仮SS:学問の徒
R18


横濱、江の島、高尾山に続き誘いを断った伊達(陸奥)。しかしはつみが宿泊する旅籠には頻繁に『伝言』を持ち込んでおり、交流は盛んに行われていた。はつみはその交流方法について『そういう交流スタンスなのかな…』と思っていたのだが、そんなある日、街中で丁度伊達を見つけ、声をかけそびれたのもあって追いかける事にしたのだった。


「伊達くんー!」

「!?―げえっ」

 呼び止められた伊達ははつみを目視するなり逃げ出そうとしたが、結局家に駆けこむ直前ではつみに捕まってしまった。

「何しにこんな所まできやがった?」

「いや町で見かけたからつい…」

「勝手に後をつけるんじゃねえ」

「えっ、それ『おまいう?』だよ?伊達くんだって人を尾行しまくりじゃん…」

「『おまいう』ってなんだよ」

「お前がそれ言う?とか、お前がそれを言うなってこと」

「お前お前って…もう少しやんわり話せねぇのかよ」

「えっ、でもおまいうって何って聞かれたし今のはしょうがなくない?それに伊達くんだってお前お前って言うよ?えっ、それこそ『おまいう』だよ?」

「あ~うるせえな~!」

「あははははっ!」

 …など、なんだかんだとゴネあいながら、致し方なく…といった流れで、はつみを部屋にあげる伊達であった。


 部屋に入ったはつみは『わあ~!』と言いながら部屋中を見回している。まず長屋というのもあって非常に年季が入った『小屋』であったが、それ以上に凄まじい量の本と紙束で足の踏み場もないほどだった。沢山本を読んでいる事を褒めると、まんざらでもない様子で『学才を高め世論を『正義と真実』へと向かわせる人物となる為、使える金は日々の小銭以外なるべく教材(本)へと極振りしている』と聞かせてくれる伊達。一方で部屋の角には内職用の雑貨も見られたりした。興味心から見ていると、伊達はため息がてらに口を挟んでくる。

「まあ、どこかしらに仕えてる訳じゃないし自力で食ってく必要があるからな。そーいう事も必要になるワケ」

 その一言で、彼があちこちへ行く事を断ったりした理由を察した気がした。自分は潤沢な支援のもとに遊学までさせてもらっており、とんでもなく恵まれている事を当たり前に考えてはいけないとも思う。だがプライドも高そうな伊達にそれを直接言うのは良くないとも感じ、言葉を選んだ。

「勉強も生活の事も全部自分でやってるなんて、本当にすごいよ」

永らく一人でこの生活を続け、家族友人も含め普段あまり人から褒められる事がないのか、またまんざらでもない様子を見せる伊達。軽口が多いが意外と真摯に受け答えをしてくれるというのは、先日の尾行大作戦の際から感じていた。

「うるせぇなぁ。あんま茶化すんじゃねぇよ」

「茶化してなんかないよ!ねえ伊達くんだったら近所の子供たちに勉強を教える事もできるんじゃない?」

「あ~、それは俺も考えたけど、ガキ好きじゃねぇから。」

「あ~なるほど。ちょっとトガッてるんだよね伊達くんて」

「トガッてるってなんだよ」

 等と、色々と感心して話を聞いている横で、突然、どこからともなく男女の艶めかしい声が聞こえ始めた。聞こえたのは伊達だけでなく当然はつみの耳にも届いているという事だ。



『…ぁ…ぁぁ…いいよ、いいよアンタぁ…』

『へへ…おぼこもびちゃびちゃだぁ…』

―じゅっ!じゅるるるるっ!

『あ~~れ~~~』


「……!?!?」

 まさに『耳を疑う』を体現するかの如く反応を見せるはつみ。決して声は出さないながらも眉間に深々とシワを刻み、壁と伊達の顔を交互に見やっている。すると伊達はため息をついては露骨に舌打ちをした。

「ちっ。また始まったか…」

 呆れた伊達が悪態をつく。真後ろの長屋に住んでいる男がしょっちゅう女を連れ込み、昼夜問わず男女のまぐわいを致しているのだと説明する。唖然とするはつみの耳に、ますます『行為』が白熱していく様子が露骨に伝わってくる。

「こっちはお国の為に日々学問にはげんでるっていうのによォ」

「そ、そうだね…(うわぁ露骨に『ギシアン』って感じ…うわぁ、うわぁ~)」

 この会話を最期に、二人の会話は途切れてしまった。
男の粗い息と共に女を愛でる声、女が善がり淫らに求める声、ギシギシと床が軋む音に加え、こうして黙ってしまっていると肉がぶつかり合う音や妙な粘着音まで聞こえてくる有様であった。この隙間だらけの小屋にあっては、壁というものは物理的に二つを隔てているという以外にはもはや壁たる機能を有していない。

 悪態を吐きながらも慣れてしまっているのか、伊達は黙って書物に目を落としている。耐えられないはつみは耳を塞いだまま、状況を何とかしようと声をかけた。自身の耳をふさいでいるせいでやたら大きな声で話しかけてしまう。

「あ…あのさあ!こういう時、いつもどうしてるの?!」

「はあ?別にどうもしねぇよ。心頭滅却すれば火もまた涼しだ。」

「―ごめん、もう一回言って?」

「…耳!耳塞いでるから聞こえねぇんだよ!手を外せ!」

 確かにこれでは言語疎通もならないので仕方なく彼が身振り素振りで示す通りに手を外すと、喘ぎ声は絶賛継続中であった。やはりどうしてもいたたまれない感覚に陥ってしまうので再びそっと耳を塞ぐはつみ。せめてもと、耳に被せた手の角度を伊達がいる方へと開き、彼の声を拾おうとはしているが。

「と、とりあえず外出ようよ…そうだ、私の宿に来たら?いくつか本持ってさ。ね?」

 こちらが迷惑そうに会話をしているのは裏の男女にも聞こえている筈だが、どうもわざと淫らな声を聞かせようとしているのか、一向に状況は変わらない。伊達の声を聞く為もあって不用意に近付いてくるはつみに、伊達の方は若干機嫌が悪くなってきた様だ。

「あ~、イラついてきた~」

 苛々してきたというのは精神的にというよりは性的に下半身の余裕が無くなってきたせいでイライラしてきたと言っていい。

「そうだよね。こんな状況じゃ勉強なんて厳しいもんね」

「…お前はほんっと頭ン中お花畑だな。」

「え?違うの?」

「…そうやって近付いてくるとか…」

「あっ、ごめん。ほら、騒音?凄くて声が聞こえないから」

 耳を近づけ、年寄の様に聞こえない素振りをしてくるはつみ。伊達はあからさまに『は~っ』と息をつくともしゃもしゃと髪をかきあげ、改まった様子で向き合ってやった。

「15で江戸に出て来てからこの方、長屋に住めば1日中腰振ってる様なやつばっかりだ。その因果か近所にはガキも多いしな。…それ自体は慣れたもんだよ。」

 ―それが今回に至って何故自分はこんなにも苛々するのか?という所には、口から先に生まれて来た様な口達者な伊達であっても明確な言葉とするのは流石に憚られた。原因はどう考えてもはつみという存在にあるのだという事はとっくに自覚があったからだ。

「それは…凄い集中力で勉強してたんだね。ていうか伊達くんて15才の時からここで一人暮らししてるの?今何歳?」

 それに加えて兎に角はつみときたら超がつく程の鈍感だ。今もここまで言ってやってるというのに察しのひとつもなく、『今何歳なの?』だなどと全く色気のない事を聞いてきやがる。先日共に清河を探した時の事件でもそうだったが、こっちは状況的にも随分とはつみを意識してしまうというのに、明らかに鈍感すぎないだろうか?それとも女が全員こういうものなのか?それとも、絶対無いと言い切りたいが自分で思っている以上に自分がアガり症なのだろうか?

「…18だよ」

 腕を組み若干ぶっきらぼうに返すも、彼女はお構いなしだ。

「えっ!年下だったの?!3つも!?随分しっかりしてるなぁ…」

「俺は最初から、お前は俺より年増の女だと思ってたけどな」

「ちょっとそれどういう意味?間違っちゃいないけどさ…」

 しかしまだ何か言いたそうにこちらをじろりと見てくる伊達の様子に気付いたはつみは、改めて話を聞き取ろうとして耳に当てていた手を外し、周囲の音を確認する。しかし『騒音』は依然と続いている事を確認すると口をへの字に曲げ、露骨に不快感を露わにしてみせた。その上運悪く、せっせと致していた男女がついに『極まった』らしき様子が伝わってきてしまう。


『あ゛、あ゛ぉ、んんぉ゛~~~』

『あああっ!出るっ、出るぞォ、おたき!おたき!あっ!はあああっ!』

―ばったん!ギシッギシッ!ばたばたばた…!!!



 …これを聞き届けたはつみと伊達は更に肩を落とし、心からうんざりとでも言わんばかりに深いため息をつく。粗い息遣いが聞こえてくるだけでようやく『静かになった』といえる空気の中、はつみは今の一声でゲッソリした様子で声を発した。

「…ごめん、話それちゃったね。それで何でイライラしちゃってるんだっけ?」

「はぁ~」

 話を戻そうとしただけなのにいかにも当てつけとばかりにため息をつく伊達に、はつみも眉を顰める。彼はそこら辺に散らばっている本や紙に埋もれていた風呂敷を抜き取ると、文机らしき家具の上に重なっていた本をばさばさと包み始めた。その動作は荒々しく、苛立ちを抑え込んでいるのが一目瞭然だ。

「この、隣人が昼間っから致してるような状況で、すぐ傍に女がいる俺の身にもなってみろっつーの。」

「うん?」

 不意に独り言の様に漏らした伊達の言葉にはつみは一瞬言葉を失い、その言葉の意味を測りかねている。伊達が言わんとする事がまだ理解できないのだ。伊達はヤケにでもなったかの様に、更に言葉を続けた。

「いつもなら『一人でどうとでもできる』けど、そうもいかねぇだろ?」

「はぁ……ええ?」

「~はあ~っ!」

 伊達からしてみればもう殆ど『答え』を『告白』しているのと同意義である言葉を告げたにもかかわらず、驚くほどに無自覚でいるはつみには刺さり様もない。それはつまり、自分は『男』という対象として捉えられていないという事を突き付けられている様なものであった。隣の部屋で盛んな男女が声も筒抜けの状態で致しているなんていう非常識な状態にあっても、彼女は自分に対して『男』を意識し、警戒する事すらもないのだ。

 伊達にとっては、無理矢理脳内にねじ込まれてくる他人の嬌声によって込み上げてくる性欲に『今』対処できない下半身の苛立ちよりも、はつみにとって自分が男としてまったく意識されていないという現実にこそ苛立ちが勝ってきつつあった。

 そんな事を一瞬のうちに脳内で考え巡らせた後伊達は、手元で風呂敷を結び終えるとぶっきらぼうに入り口付近へと投げつける。そして次に『この鈍感が!』と言わんばかりにはつみの眼前へと押し迫った。その距離感は、先日の清河尾行作戦での不可抗力な密着事件を彷彿とさせる。しかも今回は明確な故意のもと、さらに至近距離だ。いわゆる『お花畑』な思考回路でそこに立っていた流石のはつみも、伊達の整った美顔が眼前に迫ることで思わず心臓が高鳴り、驚きで動揺するに至るのである。
 はつみが伊達を同年代か年上だと勘違いしていた理由は、ざっくばらんに話をしてくれるその態度の大きさ故にもあったが、やけに垢抜けた長身スタイルの良さや、その顔面の良さによる印象が大半であった。男性として意識していた訳ではないが内心『イケメンだなぁ』などと思っていただけに、今この様に距離を詰められてしまっては本能的に心臓が跳ね上がってしまったと言っていい。そして足元の本に躓いて体勢を崩し、そのまま散らかった紙の上へと尻もちをついてしまった。体勢を崩してしまっては否応なく男性有利となってしまう状況に、伊達は更に追いかける様にして膝をつき、距離を詰めていく。

「近っ!な、なに?!」

 思わず声を上げるはつみに対し、伊達の鋭い視線は動じることなく彼女を捕らえたままだ。寧ろ、ここまで露骨に近づいてやっと緊張した様子を見せる事に更なる苛立ちを覚えるくらいだ。

「…なあ?健全な男ならこーゆー事を望んじまう訳だよ。だってそーいう状況なんだから」

「はあっ!?」

 ここまできてようやくはつみが理解…否、連想できた事というのは、『お隣が盛っていてつられてしまった時、伊達は普段一人で性欲処理をして凌いでいたが今は自分がいて邪魔だから処理できず、色んな意味で苛々している…のではなかろうか』という答えであった。

「わわわ私が居たら、その、邪魔っ…で、できないってこと?」

「そーだよ。邪魔なんだよ。一人で処理するもんも、お前が居たらできねえだろうが」

 『まさか』と思っていた返答が真正面から直球で返ってきた事に驚愕するはつみ。自分からそう言ったものの、露骨に『性欲処理の邪魔』などと言い返されると何も言い返せず『ぐぬぬ』とばかりに唇をひきしばる様子を見せた。

「き、気付くのが遅くなってごめん。そういう事だったら、私はほら、すぐ出て行くから…」

 伊達への気遣いのつもりで言ったのだが、はつみ自身もこの距離感にも耐えられそうになかった為、そそくさと場を離れようとする。しかし、ひたすらにはつみを見据え続けていた伊達の手がぐいとその肩を掴んだ。

「なあ…」

 尻もちをついたはつみの身体を跨ぎ、上から覆いかぶさるかの様にして距離を詰めてくる。肩から二の腕を包む掌が熱く、伊達の整った眉と素晴らしい均衡を保って流れる切れ長の目が、何かを告げようとジッとこちらを見つめた。はつみの息が止まって全身が硬直し、一気に顔が熱くなるのを感じた矢先…堰を切るかの様に、彼女は声を上げた。

「だっ……だめーっ!うそっ、本気じゃないでしょ!?だめだって!勢いだけでこんな事しちゃ…!」

 何を言い出すかと思えば、はつみはまるで年下の伊達に言い聞かせるかのように考えを改めさせようとした。緊張を極めつつもどこか『コミカル』な表現になっているのは、伊達が本来話しやすい相手であり、且つ年下だとわかったからなのかも知れない。まだ十代という若い男子がその場の雰囲気と勢いで女友達と致したくなった、というどこかで読んだ漫画ストーリーを咄嗟に連想し、そんな過ちは犯してはならないと説教をしているのだ。当然、伊達がその『漫画すとーりー』なるものを連想できる訳もなかったが、はつみが自分を年下扱いして受け流そうとしている事は直ぐに察しがつく。

「ねっ、あの、他にも楽しい事あると思う!」

「なんだよ、男女の行為より他に悦しい事って。」

「『たのしい』っていう字が違くない?」

「今そういうウンチクいらねぇから。本能だろ、こういうモンは」

「本能って…だめだよ、勢いだけで好きでもない人とそんな事しちゃ」

 『好きでもない人と』。この一言が特に伊達の胸に深く突き刺さったのは言うまでもない。はつみは伊達の行為に対して何を以て『好きでもない人と致そうとしている』と断定しているのだろう。そして彼女が伊達に向かってそれを言いながら拒もうとする以上、伊達は彼女にとって『好きでもない人』だと言っているのと同等である。

「…それも含めて、本能だろ」

「どういうこと?」

 こいつの鈍感っぷりも『本能』だと呆れる伊達の手が、まるでわからせようとでもせんばかりにはつみの肩から背中へ向けてするりと流れていく。撫でられて不自然な体制のまま背筋をこわばらせたはつみに、伊達の顔が一層近付こうとした…

その時だった。


『~あぁんっ!あんたぁ、よしとくれよ』


隣の部屋から再び善がり声が聞こえて来た。その途端、間近に見つめ合っていた伊達とはつみの表情が、まったく同じ間合いでスンと真顔へと落ちていく。

『あうっ、はあ、はあ、あっちらはもう若くはないんだか、ら…ぁあん』

『へへへっ!いいじゃねえかい。若気に当てられてぇ、もう一発打ち上げようや!』

「……なんだぁ……?」

 彼らは、伊達とはつみの『初心な』様子を壁越しに聞いて盛り上がり、再び行為を始めたようだった。はつみはその声を聞いて伊達がどう反応するのかと緊張したが、彼の顔にはむしろ白けたような表情が浮かび、先ほどの苛立ちが消えていくのが見て取れた。彼の雄がさらに猛るかと思われたが、逆に興ざめした様子で肩の力が抜けていったのだ。そうこうするうちに、伊達ははつみに対して覆いかぶさろうとしていたその身体を横に反転させ、尻もちをついた状態のはつみの横に座り込む形で床に腰を下ろす。勿論、散らばったままの本や書類を構う事なく押しつぶして。そして清河尾行作戦での密着事件の際と同じように、誰にぶつけるでもない感情を発散させるかの様に髪をぐしゃぐしゃと搔きまわしていた。

一連の流れを緊張と驚愕の表情で見ていたはつみであったが、ぼさぼさ頭のまま視線をこちらに向け、横顔のまま「…ンだよ…」と一言いう伊達に「…ううん」と、不思議とどこか喜ばしいような可愛らしいような感情のままに微笑んで見せる。

その笑顔を向けられて内心沸き起こる感情とは別に、今日イチ大きくワザとらしいため息をついてみせる伊達。

「ナンダカンダ……さっさと出るか。この性欲の長屋から」

「性欲の長屋…う、うん…そだね。ごめんね、急に押し掛けちゃって…」

「ホントだよ。ったく…」

 そう言って、伊達ははつみを連れて部屋を出ることにした。隣人らは自分達の盛り声のせいで逆に若人が戦意喪失した事など露知らず、まだまだァ!とばかりに花火を打ち上げ続けるのであった…。




 先に外に出たはつみは、敷き詰められた長屋の屋根に切り取られた小さな空を見上げる。その空の青が、なんと鮮やかで清廉な輝きを放っていた事か…!青っぱなをひっさげた子供が走り回る声や井戸端会議の談笑といった雑踏までもが、心地よい音として響いてくる。

後から出て来た伊達は手荷物一つだけを持っており、戸締りなどをする事もなくそのままスタスタとはつみの隣へと追いついて来た。眉間にしわを寄せ、不機嫌というよりは拗ねた様な顔付きではつみに視線をやったまま、黙っている。


まったく「性欲の長屋」とは的を射た表現だが、若くして故郷を離れ、たった一人で江戸に出てきた彼が、生活費のほとんどを本の購入などに費やしながら学問に励んでいることを思うと、これを笑い話にするのは失礼だとはつみは感じていた。それでも何か声をかけた方がいいだろうと考え、別の言葉を探そうと思案を巡らせる。
 一方で、伊達の行動については『あの状況ではそういう心境になっても仕方がないものだろう』と、理解を示そうとしていた。それに、江戸時代における性へのモラルが現代とは大きく異なる事も、兼ねてより理解を示そうと務めている事柄の一つだ。この時代の男女間に存在する軽率な性への感心と行動については『そういうもの』だと勝手に納得していた。そして、あの『性欲の長屋』のような状況下で数年もの間を耐えながら、学問や時勢調査に対するストイックな姿勢を崩さず一人淡々と精進を重ねている伊達に心から感心もしていた。

「伊達くんは偉いよ。私よりも年下で、ずっと大変な状況にたった一人でいるのに…今日はいきなり邪魔しちゃって本当にごめんなさい」

 明らかに自分を気遣う様な言葉を並べるはつみの声を、拗ねた表情のまま黙って聞く。そんな伊達はというと、事ここに至ってもなお、はつみが自分を男として扱わず、むしろ今の様な子供扱いをすることに苛立ちを感じていた。先ほどの事について伊達が気負わない様配慮してくれているのはよく分かったが、『そういう時もあるよ、うんうん』と言って一過性の生理現象に過ぎなかったのだと同情される事が気に入らなかった。だったら何と言って欲しかったのか、先ほどの失態を責めて欲しかったのかと自問すると、それも正解ではない。ただ明確にあるのは、自分がはつみと一緒にいることを望んでいる自覚があった、それに気が付いたという事だ。春画を見て自慰をしたくなった時の様な心持ちで彼女に触れたくなったのではなく、はつみに惚れていたから、そういう事をはつみとしてみたいと思ったから…行動に出た。そんな心情を全く察しもせず『気のいい姉さん』を演じているかの様なはつみに腹が立っていた。
そして何より、絶対に口には出さないが、自分が情けなかった。

「―それで、これからどこへ行くの?」

「何言ってんだ、お前の宿だよ」

「え、どうして?」

「どうしてって…本気で言ってんのか?」

 はつみは、まさかさっきの続きを考えているんじゃ…と身構えたが、伊達が怒り出したのを見てそうではないと思いつつも口をへの字にし、小首をかしげる。伊達は脱力し、呆れながら答えてやった。

「さっき、本読みたきゃお前の宿に来いって言っただろうが?」

「―あっ、そうか!あ、だからその荷物なんだね?ごめんごめん!」

 長屋から伊達が持ち出していた手荷物をよくよく見てみれば、先ほどの騒動の最中、無造作に取り出した風呂敷にばさばさと本を詰めて包み、出入口付近に向かって投げたアレだった。
―しかし同時にもう一つ気が付く。
という事は、あの時伊達はもう既に、あの長屋を切り上げ本を読む為にはつみの宿へ行くつもりだったのか?…それって、つまり…?

「なあ、ついでだからお前の話も聞いてやるよ。その、異国についての話な。あと異国の言葉についても教えろよ。」

 斜め上から投げかけられる声に、思考がさえぎられる。ぶっきらぼうに言う伊達であったが、はつみは嬉しそうに「もちろん!」と返事をした。はつみは伊達の事を『歴史上』の人物としては知らなかったが、自分が知っている様な人物というのは幕末史上で有名なほんの数握りの人物だけに過ぎない事もよくわかっている。ただ伊達は、とにかく『気が合う』そんな気がしていたのだ。彼も、一匹狼ながらにも尊王攘夷に身を投じんとする一人であったが、それでも、冷静になり『世界』の事を知ろうとして頼ってくれるのは純粋に嬉しかったのだ。
 一方で、宿先に男が転がり込もうっていうのに、本気で『学問の為に頑張ってるもんね!』等と言って無邪気に迎え入れようとする様子にすっかり『戦意喪失』して肩を落とす伊達。尾行密着事件での事といい、今回の事といいどうも調子を狂わされるその感性を煩わしくも思う一方、どういう訳かはつみから妙に気に入られ、『友』として限りなく近くに居られる事への満足感や優越感のようなものも実感していて。それこそ我ながら『ガキみてぇだな』『こいつの思うツボじゃねぇか』などと、居心地の良さを感じてしまっている自分に悪態を吐きたくなってしまうのだった。

 こうして、この日からはつみの宿泊先には『伊達からの伝言』ではなく、『伊達本人』が足しげく通う様になる。例えはつみが外出中であっても、通常であれば女中が要件を聞いた後に改めてもらうのに対し、伊達は『顔面が通行証』とでも言わんばかりに部屋へ上がり込み、彼女が帰ってくるまでの間を部屋の主の様に居座って本を読み耽っていた。
 伊達は、話せば話す程圧倒的な教養を備えている事がわかったはつみが、一般的な身の回りの文化や生活知識には極端に乏しいという奇妙な点をすぐに見出す。中でも、漢字は読めるのにくずし文字が読めないという奇特な彼女の為に、それを教えてやることも多々あった。彼女からは同じ様にして外国語を学び、まさに切磋琢磨していく。


 幼い頃、慟哭の中で『上に立つ人間になる』事を決意して以来学問に励んできた伊達にとって、いつも上手くいかない人間関係に煩わされる事もなく、ウマの合う人と共に学び合える機会を得られたのは非常に珍しい事だった。







※仮SS