―表紙― 登場人物 物語 絵画


各種年表・資料等
長州年表前半:安政6年~元治元年
 /  長州年表後半:元治2年~明治元年

長州関係年表:前半
―元治2年~明治2年―

高杉、桂、伊藤等。精度にムラあり

※最終更新2021.11.14

※創作ネタは含まず

~元治2年/慶応元年~
1月
1日、桂、子供らを集め花合わせをしたりして遊ぶ。しかし金銭などを賭けたりする事は無く
勝負が終わると皆平等に菓子を与え、子供達が喜ぶのを見て楽しみとしていた。
子供らも桂を慕っていた。
(風紀乱れる事なく賭博など行っていない、と直蔵。)
2日、高杉、夜。再び新地会所を襲撃。30数人が細江から船で伊崎に渡り、西岸を新地会所へと向かう。
前回は決起を宣言する事が目的であったが、今回は実質的に武器食糧を徴発し俗論討伐の激を飛ばす為。
白石正一郎「俗吏ども大いに恐怖し大小刀も取り合えず散乱したという」
遊撃隊は空鉄砲を撃ってこれを成功させたが、物資は殆ど移動されており殆ど収穫は無かった。
??日、討奸の檄文が掲示され、諸郡や伊佐の諸隊にも布告された。
下関中から有志を募るとたちまち町民100数十人が集まる。
伊藤が統括して『好義隊』と名付け、高杉率いる遊撃隊と共に行動した。
6日、諸隊絵堂攻撃
伊佐で沈黙していた諸隊が不意に絵堂の萩軍を急襲し、陣を大田へと進めた。
7日、御楯隊小郡攻撃
御楯隊が小郡勘場を襲撃、代官を捕らえ物資を奪った。さらに進んで山口へと入る。
??日、去年功山寺の挙兵以来動転する萩政府は領内に触れを出して諸隊へのいかなる支援も厳禁とした。
しかし領民はまったく聞き入れずそれを無視し、諸隊を積極的に支援したのだった。
~例~
7日、小郡の大庄屋・林勇蔵、560両相当の銀を提供
8日、庄屋同盟
地下役人他豪農ら28人が「庄屋同盟」立ち上げ。小郡1万戸、4万人の統一戦線が成る。
林勇蔵「諸隊追討令につき厳重御沙汰なる中で諸隊支援を引き受け申す以上は決死の覚悟」
庄屋秋元新蔵「お家来方でやれないなら私どもの手で百姓一揆をおこして正義を回復しましょう」
10日、井上聞多、湯田にて謹慎中のところ吉富藤兵衛、秋元新蔵らに迎えられる。
鴻城軍結成。兵数数百人とも。
14日、五卿、功山寺を出て筑前へ渡る。
14日、高杉、五卿を見送った遊撃隊を佐々へ進軍させる。
16日、鴻城軍佐々並攻撃
鴻城軍、御楯隊が協力し、佐々並に陣していた萩軍を潰走させる。
16日、遊撃隊、赤村奇襲。
高杉率いる遊撃隊、奇兵隊と共に赤村の萩軍を奇襲。敵は算を乱し明木の本営へと逃げ込んだ。
??日、萩俗論政府。保守中道派の諸士200名が『鎮静会議員』と称して政府改革・諸隊追放中止を建白。
清末藩主毛利元純、この調停に乗り出す。
17日、高杉、諸隊と山口へ入る。「回復私議」
20日、藩主父子、祖先の霊に対し藩内の擾乱を謝罪するとの名目で祭祀を布告。
21日、諸隊、萩俗論政府から申し入れの28日までの休戦協定を受け入れる。
22日、幕府、長州処分の最終案を上奏。勅許が下される。
25日、萩軍選鋒隊が明木から萩へと撤退。
癸亥丸が萩沖へ回航し、空砲を討ち続け威嚇する。
28日、藩主、湯田に入り巡視。
29日、俗論党追放
中川宇右衛門、三宅忠蔵、政府から追放
30日、椋梨藤太、村岡伊右衛門、政府から追放

2月
1日、選鋒隊解散命令
長府藩主、清末藩主、萩城に入る。俗論党専横の罪を問うと共に正義派諸士の登用を進言。
村田次郎三郎、波多野金吾、小田村素太郎、瀧弥太郎ら、野山獄から放免。
藩政改革成る。
上旬頃、対馬商人・廣戸甚助が下関の幾松を訪ね、幾松は桂が出石に潜伏している事を知る。
??日、廣戸甚助から村田蔵六より桂あての手紙と路銀の50両を受け取る。
??日、廣戸甚助、幾松と共に出石へ向け出発。
??日、廣戸甚助、大阪で50両を賭博で失い、謝罪の手紙を残して行方をくらます。
幾松、なんとか一人で出石へと向かう。

3月
??日、長州、明倫館再開。村田蔵六、兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館に入る。
3日、夜。桂、出石にて幾松と再会する。
??日、諸隊、佐々並から山口へ異動し、湯田に諸隊会議所を置いて合議制をしく。
??日、村田蔵六、近代軍事専門家・責任者となる。干城隊復興
5日、高杉、表向き『藩主に逆らった逆賊』であるため、自ら『沈滅の人となり、
万一合戦が起こった時は直ちに馳せ参じましょう』との姿勢で藩政から退く。
参与となった前原彦太郎(佐々八十郎)へ長大な手紙を書く。
・長井雅樂の航海遠略策から4年間の苦難の軌跡
・防長割拠建策(先に伊藤へ見せた「回復私議」に基づく人事案や諸隊の今後等)
・馬関開港問題(開国派時代の趨勢であり我より先んじて開くべき。その後「浮浪遊説の徒」に注意)
以後、改革直後の政策や人事・軍備などは高杉の助言がほぼそのまま採用される。
??日、桂、帰藩にはやはり廣戸兄弟の助けが必要で、弟直蔵を大阪へ派遣し兄・甚助を捜索させる。
16日、幾松、スミを連れて城崎温泉へ行く。
16日、諸隊、10隊に整理され、萩藩正規軍となる。
御楯隊:大田市之進・三田尻/兵:150のち230
鴻城隊:森清蔵・山口/兵:100のち150
遊撃隊:石川小五郎・須々万のち高森/兵:250のち330
南園隊:佐々木男也・萩のち出雲/兵:150のち200
膺懲隊:赤川敬三・徳地/兵:125のち175
奇兵隊:山内梅三郎・赤間関/兵:375のち400
八幡隊:堀真五郎・小郡/兵:150のち200
南(第二)奇兵隊:白井小助・岩城山/兵:100のち125
集義隊:桜井慎平・三田尻のち船木/兵:50のち120
荻野隊:守永吉十郎・小郡/兵:50
22日、藩主父子江戸拘引について、広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩が幕府への協力を断る。
24日、高杉、伊藤と外遊を志し長崎行。前原から公金千両を受け取る。
萩政府が与えた名目は「横濱での英学修行、時世探索」以降は脱藩扱いとし亡命の形を取る。
長州ファイブが密航した時と同じ段取り。
??日、高杉ら、長崎から横濱へ向かう船を待つ間、英国商人グラバーの所で英語を習う。
??日、高杉ら、グラバー邸で英国領事ラウダの訪問を受け、忠告される。
『第二次長州征討の情報あり。また今度着任するパークス公使は信用の厚い人物なので
ヨーロッパへ行くよりも彼と話し合って馬関の開港などに着手した方がいいのではないか』
下旬頃、高杉、外遊を中止し帰藩
昨年夏頃、下関領地を巡る萩藩と長府・清末藩の交渉話をぶり返し、開港を説く。
この動きに長府・清末の攘夷党が騒ぎ、一時には高杉、井上、伊藤を暗殺せしめる雰囲気となる。

4月
1日、幕府、長州藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達
??日、高杉、南部町に小さな家を借りて捫蝨処(もんしつしょ)と名付けひっそりと移る。
うのと同棲を始める。(高杉の支援者である入江和作がうのを身受けし世話したのでは、との事。)
??日、桂、弟直蔵と帰って来た甚助を喜んで迎え入れる。甚助は土下座をして謝った。
幾松は桂がとりなしてもずっと横を向いていた、と、スミの逸話。
6日、桂、帰藩を決意。弟直蔵が先発で大阪へ向かう。

~7日、慶応元年、改元~

8日、桂、商人に変装し潜伏先の但馬・出石を出る。幾松、廣戸甚助、同行。
??日、高杉の捫蝨処に井上と伊藤が転がり込む。
兼ねてより高杉達を『開国派』と狙っていた長府と清末の攘夷党に狙われた。
今回の下関開港運動がどこかより漏れてしまった。
??日、高杉、井戸に逃げ込んで事なきを得る。
12日、幕府、長州征討先手総督に尾張藩前藩主・徳川慶勝、副総督に紀州藩主・徳川茂承を任命
(尾張はこれを辞退した為、後に副総督徳川茂承が総督へ昇進する。)
12日、高杉、馬関応接役となっていた村田蔵六へ手紙を書く。
「密かにお聞きしますが桂小五郎の居場所は丹波でしょうか但馬でしょうか」
??日、高杉、四国亡命。うのと従僕民蔵を連れて四国行の船に乗る。
??日、井上、別府へ向かい博徒の仲間に身をひそめる。
??日、伊藤、下関外浜町の船宿伊勢屋に隠れる。
??日、高杉、亡命生活を始める。
1日中ばかになった様に眠りこけ、道後温泉に7日間入浴。金毘羅に参詣後、
讃岐榎井村の日柳燕石のもとへ潜伏。
14日、薩摩藩士・大久保一蔵、板倉勝静へ薩摩藩は第二次征長への出兵を拒否するとした建白書を提出。
14日、高杉、潜伏先から入江和作へ手紙を書き、民蔵に届けさせる。
『備後屋助一郎』と名乗り、商人を装っていた。
「しばらくはこの地にて潜遊し、後に但馬、城崎まで行こうと思っています」
但馬(出石)は先日村田蔵六から聞いた桂の潜伏先である。
中旬頃、高杉、前原に手紙を書く。
・先日受け取った洋行資金の為の千両を、後続洋行予定の三名へ渡したので別途証文をご確認下さい。
・井上、伊藤について無比の人物である故、疑惑等起こっても何卒鎮撫頂きます様お頼みします。
16日、桂、大阪に入る。廣戸兄弟幕史の尋問に遭う。甚助が尋問を受け、弟に目くばせで「逃げろ」と指示し
大人しく縛についた。直蔵は逃げ出し桂のいる宿舎へ駆け込み急遽対馬藩邸へ逃げ込む。夜になって
赤間関茶屋平五郎の舟に乗って大阪脱出を試みる。
17日、桂、川口あたりの検問にあうが「京都宮川町広江孝助、弟直蔵、及び女中一人」として乗り切る。
兄甚助の時間稼ぎと弟直蔵の導き、再びの対馬藩邸の庇護により、桂は大阪を脱する事ができた。
17日、桂、神戸に入る。大楠公の墓参り。
18日、幕府、(第二次)長州征討進発令
「毛利大膳親子等容易ならざるの企あるの趣相聞え、更に悔悟の体なく、且御所より仰進ぜられし趣もあり
かたがた征伐仰出され、5月16日進発す」
19日、桂、四国へ渡り金毘羅に詣でてから下関へ向かう。
22日、萩政府、高杉、楊井、井上、伊藤の応接掛を罷免。
22日、萩政府、下関を外交に向けて開港する予定はないと布告。
??日、高杉、榎井村潜伏中、潜伏人とは思えぬ傍若無人な振舞で日々を過ごす。
丸亀藩の勤王醤油商越後屋へ赴き、出入りの勤王志士と歓談したり
夜は琴平の花町で遊び回り、いかな詮索の目から離れた地であってもだんだん世間の目に付き始める。
26日、桂、下関に入る。市井に隠れていた伊藤俊輔が即合流。『両目に涙』
廣戸兄弟(兄甚助は大阪にて捕縛中)に対し皆が感謝し、あの村田蔵六も直蔵を丁寧にもてなした程。
??日、丸亀藩の越後屋が高松藩士により家宅捜索を受け、燕石らの元にこの急報が届く。
??日、燕石、琴平で私塾を開いている勤王家・美馬君田と高杉の件で相談する。
??日、高杉、燕石らの薦めで讃岐を脱し、象頭山のふもと松里庵の近くへと拠点を移す。
{以後、生息不明。逸話として、『大阪の書店で『徒然草』を買おうとして捕まりそうになった』
というものがある。もし桂を訪ねて大阪経由で但馬へ向かっていたとするのならあり得る話ではある。}
??日、高杉を逃した翌日、日柳燕石、美馬君田、高杉晋作を匿った罪で高松藩に捕らえられる。
(慶応4年正月、官軍として侵攻してきた乾ら迅衝隊によって釈放される)
??日、井上聞多、桂の帰還を聞き別府より帰藩する。
30日、桂、下関で中岡慎太郎と会う。

5月
??日、仏公使ロッシュ、英国公使不在中に幕長戦争に際し厳正中立を約し、未開港場での密貿易中止を宣言。
この時オールコックは前年12月に公使を解任されており、次期公使パークスはまだ着任していない。
既に幕府へ接近していたフランスはこれを機に幕府が有利になる様な工作を行ったのであった。
??日、村田蔵六、ミニエー銃1000挺購入の使者を長崎へ送る。
10日、公卿・亡中山忠光の側女・トミ、俗論党監視下、江尻家にて忠光の娘・南加を生む。
奇兵隊、早くもこの情報を掴む。
13日、桂、山口にて10か月振りに藩主に謁見。薩摩藩との接触を進言。
14日、桂、伊藤と共に再度藩主に謁見。
16日、将軍家茂、(第二次)長州征討につき江戸城出発。
19日、奇兵隊、長府城下江尻家を襲撃。
幽閉されている中山忠光側女・トミとその娘・南加を救出し、吉田町の奇兵隊屯所に匿う。
{高杉が救出したと見かけるが、流石にまだこの時点ではまだ亡命先から帰ってきてない気がする。}
(以後も俗論党からの追手は続き、トミは奇兵隊に守られながら各地を転々とする。
俗論党はトミが捕まらないので兄弟が捕縛され長府に投獄された。
トミは実家から逃亡支援を受けながら、旅一座に紛れ込んで移動したりと大変だった様だ。
ある時ついに追手が迫り、娘を筵にくるんで船底に隠したがバレてしまった。
しかし『娘』であった為に『許された』という。
娘・南加は明治3年6歳の時に忠光の実家・中山家へ引き取られ、トミも乳母として随行した。
この頃伊藤博文が恋文を送ったがトミはなびかなかったという。
南加は三条実愛の息子と結婚し、かの愛新覚羅溥傑の妻・浩の祖母となった。)
{ちなみに中山忠光は明治の終わり頃に下関・綾羅木あたりに幽霊として現れ
ここでも激しめにやらかしてる模様。}
22日、将軍家茂、上洛・参内。長州再征を上奏。勅許は得られず。
23日、将軍家茂、二条城泊。
24日、将軍家茂、伏見泊。
25日、将軍家茂、大阪城入城。
27日、桂、帰藩を承認される。政事堂用掛よおび国政方用談役に就任。
??日、萩政府、宇和島藩から書状を受ける。
幕府がオランダ公使に面会した際の始末書の写しが同封されており、それによると外夷との密計だの
密貿易の暴露だの長州を讒訴する忌々しき内容であった。

閏5月
1日、桂、坂本龍馬からの招集に応える為下関へ下る許可を得、移動。
4日、桂、下関で坂本龍馬・土方久元(楠左衛門改め)と会談。
雄藩同盟について。現在鹿児島から来航中の西郷と中岡を待つ。
{この時点で、高杉が帰藩していれば当然関わってくるだろうと思われるが記述が一切見当たらない為
まだ帰藩していないと想定する。}
7日、桂、龍馬、土方楠衛門と会談
8日、桂、龍馬、土方楠衛門と会談
??日、池内蔵太、坂本龍馬らと再会。癸亥丸を駆っている。
21日、中岡、下関到着。西郷来ず。
先に寄港した佐賀ノ関で大久保からの手紙が待っており、将軍の入洛が近い為急ぎ上京を要請するものであった。
手紙の日付はひと月も前にのぼったため、西郷は止むを得ず急遽京へ直行する事となったのだった。
そして当然これは長州征討に関わる事なのであるが桂は強い不快感を示し、日ごろ豪胆な中岡もこの時は
大愚痴を漏らしてへこんでいた。龍馬が両者の宥め役となった。
??日、桂、伊藤、坂本龍馬、下関にてオランダ公使ポルスブルックと会見。
先の『幕史面会時の始末書の内容』について詰問すると『それは小倉藩によるものであり、
その証拠に外国奉行が見せてくれた小倉藩の申立書(密告書)を手帳に写してある。見せてもいい。
幕史はそれをオランダが申し立てたと言っているのだろう』との事。
「しかれば小倉藩への問責を行う機会となった折、立ち合って下さるか」
『承知した』
こうして、一旦長州は怒りの矛を下げる事とした。
{一応、実際に小倉藩は下関に卸される『怪しい積み荷』について何度か幕府へ通報している}
??日、前5月上旬のミニエー銃購入の件、失敗に終わる。
対応した英国武器商人トーマス・グラバーも気の毒がる顛末で、幕吏に目を付けられた彼らは
「対応すれば外国商船を取り上げて関係者を罰する」と言っておどしていた。
{実際そんな事をすればむしろ幕府と英国の間で大大問題に発展しそうな脅し文句だが…}
??日、桂、井上、伊藤、武器購入(ミニエー銃1万挺、大砲、軍艦等)の斡旋を龍馬・中岡へ相談。
朝敵の立場でありしかも武器購入を禁止されている長州にとって唯一の窓口であった下関密航が
封鎖された状態では村田蔵六の軍事改革もままならない。その為の苦肉の策で、薩摩名義での購入を考えた。
龍馬、中岡、これを引き受ける。
27日、桂、呼び戻され山口へ帰る。
29日、龍馬、中岡、京・西郷を説得する為上京。

6月
2日、伊藤俊輔、武器購入について桂へ手紙を書く。
5日、高杉、帰国(している事がわかる。)
白石正一郎『谷梅之助より手紙と菓子を送って来た』との事。
24日、龍馬、京薩摩藩邸にて西郷吉之助と会談。長州のため薩摩藩名義での武器購入を要請。受理。
これに対し西郷は、薩摩軍上京の際の兵糧米の調達を長州に依頼。

7月
7日、高杉、桂と会見
16日、高杉、大田市之進への手紙に「悪病に困らされた」と書く。
16日、桂、井上聞多、伊藤俊輔を武器購入の為長崎へ派遣。土佐浪人で三条実美付の楠本文吉同行。
長崎での購入には亀山社中が周旋。
17日、井上、伊藤ら、大宰府着。三条実美らに拝謁。
19日、大宰府出立。伊藤→薩摩藩士吉村荘蔵、井上→同山田新助と変名を用いた。
21日、井上、伊藤、長崎着。亀山社中千屋虎之助、高松太郎が迎える。社中隊士を集め談議が始まるが、
危険な旅を犯してやってきた二人を安全な場所へ移す為、近藤長次郎の案内で一旦薩摩藩邸に入る事となる。
小松帯刀と会談し、銃、艦の事とその購入費12万両の事について小松は快く受け入れた。
21日、伊藤俊輔、高松太郎と共に英国商人トーマス・グラバーを訪ね、薩摩藩士として早々に本題を切り出す。
軍艦購入にあたっては薩摩の信任厚い近藤長次郎がもっぱら斡旋の任に付く事となった。
??日、軍艦購入にあたり、長州の方でやや問題が発生する。桂小五郎に与えられていた権限は『小銃の購入』
のみであり、軍艦購入の許可が下りていなかった。この件は井上と伊藤が長崎に着く前から問題として露見する。
この周旋は山口で桂本人が行う。
その間、8月1日の鹿児島帰還となる小松帯刀が長崎を離れる事となった。
??日、井上聞多、近藤長次郎の周旋で帰藩する小松帯刀について鹿児島へ行く。
桂右衛門、大久保一蔵、伊地知壮之丞らそうそうたるメンバーと面会。
??日、英国領事ラウダ、薩摩藩邸に入りグラバー商会で武器購入した『薩摩藩士二人』が
長州人である事を見抜く。薩摩と長州が手を組んでいる事を把握し、パークス公使に知らせた。
??日、高杉晋作、下関にて土佐浪人・田中顕助と会談。
中岡慎太郎から薩長同盟の話を聞き足を延ばした田中だったが、すっかりしっかり高杉に傾倒してしまう。
自称『高杉の弟子』とまで言い出す始末であった。
30日、高杉、山県狂介への手紙に体調不良を書く。

8月
5日、桂、山口にて中岡慎太郎の訪問を受ける。
6日、中岡、桂に刀をおくる。
6日、高杉、一年前から着工していた桜山招魂場が完成。日本初の招魂場。
{ちなみに靖国神社の旧名は『東京招魂社』。桜山招魂場はその原型と言われる。}
7日、中岡、桂に手紙をおくる。
??日、桂、山口海軍局と話をつけ、軍艦購入の許可を得る。
21日、井上、近藤長次郎を同伴して鹿児島から長崎へ帰り、伊藤と合流。
27日、小松、伊藤、井上、近藤長次郎、銃を満載した薩摩船胡蝶丸に乗り三田尻へ入る。開門丸も輸送に使われた。
かくして、4000挺の新式ミニエー銃3000挺のゲベール銃が無事長州に搬入された。
馬関碇泊中のイギリス軍艦の人々も密かにこの報を聞き、喜んだ。
??日、近藤長次郎、長州藩主父子に謁見。後藤祐乗作の赤胴の三具(目貫、笄、小柄)が贈られる。
??日、近藤長次郎、ユニオン号の仮約内容について言及。
・薩長及び摂津、越前など航海貿易
・その際、京摂、鎮西その他の情報収集に努める
・船の運用・修理費は薩摩名義、支払いは長州
・乗組員は亀山社中。(つまり船員人件費等は薩摩)
井上、伊藤はこれを受け入れ、桂も了承。藩主父子も承諾。

9月
6日、高杉、用所役
8日、長州藩主父子より、島津久光父子への書簡が近藤へ託される。
??日、伊藤俊輔、近藤と共に長崎へ向かう。
??日、亀山社中にてユニオン号購入会議。
社中会議の結果、引き続き近藤が長州父子の書簡を持って鹿児島まで行き、
高松太郎と千屋虎之助がグラバー商会での購入手続きを進める事となった。
11日、高杉、山口招集。意見書を上書。
『藩主父子の気魄奮起こそ、俗論の再興をおさえ防長の危機を乗り越える要』
13日、兵庫開港要求事件
計8隻から成る諸外国四カ国艦隊(今回は米国艦はなし)が兵庫沖に現れ、朝幕に対し3箇条を要求。
・長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
・関税率改定
・帝の批准
長州征討についての進捗は一時停止となる
(以下詳細は英国関係年表にて)
26日、高杉、馬関越荷方対州物産取扱引組駈引兼蔵元役
『対州』とはカモフラージュであり、用談役桂小五郎の補佐役として薩摩船が運んでくる
武器取引実務を担う事となった。
26日、高杉、谷潜蔵へと改名。桂、木戸貫治へと改名。

10月
2日、高杉、木戸と会談。
3日、坂本龍馬、薩摩への兵糧米の件で山口に現れ、政府は木戸にこれを一任する。
高杉、坂本龍馬、木戸と兵糧米の件で相談。
7日、坂本龍馬、木戸に会う為下関に現れる。
8日、兵庫開港要求事件、一定の解決となる。通商条約勅許。
四カ国からの要求に対する結果
×長州戦争の賠償金300万ドルを1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しする
〇関税率改定
〇帝の批准※
(※ただし兵庫開港大阪開市等について帝は拒否とした旨を公武合体派公家衆が『現状維持』に留めた形)
??日、高杉、木戸、坂本龍馬、井上聞多、伊藤俊輔、会談
??日、木戸、坂本から薩長同盟について話を振られるが首を縦に振らない。
13日、坂本龍馬、京へ向かう為下関を去る。
18日、ユニオン号、薩摩名義による購入手続き完了。
支払いは長州、運転や輸送は亀山社中が行う事で合意契約した。
??日、幕府、長州征討再開
24日、高杉、伊藤俊輔の手紙で体調が悪い事を心配される。
??日、高杉、伊藤、井上ら、坂本龍馬と会談

11月
??日、下関綾羅木、中山忠光の埋葬地に中山社を創設。(長州支藩・豊浦藩による)
8日、ユニオン号、下関へ回航。三田尻海軍局から運用・人事について苦情が出る。
金は長州が出すのだから長州が使うべき。船名も乙丑丸と名付け、船長の任命まで済ませていた。
??日、伊藤俊輔、近藤長次郎を藩主に謁見させる。労をねぎらわれ、斡旋の謝礼として
近藤の宿望であった渡英費用の援助を決定した。
??日、高杉、米銀総括取引請越荷方頭人

12月
3日、坂本龍馬、西郷の密偵である黒田了介を伴って下関に入る。
高杉、井上、伊藤はじめ、萩政府でも広沢、前原がこぞって木戸に出京を要請。
9日、高杉、龍馬に『木戸の出京に異論はない』とする旨の手紙を送る。
??日、木戸、首を縦に振らない。黒田了介とも会おうとしない。別の人をたてようとすらする。
21日、高杉、井上、萩藩主に謁見し、木戸出京の命を下す様申し出る。
28日、木戸、品川弥二郎(御楯隊)、三好軍太郎(奇兵隊)、早川渡(遊撃隊)
薩摩黒田了介、土佐浪人・田中顕助、三田尻より出港。
(龍馬はユニオン号の件に対応しており同船に間に合わず)
木戸、龍馬に一刻も早い上京を求める書簡を残して出立した模様。
??日、ユニオン号、運用について両藩の交渉を待つ為、一旦近藤長次郎と共に長崎へ出航。
??日、高杉、伊崎新地都合役
??日、奇兵隊から脱走していた赤根武人、周防柱島にて捕えられる。



~慶応2年~


1月
7日、木戸ら一行、天候に邪魔されようやく大阪へ入港。
黒田了介、西郷へ飛脚を飛ばし『木戸が上京するのは西郷に会う為だけの事』であると報せる。
西郷は丁重に準備をしてこれを迎え入れた。
8日、木戸ら一行、雨の中伏見へ入り西郷の丁重な出迎えを受ける。
京・相国寺近く西郷の宿舎へ入り、数日後、近衛家御花畑の小松帯刀宿舎へと移る。
家老小松、桂右衛門の二人を始め大久保一蔵など数十名にも上る藩士による宴席が続く。
??日、桂、粛々と両藩の経緯について話す。時折恨みつらみまじりイヤミまじりにも聞こえる話に
西郷は両手をついて「いかにも、ごもっともでごわす…」と返した。
??日、高杉、坂本龍馬に一詩を請われ、扇に記すと共にピストルを贈る。
10日、坂本龍馬、三吉慎蔵、池内蔵太、新宮馬之助、下関を出港。
14日、近藤長次郎、萩藩から資金援助を受けた事が社中法度に触れ、亀山社中にて切腹。
15日、西郷吉之助、討幕派公家・三条実愛と長州処分についてなど政治談議
16日、坂本龍馬ら、悪天候の為ようやく神戸に入る。
??日、薩長同盟の話が出ぬまま、薩摩家老桂右衛門はじめ、大久保一蔵などの帰国が決まる。
18日、木戸ら、島津伊勢、桂右衛門、小松、西郷、大久保、吉井幸輔、長州処分について等政治談議。
20日、両藩『和解』とみた一蔵・黒田良介ら薩摩藩士ら数十名の帰藩が翌日に決定する。
帰国にあたり『和議』の報告も含まれていたが、木戸らが期待していた『同盟とその保証』は得られなかった。
もはやこれまでと天を仰ぐ木戸らの送別会が、御花畑邸にて行われた。
20日、坂本龍馬、二本松薩摩藩邸へ入り、木戸のいる御花畑小松邸へと入る。
龍馬、『同盟』が成されていない事に驚愕し、奮起。しかし木戸が痛切に語る長州プライドも尤も。
「薩摩は堂々と天朝の為に尽くす事ができるが、長州はひとり正義を貫いた結果朝敵のそしりを受け
もはやこの同盟以外に活路は無い。しかし長州から同盟を求めれば助けを乞う事となり、
これは長州の思う所でもなければ自分自身の思う所でもない。ただ薩摩が真心で天朝に尽くす
覚悟が分かればもはや長州は滅亡しても本望。自分からは切り出せぬ心情、お察し願う。」
龍馬、木戸への非難をやめて部屋を飛び出す。
{記録はないが、この後龍馬が薩摩西郷・小松の元へ駆け込んだ事は間違いないだろう。}
21日、西郷、木戸らの帰藩を引き留め、明日の会議を設定する。
22日、西郷より同盟を切り出す。薩長同盟成る。
22日、幕府、長州処分の勅許を得る。萩藩主父子の蟄居、10万石の封土削減、
禁門に出師した三家老の永世断絶、毛利敬親の孫興丸への家督譲渡など、4箇条
23日、木戸、大阪から坂本龍馬へ手紙を送る。同盟成立の礼と、六項目の添削、裏書を求める。
23日、夜、寺田屋事件。坂本龍馬、三吉慎蔵何とか逃げ延びる。
25日、赤根武人、鰐石にて斬首。
27日、木戸、品川弥二郎、黒田了介、海路広島に入る
??日、高杉、体調が悪い事を詩に詠む。

2月
??日、木戸、中岡と会談
6日、木戸、黒田了介と山口に入り同盟成立を萩藩主父子に報告
7日、征長副総督・老中小笠原長道、処分の勅令を伝える為、長州藩主父子、三支藩主、吉川堅物
老臣2名の広島出頭を命じる。
14日、薩摩藩大久保一蔵、大阪城で老中板倉勝静に面会し、薩摩の出兵を断る。
??日、長州、病気を理由に全員出頭拒絶。
代理人として宍戸備後助(山県半蔵)を老中格とし、小田村素太郎を付けて出張。
22日、木戸、山口にて村田新八の訪問を受け、坂本龍馬からの盟約書と手紙を受け取る。
木戸、坂本龍馬に裏書の礼と寺田屋事件を見舞う手紙を書く
??日、高杉、妻雅子ら(子、母)らが下関に来ると知り、焦る。
「細君将に我が閑居に到らんとす
妾女は胸間に患余り有り
是より両花艶美を競う
主人は手を拱き如何ともするなし」
白石正一郎に雅子らを預かってもらうよう頼み込み、木戸にも心境(悲鳴)を伝える。
??日、高杉、『両花艶美』から逃れる為酒楼に入り浸る。
??日、高杉、雅子をよく料亭へと連れて行った。
雅子「芸者が入れ替わり立ち替わりやってきて挨拶をするので飽き飽きした」
??日、高杉、木戸に頼み込んで長崎行の名目を得る。
イギリス公使パークスが薩摩で西郷、小松らと会う場にオブザーバーとして望む遣薩使。
これにあわせて長崎へ行き、ユニオン号の件を解決するといった名目。
高杉、これに再び伊藤俊輔を誘う。

3月
??日、アーネスト・サトウ、ジャパン・タイムズに英国策論を寄稿。
??日、高杉、薩英会盟に加わる為伊藤と長崎行
??日、高杉、長崎薩摩屋敷に入る。薩英会議が中止になったと聞き、薩摩藩主への親書や進物を手渡し
あっさりと鹿児島行を取りやめる。
??日、高杉、藩主以下の広島出頭を聞きいよいよ決戦かと早とちりする。
??日、長崎にて小型蒸気船オテントー号が売りに出された事をグラバーから聞き、即藩へ周旋する。
28日、高杉、木戸と井上宛てに手紙を送る。
「近々船があれば上海へ行くつもりですがその前に伊藤を帰還させますので遊学費をことづけて下さい」
薩摩が留学など金を惜しまない様子や、長州から旅立った3人のうち1人が遊学費が尽きた事で
無理をしてロンドンで客死した事などを挙げ「学に金を惜しまぬ様に政府へお伝えください」と言う。
上海行はカモフラージュであり、実際にはこの長崎に暫く潜伏するつもりであった。
「家内たちは萩へ戻ったでしょうか。宜しくおとりなし願います。
南部に残して来た婦女もよろしくお頼み致します」との手紙も送っている。
30日、木戸、中岡と会談。

4月
1日、雅子、諦めて萩へ帰る。
2日、木戸、幕府の内情を伝える大久保一蔵の手紙を受け取る。
??日、木戸、京薩摩藩邸などに入る。
8日、伊藤俊輔、高杉から井上とうのへの手紙を持って下関に入る。
井上への手紙には、高杉は暫く英国領事ラウダの元に潜伏するつもりで、政府へは上海へ行った事に
してほしいとの事と、うのの事を宜しく頼むとの事が書かれている。
うのへの手紙は方言丸出しの長い手紙。10両と、洗濯して再び伊藤に持たせてほしいとする丹前、袷。
また、長崎で伊藤らと3人で撮影した写真も同封。{『かしこ』が2回も入っている手紙}
{男性は『かしこ』は使わない、おかしいっていうのは間違いなんだねぇ。
愛おしく話を聞いてほしい女性への手紙には『かしこ』しちゃうって事なんだなぁと思ったり。}
ちなみに雅子へも写真を送っているが、こちらは「写真送ります。委細についてはまた後程」と一筆のみ。
文末に『かしこ』『お菊とのまいる』とある。
{この場合の『お菊』は菊横丁の花=雅子とする愛称、
『まいる』は異性に対して心奪われてるよ、参ってます、という意味合いのもの。
多分先日の『両花艶美』の件やら色々あり逃げ回ってロクにに話もしていないままなので
詳細を手紙にするのは憚られるけども一応雅子のご機嫌を伺ってる…っていう男心なのかしら…晋作ったら}
11日、ユニオン号、下関にて薩摩への兵糧米500石を乗せて出港
??日、ユニオン号、長崎に入る。
25日、中岡、木戸に手紙を書く
下旬日、高杉、軍艦購入に決断のつかない藩に業を煮やし、独断でオテントー丸の購入契約をして帰国
29日、ユニオン号、ワイルウェフ号、長崎から鹿児島へ向け出港。
30日、ワイルウェフ号、遭難

5月
1日、ユニオン号、鹿児島入港。ワイルウェフ号、遭難中。
1日、幕府、長州から代理で来た小田村素太郎に処分四箇条を通達。(宍戸備後助は病気と言って出ず。)
更に次の家来12名を5月20日までに差し出すよう要請。
高杉晋作、桂小五郎、小田村文助、村田次郎三郎、佐々木男也、波多野金吾
天野謙吉、北条瀬兵衛、佐々八十郎、林主税、山県半蔵、大田市之進
拒絶すれば6月5日をもって攻撃すると宣言する。(自分の名前を直接聞く素太郎)
2日、高杉、下関へ乗りつけたオテントー丸について木戸、山田、広沢へ催促する。
2日、長州御前会議。防長二州一致協力、決戦に打って出る方針を固める。
2日、ワイルウェフ号、沈没
??日、西郷、幕府軍と堂々対峙する長州から兵糧米は受け取れないとする。
??日、長州、幕府から指名された12名のうち10名が脱走・行方不明・死亡・長病であるとし、
2名については現在広島へ出張し対面している小田村素太郎、宍戸備後助であると回答。
幕府、慌てて二人を芸州藩に拘禁した。
13日、関税解約に調印。一律15パーセントの従量制が決定された。
??日、高杉が独断購入してきたオテントー丸。井上が萩政府を説得しようやく支払いを済ませる。
丙寅丸と名付けられ、河野又十郎が艦長に任命された。
??日、高杉、この期間に何度か中岡慎太郎と会う。
「今更長州一藩の興敗をかけ裏切る者など出てこないだろうし自分がいる限りは安心してほしい。
昔から天下の事を任ずる者は人を顧みず断じて志を行う。今長州にはそれを成せる英雄はいないし
兵もまだ弱い。だがこの機に朝廷を奉じ60州の大本を立てましょう。
来年12月には兵庫開港があり、それまでに奸臣の権柄をくじき朝廷の御威光を立てなければ、
勤王の一事もやんでしまうでしょうから。」
存亡がかかる時に高杉は日本の未来と勤王の大志をしっかりと見据えている。
また長州に英雄はいないとしながらも、自らが大本を立てんとの気概をにじませていた。
??日、高杉、長崎滞在中の薩摩五代友厚よりユニオン号に関する書簡を受ける。
長崎回航の後下関にて近日中に引き渡しとの事。
桂、高杉、及び長州は四堺戦争に際し一日も早い引き渡しを望んでおり、中岡慎太郎が薩摩及び
長崎亀山社中坂本龍馬への説得にあたっていた。
??日、高杉、海軍用掛を任命される。

6月
1日、坂本龍馬、ユニオン号で鹿児島を出て長崎へ向かう。(月琴を習いたいというお龍を長崎へ送る)
3日、幕府、薩摩へ再度出兵を促すも、薩摩は動じず。
4日、広島藩浅野氏、出兵を断る。
4日、高杉、うのを白井正一郎邸へ移す。
5日、幕府、長州攻撃命令
6日、高杉、海軍総督兼丙寅丸艦長に就任。
7日、ユニオン号について、薩摩よりの親書を持った薩摩藩士、山口に入る。
これによって完全に長州の船となる事が合意したが、肝心のユニオン号はまだ来ない。
7日、第二次長州征討・四境戦争、開始。
7日、幕艦一隻上ノ関・大島砲撃
8日、幕艦二隻、大島油宇村砲撃。女子供二名殺害。松山藩兵150人上陸。
この時大島口の守備兵は第2奇兵隊を主力に干城隊分隊の浩武隊、浦・宍戸・清水など老臣の家兵、民兵など。
第2奇兵隊軍監・林半七、参謀・世良修蔵が指揮を執る。
10日、高杉、丙寅丸に乗り下関を出る。
機関長・(自称高杉一番弟子)土佐浪人田中顕助、砲術長・萩士山田市之允
11日、高杉、丙寅丸、三田尻に入る。富豪・貞永正甫宅へ入る。
二階へ上がったきり物音一つもしないので主人が部屋を覗くと、両足を高く柱にもたせながら
両手を頭の後ろにあて、越後獅子の様に仰向けに寝て、物思いにふけっていた。
しばらくして降りて来て「大きにおじゃまさま。又来る」と言って去っていった。
11日、幕軍大島上陸。松山藩兵3000人上陸。長州守備兵遠崎へ撤退。
12日、高杉丙寅丸、正午頃遠崎沖に入る。小舟で乗船してきた林半七に高杉は言う。
「今日の大島侵攻を待ってくれ。幕府の肝を奪ったらあとは君らに任せる」
13日、高杉丙寅丸、夜襲作戦決行。
深夜をすぎ更に月が沈むのを待ち、大島久賀村の沖合に火を落としている幕府艦隊4隻の真っ只中へ突っ込む。
敵艦の燈火めがけて14、5発を撃ち込み、敵がようやく機関に火を付けた頃には既に立ち去っていた。
13日、芸州口開戦。
遊撃隊・河瀬真孝(石川小五郎改名)、膺懲隊・赤川敬三、岩具兵、農民兵、維新団・被差別部落民
幕府軍先鋒彦根藩・井伊兵、越後高田藩・榊原兵
14日、ユニオン号もとい乙丑丸、下関に入る。坂本龍馬船長。
14日、高杉、丙寅丸で大島奇襲、幕艦攻撃
15日、高杉、下関帰還。
坂本龍馬と会談。出兵を請う。龍馬、快諾。
15日、高杉、白石邸に入り作戦本部を置く。
以後、激務となる。
相応のプレッシャーを抱えている事は言うまでもなく、加えて戦争指図書の作成、
各隊幹部や藩艦艦長らとの作戦会議、萩および支藩藩主および役人との連絡
他藩来客及び志士らとの応接。睡眠時間などないどころか出て行っても迎え入れても酒、酒。
戦場でさえ陣に酒樽を投入し兵士たちの士気上げと鼓舞に手を抜かなかった。
現時点、下関総督:長府藩毛利元周、総指揮官:山内梅三郎
海軍総督:高杉晋作、以下丙寅丸、丙辰丸、庚申丸、癸亥丸
主力:奇兵隊。軍監:山県狂介、福田侠平、総督:寄組山内梅三郎、参謀:三好軍太郎、時山直八、片野十郎
長府藩・報国隊、山内梅三郎家兵・正名団など、千数百。
16日、石州口開戦。萩南園隊、清末育英隊他長州兵1000進発。
総督・清末元純、参謀・大村益次郎(村田蔵六)
16日、深夜、高杉ら発進。
高杉・丙寅丸率いる癸亥丸、丙辰丸、田ノ浦港方面へ
龍馬・乙丑丸率いる庚申丸、門司浦方面へ
17日、高杉、小倉口開戦
朝5時、高杉丙寅丸以下3隻が一斉に砲撃開始。ほぼ同時に龍馬乙丑丸以下2隻も砲撃開始。
7時頃まで激しく打ち合う。
癸亥丸が被弾する横を走った丙寅丸は敵陣へと近づき奇兵隊の銃隊、砲隊を用いて集中砲撃。
最中、長府藩報国隊らが銃弾雨あられの中小舟に分乗して敵地へ上陸していった。
報国隊は田ノ浦の東から、残る隊は壇ノ浦へ上がって門司へ侵攻、田ノ浦の敵本陣を奪い、門司を占領。
一方龍馬率いる乙丑丸は壇之浦から門司までを砲撃しながら進み、円を描く様に引き返すとまた砲撃した。
これを2周ほど繰り返し、そののちは投錨して門司を集中砲撃しする。最中、庚申丸は20発ほど被弾していた。
丙寅丸、癸亥丸、丙辰丸は一旦帰還し、再び丙寅丸が門司浦へやってきて庚申丸を引かせる。
高杉、午後2時頃撤収を勧告。本陣へ火を放ち、上陸兵達を3つにわけ、それぞれ下関へ移送し、帰還完了した。
門司本陣から奪取した武器火薬はおびただしく、陸兵は槍隊という非近代的装備であったのに対し
フランス製の元込め砲などの名器が大量に置かれていた。
また、この時『幕府千人隊』という幕府直轄の部隊が対峙したが、軍目付の斎藤図書が真っ先に逃げ出し
士気と信用がガタ落ちする。
18日、大村軍、石見益田を攻略し長浜へ進み、浜田藩六万石の鶴田城を望むところで一旦休む。
幕府軍総督から浜田援軍を要請された鳥取、岡山両藩が出兵を断る。
浜田藩主松平武聰、自ら城に火を放ち松江へ逃れる。
19日、大島口奪還完了
20日、高杉、龍馬、九州周旋の為出張する。
24日、イギリス公使パークス、フランス公使ロッシュ、下関へ入る。
木戸、伊藤俊輔、パークスらと別々に面会。
木戸は諸外国に支援を求める様な事はしないとし、諸外国にも中立の姿勢を求める。
英国は前公使オールコックの時から幕府の支配力が著しく低下している事を察しており、この頃には確信している。
また3月サトウが寄稿した英国策論の通り、日本の元首は将軍ではなく帝であり、本来決定権は将軍にはない。
将軍は大名の中の一人にすぎず、その大名を束ねる首席にすぎない。また諸藩が、幕府だけが開国した港を占領し
自由に貿易などで利益を上げている事など良しとしない実状までしっかり把握している。
諸外国が一番初めに『将軍と』通商条約を結んだことをそもそもの失策であったとする程だった。
よってパークスは元より木戸が言うそのつもりで、すぐ後の小倉藩小倉城に詰める老中小笠原長行に会った時も
中立を進言し、あくまで、戦時中における諸外国船の馬関通過に関する事項についての確認となった。
しかしロッシュは小笠原に対した際明確に共闘を申し出ていた。そこでパークスが中立を強弁したのである。
小倉藩を出たロッシュは艦上にて長州征討を暫く観戦した後、大阪へ赴き将軍に会おうとする。
これに対しパークスは、同じく観戦した後、諸大名との親睦を深める為宇和島の伊達宗城を訪うべく発進した。
(長州征討の直前には鹿児島で長州征討などについての意見交換も行っている。)
??日、坂本龍馬、山口にて萩藩主に拝謁。ラシャの生地を贈られる。

7月
??日、芸州口の戦いに御堀耕助(大田市之進)御楯隊加入。
総督・吉敷毛利の毛利幾之進、参謀・河瀬、井上聞多。
??日、高杉、目標を小倉城陥落と設定。上陸戦からの小倉城前大里村占拠、
敵艦・富士山丸の機関破壊を狙う策を立てる。
3日、未明、漁船に大砲を乗せ闇夜に紛れて富士山丸に近付き、至近距離から打ち込んで大きな損害を与える。
これを合図に彦島山上へ据え付けていた砲台が一斉砲撃開始。大里村が戦火に包まれる。
午前8時、門司から打って出た陸兵隊が大里へ進撃し、激しい砲撃戦となる。
しかし本道、浜手、山手の三方から突入した事によって敵を押し込み、敵陣突破となる。
逃げる兵を追うと敵隊列が現れ激しい応戦となる。しかしこれも短兵戦を仕掛けて追い払い
午前11時頃、見事大里村を占拠し帰還を果たした。
一方、上陸作戦に並行して丙寅丸、丙辰丸、庚申丸が大里沖へ出陣。小倉沖の海域を守っている
富士山丸と順動丸に相対する。砲撃を開始し、2隻を撤退させる事に成功。
この時小倉藩には、大大名である肥後をはじめ、久留米、柳川、幕府直轄軍らが合流していたが
彼らは動かなかった。
4日、坂本龍馬、下関に入る。高杉の戦を観戦できなかった。木戸へ手紙を書く。
4日、木戸、高杉へ山口の様子を手紙で知らせる。
??日、幕府軍・肥後家老・長岡監物は最初から長州征討に否定的で、幕府軍副総督といて小倉城に入っていた
幕府老中・小笠原長行とも度々衝突していた。今回参加している諸藩も小倉藩以外は殆ど長州征討に消極的。
尚、肥後には長岡監物の参謀役として、高杉が師・吉田松陰に並んで影響を受けた横井小楠がいる。
大大名である肥後はその財力に加え横井の新洋式戦術や機器を取り入れていると想定されるだけに
「肥後が本気になった時が一番手ごわい」と身構えていた。
10日、薩摩藩、同盟に則り、京守備を名目に鹿児島から三隊が出発。
11日、木戸、捕虜となっていた幕府軍監・長谷川久三郎に書状を持たせ解放。
19日、薩摩兵、入京。その後も続き、総勢1000人程が京に入る。
16日、薩摩藩士・村田新八、黒田了介、萩藩主に謁見。同盟に基く薩摩の出兵を知らせる。
??日、幕府小倉勢、諸藩の足並み揃わぬ中、小倉藩が全員討ち死にの覚悟まで固める。
これによってやっと老中小笠原も決意を見せ、大大名肥後も重い腰を上げた。
20日、薩摩藩父子、諸藩周旋の後連名を以て朝廷へ建白書を提出。長州救済の一環。
20日、将軍家茂、大阪城にて死去
21日、高杉、体調悪化(喀血かどうかは不明)。
白石正一郎の日記『谷氏、不快』。結核が周囲にも明白となる。
27日、坂本龍馬、木戸へ長崎幕府軍の様子を伝える手紙を書く。
27日、高杉、小倉赤坂激戦
早朝、午前中に大里の柳御所跡に本営を設置。海岸道と山手の二方から赤坂・大谷に進撃する。
「肥後(熊本)が本気になったら苦しい戦いになる」その通り、この戦よりついに動き出し
アームストロング砲を用いた肥後兵を相手に長州兵は苦戦を強いられる戦いとなる。
大里から出撃し、馬寄(まいそう)・藤松・新町を進む。途中までの小倉藩兵は蹴散らしたが
その先にある延命寺近くに作られた台場で待ち構えていた肥後藩との激戦となる。
あまりに苦戦となり奇兵隊指揮官・山田鵬介が部下15人を率いて富野台に登り
決死して高台から駆け下り、刀を以て敵台場へと突撃・肉迫するが戦況打破には至らず全員戦死した。
併せて沖からは幕艦からの砲撃も受け、長州藩は多くの戦死者を出しながらも驚異的な士気のもと戦い続けた。
一見からくも有利と見られた肥後始め小倉軍の損害も大きく、その上朝から夕方まで戦っているのに
幕府からの援軍が来る気配もない。長岡監物が小笠原に出した援軍要請は却下されていた。
士気の低下は著しかった。
日没になり、その日長州は104名の死者を出して大里へと撤退した。
27日、木戸、坂本龍馬より書状くる。薩摩の同盟に基く動きを報せる内容。
・五代才助の火薬斡旋
・小松、西郷は薩摩国事周旋、大久保・岩下は大阪にて周旋
・薩摩兵の着京
28日、肥後・横井小楠、延命寺台場付近で戦死した山田以下奇兵隊員達の遺体を埋葬する様指示。
28日、高杉、阿弥陀寺町伊藤本陣で作戦会議。のち、白井正一郎、福田侠平と大里へ渡る。
28日、夜、幕府軍肥後家老長岡監物、小笠原および幕府への不信を拭いきれず藩兵を全撤収させる。
29日、高杉、馬関口陸海参謀
29日、夜、幕府軍副総督・小笠原長行、幕府軍艦の要である富士山丸に乗り逃走。
(将軍家茂死去の報あっての事だが、小倉藩に無断で軍艦を用いての離脱)
小倉藩以外の諸藩、撤退開始。
30日、高杉、下関に帰る。

8月
1日、高杉、伊藤本陣へ軍会議に出かける。
1日、昼前頃、小倉城陥落の報入る。孤立した小倉藩自ら火を放ち香春へ退いた。
高杉、山縣狂介大里へ渡り、夕方戻る。
3日、高杉、総督(毛利元周?)富野台に入った後延命寺へ向かう。
高杉、この後も市内検分、残敵掃討など引き続き指揮する。
12日、小倉から逃走した老中小笠原が大阪に入り、一橋慶喜へ小倉戦の敗戦を報告
16日、一橋慶喜、参内し征長軍解兵の勅許を得る。
海軍奉行勝海舟に長州との止戦交渉を命じる。
17日、勝海舟、長州との交渉の為西下の途につく。
17日、高杉、白井正一郎、その他と小倉へ渡、広寿山本陣に入る。長府世子、同本陣にて酒肴を振舞う。
狸山にて賊兵掃討戦あり、味方一人戦死。
20日、幕府、徳川家茂死去の報、徳川慶喜相続の報を出す。
21日、慶喜、朝廷工作を行い休戦沙汰書を手に入れる。(勝海舟の役目が無意味なものになる)
22日、高杉、昼に河豚にて一酌。寺内・佐世ら来る。
高杉、おうのと馬関へ行く。
25日、高杉、馬関から帰る。
26日、木戸、白井正一郎邸の高杉を訪ねる。

9月
??日、木戸、藩命により木戸準一郎へ改名。
2日、勝海舟、厳島大願寺で休戦協定。将軍死去のため撤兵せよとの沙汰であったが
長州はもともとこの戦は幕府が仕掛けたもの故長州から止戦を申し出るいわれはないと拒絶した。
4日、高杉、喀血。白井正一郎、医者石田を呼び、病院からも一人駆け付ける。
12日、高杉、駕籠に乗りおうのと共に馬関西ノ端の入江和作邸へ入る。
??日、高杉、福岡藩で勤王志士を匿った等の罪で姫島流罪となった野村望東尼救出を指示。
福岡浪人・藤四郎、対馬浪人・多田荘蔵、小宮延太郎、吉野応四郎
福岡商人・権藤幸助、中村円太従僕・三津蔵
{権藤幸助は翌月10月29日に病で死去したらしい…急病か}
17日、野村望東尼救出。一旦、白井正一郎邸へ匿われる。

10月
2日、高杉、木戸へ血を吐いた事を手紙で知らせる。
20日、高杉、馬関口参謀解任。後任は前原彦太郎(一誠)。
27日、高杉、桜山東行庵に入り、療養。
30日、野村望東尼、入江和作邸へ入る。

12月
??日、高杉、病状が少し落ち着くなり桜山をおりて酒楼に遊んだり、白石邸で一献かたむけたりした。
5日、将軍慶喜就任
7日、神戸開港、大阪開市
12日、村田蔵六、萩帰還。海軍用掛となり高杉の後任前原彦太郎を補佐する。
25日、孝明天皇、崩御
29日、長州藩主毛利敬親、三田尻で英国キング提督と会見。木戸同席、井上通訳。



~慶応3年~


1月
??日、坂本龍馬、下関の東、阿弥陀寺町伊藤助太夫方の一室に住み始めた。
「自然堂」の扁額がかかっている。
5日、中岡、高杉晋作を見舞う。夜、坂本龍馬と会談
{この状況で中岡が龍馬に高杉の事を話さない、話題に出ないとかある…?}
9日、明治天皇践祚
??日、長州小倉講和成立
23日、幕府、征長軍解兵を布告、大宰府の五卿の帰京を許可。
??日、人里離れた草案で高杉の病状が進む事を恐れた人々が、暖かく便利な場所を物色し始める。

2月
??日、高杉、新地林算九郎の離れ座敷へ、おうのを伴って移動。緑筠堂。
??日、望東尼、井上、福田などなど、皆がよく訪れた。
高杉は「しっかりやってくれろ」と重ねて言い続けていた。
10日、坂本龍馬、お龍と共に「自然堂」で暮らし始め、ここを拠点に東西へと飛び回っていた。
(高杉が移った林家とは数キロしか離れていないが、今現在に至るまで交流した記録は出ていない。)

3月
??日、高杉、両親雅子来関。入江和作邸へ下がったおうのとは永遠の別れとなる。
この頃には既に「おも湯」くらいしか食べられない状態で、血も沢山吐いたとの事。
??日、高杉、病床で『おもしろきこともなき世をおもしろく』と詠み
望東尼が『すみなすものは心なりけり』と返す。
{よく「おもしろきこともなき世『に』おもしろく」が正解だ、と言われているが
雅子が筆したものを見る限り『を』なのか『に』なのかそこだけ丁~度判断付きにくい文字なのよね…。
『』内の一文字がひらがなではなくて漢字みたいな文字になっている。
チョンチョン、で最後チョンってなってるので(?w)『弐』とか『似』に似てる様な気がしないでもない…。
続く「すみなすものは心なりけり」も「すみなすものはここ『ろ』なりけ『り』」って感じで
『』内の一字が漢字?になっていて、こっちは正直ああもう…詳しい人判別頼む…てなってる(おい)}
??日、高杉、馴染みの料理屋へ行くと言って聞かず、田中顕助らは仕方なく駕籠を呼んだ。
しかし体力がきかず諦めた。田中曰はく「うのに会いに行こうとしたのかもしれない」との事。
14日、坂本龍馬、木戸へ長崎における後藤象二郎との事を手紙で知らせる
21日、中岡慎太郎、高杉を見舞おうとするが病が重く、遠慮して去った。
29日、高杉(谷潜蔵)、大組士に列して新地100石をもって谷家を立てる

4月
13日、午前2時、高杉、死去。
死去の前「吉田」とつぶやいた事から、吉田村に葬られる事となった。
14日、白井正一郎が駆け付け、山縣や福田などと相談をしながら葬儀を取り仕切る。
16日、高杉、吉田村に葬られる

5月
??日、望東尼、下関を離れ山口へ移る。
16日、木戸、京薩摩藩邸潜伏中の品川弥二郎に討幕を急ぐ手紙を書く
19日、木戸、藩主敬親に呼ばれ今後の方針を聞かれる

6月
17日、高杉嫡子、梅之進(東一)、4歳で谷家を相続する。
19日、木戸、黒田了介より西郷吉之助が長州にて面会したいとの手紙を受ける

7月
15日、木戸、村田新八の訪問を受ける。西郷吉之助の長州入りが遅れるとの事。
16日、木戸、歯痛のため休み
17日、木戸、長崎行を命じられる

8月
7日、木戸、伊藤俊輔と共に丙寅丸で長崎へ向かう
??日、井上、下関に入って来た土佐夕顔丸からやって来たアーネスト・サトウと会う?
(サトウは井上を見つけたが何も話してくれなかった、との事)
井上、龍馬ら海援隊と会談?
15日、木戸、伊藤と共に土佐夕顔丸で長崎へやってきたアーネスト・サトウを訪ねる。
「長州藩主はこれまで一度たりとも政府転覆を目論んだ事などはない」等と話す。
17日、木戸、玉川亭にてサトウの訪問を受ける。伊藤も交え、1日中会談しながらゆっくり過ごす。
『(残念ながら)自分たちが生きている内に両国が交わる事はないだろう』という結論に至る。
20日、木戸、玉川亭にて龍馬から土佐大目付・佐々木三四郎を紹介される。
丙寅丸の修理に来たのだが千両足りないという話をし、龍馬が三四郎へ、三四郎が土佐商会へ頼んだ。
22日、木戸、長州藩士・河瀬真孝宛てに手紙を書く
「高杉が4月13日ついに黄泉の客と相成り、悲嘆に堪え申さず候。国家の一大不幸に御座候。」
??日、木戸、アーネスト・サトウに対し『帰還するなら途中まで丙寅丸に乗っていくかい?』と声を掛ける。
サトウはこの頃イカルス号事件犯人の検挙に付きっ切りだった為、返答を差し控える。
26日、伊藤、サトウに別れを告げると同時に遠藤謹助(長州5の一人)を紹介。
遠藤謹助、以後、サトウに同行する様になる。(確認できる限りでは)


9月
4日、木戸、坂本龍馬に挙兵討幕が急務で乾退助の役割が重要と手紙を書く
大政奉還が成ったとしてもその後乾の上洛が肝要であると述べている。
また、17日にサトウと会った時に大政奉還について話し「三藩で尽力して大改革を起こそうとしているが
それでも出来なかったら西洋のことわざにある『老婆のすること』と同じ。十分頑張ってください」と
言われた事をそのまま彼らにも告げ、彼らを奮起させると同時にやんわり皮肉った。
12日、サトウ、イギリス軍艦での帰還が決まり、先日の同船申し出に対し木戸へ改めて礼を述べる。
(15日、サトウ横濱へ帰還する)
17日、木戸、山口にて大久保一蔵、大山格之介らの訪問を受ける。
19日、大久保一蔵らと出兵の協約
??日、望東尼、歌人荒瀬百合子という未亡人のもとで過ごす。
20日、坂本龍馬、下関で三吉慎蔵にお龍を預け伊藤俊輔と会う。木戸に手紙を書く
28日、望東尼、小田村素太郎が上方出兵の為挨拶に来る。
部屋には高杉の書が書けてあり、維新を目前にたおれた高杉を惜しんで句を詠んだ。

10月
14日、大政奉還
22日、木戸、山口にて西郷吉之助、小松帯刀と会談。倒幕挙兵を確認

11月
3日、木戸、広島城で広島藩と協約を結ぶ。
6日、木戸、山口で報告。
6日、望東尼、死去
15日、近江屋事件。坂本龍馬、中岡慎太郎襲撃される。龍馬、死去。
16日、西郷吉之助、藩主・島津茂久と三田尻に入り木戸と会談
17日、中岡慎太郎、死去。
海援隊・陸援隊の合同葬にて東山の霊明神社境内に埋葬される。
22日、木戸、京薩摩藩邸の品川弥二郎に手紙を書く
28日、長州兵1500人、着京。西宮に布陣。
29日、薩摩藩主・島津茂久の率兵上洛

12月
3日、サトウについていった長州藩士・遠藤謹助、在京長州藩とサトウの間で情報斡旋に励む。
(ちなみに、サトウ従来の護衛に会津出身の野口がおり、会津の情報も入っている。
サトウ本人は言うまでもなく朝廷および新政府主要陣、徳川慶喜本人および幕府老中以下役人、
薩摩他各大名とも深くやり取りしている。)
5日、サトウ、長州軍西宮に入る。長松文輔らと会談。
7日、兵庫開港、大阪開市
8日、朝廷、長州藩主父子、三条実美、岩倉具視の赦免決定
??日、薩摩、818の政変で都落ちした宮廷貴族を迎える為、汽船にて筑前へと向かう。
9日、王政復古の大号令。幕府・征夷大将軍、摂政、関白に代わる新政府機関として『三職』が設けられる。
木戸、新政府・参与に任命される。
{伊藤も『参与』任命か?この頃の参与は各藩3人かららしく、伊藤も任命されている。外国御用掛がまだない?
でも、まだこの時点では『木戸と同等か…』という違和感もある}
薩摩、長州、土佐が御所を守っている
10日、朝廷、尾張徳川慶勝および越前松平慶永および徳川慶喜に辞官納地の勅旨を与える
13日、徳川慶喜、大阪城へ下る。
13日、長州藩士遠藤謹助、サトウの元へ戻り情報斡旋。
15日、木戸、五卿を迎えるため大宰府に向うがすれ違い。
16日、徳川慶喜、大阪城にて六カ国公使と会見。新政府が確立するまでの間は自分が外交を執り行うと宣言
17日、木戸、大宰府から下関に戻る
18日、京西宮の長州兵に小浜兵合流。(この時会津500、新選組300なども配備されている)
18日、木戸、山口で王政復古の動きを知る
18日、朝廷、木戸へ上京の命を出す。
25日江戸薩摩藩邸焼き討ち


~慶応4年・明治元年~


1月
3日、木戸、品川弥二郎に西郷吉之助、大久保一蔵の失策を指摘する手紙を書く
3日、鳥羽伏見の戦い勃発
6日、長州藩主、毛利敬親朝廷に木戸準一郎病気のため上京の猶予を奏請
6日、徳川慶喜、大阪城を退去し江戸へ向かう。
7日、戦禍に巻き込まれる寸前の大阪城近くにある英国公使館から重要書類等保護しつつ撤退中のサトウ、
『宗教的な儀式で使用される、大きな傘がかかった神輿と、長い竿からぶらさげられた
ランタンを運ぶ二人の男達によって構成されていた』興味深い行列を見る。
その時一緒に板石川河内守りによれば帝の使者だろう、との事。
恐らく、この頃長州藩士遠藤が再び情報収集しに別行動に出ている。
7日、木戸、藩主より備前行きを命じられる
7日、新政府、慶喜追討令発布
9日、遠藤、情報収集からサトウの元へ戻る。大阪城には長州藩士が200名程入っている。
しかし火を放ったのは誰のかはわからなかった。
9日、木戸、山口より備前に向う
11日、木戸、備前岡山藩主、池田茂政に会う
11日、備前(神戸)事件
開港の為この地に集まっていた諸外勢は止むを得ず神戸へと撤退していたが、行軍中の備前兵が
行列の前を横切ったアメリカ水夫に向け発砲。(薩・生麦事件と同じ)
その後目に付く限りの外国人を殺傷しようとした為戦闘になりかけた。(サトウらまで拳銃で出撃している)
11日、直後、長州兵100名が神戸と兵庫守護の為現れたが、外国人たちは殺気立っており戦闘になりかける。
駆け付けたサトウが取り持ち、この地への駐留は必要ない事を求めると受理され、衝突は回避された。
神戸を外国人居住地とする諸外国らがこの地における通過条件など触れを出すが、英国と友好関係に
あった長州は暴発することなく条約を受け入れ友好的に距離を保った。
14日、帝の使者として東久世通禧が兵庫・イギリス公使に面会。伊藤、陸奥、岩下、寺島らが随行。
15日、兵庫税関局にて各国公使と東久世通禧の会談。主通訳を伊藤が行う。
・皇帝(帝)は将軍徳川慶喜による大政奉還を承認し、以後は帝の政権が日本における内政及び
外交の最高責任者となる事を各国公使に通達する。
・これまで締結された条約の中にある大君(将軍)と記されている箇所は全て皇帝(帝)という語句に
書き換えられなければならない。
・帝の政府は外交を担当する官史を任命している。
各国公使がこの宣言を承認する事を希望する。
16日、伊藤、英国軍艦オーシャン号を見学する東久世について同船。
17日、新政府、『三職』のもとに神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を置いた『三職七科制』とする。
伊藤、外国事務掛
17日、伊藤、臨時で臨時で税関管理官および神戸長官(奉行)となる。{この時は諸外国応接専任とも言えるかも}
18日、伊藤、東久世やパークス公使らとの会議に参加。
開港に関するすべての条約、協定、合意を皇族仁和寺宮から得るための交渉。
19日、木戸、大坂に入り伊藤俊輔と会う
21日、木戸、京に入る
23日、木戸、大久保の訪問を受ける。大坂遷都について相談後、建言書を熾仁親王、三条実美に提出
25日、六カ国、局外中立宣言
29日、木戸、相国寺にてアーネスト・サトウ、ウィリアム・ウィリスと会談
日本人と外国人の間で騒動起こらない様、或いは起こった際の対応について
??日、{龍馬と中岡の墓碑銘は木戸が筆を執ったとの事だが、いつだろう?}

2月
1日、木戸、外国事務掛を兼任。対韓意見書を提出、朝鮮使節派遣を建言。
3日、新政府、『七科』が廃止(改名)され『八局』となる。
木戸、総裁局顧問に任命。庶政全般の実質的な最終決定責任者。
伊藤、外国事務局権判事
9日、備前事件の責任者2名、切腹となる。
事前に伊藤と五代友厚が嘆願したが受け入れられなかった。
14日、西本願寺にて各国公使・代表と、日本の高官らの間で重要会議が行われる。
伊達宗城、東久世、醍醐大納言、尾張、越前、薩摩、長州、土佐、芸州、肥前、肥後、因州の家老たち。
開国外交の促進、京における帝への拝謁、日本国内における外貨為替、大阪兵庫(神戸)の
土地売買についてなどが話し合われた。ロッシュ公使は断固として新政府の申し出を拒否していた。
15日、堺事件
26日、木戸、朝廷に辞表提出。却下される。
26日、六カ国公使一行、帝拝謁の為大阪に入る。{帝の通訳を務める伊藤、この件常に従事すると思われ}
29日、明治天皇拝謁の為に初上洛したイギリス勢が各要人を訪問。
長州藩主の元へ訪れ、長州とは長らく友好的関係にある事を祝福し合った。{木戸や通訳伊藤もいたのでは}
30日、パークス襲撃事件
明治天皇拝謁の為内裏へ向かっていたパークスが襲撃される。
護衛として物々しく行軍していた英国騎馬隊は狭い路地の為殆ど対処できず、肥後兵は逃げ出したという。
土佐後藤象二郎と薩摩中井弘蔵が抜き身を放ち捨て身で討ち捕らえた。
また馬丁はこの状況下でも非常に落ち着いて己の仕事に専念していたとの事。

3月
??日、新政府、パークス襲撃事件の犯人詮議や謝罪、日程再設定、帝への調整等など走り回る
3日、イギリス公使一行、明治天皇に拝謁。伊藤、明治天皇への通訳を務める。
(実際に謁見したのはパークス公使と、イギリス貴族であり祖国女王に謁見した事のあるAミットフォードの二人のみ)
14日、帝、五箇条の御誓文を天下に示す
起草に携わったのは木戸のほか、由利公正、福岡孝弟など。
14日、江戸総攻撃回避決定(西郷勝会談)

4月
11日、江戸城無血開城
23日、英国公使及び諸艦隊、帝への信任状奉呈のため横濱を出港
27日、木戸、山階宮、パークス公使、三条、伊達、後藤、西本願寺にて会見
{F.アダムズ(一等書記官就任)、AシーボルトやAミットフォード、級通訳生J.クインなども通訳として同席}
新政府が発布したキリスト教に対する勅令について

閏4月
1日、パークス公使、帝へ信任状を奉呈。
ヨーロッパの元首が初めて日本の元首に対し書簡を送る事になる。
公使館一行の他、軍艦から200人以上の海兵が隊列に加わり、更に日本人の兵が隊列の先導としんがりを務めた。
帝を中心に多くの公家たちが彼の後ろに控えていた。
伊藤が通訳を務め、式典は恙なく執り行われる。夜は晩餐会が開かれた。
2日、英国女王陛下の誕生日が近いこともあり、礼砲が放たれた。
日本人の貴人たちがロドニー号に乗船し、提督と昼食を取った。
・山階宮が女王陛下の健康を願って乾杯しようと言い、皆威勢よくそれに応じた。
・長州藩主はサトウの隣に座り、シャンパンを飲み過ぎてつぶれた。
・帝の母方の叔父はヨーロッパの猫を見たいと切望していた。
・別の貴人は黒人を一目見てみたいと言った。
ロドニー号、オーシャン号それぞれの軍楽隊による演奏も拍手喝采が贈られた。
3日、大阪にて、上記の会議に岩倉具視を加えて再びキリスト教への勅旨について6時間もの間話し合う。
各国代表が公文書の写しと和訳文書を提示して抗議したが、キリスト教を信仰する4000人ほどの
日本人(そのほとんどが長崎浦上村の住人)が情け容赦なく流刑とされた。
4日、山県狂介、木戸を訪問
6日、西郷吉之助、木戸(在阪)に上京を促す手紙を書く
8日、木戸、伊藤俊輔に最近の働きぶりを褒める手紙を書く
10日、木戸、大坂より乗船山口に向う
14日、木戸、山口に入り藩主に拝謁
21日、太政官より政体書発布。『三権分立』を目指した体制となる。
中央政府として太政官を置き、これの権力を『立法』『行政』『司法』の三権に分ける。
『立法』議政官上局・下局
『行政』行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官
『司法』刑法官
…という形で『七官制』が設立される。
議政官上局に議定参与、下局に議長および議員を配置。
行政官は行政事務を総括する。(総裁局の後身)(立法府)
神祇官・会計官・軍務官・外国官はそれぞれの管轄における行政事務を分担し、
それぞれに知事(長官)、副知事(次官)、判事(書記官)としてついた。
刑法官は司法『府』とする。
また、今回のコンスティテューションはアメリカのそれによく似ている。
そしてこれが最終のコンスティテューションではないだろうとサトウ。{その通り}
21日、木戸、参与に就任
23日、三条実美、東久世ら帝遷都準備の為江戸に入る。
26日、木戸、萩に入る

5月
5日、木戸、山口で藩主親子に拝謁
11日、木戸、長崎に入る
15日、上野戦争勃発(1日で終戦)

6月
3日、木戸、京に入る
9日、木戸、北越に派遣してほしいと嘆願書を出すが拒否される
20日、木戸、岩倉具視に北越に関する意見書を提出
25日、木戸、江戸に入る

7月
4日、サトウ、江戸で小松・吉井と会う。
「政府の軍は勝利を続け、別件で京へ向かった木戸ももうすぐ帝に随行して戻ってくる」との事。
5日、長州兵{本隊か}大挙して江戸へ上陸。江戸英国公使館前の泉岳寺へと入って行った。
15日、大阪開港
17日、『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』発布。草案・監修に木戸。
17日、江戸、『東京』へと改称
18日、木戸、大久保一蔵、後藤象二郎に版籍奉還を相談
23日、木戸、長州藩主・毛利敬親に版籍奉還決意の手紙を書く

9月
8日、~明治改元~
20日、明治天皇、京を出発して東京へ行幸。木戸随行。
22日、会津藩降伏
23日、庄内藩降伏

10月
13日、明治天皇、江戸着
22日、伊藤、木戸へ東京出仕を促す手紙を送る

11日
8日、木戸、横濱英国公使館にて会議。伊達、東久世、小松、池辺が集結。
・反乱軍との交渉の為に山口範蔵をイギリス軍艦に乗せ派遣させてほしい
→局外中立の事もあり出来かねる。書簡を持たせて使者を派遣するべき。
→日本側うなずくが、本当にそうしょうとしていたのか疑わしい態度。
・キリスト教徒に関して長い議論が交わされる。
→日本側は理性的に話を進めたが、木戸が意見を述べた内容にパークス公使は我を失い
サトウが訳したくないと思う程乱暴な言葉を吐いた。木戸は閉口した。
・最終的に、改宗者を恩赦する旨を伝える帝の覚書を諸外国公使に渡す事で同意。
9日、池辺がサトウを訪ね、キリスト教徒の事などを話す。彼は信者であった。
午後、パークス公使と共に先日の伊達らの訪問返礼として元横濱奉行の公邸へいざなった。
再び長時間にわたって議論が交わされ、特にキリスト教徒と代議士制度が擬態に上り、
更にパークス公使は強い口調で将来の首都について問い詰めた。(首都は東京になる)
また、伊達宗城は先日パークス公使が用いた暴力的な言葉遣いについて大変丁寧な「蒸し返し」を行った。
伊達:会話が白熱すると議論が交わされていると思いがちだが実際の所は我を失っているだけである。
勿論この世の全ての人間が自分の意見を述べたいと考えている事は理解しているが。
→パークス:あの様な態度を取ったのは日本の人々が自分たちの為にならない事をしているのが
とても残念に思えたからだ。
→伊達:時折叱って頂ける(腹を割ってもらう)のは悪い事ではない。
帰路、パークスは馬車に同乗していたサトウに言葉を漏らした。
パークス:もし私が少々強い口調を用いなければ、彼らは他の公使達に対してキリスト教の話をしなかったと思う。
→サトウ:確かにそうかも知れませんが、木戸の心はいたく傷付いたと思います。
彼は硬い表情で黙り込んでしまいました。
→『P(パークス)』:そう思うかね
→サトウ:残念ながら彼は侮辱されたと思ったでしょう。包み隠さず申し上げますと、この間の様な
やり方が上手くいく事もあるかとは思いますが、日本人達は貴方と対談する事を忌避する様になるでしょう。
この会話を経た公使は、明日木戸を朝食に誘いたいのでできるだけ丁寧な招待状をしたためて欲しいと言った。
10日、{記載はないが恐らく木戸は招待に応じ、朝食を共にしたのでしょう。
少なくとも木戸とサトウの関係は今後も良好だし英国との信頼関係が陰るという事態にも陥っていない。}
19日、東京開市・新潟開港
22日、英国公使一行他、明治天皇に拝謁。伊藤、帝の通訳につく。
27日、江戸・浜御殿にて局外中立宣言についての会議が行われる。
岩倉の他、木戸、東久世、町田、パークス公使、サトウが参加。
社交辞令がいくつも述べられ、岩倉は特に英国が新政府を承認してくれた事に強い感謝の気持ちを表明。
帝の今後の予定と、それが終われば東京で一大会議を執り行うつもりだと述べる。
パークスはそれを各国公使にも伝えた方がいいと助言。
のち、局外中立宣言とその撤廃についての会議となった。

12月
8日、帝が京へ戻る為、江戸出発。(婚儀など)
11日、木戸、サトウより諸外国、内戦が終結し中立宣言を撤回する事を告げる合同宣言書の写しを受け取る。
『合同』とはいってもイギリスとオランダしか合意はできておらず、他の公使達の合意を得るには
『若干の時間が必要』であるとイギリス(サトウ)は返答した。木戸は納得しなかったが
『彼らに中立撤回をさせるにはある程度の譲歩も必要だった』と説明した。
『例え若干の遅れがあったとしても、たった二人だけの公使が認め他の公使達が認めないといった
形になるよりはよいだろう』とも。
引き続き会議が行われているのならと、木戸も一旦は受け入れた。
(しかしこの『若干の遅れ』には岩倉が大いに執着し断固として異議を唱え、再三の要求を入れ続けた。)
また、この頃函館から戻っていたAアダムズらが反乱軍(榎本軍)からの嘆願書を受けていた。
この事も岩倉と英国らの間で一悶着起す事になってしまう。(その議論の場には木戸もいたかもしれない)
23日、賜暇を得、帰国する事になったアーネスト・サトウの送別会が開かれる。
サトウ、ミットフォード、シーボルトの他、備前岡山藩主池田、公家大原侍従(重実)
木戸、町田、森、語学学校(幕府が開設した蕃所調所)の教師で最近江戸において刊行された
新聞編集長神田孝平、宇和島藩士都築荘蔵(温・あつし)が招待されていた。
サトウいはく『とても心地のよい宴だった。』
夕食の後、木戸は内密に、朝鮮の港を開く事が日本にどの様な影響をもたらすかとサトウに聞く。
→実利は少ないだろうが朝鮮の人々の目を国外に向けさせるという人道的なメリットがあるだろうと答えた。
24日、木戸、サトウに手紙を送る。
ヨーロッパで日本について何か見聞きする事があれば何でもいいので教えて欲しい。
また、手紙をくれれば必ず返信するとも約束し、快適な船旅と英国に無事に到着できる事を祈った。
28日、六カ国公使、局外中立撤廃を告示

??日、木戸、吉田松陰墓地を修復し鳥居を寄進

年表前半・安政6年(元治元年)~