読めない表情でただじっと見つめてくる瞳が、まるで試練か何かであるかの様にはつみに刺さる。また、おんしは甘いとか浅慮だとか言われるだろうか…。思わすそう身構えてしまった時、彼は不意に視線を逸らし、小さく息をつく姿を見せた。そして、首を横にふるう。
「……俺は行かん。君主の元を離れては、一藩勤王の志はおろか一君万民の思想にも説得力がのうなる。」
乾のまっすぐで忍耐強い忠義があればこそ、来る未来で土佐は官軍となる。その一方で、『土佐の為』の方向性を大いに取り間違え、回復困難なまでに上下決裂の道を突き進んでしまったのが今の武市の姿なのだと…。言葉にはせずともはつみの胸は大きく震え、また唇を嚙みしめる。
「…そうだね…ごめん……」
「………。」
乾は二人の間で小さく揺れる灯皿を横へずらすと、そのまま一歩を踏み出し、固く身をこわばらせるはつみのすぐ傍に膝をついた。はつみが気付いて顔をあげると同時に、その細い肩を引き寄せる様にして抱き締める。
「―っ…乾…?」
強く引き寄せ抱き締めてくる腕に驚き、戸惑いを見せながらも、身を委ねるはつみ。首元に押し当てられた乾の頬のぬくもりと共に吐息がかかるのを感じて、固く目を閉じた。
「謝るな」
ぼそりと囁く声は、触れる肌から直接体内へ響くかの様にはつみの中へ浸透していく。拒絶しないはつみの様子を受け、乾は更に強く彼女を抱き締めた。
『文』だけで事足りるはずがない。京で別れておよそ一年…嫡男問題もあって他の女を抱いていてもずっと頭から離れなかった。逢いたかった。自分が知る女の道からはかけ離れた無茶な女子だというのに、勤王佐幕、攘夷開国といった思想を越えたその才が、こんなにも眩しく、誇らしく、尊敬にすら値する。土佐に出るなれば危険な賭けになると分かっていて、そんな中でも自分を頼って土佐まで乗り込んできたのも、現れた自分を見て心を許し涙してくれたのも、そして今、共に土佐を出ようと言ってくれたことも…すべてが尊く愛おしいと感じていた。
―だがそれ以上に、乾にとっての武士道、君主への忠義、先祖への敬意は揺るがない。先祖代々馬廻り格を務める土佐上士、乾家当主として、そして国事を憂う一武士として、そこだけは何があっても筋を通さねばならぬものなのだ。
「はつみ……」
身体を抱き寄せていた手を緩め、そのままはつみの頬に触れる。ぴくりと肩を震わせても逃れようとしない。あの時の様に押し倒せば、夢にまで見るはつみの吐息と熱に、また包まれる事ができるだろうか…。今この瞬間にも、他に伝えるべき事、思案すべき事、懸念すべき事はある。だがそれらを無視してでも、今…腕の中におさまるはつみを抱きたい。
熱を帯び始めた乾の指先が、痴情を図るかの様にはつみの輪郭をなぞる。くすぐられる様な感覚と共に乾の熱を感じたはつみは、眉をひそめて肩をすくませるが、それでも乾を拒絶する様子は見られない。…彼女の武市に対する想いは本物だろう。だが、『別の男』である乾を拒絶しないのは、その想いに遠慮があるからなのか。乾に対する罪悪感か。それとも、たまには男に抱かれたい、叶わない恋を忘れたいとでも思っているからなのか…
「―乾様。」
ーと、乾がはつみを押し倒そうと腰を引き寄せた時、外から緊張感のある声がかかる。腕の中のはつみが夢から覚めた様にハッと顔をあげ、乾もまた、その声が何を知らせようとしているのかをすぐに察し、動きを止めて静かに目を伏せる。そして、両手ではつみの肩を支え、身体が傾きかけていた彼女を正しく座らせた。乾の香りを間近に感じて身体が反応していたのか、頬を上気させているはつみを真正面から見つめ、ほんの一瞬、困った様に視線を逸らしたがすぐに冷静さを取り戻して、事を伝える。
「…俺がおんしを逃しちゃる。土佐の外で、その才を咲かせろ。」
「……っ…」
「―追って連絡する。ここには俺の同志もおるき、安心せえ。左手の親指を黒く塗りつぶしてる者じゃ。」
いつの間にそのような者を忍ばせていたのか。先ほどの声掛けは、既に潜伏していた同志によるものだったのだろう。外で何か動きがあったのか、唐突に乾が立ち去ろうとする理由を考えればおおよそ察しもつく。乾は一瞬だけ躊躇った後、その手で再度はつみの頬に触れた。助けてやるからじっとしておれと言い聞かせるように視線を交わし、そして意を決した様に立ち上がる。
「―待って乾、これっ……」
足早に立ち去ろうとする乾を引き留めたはつみは、首元から取り笛を取り出しながら乾に駆け寄る。振り返る彼の首にふわりと腕を巻きつけると同時に、彼の首に取り笛をかけてやった。一瞬抱き付かれるものだと身構えていた乾は一瞬拍子抜けするが、首にかけられたものを手にして視線だけをはつみに投げかけてきた。
「ルシ…私の白い隼が、この笛で来てくれると思う。簡単な指示なら聞いてくれるから…」
はつみが飼い慣らしている白い隼の事は、寅之進に文を届けに来たり、この場所を特定する際にも大いに役立つ導となった。思い起こせば、あれとの縁ははつみと出会ったばかりの頃にまで遡る。あの白隼が人の顔を覚え、人の指示まで聞けるというのもまた驚きだが、笛で姿を現す程に手懐けているのも大したものだ。
「…あやつか。俺も知っちゅう。何かあれば使わせてもらおう」
「あっ、乾……」
鳥笛を着物の内側へと押し込み、次こそ部屋を出ようと踵を返したところで尚も引き止めてくるはつみを肩越しに振り返る。
「来てくれて、ありがとう」
…であれば抱かせてくれ―などと本気で思えばこそ、場にそぐわない事もよく分かっている。乾はそれを言葉にはせず、首元の笛を指先で確かめるように触れた後、静かに息を吐いた。
「…おんしは大人しゅうここで待っちょれ。…また来るき。」
「うん…!寅くんの事、どうか宜しく頼みます…!」
「―おう。」
背中越しにチラリと視線を残した乾は、そのまま颯爽と部屋の襖を開け、廊下で見張りをしていたと思われる同志の案内通り迷うことなく姿を消していく。乾の後を追う下男らしき同志が一瞬はつみに視線を送ってから会釈をし、音もなく襖を締めてからその気配が消えていくのを感じた。
「…ありがとう、乾……」
乾の気配が完全に消えた瞬間、はつみの肩からふっと力が抜けた。このどうしようもない状況で、頼れる人に再会できた。賢いルシを上手く使ってくれれば、乾や寅之進の力にもなるだろうと期待も持てた。…そして何より、全く意に介さない状況に押し込められ続けていた不安を打ち明け、助けを得る事ができた事で、重く今にも折れそうだった心が軽くなったのがわかる。だが不意に乾の残り香が鼻を掠めると、自己嫌悪にも似た罪悪感が背筋から這い上がってきた。
こんな状況であってもこの香りに反応してしまう自分は…江戸取引でのを熱を身体の奥に灯してしまう自分は、乾の事をどう思っているのか…。江戸取引で彼を利用した。その対価は彼が望む通り身体で払ったが、彼の好意に付け込んだ取引であった事にずっと罪悪感を引きずっている。引きずっていればこそ、乾に抱き締められた時、彼の為にも拒むべきだった。
…なのに、何故できなかったのか。
期待をしていた?
彼がそれを望むのなら、対価として身体を差し出すつもりだった?
彼が求めているものは分かる。
だが自分は乾に、何を求めているのか…。
『ありがとう』だけでは言い表せられない乾への感情を胸に押し込みつつ、はつみは手元の灯りをそっと吹き消し、夜の帳に身を横たえ、そっと目を閉じた。
※仮SS