―表紙― 登場人物 物語 絵画


各種年表・資料等
長州年表前半:安政6年~元治元年
 /  長州年表後半:元治2年~明治元年

長州関係年表:前半
―安政6年~元治元年―

高杉、桂、伊藤等。精度にムラあり

※最終更新2021.11.14

※創作ネタは含まず

安政5年

桂、江戸上屋敷にて行われた蘭書会読会にて村田蔵六(大村益次郎)と出会う。
高杉、江戸遊学、平昌黌入学。吉田松陰入獄


~安政6年~

5月
25日、吉田松陰、東送

10月
17日、高杉、帰国の途につく
27日、吉田松陰、処刑

11月
??日、高杉、帰国途中の京滞在中、松陰処刑を知る
13日、桂、江戸桜田藩邸有備館御用掛を命じられる
16日、高杉、帰国



~安政7年/万延元年~


1月
23日、高杉、雅子(16)と結婚

2月
??日、高杉、萩軍艦教授所入学

3月
3日、桜田門外の変


~18日、万延年元年・改元~


20日、高杉、明倫館舎長

閏3月
30日、高杉、丙辰丸で東航の命を受ける

4月
??日、高杉、内藤作兵衛より柳生新陰流免許皆伝を授ける
5日、高杉、丙辰丸で東航(東帆録)
『みんなは東海遠州の太洋は天下のおそれる難所だから辞退した方がよいと言ったが、
男子たる者、宇宙に生まれていつまでも著述や学問に仕えることがあろうか、と大いに勇み、
四月五日ついに家を出て船に乗る』
??日、高杉、下関に4日程滞在
??日、桂、有備館舎長を命じられる。
??日、村田蔵六、長州に迎えられる。江戸麻布中屋敷に入る。

5月
3日、高杉、讃岐多度津に寄港。金毘羅に参詣。(5年後この場所へ亡命する事となる)
23日、高杉、のろのろ航海、ようやく紀州南端を経て遠州洋へ向かう。
高杉、ここから東帆録がぶっつり途絶える。{航海中何があったのか}
(後の「試撃行日誌」に『自分の性は元来疎狂であるため、航海の精緻を極める才能がないことを
自ら認めざるを得なかった』と書いてある。{どうした…})

6月
上旬頃、高杉、丙辰丸、江戸品川着。桜田藩邸に入る。
有備館では桂小五郎、久坂玄瑞、南亀五郎らが迎えてくれた。
??日、高杉、関東北陸遊歴の藩許を求める。(8月末まで長引く)

7月
22日、桂小五郎、松島剛蔵、水戸西丸帯刀、岩間金平、丙辰丸盟約(成破の盟)

8月
28日、高杉、朝6時に関東北陸遊歴へ出る(試撃行日譜)
加藤有隣、佐久間象山、横井小楠を訪ねる。本などを借りる。

10月
11日、高杉、雨の中京都から大阪へ入る。
『雨いまだ晴れず、相船愚物多し。愧憤にたえず、終日他行』試撃行日譜おわる。
18日、和宮降嫁勅許
19日、高杉、久坂玄瑞に帰国報告の手紙を書く。
『僕は今門を閉じて3年間読書をしたいのでいい方法を教えてください』
深く傾倒する小楠から借りた本『兵法問答書』『学校問答書』を読み、写す。(後者は途中まで)
「王道外交」の項については、後の四カ国艦隊講和談判にて見事に実践してみせる。
「銃隊陣法への変換」についても、後に結成する奇兵隊を見ればその影響は明らかである。
小楠が唱えた『国是三論』「富国論」「強兵論」「士道」

12月
??日、高杉、明倫館都講



~万延2年/文久元年~

1月
1日、村田蔵六、下関へ入り海防調査などを行う。

3月
13日、高杉、長州世子定広の小姓役
有能な中堅藩士の子弟が辿るコースである。
出立の7月まで、小姓役見習の教育を受けながら比較的ゆっくりとした日々を送る。(せつ御日誌)
『集義外書』『海国兵団』『霊の真柱(武市も西国遊学で購入)』
『日本外史』『王陽明文録』『伝習録』などを猛烈に読書し、松陰の文稿を再読する。
松下村塾の旧友ともしばしば会い、時局を語り合ったりした。
??日、長井雅樂、「航海遠略論」
『朝廷から鎖国を改め海外へ雄飛するよう幕府に下知する姿勢を取れば
公武一和、国威を五大洲にあげることができ、その為に長州は朝幕の周旋に付く事が
天朝へ忠、幕府へ信、祖先へ孝の毛利三大綱領を全うする所以である。』

4月
18日、高杉、夕食後に長井と三井(高杉父の姉の嫁ぎ先、三井善右衛門のこと)を訪う。
高杉は航海遠略論に意見あり父へ質問したところ『黙って見ておれ』と言われた為、傍観する事に決めた。
これに反対する主な勢力は吉田松陰派の勤王志士達であった。これは幕府の勅許なしでの開国条約締結による
開国を認める策であるとして容認できないと言う。『成破の盟』に則り、水戸藩は着々と『夷狄排除』を
実行に移している一方、かたや長州は転じて幕府擁護の開国策に乗り出そうとしているとの背景もある。
尚、長井は特に松下村塾の門下生らからは松陰の仇の様なものとも見られていた。
??日、村田蔵六、江戸に戻る。
22日、長井雅樂、三井善右衛門ら江戸へ出立

5月
12日、長井雅樂上京。三条実美に航海遠略論を示し賛成を得る。
孝明天皇、長井の建白書に目を通し満足し、歌まで与える。
『国の風吹き起こしてよ天津日のもとのひかりにかへすをぞまつ』
28日、水戸浪士14人、高輪東禅寺英国公使館を襲撃。

6月
??日、長井雅樂、江戸に入る。幕閣要人らへ積極的に入説を試みる。
11日、桜田屋敷有備館塾頭桂小五郎、江戸遊学中久坂玄瑞、楢崎弥八郎、世子手元役宍戸九郎兵衛など
破約攘夷を唱え、猛然と長井雅樂の「航海遠略論」に異を唱える。
桂『この様な策を長州が周旋するとなれば天下正義の士にどれほどうらまれるかわからない』

7月
10日、高杉、江戸番手として江戸へ出立(初番手行日誌)
長井弾劾運動
21日、周布政之助、江戸に入る。周布政之助が長井反対派となる。
和宮降嫁は幕府の陰謀(人質策)であった等と一同益々憤慨する。
30日、高杉、江戸着

8月
??日、高杉、父から黙っておれと釘を刺されていたが、桂に対し「馬鹿になって絶交します」と宣言する。
9日、長井雅樂、帰国の為江戸を発つ。
全日、高杉、『江戸にいるかもわからない』程、非番ごとに桂や久坂らと会い、長井弾劾の策を練る。
藩主の東勤を阻止する為、急いでいた。
28日、長井雅樂、道中京朝廷への報告も済ませ、萩に到着。
??日、高杉、国の事は久坂らに任せ、自分は長井を斬って亡命する等と言い出す。
桂、高杉を強く引き止める。

9月
7日、周布、久坂、東勤阻止のため西へ下る
9日、高杉、外遊の命を受ける『それがし心中喜悦思うべし』
桂小五郎の狙い通り、長井暗殺などどこかへ吹っ飛んでしまった。
13日、高杉、日記に『自分には兄弟がおらず、一人息子が命がけで海外渡航する事を親が許すだろうか』と
いった詩を書く。先日の『黙って見ておれ』などもそうだが、高杉自身、親の言う事を尊重して
聞こうと努める自身を『賢がり』という性格であると認識しているのが現れている。
16日、長州藩主、東勤の為萩城を出立。途中周防花岡で病気になり、行列が止まる。
??日、高杉、明倫館学頭に横井小楠を招く事を真剣に提案するも、小楠の開国論に対する誤解や不信の声があり
実現する事は無かった。「敵を知らずに攘夷をする愚策」を小楠、そして松陰も説いている。
しかし、後に久坂玄瑞などは最後まで横井小楠に会おうとしなかった。
??日、高杉、風邪で寝込む。桂の訪問を受ける。
??日、高杉、桂、伊藤俊輔の訪問を受ける。

10月
5日、周布政之助、久坂玄瑞ら、備後の鞆あたりで長井雅樂と出会うが即刻帰国を申し付けられてしまう。
6日、桂、高杉を訪問
20日、高杉、ヨーロッパ行きの事でお国調役の所へ出向く。
この頃幕府内では英国公使オールコックによって開港延期交渉の使節団派遣とパリ万博への招待参加への
周旋を受けており、その使節団員を構成している所であった。高杉はこれに参加する予定の様だ。
(ちなみにオールコック公使は先日のロシア軍対馬問題に対処し、更には幕府弱体化の内情を知るや
それを慮り、自ら江戸大阪開市・兵庫新潟開港延期の提案を持ち出している。
これについての本国政府との交渉やパリ万博への招待などの為、自らの賜暇休暇を当ててている。)

11月
1日、先のヨーロッパ使節団に萩藩からは1名しか行く事ができず、高杉の他に名が挙がっていた
藩主小姓・杉徳輔がこれに随行する事が決定した。
13日、長州藩主東勤に随行し長井雅樂、高杉父小忠太ら行列、江戸に入る。麻布七屋敷。
長井の「航海遠略策」について桂らからの猛反発を受け、藩主が消極的な姿勢を見せる。
15日、和宮降嫁。江戸に入る

12月
8日、長州長井、「航海遠略策」について正式な建白書を幕府に提出する。
23日、高杉、上海行の命を受ける。
ここでまたも『男兄弟は自分しかおらず親が心配』といった心境を日記に吐露する。
24日、ヨーロッパ使節団、英国艦隊にて横濱出港。
??日、高杉、麻布屋敷に父小忠太を訪う。父は「この様な大任を受けこれ以上のしあわせがあろうか。
家の事は心配せず死ぬ覚悟で君命を奉じなさい」と、喜んで励ました。
??日、高杉、世子定広から小紋丸形付の小袴を拝領。直々に命を受けた。



~文久2年~


1月
3日、長井雅樂、幕府老中へ昇進。
3日、高杉、早朝、上海行の為江戸を出発。陸路長崎まで。長崎には3月まで滞留となる。
15日、坂下門外の変
安藤が失脚したため長井雅樂も孤立する。
水戸浪士・内田万之介が桜田藩邸の桂を訪ね『安藤襲撃の時間に遅れてしまった』として突如自決。
桂は幕府から疑われる事態に陥る。
桂、伊藤俊輔、北町奉行所で取り調べを受ける。この時伊藤が高槻藩士・宇野八郎の姿を見た。
??日、伊藤、水戸浪士を扇動している容疑でかつての大橋塾に習った時の師であり儒学者の大橋訥庵が
幕史に捕らえられた事を知ると共に、大橋塾に出入りしていた高津帰藩・宇野八郎による密告の噂を聞く。
伊藤が奉行所で見かけた事と合致した。この事を後々、白井小助、そして高杉にも伝える。(大橋塾門弟)
??日、高杉、長崎着。新町長州屋敷に寝起きする。
??日、村田蔵六、横濱でヘボンの教えを受ける。

2月
1日、高杉、崇福寺へ日本語ができる2人のアメリカ人を訪ねる。ウィリアムズ宣教師とフルベッキ宣教師。
アメリカが長引く南北戦争の最中であり、内乱の恐ろしさを痛感する。
また、アメリカは四民平等ですべての民の中から大統領が選ばれ、大統領を辞した者は再び
民へと戻るのだと聞かされる。次第に話はキリスト布教主題になり高杉は辟易して場を辞する。
??日、長崎奉行高橋美作守が「上海は長髪族と清国軍が戦っている状況なので様子を見て出港する」と
出発を引き延ばす通知を出す。高杉は豊富な旅費を懐に遊び歩いた。
礼儀として幕府役人を接待したり、英米人やフランス人を訪ねて海外の様子を聞き
通商の実状を探る事も怠らなかった。
11日、将軍家茂・和宮婚儀(共に16)
??日、高杉、ロウレイロというフランス人を訪ねる。フランスとポルトガルの領事を兼ねた人物。
軍艦、海軍の強さ=世界での強さについて話を聞く。
??日、高杉、ロウレイロを訪ねる。
自分の庭で菜園を行っていた彼に従者が「そんな事は召使いにやらせればどうです」と
言うと、ロウレイロは「日本の役人はみんなこの調子」と呆れて見せた。
日本の役人は上にへつらうが下には威圧的で顎先で使おうとする。その事を指摘されたのだと高杉は理解した。
??日、アメリカ領事と会った時は兵庫開港大阪開市の話に及ぶ。
??日、元通訳森田市太郎と語らい、海軍大国はイギリスだが一番気をつけねばならないのはロシアだと聞く。
??日、高杉、萩への報告手紙に『長崎に心を向けていれば外遊などせずともそれなりの形勢・情勢を
探る事ができます』と報告する。

3月
10日、長井雅樂、「航海遠略策」で孤軍奮闘しながらも京へ上る。
16日、薩摩自称国父・島津久光(公的には島津三郎)、軍を伴って鹿児島を発つ。
18日、長井雅樂、「航海遠略策」を正式に朝廷へ建白するも情勢が変わっており失敗に終わる。

4月
11日、久坂玄瑞、12箇条から成る長井弾劾書を提出する。藩内分裂を恐れた藩主が長井に東帰命令を出す。
13日、高杉、妻からの長い手紙へ返信を送る。家族が見るのを気にしてか格式ばった文面での返信だった。
「合間に手習いなどもするように。侍の女房は歌の一首くらい詠めなくてはいけません。
裁縫なども大事ですが合間に心がければ随分学問もできるものです」
しかし妻雅にはこっそりと贈り物も添えていた。唐縞一反、ごろ服帯地一筋、緋唐巾二反。
「親類にも内緒にし、人前で着ないように」
13日、薩摩自称国父・島津久光(公的には島津三郎)、入京。
14日、長井雅樂、京を出て江戸へ出立。
14日、長州、総奉行浦靭負以下稽古人に兵庫警衛を命ずる。久坂らもこれに随行する。
21日、久坂ら京に入るも浦靭負から禁足を厳命され、23日決起予定の真木和泉らからの報を待つ。
23日、京、寺田屋事件。薩摩同胞粛清
??日、高杉、麻疹にかかる。
27日、高杉、麻疹の最中であったが千歳丸へ乗り込む。
28日、長州世子定広、江戸からの帰国途中、京河原町藩邸に入る。
29日、千歳丸長崎出港。高杉程なく回復。随行員の中にかつて昌平黌で一緒だった伊藤軍八を見つける。
??日、久坂ら、長井弾劾運動
30日、千歳丸、大しけに見舞われ皆が船酔いに沈むも、高杉はケロリとして航海日誌を続けた。

5月
3日、桂、上京を命じられる。
3日、高杉、船内にて五代才助と出会う。いつか軍艦を買おうとしている事などを聞く。
5日、長州建謗詞事件。
久坂、長井雅樂が提出した建白書に朝廷を誹謗する文言があると指摘。朝廷が不快感を表したもの。
滞京中であった世子に朝廷から沙汰書がくだされる。「件に関して藩主上洛の折に釈明を聞きたい」
6日、高杉、上海着(遊清五録)
小人目付犬塚しゃく三郎の従者としてオランダ領事館に入る。
階下で待つ間早速清国人を捕まえ、筆談を試みた。「英、露、米、仏、どの国が一番強いか」
彼らは即答で「ロシア」だと答えた。何故かと聞く前に役人が降りて来た為筆談は中止となり残念がる。
7日、高杉、朝から銃声響き、長髪族と清兵の戦闘が近いと聞くと『実践が見れるかも』と興奮した。
9日、高杉、上陸して居を宏記洋行という洋式ホテルへと移す。佐賀藩士の中牟田倉之助と同室になる。
今回佐賀藩からは4人も参加しており、中牟田などは長崎海軍伝習所に学んで航海術に精通し
英語も話せる。先日の五代の事もあり、薩摩や佐賀からは大きく引き離されている事を痛感する。
11日、高杉、殆どの人が出払った日曜日であったが、中牟田と二人で語り合った。
12日、桂、伊藤俊輔、京へ向かう。
13日、高杉、幕史の供をしてイギリス、アメリカ、ロシア各領事館を訪問する。
??日、まったく雨が降らず、炎熱に人々が蒸されるかの様であった。黄濁した川の水を飲んでコレラに掛かり
一行からも3人の死者が出てしまった。下痢と高熱に苦しむものも半数近くだった。
??日、高杉、「上海は清国の地でありながら英仏の属国といってよい。日本も心するべきだ。」と日記に書く。
23日、高杉、五代才助と二人で英国教会と附属病院を訪れる。
「まず治療を施してから布教に入る」という現場を見、「為政者に気をつけねばならぬ」と日記に書く。
26日、高杉、幕史に従い中牟田とオランダ商船を見に行く。その大きさ、精巧さはまったく千歳丸の比ではない。
29日、第二次東禅寺襲撃事件
29日、桂、清河八郎から面会を求める手紙を受けるが断る。

6月
2日、長州藩、長井を支援していた久世広周を罷免。
5日、長州藩、建謗詞問題に際し朝廷へ謝罪し、長井の老中職を免じ帰国させる。
6日、長州藩、藩主一行江戸を出る。(勅使薩摩を迂回し中山道)
7日、江戸、勅使東下。薩摩久光(島津三郎)供奉
7日、高杉、初めて城外へ出る。
広大な田園風景はその果てに山すらも見えない。戦闘の跡が生々しく残っている。
8日、高杉、千歳丸の五代才助を訪ねる。上方(京)で異変(寺田屋事件等)があり
長州も関わっていると聞かされる。「千里の海濤いかんともしがたし」
午後、オランダ商館で5連発のピストルと地図を購入する。
13日、高杉、中牟田と城外を歩いている時に横濱から来たばかりのアメリカ人と出会い、招かれる。
14日、高杉、中牟田と城外で清国兵の実演習を見学する。武器、戦術、全て旧式のものであった。
もはや防衛戦は英仏兵に依存しきっており、旧式は遠く及ばないという。西洋銃隊の強さを実感する。
16日、高杉、アメリカ商店で7連発のピストルを購入。
17日、高杉、中牟田とイギリス砲台の見学をする。元込めアームストロング砲の精巧さに目を見張る。
??日、高杉、双眼鏡、地図、地球儀、大量の本などを買い込む。(長崎で使い果たしてなどいない)
清国が西洋諸国の侵略を何故許したかという命題に答えを見出す。
「敵を十里の外に防ぐ軍艦、大砲などを持たず、海国図志なども絶版し古い軍説を唱え続けている為」
「自領を守るために外国人へ援兵を請い、その為に自領は外国人のいいようにされてしまう。
清国人は外国人に使役され、港では税金をまきあげられ、法令も行き渡っているのは城内だけ。
清中央政府からそれほど離れている訳でもないのにこの状況が許されている状況に言葉を失う。
日本も早急に攘夷の策をめぐらせなければ同じ轍を踏む事になりかねない」
28日、桂、伊藤、京着。

7月
5日、桂、周布、中村九郎、学習院用掛(応接役)を命じられる。
5日、高杉、千歳丸で上海を出港する。
海外雄飛を唱えた松陰や海軍充実を説いた横井の卓見に思いを至さずにはいられない。
7日、長州藩主、京河原藩邸到着。大会議が行われ桂・周布が中心となって破約攘夷を唱え、決議する。
長井の「航海遠略策」は完全に破綻する。
(翌年、かつてこれに賛成意見を唱えていた三条実愛も権大納言・議奏を辞職する)
14日、高杉、長崎帰着。オランダの蒸気船が売りに出されており、これを独断で契約する。
すでに長州では軍艦購入の話が上がっており桂や周布らも思案を巡らせていた経緯がある。
費用が膨大な為先送りとなっていたが、ここで既成事実を作って藩の決断を引き出そうとしたが
藩はこの時金を出す事を渋り、結局このオランダ蒸気船は他の買い手がついてしまった。
しかしこの独断について藩は高杉を咎めたりはしていない。軍艦の購入は前向きに検討される事となった。
??日、政治総裁松平春嶽に招かれ、横井小楠が江戸に入る。
??日、幕政改革。
諸藩海軍興隆、財源確保の為参勤交代緩和、藩主妻子の帰国許可、献納品や進物贈答の廃止を断行。
薩摩の勅使東下を誤解した天下は『尊王攘夷』一色であるが、薩摩はあくまで「公武合体」路線である。
??日、桂、この頃三本木『吉田屋』の芸妓・幾松と知り合う?

8月
3日、長州世子定広、殉国犠牲者の免罪修葬を幕府に命じる勅状を持って江戸へ下る。桂、周布、伊藤同行。
4日、土佐藩主、武市半平太ら入京。
??日、高杉、江戸行の命を受ける。
28日、高杉、京で藩主に帰国報告。防長割拠を説く。

閏8月
2日、高杉、学習院用掛(応接役)を命じられる。
??日、高杉、江戸桜田藩邸に入る。
??日、高杉、上海で得た課題と長州藩論「破約攘夷」という無謀論とのズレに悩む。
??日、高杉、桂小五郎や毛利登人などと議論するが、攘夷の目安もなく国力を無駄にしているとしか思えない。
??日、高杉、桜田藩邸有備館の寮室に20日間ほど閉じこもる。
27日、高杉、世子定広に謁見。
破約攘夷の周旋は尤もながら他藩が傍観を決め込む中長州だけが防長を投げ打って尽力しても意味がない。
攘夷の勅命を拝するまでは周旋の儀は辞退し自国へ戻って富国強兵に務めるべきだと思う。
こういった事を述べた後、同日江戸より脱藩する。別途、亡命する旨と君主への忠義に背くものではないと
誓書を世子に残し、同じく江戸にいる父小忠太にも「御両親様へ孝行できない事、お許しください」と
詫び状を出した。
松陰が唱えた『草莽の志士』に自らなる今回の行動を『狂挙』と言った。
亡命の途中宍戸九郎にも「狂挙」について話しているが、高杉の「防長割拠」を理解できるものは少ない。
桂小五郎は高杉の話に注目し、また「狂挙」についても
「笠間の加藤に会いに行っただけだから、じきに戻ってくる」
と言って驚かなかった。

9月
4日、桂小五郎、周布政之助は越前藩邸に押し寄せて横井小楠登用に反対する。
??日、高杉、加藤有隣と会談。諭されて帰藩(江戸)を決意。
8日、高杉、加藤からの書状を見て迎えに来た坂上忠介(明倫館の先輩)と江戸へ帰る。
「松陰先生の命日の墓参で千住まで来たところ急に相談したい事があって笠間まで足を延ばした」
という事で、今回の『狂挙』は亡命にはならずに済んだ。{世子も許してくれたのね…}
21日、桂、周布。横井小楠と初会談し、「疑因氷解」
23日、桂、周布。松平春嶽を訪ね幕府の攘夷議決を迫る。
??日、長州、イギリス蒸気船・壬戌丸購入
28日、桂、高杉と会談

10月
28日、勅使東下。山内豊範供奉。武市瑞山ら随行。
久坂、文学修行の名目で江戸に入る。

11月
??日、高杉、『文久2年頃江戸』に「小三」という馴染みの芸者がいたとされる。{この頃か?}
ただし小三は口が軽かったため高杉の方から縁を切ったという。
5日、長州世子定広が山内容堂を桜田藩邸に招待する。
36歳の容堂は24歳の世子定広に対し終始横柄な態度の様子。噂に高い久坂の詩吟を所望すると
勤王の僧として有名な月性の詩を吟じ、「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」の所で敢えて口をつぐんだ。
そこで黙す事で容堂の政治姿勢を暗に批判するつもりだった。
だがそこへ酔った周布が容堂を指さし露骨に「公もまた朝堂の一老公!」と誹謗した。
高杉はこの席に呼ばれておらず「江戸っ子のごろつきの様にぶらぶらしていた」との事。
??日、高杉、松陰や横井の論と上海で得た課題から『現状体勢での即攘夷は無謀』と分かってはいても
世間の『破約攘夷』の勢いは凄まじく、故に長州が「成破の盟役→航海遠略策→破約攘夷」と
天下を惑わすものだと風潮される事に焦りを禁じ得なかった。
「とにかく長州人一人でも夷人なりと斬って恥をそそがねば」と焦燥を綴っている。
11日、高杉、大和八郎、長峰内蔵太、志道(井上)聞多ら、品川『妓楼土蔵相模』にいりびたる。
13日日曜日に外国人公使が金沢へ遊びに行く道中を襲撃する相談をしていた。
??日、高杉ら妓楼いりびたり組。襲撃計画を実行するにあたり金100両が必要となり、志道聞多が
方々を駆ける。周布政之助に掛け合うが相手にされず、来嶋又兵衛には土蔵相模にいる馴染みの
妓からの無心の手紙を偽造して渡し、政府の金ではなくポケットマネー50両を受け取る。
更に聞多は深夜12時に山県半蔵の元へも駆け込み、高杉の父小忠太が息子の為にと預けてある50両を
受け取る為に「高杉が妓楼で金を払えず桶伏にされている」と言い、50両を出せた。
12日、高杉、久坂と共に勅使館へ行き武市を訪ね、龍馬と萬年屋で呑んで品川へ帰る。
この時久坂が異人襲撃事件の予定を武市に漏らし、武市はこれを止める為に容堂へ報告した。
容堂はすぐさま世子定広へ通報し「都合によっては当方より鎮圧に出向いても良い」とまで言う。
13日、高杉ら11名、神奈川の旅館下田屋に潜伏中、勅使からの使者が書簡を持って到着。
「今事を起こしては勅使の趣旨も立たなくなる。幕府の返答が出るまで行動を控える様に」との事。
皆が騒ぐ中、高杉は一人落ち着いて丁寧に使者へ対応し、送り出した。
13日、高杉、久坂ら同志11人と外国人襲撃を中止し、大森まで引き返したところで
馬に乗って駆け付けた世子定広、定広へ報を届けた土佐藩士・小南五郎右衛門らと遭遇する。
13日、蒲田梅屋敷事件
世子定弘は一同を近くの蒲田梅屋敷へ招き諭す。みな感涙の涙を湛えている中、高杉だけは
きっぱりとした様子で挙の及んだ経緯を申し上げていた。
土佐藩から鎮撫へと差し向けられた上士組4名と武市以下郷士15名(龍馬含む)も到着。
高杉が中止を告げ一同はそのまま酒宴の流れとなったが、そこへ酔った周布政之助が現れ事態が一変する。
今回『尊王攘夷』を中止させようとした容堂をまたも皮肉った。
5日桜田屋敷の件もあり土佐藩士達は一気に殺気立つが、高杉がすぐさま抜き身を放った。
「これは周布の不敬。拙者が成敗いたす」
周布を斬る振りをして馬の尻を刀で叩き、捕り逃すふりをして逃がした。
これで収まる訳もなく、高杉と久坂は然るべき詮議の後必要であれば周布の首を斬ると言って
その場にいた土佐藩士らを納得させ、この場はひとまず解散となった。
14日、世子定広が直接容堂のもとを訪れ、丁寧に今回の非を詫びる事で容堂も納得し、解決となるはずだった。
15日、しかし現場からの報告を受けた土佐はこれに納得せず、上士下士が鍛冶橋土佐上屋敷へ数百名も
押し掛ける事態に発展。容堂本人も思う所あれど、それ以上に藩士らの怒髪天を制御しきれない。
容堂が侮辱されたその場にいながら周布に然るべき対応をしなかった下士らに咎ありとなり
間崎哲馬ら3名が切腹を申し付けられる事態にまで陥った。(後に武市が容堂へ嘆願し、中止される)
{土佐上士の公武合体派にはこの事件に乗じて勤王に傾倒する下士らの力をそごうともしていた動きあり}
15日、長州、梅屋敷事件については後に改めて礼をし周布を帰国させるなどして解決すると思っていたが、
真っ先に定弘へ通報に走った土佐上士小南五郎右衛門が困惑がちに桜田藩邸を訪ねた事で再びぶり返した。
長州は驚き急遽評議が行われる。最初に周布の首を差し出すと言い出した高杉・久坂に飛び火しそうになり
これを良しとしない長州幹部らは止むを得ず松平春嶽にこの旨を相談し、仲裁を請う事で何とか収まった。
事件の元凶となった周布は帰国となった。
…というのは上辺だけで、実は麻田公輔と名を変え、江戸に留まっていた。{長州、優しくね…?}
??日、桂小五郎、松島剛蔵への手紙を書く。
梅屋敷事件について『薩摩寺田屋事件の様な処置も及びかねない有様』と伝え、
『今日よりは割拠の覚悟をきめ防長一天地と心得て速やかに用意しなければならない』
『高杉らも帰国の上必死に取り掛かれば成就するだろうが、そうならない場合は周布と自分、
高杉などが亡命して働いてみようとも相談した所、高杉ももとより異存はないとの事でした』
高杉も桂も『尊王攘夷』の観念論として『小攘夷を繰り返しても意味がない』と限界をみている。
{高杉本人が世子に対して述べた『破約攘夷周旋の儀を「今は」辞退し』というのが正しい。
だが『尊王攘夷』が渦巻くからこそ長州の体たらくは笑いもののそしりを受けつつあるのも事実。}
高杉はそれを払拭するかの様に久坂らとの『小攘夷』に身を委ねる事をやめられず
「百折不屈、夷狄を掃除する」事を誓う。
??日、高杉ら、御楯組血盟

12月
7日、三条実美、姉ヶ小路、勅使一行、武市瑞山ら帰京のため江戸を発つ。
12日、高杉ら御楯組、品川御殿場英国公使館焼き討ち
19日、久坂、山県半蔵、土佐藩士・中岡慎太郎らと水戸信州を遊歴。佐久間象山らに会う。
??日、長州下関の豪商・白石正一郎、京に入る。


~文久3年~

1月
5日、高杉、伊藤俊輔、赤根武人、山尾庸三、白井小助、堀真五郎らと松陰遺骨を若林大夫山に改葬
7日、長州藩主慶親、朝廷から『直接』参議に任じられる。幕府を通さない人事であった。
13日、高杉、高槻藩士・宇野八郎を殺害。
同日、同志白井小助が宇野と飲み歩き、夜になってから桜田藩邸へ招待した。
偶然を装って高杉と伊藤も合流し、有備館二階にて4人で会話。
朗らかな雰囲気で刀の目利きの話になり、高杉は自分の刀を宇野に見せ、宇野の刀も見せてくれと
言って受け取った瞬間、その刀で宇野の胸を刺した。続けて伊藤が宇野の首を討つ。
死体の処理に困り桂と周布に相談すると、どこかへ捨てるしかないという話になった。
空俵に死体を詰め込むと荒縄をかけ、道一つ隔てた上杉家の屋敷のそばへ捨てた。
事件は闇に葬られた。
22日、長州藩主、攘夷に備える為世子に後事を託し、帰国。京を出る。
??日、長州世子と共に、世子小姓役の志道聞多と長峰内蔵太、世子奥番頭の大和弥八郎も上京。
御楯組の同志は殆ど京へ上ったが、高杉は江戸に残り酒色に日をとざした。
{江戸に滞留せよとの命とかじゃなく、世子が京へ上るのに自分の意思で江戸に残ってるの?}
昨年閏8月の「狂挙」以来、再び「狂」の字を使い始める。「東狂」「東洋一狂生」など。
陽明学「世に容れられぬ、至誠にして純粋なやむにやまれぬ行動」

2月
??日、桂、周布(麻田)、京へ移る。
??日、長井雅樂、切腹
??日、長州世子定広、高杉を連れてくる様にと志道聞多を江戸へ送り出す。
??日、将軍徳川家茂、江戸を発つ
??日、高杉、志道聞多と共に江戸を発つ。
??日、伊藤俊輔、幾松を狙う山科の豪家を刀で脅して諦めさせる。(日付不明だが↓とセット)
??日、桂、この頃より幾松と恋人関係にある。

3月
4日、将軍・徳川家茂、299年ぶりの将軍上洛をはたす。
11日、孝明天皇、将軍家茂、賀茂社行幸。長州供奉。
11日、高杉、上京。小雨の中行列を見る。
11日、高杉、桂・周布と会談。
高杉が説く防長割拠に10年は必要だと言われ、10年の暇を請う。
15日、高杉、10年暇の件、笠間亡命事件と外国人襲撃未遂事件の処分という事で受理される。
周布「高杉の意図については来嶋又兵衛、寺島忠三郎、入江九一、桂小五郎、時山直八も承知」
16日、高杉、頭を剃って「東行」と号する。
『西へ行く人を慕うて東行く心の底ぞ神や知るらん』
周布、高杉が落とした髪毛を世子へ示す。
世子「たとえどこに亡命しようともかねての誓いあり、忘れはすまい」{長州、優しすぎない!?}
18日、大納言中山忠能5子・侍従中山忠光、尊王攘夷の為京を飛び出し長州萩を目指す。
19日、高杉、寺町二条下ル妙満寺境内の一隅を与えられ、根城とする。
23日、高杉、将軍家茂が近々帰東するという噂を聞く。松下村塾の同志と共に周布を訪ね、
もし家茂が抑留の勅諚を拒否すれば斬ろうと説く。「僕に名刀がない」と言うと周布は
藩主からもらった太刀を取り出し、家紋を削り落として高杉に与えた。
??日、しかし昨年末に結成された御楯組は26人もいたのに、今回応じる者は入江九一ただ一人だった。
皆京での尊王攘夷運動に夢中で、江戸を顧みるものは誰もいない。
??日、高杉、坊主笠をかぶり、腰に6,7寸の短刀をつるして市街を横行し、酒を飲み歩く。
傍若無人でまるで『狂人』の様であった。
??日、長州藩士・中村道太郎、堀真五郎に高杉を国許へ連れて帰ってくれと頼む。
??日、長州藩士・堀真五郎、高杉を酒楼に誘って高杉の胸の内を聞こうとするが、憮然としてロクに答えない。
「いっしょに国へ帰らんか」
高杉はこれを承知した。
??日、長州下関豪商・白石正一郎、下関へ帰る。

4月
1日、馬関海防総奉行・毛利能登、下関新地会所に入る。総勢700名の兵が付近の諸寺院に分駐。
2日、公家中山忠光、下関の豪商・白石正一郎宅に入る。
10日、高杉、堀真五郎と共に萩帰着。(父小忠太は藩主に随行し2月より菊屋横丁に戻っている)
??日、高杉、両親の許しを得て、吉田松陰生誕地団子岩の西麓に、妻雅子と二人だけの草案を結ぶ。
時折萩市中へ赴いたり、同志が草案を訪ねたりとしながら、台風の目の様な一時の静かな時を過ごす。
20日、将軍家茂、5月10日攘夷期限上奏
27日、桂、大阪にて、対馬藩大島友之丞と共に勝海舟を訪問。
28日、久坂玄瑞、30人余の有志を連れて下関に入る。竹崎長泉寺に屯集し、政府の許しを得て
馬関海防総奉行とは別の部隊編成を行う。

5月
上旬頃、5月10日攘夷決行の奏聞を受け、長州世子定広らが京から帰国してくる。
長州藩外の尊王攘夷有志達も含め下関へ集結し、外国艦船を打ち払うのだという。
5日、久坂、屯所を光明寺へ移し『光明党』と呼ばれる。兵は60人以上となり、中山忠光を首領に据えた。
以後、光明党は梅雨の中砲台の建設を急ぐ。前田村、壇之浦海岸、亀山、永福寺裏山などの高地へ30門。
8日、公家中山忠光、真木和泉放免工作の為久留米へ向かう。
??日、高杉、やかましく草案へ駆け込んでくる同志の誘いには一向に乗らなかった。
海防の備えも全くできていないのにどうしてその様な暴挙ができようか。誰も分かっていなかった。
10日、馬関攘夷戦争始まる。深夜、田ノ浦に碇泊していた米国商船ペンブロック号を砲撃。
馬関海防総奉行・毛利能登は躊躇って出動しなかった。
11日、井上聞多、伊藤俊輔ら『長州ファイブ』、渡英
17日、公家中山忠光、下関に戻る。
20日、高杉、久保清太郎に頼んで、刃渡り二尺五寸(約76cm以上)以上もある長刀を求める
20日、姉小路公知、暗殺
23日、馬関攘夷戦争二戦、仏国艦キャンシャン号砲撃
26日、馬関攘夷戦争三戦、蘭国艦メジュサ号砲撃
29日、世子定広、萩より下関・白石邸へ入り会議。
長崎より招かれていた中島名左衛門『西洋の力を侮ってはならない』と警告し、その夜惨殺される。

6月
1日、世子定広、壬戌丸で小郡へ帰還する予定だったが中山忠光以下光明党60人の訪問を受ける。
姉ヶ小路公知暗殺を受け、中央政情を探る為の暇乞いであった。
世子定広が帰還しようとした時、異国軍艦からの号砲が響き渡る。
1日、馬関攘夷報復戦1戦、米国艦ワイオミング号。砲6門搭載700トンたった一隻により
亀山砲台が跡形もなく破壊され、壬戌丸、庚申丸が轟沈、癸亥丸大破、死傷者100名の被害を出した。
世子定広は陸へ引き返し、伊崎の日和山から一部始終を観戦、目に焼き付けた。
2日、世子定広、駕籠で山口へ帰還。馬関防衛体制の建て直し会議を行う。
定弘は躊躇いなく高杉の名を挙げた。
3日、高杉、山口召喚の藩命を携えた山県半蔵の訪問を受けるが、応じない。
5日、高杉、ようやく重い腰を上げて山口へ向かう。
5日、馬関攘夷報復戦2戦、仏国セミラミス号、タンクレード号。
セミラミス号砲35門により前田村・壇ノ浦の砲台が沈黙。更に仏兵250名が上陸し砲台を占拠。
長州兵が槍弓で抵抗するが敵わず、救援部隊も軍艦からの砲撃により完全に阻まれた。
大組頭益田豊前率いる藩兵が新地から駆け付ける途中、壇之浦付近にて敵砲弾が部隊の真ん中に炸裂した。
甲冑姿の隊長は棒立ちになった馬から転げ落ち、なんと藩兵はそのまま退却して市民の笑い物になった。
仏兵は民家を焼き払い砲を完全に破壊し、撤収した。
5日、高杉、長州藩主父子に謁見。政務座役奇兵隊総督。
6日、高杉、下関白石正一郎邸に入る。土屋矢之助と入江九一がおり、白石翁は高杉に引き合わせる。
奇兵隊編成について夜通し語り合う。
7日、高杉、入江九一と共に新地会所の総奉行手元役来嶋又兵衛を訪ね、有志隊創設の協力を仰ぐ。
『奇兵隊は陪臣軽率藩士を選ばず同様に相交わり、もっぱら力量を以て貴び、堅固の隊を整える』
11日、高杉、自ら筆を振るって白石邸の本門に『奇兵隊』の札を掲げる。
??日、1日に京へ発った光明党の内数名が下関敗戦の報を受け引き返してくる。奇兵隊の幹部となる面々である。
13日、敗走した総奉行が辞任し、若干22歳の寄組国司信濃が就任する。
大組頭も益田豊前から寄組児玉小民部へと変わる。
14日、隊員が70人を超えたため、白石邸を出て阿弥陀寺町の阿弥陀寺と隣の極楽寺へ移転。
前田、壇之浦砲台からも近い。
16日、桂、真木和泉らと京都東山の翠紅館で会議。
??日、高杉、西ノ端の入江和作の家に寄宿する。
この頃、裏町堺屋の抱え芸者であったうの(此ノ糸)と出会う。
??日、長州藩、攘夷戦を傍観していた小倉藩へ使者を送り、詰問する。
小倉藩、無謀過激の攘夷を戒める幕令を遵守したと返答。
18日、長州藩、不意に小倉藩へ侵攻。田ノ浦を占領して砲台を築き、小倉藩の罪を朝廷へ訴える。
??日、小倉藩、「将軍家の命令はすなわち叡慮と相心得たり」と会津や幕府に救解を求める。

7月
2日、薩英戦争。4日まで。
5日、高杉、馬関大組から強壮の60名(本当は100名ほしかった)を選び先鋒隊編成。
士族から成るこの部隊の下に奇兵隊を置く形を貫く。
前田台場再建完了。
9日、吉田敏麿、帰隊。馬関攘夷褒勅使一行が台場視察にやってくると伝える。
高杉、妻雅子からの手紙に返信する。
「この節菊ケ浜にもお台場ができ、家内より一人ひとりお加勢に出てまことににぎにぎしい事でございます」
「諸士の家内まででかけてにぎにぎしいとのこと、あまりよろしき事でなく、
そもじはおいでにならぬがよいと思います」
武家の妻を狩り出しての『お祭り騒ぎ』を苦々しく思う高杉。上調子な藩の役人にも腹が立つ。
武士の妻は武士の妻らしくやるべき事をし、軽率な流行に同調して一緒に騒がぬ様にと窘めた。
??日、長州藩小倉藩の件につき、朝廷は小倉藩へ対し「違勅」として処罰する事を内定したが
会津藩や尾張藩が「幕府は攘夷を奉勅したがまだ戦端を開いていない。小倉藩の行為は違勅ではない」と
周旋した為、内定は取り消された。
12日、幕府、長州藩に対し小倉侵攻を詰問し、撤兵する様指示。
15日、勅使正親町公董一行が白川邸に入り、数日逗留。
23日、幕府蒸気船朝陽丸が田ノ浦沖に碇泊。
24日、朝陽丸、ゆっくりと下関海峡へ侵入し、亀山の下に投錨する。
幕府使番中根市之丞、目付中縫鉄助、鈴木八五郎、使番目付村上求馬、牧野左近ら上陸。
将軍から萩藩主への親書を届ける。総奉行手元役波多野金吾、吉田敏麿らが応じ、山口へ報告。
29日、藩主父子、小郡にて幕府中根らより親書を受ける。
しかしこの親書は将軍からの親書などではなく、幕閣から馬関攘夷を詰問する書状であった。
先日の褒勅使らの趣旨とも大きく違う内容である。急遽、郡奉行が書簡を受理する事態となる。
??日、奇兵隊士も激昂し、朝陽丸の士官、乗組員全員を上陸させて民家に収容し、これを拿捕する。
朝陽丸事件勃発。

8月
??日、奇兵隊と先鋒隊の間で軋轢が生じ、先の攘夷戦で笑われ者となった大組出身あたりから大きくなり始める。
先鋒隊は門閥を鼻にかけ匹夫烏合の衆である奇兵隊を嘲り、
奇兵隊は高杉総督を頂いて先鋒隊何するものぞと意気軒昂だった。
台場警備も、奇兵隊は前田、先鋒隊は壇之浦を分けざるを得ない状況にまでなっていく。
13日、世子定広、白石邸に入る。
14日、世子定広、高杉以下奇兵隊幹部20人程を集め、朝陽丸を解放する様説得。
16日、世子定広、各台場を慰問する。
奇兵隊の前田で操練を視察し、後先鋒隊の壇之浦へ行く予定であったが
先日よりの不安定な天候の為、壇之浦へは後日視察という事になった。
これを不服に思った先鋒隊の一味は、400石の大身でありながら真っ先に奇兵隊に入隊した
総奉行使番・宮城彦助の差し金であると邪推する。
宮城彦助は和歌にたくみな風流人で、弓矢槍剣の古い戦法を時代遅れとしていた。
それが武士道を軽んじると誤解されており、また先の攘夷戦の際、益田豊前の隊が敗走するのを
大声で叱咤した事も憎しみを増幅させる所以となっていた。
16日、先鋒隊数名が、宮城の下宿先である教法寺前へと詰めかけた。
宮城は高杉を訪問しており不在であったが、先鋒隊は狼藉をはたらきはじめる。
宮城の下僕が高杉の所へ駆け込み、事の事態を告げた。
宮城は先鋒隊と掛け合ってくると言って教法寺へ駆けだし、高杉はそれを案じて奇兵隊13人と後を追う。
奇兵隊が押し掛けて来たと言うので先鋒隊は逃げ出したが、何人かが斬り合いとなり先鋒隊1名が殺される。
教法寺事件勃発。
16日、夜、奇兵隊、先鋒隊双方の隊士らが甲冑装備をして各本陣にひしめく事態となった。
22時頃、白石邸の世子定広の元へ高杉から一報が入り、世子、総奉行が説得をして衝突は回避された。
17日、高杉、世子定広に今回の事件の責任を取るため切腹を申し出たが、藩主の命を待て、と留められる。
高杉、妻雅子へ遺言のつもりで手紙を書く。
「いつも申している様に武士というものはいつ死ぬかも知れぬもので、私も明日にも死ぬ事があるかも知れません。
あなたも武士の妻であるからには、夫が死ねばあとを守り、操を立て、夫の弔いをするのが役目です。
私は死んでもあなたを忘れませんから、あなたも武士の妻らしく操を立て私のあとを守ってください。
それができなければ私の妻ではありません。そのことをよくよく心にとめておいて下さい。」
17日、天誅組挙兵
18日、818政変。『国賊』長州藩2000兵、七卿と共に都落ち
19日、桂、京近郊に留まり、正藩従合を進めようと奮起する。
19日、深夜、小郡にて幕使の宿が兇徒に襲撃される。
鈴木八五郎の首が路傍にさらされ、従者一人が脱走して幕府に通報した。
20日、中根市之丞、朝陽丸を諦めて帰東すると藩へ申し出る。
20日、夜、幕使中根市之丞ら、周防丸尾崎から出帆。
21日、中ノ関沖に差し掛かったところで兇徒の襲撃に遭い、全員の惨殺体が海へ投げ込まれた。
23日、高杉、818政変の報を耳にする。
26日、長州から落ちて来た三条実美ら七卿、周防三田尻に入る。
27日、教法寺事件の責任として宮城彦助が切腹。
??日、俗論台頭
俗論党幹部・椋梨藤太、中川宇右衛門、三宅忠蔵が直接藩主に謁見し、側近人事を迫る。
保守色の強い老臣達も同調した。
匹夫の武力集団である奇兵隊の解散を求める動きも現れた。
31日、高杉、波多野金吾や周布政之助と相談し、奇兵隊を小郡へ転陣させる事を決める。

9月
1日、表番頭周布政之助、直目付毛利登人、同前田孫右衛門ら藩主側近3名が謹慎となる。
??日、吉田敏麿、朝陽丸の士官、乗組員達を諭して穏便に江戸へ帰らせる。
5日、高杉、奇兵隊を山口の南十数キロの所にある秋穂へ転陣完了させる。
9日、高杉、奇兵隊武力を背に俗論追放。
藩庁へ電光石火の如く乗り込む。俗論党を処罰し周布ら3名を復職させる。
10日、高杉、政務座役再任。久坂、政務座役就任(本人不在)。
12日、高杉、奇兵隊総督解任
18日、桂、長州に戻る。閉じこもる。
23日、来嶋又兵衛、中村九郎、村田次郎三郎、久坂玄瑞、萩帰着。
24日、長州御前会議。
25日、奇兵隊、七卿の護衛を命ぜられ三田尻へ転陣。
27日、高杉、風邪を理由に政務座出勤断りの書面と演説書(辞職願)を提出。受理される。
『再び前の罪に伏して』と、例の10年暇に戻ると言っている。
{24日の会議でまた『小攘夷』を前に割拠論が崩されたか?}

10月
1日、高杉、新知160石、世子奥番頭
藩主、親書をくだす。「たとえ防長二州が滅びようと一致団結、この艱難を乗り切ろう」
2日、七卿の一人沢宣嘉、奇兵隊ら10数名が三田尻から脱走。但馬生野挙兵へ駆け付けた。
12日、生野の変。平尾国臣が挙兵。三田尻からの脱走兵らも加勢。
公家沢宣嘉、平尾国臣、逃亡。
14日、三田尻からの脱走兵ら13名、山口村妙見山のふもとにて自決。
24日、村田蔵六、萩帰藩。手当防御事務用掛に任命。

11月
3日、桂、直目付の任命を断って萩に閉じこもる。
8日、井原主計、久坂玄瑞、上京
10日、来嶋又兵衛、久坂玄瑞、出京する世子の護衛部隊の編成を命じられる。
16日、桂「私の誠心が至らず高杉までが、ただ我が身を潔くするのかと考えている」
高杉は桂の言う「申し訳ない」とか「責任がどうこう」と言って直目付を辞任したり
浪人になって国事に尽くそうというのは、身を潔くする様に見えて困難を回避している様にしか見えない。
この日和見主義な藩の状況にあってまだ「正藩従合」に夢を託している事ももどかしく思えていた。
かつて割拠論について意見を同じくしたのは何だったのかと。
{桂は長州一藩が『割拠』してもその先が危うく、これを諸藩連合で起こそうと考えていた}
15日、高杉、世子上京用掛を任命される。名を東一と改める。
この頃から度々久坂と仲たがいを起こす様になる。
16日、長州藩、世子定広の上京を決める。
俗論党の件が収まって来た今、『外』へ手を出すのか、今はまだその時ではないとするのか。
無論、富国強兵からの割拠を説く高杉は後者であった。
17日、高杉、世子上京の決議を萩にいる世子へ届け、承諾となった。
高杉、三田尻へ向かい世子上京の決定を六卿へ報せる。出師にはやる諸卿をなだめた。
18日、奇兵隊諸隊として相次いで生まれていた金剛隊、力士隊、国分寺隊、神威隊など11隊を統合し、
遊撃隊と名付けられた。総勢500人。
22日、高杉、岩国へ赴き吉川監物の出山を請う。吉川は病気を理由にこれを拒み意見書のみ出した。
22日、真木和泉、諸卿に「出師三策」を献策。
楽観的な机上の空論だが過激な武闘派にはウケた様だ。来嶋又兵衛がこれに触発される。
22日、来嶋又兵衛、遊撃軍の上京を願い出る。
政府、諸卿を三田尻から山口へ移し、来嶋又兵衛以下遊撃軍を三田尻へと転陣させた。
過激派を一旦諸卿から遠ざけ、山口からも遠ざけたとされる。

12月
11日、奇兵隊、下関へ転陣
??日、先だって入京した久坂、井原、朝廷の頑なな拒否に遭い藩主の書簡を渡す事すらできない。
31日、朝廷、参与任命。
一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光。


~文久4年/元治元年~

1月
2日、参与会議。薩摩藩小松帯刀・高崎猪太郎、越前藩中根雪江も陪席
『勤務方』について。
??日、奇兵隊、下関延行の里に匿っている公家・中山忠光の元へ恩地トミを送る。
(忠光20歳、トミ19歳。トミは旅籠経営恩地与兵衛の二女で器量よく家事ができた)
8日、将軍家茂、上京
21日、将軍家茂参内。右大臣に任ぜられる。
??日、桂、上京。河原町藩邸に入る。
??日、来嶋又兵衛、遊撃軍一同亡命し、上京しようと言い出す。
24日、世子定広、高杉に藩主父子による直書を持たせ、来嶋の鎮撫に向かわせる。
24日、高杉、進発に急く遊撃軍の暴発を止める為宮市へ行く。来嶋を説得。
25日、高杉、来嶋を説得。
26日、高杉、来嶋を説得。
27日、高杉、来嶋を説得。
28日、高杉、頑固来嶋を説得。
埒が明かない事もあり、高杉は自らが暴発(亡命)して京にいる仲間たちから情勢を聞くと共に
今後の方針を定めようと思うからそれまで堪えて欲しいと申し出る。来嶋はそれを承諾した。
{今回の脱藩はこの様な経緯故に『狂挙』ではない}
28日、高杉、京へ向け出奔。
「僕の得意とするのは真の割拠であり真の進発だ。ウワの割拠は不得意である。ウワの進発は聞くも腹が立つ」

2月
2日、高杉、京に入る。
??日、桂、久坂、中岡らと会談。
??日、宍戸九郎兵衛、遊撃軍をおさえる為帰国の途につく。
??日、高杉、中岡らと島津久光暗殺を企てようとするが未遂に終わる。
18日、高杉、妻雅子に出奔の件について手紙を送る。
「武士の妻として腹を固めてしっかり留守を頼みます」
??日、国許で高杉の行動について非難の声が高まっている事が本人の耳にも届く。
??日、高杉、毎日酒にうさを晴らし、死に場所はないかなどと思いつつ無為に日々を送る。

~20日、元治元年へ改元~

3月
??日、高杉、国許の世子定広より理解ある書状を受け、帰国を決意する。
24日、村田蔵六、兵学校教授役となり明倫館で西洋兵学を教える。
25日、高杉、帰国。
26日、高杉、親類預けとなる。
29日、高杉、夜呼び出されて野山獄入牢(獄中手記)
『新地160石を以てお取立てになった格別のご寵愛を良い事に、自分だけの了見で
潔白がましい振舞を以て新地を投げ打つなど、古今にその例を見ない』
知行没収、雅子は親類(高杉家)に引き取られた。

4月
??日、参与会議決裂
??日、高杉、獄中で孤独と悔恨に浸り、本を読み詩を詠い、師松陰の言葉に向き合う。
17日、桂、長州藩京都留守居乃美織江と議奏正親町三条実愛に拝謁。藩主父子いずれかの上京嘆願。
20日、桂、大阪藩邸にて来嶋又兵衛、寺島忠三郎、久坂らと相談。世子定広の率兵上京を議す。

5月
6日、高杉、獄中に酔った周布政之助来る。
10日、村田蔵六、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかる。

6月
??日、高杉、獄中で自分を見つめ直す。
??日、高杉、出獄して座敷牢へ移る。実家の奥二間を締めきって釘付けにし鍵をかけられ、面会謝絶。
4日、周布、獄中の高杉の所へ行く等の罪に問われ50日間の逼塞を命じられる。
5日、桂、池田屋へ入ったあと対馬藩邸に入る。
5日、池田屋事件。松陰門下で初期奇兵隊幹部であった吉田敏麿、熊本の宮部鼎蔵等多くの志士が死傷。
池田屋会合に参加予定であった桂小五郎の死も伝えられる。
10日、伊藤俊輔、井上(志道)聞多、四カ国艦隊下関砲撃の報を受け急遽帰国。横浜に入る。
英国通訳アーネスト・サトウを通して英国公使ラザフォード・オールコックと面会する。
長州に謝罪・和解を説得する時間を了承される。
12日、池田屋事件の報が山口に入る。
周布は謹慎、高杉は入獄、桂は不明。
来嶋と久坂が真っ先に暴発し、遊撃軍、有志隊を率いて進発。
16日、永代家老福原越後、参謀佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、進発。
18日、伊藤、井上、アーネスト・サトウと共にイギリス艦へ乗り、姫島まで送られる。
24日、伊藤、井上、山口帰藩
25日、伊藤、井上、藩庁にて海外の情勢を説き、攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴える。
伊藤は、攘夷論者を警戒して春山花輔と変名する。
26日、寄組国司信濃進発。
27日、御前会議が行われる。伊藤、井上は再度海外情勢と攘夷無謀論を説くが、まったく聞き入れられない。
一方で攘夷論者からは命を狙われる。
29日、井上、藩主から「攘夷熱を抑えがたい故」とする旨を毛利登人から伝えられる。
「『防長二州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは聞こえが美しいが
一同討ち死にし藩主一人が残る理由はないがこの決心があるか?」との返答をする。

7月
2日、井上、伊藤、藩主より英国との止戦交渉を命じられる。
アーネスト・サトウとの約束の為再度姫島へ向かう。
5日、井上、伊藤、藩主が藩論を変えらる状況にない事を説明し、それを打破する為には朝廷と協議が必要となり
三ヵ月かかるといった事情を述べ、その最中攻撃を猶予してほしいと願い出る。
しかし公的な書類もなければ伊藤達が正式な使者であると証明できるものもなく、国際法に準ずる英国では
公的な対応はできないと、サトウは返さざるを得なかった。
止戦交渉自体は失敗に終わるが、ごく私的な会話において伊藤達は痛烈に幕府を批判する。
幕府は長崎や函館などの有用な地を独占し、国内の流通や外国との貿易を独占していると。
サトウは幕府を批判する者と初めて胸襟を開いて語り合ったのだった。
6日、本隊第一陣の永代家老益田右衛門助進発。
13日、本隊中軍世子軍、五卿を擁し数隻の軍船を以て進発。
岩国吉川堅物、殿備として追従。
19日、禁門の変
世子軍の到着を待たず、来嶋久坂らを始め先発軍1200が暴発。攻撃を仕掛けた。
薩摩始め数倍の兵力を誇る幕府軍に阻まれる。
来嶋又兵衛、入江九一、戦死。
久坂玄瑞、寺島忠三郎、互いに刺し違えて自刃。
池田屋事件を生き延びていた桂小五郎、再び消息不明。
桂小五郎(16の時から)の養子、桂勝三郎(17)、負傷し大阪桜宮にて自刃
真木和泉、天王山へ退き同志と共に自決。
21日、高杉、井上聞多の訪問を受ける。父小忠太、一通り断った後ふらりと出掛ける。
井上は自分達が密航を開始した時から帰国に至るまでの出来事と経緯、そして攘夷の不可能と
長州の現状について話す。進発した長州軍については世子軍の発信までであった。
21日、四国多度津に寄港していた世子軍、京の異変を聞きやむなく撤退。
長州兵達は散り散りとなり陸路、海路算を乱して逃亡した。
22日、長崎探索から帰藩した南亀五郎が、かの四カ国艦隊が21日横濱を出港するという報をもたらす。
23日、長州討伐発令
幕府、勅命により中国、四国、九州21藩に出兵を命じ、徳川慶勝を総督に任じる。
23日、世子軍周防上関に投錨。京都敗報をもたらす。
25日、五卿の船も到着。吉川堅物、再び病と称して岩国に引きこもる。
敗走帰国した三家老は徳山に監禁となった。
28日、御前会議。長州征討に四カ国艦隊、まさに『焦土』を目前とする危機であった。
四カ国と和議を結び、しかるのち長州征討に対処する事が決議された。
??日、桂、乞食に変装して三条大橋の下に潜伏。食事の世話など、幾松が一役買う。
??日、桂、長州の控え藩邸に潜伏中に新選組近藤勇の改めに遭う。幾松が木戸を奥へ隠し平然と三味線を弾き
『これだけ家中引っ掻き回して私に恥をかかせ、この上誰もいなかったら切腹してくれますね?
そのご覚悟がおありでしたらどうぞ』と迫り、近藤が諦めた為切り抜けた。(日付不明)
??日、桂、会津藩の警戒網にかかり10人程の捕り方に囲まれ連行される。『大便がしたい』と言って
『藩邸まで待て』と言われるが『どうにも無理そうだから頼んでいる』と言って、許可を得る。
鴨川の河原で袴を脱ぎ用を足したところで会津兵達も『しからば』とばかりに目を外す。
その瞬間、下半身丸出しで脱兎のごとく駆け出し、慌てて槍など持ち直して追いかけてくる会津兵を
文字通り『尻目』に逃げおおせた。(日付不明)
下旬頃、桂、京潜伏に限界を悟り対馬藩邸に駆け込み、対馬藩出入り商人・廣戸甚助の援助を受け
但馬の出石へと逃れる。
逃亡中、『但馬国伊含村卯左衛門』と名乗る。(他にも使った変名あり)
??日、桂、出石高橋村久畑の関門で役人に疑われ捕縛されかかるも、廣戸甚助の弁解で事なきを得る。
??日、桂、出石寺坂茶屋に入る。甚助、夜に出石町に入り弟の直蔵と合流。今後の相談。
??日、桂、廣戸兄弟の言う通り田結庄町角屋喜作方に隠匿することを決め、移動する。
同日、出石町に来着。角屋に入る。
??日、桂の恋人・幾松も対馬藩士・多田荘蔵に保護される。長府藩士・興膳五六郎(藩医・昌蔵の弟)や
自分の愛妾などに幾松を加え、下関へと向かった。

8月
1日、幕府、尾張前藩主徳川慶勝を征長総督に任命。
中国、四国、九州の21藩に動員令を発する。
4日、高杉、直ちに出頭せよとの命を受ける。
4日、井上聞多、馬関沖に圧倒的威圧感で現れた外国艦隊と止戦交渉する様命じられる。
5日、高杉、いきなり応接掛を申し付けられ、講和交渉使節となる。
湯田の旅館で伊藤俊輔を見つけ事情を聞く。
「艦隊は下関へおるのに、横濱へ行って交渉しろと。命令は命令ですから便船を待っちょります」
憮然とする伊藤に、とりあえず馬関へ行く事を提案する高杉。
5日、井上聞多、英国旗艦ユーライアラス号に乗船しアーネスト・サトウと対談。
『平和的な解決を試みる段階はすでに過ぎ去った』
5日、高杉、速駕籠で下関へ向かう道中、同じく駕籠を飛ばしていた井上聞多と合流する。
「もう砲撃が始まる。山口へ戻ろう。君公にも覚悟してもらわにゃならん」
三人は山口藩庁へと戻った。
5日、井上、敵が上陸したら小郡で支えると申し出ると受理され、第四大隊をもらい受け小郡代官に任命された。
高杉、罪を許されて政務座役に再任。井上、伊藤と共に小郡へ出張する。
5日、英国旗艦ユーライアラス号始め、英9艦隊、仏3艦隊、蘭4艦隊、米1艦
計17隻から成る四カ国艦隊。総砲門数288門、兵力5000人の上陸兵。
これに対し長州守備は
前田台場を総監赤根武人指揮下の奇兵隊、長府藩報国隊
壇ノ浦台場を軍監山県狂介指揮下の奇兵隊、膺懲隊
新地に馬関総奉行の藩兵、彦島を荻野隊と長府藩兵
総勢2000、各種旧式大砲120門であった。
5日、16時10分、砲撃開始。
快晴の下関海峡に砲声が轟きわたる。前田砲台はたちまち沈黙した。
6日、朝霧が晴れるのを待って壇之浦に集中砲火が行われた。
10時、2000の外国兵が前田に上陸。長州兵は頑強に抵抗を見せ、日没まで陸戦を繰り広げた。
しかし守備兵はついに陣を捨て、長府へと後退する。
7日、長州兵は昨日の戦闘で力を使い果たしたかの様に動かない。
外国兵は海兵隊、雑役隊を上陸させて砲台の破壊や大砲の鹵獲に忙しく、砲声も銃声も起こらなかった。
7日、小郡代官所に世子定広が駆け付け、会議が行われる。
世子、前田孫右衛門、毛利登人、山田宇右衛門、渡辺内蔵太、大和国之助、波多野金吾、
井上聞多、伊藤俊輔、高杉晋作が狭い部屋に顔を突き合わせる。
政府方が口を開くと井上聞多が「それみたことか」と嚙みついた。
「外国と和を講ずるほかあるまい」
「焦土と化しても攘夷を行うと決議したではありませんか。今更何の面目があって和議を説くのですか。」
「手を尽くして国を救うのが臣子の分。いたずらに討ち死にするのが武士道ではない」
「…っ!?!?」
井上聞多、血相を変えて部屋を飛び出す。高杉が部屋を覗くと短刀を逆手に持ち腹を切ろうとしていた。
驚きこれを諫めていると、政府方が『世子がお呼びです』と言ってくる。行かぬと言うがしつこい。
井上を引きずって席に戻るが、世子と井上が大議論を展開した。
流石の高杉も改めて井上を隣室へと連れ出し、和議にしようと説得する。井上は世子や政府方へ
言いたい事を言い終えると、講和使節の適任者として高杉の名を挙げた。
自分や伊藤では最早信用してもらえない。他に気骨のある者は高杉の他いない、と。
世子はこれを即承諾し、井上の進言する通り、高杉を一時的に家老へと召し上げた。
7日、高杉、家老首座宍戸備前の養子・宍戸刑馬として、講和交渉正使を命じられる。
杉徳輔、渡辺内蔵太が福使、井上聞多と伊藤俊輔が通訳として同行。夜、小郡を出る。
世子、20キロ西の船木御茶屋へと陣を進める。
8日、魔王高杉、英国旗艦ユーライアラス号乗船。第一回講和談判。
書類に外国慣例上の不備があり、48時間の猶予が認められる。
8日、藩主署名の直書をもらうため船木へ向かう。この時船木代官・久保断三が危機を告げてくれた。
長府報国隊の連中が講和に反対し藩政に迫った所、政府方は高杉、井上、伊藤に責任転嫁して
言い逃れをした。その為連中は高杉達を狙っているという。
高杉と伊藤は久保から公金100両ずつを受け取り、闇夜を有帆村に逃れ潜伏した。
「毛利はもうだめじゃ。毛利の子孫を連れ出して一旗揚げようか」
高杉は長嘆息した。
10日、第二回講和談判。高杉(宍戸)と伊藤は病欠という事で出席しなかった。
当然ながら皮肉られて不信を抱かせるが、何とか談判を先へと進める。
10日、井上、談判後、身の安全も顧みず船木へ急行。世子にはこの四カ国連合との講和談判が
決してあまいものではない事を説き、席に付いたからといって必ず講和が成るものではないと覚悟させた。
奇兵隊、膺懲隊を宮市へ転陣させる。
11日、井上、山県半蔵と共に有帆村潜伏中の高杉を連れ戻した。
14日、第三回講和談判。
講和条件
・下関海峡解放、通航の自由と薪水補給の為の下関開港・寄港許可
・砲台の構築及び修築の停止
・賠償金請求
高杉、3つめの『賠償金請求』に関して頑強に反対する。そもそも攘夷を天王に上奏したのは将軍であり
長州はその指示に従ったまでであり、故に賠償責任は幕府にあると主張。
これが認められ、賠償金に関しては幕府との交渉に委ねられる事となった。
高杉、英国の彦島租借要求にも断固拒絶する。
かくして講和談判は終了となる。
アーネスト・サトウ曰はく
「長州人を破って以来、我々は長州人を友好的に見る様になり尊敬の念すら抱き始めていた」
横井小楠の「外交論・第一義」が高杉によって実現された瞬間であった。
14日、村田蔵六、外人応接掛に任命。下関に入る。
16日、講和協定の署名書が連合軍に渡される。
18日、高杉、政務座役馬関応接掛
井上、伊藤、楊井謙藏、馬関応接掛
21日、殆どの艦隊は引き払う中、アーネスト・サトウが乗船するバロッサ号は一か月ほど逗留した。
伊藤をはじめ市井の人々と友好的に過ごしていた。
??日、伊藤、『商人』とする何者かを2人つれてバロッサ号に乗船。
だがサトウ曰はく「伊藤らの接し方からして明らかに商人ではない」との事。
??日、伊藤、アーネスト・サトウを自邸へ招きヨーロッパ風のもてなしをする。
29日、高杉、石州堺軍務管轄。村田蔵六、政務座役事務掛。
30日、幕府、長州藩主父子の官位、将軍偏諱の剥奪を発令。(この報は10月23日ようやく長州に入る)
??日、萩藩、下関の重要性に鑑み、下関各地を領地とする支藩の長府藩、清末藩に別の領土を与え
下関を萩藩支配地として統括しようと試みる。
金の成る地故に長府藩は渋り、三万石の替地を要求。あまりの高にこの交渉は一時お預けとなった。
??日、下関、英国はじめ外交商船との密輸現場となる。武器など大量に搬入。
以後、長州が武器購入を行っている等の情報が幕府へ逐一届けられる。

9月
??日、桂、潜伏地に会津藩士、桑名藩士の姿あり、城崎へ避難する。
1日、長州藩主の親論を布告。武備恭順親論。
『幕府には誠意恭順をつくし、情理を明らかにして弁明するところ。
それでも防長へ乱入してくるに及んでは、死を以て鴻恩に報い奉らんのみ』
5日、伊藤ら長州藩士4名、アーネスト・サトウが乗るバロッサ号に乗船し横濱へ向かう。
バロッサ号が去り、外国艦は全て横濱へ帰った。
10日、伊藤ら、横濱に入り、英国公使オールコックと面会。
??日、伊藤ら、密かに武器貿易の発注を行う。
これをフランスが聞きつけ幕史に耳打ちし、幕史はフランスに逮捕する様頼むが流石にこれは断った。
{この一連の事を勝海舟は日記に記しており「自らの手を汚さずフランス人を使って長州を征しようとする
『国賊輩』である」と痛烈に批判している。}
14日、幕吏やフランスが手を打つ前に伊藤らは再び英国艦ターター号に乗り、長州へ帰って行った。
??日、恭順派台頭
??日、保守老臣毛利出雲・加判役就任、俗論党幹部岡本吉之進・大納戸役就任
8日、岩国の吉川堅物が山口に出てくる。
京師動乱の責任者三家老を処分して朝廷幕府に一意恭順の意を示せとの意見。
??日、『正義派』奇兵隊、膺懲隊、御楯隊と七卿御用掛野村靖之介が連名で政府に上書。
武備恭順の親論に沿う様訴える。
??日、高杉、石州堺軍務管轄を解任される。
??日、高杉、政務座役辞表提出。菊屋横丁へ戻る。
??日、桂、再び田結庄町角屋喜作方へ潜伏。
??日、桂、市井の人々にも気さくに応じるのだがあまりにも品があり凡人ならざる程で
誰もが『敬礼盡さざるなし』状態となるため、寧ろ人が集まったり噂になってはいけないとして
交際を控える様、廣戸兄弟から進言される。
25日、井上聞多、刺客に襲われる。
毎日のように開かれる会議の中で勇敢に『武備恭順』を説き続け、この日午後8時
政治堂を出て湯田へ向かう途中、襲撃に遭う。数人の俗論派によるものであった。
闇夜に逃れ一命を取り留めるが瀕死の重傷を負う。
26日、周布政之助、突如自決
長州を今日の危殆に追い込んだ責任を痛感しており、ノイローゼ気味だった。
??日、薩摩西郷吉之助、勝海舟と会談。長州征討に疑問を持ち始める。

10月
上旬頃、桂、潜伏地に桑名藩士来た為避難。弘瀬兄弟親戚大塚屋の周旋で西念寺に入る。
近くに料理で渡世する大塚屋新平という者がおり、桂を見て凡人ならざる人物と見抜き
以後桂の世話を親切におこなった。
??日、桂、世間の疑惑から逃れる為度々湯島村の温泉などへ行き姿をくらましたりする。
5日、高杉、長男梅之進生まれる
9日、俗論党政権進出。革新諸士粛清
以下『正義派』解任
直目付・毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、政務座役・渡辺内蔵太、解任。
10日、奇兵隊総監赤根武人、辞表を出す。勝手に和議を結んだ藩への不満と山県狂介との軋轢。
13日、小納戸役・山県半蔵、小田村素太郎、寺内暢三、解任
16日、高杉晋作、辞表受理
19日、高杉小忠太、杉徳輔、辞職。加判役・清水清太郎、免職の上謹慎。
奇兵隊、膺懲隊、三田尻から周防佐波郡徳地へ転陣。赤城武人、本陣に戻る。
21日、各地諸隊総督を招集、解任。諸隊解散令。皆応じなかったが、肝心の扶助は当然停止された。
24日、村田次郎三郎、楢崎弥八郎、波多野金吾、山田亦介、辞職。
親類預けとなっていた宍戸九郎兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、野山獄へ投獄。
25日、毛利登人、前田孫右衛門、大和国之助、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、謹慎。
25日、俗論党三宅忠蔵・軍用掛、中川宇右衛門、椋梨藤太、岡本吉之進ら国事用掛に就任。
25日、深夜、高杉、筑前へ脱走。長州諸隊と俗論討奸をはかるつもり。
今回は妻雅子にもしっかり言い含める時間はあった。
高杉、井上を見舞う。
??日、桂、畳屋の部屋に潜伏
27日、藩庁、萩へ移る
27日、高杉、いなかの神官の格好をして町を抜け出す。南へ一里半、柊村で身なりを戻し駕籠に乗る。
高杉、佐波軍徳地の奇兵隊陣営に赴く。山県狂介と片野十郎が逗留を勧めるが、去る。
29日、高杉、下関白石宅潜伏

11月
??日、西郷吉之助、総督府参謀として長州岩国に入る。処分を最小限にとどめる独特の方向。
??日、諸隊、五卿を奉じ団結して「武備恭順」を貫こうと図る。
1日、夕刻、高杉、筑前へ向かう。
野唯人(福岡脱藩・中村円太)、大庭伝七(長府町大年寄で白石正一郎の末弟)同行。
高杉、『谷梅之助』と名乗る
4日、博多鰯町、対馬藩御用達石蔵屋敷卯兵の家に潜伏。
中村円太の斡旋で月形洗蔵と会う。(中村は直ぐ長州へ戻った)
6日、高杉、肥前田代(対馬藩の飛領地)で対馬家老平田大江と会う。
しかしその日和見主義を見破り、すぐに福岡へ戻った。福岡も俗論派が台頭している様だった。
11日、益田右衛門之介、国司信濃切腹
12日、福原越後切腹。野山獄に容れられていた4人の正義派参謀ら斬首。
10日、高杉、大庭と二人平尾山荘潜伏。月形洗蔵の斡旋で野村望東尼と出会う。
15日、五卿を奉じた諸隊、下関へ転陣。長府、清末の支藩主に正義の回復を嘆願。
五卿、功山寺に潜寓。
遊撃隊(石川小五郎総督)江雪庵へと転陣。
御楯隊(太田市之進総督)修善寺へと転陣。伊藤俊輔の力士隊も預かっている。
奇兵隊(赤根武人総督)覚苑寺へ転陣、徳応寺、長願寺に分営。
膺懲隊(赤河敬三総督)本覚寺へと転陣。
八幡隊(堀真五郎総督)清末領小月に駐在。
15日、下関潜伏の公家・山中忠光、俗論党により殺害。
『ここも危なくなってきたから田耕村へ移動しましょう』と呼び出されたところを5人の刺客に殺され、
遺体を運ぶ途中で夜が明けた為に慌てて綾羅木海岸に埋められた。
??日、長府藩、俗論党に暗殺された公家・中山忠光の遺体を掘り起こし綾羅木丘に埋葬。病死と発表。
忠光の側女・トミは長府城下・忠光の従者だった江尻半右衛門宅へ送られた後、
下関白石正一郎弟・大庭伝七のもとへと送られる。
のち、忠光の子供を身籠っている事がわかり実家の旅籠で出産する様戻される。
下関の実家へ戻った後奇兵隊がトミに接近した為、長府藩は事件が暴かれるのを恐れ
再びトミを城下江尻家へと戻した。
{忠光死後トミの移動時期は不明だが、奇兵隊への事件発覚を恐れて江尻家に移されたのは
俗論党が脅かされる功山寺挙兵・戦闘中~正義派台頭以降か。出産自体は慶応5月}
18日、西郷吉之助、広島国泰寺総督府において禁門の変首謀3家老の首を検する。
18日、幕府軍、長州への進撃中止。更に長州には3つの撤兵条件が示される。
・五卿を九州諸藩へ引き渡す事
・山口屋形を破棄する事
・藩主父子は謝罪蟄居する事
20日、高杉、月形洗蔵から長州の情勢に関する手紙を受け取る。
??日、赤根武人政務座役
25日、高杉、下関に帰る。望東尼から餞別の羽織、あわせ、襦袢と二首の歌を受ける。
25日、長州藩主父子、萩城を出て天樹院に蟄居。
??日、西郷吉之助、長州への措置を手ぬるいと批判する九州諸藩を説得する為小倉に入る。
??日、高杉、長府に入り。大庭家に一泊。
27日、赤根武人、藩主へ直言「武備恭順の正義派諸士を再登用するなら自分が責任を取って鎮撫にあたる」
27日、高杉、奇兵隊本陣に入るが呑気な顔をした山県や福田に拍子抜けする。
「赤根が工作を行っている、その結果を待ってからでもいいと思う」など
五卿は正義を貫かんと挙兵した長州正義派を見捨てるつもりはないものの、
五卿の九州移遷を巡る薩摩の工作は着々と進んでいた。それは功山寺に集中していく。
??日、桂、潜伏先の出石から幾松を心配する。汲んだ廣戸甚助が京へ行き、幾松が下関へ
無事逃れた事を知る。

12月
??日、明倫館、廃止。
??日、桂、廣戸兄弟の実家を頼る。
3日、月形洗蔵、早川勇、功山寺を訪ねる。
五卿は長州を慮り「征長軍の解兵と引き換えなら九州行を考慮する」と態度を改める。
??日、長州俗論政府は福岡藩に向かってはあくまで諸隊との対決姿勢を見せておきながら
赤根達には巧みに言葉をもてあそんで懐柔を試みようとしていた。
9日、村田蔵六、博習堂用掛兼赤間関応接掛。
11日、西郷吉之助、下関にて月形、早川、赤根武人と会談。「諸事大幸」
11日、高杉、堀真五郎の宿を訪ねたところ野村靖之助も加わり、挙兵の話になった。
意見が合わず掴み合わんばかりの大激論となったが堀が間に入り結局その日は3人枕を並べて寝た。
12日、高杉、堀、野村、功山寺へ向かう際中、昨日のように同志の間で激論になるのは(運悪ければ斬り合いになるのは)
無益ではないだろうかと堀が言うと、高杉は笑って答えた。
「鎌倉時代の武士はこんなもんじゃなかったろうか」
12日、月形、早川、五卿に謁見し九州へ渡る日時を決める様申し入れる。
五卿、諸隊幹部を収集し大会議を開く。
長州正義の回復を見届け征長軍解兵を条件に、10の内に発つと告げた。
高杉、会議が終わって一同振舞酒を飲んでいる最中に飛び込む。
「五卿は正義派諸隊にとって掌中の玉である。俗論政府はそれを引き離そうとしている。
五卿が去れば諸隊を一網打尽にしようと企んでいる。謹慎中の正義派の命を保証するというのも
一時的な誤魔化しである。正義派諸士が処刑される時、福岡その他九州がどこまで長州の正義を助けるのか。
幕府と俗論政府が手を結ぶ前、すなわち今しかない。」
今は赤根が工作を~と言われ、高杉はこう返す。
「拙者は毛利家恩顧の臣じゃ。赤根ごとき土百姓に天下国家の何がわかる!」
「貴様ら、大卑怯者じゃ!」
太田市之進が刀の柄に手をかけたところで、堀と野村が高杉を外へ連れ出した。
12日、高杉、そのまま下関へ向かい伊藤俊輔を訪ねる。
伊藤、一も二もなく「やりましょう」と即答。
15日、高杉、深夜。雪。功山寺挙兵
功山寺門前に集まったのは
伊藤俊輔以下力士隊約60名(太田市之進が力士隊を閉じ込めた為、壁を乗り越えた半数が挙兵に加わった)
石川小五郎以下遊撃隊、佐世八十郎、山県九右衛門(大和国之助実弟)ら、総勢およそ80名。
以後遊撃隊とする。
高杉が功山寺へ上って行こうとする時、先に大激論を交わした太田や野村らが『議論は違えど』と別盃して見送る。
五卿に別れを告げる為本殿へのぼり、五卿世話役の土佐浪士・土方楠左衛門と久留米藩士・水野丹後らが
煮豆の入った重箱と徳利を差し出す。
間もなく三条実美が現れ、高杉は大音声で別れを述べた。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」
山門へ下り馬上より先を見据える。紺糸おどしの腹巻に桃型の兜を首に引っ掛けていた。
奇兵隊の福田きょう平が駆け付け、馬前に膝を付き雪上に両手をつく。
獄中の苦しみをお忘れかと言って引き止めるが
「苦しみを恐れて何ができる」
と、高杉は昂然として隊を進めたのだった。
15日、功山寺から下関新地会所へ向かうには長府藩の領地を十数キロ程進まなければならない。
海路の策もあったがこれには武家屋敷の辺りを通らなければならない上、この時間は潮の流れが速く東へ
向かう為、漕ぎだしても逆潮を受けなければならなくなる。
一行は人気の少ない街道を疾風となって駆け抜けた。
長府藩主はこれに気付いていたが、なんと見逃してくれたのだった。
15日、朝4時、高杉ら遊撃隊は新地会所を包囲。総奉行根来上総に面会を求め、目付役寺内等の首を差し出す様要求。
根来は「寺内ごとき小吏の首を晒してあらぬ疑いを招くのは得策ではなかろう。全員萩へ追放としてはどうか」
と言い、遊撃隊はこれを受け入れた。そののち、大坪町了円寺に陣を構える。
15日、高杉、隊中から18人を選んで6人の部隊を3隊作り、それぞれ早船で三田尻へと向かう。
伊藤俊輔も同行。三田尻に碇泊中の軍艦を拿捕する作戦であった。
17日、五卿、九州へ渡る事を決意すると共に、藩主に対し最後の正義回復を勧告する動きを見せる。
三条西季知、四条隆謌の二卿が萩へ向かい、これに奇兵隊が随行し、美祢郡伊佐に入る。
二卿は萩入りを拒まれ長府へ戻るが奇兵隊は伊佐に残り、長府に残っていた御楯隊も後に奇兵隊と合流した。
17日、高杉三田尻に入り「長州正義回復に同意なら即刻錨を上げて馬関に来たれ」と軍艦明け渡しの説得を始める。
17日、幕府巡見使の先遣隊が萩に入る。下関蜂起を聞き「長州で鎮圧で着ねば尾州兵を送る」と迫る。
18日、慌てる俗論政府、暴徒に奪われるのを恐れ、正義派謹慎中の毛利登人、楢崎弥八郎、渡辺内蔵太
松島剛蔵、前田孫右衛門、山田亦介、大和国之助の7人を野山獄へ投。
19日、俗論政府、野山獄へ入れた7人を斬首。
加えて正義派村田次郎三郎、小田村素太郎、波多野金吾、瀧弥太郎を投獄。
21日、高杉、癸亥丸の拿捕に成功。
22日、幕府巡見使先遣隊、山口及び萩、長州藩主父子の様子を見た上で帰東。
25日、萩藩主、諸隊追討令ならぬ諸隊『鎮静』令。選鋒隊や末家に諸隊の鎮静を下命。
最初『追討』とあった指令所を後に『鎮静』へと書き直した。
26日、高杉、癸亥丸で下関に入る。他の2隻については、水夫が逃げて戻ってこなかったり
機械類が陸揚げされていたりと使用できなかった。
高杉、遊撃隊の本陣を光明寺へと移す。かつて久坂の光明党が本拠にした寺。
26日、高杉、馬関割拠。矢原村の吉富藤兵衛に軍資金借用を申し入れると、即座に一先ずの200両を用立てた。
また、西ノ端の豪商入江和作も惜しみなく援助を行っている。
??日、高杉、大庭伝七に遺書にも似た書簡を送る。
27日、幕府巡見使の報告を受けた西郷吉之助、遊撃隊の事は見ぬふりして征長兵を解く。
??日、『鎮静』令を受けた萩軍、出動する。
28日、萩軍、伊佐に陣取る諸隊に道を空ける様求めるが、諸隊は動く気配がなかった。
萩軍2000、諸隊700、長州の真ん中で睨み合っていた。
??日、この頃、赤根武人が姿をくらませた。
??日、この頃、村田蔵六(大村益次郎)が桂小五郎の潜伏先(但馬)について把握する。
??日、薩摩西郷、小松、大久保ら、幕府からの独立割拠と雄藩連合を模索し始める。
??日、桂、廣戸の親戚塩屋重兵衛の斡旋により、住居を許される。
出石町宵田町に家を構え、廣戸の別家と称し、荒物商を開店する。
人は雇わず、直蔵の妹・スミ(13)が炊事および店用に従事した。


年表後半・元治2年(慶応元年)~慶応4年(明治元年)