仮SS:怒りの小五郎
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先日の大江戸大冒険で危ない目に遭った事を話し、伊藤が少し掘り下げて来たので、二人を信用していると告げた上で『清川八郎』を追っていたと小声で教えた。最近知り合った伊達小次郎という書生風の青年の事も、「恐らく思想的には桂さん達とそう違わないものを持っているんだけどとにかく頭でっかちで一匹狼で軟派っていうか…悪い人ではなさそうだし面白い男の子なんです。もしこの先会う事があったら、一度話してあげてもらえませんか?」と紹介するに至る。桂は

「伊達君の事は覚えておくよ。それにしても無茶をするね…。今度からそういう事をするは、私を呼んでもらえるかな?」

 などと言い出し、それを聞いた伊藤は口内にかき込んでいたシメの飯を吹き出してしまっていた。

「俊輔、君はいつになったらその吹き出すクセを直せるんだい?」
「す、すみませんのぉ。じゃけど、そげな安請け合いをされるんはいかがなもんかと思いますよ」
「お気持ちは嬉しいですけど、桂さんも色んな人と会うのでお忙しいですし…」
「うん…確かにそうだね。でも事前に文などで知らせてくれたなら、寝る間を削って時間を作るよ。君の為なら。」
「えっ、えっ?だだだだめですよそんな…お体を大事にして下さい!?」
「フフ」
「いやーいやーやめてくださいよ桂さん。危険ですから余計な事に首つっこまんでつかあさい。ていうか桜川殿もそがな無茶せんとって下さいよ!何かあった時、間違いなく孕まされますよ?」
「孕っ……」

 伊藤の余計な一言がまた波乱を呼んだが、しばらく笑い交じりに揉めた所で、3人揃ってうどん屋を出る事となった。



 軽食ながらも美味しかったし何より良い時間であった事に満足感を得ながら店を出る。しかし、異変は突然訪れた。伊藤、桂に続いてはつみが暖簾をくぐった時、店の外にいた人物に突然腕を掴まれたのだ。そしてあっ思う間に店横の壁へと押し付けられ、気がついたら見た事のない端正な顔が目前に迫っていた。

「探した探した。こんなに目立つ御仁だってのに、江戸ってのは広いもんだねぇ」

「う、え?」

 状況が読み込めず目をしばたたかせている内に、数歩先へ行っていた桂や伊藤も遅れて異変に気付いた様だ。しかし男は周囲を気にせずはつみの眼前に迫ったまま、自己紹介を始める。

「俺ぁ越後の本間精一郎だよ。以後、お 見 知 り お き を…」

 と、更に前髪が触れあい息遣いが唇に感じられる程顔を近づけて来た後、まるで弄ぶかの様に短く笑ってから妖艶にフッと息を吹きかけて来た。前髪が額の中央で分かれて舞うのを感じると同時に『ひゃっ!』と目を閉じるはつみ。突然壁ドンされてどういう事!?何!?と思うのと同時に、彼は今何と名乗ったか?聞き間違いでなければ、「本間精一郎」と言わなかっただろうか?と、感情と知識の激しい交錯で混乱する。

 本間精一郎といえば…と、はつみの脳内にある史実データを遡る。そう、この先武市半平太ら土佐勤王党が京にて台頭する際に絡んでくる、勤王志士の名前。そして彼は、極めて印象を残す事件に深く関わってくる人物だ…。

 それに気付いたはつみは、今目前に迫っている本間の顔をまじまじと見つめ返した。本間は心地よさそうにその視線を受け止めながら余裕のある表情を浮かべ、噂に聞いてわざわざ探しに来たはつみの顔を、首の角度を変えつつ舐め回すかの様にじろじろと見つめている。本間による初見での『評価』は極めて上々だった。

 赤みがあって白く透明感と張りのある健康的な美肌、華奢で涼やかな首筋に、薄く血色が透ける柔らかそうな耳。絹のようにさらさらと輝く髪が日の光をすかして小麦色に輝き、毛先がかかる耳元や首筋を更に魅力的に引き立てている。そして、形よく二重に開かれた大き目の目には宝石のような瞳がきらりとこちらを見つめ、角度を変えて覗き込むとその鮮やかさに吸い込まれそうな程に美しい翡翠色にも見え、しかし不思議と異国人どもの様な異質さは感じられず…非常に魅力的に見えた。
 思想だの立場だのといった事情は二の次にして、今すぐ連れ去ってしまいたいと思わせる様な…

「おっ、と?」

 壁に押し付けられた上に舐め回されるかの様な視線を浴びて硬直し、身動きが取れずにいたはつみであったが、不意を突かれた様な本間の声と共に自分に迫る影が薄まった事に気が付く。ハッとして本間の脇からなんとかして向こう側へと視線を投げると、あの普段人懐こい伊藤が見た事のない目つきで『本間』なる男の腕をはつみから引きはがそうとしてくれていた。そして、腕を引いた拍子で本間とはつみとの間に距離が生じた隙に、桂がするりと、二人の間を遮るかの様にその身を滑らせてくる。柔らかな香りがふわりと優しく包み込むかの様に間近に迫り、思わず『ほうっ…』として間近に見上げた桂は思っていたよりも背が高く見えた。自分に覆いかぶさるくらいの高い背丈であった本間と同じぐらいの目線の高さで、彼に対峙している。

「君、何をしているんだい」

 温厚で物腰柔らかな桂が、意外にも毅然とした態度で相手を制する。一見口元に微笑みを湛え、口調も柔らかな印象を与えるものであったが、その声ははつみが聞いた事のない様な重みや冷静さが含まれている様に感じた。思わず横から桂を見上げて様子を伺ってしまうはつみであったが、まったく怯む様子の無い本間はむしろ桂との対峙を楽しんでいるかの様に目前に顔を近づける。どうやら、長州藩士として名の知れた桂の事を一方的に知っている様だった。

「これは桂小五郎殿。清川先生が貴方と面会したいと文を出していた様ですが、日々お忙しいとの事でその返事すら出す暇もないとか…人気者は大変ですね。ところで本日は?ああ『変わり種の娘』とうどんで会食のご予定でしたか?」

 と、なかなかシビれる挨拶をする。

『本間精一郎』という名の他にもつい先ほど話題にしていた『清川八郎』の名までちらつき、何よりも目の前で火花を散らすように対立する二人を前に、はつみは緊張のあまり目を丸くして直立不動となっていた。

『あわわ…どうしよう…』と心の中で呟きながら伊藤に視線を送るが、まるで人を殺しかねないほどの目つきで本間を睨みつけているのを見てハッと息をのんでしまった。まさに、桂が一言「殺れ」とでも命じればすぐさま行動に移しそうな凄みを放っていたのだ。そして煽られる当の本人・桂と言えば、相変わらず涼し気な美顔に笑みを湛えてはいるが目の奥ではしっかりと目前の癪な男を捉え、そして堂々と皮肉を切り返さんとしていた。

「ええ。共に昼飯を食べるだけの時間でも、価値のある方とはご一緒したくなるものですから。」

「へぇ、それはそれは…」

 本間はわざとらしく驚いた表情を浮かべた後で明らかに挑発している様な眼差しを桂に向け、その美貌を前から右からと舐め回すように見ながら言葉を続ける。

「まあ確かに、『価値がある』んでしょうなあ。尊王思想に開国の利点を説きつつ『攘夷の根本』が云々といった面白い話をするとか。その語り口もさることながら立ち姿はさながら歌舞伎役者の様だの天女の如くだのっていう『女男』だとか。…んで、面白がって探してみたら『女男』じゃのぉてどうみても『女』じゃねぇの。」

 そう言うと、本間は桂を軽く押しのけ、白昼堂々、何の躊躇いもなくはつみの胸を撫で上げた。

「ひぁうっ!?」

「―なっ…?!?」

 本間の右手は遠慮なくはつみの胸を揉み上げ、確かに湾曲する柔肉を桂や伊藤に見せつけるように堪能してから手放した。はつみが目を白黒させて硬直している間に伊藤は更に深く刀に手をかけるが、桂が動いた事を瞬時に見極めて鯉口を切る事無く留まる。桂はというと、腰に差していた扇を抜き取り本間の鎖骨あたりに叩きつける様にして制止を加えた。怒りと驚き、困惑したような表情で眉間にしわを寄せる桂の表情と気迫を、どこ吹く風とでも言わんばかりに受け流す本間。

「なっ、なにするんですか…!?!?」

 斜め下あたりからわなわなと顔を赤くしながらか細い声を上げるはつみに、桂の扇を首元に受けた状態のまま、本間は構ってやった。

「やっぱりサラシも巻いてねぇのか。無防備すぎるねえ」

 「そっ、それは…」

 確かにその点をつつかれると言い返す言葉もなかった。もちろん、サラシを巻いて髪も全部一つに結い上げ、きっちりとした男装をする日もある。しかし自前で作った『すぽーつぶら』だけでも事足りると思ってしまう『ラフ』な日はサラシを巻くのを省略してしまうこともあって…今日もたまたま、その日だった。だが、実際それで本間に見破られたという結果をして『今日たまたまつけてなかったから』などと言ったところで、焼け石に水であり、後の祭りであり、覆水盆に返らずであり…とにかく意味がないということは充分理解できたために、反論もできなかったのだ。

大人しく論破された様子のはつみに満足げに微笑んだ本間は、再び桂を見やり、はつみとの間で視線を泳がせながら言った。

「『価値がある』。そりゃあ、こんだけ見眼麗しい変わり種なら、手懐けてみたいよなぁ」

 その言葉が桂の耳に届いた瞬間、彼の心により深い軽蔑と怒りが湧き上がる。瞳には冷静さを保ちながらも内に秘めた激しい怒りが宿り、そしてついに、いつも表情に宿っていた微笑み、あたたかみも完全に消え去ってしまう。…この内に秘めた表情、この気概と勇気こそが彼の本質であり、過激な言動に走りがちな尊王攘夷派をまとめる主要人物足る所以なのだろうと…はつみは初めてこれを目の当たりにし、理解した。
はつみの視線を横に受けながら、桂は感情のこもっていない極めて事務的な響きを以て本間に声をかける。

「…わかった。あちらで話を聞こうか。」

「おっと、勘違いしないでくれよ。俺はあんたと時勢を語らいに来た訳じゃない。用があるのはこっちのお嬢ちゃんなんだ。話を聞く気があるなら清川殿にでも返事を書いてやってくれたまえよ」

 逐一、頭も口も回る男の様だがどうも一言も二言も多い様だ。清川と仲良くしている風なだけあってか、相手を挑発して焚きつけたり、わざといなすといった態度が身に沁みついている。事ここに及んでも態度に改善の見られない彼に対し、桂は冷静さを保ちながらもさらに一歩前に進み、真正面から言い放つ。

「…君こそ勘違いをするなよ。私は今、君の蛮行に対し極めて理知的に対処しようと務めているにすぎないのだから。」

 その言葉に、はつみはわずかに肩をすくめる。初めて見た桂の厳しい表情とその言葉からは、彼がその内心にどれほどの怒りを抑えているのかがはっきりと伺えたからだ。

「私のことは好きなだけ煽れば良い。君の事などどうとでも放っておけるからな。だが、はつみ君をそのように侮辱し、穢そうとする事は許さない。」

 静かに怒れる桂の心情を感じ取ったのははつみだけではなかった。それまで余裕気に笑みを浮かべていた本間の表情が一瞬『無』になり、場の空気が一変する。いかにも自尊心の高そうな本間には、桂が発した態度や言葉にひっかかるものがあったのだろう。だが抜け目なく冷徹な目で周囲を見渡し、背後に控える伊藤の存在にもチラリと意識を向けた後に『やれやれ』と一歩下がった事で、場の緊張も一気に解れる。

「わかったわかった。まあ、一つ学ばせてもらったよ。桂小五郎の弱点は、お嬢ちゃんだって事をね」

 すぐに余裕を取り戻した表情で、口元に微笑を浮かべる。まだ挑発的な態度が前面に出張ってはいたが、戦略的撤退を選んだのだろう。一歩二歩と下がって距離を取り、なおも厳しい視線を送り続けている桂や伊藤に対して眉を上げ、肩をすくめてみせると、今度は穏便に別れる方向へと舵を切った様だった。

「俺ぁこう見えて幕府方にもツテがあってねぇ。まぁ、仲良くねんごろに、とまでは言わないが、それなりに距離を保っておいて損はないと思うよ」
 しかし、桂は冷静に、且つ毅然とした態度で応じる。

「『価値がある』かどうかは自分で判断する。どうぞお構いなく。」

「ククク、たかが女絡みで大局を見失う御仁でない事を祈ってるよ。」


 本間はその場から退き、周囲の者たちもその動きに合わせて自然と道を開けた。彼の背中が遠ざかるにつれて、桂の胸に積もった重い感情がゆっくりと解けていくのを感じる。喧嘩だ喧嘩だと周囲に集まりつつあった人垣を『見世物じゃないですよ~』と散らす伊藤の声を聴きながら、改めてはつみの方へと振り返る。


「桂さん!あの、庇って下さって有難う御座いました…」

「怖かったね。もう大丈夫だよ。」

 桂がここまで怒りをあらわにし言葉として本間に叩きつける様子は、流石の鈍感なはつみにも率直に伝わった様だった。今はつみの胸には、本間への憤りや恐怖、疑問といった感情よりも、目の前で自分を慈しむ様な視線で振り返ってくれる桂への感謝の念と、淡く不安定な思いでいっぱいだ。それでも何とか礼だけは真っ先に伝えようと言いかけた所へ、『無理をしないで』と言わんばかりにそっと頭に手を乗せてくる。暖かな手で、髪の流れに沿う様にやさしく、ゆっくりとひと撫でしてから彼は囁いた。

「…さっきはつい…勢いで言ってしまたのだけれど。今の事で、君の身体が穢れたとは思っていない。」

「あ…」


 暖かな手に触れられてぼおっとする一方で、『穢れ』と聞いて一瞬何の事だかわからなかった。―が、直ぐに察しが付く。

「だから、気にする事はないよ。」

 そうなのだ。この時代の人達にとっては、あのようにして白昼堂々往来で胸を鷲掴みにされるなど、人によっては自害すら考えてしまう程の凌辱行為に値するのだろう。勿論はつみも非常に不愉快に感じたし怒りも込み上げては来るが、『け、穢された!もう生きていけない!』と崩れ落ちる程の価値観までは持ち合わせていなかった。しかしだからこそ、そんな風に寄り添ってくれる桂の言葉が『なんて思慮深く労わってくれるのだろう』と身に染みるのである。

「はい、大丈夫です!」

「そう。フフ…いい子だね。」

 まるで子供扱いされているような気がしたが、その微笑みに安心してしまうのも事実だ。恥ずかしさもあって反射的に周りへと視線を泳がせてしまうのだが、それでいつの間にか伊藤が姿を消している事に気が付く。恐らく本間の様子を見にったのだろうと言う桂に、内心『尾行してるんだ…』と思う。
それと同時に、先ほどの豹変ぶりといい、その肝の据わった底知れぬ度量と機転の良さに『やはりあの伊藤博文なのだなぁ』などと思い馳せてしまう。


「まだ明るいけれど、今日は帰って休んだ方がいい。宿まで送ろう」

「あっ、はい。でも大丈夫です、桂さんもお忙しいでしょうから、私一人で帰れます」

 もともと桂達とは偶然再会し、軽い流れで昼食を共にしただけだった。本間も言っていた通り、恐らく時間に追われているのは事実。きっと他に用事があるはずだ。…それはそうと、清川からの面会要請を受け流しているというのは少し驚いた様な心地もしたが…自分が清川の後を追いかけた話をした時、桂は何を考えていたのだろう等と不意に考え巡らせている内に、先を行く桂が柔らかな微笑みを湛えて振り返るのに気が付いて慌てて追いかける。

彼の残り香が自分の着物にまとわりつき、まるで彼がすぐそばにいるような錯覚に陥っていたのだ。そしてその香りは、ただ柔らかく上品で良い香りというだけではない。どこか心を落ち着かせる安心感を伴い、はつみの胸に深く残る香りとなる。


「あっ、桂さん!まって…」

 はつみの声に桂は立ち止まり、また子ども扱いするような微笑みを浮かべながら、『ほら、おいで』と手招きをした。駆け足で桂に追いついたはつみは、息を整えながら彼の隣に並び、宿までの短い道を共に歩き始めるのだった。







※仮SS