3月中旬深夜、雨。
おそらくは『然るべき時が来るまで』軟禁状態にあったであろうはつみに危険を冒してまで逢い続け、脱出の機会を伺っていた乾が、ついにこの日、行動を起こすと告げた。はつみは乾、そしてその同志である佐々木三四郎に連れられて料亭の一室を抜け出し、闇夜に紛れながら馬で須崎方面へと向かう。須崎は現代において武市の銅像が立っており、現地まで観光しに行った事を思い出していた。
馬にまたがる乾の前に乗せられ、雨風を避ける皮掛けを被せられ…強く抱きしめられる。猛烈な勢いで前を走る佐々木に続く形で駆け抜けていくのだが、それぞれに思う事を打ち明ける事もなく、振り付ける雨の中をひたすらに進み、まだ夜が明ける前に海岸へと到着した。
機を合わせる様にして自宅から逃亡を謀っていた寅之進と合流すると、乾の裏手引きによって須崎沖に碇泊中の帆船に乗り込むまで手筈通りに進む。少し後から乾の信頼できる部下である真辺正精が追い付き、乗っていた馬から飛び降りると息を切らしながら「今の所追手は見当たらない」と報告をする。まさに順調、予定通りであった。
はつみ達は押し出される様にして小舟へと乗せられ、一刻も早く沖へ行くようにと慌ただしい別れとなる。だがはつみは船に乗ろうとしながらも何度も乾を振り返っている。小舟の船頭と寅之進から「早う!」と呼ばれながらも自分を振り返るはつみに対し、乾はざぶざぶと波間を突き進むと小舟に追いつき、人目もはばからずはつみを引き寄せ、口付けた。
「―!?」
小舟の上にいる船頭や寅之進、陸に控える佐々木三四郎と真辺正精の全員が目を疑い、慌てて目を背けるなどの反応を示したが、乾は動じる様子もなくゆっくりと唇を離し、間近にはつみを仰ぎ見る。打ち付ける波、降りつける雨で二人ともびしょぬれであったが、身なりなども構っていられない状況であった。だがその事が却って、控え続けていた情熱を焚きつける時もある―。
寡黙な…だが情熱的な視線で真っすぐに見つめる乾は、はつみが波に流されない様、その細い腰に腕を回して抱き寄せる。そしてその愛しい耳にしかと届くほどの近距離で言った。
「…此度の事は借しじゃ。次に会うた時は、おんしを抱く。」
「……ばか。」
はつみは泣き出しそうな顔で、一言返すので精いっぱいの様だった。乾に対し、様々な感情が巻き起こる。感謝、信頼、友愛、親愛、心配、謝罪、そして罪悪感…。それでも伝えなければと目元を拭い、気丈に振舞う視線で乾に返した。
「…乾…死なないでね……」
言葉にすると感情も溢れてしまったのか、今にも泣き出さんとするはつみの頭をくしゃりと撫でつけ、合図とばかりに船頭を見上げる。そして船頭と寅之進、乾の手によってはつみが船上に乗り込むと、乾は波に打たれながらも、小舟が早く陸を離れられる様、力いっぱい船体を押し始めた。真辺が慌てて乾の元へと駆けつけ、その反動で突っ立っていただけの佐々木も波間に飛び込む。
かくして、はつみと寅之進は土佐を無事脱出し、『晴れて』脱藩の身となったのだった。
※仮SS