上京前に長崎グラバー邸へ顔を出した小松。しばらく京坂に滞在する事になりそうだと告げ、少し遠出がしたいと言い出す。グラバーに差し出されたはつみは、寅之進や陸奥らの何とも言えない視線を受けながら小松の馬に乗せられた。
長崎遊学の折やその後にも、小松と馬に乗って遠出した事を話す。はつみは自分の馬を持つ事もなければ乗馬を習う機会もなかったと述べ、落ち着いたら小松自らが教えてくれるといい、はつみもその話に併せて微笑んでいた。だが、その微笑みにはどこか一線を置いた、遠慮めいた色が宿る様になったことを改めて実感する小松。
長崎遊学時、一番初めに遠乗りをしにきた思い出のある風頭山へとやってくる。見晴らしの良い場所へやってきて馬から降りようとした時、少し沈黙が続いた後で、小松が珍しく真面目な顔をして『長州で何があったと?』と訪ねて来た。『ずっと聞きたかったが、聞く機会を得られなかった』と。
あの頃のはつみは内蔵太の事もあり、だがそれ以上にどこか己に重い責を負ったかの様に塞ぎ込んでいた。それが突然ユニオン号に乗って長州の戦争に参加したと聞いた時は心底驚いたが、帰還したはつみはまるで憑き物が落ちたかの様に前向きな輝きを取り戻し始めており、そして自らの道を歩もうとグラバー商会への勤務を希望するなど、活力を取り戻し始めていた。その変化は一体何によってもたらされたのか…何がはつみの心を動かしたのかを知りたがった。
はつみは、世が尊王攘夷論であふれかえっていた頃から世界に向けた視野を以て世間とのずれに悩み、互いに認め合った同志が長州にいるという。彼は彼の身分もあって深く挫折し、孤独や焦燥、喪失感に沈む時もあったが、時代に選ばれ時代の加速と共に誰よりも求められる人となった。そんな彼に、手を引かれたのだと…
―そこまで話した所で、馬に乗ったまま突然背後から抱き締められる。はつみが驚いた事で馬も少し乱れたが、小松は巧みに手綱を捌き一瞬でこれを鎮める。そしてはつみを抱き締めたまま、その耳元でいつもらしからぬ熱のこもる声で囁いた。
「…もうよか。…おいにも嫉妬心はあるでごわす。…今は他ん男の話は聞く気はなかど。」
はつみが話しているのは男の事であり、それが誰の事なのかも直ぐに察してしまった。小松ははつみの身体を半回転させてこちらに向ける様に支え、間近に見えてきた彼女の横顔に頬を押しける勢いで抱き締める。馬から落ちない様体を支える彼の腕や掌から熱い熱が伝わってくると同時に、いつもは爽やかな彼の声がいつになく低く語気が強めなのも『嫉妬心』などという意外な言葉を一層引き立たせるかの様だ。
「…小松さん…」
「…情けなか。おいこそが長崎遊学の時からおはんの才を知っちょったとに、そばに居るこつが叶わんかった…もしそばに居るこつが出来ちょったら…」
かぐや姫に求愛する男達の中で、一層引き立てられる存在になる事が出来たのか―…
不意に言葉が途切れ、彼の整った濃い眉やまつげが切なげにゆがむ。声なき悔恨の念が伝わってくるかの様だ。
かつて、彼が長崎遊学に来ていた理由は当時に聞き及んでいた。早くから公武合体路線として確固たる進撃を続けていた薩摩も、その内部では土佐の様に相反する思想を持つ過激派によって引っ搔き回されていた事であろう。彼は薩摩藩に戻った後そういった混迷を極める藩政の中で取り立てられ、文字通り東西南北を駆け回り今となっては朝廷からも幕府からも頼りにされている若き城代家老となった。一人の女の為にそばに居るどころか…本来ならば会う事すらも難しい、雲の上の存在だ。そんな身分の事など触れもせず、ただそばに居られなかった事を悔しがってくれる彼に、はつみは静かに首を振って言葉を返す。
「長州では、確かにそういう事がありました。だけど小松さんは、私が最も塞ぎ込んでいる時に一人になる時間と場所を与えてくれました。みんなの事が煩わしかった訳ではないけど、あの庵で生活のなにもかもを心配する事なくゆっくり自分と向き合って過ごせた事は、今となってはもう何よりも得難い時間でした…本当に感謝しています。」
「…おはんがそう言うんであれば、おいの心も報われる。じゃっどん、おいはおはんの側に居たか。」
衣服が擦れる音が迫り、小松の腕がより一層力強くはつみを抱き締める。暖かな体温に包まれ、少し窮屈なくらいに強く抱きしめられると迂闊にも心地よさを感じてしまう。耳元には小松の口元が押し付けられ、熱い吐息が耳の奥まで入り込みそうでぶるりと身震いをしてしまった。それを分かってかどうか、小松ははつみの顔を更に覗き込み、その清廉さを醸し出す整った濃い目眉に一層の熱を込めて視線を送る。
「…おいと共に来んか。はつみどん…。おいがそん才を活かし、身を守り、そいで…」
小松の手がはつみの胸の上に置かれる。
性を意識させるその行動にハッと息を飲み思わず身体の反応をちらつかせてしまうが、小松は構わずその程よい膨らみの奥に潜む心臓、そして心へ触れよう程に手を押しつけ、ゆっくりと回し込む様に撫でた。
「…こん心を…おいだけが、癒してやりたか…。」
彼女の才も、浮世離れした言動も、その可憐な容姿も、全てが忘れられない。今となっては城代家老となり薩摩のあらゆる重役を一身に受け、その気になれば薩摩の殆どを好きなようにできるというのに、どうしても彼女だけは自分のものにならない。
たとえ、この慕情を正妻や妾のある身では受け入れてもらえないのだと言われても、葛藤する夜を幾度も過ごし、到底諦める事などできなかった。
「…だめです、小松さん……」
小さく首を振りながら、瞳を潤ませて囁く控え目な声が一層いじらしく感じられる。だめというのなら、何故そんなにも扇動的な表情で見つめて来るのか…。だが、それこそがはつみの浮世離れした魅力であり性なのだ。彼女にその気はなくても、そこに存在するだけで、男を魅了する。とはいえ、それ故に過去に彼女と心を交わせ、そして抱いたであろう男がいるのだと思うと、それこそ夜も眠れないが。
「…おいも薩摩の男じゃっど。いっぺん心に決めたこつは、そげん簡単にゃ変えられんごわす」
そう言うと、胸の上に添えていた手をするりと滑らせてはつみの輪郭に触れた。頬の感触を手のひらで味わうかの様に包み込まれ、親指が優しく、麗しい果実の様な瑞々しい唇を撫でてゆく。そしてそっと顎を持ち上げられた後、小松の唇が重ねられた。互いの唇を密着させたその内側で小松の舌がはつみの舌を探して這いまわり、奥でひくつくそれに舌先が触れると更に深く口づけ、舌を絡めとる。腕の中ではつみが拒否の動きを見せるが力はか細く、本気で拒絶する様な気配が伺えないのをいい事に、小松は顔の角度を左右に変えながら思うがままにはつみの舌を味わい続けた。
―ちゅう、はむ、ちゅむっ…れろ、れぇ…
「は…ぁ…こまつ、さ…ん、うぅ…」
小松から逃れようと身をのけぞると馬上の均衡が崩れるのか、馬がカポカポと蹄を鳴らしてその場に足踏みをする為、尚更体制が保てず体に力も入らない。それでも馬術に長けた小松は巧みに馬をいなしながらもはつみを支え、一通り彼女との口付けを味わってからそっと唇を離した。はつみから漏れる吐息がなんとも痴情に溢れている様に見えるが、彼女の視線は何とも言えない複雑そうな表情で小松を射抜く。それが『YES』の答えではない事だけは確かだったが、それでも小松の心には、はつみへの慕情に対する不屈の精神が静かに燃え上がっていた。
「…おはんが応えてくれる日まで。いや、たとえその日が訪れたとしても…」
口付けで絆されたはつみの顎をそっと持ち上げ、真正面からじっと見つめながら囁く。
「おいが死ぬる時まで何度でも、おはんを口説きもんそ」
今までただ優しくはつみを見守り、支え、想い続けてくれた小松の男としての本気を垣間見た気がした。それは、彼がこの動乱の世に雄藩薩摩の家老を務め上げる程の真なる気骨であり、情熱であった。
※仮SS