―表紙― 登場人物 物語 絵画


各種年表・資料等
土佐年表前半:安政6年~文久3年
 /  土佐年表後半:文久4年~明治2年

土佐関係年表:前半
―安政6年~文久3年―

武市・乾・内蔵太・中岡、寺村、以蔵等。
※まとめ精度にムラあり

※最終更新2021.11.06


※創作ネタは含まず


安政3年
乾退助、得た罪にておよそ3年の間、神田村へ追放及び廃嫡の処分中。
この頃から吉田東洋に目をかけられており学問を進められているが、己の武士道を貫き誘いを断っている。

安政4年
池内蔵太、神田村で私塾を開いた岩崎弥太郎に師事して学問修得に励む。近藤長次郎らが同門



安政6年(1859年)


2月
乾、藩主の代替わりの恩赦によって謫居及び廃嫡処分を解除され、高知城下へ戻ることを許される。


9月
乾、小谷善五郎の娘・鈴と婚姻。
父親が病床にあり、急がれて三度目となる婚姻であった。(謫居前に2度結婚しているが離縁している)

12月
17日、武市、白札郷士以下の剣術世話方となる。



安政7年=万延元年(1860年)


3月
江戸桜田門外の変。


閏3月
3日、乾、父・正成死去。家督を相続。馬廻役。
(馬廻組…大名廻りの補佐を行う大身。騎馬が許されたエリート武士)
??日、乾、免奉行(税務)に昇格。
町人から軽格など身分に関係なく広く公平に意見を募った。
??日、久松喜代馬、武市道場師範代となる(島村衛吉と同様)

~『万延』に改元~


7月
月末頃、武市、西国へ「武者修行」に出る。
久松喜代馬、岡田以蔵、島村外内同行。

8月
18日、武市ら、丸亀藩直清流矢野市之進の道場へ入る。
のち、中国路へ渡り、備前、美作、備中、備後、芸州と旅を続ける。

10月
??日、武市ら、長州を経て九州へ渡る。


11月
??日、大村藩にて坂本龍馬甥高松太郎と会う。
中旬頃、武市ら、久留米到着。久松喜代馬、島村外内、高松太郎を留めおく。
別れる際、この後以蔵を岡藩の士に頼んで留めおく事、自身の江戸視察の予定を伝え、
それに合わせた以蔵の世話を頼んでいる。
(以蔵は一度土佐へ帰ると金銭面も許可も都合が付きにくいだろうとして岡藩に留めおくつもりらしい)
以後、以蔵と九州情勢探索の旅に向かう。


12月
??日、武市、以蔵、九州情勢探索を続ける。
12日、以蔵、岡藩に留まる。武市と別れ越後直指流剣術を学ぶ。
中旬頃、武市、帰藩。『肥前国河内守藤氏正広』『霊(たま)の真柱(みはしら)』
月末頃、池内蔵太、江戸へ発つ。(安井息軒・三計塾の門をたたく)



万延2年=文久元年(1861年)

???、春、池内蔵太、京三条邸に仕える平井加尾を訪ねる。
内蔵太は東海道で金をすられ「身には襤褸(ぼろ)を纏い、目も当てられぬ姿」で
路銀の為に大小の刀まで売ってしまい丸越しとなっていた。
加尾は内蔵太がかの安井息軒の門人で有望の士である事を知っており、懐刀と路銀を貸し与えた。
{『文久元年春、江戸から帰藩中』という記述のものを見かけたのだが、時期が合わない。
だが逸話として実際にあった事の様だ。いつの話なのだろう…年末頃かな?}

~文久元年に改変(2月19日)~


??日、大石弥太郎(土佐勤王党の結成に尽力し盟約書の起草を手掛ける人物)、勝海舟門下となる。
一方、長州藩士久坂玄瑞はじめ水戸、薩摩などの尊王志士と交流。

3月
井口村永福寺事件


4月
??日、武市、江戸へ出立。
姉、美多の義理の子・小笠原保馬同行。
24日、武市、丸亀藩雄飛閣にて試合を行う。以後、諸所に立ち寄りながら東上。


5月
??日、岡田以蔵、岡藩から江戸に出る。
28日、~文久~に改元


6月
4日、武市、江戸着
(土佐上屋敷・丸の内/中屋敷・築地/山内家下屋敷・品川大井村※容堂謹慎場所)
下旬頃、老中松平豊前守の乗り物が水戸藩士に襲われる

7月
15日、武市、大石弥太郎と共に土佐家老・側用役斎藤弥久馬と会合。
??日、武市、吉田東洋の政策(文武館造営や大阪住吉陣営建設、人心離反と他藩に対する立ち遅れ)を批判。
ロシアの対馬駐軍問題。この経緯については勝から教わった話を大石が武市へ話している。
河野万寿弥、池内蔵太…安井息軒門下
弘田恕助…藤森弘庵門下
柳井健次…塩谷宕陰門下
大石弥太郎…勝海舟門下
島村衛吉…桃井塾門下
それぞれが他藩の尊王攘夷志士らと交流を持ち始め、武市へと周旋していった。
??日、武市、弘田恕助の紹介で水戸藩士岩間金平と知り合う。更にすみや寅之助とも知り合う。
??日、武市、弘田恕助と長州藩邸麻布屋敷へ赴き、久坂玄瑞と出会う。河田万寿弥も同行。
??日、武市、久坂玄瑞の紹介で、薩摩藩士樺山三円と知り合う。

8月
??日、武市、大石弥太郎、河野万寿弥、池内蔵太らと共に江戸にて土佐勤王党を立ち上げる。
(池内蔵太、岡田以蔵は後に削除される)
25日、大石弥太郎、島村衛吉、久坂玄瑞、樺山三円と会合。
28日、久坂らの斡旋で武市と樺山が会合。


9月
2日、武市、大石弥太郎、久坂玄瑞、樺山三円会合。周布政之助を訪ね、桂小五郎も合流。
帰藩する武市を引き留める久坂。『武市君と別るる席上酔うて題す』と一詩を詠む。
3日、武市、江戸出立を決める。同志を募り一藩勤王を成す為。河野万寿弥、柳井健次、島村衛吉同行。
同志・池内蔵太、弘田恕助、大石弥太郎、小笠原保馬を江戸に留める。
内蔵太に、死を急ぐ気のある久坂らと暴動を起こさない様注意している。
4日、武市、別れを告げる為三円を訪うが、約束していたものの小用で外出しており会えなかった。
三円はこの日の日記に地団駄を踏んだ様子を書き綴っており、3日後もなお『残念千万』と書き綴った。
15日、武市ら大阪着。数日留まる。
18日、武市、土佐上士・谷干城と知り合う。安井息軒門下で河野万寿弥や内蔵太とは知り会い。
勤王思想のある谷は心が動くが、師息軒や上士の立場により勤王党とは距離を置かなければならなかった。
25日、武市、土佐着。
小野村にて元大目付平井善之丞を訪問。勤王党への協力を約束する。


10月
??日、同盟血判状にはすでに192名(内上士は2,3名)、多くの下士や庄屋が名を連ねた。
様々な事情から血盟に参加できずも同志となる人は更に300人。総勢500に達しようとしていた。
上士平井善之丞の呼びかけ等によって、幾名かの上士も志を共にする事となる。
佐々木三四郎、山川佐一右衛門、谷干城、小笠原謙吉、そして小南五郎右衛門、本山只一郎。
佐川の国老・深尾鼎とその部下数名も同志へと名乗り出た。
??日、乾、江戸留守居役兼軍備御用(容堂の側用人)に抜擢され、江戸へ。
??日、武市、坂本龍馬を久坂玄瑞のもとへ送る。
23日、武市、『薩長両藩の事情を上申したい』として、大目付役場『監察府』へ出頭。谷干城らの周旋。
大目付福岡藤次らが聞き取りを行うが、藩政、つまり吉田東洋へ響く様子はみられない。
この後幾度かに渡って監察府にて時勢を訴え、東洋とも意見交換を行う。


11月
??日、乾、江戸入り
??日、土佐上士森四郎、家老山内下総に対しだれぞを時勢探索へと命じてみてはどうかと問うと
「何事も吉田東洋がむつかしい。武市ら、いっそ吉田をやるがええ」
と思ってもない返答がある。これを平井善之亟に話し、勤王派上士らの間で広がりを見せるが
吉田東洋をのろう声は上に下にまで広がり、結果、この噂はなしを聞いた藩庁が武市らに対し
余計に目を光らせる様になってしまう。


12月
16日、武市、大石団蔵らを久坂玄瑞の元へ送る。持たせた手紙は東洋という壁について記したもので、
久坂もまた長井雅樂という公武合体派の傑物のため苦悩している事を打ち明ける。
役人・大名などはあてにできないとまで言っている。
??日、内蔵太、帰藩の途につく



文久2年(1862年)

1月
14日、武市の書簡を持った坂本龍馬、久坂玄瑞の元・萩へ到着{10月に出たというが別用か?}
20日、吉村虎太郎、武市の命にて久坂玄瑞の元へ行く。
23日、龍馬萩を出る。
??日、岡田以蔵、帰藩途中の東海道新井宿で病気になり、路銀が底をつく。
武市『不安心千万』と日記に記す。


2月
??日、龍馬、武市へ久坂の手紙を持ち帰る。
5日、寺村左膳、江戸で隠居・謹慎中の山内容堂から召され側用人となる。
16日、吉村虎太郎、坂玄瑞と会う。長土にさきがけ、薩摩で挙兵となる話を聞くにあたり、
久坂玄瑞を通して越後浪士・本間精一郎、久留米藩牟田大助と知り合う。
彼らと共に土佐を立たせる行動をする様約束させられる。
22日、吉村虎太郎、土佐に入る。
27日、吉村虎太郎、久坂や本間らと一藩決起を説くが『一藩尊王』が成っていない現状では
血判状に記した意に反する決起であった。


3月
6日、吉村虎太郎、宮地宣蔵、沢村惣之丞、脱藩。長州久坂玄瑞と示し合わせて大阪へ。
(沢村はとんぼ返りをして後に龍馬と共に再脱藩する)
??日、薩摩の挙兵をはずみに土佐を衝動的に挙兵させようとする本間精一郎らが藩境にちらつき
梼原あたりにまで入り込んでいる様子もある。土佐の血気盛んな若者たちは本間や吉村に続き
脱藩したがる者も出始め、土佐勤王党が分裂しかねない勢いですらあった。
24日、坂本龍馬、沢村惣之丞と脱藩
??日、土佐勤王党、密かに東洋を批判する歌を流行らせたりするが藩政への効果は薄かった。


4月
1日、帯屋町に新築中の吉田東洋の自邸が完成し盛大な宴が催される。
1日、武市、吉田東洋暗殺を謀議(一番隊、二番隊と刺客を差し向けるがいずれも実行に至らず終わる)
5日、吉田東洋の主導により藩校文武館が開校される
8日、吉田東洋暗殺。那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助。3名はそのまま脱藩した。
??日、乾は東洋暗殺の際に片岡健吉から手紙を受けた際、右往左往する土佐の役人に憤り
『大事が起こりうることは覚悟しておくべき』とし、また『賊徒(東洋)が斬られる事で国許が却って
落ち着く事もある』ともする内容を返信にしたためている。
??日、岡田以蔵、帰藩。
23日、京、薩摩寺田屋騒動。吉村虎太郎ら、薩摩に身柄を拘束される。
25日、山内容堂、幕府から帰国・対客・文通を許される。
30日、吉村虎太郎ら、土佐へ送還され、入獄。


5月
武市ら土佐勤王党、藩政を掌握。

乾、土佐勤王党・門崎哲馬と情報交換を行い、機密書類などのやり取りもあった。
※一方ここから現土佐藩主・豊範をも抱き込む土佐勤王党の尊王攘夷活動に、容堂は煮え湯を飲まされ続ける。
その苛立ちたるや松平春嶽に愚痴る程。東洋が退助を気に入っていた様に容堂も退助を気に入っていたとはいえ
退助はどう取り繕っていたのか…?
29日、藩主豊範、言路洞開の令を布告する。(土佐勤王党に担がれていると容堂は憤る)


6月
3日、寺村左膳、日記に東洋暗殺の下手人として那須・安岡・大石の名と出身地を記す。
(情報入手の経緯は不明だがこれを容堂に伝えていないとは考えにくい。)
山内民部、山内豊範に対して在意書を提出し尊王上洛を訴える。
??日、乾退助、小笠原唯八、佐々木三四郎らと議し、勤王に尽くす事を誓う。
28日、藩主豊範参勤交代の為高知を出立。武市、以蔵、平井など土佐勤王党員ら随行。
上洛を果たそうとする朝廷への動きあり。
何かと容堂の認可を仰ぎに通達が来るのだが、全て事後報告という現状。
勤王の志あれど、幕府ありきで今の土佐がある事も忘れない容堂は、藩士が勝手に藩主の騙り、
朝廷(公家)と談合し将軍・幕府をないがしろにした攘夷活動を行う事に憤り、悩まされている。


7月
13日、藩主豊範の行列、大阪へ至るも麻疹大流行のため足止めを余儀なくされる。
(容堂と土佐勤王党の板挟みにある豊範は仮病を使って時間を稼ぎ、江戸容堂の指示を仰ぐ)
20日、田中新兵衛、公武合体派として活動していた公家侍島田左近を殺害。{ストーカーみたいな殺し方…}


8月
??日、寺村左膳、土佐参与
1日、京にて皇都警衛の内旨を『勝手に』受けた土佐勤王党。上士・小南五郎右衛門が、その写しを以て江戸容堂に
『お伺い』を立てに現れる。すでに朝廷と話が付いている以上、実際容堂にはどうしようもなかった。
「此義、今に至り如何とも相成り難し」と松平春嶽への書状をしたため嘆いている。
(武市はこれらの様子を一切知らず、両者の間にある決定的な隔たりはこの頃から深さを増してゆく)
この事は乾の耳にも入り、また京の土佐勤王党幹部らへ向けて最も早い飛脚で報せが飛ばされる。
2日、大阪道頓堀、井上佐一郎殺害。
実行犯・岡田以蔵・久松喜代馬・岡本次郎・森田金三郎、田内衛吉、平井収二郎、清岡治之助、松山深蔵など
行動を共にしていた岩崎弥太郎が帰藩する。
11日、山内容堂、鮫洲の別邸から鍛冶橋上屋敷へ移る。
15日、山内容堂、将軍徳川家茂に拝謁し今後とも政務についての意見を求められる。
武市、この頃、薩摩藩士田中新兵衛と知り合う。(義兄弟となる程深く親交する)
22日、武市、上洛再開の見通しが付いた最終日として浄瑠璃を見に行っている。
23日、藩主豊範、上洛の為ようやく大阪を発つ。
(容堂による内旨承諾の急報を受けた土佐勤王党が小南の帰京を待たず上洛を急いた為)
24日、伏見着。武市体調を崩すも無理をして移動を続ける。
25日、河原町藩邸着。豊範は妙心寺へと更に移動するが、武市はこれに付いて行けず藩邸で寝込んだ。


閏8月
1日、武市半平太、他藩応接役就任(ただし、7月末から病気中。復帰は閏8月6日頃)
藩医は風邪と言うが良くならないので京一の医者新宮良民の診察を受け「きん(火ヘンに欣)衝脳」と診断。
下剤を用い、更に額に130匹ほどの蛭を乗せて血を吸わせ{毒素排出目的の瀉血か}治療した。
善くなった頃、妻・姉に手紙を書いている。良い羽織を要求するが勘違いされない様丁寧に説明している。
9日、武市半平太、蔵人所衆の村井政礼を訪ね『容堂召喚』『五機内天領化』『勅旨東下』『政権返上』を論し
藩主豊範の名で建白。(大政奉還、王政復古)
激賞され、政札から勤王学者谷森外記へ、谷森から青蓮院宮へ。孝明天皇にまで言上されたとの噂も立った。
しかしこの『藩主の名による』建白書は、土佐精神的指導者である容堂のあずかり知らぬところでの事。
武市、激務。毎日訪う者来る者何人もある様であった。
20日、京三条小橋、本間精一郎殺害。
岡田以蔵、平井収二郎、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、弘瀬健太、田辺豪次郎、田中新兵衛(薩摩)
23日、京松原通り、宇郷重国玄蕃頭殺害
堤松左衛門(熊本)と田中新兵衛(薩摩)
25日、容堂、京から『容堂上洛勅命の兆し有』との報告を受ける。
登城し将軍家が上洛する事などを進言、周旋し、土佐勤王党はその『努力』を知る。



9月
1日、容堂、三条家への使者として寺村左膳を派遣。最速人足で上京する。
1日、京三条河原、目明し文吉殺害。絞殺され全裸
くじ引きで決まった岡田以蔵・清岡治之助・阿部多司馬
4日、朝廷、容堂召喚の勅令を出す。
8日、武市、中山大納言息子(中山忠光)訪問。
和宮降嫁を決めた公武合体派の公家ら(五奸二嬪)天誅の助力を求められる。
必死で止め1日猶予を得る。
※忠光はまだ18歳程の年若い公家。美男子で馬上の姿は役者の様だと民衆を熱狂させたが激情家であった。
8日、京へ急行中の寺村、同じく京から発せられた勅命を持って東下する朝比奈吉郎と出くわす。
9日、三条実美と勅旨東下の相談する際中山忠光についても相談する。三条も止める。
夜お忍びで忠光が現れ、父大納言に計画が露見したとして自刃すると息巻くので
翌日関白近衛にお伺いを立て処置を求めるがこれが立ち行かなければ天誅を下すという事に。
10日、武市ら、久坂玄瑞、田中新兵衛などが一同に座して中山からの便りを待つ。
関白近衛、穏便に済ませようとして中山は天誅に出ると武市らに連絡を出す。
3藩有志にて天誅を行うと関白近衛に連絡が入り、あれこれと疲れた近衛は青蓮院宮に辞表を出そうとする。
10日、寺村、一睡もできず入京。勅使が出た後であるが三条実美に言上。
三条、水面下で進んでいる勅使東下の件につき寺村を京に留めおかせる。
11日、5奸2嬪(岩倉ら)が追放処分を受ける。
16日、武市、久坂ら長州、本田ら薩摩と勅旨攘夷について会談。『三藩和合、議論一定愉快千万』
18日、武市、青蓮院宮に報告し勅使派遣・東下
20日、勅使派遣の使者に三条実美と姉小路公知の両名が決定する。
??日、田中新兵衛、一度薩摩へ戻る
23日、石部宿、京奉行所与力渡辺金三郎、同心森孫六、大河原重蔵、上田助之丞殺害
津和野福羽文三郎、長州久坂玄瑞、久留米松浦八郎、寺島忠三郎、
薩摩村山斉助、井上弥八郎、高崎佐太郎、徳島藩中島永吉、
土佐堀内賢之進、川田乙四郎、千屋菊次郎、松山熊蔵、弘瀬健太、清岡治之助
筒井米吉、小笠原保馬、平井収二郎、千屋虎之助、山本喜三之進、中平保太郎
岡田以蔵
などなど、総勢25名{新兵衛はこの頃帰藩中で京にいないはずで、以蔵の名は当時の日記にはないが
後の以蔵罪状にはこの事件への関与が記されているとのこと。}
23日、武市、小南五郎衛門、三条邸に呼ばれ三条実美と姉小路公知と小宴の中で打ち合わせ。
??日、先日の石部宿殺害に際し、関白近衛より天誅を控えよとの通達。
26日、武市、青蓮居宮から国事周旋の功の労いとして『帝から拝領した菊の花』を下される。
武市、菊の花を有志一同に見せ、土佐へも送る。
28?、寺村左膳急遽江戸へ戻り、朝廷より容堂上洛の猶予、指図次第上京致すべくとの報告をする。
武市、妻富へ手紙を書く。勅使護衛として親族島村衛吉、小笠原保馬の他以蔵も共をすると知らせている。
29日、容堂、上記朝廷からの沙汰について幕府に報告する。


10月
??日、寺村左膳、御用部屋入りに任ぜられる。
4日、土佐藩主豊範、内裏図面の入手を武市に頼む。武市、これを蔵人所の村井政札を頼り入手。
5日、土佐藩主豊範、帝に拝謁。評判よく大成功。武市も感動・大満足。
平井加尾、4年間仕えた三条実美邸を辞す。送別会が行われる。
??日、平井加尾、勅使護衛となった弘瀬健太へ羽織一枚を新調してたむけとした。
9日、京鴨川二条河原、口入れ屋平野重三郎、煎餅屋半兵衛、生き晒し
土佐岡田以蔵、千屋寅之助、五十嵐幾之助、長州寺島忠三郎ら3名
11日、武市、青蓮院宮から餞として繻子の三徳と煙草入れ、扇子、杯が下される。
10日、武市、大納言正親町三条実美から絹糸繍いの三徳と扇子、従三位卿大原重徳から風呂敷が下される。
11日、山内豊範、三条実美ら勅使の露払い(参勤交代兼)として江戸へ出立
12日、勅使三条、副使姉小路、雑掌柳川左門(武市半平太)各人護衛土佐勤王党。江戸へ出立
武市『雑掌』とはいえ「乗り物(大名や家老が乗る立派な篭)」を手配され乗り込んでいる。
13日、長州がこれにつづく。
15日、中岡所属・土佐50人組(総組頭・宮川助五郎)江戸容堂警備のため願捨にて出立する。
中岡、本山の大石宅にて土佐勤王党盟約に署名
17日、乾、山内容堂の御前において寺村道成と時勢について対論に及び、堂々と尊皇攘夷を唱える。
寺村の意見は容堂に感化されており当然容堂と一致する。
乾に関してはそのただ一重に英才振りをかっており、容堂は勅使も東下を始めた状況故あって
この二人の場を設けさせたもののただ楽しんでおり、蘊蓄を垂れる寺村と構わず歯に衣着せぬ物言いで
対峙するのを見てゲラゲラ笑っていたという。ただし、容堂が明確に意見する事は無かった。
??日、容堂勅使幕閣周旋に奔走する。慶喜を「案外の無気力にて」老中らを「豆腐にカスカビ」と酷評。
一橋慶喜将軍後継職辞職の願を提出。
25日、土佐50人組、伏見着。その日の内に入京。
26日、老中ら、一橋慶喜と松平春嶽の登城を許可(回復)させる。
将軍家茂、はしかにかかる。
武市、妻富あての手紙に容堂の尽力について『まことにめでたい』と感激の意を記す。
また「毎日ご馳走、菓子など山のごとし」とも。
28日、勅使一行龍ノ口に到着。{現在の藤沢片瀬あたり}
老中松平豊前守、政治総裁職松平春嶽、品川へ出迎え。
28日、土佐50人組、大津から呼び戻される。
末頃、勅使一行が江戸に入る。


11月
??日、土佐50人組、京へ引き返し青蓮院宮の岡藩不敬対応に加勢する。
容堂→仲介および岡藩救済のために小南五郎衛門を派遣しようとする。
武市→小南五郎衛門に会い上京の不可を解きやめさせている。
2日、土佐50人組中岡、村田忠三郎、河野万寿弥と共に下横目・広田章次を殺害。
4日、土佐50人組、京出立
勅使一行は将軍の体調不良(はしか)により目通りができず、江戸に滞在している。
10日、田内衛吉、今橋権助、檜垣清治ら、小田原にて東洋一派の間者坂本瀬平を殺害。
今橋と檜垣は後から来た土佐50人組へ自首。土佐へ送還される。
13日、武市、久坂から英国公使館焼討の作戦がある事を聞かされるも同意せず、勅使に通報する。
高杉らと土佐藩士広瀬健太ら11名の暴動を知った容堂、小南五郎衛門を長州世子(定広)へ派遣。
定広、鎮撫の為深夜22時頃11人がいる蒲田長州藩梅屋敷へ急行。
更に容堂、武市に命じ龍馬ら軽格15人を従えて同梅屋敷へ派遣。加えて林亀吉ら4名も派遣。
14日、土佐長州、蒲田長州藩梅屋敷事件。
定広により場は収められており駆け付けた土佐藩士らには一行を代表して高杉が中止の始末を述べたが、
酔った周布政之助が容堂の才気と攘夷に関して暴言を吐き状況は一変。高杉が抜き身を放ち
「拙者が抜き打ちにいたす」と言って周布を斬りつけ(る振りをして馬に乗せる様促し逃がし)た。
高杉と久坂が殊更に非礼を謝し周布の首は後日届けるとしてこの場を預かる運びとなる。
容堂へ報告に行くが、勿論容堂も怒りなれど寧ろ藩士たちの方が手を付けられない程憤怒。
藩邸には怒れる土佐藩士らが数百名も詰め掛ける事態となってしまう。
定弘は朝5時頃ようやく梅屋敷を出て8時前に桜田邸へ戻っていたが、そこへ再び小南、乾、本山ら
土佐藩士3人が訪れていた。更に先の4名が訪問し周布との対面を要請。これは北島又兵衛が対応。
土佐藩士7名は定広の御殿に招かれ丁寧な謝辞と今後の処置方針を受け、一同は容堂に報告した。
容堂の怒りは消え、周布の死罪を求めずとして再度小南五郎衛門を派遣し。
小南が出発したのと入れ替わりに定広が容堂父子の許へわびに参り、事件は解決となった。
14日、京三条大橋、村山可寿江生き晒し
土佐中島永吉、小畑孫次郎、河野万寿弥、千屋虎之助、依岡権吉、長州数名
15日、引き続き、村山可寿江息子・多田帯刀殺害
15日、土佐長州、蒲田長州藩梅屋敷事件続き。
15日、江戸梅屋敷事件つづき
定広直々の容堂への謝罪を以て一件落着となったはずであったが、土佐藩士がとにかく怒髪天で収まらず。
容堂から間崎捕縛の内命を受けていた小笠原唯八が『周布と同じ場に居合わせた軽格の者らは
一言の咎め立てもせず』と責め立て、間崎哲馬ら3名が切腹と言う事になった。
別杯をの場となる尾張町寒菊邸に50名が詰めかけその場には龍馬もいたが、
遅れて籠を飛ばして来た武市が駆け付け事情を聞いた。
{小笠原唯八は勤王の志あり乾らと誓い合ったが、乾と同様容堂の信任厚く、表向き容堂に従っていた様だ。
武市らの獄中闘争中23士が挙兵した時も鎮圧に向かわされている。}
武市は容堂に謁見し3名の気概を報告し、容堂が切腹の中止を命じた事で間崎らの犬死は防がれた。
土佐勤王党を良く思わない一派(小笠原ら)の存在が浮き彫りになった。
一方、怒りの収まらぬ同胞らに当惑しきった様子の小南五郎衛門が長州藩邸へ相談にやってきた。
当然長州側も困惑し評議が行われたが、最初に『周布の首を差し出す』と言った高杉久坂両名の責任を
問うべし(二人の首を斬れ)との流れになった。しかしこれは長州側が応じかねるとし、最終的には
松平春嶽から容堂への一言(土佐との仲裁)を願い乞う事態となってしまった。
16日、春嶽から話を聞いた容堂。二人は周布之介の『普段』の人物たる事を承知しておるからこそ不問としたと
合意を示す事によってようやく事態は解決となった。
16日、土佐50人組、江戸に入る。
17日、容堂、春嶽に対し将軍の勅使体面を求める。
??日、春嶽、個人的に三条および姉小路を訪ね酒肴に興じつつ攘夷について少々話す。
??日、武市、富に手紙を書く。「忙しすぎて体が5か6つほど欲しい」
25日、武市、疲労で寝込むも薩摩藩士高崎猪太郎(容堂の信篤い公武合体派)の訪問を受ける。
村井政札が泥酔しきって無断外泊し、主である副使・姉小路公知の許へ帰れなくなっているという。
公知の信篤い武市がその尻ぬぐいをする事になり、まず村井と深い仲である長州に相談へ向かうが
長州側(久坂)の態度は冷たく取り合ってもらえなかった。
その後の詳細は残されていないが村井が無事に主の許へ帰った事をみれば、恐らく武市が最期まで
面倒を見てやったのだろうとの事。
武市とは懇意であった長州久坂らが冷たかった理由としては、村井が共に飲んでいた薩摩藩士との折り合いが
良くなかった事。まっすぐ尊王路線の長州と、公武合体派である薩摩の間にはこの頃溝が出来つつあった。
また、先日の公使館焼討に賛同しなかった武市への感情が反映しているとも考えられた。
27日、勅使、江戸城入城。勅書伝達の式。
29日、三条及び姉小路が慶喜を招いて宴を興じる。この時慶喜は「2万の兵を用いて大阪湾を警衛する」と
言ったらしく、その事を翌日聞いた容堂は軽率すぎると批判する。


12月
1日、山内豊範、毛利喜久姫(毛利敬親の養女)との婚礼におよぶ
4日、武市半平太、勅使ら共に饗宴へ出席するため江戸城に上り、将軍御目見となる。
5日、松平春嶽、間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎らの目通りを許し大阪湾海防策などを語り勝海舟を紹介。
5日、容堂、間崎哲馬、広瀬健太に帰藩を命じ関東と京の上京、容堂の苦心振りを伝えよとの事。
同時に京へも立ち寄り青蓮院宮など公家要人に関東での見聞を伝えよとの事。
※江戸の土佐勤王党参謀を務めていた間崎哲馬は蒸気船の購入や航海術の取得を唱える
和魂洋才的な肌合いを持ち、その思想は容堂にも近しかった。
藩主・勅使一行に先立ち江戸を出立。
6日、朝、武市、松平春嶽に謁見。
6日、山内豊範、勅使らの京都出立に先駆け江戸を出立
7日、京都薩摩による政権転覆を回避するため勅使一行急ぎ江戸出立。
中岡、所●太郎、島村寿太郎、山本三治らと勅使一行を品川まで奉送。
8日、長州世子江戸を出立。
13日、間崎ら京土佐勤王党参謀の平井収二郎による攘夷派公家衆への斡旋を受ける。
17日、間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太、青蓮院宮や三条大納言と密談。
青蓮院宮より土佐の『少将様』こと隠居山内豊資への言上もとい藩風振興のため令旨を得、翌日土佐へ出立。
19日、中岡、久坂玄瑞と水戸松代に入る。水戸藩士岩間金平ら3名と会う。
28日、中岡、容堂内命により佐久間象山に遭う。
22日、平井収二郎、大津まで武市を迎え出る。
23日、武市、京着。
25日、武市、京土佐藩邸にて留守居組(上士)昇進の御意と小目付探索の役向きを申し渡される。
??日、長州御用商人白石正一郎、田中新兵衛の周旋にて武市半平太を見に京蹴上{現東山区小物座町}へ出向く。
26日、容堂、上洛の勅命を受ける。
??日、吉村虎太郎、赦されて獄を出る。
年末頃、内蔵太、容堂から大阪・江戸の視察を命じられる。しかしこれを機に脱藩、長州に合流。



文久3年(1863年)

1月
1日、武市、収二郎ら数名とうららかな正月を過ごす。絵筆をとり、収二郎らは詩歌にふけった。
1日、容堂、上洛を決める。江戸入りした薩摩の大久保一蔵と面会し「土佐の暴徒を鎮めてほしい」と直訴される。
「朝廷から何を言われても自分が一存で決める事はない。必ず幕府、薩摩、松平春嶽らに相談をする。
だが土佐の暴徒については、自分が入京すれば必ず鎮める事ができるだろう」と返している。
容堂、乾に対し武市ら勤王派の処遇について尋ねる。(血判勤王党の事は知らない)
「(50人衆を以て)彼らと戦って死ぬか、恥を捨てて従うかのどちらかです。
私は死んでみようと思っております」
??日、武市、三条と姉小路に面会し『死を決して青蓮院宮をいさめる』とした。薩摩と長州の水面下での対立が
昨年夏頃より深刻を増しており、本来公武合体派で両藩の間に移り気な言動をとる青蓮院宮へ向けての事であった。
青蓮院宮は『山にこもる』と言って恨みつらみを述べ、武市はこれを必死に思いとどまらせた。
??日、吉村虎太郎、血盟同志である島本審次郎と共に土佐にて資金工作を行う。
吾川群森山村{現代・春野町}で塾を経営している血盟同志・武政左喜馬宅へ向かい、
武市と島村寿之助がこれらの金を入用であると彼ら名を挙げ、更には「上への忠」と言って
刺しそうな勢いでおどし、100両を出させている。
武政が100両揃えるとこれを、青蓮院宮令旨を以て政治工作に励んでいた間崎哲馬の所へ持っていけと
言って吉村は去っていった。
しかし武政は『入用』だと言われた島村寿之助のところへ100両を持っていく。
心当たりのない島村は「要らぬ金があるのなら窮民へやれ」と言って受け取らぬので、間崎の所へ持っていく。
間崎はマズいと思ったのか、知らぬ振りをして島村が受け取る様にと書簡を持たせた。
再度島村の所へ行くがやはり受け取らない。もう一度間崎の所へ戻ると『よきようにする』と言うので預けた。
しかし納得がいかない武政は、まだ会った事のない武市と会い天下の情勢を知る為に京へ出る事にした。
4日、武市、門崎哲馬らの藩風振興を支援する為土佐へ出立。姉小路公知から送別の一首が贈られる。
8日、武市、土佐着
9日、中岡、入京
10日、容堂、乾ら、福岡藩から蒸気船大鵬丸を借用し江戸出立
15日、容堂、勝海舟に龍馬脱藩罪方面について内諾をあたえる。
22日、容堂、大阪にて三か条の布告をなし土佐勤王党の動きを牽制する。
22日、容堂に招かれた帰りの儒学者池内大学、殺害。
岡田以蔵?他、計4名
容堂は土佐勤王派軽格らの関与有と見て激怒した。
24日、池内大学の耳が脅迫文と共に三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれ辞職を招く。
24日、容堂、伏見に入る。平井収二郎が出迎え京の情勢を伝えると共に新兵設置を解くなど無礼な言動にでた。
??日、岡田以蔵、脱藩。江戸へ向かう。
25日、容堂、京大仏の智積院に入る。
武市、土佐から京に戻る。
武市、高熱が出て2月始めまで伏せる。
28日、土佐藩主豊範、土佐へ帰藩。
容堂、在京中の軽格15名程を呼びつけて大叱りする。
「本来の職分を忘れ出過ぎた議論をする事は罷りならぬ」
平井、容堂の言いつけを無視して姉小路に拝謁してピストルを贈る。
28日、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇殺害。
伊舟城源一郎(姫路藩)ら数名
自宅に押し入られ二階へ逃げた賀川であったが、幼い子供が捕らえられ詰問されているのを見て
自ら下り、首をはねられた。
29日、平井、関白鷹司に拝謁して国事を議する。
容堂、ついにキレて酒の勢いに任せ罵り叱り飛ばす。
31日、28日殺害された賀川肇の首が慶喜のいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。


2月
??日、岡田以蔵、江戸にて高杉晋作を訪ね居候となる。
1日、平井収二郎、他藩応接役を免ぜられる。
5日、武市、密事用を命じられる
4日、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を土佐へ派遣し藩主豊範と帰藩した軽格達の再入京を禁止
7日、中岡、臨時徒目付兼用心格に任ぜられる。(容堂帰藩の際まで)
しかし中岡はこの人事に際し「決して門閥の波に飲まれぬ」と同志に語り、
吉村虎太郎などは「有志の止笑する所」と言い、褒められる事ではないと酷評する。
7日、土佐藩志士ら(?)、京都唐橋村里正惣助を殺害し山内容堂が滞在する京都河原町藩邸にその首を投じる
春嶽への書状にて「酒の肴にもならず」と強弁する。
8日、春嶽、容堂をなぐさめつつ京にて暗躍する土佐勤王党の存在がある事を伝える。容堂は知らなかった。
8日、上岡胆治、武市半平太・松山深蔵らと協議のうえ大坂の鴻池善右衛門から活動資金の強談を計画
9日、公家中山忠光、またも暴れはじめる。
新しく関白となった鷹司輔熙の所へ行き人材抜擢、言論洞開、攘夷期限などを迫る。
鷹司は取り合わなかったので前関白の近衛に迫るが全くもってやる気が無く、なればと青蓮院宮の所へ行くと
仮病を使われ『迷うから人に会わない』と言われる。『ならば国事に関する相談はもうしない』と言いつけて
その場を去った忠光は長州久坂のもとに押し掛け、公家衆への見せしめとして奸物岩倉具視を討つと言い出した。
久坂、寺島、肥後轟木は制止を聞かぬ忠光に「自分達が斬りに行く」としつつも武市に相談すべきとして猶予を得る。
10日、肥後轟木が武市のもとへ駆け付け、攘夷期限確定のための策を久坂玄瑞らに授ける。
(斬奸計画を断念させ関白鷹司の所へ出向き断食の上要求を訴え続けて居座るとする断食ストライキ)
11日、久坂達3名は関白へ上書を提出しストライキを決行するも関白は動こうとしなかった。
姉小路が先日来朝廷改革の為に集めていた要人公家衆(三条ら尊王攘夷急進派)12名の血判所を以て
3名を後押しする為に現れ、押された関白はそのままで参内し天皇に拝謁した。
天皇は直奏を受け入れ、即座に攘夷期限を回答せよとの勅令を、在京中の一橋慶喜・松平春嶽へと放った。
東本願寺に三条実美ら5名がおもむき、既に江戸を発出している予定の立っている将軍家茂の在京期間や
その後の応接期間そして攘夷仮予定日まで定めるに至る。
12日、容堂、武市を呼び出したか、武市『一命を捨てて』容堂の前へ出る。
これを受け、活動を禁じられる収二郎の所に同志が集まった。
容堂は先の攘夷期限問題に加え、土佐勤王党血盟の仔細についても話を持ち出した。
14日、再上京した間崎哲馬が容堂の前へ出、諫言を試みる。
容堂、武市に『尽力の礼』として「半平太は酒がきらい菓子がすきか」と菓子一箱を贈る。
武市、富に『身にあまり難有事』と手紙を書く。
{近日にあった人事や大叱があった事もうけ武市が何も『空気』を感じていないとは考えにくい}
{菓子=下士かとの話もあり}
15日、二条城にて激派志士取り締まりの協議が行われる。
強硬派の慶喜・春嶽に対し容堂と容保はある程度尊攘志士を支持している。
しかしその思惑、考え方における武市らとの溝は明らかであった。
16日、慶喜、春嶽、容保、容堂が連名で攘夷期限の奏聞
18日、帝、諸大名を内裏に呼び出して勅書を下す。
容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議をすべて欠席。
また、この頃土佐上士の中には武市刺殺の動きもあるという。
22日、京、足利三代木像梟首事件
吉村虎太郎、藩から自費遊学の許可を得て京に入る。長州入江九一らに合流。
??日、池内蔵太、この頃平井収二郎を訪ね、その部屋に飾られている胴掛けの裏に一筆したためている。
25日、間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁。両名が意見を述べようとする機を衒って容堂は昨年末頃に間崎が
藩風振興のため青蓮院宮から令旨を得た事に言及。
極秘の活動だった事が、以前から容堂の信任人厚かった薩摩の高崎猪太郎あたりが密告していた。
その日容堂は、病で連日幕議を休んでいる盟友伊達宗城に『苦心これ有り身体困窮』と相談した。
一方間崎、すでに処罰を受けている収二郎と連盟で自白書を提出する事となる。
これを取り決めた際、上岡胆治の他事態を心配し駆け付けた久坂や轟木、その中心には武市もいた。
26日、間崎哲馬、平井収二郎、連名で自白書を提出。令旨問題に関わった弘瀬健太も提出した。
上岡、急遽土佐へ帰藩。令旨露見とその背後に薩摩高崎がチラついている事を同胞へ知らせる為。
「薩の三士の事に依って盟書を早く京へ取り帰る」との目的もあった。
薩の三士とは、東洋暗殺に関わった後薩摩に匿われた那須、大石、安岡の事である。
武市、島村衛吉宛ての手紙を急ぎしたため上岡に託す。
??日、千葉重太郎、越前藩邸に入り龍馬の扶助に言及する。
「龍馬との対面をのぞむ容堂の邪魔を武市がしている可能性がある。」
龍馬と武市はその思想を異としており、ねたみから妨害しているのかも知れないとの事。
しかしそれは誤解であり、武市の状況については翌日明らかとなった。
むしろ武市は薩摩から妬まれ始めていた。
薩摩の本田弥右衛門や藤井良節らはしきりに土佐と組みたがったが、それでは長州への筋が通らぬとして
武市は至誠をもって二藩の間にあった。しかし思い通りにならぬと見切った薩摩は「長土之暴論」として
讒言を繰り返した。その標的こそ武市であり平井、久坂玄瑞なのであった。
29日、武市、「死を以て争うより他これ無く」「死すべき時来たり申候」とするも、
佐川の国老深尾鼎に一縷の望みをかけているという手紙を書く。{追加の島村衛吉宛て?}
??日、吉村虎太郎に100両渡した武政、上京し武市と対面する。その人物の素晴らしさを見て内弟子を願い出、
武市はこれを承知し少しの間共に過ごした。


3月
??日、江戸高杉が京へ行く事になると、以蔵もこれに追従。
??日、岡田以蔵、高杉のもとを離れ勝海舟の護衛を務める。
??日、元侍従中山忠光、吉村虎太郎らの手引きで出奔。長州へ入る。官位返上。
1日、上岡胆治、土佐帰藩。武市からの手紙を島村衛吉へ渡す。
4日、将軍家茂上洛(家光以来229年ぶり)
6日、坂本龍馬・安岡金馬、藩庁から航海術修行を命じられる
11日、孝明天皇、徳川家茂、賀茂社攘夷祈願
13日、容堂、朝廷と幕府に対し土佐湾岸防備と土佐藩主がまだ若い事を理由に帰国願いを出す。
(朝廷から上洛命令があったものの、朝廷からはなんの相談もない)
15日、容堂、武市半平太を京都留守居加役に大抜擢。(江戸留守居役と並ぶ出世機関のトップで馬廻り以上)
帰藩にあたり朝廷への対面上武市の功労にむくいて破格の昇任をおこなう一方
その立場からくる制約によって行動を防ごうとした。
19日、以蔵が高杉から借り受けた8両を勤王党員の千屋菊次郎が返済。
23日、武市、出来る限りの誠を示した方が得策と踏み、土佐勤王党の血判状を容堂にしめす。
容堂「これを人が見れば良くないから焼却した方がよい。これを見た時徒党組みしとその至誠至忠の
心はみず、ただその皮膚を見て非難する。せっかくの忠情が無になるやもしれんでの」
この容堂の様子から「霧が晴れた」と言い、妻富へ「そなたもこちらへ来てはいかがか」とまで書く。
27日、容堂配下土佐藩士、青蓮院宮に拝謁する。間崎らへの令旨問題について話題になると
「三士に迫られた為やむをえず一封を与えた」と言った。
26日、容堂、乾ら帰藩する。(騎馬にて帰藩)中岡、寺村も同行か。
28日、間崎哲馬が捕らえられ、帰国命令の出た平井と共に土佐へ強制送還。
??日、岡田以蔵、襲撃された勝海舟を救う。


4月
1日、騎馬で進む容堂らに早飛脚が追い付く。容堂とすれ違いで京に出た武市の望み・深尾鼎から。
新兵提供が決定したが朝廷は特に武市を正義忠直の抜きん出た志士として同輩共々差し出せと言う上に
期限まで設定されている。との件についての伺いであった。
容堂は土佐守と決めねばならぬとして持ち帰った。
4日、武市、容堂を追いかけて京を発つ。(武政も同行している)
容堂の実弟山内兵之助豊積が警備の身で少しも国事に携わらない事と
かねてからの薩長融和に関する事について容堂に伺いを立てる為。
8日、容堂一行が伊予国との国境に差し掛かったあたりで、今度は武市が追い付いて来た。
容堂は武市の話をつぶさに聞いたが国許での協議が必要等と言って武市を返さなかった。
武市、容堂との対決を覚悟する。
11日、平井、実家帰着。ささやかな宴も一時の気休めでしかなかった。
20日、徳川家茂、奉答。攘夷期限を5月10日へと延期。
23日、容堂、大目付小南五郎衛門、国老深尾鼎の奉行職を解任。
??日、容堂、大目付平井善之丞らに吉田東洋殺害問題の解決を急ぐ様命ずるが、その事件の背景には
容堂の実弟山内民部らがいる事をにおわせる事でうやむやにしようとした。
結果、大目付平井、その同志大目付山川左一右衛門が解任される。
??日、武政、話のついでに、吉村虎太郎と間崎哲馬にたばかられ100両差し出した事を武市に話す。
話の流れを聞くが到底武市に覚えのない事で、武政も武市の人となりを知ってその様な無心をする
人物ではないと思ったが故の話であった。
詐欺まがいの不義は到底許される事ではなく追求すると言う武市に対し、表沙汰にしたくなかった
武政は追及を望まなかった。
26日、乾退助、側用役を解かれる。
小南五郎右衛門、渡辺弥久馬、乾退助罷免
27日、深尾鼎罷免


5月
2日、平井善之丞罷免
??日、中岡、失脚した乾退助を訪ね腹を割って話をし、勤王のもと共闘する事を誓う。
10日、攘夷期限。長州藩だけが、下関を通過する外国船へ砲撃を行った。
内蔵太、遊撃隊参謀として下関攘夷砲撃に参加。
しかし連日、外国からの報復攻撃を受け長州砲台は壊滅状態となる。
20日、姉小路公知、殺害。田中新兵衛が捉えられ、無言のまま自害する。
23日、土佐藩主豊範、諭告を発する。「上下一致、人心協和」「朋党相立激発之弊これ無き様」
明らかに土佐勤王党を指しているものであり、脱藩した者への非難も集中した。
※基本的に藩主豊範は容堂の傀儡である為、彼からの命や沙汰の背後には容堂がいる。
23日、平井収二郎、出頭命令。体調が思わしくない、と引きこもる。
24日、平井収二郎、強引に出頭させられる。
別問題で既に逮捕されていた間崎哲馬、そして平井収二郎、弘瀬健太が入牢となる。


6月
2日、小笠原唯八罷免
3日、武市、容堂に建言を行う。
「尊王論者を組や何かでくくろうとするのは誤っている。
天朝が薄氷を踏むとき傍観するばかりで君臣の大義などいえるのか。
国境の番所へ足軽を置いて警備を厳重にしたのは何故なのか。
上が下を疑えば下も上を疑う。脱藩者4,5人の為に全体を疑う様な事は国全ての乱れとなる。」
他、老中から奉行職を選出する考えや、かねてよりの薩長問題についての結論も求めた。
方針が決まり次第上京のところがこの様に見通しもつかず遅延、薩摩の笑いものになっていると。
容堂は表向き聞き入れた形をみせ、武市は平井家などにその報告文を送っている。
しかし容堂はその信念・行動を変えようとはしなかった。
5日、長州藩士大和弥八郎ら3名が『周布政之助問題の後始末』の為に藩境の立川番所に着くが、
入関手続きが厳しくなり通過できなかったので武市が入国の面倒を見た。
彼らの用事はすぐに終わったが、先の攘夷実行などの報告をしたかったのが武市に会いたがるも叶わず。
7日、武市、容堂に謁見し再度間崎ら三士の忠義を言上、助命嘆願を行う。{容堂、またも上辺だけの対応か}
容堂、土佐藩主、奉行職列席の会所において三士の死罪を確定させる。
8日、間崎哲馬、弘瀬健太、平井収二郎切腹
『格別の計らい』を以て、獄中での『切腹』とのこと。
弘瀬は最も豪胆な切腹をしてみせたが、したためた遺言状は字が千々に乱れていた。
間崎は二歳の娘を最期まで案じていた。切腹の時になっても気が定まらず、介錯人を務めた従兄弟の
間崎琢一郎がやむなくその首を落として殺した。琢一郎はその時のショックで晩年まで顔に痙攣の跡が残った。
平井は打ち首覚悟の所が切腹となったので何度でも呪ってやろうという気も失せたという恨み節を遺した。
爪で書いた『嗚呼悲哉兮綱常不張』の絶命詩も残している。
加尾ら遺族は墓碑にこれを刻んだが藩庁の嫌疑を受け、やむなくその碑を倒し文字を削った。
それだけでなく、武市が生前平井の為に容堂へ嘆願を申し出た際に平井家へ送った報告文書も引き破った。
{乾は間崎哲馬と『好誼』の間柄で、勤王党が立ち上がった頃から内密に機密文書を送る程情報交換も行っていた。
容堂が退京間際まで土佐勤王党の存在を知らなかった事から、乾が間崎から得た情報を漏らしていたとは考えにくい。
間崎は乾の事は一言も漏らさなかったし乾もまた最後までその事は漏らさなかった。
また、情報を得ていたとはいえ乾が土佐勤王党と行動を全く同一にする、という事もなかった。
容堂上洛前に武市らへの対処について容堂から質問された時も、勤王党に沿う様な答えはしていない}
??日、長州藩士が再び国境関所にやってきて武市半平太らに手紙を出し入国を希望するが叶わず。
16日、内蔵太、吉村ら、山口で藩主父子に謁見し挙兵上京を願い出る。
しかし外国砲撃の為に壊滅していた長州に余裕はなく、500人程の派遣を約束して終わる。
久坂、高杉らと連絡、斡旋する。
19日、土佐藩士安岡実之丞が、関所に来る長州藩士らの話を聞く。
武市、人伝いにこれを聞き思案を巡らせ手を打とうとするが何一つままならなかった。


7月
2日、内蔵太ら京(長州藩邸)へ入る。
下旬頃、長州藩士ら、何度か関所まで訪ねてくるも武市は会う事も策を成す事もできなかった。
??日、中岡ら勤王派土佐藩士、武市を脱藩させようとするも受け入れられず。
29日、武市、容堂に直諫の目通りを行う。
幕府、朝廷、どちらも取り持つ容堂の姿勢は変わらない。討論は5時間にもおよんだが
「将軍がいよいよ違勅の言動をとる時は自分自らがその首を討つ覚悟じゃ」と容堂が言って締めとなった。
この言葉は武市を感動させた{が、容堂にその気など微塵もなかったはずである。}


8月
6日、武市、容堂から呼び出しを受け謁見。4時間に及ぶ対談を行っている。
争いにはなっていないし容堂は温和そのもの。人材挙用については近々の着手を約束した。
更に容堂は、脱藩した吉村虎太郎らの召し捕り方針まで打ち明け、
武市を信用しているかの様に振舞っていた。
13日、三条実美ら、孝明天皇の大和行幸の詔を発する。
14日、天誅組の変。総裁・吉村虎太郎、側用人・池内蔵太ら、元侍従中山忠光を擁し挙兵。
この日京を発し大阪、堺、河内を経て大和へ向かう。
17日、天誅組、五条代官所を襲い代官鈴木源内以下5名を殺害。
内蔵太、天誅組幹部・使者として紀州藩へ向かう。
18日、天誅組、中山忠光を主将とし、近隣の村役人を集めて年貢の半減を布告。
村人に苗字帯刀扶持給与を唱えて参加を募る。
18日、818の政変。京は雨。未明に青蓮院宮が突如参内、前関白近衛忠熙、京都守護職松平容保も続く。
皇居の門はすでに会津・薩摩で固められ、関白鷹司以下召命のない者は参内できない。
率兵参内の命令が在京諸大名へ発せられると、土佐の山内兵之助は真っ先に馳せ参じた。
天誅組ら過激派によって計画されていた孝明天皇による大和行幸は無期延期され、急進派公家及び長州は
なすすべなく都落ちとなった。
三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉。七卿落ち。
??日、内蔵太、天誅組周旋の為紀州へ向かっていたが政変を聞き引き返す。
??日、乾、正義派として勤王思想の上士50人程をまとめ活動し始める。
??日、武市のもとにもこの情報が入る。島村寿之助などは青蓮院宮と薩摩の共謀だ、
土佐で「警備ばかりで国事に関わろうとしなかった」「山内兵之助は薩摩に誑かされた」などと恨み、
過激な発言をする者達を武市はかろうじて制するくらいしかできずにいた。
同志が切に勧める脱藩などはもってのほかで、武市は京へ戻る尽力は続けたが脱藩は考えもしなかった。
??日、京で武市の帰りを待っていた勤王派らは武市の一刻も早い帰京を望む
26日、内蔵太ら天誅組、(烏合の衆)1000人で高取城を攻撃するが敗退。
会津が放った追討兵との戦闘を繰り返しながら十津川郷へ。
吉村虎太郎、決死隊を募り夜襲に出る。味方の誤射を受けて重症となり、撤退。
??日、長州へ下る七卿、道中檄文を飛ばし、諸国の有志に対し長州への非常参集を求める。
四国方面への使者として宮部鼎蔵が放たれたが、土佐への入国はできなかった。


9月
??日、中岡、乾に脱藩を示唆する手紙を送る。
「身が持たぬ為脱藩するが後になって私の赤心が明らかになる事もあるでしょう」
5日、中岡、柏木村を出て城下へ赴く。その後、土佐を出る。
??日、孝明天皇、中山忠光を逆賊とする詔を発する。
16日、内蔵太ら天誅組、十津川郷の離反にあって総崩れ、退却。
吉野山中鷲家口において紀州藩、彦根藩兵と戦闘。敗走。
18日、東久世通禧の書状「宮部鼎蔵四国より帰着、阿州(阿波・徳島)返答持参、土州関門厳備通行に能わず」
19日、中岡、長州三田尻着。
20日、中岡、七卿に拝謁。同志に土佐国情を報じる。
21日、武市半平太投獄
武市はこの日朝早くから書類の始末や整理を行っていた。平常の態度ではない武市に不安を覚えた富は
何かあったのではないか、差し支えなければ自身の安心の為に話してほしいと打ち明ける。
武市は近いうち上り屋へ仰せ付けられるかもしれぬ。そうなったとしても武市半平太の妻として
未練な振舞をして良人の顔を汚してはならぬぞと優しく言って、隣の島村家へと向かった。
その後ぞろりと6人、7人ほどの目付役人が現れ、どれも剣槍の師範で高弟と呼ばれる者達だった。
中に一人、遠縁の者が加わっていた。朝9時の事であった。
富は隣実家へ武市を呼びに行き、急ぎ帰ってくると彼は役人たちを座敷に上げて襖を締めてしまった。
富と、武市の姉奈美がはらはらしながら聞き耳を立てると、奥からは千葉だの桃井だのと剣客の名が聞こえ
時々笑い声さえ起こり、富たちはますます困惑した。
昼になり膳を持っていくと武市の分も持ってこいと言う。既に家人との接触を禁じていた。
昼過ぎ、やっと引き上げとなったが武市は大小の刀すら取りに来ず役人が刀を持って行ってしまった。
朝の武市の言いつけをじっと守って張り裂けそうな胸を押さえ耐え忍んでいた所、情深い役人の一人が
遠くからの見送りを許可し、富は遠くから籠に乗り出かけていくその後ろ姿を見た。
それが一生の別れであり、その後奥の部屋へ行くと先ほどまで武市が用いていた煙草入れや煙管が
そのまま其所にあったのを見、富と姉奈美は我慢ならなくなり亡き伏せた。{富}
同日、河野万寿弥、小畑孫次郎、小畑孫三郎、島村衛吉が投獄。
島村寿之助、安岡覚之助は親類預け、上士小南五郎衛門は勤事控えの処分を受ける。
佐川では、武市が『頼みの綱』としていた国老深尾鼎が突如掌を返し、勤王党に参加していた部下9名を拘束。
※以下武市の獄中様子については(創作上殆ど必要なかった為)ちょくちょく割愛とする※
蛍とか絵描いてクレクレとかクソ虫といった獄中闘争とは少し違うハプニング的なのもあるんだけど…。
また、基本的に牢番を見極め獄中闘争における協力を得ており、獄内外同志への通信の他
12月以降よりは留守宅の妻富・姉奈美などとの通信も頻繁に行っている。
妻富・姉などへの手紙には親しみと愛情、そして労りの精神が常に込められていた。
妻富は武市投獄以来毎日欠かさず三食の食事を届け、指示があれば各種小道具や着物なども用意し、
武市によくしてくれる牢番が来た際には酒など出して労ったりした。
自らも蚊よけの蚊帳を外したり板間に寝たりしたが、武市の姉が心配して『その心は嬉しいが
体調を崩してやるべきことを欠いてしまうより、毎日三度の食事を大事にした方がよいのでは』と
言われ、まさに目から鱗といった面持ちで考えを切り替え、留守宅からの世話に全力をつぎ込む事にした。
21日、乾、容堂の側用人に再度就任。
21日、中岡、七卿に拝謁し和歌をたまう。三田尻を出る。
土佐では中岡にも出頭要請が出される。
22日、藩主豊範が上士一同を集め『投獄は京師の御沙汰によるもの』とうそぶき軽ければ赦すと述べる。
23日、白札以下下士にも同様に伝える。
以降、脱藩者相次ぐ。
24日、天誅組、鷲家口付近にて紀州彦根に包囲されるも那須らが決死隊となって血路を開く戦いに出る。戦死。
重症のため籠にて遅れて移動していた吉村虎太郎、恐れた人夫が籠を置いて逃げ出した為鷲家口付近に潜伏。
27日、吉村虎太郎、鷲家口はずれの炭小屋で潜伏していた所を見つかり、自刃する前に射殺。
吉村を守っていた幹部らも次々に敗走、戦死。


10月
??日、七卿→六卿ら、長州山口に入る。三条実美が湯田温泉、残りの5卿は氷上真光院。
(一人、主水正沢宣嘉という公家は10月2日に但馬国生野挙兵に参加する為脱走した)
また、長州には脱藩浪士達の総本部の様な性質を備えた会議所を設けており、招賢閣と呼ばれた。
そこに事務総括として土佐脱藩佐々木男也と佐世八十郎を置く。
更に、当会議所の万事取り締まりと六卿への任意随従ができる人々として『会議員』を選出。
久留米脱藩真木和泉、肥後脱藩宮部鼎蔵、驫木武兵衛、山田十郎、土佐脱藩土方楠左衛門
久留米脱藩水野丹波、越前脱藩中村円太ら人望に厚い者達が任命されていた。
上旬頃、尚も土佐郷士の脱藩相次ぐ。
??日、池内蔵太、他天誅組生き残り6名。中山忠光を守り抜いて大阪長州藩邸へ駆け込む。
夜通し幕府軍の包囲網を山中掻い潜り続けた。
長州、忠光の身柄を支藩である長府藩下関にて匿う事にした。内蔵太もこれに随行する
??日、乾、要職に復帰(深尾丹波組・御馬廻組頭)
19日、中岡、三田尻に入る。
25日、中岡、(土佐脱)田所壮輔、招賢閣の会議員となる。
この頃の六卿達は剣術や馬術の訓練、遠乗りという公家らしからぬ事を始めていた。
また、会議員から共を連れ立って、住処とする湯田や氷上から三田尻までなどを馬で行く。
随従した会議員らはその前後を警戒して警備し、時に公家から声がかかって詩や話に花を咲かせ
共に酒を飲んだりもした。そんな日々を送っていたという。


11月
6日、中岡、南会所の牢番となった依岡権吉を通して獄中の武市へ密書をおくる。(薩摩などの情勢)
12日、武市実弟田内衛吉、今橋権助、檜垣清治、逮捕・投獄。
??日、師徳永達助、寛大の処置を願い出る。


12月
20日、武市、妻姉へ初めて獄信を発する。覚悟を要請。
31日、富、中番の厚意を受け、男に変装し獄舎へ忍び込む事を考える。
しかし『半平太の妻、武士の妻』として夫はどう受け取るだろうかと考え泣く泣く諦めた。
これを手紙で聞いた武市は「よく来なかった。(それでよい)」と返し、富はこの上なく嬉しく思った。


年表後半・文久4年(元治元年)~