仮SS:Worry about you


 8月9日。パークス公使はイカルス号事件に際してサトウに領事と同等の権限を与え、長崎行を命じて江戸へと帰還した。『キツネ平山』らを乗せた幕艦回天丸も長崎へ向け出港。サトウは野口と共に土佐の帆船夕顔丸に乗り込む事となった。

「サトウさん!お久しぶりです!」

「…はつみ…!」

イカルス号事件に当たっては対立する二者ではあったが、一個人としてはつみとの再会を素直に喜んでしまうサトウ。求められた握手を両手で包み込み、その後ハグをする。はつみの周辺にいる土佐者たちはいまだにこういった密着の習慣に慣れておらずハッと息を飲んでいたが、理解しようとはしている様でぎこちなさそうに視線を逸らしたり苦笑いをするなど、対応は様々に見られた。

 一通りの話が終わって落ち着いた頃、サトウははつみに対し、以前打診があった土佐斡旋の話も踏まえて後藤にあった印象を持ち出してみた。当時公使が大名と交流を持つという案は時勢的にもなかなかに難しい状況ではあったが、日本人側からその様な案が出る事自体が相当先見性のある試みでもあった。運悪く公使の退任と着任にズレが生じていた時期という事もあって話を詰める事はできなかったが、今こそ有用な事案であるとサトウは考えたのである。当然、サトウから話を聞いた現公使パークスも、外交において有用な駒があるのなら使うべきだといったGOサインを出しての事だ。

だが、サトウの予想に反してはつみの返答は非常にそっけないものであった。『後藤さんの事はよく分からない』『自分にできる事はない』と一点張りでなのだ。外交において一瞬の出来事が風向きを変えるという事はよくある事ではあるが、時勢を鑑みるにどうも政治的な理由ではない様に思えた。そのつっぱねる様な態度も、やはり普段の彼女の物腰から考えると不自然でしかない。彼女は巡るめく思考を繰り広げ、常に思慮深く誰かの事、未来の事を考えている様な人だ。それが今や、後藤や土佐の話になると思考を停止したかの様に対話を遮断しようとする。…まさに今、そうだった。

 互いが少し言葉を無くしてしまったところで、はつみはサトウの右の指にできたひょうそに気付き、
 「うわぁ、痛そう…大丈夫ですか?」
 と、その患部について指摘した。
「昔、指の傷口にばい菌が入ってもの凄く腫れてしまった事があって…きっとそれと同じものじゃないかなぁ」
 と、『ばい菌』という独特な単語を交えて言ってきたが、西洋医学とまでは言わなくても感染症などの障りの知識程度なら持ち合わせているサトウには彼女が言わんとする事が何となくわかった。そして『昔の事』というので記憶が戻ったのかと尋ねると、ほんの一瞬、返答に迷う様子が見られる。
「あ…その腫れ方を見てフと思い出したの。」
 とだけ返してきた。違和感に気付いたのはサトウだけだったのか、そばに居た坂本龍馬も何気ない様子で会話に加わってきた。事件で対立している海援隊の長である彼と今話すべきかと今度はサトウが怯むが、龍馬は諸々気にする様子もなく医者を手配するか等と言ってくる。サトウは長崎で知り合いの医者に診てもらうから大丈夫だと謝絶した。…この点において、決して口にはしなかったが手配されるのが西洋医学を学んだ医者であれば厚意にあずかっただろうが、実際まだ日本には『まともな』西洋医学は殆ど浸潤しておらず、『蘭学医』という者の医療行為はあまりにも時代遅れ且つ、中には漢方や従来の日本式医療と織り交ぜたまじないの儀式の様な不気味さがあるというのが本音であった。実際ウィリスが持つ器具や薬などを、彼らは殆ど理解できていないのだから。特に酷いのは、迷信めいたおどろくべき治療を施す「古来日本式の医療」である。わかりやすい例えで言えば、『瀉血』治療と見られる医療行為になんと数百匹のヒルが使われるだけ使われ、これについて瀉血の量や細菌感染や水分補給などまったくもって度外視であるなど…これらについて書物にて見知っていたので、『日本医師』に処置を頼む事にはあくまで個人的な感情として気が引けたのである。

 とはいえ、その華奢な背中に大きな刀傷を受けて見事生還したはつみの言う事はまた別であった。
「あの…気休めかもしれないけど、怪我をした時に化膿するのが怖いからいつも消毒用のアルコールを持ち歩いているんです。もしよかったら表面だけでも消毒しておきますか?」
 はつみがその腰にぶら下げた小さな瓢箪を見せて来た。中に入っているのは高濃度の焼酎だそうで、医療用のものなどとは比較にはならないだろうが、自分の背中の傷や寅之進が負った刀傷なども化膿する事なく治癒する事ができたと、実際の効能について自らの経験を用いた説得力のある説明をしてくれた。彼女の背中の傷の治癒具合については元治元年の下関戦争講和会議後での再会において実際に診察したウィリスのお墨付きだった事もあるが、はつみが自らの経験を以てして消毒してくれると言うのだから、これを断るはずがなかった。


 彼女は大勢が見守る中で手際よく小さな容器を煮沸消毒をし始め、そこに焼酎を浸してサトウに差し出した。『殺菌』という概念があるだけでも非常に安堵感を覚えながら、それを受け取るサトウ。飲み干すのかと思ったがそうではなく、そこに直接患部を浸すのだと彼女は言う。

「皮膚の中の方で炎症が起こっているから、本当に治療をするなら切開をしなきゃだめなんです。だから本当に気休め程度の表面消毒なんですけど…」

『いえ、有難うございます。心が安らぎます。』

『ふふ…少しの間、こうしておきましょうね』

 当然、出来うる医療行為を少しでも実践している事に安堵感を得ているのは間違いなかったが、サトウははつみの手が触れている事に対して安らぎを得、患部の煩わしい痛みからいくばくかの開放感や安堵感、癒しを得ていたのだった。それはまるで軽やかな天使の羽がふわりと触れるかの如く、最小限の触れ合いではあったが、これまで言動に甚だ問題のある上司、命を狙われる外国人、不衛生で人でいっぱいの船に押し込まれた挙句引き起こされた感染症…それらの憂いが、かすかに触れ合う肌の温かみで軽やかに打ち払われるかの様な、そんな心地よさを感じていた。そんな言い回しに気付いてか気付かないでか、はつみも先ほど後藤らの話題を出した時とは打って変わって、否、普段の彼女らしさからも更に可愛らしい笑顔で頷き返してくれる。それだけでも…サトウの表情には自然と笑みが浮かび、舞い上がる様心地になれた。

 彼女と話がしたくて、手元の医療行為について彼女に話を聞いた。
以前も聞いた通り、はつみは別段西洋医学というものを学んだ訳ではないそうなのだが、こういった『殺菌』『感染』、はては『清潔さがもたらす日常の健康』という概念を理解し、もっと言うならば食事から得られる栄養学…つまり日本食には殆ど無い食肉を含む偏りのない食事といった意識もごく自然に彼女の中に沁みついている様である。記憶を失う前の彼女が一体どこで何をしていた人物だったのか…こうして彼女と関わる度に、彼女に対する好奇心と、根掘り葉掘り聞きだそうとするのは不躾で紳士のすることではないとする理性が鬩ぎ合うのである。
 そしてそれは勿論、後藤との間で何があったのかという事も含めて、なのだが。

『本当に…『気がかり』です。』

『そうですよね。長崎に着くまで悪化しなければいいのだけど…』

 はつみは純粋に指先の事を心配してくれている様だ。

 どうやら自分に向けられる好意に対してはよほど無頓着であると見えた。去年の冬に長崎で再会した際には口づけと共に想いを伝えたはずだった。あの時、大浦のお慶からは『据え膳食わぬは男の恥』『逃がした魚は大きい』などと言われ図らずも日本の慣用句について学ぶ機会を得た訳であったが、要するにサトウの想いははつみにしかと届き、彼女は口づけ『以上』の事を待っていたのではなかろうか、という話だった訳だ。まさか…といった話だが。

 たが、半年ぶりに再会した今、よもやそもそも想いが通じていなかったという事なのだろうか?とつい懸念してしまう程度には、彼女の態度はまるで男をいたずらに躍らせる小悪魔の様に『いつもと変わらない』訳で…。フと顔を挙げれば、常に彼女と共に在る坂本龍馬(この時は便宜上才谷梅太郎と名乗っていたが)や池田寅之進の方が、色々悟った様な顔をして視線を合わせてきたりまたは反らしたりしてくるではないか。彼らも『このテ』の事に関してあくまで無邪気で無頓着な彼女に振り回され続けているのだろうという事が推し量られた。

『ーいつつっ!』

「わわっ!『ですよね!ごめんなさい!でも膿が出る様子は見られないですね…』

 男達と無言の『だよね~』感を共有していた所へ突然指先に痛みが走り、視線を戻すサトウ。はつみが指先の患部を優しく揉んで膿の排出を促していたのだが、その様な様子が見られない事を察して早々にその行為から手を引いた。

「清潔な布で保護しておきましょう。長崎に着くまでに、また消毒しておきましょうね」

「あ、ありがとうございマス…」

「様子を見て生きましょうね」

 サトウの様子を見て、堪え切れないといった様子で龍馬が噴き出し、笑い始めてしまった。イカルス号事件の事に関していえば濡れ衣とも言える容疑をかけられている海援隊と事件解明へと向けてとことん詰めようとするイギリスという立場であったが、今この場に至っては『また別の話』だと彼も割り切ってくれている様だ。

「『様子を見ましょう』かえ。ははは!痛み入るのう、サトウさんよ」

先程の無言会話の続きだろうか。妙なニュアンスで言ってくる龍馬に対し、サトウも英国人独特の肩をすくませるアクションを込めて返して見せた。

「…『お察し』シマスよ。皆サンのご心情も。」

「おお~そうかえ!そりゃありがとさん、はっははは!!!」

 更に空を仰いで笑う龍馬と、額に手を押し当てて俯いた後どうすればいいのかといった様子で水平線へと視線を投げかける寅之進。彼らの反応を見てサトウもまた笑って見せる。はつみは彼らの話を聞いているのかいないのか、サトウの指に清潔な簡易包帯を巻きつけ、消毒に使った容器を煮沸消毒すると言って再び席を外すのだった。









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