―表紙― 登場人物 物語 絵画


各種年表・資料等
土佐年表前半:安政6年~文久3年
/ 土佐年表後半:文久4年~明治2年

土佐関係年表:後半
文久4年~明治2年

武市・乾・内蔵太・中岡、寺村、以蔵等。
精度にムラあり

※最終更新2021.11.06
※創作ネタは含まず

文久4年=元治元年(1864年)

1月
??日、後藤象二郎、福岡藤次、由比猪内ら『新おこぜ組』が藩庁内に復帰し始める。
9日、中岡、京へ向かう。
??日、京長州藩邸にて高杉晋作に会う。島津久光の暗殺を協議するも未遂で終わる。


2月
??日、岡田以蔵、京商家へ押し借り奉行所に捕らわれる。
20日~元治~へ年号改元


3月
??日、武市、あまりに青白くやせ細っている自分の顔を見てこの世の人間とは思えぬと手紙に書く。


4月
??日、後藤象二郎、開国派・吉田東洋遺策である『開成館』の建設・長崎貿易・洋式汽船購入を
内容とする意見書を容堂へ提出。これがすすめられ、吉田東洋による改革の継承・発展を期した。
20日、中岡、大阪を発つ。


5月
19日、土佐監察府、南会所獄舎の増築が完了
23日、土佐勤王党への尋問始まる。一番、島村衛吉。
26日、武市、尋問。
27日、中岡、長州へ戻る。
28日、中岡、湯田の三条実美に京情を報告。
??日、岡田以蔵、焼印・入墨の上京洛追放処分となり、同時に土佐藩士に捕縛される。

6月
5日、池田屋事件
7日、中岡、三田尻を発って京へ向かう。
10日、京、明保野亭事件
13日、門田為之助以下28士、寛典を請願
14日、岡田以蔵、入獄
来て早々、牢番らに長州がどうとか吉村虎太郎がどうかと大声で話している。
16日、内蔵太、長州にて脱藩浪士による『忠勇隊』に参加
21日、内蔵太『忠勇隊』、大阪着。天王山に本営を置く。
??日、寺村左膳、容堂側用人役を罷免。

7月
1日、中岡、天龍寺より天王山の陣を訪う。翌日天龍寺に戻る。
9日、後藤象二郎、小笠原唯八、大目付・外輪物頭 就任。
??日、武市、長州戦争(四カ国艦隊砲撃)が起こりそうだという噂を聞く。
14日、15日、武市、獄中自画像を描く
『花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可耻 只有赤心明瑞山』
花は香によって愛せられ人は仁を以て栄ゆ幽囚何を恥ずべけんや只赤心の明らかなるあり
自画像について「ちと男ぶりがよくなりすぎて一人おかしくなってしまった」と手紙に書く。
19日、禁門の変
内蔵太、忠勇隊として参戦
中岡、『国司隊』として参戦
『忠勇隊』土佐脱藩31名の内、那須俊平・尾崎幸之進・柳井健次・上岡胆治
中平龍之助・伊藤甲之助・松山深蔵・能勢達太郎・安東真之助・千屋菊次郎ら、戦死。
24日、乾、町奉行に就任。
27日、土佐、清岡道之助ら野根山23士、土佐勤王党のために決起。小笠原唯八が鎮圧にあたる。
???、中浜万次郎、薩摩藩で開設される『開成所』の英語教授となる。



8月
5日、長州忠勇隊、再編成。隊長・中岡、第三伍長・池内蔵太(細川左馬之助)
下関戦争・四国艦隊下関砲撃事件勃発
9日、忠勇隊、長府へ出陣するも既に講和協議に入っていた為、撤収。
??日、以蔵、拷問により即自白する。井上佐一郎殺害、本間精一郎殺害。
11日、以蔵の拷問により久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎、森田金三郎ら井上佐一郎殺害犯投獄。
11日、乾、大監察(大目付)を兼任。
「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」
11日、忠勇隊、三田尻に入る。
13日、土佐への使者、中村恭太郎と会う
??日、以蔵、更に自白する。小田原での坂本瀬平殺害。
??日、久松、村田、岡本ら、自白する。井上佐一郎殺害。
20日、容堂、長州よりの使者中村恭太郎の入国を不許可。
22日、山内豊範、妻である毛利喜久姫を離縁し城外へ移す。
23日、武市、獄外島村寿之助宛ての手紙に岡田以蔵の『始末』について相談する。
??日、乾、『屏風囲い』にて武市を尋問。
冒頭で『疝気』を見舞う。武市、この頃から腹痛{腹部のガンか}に見舞われている。


9月
5日、決起した野根山23士、斬首
11日、乾、後藤、武市尋問。東洋暗殺、盟、井上暗殺、本間暗殺等について。
質問は殆ど退助が行い、後藤は盟の事に少し口出ししたが殆どじっと観察。
この尋問を期に、武市は『下へ落とされる(格下げされて拷問適応とされる)』事を覚悟する。
20日、武市、山内民部へ大隠居山内豊資への周旋を依頼する。
??日、武市、山内民部から返事が来る。容堂に阻まれ努力実らず、武市へ一詩を贈る事しかできなかった。
24日、武市、毒薬を入手する。弟田内衛吉への毒薬の差し入れを依頼。獄外参謀島村寿之介は武市の服毒に
異を唱え士節を全うし『拷に死すべし』と言う。それは『拷問』というものを考えればいかに難しい事か、
毎日死ぬ間際の色んな拷問を繰り返されれば舌を噛み切るやもしれぬ。と武市は返している。
26日、中岡、清岡半四郎と四国・大阪の探索を終え、帰長。
27日、武市、毒薬使用に付き、自白を繰り返すばかりの以蔵の家族へ同意を求めるが、応じない為断念する。
??日、武市、疝気による激しい下痢のため、出廷できない日も増えてきている。
??日、土佐勤王党同志である依岡権吉は軽格の足軽であったが、巧みに南会所の番人として現れた。
3日毎に交代する為武市を大変喜ばせ、中岡の書を持ってきた事もある。
しかし獄屋のくぐり戸を出ようとしたところを、偶然南会所の玄関に現れた後藤に見られてしまう。
「盗人に鍵を持たせる様なものだぞ」と言って、依岡は解任されてしまった。


10月
2日、武市、後藤の尋問を受ける。この時逮捕理由が『京師の事』である事を見抜き、政府の路線変更を悟る。
??日、実弟田内衛吉、初拷問を受ける。もともと文学者寄りでしかも和歌や国学を好む気大人しい人だった。
彼もまたすでに病がちで疝気を起こし、食欲もなくなっていく。
以後11日、17日の詮議に出廷する事ができなかった。
??日、以蔵の第一自白によって獄入りした森田金三郎は度々気絶するほどの凄まじい拷問に遭いながら
いまだ自白せずにいた。佐一郎殺しをした4人で決して他言せぬと誓ったにもかかわらず
他の3人は自白してしまった。武市らでさえ拷問による自白等を恐れ毒薬を入手したというのに
森田はさしあたり必要ないと言い切っていた。凄まじい豪胆さである。
とはいえ幼少の頃よりの仲である小畑孫三郎は悲惨と壮絶を極める拷問に遭う友に胸を痛めながら言う。
「森田と共に獄入りとなった久松などは武術を研究する者ながら以蔵の自白に倣って正義の士を
自白組へ引きずり込もうとする。言語道断の所業、不義不忠。これに対し小畑は凛凛として屈しない」
10日、中岡、大石弥太郎ら在国同氏へ書状を送る。自身が脱藩し戻る事もせず生き永らえている事を
恥じ入ると共に、脱藩などはくれぐれも慎む様にとの事。『尊王攘夷』の最後の頼み綱とも言えた
長州が四カ国艦隊を前に港を開き、幕府の長州征討を前に恭順派が台頭している為。
「涙をかかえて沈目すべし、外に策なし」
17日、藩主豊範、長州征討に乗り出す幕府の命により大阪警備となり、兵を率いて大阪に入る。
土佐勤王党の同志数名が槍隊におり、彼らに対し脱藩志士である千屋金策から待ち合わせ指定の密書が届く。
孤立する長州を救うために金剛山で挙兵し大阪を挟み撃ちにしようと言う。
持ち掛けられた同志上田楠次はその大胆さに驚きつつも冷静に答える。
「君達は瑞山先生が入獄するとなるや君国を捨てて長州へ走った。そんな君らにとって今孤立する
長州の為に死のうとするのは分かるし今ここにいる事を腰抜けとも言わないが、お国の土佐では
瑞山先生が獄に入っておられるのだ。藩論回復の時まで我々は計画には加わらぬ。」
その後も彼らは大阪焼き討ちなどを申し出てきたが、同志らは応えなかった。
18日、森田、凄まじい拷問に耐え切れず(養生のための)薬を服用し始める。
拷問に耐えうる為の体力を養う為で、病をできるだけ治して挑むというもの。
??日、自白しない森田に言い寄ろうとする怪しい牢番が出てくる。気のよさそうな同志のふりをして
「日記のようなものはないか」など情報を引き出そうとしてくるのだった。
森田は小畑を介し、日記の処分を外部同志へ依頼し、無事これが遂行され安堵する。


11月
1日、中岡、山直八と因州探索を終え、帰長。
3日、武市、実弟田内衛吉へ獄信を発する。
??日、武市実弟・田内衛吉、拷問により自白。
15日、長州下関田耕村潜伏中の元公家・中山忠光、俗論派の長州藩士により絞殺。
危険が迫る故に移動となり外へ出たところ、5人の刺客に襲われた。
遺体を運ぶ途中で夜が明けたので慌てて海岸沿いの砂浜へ遺体を埋められる。{後に中山神社が建つ}
「酒に溺れた末の病死」と発表される。
{残された現地側室・恩地登美は忠光が最期までいた建物で軟禁されるが、後に高杉晋作が救出している。
その際登美は1女を身籠っており、後の侯爵・嵯峨公勝の妻となった。}
??日、武市、乾の尋問時に弟衛吉の自白を知る。{遠回しに教えてくれたものか}
18日、中岡、忠勇隊の総督を命じられる。
24日、以蔵、久松、村田、岡本らの佐一郎殺し自白により、下横目の同志二人が目を付けられる。
一人は脱出し、一人(吉永良吉)は親類預けとなった。そして下横目の総入れ替えが行われ、
気心の知れた番人の免職に武市は落胆した。特にとりわけ信頼していた浜田良作の解職を気遣った。
28日、武市、外部同志島村寿之助に衛吉の状況(自白の真偽)確認を依頼。
服毒には反対だった寿之助であったが反対の余地なく、急ぎ『天祥丸』が届けられる。
田内衛吉、即座に自らこれを服用し、自決。
月末、山田獄舎、増設。


12月
1日、武市、寿之助に実弟一連の事について手紙を送る。
4日、中岡、小倉にて西郷吉之助と会談
??日、武市、ますます疝気が続くも頻繁に出廷を要請される。
その裏には、容堂が出座するからといった理由があった。
??日、南会所に女人が投獄され、きつい拷問をかけられるが『ブスリ』とも漏らさない。
武市はあまりにもだらしない以蔵を嘆いた。
7日、今橋権助、檜垣清治、『下』へ落とされる。
8日、容堂入庁。今橋権助、檜垣清治、拷問され血を吹く。小田原坂本瀬平殺しについて。
檜垣は息が止まり気絶して青駄に乗せられ獄舎へ戻ったが、気力衰えず毅然としていた。
15日、高杉晋作、伊藤俊輔ら正義派、功山寺挙兵。
??日、池内蔵太、高杉のもと遊撃隊へ参加。
??日、武市、今年3月に筑波で800人挙兵した天狗党の一味が京へ迫っている事を聞く。
時勢の形勢逆転となる事を密かに期待する。
??日、武市留守居宅へ以蔵の家族が田内衛吉死去の見舞いに来た事を受け、自決もできない以蔵の自白が
衛吉や同志たちを巻き込み、拷問たらしめ苦しめた挙句死に至らせたという事が分かっているのか。
あまりにも無神経すぎる。とするも、柳に桜でいるしかないと言っている。
15日、内蔵太、高杉ら遊撃隊と新地会所を包囲
15日、内蔵太、高杉ら17名と共に速船で三田尻へ向かい、軍艦拿捕に取り掛かる。
17日、天狗党、頼みであった慶喜本人からの追討軍を受け越前領で降伏。
捕らえられた800人の内まず400人程の首が飛ぶ。
(次いで年明け3月に残りの斬首、処刑が行われる。)
天狗党に期待を寄せていた武市はまだ知らない。
21日、内蔵太、癸亥丸の拿捕に成功。これに乗り込む。
(※以下功山寺挙兵については『高杉晋作関係年表を参照の事』)
下旬頃、公使山内兵之助の上京



元治2年=慶応元年(1865年)


1月
1日、中岡、河原の陣で奇兵隊らと迎春。
上旬頃、藩主豊範、土佐へ帰国。従属の同志らも土佐へ帰った。
9日、中岡、長府で早川養敬の命を救う
??日、武市、逮捕を受けた時と詮議の重点が変わっている事はもはや明白であると悟る。
『同盟(血盟徒党)問題』『国事周旋(京師)問題』、『吉田東洋殺害』
??日、武市は盟への追及の際、党の血判状を容堂へ見せた時に言われた事を話した。
すると以降は(一時的に)盟への事は一言も言われなくなった。
??日、後藤象二郎、大目付役を解かれる。
14日、中岡、五卿に付属し功山寺出発
14日、深尾丹波に「武市瑞山上士昇格に便宜を図った」疑いがかけられるが
乾がその罪を被って大目付・軍備御用兼帯を解任される。
??日、詮議が進まない。
15日、中岡、五卿、黒崎到着
30日、中岡、三条実美より土方楠左衛門との上京を命じられる


2月
2日、中岡、吉井幸輔に五卿待遇改善を求める
6日、中岡、吉井幸輔に同行し小倉出発。
8日、中岡、馬関・白石正一郎邸で長府藩重役及び吉井幸輔と会合。
13日、中岡、京二本松・薩摩藩邸に入る。
中旬頃、詮議が進まない中、武市の詮議だけ再び始まり出した。
これらの動きは、以蔵がまたあらゆる事を色々しゃべり始めていた為だった。
??日、島村衛吉の詮議にて、石部宿での幕府与力殺しに初めて言及される。
23日、中岡京発
24日、石部宿与力殺害事件の実行隊の一人、山本喜三之進入獄。
更に、山内連枝から諸家老平井善之丞、小南五郎右衛門らにも嫌疑が及び
同志の森助太郎、堀内賢之進、小笠原保馬らが入獄となる。
24日、容堂、入庁。南会所へ入る。山本歓三之進取り調べ。
25日、歯止めのない以蔵の自白、同志の入獄、拷問、党の瓦解、病。武市はいよいよ死を覚悟する。
29日、血盟外の同志、小橋勢太郎に出頭命令。
29日、以蔵始めの自白で入獄して以来ずっと拷問に耐え続けている森田金三郎が
以蔵の毒殺を提案する。以蔵が彼と同じ獄に移動してきた為だ。
獄外参謀島村寿之助に相談し、以蔵が少しでも病になれば天祥丸を飲ませるという算段。


3月
3日、中岡、大宰府帰着。
??日、以蔵の出廷と自白がどんどん増えていく。それによって周りへの詮議は一層厳しくなり
『下に落とされ』拷問される仲間が増えていく。以蔵への病を待っていてはいつになるやもわからぬと、
獄中同志の間では食事に天祥丸を混ぜるという案に至った。自らも自白の事実及び危険に及ぶ際には
いつでも自決する覚悟でおり、実弟の衛吉は既に自白を恥じ自ら命を絶っている。
致し方なく同志の提案をを認めるが、それでも岡田家家族の認知は必要であるという事だけは貫いた。
獄外同志寿之助が以蔵の実弟で血盟同志でもある啓吉を呼び出し事情を話すが、まったく納得しない。
父にも話さねばならないと言って席を立ってしまった。
島村寿之助「実に恥をしらぬには込り入り申候」
8日、容堂、入庁。南会所へ入る。島村衛吉取り調べ。
20日、島村衛吉、『下に落とされ』拷問となる。
22日、武市親族、出養生願を提出。疝気は悪化する一方で、腹のしこりは痛み手足はやせ衰え
背中にはゴツゴツとした骨が張る。詮議の為に少し座っているだけで直ぐに発作(下痢?)が
起こる為、なかなか出廷できずにいた。武市は病死するよりは拷問死の方がマシだと考えていた。
23日、島村衛吉、拷問死。締め木による圧死。
島村はかの江戸桃井にて武市の後輩として取り仕切る程の剣客であったが、三度の拷問で死んだ。
武市「昨日衛吉が大拷問にて殺された。まことにまことに唸り声を聞いて出て行って世話してやりたくも
どうにもならず。さぞやさぞや皆皆も肝を潰す想いであっただろう」と富姉に伝える。
監察方は最初から殺すつもりかの如く大拷問を行い、武市の耳にもその断末魔の叫びや唸り声
拷問機の音が聞こえた。
遺体は親族へ下げ渡される形となったが藩庁からは『厳刑が予定されていたが山田獄舎へ
戻った後病死した。首も落とさず渡す恩情の処置』とうそぶいた説明があった。
この時島村を拷問していたのは野中太内というしゃがれ声の大目付であった。
獄中闘争初期の頃から小目付として詮議に入っていたが、去年11月幡多郡奉行兼普請奉行となり
今年1月からは大目付兼任。同2月1日からは大目付本役となっていた。少々荒々しい人物であり
武市を取り調べた事も勿論ある。
{加えて島村衛吉は詮議中の語句が強く横目達を必要以上に怒らせる事もしばしばあった。
とはいえ一時の激情で拷問死させるとは流石に考えたくないけど…横目側も嘘ついてるしどうなんだろ;}
24日、島村衛吉葬儀
25日、武市、上番三人から『拷問死』について聞く。下横目も含め数年キャリアのある彼らが言うには
明白な事実を自白しない時は強い拷問にかける事もあるが、絞め殺した事などなかったとの事。
武市、審議を定める横目が拷問で絞め殺した遺体を『牢にて病死』うそぶいた事にも『苛政』と非難。
26日、島村衛吉を獄門死させた野中太内、大目付と外輪物頭の役職を解かれる。
以後、拷問は行われなくなる。
27日、後藤象二郎、再び大目付役となり再登板する。
27日、乾、謹慎を命ぜられる。
深尾丹波に罪が及ぶのを案じ、乾が身代わりとなって処断された。
??日、武市、後藤を大いに警戒する。
またこの頃横目から指定医を差し向けられるがその薬を床下にまいて捨てているが、
評判のいいれっきとした医者である事がわかり、『薬も天祥丸にはみえぬな』と疑惑を払拭している。
28日、森寺大和守と大宰府発
??日、乾、中岡との手紙のやりとりは続いている。京や各藩の動向、西郷の人柄を伝えられたりなど。
??日、池内蔵太、この頃長州帆船癸亥丸(ランリック号)に乗り込んで軍艦操作の訓練に励んでいる。


4月
1日、乾、謹慎が解かれ江戸へ兵学修行。洋式(オランダ式)騎兵術修行を命ぜられる。
2日、武市親族、出養生願却下。
2日、自宅預けとなっている島村寿之助、出頭。
3日、同じく島本審次郎、出頭。入獄。
6日、中岡、山口で毛利広封に伺候

―7日、慶応元年へ改元―

8日、上士『神掛かり』こと園村新作、その日の昼に外輪物頭免職、午後になって急遽入獄。
武市と同じ南会所の隣室への投獄となる。尊王論者だが同志ではなかった為
その妙な正義心故に同志を巻き込む様な歩調の合わない言動がない様にと、少しずつ語り掛けた。
こちらが素直言応じれば静かに話を聞いてくれる、悪い人間ではないのだが予想以上に言語での
意思疎通が難しい。『神の世界』に準ずる様な妙な語句を多く用いるが、話す言葉も書く文章も下手で
思わず首をひねってしまう。これには『むずかしい』と富姉への手紙に書き記す程であった。
これは園村が詮議に出た時も同様で、横目達も首をひねる有様であった。
??日、文久3年正月に起こった、吉村虎太郎・島本審次郎・間崎哲馬による100両事件に詮議が及ぶ。
横目から詰問された武市は名前を利用された立場ではあったが、島本が関わっていた事は知らなかった。
武市は島本と外部同志島村寿之助へと『不都合千万』と獄信を出し、党へ害が及ばぬ様工作を試みるが
寿之助から武政への指示が間に合わなかった。ありのままを話した武政の供述を以て島本が詮議を受けると
「同意の上金を得た事に罪があれば恐れ入るが不義に用いる為ではない」と言い、恐らくもともと
表沙汰にしたくはなかった武政も強くは言わなかったのだろう、この後の展開は特にない。
14日、中岡、大宰府帰着
17日、武市、獄外同志島村寿之助へ『長勢実に頼母敷』といった手紙を送る。
昨年末、高杉によって功山寺挙兵した正義派が藩内実権を取り戻した事についての事。
21日、武市は島本に対し失言について詫びた。
27日、中岡、大宰府発。
30日、中岡、馬関で桂小五郎と会う。


5月
3日、容堂、入庁。南会所へ入る。森田金三郎、岡本次郎、岡田以蔵、取り調べ
井上佐一郎殺しについてか。以蔵については何でもしゃべる為何をしゃべらされたかも分からない。
11日、平井善之丞、病没。よき理解者であった。
14日、容堂、入庁。南会所へ入る。園村新作、取り調べ。
前日13日から続く審問で吉田東洋暗殺後の言動について。
15日、中岡、京都に入る。
19日、容堂、入庁。南会所へ入る。武市半平太、取り調べ。
無理を押しての出廷であり、容堂の入庁があり、判決が近い事を手紙に語っている。
20日、武市出廷。体調はまずまずで下痢は無かったが、吟味場所に布団を敷いての取り調べとなった。
この時は個々の事案への詮議ではなく、全体的に『茫漠たる国事への違反』といったテイで
詮議が行われた事を武市もすぐに察知する。『謀反』『徒党』といった国事犯へ対する言葉が連なる。
それは容堂が『勤王』であれば『正義』『精忠』といった言葉として出てくるはずのものであった。
また「三条実美に討幕を申し出た事があるだろう」と言われ、武市は心底驚いている。
後の吉村虎太郎こそ討幕の先駆けとなったが、武市が三条らと関わっていた頃にはかの長州ですら
その様な思想には至っていない中での『なすりつけ』の様な審議であった。
武市は当時の時勢などについて弁論するが聞き入れられる様子ではなく「これに違いない」と遮断される。
御見付予告。
「御見付」とはいわゆる一方的な断罪であった。自供も証拠も無い、『見込み』で罰するものである。
武市は『万策尽きた』として、妻富への手紙に重罪の予告を静かに書き綴った。
また、この時より体調が悪化。痛み、下痢、発熱に見舞われる。
23日、南会所の河野万寿弥、山田獄舎の森田金三郎、島本審次郎、吉永良吉らも次々に呼び出され、
恐らく『御見付』あるいは自白組には具体的な罪の予告がなされた模様。
24日、園村新作へ御見附の予告。
檜垣清治、岡田以蔵、今橋権助出廷。
24日、中岡、京都発。
26日、今橋権助再度出廷。武市の牢や隣室の同志を一目見ようと覗くが暗くて見えず無念に思っていると
「手取りて語らん」の吟声が暗闇の牢から贈られ、今橋は嬉しさのあまりハラハラと涙をこぼした。
28日、容堂、入庁。南会所へ入る。
獄外同志であり親類預けであった島村寿之助がついに入獄となる。
武市、出廷要請があるが、呼びに来た下横目が「これでは無理出られますまい」と出廷を断りに行った。
別の下横目がやってきて容堂の入庁があり奉行職一統も直接吟味の模様を視察するから無理にでも出よと。
発作が起きて腹のしこりが痛み下痢が始まると何も話せなくなる、と延期を申し出る。
その内小目付3人がやってきて『御意につきさよう心得よ』と言って、両脇を抱えられる。
痛みが激しすぎて立ち上がる事もままならなかった為、引きずられる様にして出廷した。
この時、入獄した島村寿之助が咳き込んだ声を聴いた。
出廷して見上げると、後藤象二郎以下すべての役人が法廷内を圧するが如く堂々と居並んでいた。
「偽りを申し党を結び、お上を軽蔑し、京の高貴の方へ取り入り、隠居へ非礼な事度々あり。
この上は当罰あるにつき心得よ」
後藤が声を発するが、武市は患部の激痛ゆえ返答する事は愚か、まともに聞き取る事もできない。
その文字通り、殆ど一方的に言い述べられる形の『御目付』がった後、武市は再び抱えられて牢へ戻った。
当然ながら、容堂はどこかから聞き耳を立て、武市の姿を見ていた。
武市、妻富・姉へ永のいとまごい
??日、武市、最終的な『罪状』が個々の事案を正確に吟味した末に出された判決ではなく、容堂の曖昧な
記憶による『高貴な方々や容堂本人への無礼な言上の数々』として判決に持ち込まれたと言う
事実に辿り着く。容堂へ言上した事を本人が怒っているのなら勿論それは受け入れ罰を受けるが、
武市はこれまでの容堂の言葉を忘れてはいない。江戸で初めて謁見した際「君臣の隔たりがあっては
良くないから何事にても思う事あればいつでも申し出よ」と言われ感動した程であった。
これ以外にも容堂は武市に対し『心を開く』様な言動を何度も行っている。
あの言葉は何だったのか?これを以て罰せられる事にはまったくもって納得がいかなかった。
一藩勤王の一心で立ち上げた勤王党についても『党を結び』と罪状の様に告げられた。
徒党のそしりは受けぬ様これまでも力を尽くして説明してきたが、結局容堂にとっては『徒党』の
認識で終わった(終わらせる)という事なのだろう。
??日、獄外血盟同志達、いかにするかで意見がわかれる。(斬りまくる派、上書派、見守る派)
潮江の天満社神職・宮地上野、武市為に日夜祈願を行う。
長い間武市を支えた中番安蔵、薫的社へお参りして武市の為に祈り、護符を手に入れていた。
武市自身神道を信じる事は皆知っており、他にも中番貫助や園村新作は武市が死した後は神として崇めると言う。
武市が留守宅へ神式を願うまでもなく、あちこちですでに神へと変わろうとしていた。


閏5月
??日、潮江の神職・宮地上野、武市だけでなく獄囚の人々の名を書き連ね、ますます祈祷に熱を込める。
2日、中岡、田ノ浦で土方楠左衛門と別れる。
3日、河野万寿弥、小畑兄弟出廷。
5日、容堂、入庁。南会所へ入る。園村新作、河野万寿弥、小畑弟出廷。
??日、山北・安岡覚之助入獄
??日、池内蔵太、馬関にて坂本龍馬と再会。
「事無き時は、自ら好て軍艦に乗組候て稽古致し候、勢盛なる事にて候、/龍馬」
内蔵太は長州蒸気船癸亥丸を駆っているとの事。
6日、中岡、鹿児島着。
8日、島村寿之助、河野万寿弥出廷。
??日、牢番の話「長州征討の為大阪出兵を間近に控える藩主豊範が、容堂に忠義の士の出獄を伺った。
すると容堂は激しく叱りつけ、その不忠、悪人ぶりを説き、豊範は実父である前前藩主豊資の屋敷で泣いた」
武市は「たとえ嘘の話だとしても涙がこぼれ申す」と言っている。
10日、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎、岡田以蔵の自白組出廷。
牢番佐蔵が外へ出る時、以蔵から「先生へよろしゅう言うてくれぇ」と伝言を頼まれる。
11日、武市、切腹。
去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、
爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共
総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、
屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる
他、
御預け一名…小南五郎右衛門
牢舎九名…園村新作、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助
河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
斬首四名…岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
継続二名…檜垣清治、今橋権助
(不明一名…吉永良吉)
自白組は別として、血盟外の人物である元上士・園村新作以外、はっきりと罪状を認めた人がいなかったまま
見込み罪状として永牢を申し付けられた。『継続』の檜垣清治、今橋権助などは未決囚という扱いのままの
処分である。とはいえ、いずれにしても一つ一つは「〇〇事件について」といった一定の事件に
ついてのものである。
それに比べて武市の罪状は極めてその境界が曖昧かつ観念的、感情的。取り調べの方針が途中で変わったのを
武市も察した様に、はじめこそ武市も一つ一つの事件から追い込んでいくはずだったものが上手くいかず、
容堂と協議を重ねていった結果、容堂の厳命により『巨魁の国事犯』として闇に葬られようとしていた。
{割愛するが}自白組の中でも殊更詳細な自白を重ねた以蔵への判決文などは明解そのものである。
―夜、前日までの雨もあがり星が輝いていた。
自白組の斬首は牢内で行われた。以蔵の首のみ雁切渡し場にて三日間の獄門となる。
報せを受けた富、武市が京で買っていた裃地で仕立てた裃と紋付の帷子などを取り揃えて有志にことづける。
武市は牢番達に丁寧な挨拶をし、獄内を静かに片付け、髪を結い、洗い粉で体を清めた。
着物は困窮する生活の中富が丁寧に仕立ててくれたものがいくつか手元にあったが、どれにするかと
選ぼうとしたところへ富からのことづけが届く。この差し入れといい、裃の着用といい、
牢番や横目たちの厚意に満ちた周旋があっての事だった。
切腹は南会所大広庭、吟味場で行われた。例法に則って一面に砂がまかれ、その上に板とヘリのない畳が
二枚が広げられる。更にその上へ打ち下ろしの畳表1枚が広げられた。上段の座敷には正面に後藤象二郎
その他大目付陣が着座し、その脇に小目付、徒目付衆が居並ぶ。土間には下横目、番人らが控え、
武市本人の両脇には介錯人である富実弟・島村寿太郎、武市の義理甥・小笠原保馬が控えていた。
武市は二人に「ご苦労」と声をかけてから所作を行うと、その病巣渦巻くやせ衰えた腹に懐刀を突きさした。
まだ成し得た者はいないともされる三段切腹を、衰えたきった体力を度外視した精神力・胆力のみで行い
しかも懐刀を右に置いた後に手を前に付き、前のめりに倒れた。
そこへ介錯人二人が両脇から刀を入れ、絶命した。
1年9ヵ月ぶりに妻富、姉らの元へと帰り、皆の手で身なりを整えられた後に葬儀が行われた。
12日、武市、葬儀が行われ遺体は先祖代々が眠る吹井の里へ葬られた。
そのための葬列は先頭から延々と12㎞を越える程連なっていた。
13日、容堂、盟友の宇和島隠居・伊達宗城へ獄処理を終えた事を手紙で知らせる。
「自国の処置に3,4年も月日をかけたのは{彼を殺す事に}決断がつけられなかったから。赤面の他ない」
と大嘘をついている。獄の処置と武市を殺す事に容堂がどれだけ腐心していたかは知るものぞ知る。
(容堂は6月8日にも、盟友松平春嶽へ武市切腹の報告を行っている。)
15日、中岡、西郷吉之助と鹿児島出港
17日、土佐{表向きは藩主からだろうがその本質は容堂により}異例の論功行賞。
徒目付・土居弥之助、弘田久助…御組入り
徒目付・岸本円蔵…白札昇進
岡崎喜久馬…米4斗拝領
大監察らは御酒頂戴
20日、中岡、西郷と別れ漁舟を借り、馬関へ向かう。
21日、中岡、馬関着。坂本龍馬、桂小五郎に西郷不来を報告。
21日、後藤象二郎、大目付役を解職。
29日、中岡、馬関出港。


6月
11日、中岡、大阪着
13日、中岡、入京

7月
20日、中岡、田中顕助と京都発。
21日、亀山社中、長州からお忍びでやってきた井上聞多、伊藤俊輔を薩摩藩邸に匿いグラバー商会へ紹介。
小銃一万と蒸気軍艦一隻購入の周旋を行う。主に近藤長次郎、高松太郎、千屋虎之助。
??日、近藤長次郎、小松帯刀と共に鹿児島へ向かう井上聞多に同行。志士周旋。
28日、中岡、馬関白石正一郎邸に泊す。


8月
12日、中岡、京へ向かう。
27日、近藤長次郎、伊藤井上と共に、銃を満載した薩摩船胡蝶丸に乗り三田尻へ入る。
開門丸も輸送に使われた。かくして、4000挺の新式ミニエー銃3000挺のゲベール銃、
ユニオン号が無事長州に搬入された。
??日、近藤長次郎、長州藩主父子に謁見。後藤祐乗作の赤胴の三具(目貫、笄、小柄)が贈られる。
??日、近藤長次郎、ユニオン号の仮約内容について言及。
・薩長及び摂津、越前など航海貿易
・その際、京摂、鎮西その他の情報収集に努める
・船の運用・修理費は薩摩名義、支払いは長州
・乗組員は亀山社中。(つまり船員人件費等は薩摩)
井上、伊藤はこれを受け入れ、桂も了承。藩主父子も承諾。

9月
3日、中岡、馬関着
8日、近藤長次郎、長州藩主父子より、島津久光父子へ向けた書簡の送付を任される。
??日、伊藤俊輔、近藤と共に長崎へ向かう。
??日、亀山社中にてユニオン号購入会議。
社中会議の結果、引き続き近藤が長州父子の書簡を持って鹿児島まで行き、
高松太郎と千屋虎之助がグラバー商会での購入手続きを進める事となった。
15日、中岡、大宰府へ発つ。
16日、乾、片岡健吉宛の書簡で幕府を批判。


10月
25日、中岡、大宰府より五卿使者として福岡藩へ出発
28日、中岡、大宰府着


11月
??日、池内蔵太、坂本龍馬と共に馬関から京・薩摩藩邸へ向かう。
22日、中岡、五卿より応接掛かりを命ぜられる
??日、池内蔵太、薩摩藩士・黒田了助と共に長州へ入り、坂本龍馬と共に薩長同盟を勧める。
??日、中岡、五卿へ暇乞いを出す




慶応2年(1866年)


1月
8日、中岡、五卿への暇願いを取り下げる
10日、池内蔵太、坂本龍馬、三吉慎蔵、新宮馬之助と共に長州から上京。悪天候。
16日、内蔵太ら、ようやく神戸着。
17日、内蔵太ら、大阪に入る。
18日、内蔵太ら、土佐堀薩摩藩邸へ入る。新選組等の検問などで警備が厳重のため、留守居役の木場伝内から
『薩摩藩船印』を借り受け、市中を安全に歩く。
龍馬、大久保一翁を訪ね、狙われているから気をつけよと忠告を受ける。
この忠告を受け、龍馬はピストル、内蔵太は本込め銃を調べ直し、三吉は手槍を購入した。
19日、池内蔵太、坂本龍馬、三吉慎蔵、新宮馬之助ら4名、薩摩藩士として小舟に乗り川を上る。
道中新選組などによる検問がかなりあり、薩摩の身分と船印のお蔭で寺田屋へ入る事ができた。
20日、坂本龍馬、二本松薩摩藩邸へ入り、木戸のいる御花畑小松邸へと入る。
龍馬、『同盟』が成されていない事に驚愕し、奮起。しかし木戸が痛切に語る長州プライドも尤も。
「薩摩は堂々と天朝の為に尽くす事ができるが、長州は正義を貫いた結果朝敵のそしりを受け活路は無い。
よって長州から同盟を求めれば助けを乞う事となり、これは長州の思う所でもなければ
自分自身の思う所でもない。しかし薩摩が天朝に尽くす覚悟が分かればもはや長州は滅亡しても本望。
自分からは切り出せぬ心情、お察し願いたく思う」
龍馬、木戸への非難をやめて部屋を飛び出す。
恐らく、この後薩摩西郷・小松の元へ行っただろう。
21日、西郷、木戸らの帰藩を引き留める。
22日、薩長同盟成る。
23日、寺田屋事件
24日、近藤長次郎、長崎・小曾根邸離れにて自刃


2月
5日、後藤象二郎主導で建設が進められた開成館、開館。
貨殖、勧業、税課、鉱山、捕鯨、鋳造、火薬、軍艦、医、訳の十局に分かれた極めて壮大な規模。
中浜万次郎、(薩摩より土佐へ帰国し?)英語、航海術、測量術などを教える。
10日、中岡、京へ向け三田尻出航
15日、土佐仕置役(参政)後藤象二郎、大目付小笠原唯八、鹿児島視察。
開成館のより有効な運営方法を探る為

29日、池内蔵太、坂本龍馬、三吉慎蔵、新宮馬之助、お龍、中岡慎太郎、
薩摩一行(桂右衛門、小松帯刀、西郷吉之助、吉井幸輔)らの帰国に合わせ、出立する。
船で川を下る。

3月
1日、土佐・薩摩一行、大阪へ入る。しばし逗留。
4日、土佐・薩摩一行、再び小舟に乗って天保山沖まで出、薩摩の軍艦三邦丸へ乗り込む。
5日、土佐・薩摩一行、出航。
6日、土佐・薩摩一行、夕方に馬関入港。三吉慎蔵と中岡慎太郎が下船。
7日、土佐・薩摩一行、馬関港出航。
8日、土佐・薩摩一行、長崎入港。1日滞在。
10日、土佐・薩摩一行、鹿児島入港。
30日、中岡、吉田で木戸貫治(桂小五郎)、山形狂介らと会談。

4月
11日、ユニオン号、下関にて薩摩への兵糧米500石を乗せて出港
??日、ユニオン号、長崎に入る。
29日、ユニオン号、ワイルウェフ号、長崎から鹿児島へ向け出港。
29日、30日、ワイルウェフ号遭難

5月
1日、2日、ワイルウェフ号沈没
池内蔵太、黒木小次郎ら12名、死去
13日、乾、江戸滞留続行の許可が下りる。


6月
5日、中岡、長崎へ向け馬関から出港
7日、第二次長州征伐開始
14日、中岡、大宰府帰着。
22日、中岡、五卿に小倉口戦果を報告。


7月
5日、イギリス軍艦が土佐浦戸を通過。
侮りを受けるべからず、先制攻撃とばかりに大騒ぎとなるが容堂が窘める。
7日、後藤象二郎、中浜万次郎ら12人を伴って長崎へ発つ。従者横山、池道之助等。商用目的。
公武合体、開国論者へと傾倒しつつある後藤は藩政内において浮いており
勤王党関係の者達からも狙われている。少し土佐を離れる狙いもあった。
7日、中岡、伊集院直右衛門と馬関到着
??日、道之助、長崎の街中でロシア人の音楽隊に遭遇し圧倒される。
??日、後藤、長崎貿易の推進にあたる
20日、将軍徳川家茂、死去


8月
5日、中岡、伊集院直右衛門と長州へ向け大宰府発
20日、一橋慶喜、徳川家相続
26日、土佐後藤象二郎、中浜万次郎以下6名、グラバーと共に上海へ赴き蒸気船(南海)を購入
28日、容堂、尊攘派に指示を出し大宰府調査のため佐々木三四郎らに西国探索方を命じる。
佐々木三四郎、中山佐衛士、毛利恭助ら上士に加え
島村寿之助、佐井寅次郎、藤本潤七など下士攘夷派も加えられている。{どういう心境…!?}


9月
??日、後藤ら、上海から長崎に戻る
12日、三条制札事件。藤崎吉五郎と宮川助五郎ら土佐藩士8人と新選組原田左之助らが斬り合う。
安藤正勝がしんがりを務め奮闘。藤崎斬死、宮川捕縛(後に奉行所行)
13日、足軽安藤正勝、騒ぎが大きくなる事を憂い、藩邸にて自刃。
23日、大宰府へむかった佐々木ら、土方楠左衛門らに会い情勢を聞く。
薩長同盟を知り、慌てて帰藩の途につくべく踵を返す。
佐々木ら上士組は容堂への報告の為帰藩し、下士寿太郎らはそのまま京へと向かった。
佐々木らもまた、容堂への報告の後京への探索を命じられる。

24日、中岡、西郷信吾(西郷吉之助実弟)と入京
28日、乾、江戸騎兵術修行の命が解かれる。
30日、佐々木ら、京にて中岡と面会。『列強の脅威』を教えられる。龍馬にも会う予定だったが会えず。

10月
20日、寿太郎ら京にて薩摩大久保に会う。
26日、中岡、土佐同志への所論「竊に知己に示すの論」執筆


11月
??日、乾、薩摩藩士の吉井友美らと交流。吉井が島津久光の代理として土佐を訪れる。
24日、中岡、義兄北川武平次から父小伝次の死去を聞く。
大阪屋与兵衛のスタジオで写真撮影。
??日、中岡、土佐同志への所論「愚論窃に知己の人に示す」執筆


12月
??日、後藤象二郎、長崎にて蒸気船2隻(箒木ははきぎ)(空蝉うつせみ)(胡蝶)購入
他、ライフルや胴乱なども買い付けた。

5日、徳川慶喜、将軍就任
14日、中岡、西郷吉之助寓居での赤穂義士伝を読む会に出席
??日、乾、水戸浪士(相楽総三ら)を独断で江戸藩邸に匿う。
山田喜久馬、真辺戒作、小笠原謙吉のみこれを打ち明ける。
??日、乾、刀鍛冶の左行秀を義侠心のある男と見込み、水戸浪士の件打ち明ける。
この頃土佐藩は購入した西洋銃を元に日本製の新式銃を作る計画があり、その製造責任者に
行秀を配していた。乾とは昵懇の間柄となり、義侠心ありと見込まれたのだった。
左行秀は容堂や東洋らもその腕を認める刀鍛冶であった。容堂は『今様政宗』と高く評価し
彼の刀は広く『土佐政宗』とまで言われた。
25日、孝明天皇、崩御(但しこの後4日間その事実が隠蔽される)
28日、中岡、西郷吉之助来訪。この日京を出る。


慶応3年(1867年)


1月
1日、中岡、大阪出航
4日、中岡、馬関到着
5日、中岡、高杉晋作を見舞う。夜、坂本龍馬と会談
9日、睦仁天皇、践祚
9日、中岡、大宰府帰着。五卿へ孝明天皇崩御を報告


2月
??日、坂本龍馬、中岡慎太郎、脱藩罪を許される
27日、中岡、大宰府発


3月
2日、中岡、鹿児島着
3日、中岡、西郷吉之助を訪ねる。
5日、中岡、鹿児島の先端工場を見学
9日、中岡、島津久光に謁見、五卿への伝言を受ける。
10日、中岡、鹿児島出港
14日、中岡、静岡入港
15日、中岡、大村に着き渡辺兄弟と会う。
17日、中岡、大宰府帰着。復命
19日、中岡、大宰府発
??日、名古屋辺りで『伊勢神宮の御札が降りた』事で『ええじゃないか』が始まる。
近畿、四国、東海地方へと広がりをみせていった。


4月
??日、寺村左膳、再び容堂の側用人役に任ぜられる。
1日、中岡、大阪着
4日、中岡、入京
13日、中岡、海援隊への1300両を斡旋する
21日、中岡、岩倉具視と初会見
28日、山内容堂、寺村左膳ら四賢侯会議に出席するため藩船夕顔に乗り込み土佐を出立


5月
4日~21日四侯会議
??日、乾、四侯会議の失敗を嘆く中岡の手紙を受け、諫死の覚悟で上京を決意。
10日、中岡、生庄で福岡藤次、谷干城らと会う。
18日、中岡、近安楼で乾退助、福岡藤次、芸州藩船越洋之助らと小宴
19日、乾、容堂に目通り願うが『討幕論』につき容堂に意に添わず会う事を許されない。
21日、乾、中岡、小松帯刀邸にて、帯刀、西郷吉之助、吉井幸輔と会談。薩土密約を締結。
乾が江戸土佐藩邸に匿っていた水戸浪士の西郷への移管も条約内に含まれる。
22日、薩摩、藩論を武力討幕へ統一する。
22日、中岡、土佐の勤王志士に勤王討幕の志ある者は門閥を越え乾を盟主とせよする激文を飛ばす。
22日、乾、いまだ藩論を討幕へと決定しない容堂に対し、時勢を説く。
更に、藩論に逆らう形で江戸藩邸にて水戸浪士を匿っている事を告げ、覚悟を述べ、了承を得る。
乾、中岡らに銃の購入を命じる
23日、容堂、帰国願いを出す。
23日、以後、乾、中岡ら連日頻繁に会う。
25日、中岡、福岡藤次の支援のもと『陸援隊』結成。
亡高杉奇兵隊を参考に薩土討幕盟約に基いて発足したもので、龍馬の海援隊と併せて『翔天隊』とす。
京白川の土佐藩邸を拠点とし、尊王攘夷の思想を持つ土佐藩、その他浪士が77名が所属。
谷干城、田中謙助らが名を連ねる。
薩摩藩から洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援隊としてかつて天誅組も頼った十津川郷士50人と
合同で洋式調練を行った。
この陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいた。


6月
??日、江戸土佐藩邸に匿っていた浪士ら、薩摩藩邸へと移る。
2日、乾、容堂と共に土佐へ帰国。
容堂、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡藤次らを名代・山内兵之助補佐として置く。
12日、討幕派大目付・佐々木三四郎らに京都出張命令が問題視される。
家老職から選抜される奉行職の人々が、佐幕、公武合体、無力合わせて入り乱れ会議は長引く。
13日、乾、大監察(大目付)、軍備御用兼帯となり大幅な軍備改革に取り掛かる。
13日、京都出張問題に際し、佐々木は『今すぐ討幕という訳ではなく時勢に行き詰った時どうするのか』
『その時一定(討幕などの指針)が無くては不覚を取る事になる』と引き下がらない。
そこへ大目付に復職したばかりの乾が颯爽と割り込み『今(時勢)は大きく見てさしあたり薩摩の論が
正義でありかの州と離れるは得策ではない様に思う。その辺りは十分考慮せねばなりませんぜよ』
同じ大目付でも馬廻の家柄である乾の発言は大きく、佐々木の言い分そのままを取り上げ、
容堂・藩主へと伺う事となった。
13日、後藤象二郎、容堂の要請により坂本龍馬と共に上京。(この時船中八策)
容堂は朝廷と幕府、双方の譲り合いにより円満な事態収拾を期待していた。
一方、中岡はこの様な考えを持つ者に対して痛烈な批判を説き始めていた。
15日、京都出張問題に際し、容堂から容認の沙汰が出る。全権委任の形ではないが、上京の上大義のある
方向が見えれば決行せよ、との事であった。かくしてその様に心得て佐々木三四郎らは京へ向かった。
15日、中岡、後藤象二郎から大政奉還建白策を聞く
??日、乾、土佐勤王党員6名を釈放。
森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、島本審次郎。
(河野万寿弥は翌年。小畑孫三郎は病死。)
土佐全土の勤王党が乾を盟主として討幕を決断。乾は推されて、武市と似た立場・土佐勤王の盟主となる。
かつて、武市と容堂の間で食い違っていた『上下一致、人心協和』がようやく成り始めた。
更に町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告。
17日、谷干城、小目付のまま軍備用・文武調役兼帯となる。
17日、佐々木三四郎ら、京に入る。同行していた仕置役猪内は出立前に容堂から『福岡藤次を帰国させよ』
との命を受けていた。後藤象二郎の無責任ぶりから二人の仲が悪くなり、しかも龍馬に近付き
大政奉還を練る後藤に対し、福岡は中岡薩摩に近付き討幕論に組している状態だった。
容堂はそれを警戒していたのだった。
しかし猪内はこの密命を佐々木に打ち明け、福岡を京へ留めおく相談をする。
22日、中岡、龍馬の仲介により、小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助、後藤象二郎、福岡藤次、
寺村左膳、間部栄三郎による幕府排除と王政復古の為の薩土盟約(先日の薩土密約とは別)が成立。
もちろんこの条約の中には、土佐容堂の思想とは異なる『討幕挙兵』に関する項目もあったはずであった。
薩摩や中岡らにとって『大政奉還』はどうでもよく、土佐が『挙兵』する事に重きと期待を寄せていた。
22日、中岡、三樹での薩土密約会議に出席
25日、中岡、坂本龍馬と岩倉村の岩倉を訪ね、密談
27日、中岡、陸援隊白川藩邸へ入る。


7月
8日、後藤象二郎、真辺栄三郎、大政奉還論献策の為土佐帰藩。容堂の許しを得る。
9日、後藤象二郎、真辺栄三郎、寺村左膳、高知城二の丸にて藩主豊範に拝謁。許しを得る。
??日、寺村左膳、参政となる。
17日、乾、土佐藩銃隊設置の令を発する。
22日、乾、北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。
士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置し、近代式銃隊を主軸とする軍備改革を行う。
22日、中岡、容堂の上京反対の書翰を発する
24日、乾、参政(仕置役)へ昇進。軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。
銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織(迅衝隊の前身)
26日、中岡、『ト一』来る。宿す。(恐らく長州にいる『ト一』とは別の、在京の女)
28日、英国イカルス号事件が京へ伝わる。
坂本龍馬ら海援隊士、仕置役由比猪内、大目付佐々木三四郎、急ぎ土佐へ帰藩。
中岡は、幕府役人や英国外交官らが土佐へ下り、その土佐の地で交渉する事を『愚策』とし
「天下の物笑い、国家之大恥」と言っている。幕使などが土佐に来れば必ず議論が巻き起こり、
1日1刻を競う様な今時世においては土佐はきっと乗り遅れ京出兵なども出来なくなり、
他藩との同盟も果たせなくなり、天下回天の事業に支障を来たす。
事件は幕府に被せておけば良く、下関戦争において外国より請求された賠償金を幕府に
支払わせた亡・高杉の例などを挙げ『御国之流は馬鹿正直之弊』等と酷評した。

8月
3日、佐々木三四郎帰藩。イカルス号事件問題で走り回る。
??日、佐々木、乾と会合。乾は後藤象二郎の仕事の雑っぷりが招く現状に不平であった。
かねて薩土盟約を以て薩摩に大政奉還案を認めさせたはずが、後藤は建白案そのものに力を入れるあまり
薩摩側が提示した出兵について軽く考え過ぎていた。この大政奉還案を土佐が受け入れた事を薩摩や中岡
乾らがおおいに喜んだのは『土佐容堂が出兵を認めた』からであり、後藤のアバウトさでそこの詰めが
甘かった現状、思った通り『大政奉還案は採用するが出兵の項目を削除する』と容堂が言っているのである。
佐々木は後藤にも会い話を聞くと『実はボクも困っちょる』などと言った。
5日、中岡、正親町三条実愛を訪ね、様々に語り合う。
6日、乾、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。
6日、乾、諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に配置。
イカルス号事件の為英国軍艦バジリスク号が須崎沖へ入る為、不測の事態に備えての命であった。
20日、容堂、乾にアメリカ留学を内示
容堂、後藤象二郎と寺村左膳に大政奉還案建白書の作成と提出時期の調整を指示。
出兵については『暫時御見合』とした。
21日、乾、軍備用兼帯致道館掛を解職される。
??日、京にてええじゃないかが始まる


9月
??日、中岡、大宰府にて三条実美に拝謁。
2日、後藤象二郎、寺村左膳京に向かう途中、大阪で相撲見物をしていた西郷吉之助と再会。
3日、後藤象二郎、寺村左膳、西郷吉之助と会合。出兵の事を聞かれるが『詳細は京で』とはぐらかす。
7日、後藤象二郎、西郷吉之助、小松帯刀と会合。出兵予定について『暫時御見合』との沙汰を話したか。
『薩土盟約』は解消となり、西郷らは土佐抜きで20日までには挙兵する。土佐においては
建白するならご勝手にどうぞとのテイ。
後藤象二郎、熱を出して寝込み、寺村はとりあえず建白書の草案に手を付けた。
9日、江戸で乾からその義侠心を見込まれていた土佐刀鍛冶の東行秀が乾の討幕活動に腰を抜かし
己に嫌疑がかかる事を恐れ、乾が匿っていた水戸浪士の事を書状の写しと共に江戸土佐藩に通報していた。
その報が京・寺村左膳に届く。寺村らはただちに動き、勤王党員の島村寿太郎からは脱藩を勧められるが、
乾はすでにその件については容堂をし処分の沙汰があるのを待つのみ、と堂々としていた。
容堂もまた乾を評価し庇っている事から、この件についてはまったくの不問となった。
14日、江戸から乾に似た過激尊王家の小笠原謙吉らがやってきて寺村に建白失敗時の挙兵ついて尋ねる。
『暫時御見合』だが、容堂や彼らの建白はとかく「討幕軍を動かすことなく国政を改める事」である。
その為、寺村は閉口した。
22日、中岡、軍隊編成方法について記した「兵談」大石弥太郎へ送る
24日、18日頃に長州父子に謁見していた薩摩の大久保一蔵が帰京する。
長州討幕参戦決定。「譴責の身分ながら朝廷の危急により藩境を越えて加勢に駆け付ける」との決意。
後藤象二郎ますます孤立・緊張し、脇役である寺村左膳は女や家来を連れて松茸狩りに出かけている。
24日、坂本龍馬が長崎オランダ商ハットマン商社より購入したライフル銃1300丁、土佐藩に入る。
24日、在京保守派土佐上士(小八木五兵衛らか)、幕使の嫌疑を恐れて白川藩邸から陸援隊の追放を計画する。
29日、乾、歩兵大隊司令に任ぜられる。


10月
3日、山内容堂、老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出。
寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝悌・神山郡廉らが名を連ねる。
8日、乾、容堂へ建言をするも『退助また暴論を吐くか』と笑って取り合わなかったとの事。
乾、小八木政躬や寺村左膳により歩兵大隊司令及び全役職をはく奪され、失脚。
10日、中岡、正親三条実愛を訪ねる。実愛、五卿との義絶回復の出願を決める。
11日、中岡、板倉筑前介から300両借り受ける。
14日、大政奉還が成る
18日、乾、谷干城宛てに書簡を出す。以前密告を働いた左行秀を警戒せよとの事。
??日、薩土討幕の密約に基づき、場合によっては勤王派同志数百人と共に脱藩し討幕を行う決意。


11月
1日、中岡、正親三条実愛に会い武力倒幕を主張。
??日、乾、郡奉行・仕置役などを歴任する強硬な佐幕(保守)派・小八木五兵衛らにより全職解任、失脚。
※小八木五兵衛は山内始祖豊一の頃より藩主を支える600石取の大身である。強固な保守派であり、
かつて革新派であった吉田東洋とも対立。ここに武市半平太らを交え藩内三派の勢力が均衡状態にあった。
これを打破したのが勤王党による東洋暗殺であった。
??日、後藤象二郎、土佐へ帰藩。大政奉還建白の事後策を容堂とはかる。
15日、寺村左膳、朝から仲間と共に四条の小屋にて初めて歌舞伎を見る。
15日、御陵衛士伊東甲子太郎、藤堂平助、近江屋の坂本龍馬を訪ねる。二時間ほど話をし、注意喚起して去る。
土佐藩士岡本健三郎来る。龍馬、少年峰吉に軍鶏を買いに行かせ、岡本もこれと同時に去る。
15日、(日没頃)坂本龍馬、中岡慎太郎、下僕藤吉、近江屋にて襲われる。坂本龍馬死去。
近江屋一家は一階の奥におり無傷であった。主人井口伸助が危険の中抜け出して即刻土佐藩邸へ通報。
下横目の島田嶋田庄作が駆け付け、軍鶏を買いに行っていた少年峰吉も戻り惨状を目の当たりにする。
後ろから刺された藤吉が階段下におり、二階の六畳間で龍馬が斃れている。血痕を追うと隣家の屋根の上で
身動きできなくなっていた中岡を見つけ、家の者らで協力して室内へ運び込んだ。
更に土佐藩邸から曽和慎八郎、陸援隊谷干城、毛利恭助、海援隊士白峰駿馬、土佐藩医河村盈進が到着。
中岡の依頼で峯吉が白川藩邸陸援隊の元へ走り、報を受けた田中光顕が薩摩藩の吉井幸輔と共に駆け付ける。
15日、大目付神山左多衛、この日奉行所から宮川助五郎を河原町藩邸の牢へ入れている。
更に龍馬中岡の遭難を聞くなり仕置役福岡藤次の下宿へ向かい、諸々の手配りをすすめた。
15日、岩倉具視の耳にも入り、すぐに香川敬三を向かわせた。力づけようとする香川に中岡は
「天下の大事はひとえに岩倉公がおわれる事を願う。宜しく伝えてくれ」との伝言を頼んだ。
岩倉は「嗚呼、何者が余の片腕を奪い去ったか」と嘆いたという。
直ぐに大久保一蔵にも手紙を書き、大久保も信頼する同志の落命を深く悲しむ返信をした。
15日、寺村左膳、歌舞伎の帰り、(日没間もない頃)夕食を食べに行く道途中で龍馬中岡暗殺の報を聞く。
「多分新撰組等之業なるべしとの報知也」ともある。
{当時京師警衛副総督である寺村が両人の遭難(に掛かる日記)に対して冷ややかであるのは、
保守派として彼らの復籍を認めておらず表向き土佐には関係のない事件であるとの認識、
また一言で言うと政敵であると認識していたからに他ならない、との話がある。
『土佐に関係ない』とは流石に冷たすぎると思うが、『警衛』という立場にありながらその後の
無対応ぶりを見ればそう思わざるを得ない}
16日、大目付神山左多衛、白川藩邸陸援隊に潜んでいた新選組間者を召し捕り河原町藩邸の牢へ入れる。
16日、正親町三条実愛、龍馬中岡遭難の報を記した岩倉からの書状を中御門経之から受ける。
即座に中山忠能へ報せる。
16日、海援隊士白峰駿馬、大阪詰めの拠点へ戻り海援隊士らに龍馬中岡遭難の報を告げる。
16日、下僕藤吉、死去。
16日、土佐藩では容堂後藤らの大政奉還公武合体派、乾の鋭い討幕派、そして佐幕とも言える門閥保守派の
3勢力が均衡状態にあった。{乾の討幕→武市の勤王とする違いだけで、東洋がいた頃とまた同じ構図}
容堂と豊範は沈静化に努めるが、保守派らは連名で後藤や乾の『悪事』について上言する。
17日、海援隊士長岡謙吉、関雄之助、小野淳輔、蒲田精次郎らが到着。
17日、中岡慎太郎、死去。
17日、海援隊、陸援隊合同で坂本龍馬と中岡慎太郎の葬儀を霊山、神式によって行う。
17日、土佐容堂、豊範は佐幕派代表32名を呼んで説得し『承知せねば首をはねる』との意向まで示した。
佐幕派も抵抗して『しからば殿の御前で腹を斬る』と息巻き、容堂はこういった藩内の徒労を強いられていた。
17日、土佐に龍馬中岡遭難の報が入る。
佐幕派は喜び、一方乾らの挙動を警戒してピストルを懐に走り回った。乾らの一派については
佐幕派らのそうした挙動を受け、長槍を以て乾の自宅に集まるという騒ぎとなった。
そんな中当の乾は龍馬中岡の報と今後の展開について同志・山川左一右衛門を訪ねている。
18日、海援隊長岡謙吉は新選組に目を付けられており、福岡藤次との密会時に尾行されている事を知って
裏口から川原へ出て逃れた。
18日、土佐藩軽格別撰二隊が浦戸を出港。
19日、龍馬、中岡の墓碑が完成。文字は後に木戸準一(桂小五郎)が書く。
19日、寺村左膳、松平春嶽に拝謁したついでに新選組の暴力に頼るやり方は幕府の為に良くないと忠告。
20日、龍馬中岡暗殺の下手人が新選組であるとの噂が朝野に広がっており、福岡藤次の申し立てにより
若年寄格永井尚志が近藤勇を取り調べ、新選組は廃止する事になった、と
26日付の三条実愛の日記に書かれてある。
27日、長崎の海援隊士、佐々木三四郎らへ龍馬中岡死去の報が入る。



12月
5日、龍馬中岡、大宰府で神式により葬儀
7日、神戸開港、大阪開市
7日、天満屋事件。龍馬中岡暗殺の報復として紀州藩三浦休太郎を襲撃したもの。
海援隊、陸援隊から16名が刀ピストルを持って乗り込み、三浦から警備依頼を受けていた新選組7名と
戦闘となった。陸奥陽之助、沢村惣之丞、中井庄五郎、斎藤一、大石鍬次郎等が参戦し多くの死傷者を出す。
8日、五卿の復位と帰洛、長州藩父子の官位復旧と入京が許される。
8日、陸援隊、岩倉具視の密命を受け鷲尾隆聚を擁して高野山へ向かう。
9日、岩倉具視の謹慎が解かれ、忠能、実愛と連れ立って即日参内。王政復古の大号令。
各親王、諸公卿、容堂、島津ら一部大名らがその場に連なった。
三職の人事が定められ、新政府が樹立した。
??日、京近郊、ええじゃないか終わる。
12日、陸援隊挙兵。王政復古した朝廷に紀州藩を恭順させる。
??日、『薩長(討幕)のシッポにでもしがみつかねばならない』と、谷干城ら土佐藩兵の一部が先行上京。
後藤象二郎、同船にて上京。
25日、乾が江戸藩邸で匿っていた水戸浪士(薩土盟約の際移管され薩摩藩邸にいた)が庄内藩を挑発する事に成功
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が勃発する。(武力討幕・戊辰戦争のきっかけとなる)
27日、五卿帰京。参内。
28日、谷干城、西郷から薩摩の陣に呼ばれ、薩摩・長州・安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったと聞く。
西郷、薩土討幕の密約に基き、乾の上洛を促す。



慶応4年(1868年)


1月
1日、西郷に乾の上京を促された谷干城、京を出て土佐へ向かう。
3日、鳥羽伏見の戦い勃発。
この挙兵について容堂は強烈に意を唱えたが、岩倉が「わかった、ならば土佐は慶喜に付くがよろしい」と
突き放した為、容堂は閉口せざるを得なかった。以後、容堂がこれらの方針について口にすることは無くなり
病気と称して引き下がった。(2月頃肝臓大出血を起こしウィリアム・ウィリスの治療で一命を取り留める)
3日、陸援隊、高野山に布陣して紀伊、大和の勢力を牽制。
4日、京へさきがけていた土佐藩兵、藩命を待たず、薩土密約に則って参戦。
土佐軍は官軍として錦の御旗を授かる。大目付・本山茂任、樋口真吉ら、伝奏為、土佐乾の元へ出立。
7日、徳川慶喜追討令発布
??日、陸援隊、京へ帰還し御親兵となる。
6日、谷干城、土佐帰藩。
9日、乾の失脚が解かれる。深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成
この時迅衝隊は厳しくも正義に徹した『軍律』を設けた。
戦地における略奪、放火、婦女子に対する乱暴行為を堅く禁じ、違反者は軍法会議に掛ける。
有罪の場合は即刻処刑が断行されると告知。
兼ねてより軍事改革を行っていた乾により、迅衝隊は近代的軍隊としての画期的な組織となっていた。
・給料制。毎月俸給を現金で支給。
・病気欠勤が認められており、従軍医師の診断書と隊長の印を受け「欠勤願」を提出することが出来た。
・隊内に「野戦病院」があり、従軍医師団が同行していた。
・洋式の軍服は京都出発前に個人が注文して作った。
※だいたい全体の洋式服が揃ったのは江戸を出る頃だったらしい。
・隊内に「砲銃局」があり、スペンサー七連銃を販売していた。
・小隊を左半隊・右半隊に分け、半小隊で行動することができた。
・隊内に「軍事郵便」といえる飛脚便があった。
13日、土佐迅衝隊600人、土佐を出陣。北山越え(参勤交代ルート)からの進軍。
勅命くる。「高松、川之江、松山を鎮撫せよ」四国(自国以外)を東から西まですべて鎮撫せよとの事。
高松(東)、川之江(中央)、松山(西)という地理的状況の中、まず各地へ兵を分けるのは愚策、
であればとどこか一方を責めている間にどこかから背後を狙われる挟撃に遭う可能性あり。
手間取って上洛に時間がかかる事があってもならない。
その様な状況の中で乾の軍略は冴え渡っていた。
乾、谷干城を伝令として土佐城下へ飛ばし、第二軍を設けて西・松山鎮撫を指示。
自らは第二軍の援軍を根拠に、現在地から最も近い中央・川之江へと向かった。
川之江は幕領であったが兵も少なく、さしたる抵抗もなく鎮撫に成功する。
19日、乾ら迅衝隊本隊、鳥坂峠を越えて東・讃岐国は高松藩(丸亀藩)丸亀城下へ入る。
土佐軍が讃岐へ侵攻したのは長宗我部以来300年ぶりの快挙であった。
京より錦の御旗を伝奏した大目付・本山茂任、樋口真吉ら、勅令と共に到着。
丸亀藩、即刻恭順。支藩の多度津藩と共に、乾ら迅衝隊の旗下へ入った。
丸亀藩、かつて久坂玄瑞らと通じた為に幽閉していた土肥実光を即刻釈放し、参謀へと据える。
まったく同じ状況で今現在の立場にあった乾は土肥実光を信じた。
高松藩士・長谷川惣右衛門が本陣乾の元を訪れ、朝廷への謝罪歎願の取成しを求める。
高松藩、恭順を決め、乾ら官軍迅衝隊を受け入れる準備を始める。
藩主・松平頼聡は城を去り、浄願寺で謹慎に入る。
20日、乾本隊、錦の御旗を先頭に、丸亀、多度津藩兵を先鋒道案内させながら進軍。
乾のこの進軍は『もはや高松は逆賊の孤軍となる』といった心理的効果が抜群であった。
丸亀街道は予め高松藩によって急遽清掃され、各所に接待所が設けられ、草鞋まで準備して迎えの準備が成り
門前には『降参』と書いた白旗を掲げ、家老が裃を着て平伏土下座にて出迎える。
乾は城門前に「当分、土佐領御預地」と高札を立て、真行寺に本陣を敷いた。
かつて逃亡中の高杉晋作を匿った罪状で牢獄にいた日柳燕石、出獄解放。
21日、乾、丸亀、多度津藩兵を帰藩させ、自身は在京の容堂や上士らを説得する為、軍を率いず丸亀を発つ。
船に乗り上洛を目指すが、乾を阻止せんとする保守派・佐幕派の動きが四国内外で見受けられる。
独断挙兵、軍の私物化など言語道断として切腹させる勢いの者もいた様だ。
これらに遭遇しない様巧みにかわしながら上洛を果たし、容堂以下上士らの説得に成功する。
27日、松山藩、松山討伐の勅令以来、先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立し混乱を極めたが
最終的には官軍・土佐軍に対し戦わずして恭順を示した。


2月
3日、迅衝隊北川宅之助配下の足軽・大久保虎太郎、楠永鉄太郎、岡上先之進、国沢守衛の4名、
松下城下の呉服店にて『略奪行為』に値する強引な値切り、脅しを行う。
??日、呉服屋を脅した4名、迅衝隊軍議にかけられ隊規違反と認定。斬首される。
以後迅衝隊は会津まで駆け抜けるが『正義』を履き違える事無く正々堂々と戦い抜き、
『最も規律正しい軍隊』と言われる事になる。
『いやしくも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ』
3日、迅衝隊が高松から京へむけて出発。
7日、迅衝隊、上洛。乾らと合流。
9日、新政府、東征大総督府を設置。東征大総督に新政府総裁・有栖川宮熾仁親王が就任。
東海道・東山道・北陸道の鎮撫使を改め『先鋒総督兼鎮撫使』をその指揮下に加える。
後、鎮撫総督は先鋒総督へ改められ参謀として以下の人事が行われる。
・御親征東海道先鋒総督軍参謀・西郷隆盛
・御親征東山道先鋒総督軍参謀・乾退助
13日、乾、土佐軍の大隊司令兼総督も兼任する。
14日、板垣ら東山道先鋒総督軍が東山道から江戸へ向け出陣。
18日、板垣ら美濃大垣に到着。ここで次に目指す甲府への攻略を練る。
幕領たる甲府が幕府を快く思わず武田の治世を尊敬する土地心理を受け、岩倉の助言もあり
先祖・板垣信方の『板垣』姓へと改名する。


3月
1日、板垣ら上諏訪諏訪に陣を敷く。迅衝隊は二つに分かれた。
目指す甲府城は幕領ではあるが長らく不遇扱いされており兵も少ない。軍議において一刻も早く
これを抑える事を主張し、甲州街道を爆速で進撃する事を決定する。
3日、板垣ら甲府へ向け出発。
5日、甲府城へ入城する事に成功。
6日、甲州勝沼の戦い(土方、永倉)
元新選組近藤勇ら率いる甲陽鎮撫隊が1日遅れで現れる。甲州勝沼において、戦闘開始から
およそ2時間で迅衝隊の圧勝。
また『板垣信方』の子孫たる板垣の鮮やかな勝利に、地元民たちがこぞって協力を申し出た。
甲斐の郷士らで結成された「護国隊」、旧武田遺臣や神官、領民、浪人らで結成された「断金隊」など。
{※以後、基本的に迅衝隊が参戦した戦闘を中心に記載する}
??日、板垣、西郷からの指示通り、15日の江戸総攻撃へ向けて移動・待機を行う。
??日、板垣の迅衝隊が迫ると、八王子千人隊が板垣に対し礼を尽くして恭順の意を示し、板垣もこれに応じた。
14日、夜、江戸総攻撃中止の報が、臨戦待機中の東山道・北陸道各先鋒総督府、迅衝隊板垣の下に届く。
15日、江戸総攻撃が中止される。
??日、板垣退助風貌→洋装の軍服に陣羽織、地下足袋に草鞋、頭には赤熊の被り物をして日本刀を下げた姿。
また土佐では長刀が流行であったが、慶応2年9月の三条制札事件以来『長刀は使いにくい』と
その流行が終わったという話がある。その名残か迅衝隊の中にも長刀を持つ者が多かった様だ。


4月
??日、「ええじゃないか」「世直し」が関東にて広がりを見せ、農民集団が庄屋や本陣などを
打ち壊しながら北上を続けていた。
1日、農民集団、宇都宮城下南部にも入り込み宇都宮藩も説得を試みるが応じず。
2日、宇都宮藩からの通報・救援要請を受けた東山道総督府軍大軍監香川敬三率いる兵200人が出発。
(迅衝隊はなし)
途中、粕壁宿で下総流山に新選組が潜伏している情報を得る。(流山に捉えられていた近藤に
降伏する説得をさせようとするが断固拒否。これを以て近藤は板橋総督府へ送還となる。)
3日、農民集団、宇都宮城下八幡山へ集結。その数3万人にも上った。
7日、香川以下東山道総督府軍、二手に分かれ宇都宮城に入城。
農民集団、宇都宮城突入を諦め、勝沼・今市方面で打ち壊しを続けた(野州世直し)
もう一手の東山道総督府軍・祖式隊が農民集団へ対応し、世直し騒ぎ沈静化。
12日、下総市川の国府台大林寺に結集していた旧幕府側の歩兵隊約2000、日光へ向け移動を開始。
軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていた。
以降、新政府軍との小規模接触などを起こしながら会津と連携を図りつつ静かに行動する。
一触即発の状態が続いた。
18日、先の小山の戦い(小競り合い中の戦闘)で敗退していた新政府、援軍を投入。
伊地知正治率いる薩摩・長州・大垣藩兵550、河田佐久馬率いる鳥取藩兵と迅衝隊第5分隊500。
19日、宇都宮城の戦い一陣。
土方ら1000、間道を通り火を放ちながら宇都宮城を目指す。
南東の風で宇都宮城下へと延焼する上、農民集団鎮撫のため新政府香川軍は疲弊していた。
新政府軍、宇都宮城を捨て一時退却。土方らは宇都宮城へ入る。
20日、新政府軍、大山弥助率いる薩摩・長州藩兵250を援軍派遣。
新政府河田隊(迅衝隊分隊)、壬生城へ入る。
22日、安塚の戦い。雨。旧幕府歩兵第七聯隊・靖共隊合同隊と戦闘。(永倉)
新政府・迅衝隊第5分隊含む河田隊500、苦戦を強いられ一時は壬生城まで奪われかけるが
援軍到着した大山弥助率いる薩摩・長州藩兵250と共闘し旧幕府軍を(宇都宮城へ)撤退させた。
23日、新政府軍、総督府参謀板垣自ら迅衝隊および土佐藩兵を援軍派遣。
宇都宮城の戦い二陣
新政府軍、雨天の中孤軍奮闘し損害を出した河田隊に代わり、大山ら薩長隊が出陣する。
土方・大鳥ら旧幕府軍、要所要所に小隊を配置し善戦。旧幕府軍に呼応する会津藩兵や
岩井の戦いで敗戦していた歩兵隊なども取り込んだ。
大山らの軍を包囲し、輜重隊から糧秣や弾薬を奪うと共に兵を撹乱した。
しかし岩井の戦いに勝利し駆け付けた伊地知隊550人が宇都宮城南から攻め寄せ、
壬生城で待機していた河田隊も再び参戦、激しい戦闘となる。
敵前逃亡しようとした味方を土方が斬り殺し決死の鼓舞を行うも、負傷し戦線離脱。
旧幕府軍は徐々に崩れ始め、新政府軍は更に砲台を設置し宇都宮城へ集中砲撃を行う。
旧幕府軍は110名の死者を出し退却した。
24日、今市に入った土方はそこで鼓舞の為に斬り殺した者の供養を行う。
その日の内に今市を出、島田魁ら10数名の護衛と共に会津へ向かった。
24日、旧幕府本隊率いる大鳥、日光へ入る。
28日、総督府参謀・板垣軍、今市付近に現れる。東照宮の神職らから戦火に巻き込まぬ様嘆願を受け
板垣は土佐始祖豊一から恩ある徳川の祖が眠る聖廟東照宮他仏閣を保護する事を是とし、
戦闘を回避する。(大鳥軍を説得したともある。この功績から東照宮近くには板垣の銅像が建てられている)
??日、板垣軍、東照宮を治め今市に入る。



閏4月
1日、日光今市付近で大鳥軍と板垣軍の一翼が出くわし、小規模の戦闘が行われる。両者早々に撤退。
5日、大鳥軍、会津田島に入り体制を整える。
18日、大鳥軍、今市奪還を目指し行動に移り始める。斥候の小競り合いを続けつつ会津西街道を徐々に南下。
19日、会津藩救済の嘆願を拒み続けた明治新政府軍参謀の世良修蔵が偽文書によって暗殺される事態が発生。
会津嘆願は完全な形で退けられ、『会津戦争』の戦端が開かれる。
20日、旧幕府軍・西郷頼母を総督とし、会津藩、純義隊、新選組が白河城を占領。
23日、仙台藩と米沢藩を盟主とする奥羽越列藩同盟を結成。二本松藩及び周囲の小藩も列藩同盟に参戦。
25日、会津戦争・白河口の戦い
薩摩藩参謀・伊地知正治が攻め入る。
26日、第1次今市攻防戦。
大鳥の伝習隊と大沢口に進んだ山川率いる貫義隊で今市・板垣軍を挟撃する作戦であったが、
足並みそろわず各個撃破される形で撤退となる。


5月
1日、会津戦争・白河城、薩摩藩参謀・伊地知正治により落城。重要拠点としてここに入城し
7月までの間、旧幕府軍による奪還戦を耐え続ける。
6日、第2次今市攻防戦
板垣軍、今市にて大鳥圭介ら伝習隊・貫義隊と戦闘。{永倉lastか?}
大鳥軍は前回の反省を踏まえ全軍で攻め込み奮戦するが、新政府軍の援軍が到着するなり総崩れとなり敗走。
15日、上野戦争。新政府軍10000(迅衝隊なし土佐軍出兵)、旧幕府軍4000。1日で新政府軍の勝利。
27日、白河城に新政府援軍・土佐が到着
(板垣と勤王を誓い合った小笠原唯八、迅衝隊に合流か。彼は大総督府御用掛や江戸府判事を経て
江戸北町奉行に就任していたが、これらを辞任して友である板垣の元へと馳せ参じたという)


6月
7日、白河城に援軍・薩摩が到着
18日、新政府軍、平潟へ上陸。
22日、白河城に援軍・長州が到着
22日、白河城に東征大総督参謀・奥州追討白河口総督の鷲尾隆聚と阿波藩が到着。
新政府軍はこれを以て北上の為の兵力・算段を整える。
24日、会津戦争・棚倉城の戦い。
板垣退助、別動隊800を率いて棚倉城へ出兵。旧幕府軍は平潟へ兵を割き手薄となっていた為、
1日掛からず陥落させた。以後、戦闘中の平潟が平定されるまで白河城・棚倉城の新政府軍は防衛戦。
平潟の兵らと合流し一気に善戦を押し上げる為の合理的戦略。
(旧幕府軍は平潟と白河口で新政府軍を分断できると考え、数度に渡って白河口を攻撃するが
兵不足から棚倉を同時攻略ができず、結果白河と棚倉の共同戦線を突破する事はできなかった)
27日、寺村左膳、士族の身分をはく奪の上安芸郡野根村へ追放処分。(明治3年2月に解除)


7月
13日、磐城の戦い。新政府軍勝利。磐城平城陥落。
14日、旧幕府軍、白河城攻略を断念。
16日、旧幕府軍、仙台藩援軍を得て棚倉攻略を開始するも、新政府軍による磐城拠点化と
三春藩の戦闘離脱に伴い、即断念。旧幕府全軍、郡山まで撤退。
17日、江戸を『東京』へ改名
24日、板垣軍、三春藩を目指し棚倉城から出兵。
25日、板垣軍、蓬田へ入る。従来より勤王思想であった三春藩、板垣へ恭順の使者を送る。
周囲の力関係から仕方なく列藩同盟に加盟した事情があり、それ故か、三春藩には援軍兼監視の
会津兵200人あまりが駐屯していた。直前まで仙台藩・二本松藩には援軍を求め戦意がある振りを
装っていたが、板垣ら新政府軍が接近してくると会津兵を城外の陣地へと移動させ、最終的には
その会津兵も北側へと引き上げていった。
26日、三春藩、新政府参謀・板垣に対し恭順を示し、受け入れられる。
会津や仙台、二本松は『裏切られた』と怒りその間には深い遺恨を残した。
無血開城した三春城は新政府軍の病院としての一翼を担う事となった。
27日、板垣軍、平潟方面から合流した兵を受け入れ戦力を倍にし、更に進軍。同日守山藩も帰順。
板垣、郡山に主力を置く旧幕府軍の分隊がまずはここから近い本宮村と糠沢村にある事を考慮し
まずは大垣藩、三春藩、土佐藩、黒羽藩らの諸隊を本宮村へ派遣。
しかし抜け駆けで独自に動いた薩摩3隊、土佐2小隊が、深夜独断で糠沢村を急襲し強引な勝利を収める。
この奇襲作戦は新政府側へはまったく通達されておらず、薩摩による文字通りの『独断』『抜け駆け』であった。
慎重に指揮を執る板垣への反発とも言われる。
糠沢村急襲を受け、本宮村から二本松兵の分隊が派遣されるも、既に板垣指揮のもと出兵していた
先鋒・黒羽藩軍と遭遇、戦闘。後続の大垣藩、三春藩、土佐藩も続き、更には糠沢村から進軍してきた
抜け駆けの薩摩土佐隊の挟撃に遭ってしまう。
新政府軍はそのまま本宮村へと向かうが阿武隈川を渡る舟の奪取が必要となる。
黒羽軍と土佐軍(甲府から加わった断金隊など)が川へ飛び込み対岸の船を接収しようとするが
狙撃を受け土佐断金隊の隊長美正貫一郎などが戦死。(美正は三春藩恭順時の功績があった)
地理に明るい三春藩、守山藩の先導により砲台を設置し接収隊を援護。舟を得て川を渡った本隊が
本宮になだれ込んで二本松兵を撃破、占拠した。
28日、旧幕府軍、郡山から本宮奪還に向け出撃。その東を阿武隈川に隣接させる本宮を北西南から包囲する
作戦であったが、郡山から総司令・坂英力が軍を出す事は無く包囲に必要な兵が足りない。
結果、各個撃破される形で旧幕府軍は敗退した。
板垣軍死傷者26名。旧幕府軍仙台死傷者51名、二本松兵死者93名。
28日、新政府軍、ここで一気に二本松城戦へと舵を切る方針を固める。
しかし郡山に旧幕府軍を残した状態であり二本松城との挟撃に遭う懸念がある。これまで合理的な
戦略で押し進んできた新政府軍であったが、その指揮を実質執って来た板垣と派閥を別とする薩摩が
積極策を好むが故に『手ぬるい』と突き上げ、より攻勢な策へと転じさせたものと思われる。
29日、会津戦争・二本松城、落城。二本松少年隊の悲劇
新政府軍は後方へ兵を配備した上で、主力を2隊へ分けた。
そのうち1隊を、板垣退助が指揮する。(薩摩6中隊、砲兵2隊、土佐藩、彦根藩、佐土原藩)
朝6時、板垣隊出兵。尼子平の切り立った地形の上からで一斉射撃を受ける。
先鋒の薩摩11番隊が向かうが到達できず、砲隊を出そうとするも味方軍に近付きすぎていた為稼働せず。
薩摩12番隊が11番隊の支援へ向かい、佐土原藩、土佐藩、彦根藩が砲隊を支援しながら尼子平の包囲に動く。
砲隊の体制が整い砲撃が始まり、ようやく尼子平は沈黙した。
指揮していたのは二本松きっての軍師小川平助(戦死)であった。先28日、病を患いながらも
城に留まろうとした藩主長国を無理やり駕籠に乗せ、米沢藩へと非難させている。
しかしこの主君への恩情が二本松に残った者達を更に苦しめる事となっていた。
板垣軍は更に進軍し、大壇口に差し掛かったところで再び一斉射撃を受ける。正確な射撃に怯み
近隣の雑木林や家屋に逃れるが、凄まじく正確に砲弾が撃ち込まれてくる。新政府軍はその兵数に物を言わせ
大壇口を包囲する様にして側面からなだれ込んでいった。大壇口からの砲弾は『方向転換』し
側面向かってくる新政府軍を討ち始める。大壇口砲撃はたった一門の砲台によって『100発100中』の
勢いで打ち込まれていたのだった。
大壇口のわずかな敵兵たちが撤退した後に砲台へあがると、そこにあった死体は子供ばかりであった。
隊長・木村銃太郎22歳率いる二本松少年隊(この隊名は50年後に付けられたもの)
副隊・二階堂衛守33歳。大壇口に立ったのは隊長副隊長含む12~17、22、33歳の全27名)
隊長木村銃太郎を失った彼らは副隊長二階堂と共に大鱗寺付近まで退却するが、小浜方面から進軍していた
新手の新政府軍と遭遇。二階堂衛守は全身に銃弾を浴びて即死したという。子供らを守ろうとしたか。
※以後二本松少年隊の顛末は以下にて。
同日朝5時、新政府主力のもう1隊が小浜から出陣する。
長州藩3中隊、薩摩藩4中隊に砲兵1隊、備前藩665名。
(備前兵は郡山旧幕府軍を警戒し有事には後方の味方軍の援護に向かう任を担っていた。)
阿武隈川について敵前渡河をせざるを得ない状況であったが、二本松東を守る部隊が旧態依然の機動力である事を
事前に察知していた通り、わずかな火縄銃を足軽が装備しているだけの彼らは殆ど何もする事ができず
新政府の上陸を許してしまう。頼みの火縄銃組は恐れて城内へ逃げ込み、残るのは老年の守備部隊。
正午、二本松城内に立てこもっていた二本松藩重臣らは自ら火を放ち、自刃する。
頼みの会津と仙台からの追加援軍は見込めず、もともと派遣を受けていた援軍は既に半壊状態であった。
城内にいた仙台・会津兵らも脱出しており、一方二本松藩は病の藩主を米沢藩へと逃している為
これが同盟に対する人質同然ともいう状況もあって『降伏』を選ぶ事は許されなかった。
また、市街地に新政府軍がなだれ込み、更に城内の重臣らが自決を選んだが為に城内外の連絡は
完全に断たれる状態となってしまう。指揮者を失い戦場を彷徨っていた少年隊の生存者たちは市街戦に巻き込まれ
一人また一人とはぐれ、あるいは死んでいった。
逸話その1:子供の死体に唖然とする薩摩指揮官・野津七次に、死体だと思っていた老兵が最期の力を振り絞り
「子供を殺して新時代とは…笑わせるな!」と叫んでこと切れた。
野津は、今は遺体を葬ってやる事はできないが、子供達の死体の衣類至るところに縫い付けられた
名札を見て全ての名前と年齢を書き控える様にと言った。
逸話その2:負傷した兵士を見つけた土佐兵が、彼がまだ13歳の子供である事を知って驚き
保護しようとするが、決死の抵抗を見せた為止むを得ず射殺せざるを得なかった。
二本松藩:死者337名、負傷者71名新政府軍:死者17、負傷者多数
野津いはく「戊辰戦争中第一の激戦」であった。
??日、その後の作戦会議により「枝葉・根元」の論が行われる。
大村益次郎は仙台・米沢の攻撃「枝葉(列藩同盟諸藩)を刈って根元(会津)を枯らす」を主張。
現地に立つ板垣退助と伊地知正治は会津への攻撃「根元を刈って枝葉を枯らす」を主張。
会津が国境へ兵を送って手薄状態となっており、かつ冬前までに戦を片付けるべきという正論。
より急を要する現場案が採用された。
更に、進軍経路について板垣は東の御霊櫃峠を、伊地知は北側の母成峠をそれぞれに主張するが
互いに引かず、これは長州百村発蔵の説得により母成峠が採用される事となった。

8月
20日、母成峠で前哨戦が開始される。旧幕府軍大鳥の伝習隊が奮戦する中会津兵が敗走。
殿を務めた伝習隊はこの前哨戦だけで30名もの死傷者を出した。
21日、台風来る。母成峠の戦い。
薩摩の伊地知正治、土佐の板垣退助を主力に二手に分かれた新政府軍およそ3000。これに対し
旧幕府軍は伝習隊400を主力に仙台100、二本松100土方歳三率いる新選組若干名総勢800。
砲台の火力は勿論性能も段違いで、
大鳥の退却命令が出る前に旧幕府軍は潰走した。
22日、夕方、新政府軍、猪苗代に入る。十六橋を確保。
23日、早朝、戸ノ口原の戦い。白虎隊二番隊・篠田中隊、溝から新政府軍に対し一斉射撃を行い大いに狼狽させる。
手持ちの銃が使用不能になる程撃ちまくるが、形勢逆転。死者3名を出し飯盛山へ潰走。
23日、午前10時頃、新政府軍、土佐軍を先頭に若松城下へ突入。
土佐藩士中島信行、西郷頼母邸へ押し入った際に子女21人の自決現場に遭遇。(西郷頼母妻子自刃)
他、城下婦女子の自刃は140家族239名に及んだ。
籠城戦で一人前の働きができない事を想定し自ら口減らしになる事を選んだ、会津武士の子女達である。
飯盛山へ逃れていた白虎隊篠田中隊19名、武士の本懐を遂げる為、自刃。(一人生還)
25日、城下涙橋で長州藩兵と会津・衝鋒隊が衝突する。衝鋒隊の中には婦女隊もあり、あざ笑う長州勢に対し
薙刀を手に決死の突撃をした。あまりの猛攻に驚き慌てて銃を放ったという。
中野竹子、戦死。
神保雪子、大垣藩兵により会津坂下長命寺に高速される。土佐藩士吉松速之助の証言では雪子は
慰み者にされており非正義の行いを堅く禁じる板垣の思想もあって吉松は大垣藩兵を諭そうとしたが
受け入れられなかった。雪子は吉松へひそかに短刀の拝借を請い、それを以て自刃した。
生還した婦女隊は見舞いに来た家老らの説得に応じて解散し、若松城での後方支援に回った。
会津、籠城。
新政府軍は3万に達しようとしており、城を包囲して一昼夜城へと砲弾を撃ち続けた。
佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)ら、城外で遊撃を続ける。
25日、板垣の兼ねてよりの戦友・小笠原唯八、新島八重の鉄砲部隊に撃ち抜かれ、戦死。


9月
4日、米沢藩降伏
8日、明治改元
9日、大総督府軍監・中村半次郎が若松城近郊へ進軍。
10日、中村半次郎、伊地知正治、板垣退助、山縣有朋ら軍議し、攻城の分担区域を定める。
10日、仙台藩降伏
15日、奥羽征討総督・仁和寺宮嘉彰親王が、錦の御旗と共に越後より会津坂下町へ進軍。
会津に大きな動揺がはしる。
19日、会津重臣の手代木直右衛門と秋月悌次郎より土佐藩陣営へ意向を伝え、降伏条件などの話合いがもたれる。
板垣、この時会津父子をあくまで『敗者』とし『罪人』として扱うのではない事を主張。
裃、駕籠に乗っての出頭を許可する。
尚会津内にあっては降伏を認められず、自決する者もいた。
22日、午前10時、若松城および会津藩降伏。
松平容保父子、軍監中村半次郎(後の桐野利秋)に降伏謝罪文を提出。重臣らが嗚咽を上げる中、
容保は謹慎のため妙国寺(市内一箕町)に向かった。中村半次郎は『涙を禁じ得なかった』と男泣きし
土佐藩兵・宮地團四郎は当時の日記にて『実に目も当てられぬ光景』と同情的に書き綴っている。
22日、板垣の武士道と正義に則った戦後処遇。
それは会津の人々から感謝され後々の自由民権活動の一拠点となりうる程公正で納得しうるものであった。
(容保ら父子への処遇、戦闘後の遺体供養や農民たちのヤーヤー一揆への対処など)
薩長(特に長州)に対して後世にその価値観が残る程『遺恨』を残した会津が、土佐へはそれが無く
寧ろ友好的だったのは、この板垣による戦後の『会津は敗者であるが罪人ではない』という徹底的な対応にある。
22日、庄内藩、会津から撤退。
24日、庄内藩、降伏


10月
4日、朝廷より凱旋の令を拝し、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊は凱旋の途につく。
13日、明治天皇が江戸城に入る。
19日、以降、順次土佐軍が東京へ凱旋。まずは兵士から続々と
29日、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助 東京へ凱旋。


11月
??日、乾、明治天皇への拝謁をゆるされる。
5日、乾ら土佐迅衝隊、土佐帆船夕顔丸にて土佐へ凱旋する。




明治2年1月から、乾、版籍奉還の上表、更なる軍事改革など、そうそうに活躍
明治2年2月頃、岩倉具視が東本願寺別荘にて中岡・龍馬両名の鎮魂祭を執行



年表前半・文久3年まで