仮SS:Encounter too late.


8月9日深夜。眠っていたサトウは佐々木三四郎に起こされ、容堂公がか意見を求めていると聞き、内密に高知へ向かう事となった。夕顔丸から小舟へと下船すると、月明りのみで真っ暗な中を浦戸湾へと渡り、鏡川の河口へと向かって静かに漕ぎ出されていった。

 土佐の教育機関とみられる開誠館で容堂を待つ間に服を着替えたサトウは、再会した後藤から彼の『同僚』を紹介される。(誰だ気になる) そして上階へと通されると容堂は部屋の前で立っており、つま先に指先が触れそうな程深くお辞儀をしてサトウを出迎えた。後藤やその『同僚』らも跪き控えている。その出迎えからして、異例のケースながらも非常に重要な会見であるとする雰囲気が伝わってきた。サトウも見様見真似ではあるが、これまでに培て来た知識や経験を総動員して、丁寧な礼を返した。


 容堂はサトウの名を耳にしていますと言って話を切り出し、サトウも光栄にも謁見する機会を与えてくれた事に感謝すると返す。そして本題のイカルス号事件について、容堂は先日後藤がパークス公使に報告した事を保証した上で、もし犯人が土佐の者であれば逮捕して処罰し、もし土佐の者でなかったとしても追及の手を緩める事はしないと述べた。また、幕府から、今回の犯行は土佐の者によるものだという確固たる証拠がある為犯人を罰する様にとの忠告を受けたと言う。勿論土佐の者が犯人であると判明した暁にはすすんでそうするが、幕府がいう「確固たる証拠」というものが一体何なのかという点については明瞭にされていないし、見当もつかないと彼は言った。

 これに対しサトウは、まだ提示していない証拠があるのかも知れないし、或いは幕府と英国の間で不快な話合いを避ける為に嫌疑の目を土佐に向けようとしているのかも知れない、と返す。すると後藤が幕府に対して凄まじい怒りを表し、幕府に対してもこの怒りをわからせてやると言い出した。
容堂は適当に後藤をなだめ、更に続ける。イカルス号事件について幕府側から手紙を受け取っており、『英国は大変立腹しているので、穏便に落着させるために妥協すべきだ』と忠告する内容だったと。だが自分はその様な事をするつもりは一切ないと明言した。先ほども述べた通り、土佐藩の者が罪を犯したのであればそれを罰するのは当然だが、無実であるのならば毅然と無実を宣言するつもりだと。

サトウはじめ英国の見解では、宇和島藩の家臣・島根が彼の主君伊予守に対し『パークス公使が幕府から「土佐藩が犯人で間違いない」と告げられた』という事を伝えた事を受け、この様に断言するのであれば嫌疑を裏付ける証拠を持っているとしか思えない、と答える。今の所その『証拠』として土佐に示されたものは、嫌疑をかけられている南海号であったが、これについては容疑をかけられる様な証拠は何もなかったと報告済みでもあると主張する容堂。サトウは、現段階においてこれ以上述べられる事はないが、もしこれで犯人が土佐の者でなかったとしたら英国はかなり恥ずかしい思いをする事になるだろうと告げ、ともあれこの後は長崎にて直接検分と議論を重ねていくしかないとし、容堂もそれに同意する様にうなずいていた。


その後は、先日後藤が言っていた様に英国のコンスティテューションや議会の権限及び選挙制度などに対する質問が行われる。幕府に代わる新しい議会をイギリス的なコンスティテューションを踏まえて設立しようとしている事が明白であった。また容堂らは、サトウらに対し帝の顧問官として新政府設立の準備の手伝いをしてほしいとまで言う。
サトウは女王陛下に仕える身であるからと謝絶するが、ここぞとばかりにとある人物の名を切り出した。
「桜川はつみという、信頼デキル優秀な通訳者がイマスが、土佐では彼女を雇用されナイのデスカ?」
 途端、最も分かりやすく反応を示したのは後藤だった。大きな目をきょろっと動かし、あからさまに容堂公の顔色を窺っている。同席している彼の『同僚』はもちろん、対峙する容堂公も相手に内心を悟らせぬバリアを張っている様だったが、そんな中だからこそ彼の目の動きは非常に目立っていた。
「よくご存じでいらっしゃる。確かにそのような才を持つ者もおりましたが、あれは敢えて土佐を出ていった者ですき。」
 主君の元から去ったものを敢えて雇用する事があり得ない、というのであれば納得もいく返事だった。一方で、ここで『女だから』と堂々と公言されれば、文化的な風潮として理解できなくはないものの容堂公に対する評価が下がる所であった。非常に理知的で、礼儀正しく相手を湛えながらも主張すべきところは断固として貫こうとする姿勢には、『賢者』と言われるだけの説得力があったからだ。彼は賢者らしく、人を能力値で見る事ができる人の様だと。とりわけ女性を評価するというのは世界においてもまだまだ難しい面が見られる事が多いが、柔軟で先進的な考え方ができるという事は特筆すべき点であるだろう。
容堂公は、はつみがかつて英国と土佐の外交を取りつけようとしていた事は知っているのだろうか。サトウに対するこの対応を見る限り、容堂公自身は少なくとも『攘夷派』と言う訳でもなさそうに思えた。…話をしてみれば興味を示すのではないかとも思われるのだが…。
とはいえ『攘夷派』か『開国派』かといった事を踏まえて外交の話を持ち出すのは、他の情報もあまり持ち合わせていない状態では命取りにもなりうる。全ての見解がサトウの感触だけによる判断だった事もあり、これ以上彼女の事を容堂公に詰める事はやめた。
視界の角で、後藤がフウと息をつく様子が見られた。


 その後、食事を取る事になったが、容堂は席を外した。暫くしてサトウが辞去する際にもう一度だけ数分会話をし、その際に贈り物をもらった。これは謝絶するべきだったのだがこれは接待の一部であるし受け取らないという事は大変な失礼にあたるとの事なので、パークスの許可が得られなければお返しするという条件で受け取った。それでいいと容堂公は小さく笑い、サトウは改めて容堂公の前を辞した。

 容堂は長身で、かすかにあばたの痕があり歯が悪く、急いでしゃべる癖があった。彼が酒好きという事は異国人であるサトウですら書物などから知っていた程有名で、容堂の体調がかなり優れない様子は酒のせいだろうと安易に推測できた。また彼は、はつみに関する返答も含めて『偏見に捕らわれず物事を見極める事ができる人物』に見え、『決して保守的には見えなかった』との印象をうけつつも、薩摩や長州の様な抜本的な改革を望んでいる様には見えなかったとしている。

帰り際、できれば町を見てみたいというサトウに対し、後藤からは「町の中を歩く事は安全ではない」と言われ、流石のサトウもこれまでの様々な事情から『土佐の男は最も危険』という結論に至っていた事もあり、助言に従った。浦戸から屋形船に乗って帰還となったのだが、その際好奇心に駆られた多くの人々が小舟にのってついて来た。ヨーロッパ人を一目見ようと、中には掴みかかってくる者もおり、そこに秩序はなかった。この様な状態で高知を歩けば大混乱が起こる事は容易に想像できた。

屋形船では、対峙する後藤に対して改めて、『かつてはつみからパークス公使による土佐訪問の斡旋が打診された事があるか聞いているか』と尋ねた。後藤は本当に心当たりがない様子であったが、それでも
「あやつがそのような事を…?何のために?」
と興味を持ち、深く勘ぐる様子が見られた。
という事は恐らくははつみが独断で土佐と英国を繫ごうと動いていたとする説が有力になってくる訳だが、それとは別に、サトウが思っていた通りはつみと後藤の間には何かしらの『隔たり』がある様に感じられた。





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