文久二年10月、この頃の以蔵は、京坂を震撼させる『土佐尊王攘夷派の天誅』によって、町で大きな顔をする輩も増えた同志達達との間に距離を感じてやまなかった。『土佐勤王党員』として共に歩む筈であったのに一度も『お国のための仕事』をさせてもらえない武市の真意を理解できず、はつみを守る使命のやりがいとの間で葛藤していた。また、同志らからも『桜川の密偵』などと思われる言動をされることが増える一方で、以蔵はとにかく腕が立つ、実力だけは武市先生の懐刀と言われるに相応しいらしい、天誅にも参加していたのでは?暗殺の請負人?といった噂に尾びれ背びれが付き、一部では『人斬り以蔵』などという噂も出回っている様だった。こういった様々な理由から、当然、土佐藩邸にも居づらさを感じていた。
そんな中、はつみの『袋のねずみ』事件が勃発して2、3日も経たぬ日の事。
この日、以蔵は『袋のねずみ』事件に関わる者を偵察するがてら、一人で呑んでいた。すると裏通りの方から娘の悲鳴が聞こえてくる。武市の役に立つ事だけを考えてここまで来たが、元来人見知りでおとなしく内向的、事なかれ主義の以蔵。『腕の立つ用心棒』はたまた『人斬り以蔵』という噂の印象から好戦的で暴力的な輩だと思われがちであったが、こういったイザコザにはむしろ背を向けて関わろうとない性格であった。
しかし今回は、暴漢らの話し言葉に土佐訛りがみられた事と、娘の悲鳴と共に陶器のような何かが派手に割れるなど少々耳についた事もあり、しばらく考えてからのっそりと立ち上がると、様子を見に行く事にした。
薄暗く人気のない路地裏で、2,3人の浪人風情が娘を取り囲んでいた。娘は見た事の無い者であったが、はつみよりも若々しく小柄な町娘といった風貌だ。
「…何をしちゅう…」
「うん?なんじゃおまん?どこのもんじゃ?」
「……」
無精ひげで痩せた身体に身なりも薄汚れ、極めて柄の悪い連中だ。言葉の端々から聞こえる自然な訛りからして、土佐のものである事は間違いなさそうだが…本当に武市の部下なのだろうか?などと、圧を出してくる相手のすごみなど全く眼中にない様子で眼前の状況を観察していた。足元には赤い何かが散らばり、ぱたぱたと動いている様に見える。…どうやら金魚の様だ。陶器の様なものも散らばっているのを見る限り、捕らわれている娘が運んでいたものなのだろう。
とりあえず目の前に躍り出て来た男は無視して、娘の腕を強引に引こうとしている男の方へと向かう以蔵。男達は以蔵を警戒しながら『おい』『おまんもお楽しみが目的か?へへへ』などと声をかけ続けていたが、手が届く範囲まで近付くとためらうことなく無言のままその腕をひねり上げてやった。
「い゛ぃ゛ぃっーッ!?!?!」
「ひいぃっ!!!」
その際、突然解放された娘がその場に倒れ込み恐怖と驚愕の表情で見上げて来たがこちらもチラと無事を確認しただけで特に構う事なく、ただ、腕をひねりあげた男の袖部分に何らかの血痕がある事に気付く以蔵。
「お、おい!よさんか貴様死にたいんかァ!?」
男の一人が軽率に殴り掛かって来たのを、無駄のない動きでしれっと避ける。相手は勝手につんのめって転んでしまい、それを見た周囲の男らが焦って刀を抜き構えた為、娘が『ひぃっ』と声を殺して叫ぶ。だが以蔵は男達らとの間合いを冷静に見計らっており、差し向けられた刀の切っ先に付着した血液の痕跡をも鋭く見据えていた。男の手をひねり上げたままの状態で、以蔵は彼らに訪ねた。
「…その血はなんぜよ」
以蔵の問い掛けに応える事よりも自分たちと同じその訛りに気が付いたらしく、突き付けた刀を下げながら焦った様に弁明を図ろうとする男達。
「おっ、おい!おまん土佐のもんじゃろう!まてまて、わしもじゃ!」
「京におるならおんしも同志なんじゃろう!?ほれ、土佐勤王党じゃ…!」
あからさまに懐柔を狙って態度を変えてくる男達に対し、以蔵は相手からは見辛いであろうその表情を一切変える事無くもう一度問いを口にした。
「俺はおんしらの事など知らん。それより、その刀についた血は何じゃち聞いちゅう」
同志であれば犯罪現場であっても打ち解けるのが彼らなのだろうか。つっけんどんな以蔵の反応に面食らいつつも、ようやく彼の問いが彼らの思考にも届いた様だ。緊張の色は途絶えず若干不満そうな表情ではあったが、指摘された刀の切っ先をチラつかせながら説明をする。
「おいおい案ずるな!人は斬っちょらんぜよ!」
最近では党首である武市が関白・近衛卿から天誅を控える様苦言を受ける様な事もあり、武市の腰巾着である柊智らが目頭をあげて『無用勝手な天誅はするな、武市先生のお名に傷がつく』などと触れ回っている事もあり、その取り締まりか何かかと勘違いした様だ。黙っている以蔵に対し、虚栄心の強い奴らはまるで手柄の様に真相を告げ始めた。
「ほれ、武市先生のお側に奸物がおるじゃろう?ちっくと驚かせる為に細工をしたんじゃ。」
「……ねずみか」
「そ、そうじゃ、そうじゃ!ほほほ!そうかえ、おんしの耳にも届いちゅうかえ!!!」
以蔵の一言に沸き上がった男は、周囲の仲間らと視線を合わせると『ひゃはは』と愉快そうに笑い始めた。ため息をついた以蔵は手にしていた男を解放し、その動きを見た他の男達はますます以蔵を同志だと思って馴れ馴れしく肩を叩こうとまでしてきた。それに対し以蔵は、自分に向けて差し出されてきたその手に向かって、裏路地に舞い込むつむじ風さえも切り裂く様な速さで刀を抜き放つ。
「え」
「――ひぃぃっ…!」
抜き放たれた刀はヒュ…と風を斬る音を立てて、差し出された腕のすぐ下を撫でる様に男の脇腹付近へと突き付けられる。一瞬遅れてから袖がパラリと切り落とされ、露わになった腕へ視線をやった男は一体何が起こったのかを理解するのにもう一瞬必要だった。
「な、何をするぜよ!?」
「わしらは同胞、同志ぜよ?!」
「俺はおんしらの事なんぞ知らんち言うちょる」
なんという偶然か。目の前のこいつがはつみを貶めようとした犯人である事を確信した以蔵は、その雅な切れ長の目に怒りの様な感情を滲ませながら改めて刀を構える。今の紙一重の一振りで尋常ではない技量を推し量った男達は見るからに恐れおののきながらも、思想を語るでもなくただただ、中身の無い同情を誘うだけの戯言を垂れ流し始めた。こいつらは、下っ端連中であるくせに商人らに対し『献金』を迫ったり飲食代を払わないなどといった悪行を繰り返す『くずれソンノージョーイハ』共だと見切りを付ける以蔵。こいつらの悪行のせいで武市本人や土佐の勤王派、土佐勤王党の名が怪我されている事をはつみが悔やんでいた。つい先日も、はつみが懇意にする料亭『白蓮』の亭主が遭難していた事も記憶に新しい。
それに何より、血まみれのねずみを袋に入れ、武市の寓居内であるにも関わらずはつみの寝室前に放り込んだ。命に係わる事ではないが、極めて悪質であり、『逃げ場のない血まみれのねずみ』をはつみの足元に放り投げたと意図する所を、今、刀の切っ先を突き付けてでも聞き出す必要があった。
しかしこの時、男達の一人が「まさか…人斬り以蔵…」との言葉を漏らした事で情況は一転する。とたんに男達は顔を見合わせ、小袖をこれ以上ない程ギリギリのところで美しく斬り落とす様な技量を持つ男が、あの武市の懐刀とも言われる『人斬り』以蔵である事に納得した様だ。逃げ出せる者から逃げ出し始め、刀を突きつけていた男もまるで失禁でもしそうな程の絶望的な表情で以蔵を見ている。じり…と一歩下がったのを到底見逃すわけはなかったが、一歩分伸びた間合いを詰めるでもなく、以蔵は短く彼に言い放つ。
「…桜川には二度と関わらんと言え」
「へ…え…?」
「今後一切、あいつに関わる様な事せんと誓え」
動揺しきった男は決してとぼけようとしている訳ではなかったが、珍しく苛立ちを覚えている以蔵は一歩の間合いを付ける事無く、ただチャキと音を立てて再び切っ先を男へと向けた。先に逃げ出した男が遠くで『人斬りだー!!!』と叫びながら走っていった事もあり、事実無根ながらも場を離れなければならない必要性も感じていた。そんな威圧感もあって、男はもう夜は冷え込むほどの季節だというのに大量の冷や汗を吹き出しながら、さまじい早口で返事をする。
「わわわわかったき、わかったき!ちっくと驚かせちゃろうと思うただけなんじゃ!も、もうこがぁなことはせんし、あの女男にも関わらんき!なっ!なっ!?」
「……また何かあったら、次は殺す。…いけ」
「―ひぃぃぃっ!!!!」
武市と同じ思想を持つ者とは思えない程に、男は情けなく転びながら夜闇の町へと逃亡していった。一方で、あちこちで奉行所の捕り方の笛の音があがり、以蔵は小さく舌打ちをすると娘を気に掛ける事もなく逃げ出そうとする。
「ま、まっとぉくれやす!」
ここで娘が以蔵を引き留めた。反射的に振り返ると真剣な表情でこちらに近付き、進路方向へと手を指し示しながら逃亡の助力を申し出て来た。
「こっちに来とくれやす。安全な場所がおますさかい。」
「………」
わかった、とばかりに頷く以蔵を早速案内し駆けだす娘。以蔵も追いかけようと踵を返すのだが、はたと気付いて、足元でぱたぱたと跳ねている金魚を見下ろした。
「…はよう、こちらへ!」
娘がせかす様な囁き声を投げかけてくるので、以蔵はそのまま彼女を追い、捕り方らの捜索に遭遇することなく逃れる事ができたのだった。
匿われたのは、近所にあった娘の自宅だった。家には誰もおらず一人暮らしの様で、寝たふりをして灯りを付ける事もなく、月明りのみが差し込む暗い部屋でただひたすら、遠くに聞こえる捕り方らの声を警戒しつつ夜が更けていく。
まだ捕り方の気配はあったがようやく落ち着いたと思えた頃、以蔵は彼女を振り返り「なぜ匿った」と声でなく視線で訴える。単純に見ず知らずの男を自宅に匿うというのもそうだが、暴徒が『人斬り以蔵』と行った際、彼女もまた、その噂を聞いた事があったのか口を押えて恐怖に慄いている様子を視界の角に捉えていたからだ。
前髪の隙間から垣間見える美しい目鼻立ちに気付きながら、娘は今となっては『不安』や『恐怖』ではなくただ『緊張』した様子で、以蔵の視線に応えてみせた。
「あ、あなた様はウチを助けてくれはったから…」
「………」
それ以来、会話はほとんど無く、当然他の何事もなく時は過ぎていく。以蔵はずっと外の様子探るのと同時にはつみの事を考えていた。『自分が帰らない事を心配して出歩いたりしていなければいいが…。あやつはそういう女だ、余計な心配ばかりさせる』『袋のねずみ事件の犯人を見つけたが取り逃した』『だが「むやみに斬らなかった」ことを、はつみは褒めてくれるだろか』…と。
一晩中共に過ごした二人であったが、娘は以蔵を信頼したのか緊張続きで限界だったのか、夜明け頃にはいつの間にか寝息を立てていた。以蔵はそのままじっと動かず外へと意識を向けつつも操を思い出し、そして夜明けと共に、娘には何も告げず静かに去っていくのだった。
いつも撒き餌をやっている雀の声と差し込む朝日が眩しくて、ぼんやりと目を覚ます娘。やけに眩しいと思ったら、いつもの布団とは全然かけ離れた場所で寝落ちしていた事に気付く。はて、眠る直前までなにをやっていたのか…
「―はっ!いやや、寝てしもたわ!」
昨晩の事を思い出した娘は慌てて周囲を見渡した。『人斬り以蔵』の姿はどこにもなく、居たという痕跡もない。…闇夜に人影を見ただけだったのかと思ってしまう程、闇夜に溶け込みやすい人ではあったが……。ゆっくりと落ち着いて昨晩の出来事を思い出し、やはり、彼は悪い人ではなさそうだし、何より人斬りと言われる様な異常性や禍々しさなどは感じられなかったと実感する。であれば、きちんとお礼がしたかった…と、以蔵の面影を思い出し、トクトクと少しだけ早鐘を鳴らし始めた胸元にそっと手を添えた。
「はいはい、あんたら、お待たせどすえ。」
一日の始まりに早速動き始めた娘は、いつも通りに庭先へ集まっている雀たちの為に撒き餌を手にして軒先に出た。人慣れした雀たちは驚き飛び去る事もなく、ぱっと撒かれた餌へ嬉しそうに飛びついている。一羽、見慣れぬ白くて大きめな鳥が紛れ込んでいる事にも気付いてはいたが、「あんたもお腹がすいたんやね」と気にせず餌を分け与えてやった。
娘は晴れた朝明けの空を見上げ、昨晩の緊張と変な寝方をしたせいで凝りに凝った身体をぐーっと伸ばす様に腕を伸ばし、「今日も頑張りまひょか~」と雀たちに言いながら、腰を左右にひねり始めた。
その矢先、腰をひねった先でフと目に入った玄関先に見慣れぬ竹筒が置いてあるのを見つける。
「あらやだわ。うち、何か忘れてしもたんやろか?」
とととっと近付いて手に取ると、中に液体が入っている様子が伺えた。蓋を抜いて中を覗いてみると、驚いた事に金魚が数匹泳いでいるのが見える。
「これって…ひょっとして昨日の…?」
金魚の数は合っていなかったが、よく見ると砂利の様なものが底に沈んでいるのが見えた。間違いない、昨日襲われた時に落としてしまったまま逃げ帰った為に路上へ置き去りにした金魚たちだと直感が働く。…きっと、あの『以蔵』がまたあの場所へ立ち戻り、まだ生きていた金魚を入れて持ってきてくれたのだと。
「……以蔵さま……」
想像でしかなかったが、それでも、昨日の印象だけで以蔵が金魚を救ってくれる場面を思い描けばとても自然に想像する事ができた。『人斬り以蔵』の噂の出所はわからなかったが、少なくとも、自分にとっての以蔵は『人斬り』などではない。むしろ、自分や金魚の命を救ってくれた恩人だ。
「ほんま、おおきに。またいつかお目にかかれるんやろか。」
竹筒を大切そうに両手につつみ、この京の空の下、どこかにいるであろう以蔵を想って、娘は頭を下げるのだった。
※仮SS