秋も深まり冬の寒さを感じ始めた11月。
よく晴れたその日、はつみは行き交う人々で賑わう日本橋の付近を散策中…と称して、甘味や雑貨を見て回っていた。一人の時でも髪を一房に結いあげ、袴をつけた男装姿をしていたが、仲良くなった店の者と軽やかな笑みで会話をするその笑顔は、一見性別の分かりにくさはあっても『愛らしい人』そのものの雰囲気を発している。どこへ行っても評判で、ある意味、やはり目立つ存在であった。
そんな彼女に、往来を移動中だった伊藤が目ざとく気付き、店の外から彼女に声をかける。
「ーあれ、俊輔くん?―あっ、すみません、また来ますね!これありがとうございました!」
「へえ毎度!次は茶でも用意してまってるよ!」
「あはは!それじゃあ私はお茶請けを持ってきますね♪」
そんな会話をしながら店の暖簾を分けて出てくるはつみを、気さくに手を挙げて迎える伊藤俊輔。そしてその隣には桂小五郎の姿もあった。
「俊輔くん、桂さんも!こんにちは!」
「こんにちは、はつみさん。随分和気藹々とした買い物をしていた様だね」
『おうっ』と気さくに返す伊藤に続き、桂も声をかけてくれた。桂は今日も、ただそこに立っているだけで周囲の女性達から羨望のまなざしを受けてしまうほど、武士という男のたたずまいの中に麗しさをたたえている。ただ一つ、いつもと違う事があるとすれば…自分を呼ぶ時には『桜川殿』や『はつみ殿』であったのが、今聞いたのが間違いでなければ、より親しみを感じる『はつみさん』に代わっていたというところか。
直ぐに気付いたはつみは一瞬驚いた様に目をしばたたかせたが、拒絶する訳もなく直ぐに微笑み返す。そこへまた微笑み返す桂の笑顔に意図は感じられなかったが、隣にいた伊藤が人知れず眉を上げて目を泳がせていた事に、はつみは気付く事もなかった。
桂達は移動の途中だった様だが、丁度昼時であったことを受け、3人で手近な食事処へ入ろうという事になった。活気あふれる日本橋で、ちゃきちゃきと忙しい江戸っ子達に人気のうどん処だ。店の外で揚げている天ぷらも人気で、はつみも何度か食べ歩きのお供に購入した事がある。店内はほとんど満席で繁盛しており、飛び交う注文の声の他、時に怒鳴り声の様なものまで聞こえてくるほど活気あふれる様子だった。そんな中で三人は気楽に机を囲み、取り留めもない会話をしながらうどんと天ぷらを食べ始める。注文から提供までの速さときたら、まさに江戸の高速回転を誇る店に相応しいものであった。
桂達からは、先日幕府英国使節団への参加が決まった事を受けた高杉が、はつみから贈られた英単語帳にのめり込んでいる様子が語られる。文法を理解しても単語が分からなければ始まらないし、文法が分からなくても単語が分かればなんとかなるという極限諭に納得している様で、彼の英国施設団への熱意と期待感も手に取るように伝わってくる話だった。
かたやはつみは、先日、伊達と共に事なきを得た『大江戸大冒険』で危ない目に遭った事を話す。何をして男に追われていたのだと伊藤が少し掘り下げて来たので、二人を信用していると告げた上で『清河八郎』を追っていた関係で幕吏に誤解され、追われてしまったのだと小声で教えた。清河の事は桂達も知る名だったのだろう、二人は驚いて顔を合わせると、再びはつみへと視線を戻し、話の先を促した。
はつみは話の流れで伊達の事を彼らにも伝える。
「思想的には桂さん達とそう違わないものを持っているんだけど、とにかく頭でっかちで一匹狼で軟派っていうか…悪い人ではないし、とにかく教養があって頭のいい、面白い男の子なんです。もしこの先会う事があったら、一度話してあげてもらえませんか?」
「わかった。伊達君の事は覚えておくよ。」
はつみが言うのなら、とばかりに頷く桂に、伊藤は少々苦々しい顔をして「またそんな安請け合いをして…大丈夫ですか?」と言いながら最後のうどんをすすった。笑って交わした桂は、更にはつみへと話を振る。
「それにしても無茶をするね…。今度からそういう事をするは、私を呼んでもらえるかな?」
それを聞いた伊藤は、口内にかき込んでいたシメの飯を吹き出してしまった。
「―ブッ!!!」
「…俊輔、君はいつになったらその吹き出すクセを直せるんだい?」
笑って懐紙を差し出すはつみからそれを受け取りながら、伊藤は桂からの苦言に言い返した。
「す、すみませんのぉ。じゃけど、そげな安請け合いせんでつかあさいと今言ったばかりじゃないですか。そりゃ驚きますよ」
「心配して下さるお気持ちは嬉しいです。」
「気持ちだけ受け取ります、じゃあ、私の心配は払拭できないよ。大丈夫、寝る間を削って都合をつけるから。君の為なら。」
「えっ、えっ?だだだだめですよそんな…お体を大事にして下さい!?」
「フフ」
桂が本気か本気でないかまではこの際関係なく、こんなにも気さくに微笑みかけられながら照れる言葉をかけられると、はつみのような恋愛経験の少ない女子はたちどころに思考停止してしまう訳である。そんな様子を楽しんでいるかの様な桂に、更なる苦言を呈するが如く伊藤が割って入っていった。
「いやーいやーないですわ~。やめてくださいよ桂さん。危険ですから。ほんまに余計な事に首つっこまんでつかあさい!」
「おやおや、つれない男だな」
「こんなに貴方様の事を心配しちょるんに、どこがつれない男ですか!ていうかはつみさんもそがな無茶はやめときや。何かあった時、間違いなく孕まされますよ!?」
「孕っ……!?」
「俊輔、何を言ってるんだまったく…」
伊藤の余計な一言がまた波乱を呼んだが、しばらく笑い交じりに揉めた所で、3人揃ってうどん屋を出る事となった。
軽食ながらも美味しかったし、何より良い時間であった事に満足感を得ながら店を出る。
しかし、異変は突然訪れた。伊藤、桂に続いてはつみが暖簾をくぐった時、店の外にいた人物に突然腕を掴まれたのだ。そしてあっ思う間に店横の壁へと押し付けられ、気がついたら見た事のない端正な顔が目前に迫っていた。
「探した探した。こんなに目立つ御仁だってのに、江戸ってのは広いもんだねぇ」
「う、え?」
状況が読み込めず目をしばたたかせている内に、数歩先へ行っていた桂や伊藤も遅れて異変に気付いた様だ。しかし男は周囲を気にせず、はつみの眼前に迫ったまま、自己紹介を始める。
「俺ぁ越後の本間精一郎だよ。以後、お 見 知 り お き を…」
と、更に前髪が触れあい、息遣いが唇に感じられる程顔を近づけて来た。距離が近付くにつれて肩を竦めるはつみを弄ぶかの様に、短く笑ってから妖艶に『フッ』と息を吹きかけてくる。かけられた息によって前髪が額の中央で分かれて舞うのを感じると、『ひゃっ!』と目を閉じるはつみ。
「(突然壁ドンされてどういう事!?何!?)」
などと思うのと同時に、
「(今の聞き間違いじゃないよね…「本間精一郎」って言わなかった!?)」
…と、感情と知識の激しい交錯で混乱する。
本間精一郎といえば…と、はつみの脳内にある限りの史実データを遡る。そう、この先武市半平太ら土佐勤王党が京にて台頭する際に絡んでくる、勤王志士の名前。そして彼は、極めて強い印象を残す事件に深く関わってくる人物だ…。
それに気付いたはつみは、今目前に迫っている本間の顔をまじまじと見つめ返した。本間は心地よさそうにその視線を受け止めながら余裕のある表情を浮かべ、噂に聞いてわざわざ探しに来たはつみの顔を、首の角度を変えつつ舐め回すかの様にじろじろと見つめている。本間による初見での『評価』は極めて上々だった。
白く透明感と張りのある健康的な美肌に赤みが差して、非常に好みだった。華奢で涼やかな首筋に沿う様に視線を上げていけば、薄く血色が透ける柔らかそうな耳が見える。そして絹のようにさらさらと輝く髪が日の光をすかして小麦色に輝き、毛先がかかる耳元や首筋、そして目元を更に魅力的に引き立てていた。形よく二重に開かれた大きな目には宝石のような瞳がきらりと輝き、角度を変えて覗き込むとその鮮やかさに吸い込まれそうな程に美しい翡翠色にも見えた。しかし不思議と異国人どもの様な異質さは感じられず…非常に魅力的だ。
ここまで探しに来て何だが、思想だの立場だのといった事情は二の次にして、今すぐ連れ去ってしまいたいと思わせる様な…
「おっ、と?」
舐め回すかの様にはつみを見下ろしていた本間であったが、不意をつかれた様な声を漏らす。はつみもその声にハッとして彼の視線の先へと向き直ると、あの普段人懐こい伊藤が見た事のない目つきで『本間』なる男の腕を掴み、はつみから引きはがそうとしてくれていた。そして次の瞬間には、腕を引いた拍子で生じた本間とはつみとの間に桂がするりと入り込んでくる。彼の柔らかくも華やかな香りがふわりと香り、思わず『ほうっ…』として間近に見上げてしまう。自分を庇う様に立つ彼を肩越しに見上げたのだが、思っていたよりも背が高く、先ほど安易に自分へと覆いかぶさるくらい高い背丈であった本間と、同じぐらいの目線の高さで彼に対峙している。
「君、何をしているんだい」
温厚で物腰柔らかな桂が、意外にも毅然とした態度で相手を制する事に驚いてしまう。一見口元に微笑みを湛え、口調も柔らかな印象を与えるものであったが、その声ははつみが聞いた事のない様な重みや冷静さが含まれている様に感じた。思わず横から桂を見上げて様子を伺ってしまうはつみであったが、まったく怯む様子の無い本間は、むしろ桂との対峙を楽しんでいるかの様に目前に顔を近づける。どうやら、長州藩士として名の知れた桂の事を、一方的に知っている様だった。
「これは桂小五郎殿。清河先生が貴方と面会したいと文を出していた様ですが、日々お忙しいとの事でその返事すら出す暇もないとか…人気者は大変ですね。ところで本日は?ああ『変わり種の娘』とうどん屋で会食のご予定でしたか?」
と、なかなかシビれる挨拶をする。
『本間精一郎』という名の他にも『清河八郎』の名までちらつき、何よりも目の前で火花を散らすように対立する二人を前に、はつみは緊張のあまり目を丸くして直立不動となっていた。
『あわわ…どうしよう…』と心の中で呟きながら伊藤に視線を送るが、その伊藤がまるで人を殺しかねないほどの目つきで本間を睨みつけているのに気付き、ハッと息をのむ。まさに、桂が一言「殺れ」とでも命じればすぐさま行動に移しそうな凄みを放っていたのだ。そして煽られる当の本人・桂と言えば、相変わらず涼し気な美顔に笑みを湛えてはいるが目の奥ではしっかりと目前の癪な男を捉え、そして堂々と皮肉を切り返さんとしていた。
「ええ。共に昼飯を食べるだけのわずかな時でも、価値のある方とはご一緒したくなるものですから。」
「へぇ、それはそれは…」
本間はわざとらしく驚いた表情を浮かべた後、明らかに挑発している様な眼差しを桂に向ける。
「まあ確かに、『価値がある』んでしょうなあ。尊王思想だと言いながら開国の利点を説きつつ『攘夷の根本』が云々といった面白い話をするとか。その語り口もさることながら立ち姿はさながら歌舞伎役者だの天女の如くだのっていう『女男』だとか。そりゃ面白そうだってんで探してみりゃあ、『女男』ってよりどうみても『女』ときたもんだ。―なあ?」
そう言うと、本間は桂を軽く押しのけ、白昼堂々、何の躊躇いもなくはつみの胸を撫で上げた。
「ひぁうっ!?」
「―なっ…?!?」
本間の右手は遠慮なくはつみの胸を揉み上げ、布越しに湾曲する柔肉を桂や伊藤に見せつけるように一揉み二揉み堪能してから手放した。はつみが目を白黒させて硬直している間に伊藤は更に深く刀に手をかけるが、桂が動いた事を瞬時に見極めて鯉口を切る事無く留まる。その桂はというと、腰に差していた扇を抜き取り本間の鎖骨あたりに叩きつける様にして制止を加えていた。その中性的な美貌に怒りとも殺意とも取れる感情色を滲ませ、眉間にしわを寄せながら強い視線を送りつけている。それでも、『白昼堂々懇な所で切り結ぶ様な奴じゃない』とばかりに受け流す本間。
「なっ、なにするんですか…!?!?」
桂が何かを言う前に、斜め下あたりからわなわなと顔を赤くしながらか細い声を上げるはつみ。本間は桂の扇を首元に受けた状態のまま、視線を落とし構ってやった。
「やっぱりサラシも巻いてねぇのか。無防備すぎるねえ」
「そっ、それは…」
確かにその点をつつかれると言い返す言葉もなかった。もちろん、サラシを巻いて髪も全部一つに結い上げ、きっちりとした男装をする日もある。しかし自前で作った『すぽーつぶら』だけでも事足りると思ってしまう『ラフ』な日は、サラシを巻くのを省略してしまうこともあって…今日もたまたま、その日だった。だが、実際それで本間に見破られたという結果をして『今日たまたまつけてなかったから』などと言ったところで、焼け石に水であり、後の祭りであり、覆水盆に返らずであり…とにかく意味がないということは充分理解できたために、反論もできなかった。
大人しく論破された様子のはつみへ満足げに微笑んだ本間は、再び桂を見やり、はつみとの間で視線を泳がせながら言った。
「『価値がある』。そりゃあ、こんだけ見眼麗しい変わり種なら、手懐けてみたいよなぁ」
その言葉が桂の耳に届いた瞬間、彼の心に一層深い軽蔑と怒りが湧き上がる。瞳には冷静さを保ちながらも内に秘めた激しい怒りが宿り、そしてついに、いつもその顔に宿っていた微笑みやあたたかみが完全に消え去ってしまう。…この内に秘めた表情、この気概と勇気こそが彼の本質であり、過激な言動に走りがちな尊王攘夷派をまとめる主要人物足る所以なのだろうと…はつみは初めてこれを目の当たりにし、理解した。
そんなはつみの視線を横に受けながら、桂は感情のこもっていない、極めて冷徹で事務的な声で本間に語り掛ける。。
「…わかった。あちらで話を聞こうか。」
だがそれすらも、本間は半笑いで飄々と受け流した。
「おっと、勘違いしないでくれよ。俺はあんたと時勢を語らいに来た訳じゃない。用があるのはこっちのお嬢ちゃんなんだ。俺の話を聞く気があるなら、清河殿にも返事を書いて差し上げてはどうです」
逐一、頭も口も回る男の様だがどうも一言も二言も多い様だ。清河と仲良くしている風なだけあってか、相手を挑発して焚きつけたり、わざといなすといった態度が身に沁みついている。事ここに及んでも態度に改善の見られない彼に対し、桂は冷静さを保ちながらもさらに一歩前に進み、真正面から言い放つ。
「…君こそ勘違いをするなよ。私は今、君の蛮行に対し極めて理知的に対処しようと務めているにすぎない。」
その言葉に、はつみはわずかに肩をすくめる。初めて見た桂の厳しい表情とその言葉からは、彼がその内心にどれほどの怒りを抑えているのかがはっきりと伺えたからだ。
「私のことは好きなだけ煽れば良い。君の事などどうとでも放っておけるからな。だが、はつみ君をそのように侮辱し、穢する事は許さない。」
静かに怒れる桂の心情を感じ取ったのははつみだけではなかった。それまで余裕気に笑みを浮かべていた本間の表情が一瞬『無』になり、場の空気が一変する。いかにも自尊心の高そうな本間には、桂が発した態度や言葉にひっかかるものがあったのだろう。だが抜け目なく冷徹な目で周囲を見渡し、背後に控える伊藤の存在にもチラリと意識を向けた後で、ようやく『やれやれ』と一歩下がった。
「わかったわかった。まあ、一つ学ばせてもらったよ。桂小五郎の弱点は、お嬢ちゃんだって事をね」
すぐに余裕を取り戻した表情で、口元に微笑を浮かべる。まだ挑発的な態度が前面に出張ってはいたが、戦略的撤退を選んだのだろう。一歩二歩と下がって距離を取り、なおも厳しい視線を送り続けている桂や伊藤に対して眉を上げ、肩をすくめてみせた。今度こそ穏便に別れる方向へと舵を切った様だ。
「俺ぁこう見えて幕府方にもツテがあってねぇ。まぁ、仲良くねんごろに、とまでは言わないが、それなりに距離を保っておいて損はないと思うよ」
しかし、桂は冷静に、且つ毅然とした態度で応じる。
「『価値がある』かどうかは自分で判断する。どうぞお構いなく。」
本間が番初めに煽ってきた『価値がある』という言葉を、改めて放つ桂。その言葉と前後の流れから察する最高の皮肉を受けて、本間は口元にはニヤニヤとした笑みを浮かべながらもじろりと桂を見やった。
「くっくっく…。たかが女絡みで大局を見失う御仁でない事を祈ってるよ。」
本間はその場から退き、周囲に集まりつつあった野次馬たちはわずかにどよめきながら自然と道を開けた。彼の背中が遠ざかるにつれて、桂の胸に積もった重い感情がゆっくりと解けていくのを感じる。喧嘩だ喧嘩だと周囲に集まりつつあった人垣を『見世物じゃないですよ~』と穏便に散らす伊藤の声を聴きながら、改めてはつみの方へと振り返った。
「怖かったね。もう大丈夫だよ。」
桂がここまで怒りをあらわにし、それを言葉にして本間に叩きつける様子は、流石の鈍感なはつみにも率直に伝わった様だった。今はつみの胸には、本間への憤りや恐怖、疑問といった感情よりも、目の前で自分を慈しむ様な視線で振り返ってくれる桂への感謝の念と、淡く不安定な思いでいっぱいだ。それでも何とか礼だけは真っ先に伝えようと言いかけた所へ、『無理をしないで』と言わんばかりにそっと頭に手を乗せてくる。
「いえ!あ、あの、庇って下さって有難う御座いま……っ」
暖かな手で、髪の流れに沿う様にやさしく、ゆっくりとひと撫でしていく。優しく見下ろしてくる桂は、笑顔のまま、だが臆せずまっすぐにはつみの顔を覗き込んできた。思わず左胸の奥がドキンと高鳴り、ひゅっと息を吸い込んだまま呼吸さえも止まってしまう…。
「…さっきはつい…勢いで言ってしまたのだけれど。」
―と、桂は俄かに表情を曇らせ、はつみの髪からも手を引く。その動きでまたハッと我に返ったはつみは、何やら少しだけ言いにくそうに言葉を選ぼうとしている彼を改めて仰ぎ見た。
「今先ほど、あの男にされた事で君の身体が穢れたとは思っていない…よくよく考えれば失礼な事を言ってしまった。すまなかったね。」
「あ…」
暖かな手に触れられてぼおっとする一方で、『穢れ』と聞いて一瞬何の事だかわからなかった。―が、直ぐに察しが付く。先ほど胸を鷲掴みに際、桂が本間に対面して放ったセリフについてだ。
「い、いえいえ!そんな…」
そうなのだ。この時代の人達にとっては、あのようにして白昼堂々往来で胸を鷲掴みにされるなど、人によっては自害すら考えてしまう程の凌辱行為に値するのだろう。勿論はつみも非常に不愉快に感じたし怒りも込み上げては来るが、『け、穢された!もう生きていけない!』と崩れ落ちる程の価値観までは持ち合わせていなかった。故に、桂が放った言葉だって『自分を守ろうとしてくれた』という『ポジティブ』な思考でしか受け止めていなかったのである。―だからこそ、そんな風に寄り添ってくれる桂の言葉が『なんて思慮深く労わってくれるのだろう』と、身に染みた。
「全然、大丈夫です!桂さんが私を庇おうとして下さっただけで嬉しかったです。ありがとうございます。」
「そう。フフ…いい子だね。」
まるで子供扱いされているような気がしたが、その微笑みに安心してしまうのも事実だ。恥ずかしさもあって反射的に周りへと視線を泳がせてしまうのだが、いつの間にか伊藤が姿を消している事に気が付く。恐らく本間の様子を見にったのだろうと言う桂に、内心『尾行してるんだ…』とも思った。先ほどの言葉なき豹変ぶりといい、その肝の据わった底知れぬ度量と機転の良さに『やはりあの伊藤博文なのだなぁ』などと思い馳せてしまう。
「まだ明るいけれど、今日は帰って休んだ方がいい。宿まで送ろう」
「あっ、はい。でも大丈夫です、桂さんもお忙しいでしょうから、私一人で帰れます」
もともと桂達とは偶然再会し、軽い流れで昼食を共にしただけだった。本間も言っていた通り、恐らく時間に追われているのは事実。きっと他に用事があるはずだ。だが二歩三歩と先行く桂が柔らかな微笑みを湛えて振り返るので、慌てて追いかける。
走り出そうとした時に、ふいに彼の香りを感じた。彼の残り香が自分の着物にまとわりつき、まるで彼がすぐそばにいるような錯覚に陥ったのだ。そしてその香りは、ただ柔らかく上品で良い香りというだけではない。どこか心を落ち着かせる安心感を伴い、この日を以て、はつみの胸に深く残る香りとなる…。
「―はつみさん。ほら、おいで。」
「あっ、はい、今いきます…!」
子ども扱いするような微笑みを浮かべ、手招きをする桂。駆け足で桂に追いついたはつみは、息を整えながら彼の隣に並び、宿までの短い道を共に歩き始めるのだった…。
※仮SS