暴れ牛・後半
R15


文久元年 まだ夏の暑さが残る9月末。
はつみが長期滞在している江戸築地の旅籠・桃乃屋の一室―。

 先日、桂から『高杉の様子を気にかけて欲しい』という変わった頼み事を受けた事もあって、はつみは高杉の様子が気になっていた。会いに行こうかとも思うのだが、しかし相手は長州上屋敷で若殿様の小姓役を務める様な由緒正しき武士なのであるから、気軽にノコノコと行っては迷惑な気もして、出方を見計らっている所だった。

 そんなある日。朝食を終えて書き物をしている最中に、部屋の外から旅籠の女中が声をかけてきた。
「桜川様、お言付けの方がいらしています。」
「あ…!はい!今行きます!」
 元気に返事をし、部屋の出入り口ですれ違う女中にも改めて挨拶をしてから一階へ降りて行った。はつみに対してこういった誰かからの来客や言付けというのはちょくちょく来る様になっていて、桂などの様に直接訪ねてくれる者もいれば、伊達の様に手紙だけを置いていく者もいる。
 ―そんな中で、女中らから『お言付けの方』と呼ばれる様になった一人の男性がいた。彼は、長州上屋敷桜田藩邸に仕える下男だ。そして、彼が持ってくるのは大抵、高杉からの、たった一言の言付けなのである。
「いつもご苦労様です!お手紙、確かにお預かりしました!」
「へぇ、確かに。では、これにて…」
「あっ、お水飲んでいってください!熱中症になっちゃいます!あとこれ、飴です。良かったらどうぞ」
 熱中症と言われてもこの時代の人たちに通じないのは理解しているのだが、はつみのこうしたお節介は自然と漏れ出てしまう。そして多くの人達は、その親切な申し出を遠慮という形で謝辞するのだ。
「とんでもございません。御心遣い痛み入りまする」
 特に下男の様な『下の階級』に当たるものは謝辞の姿勢が顕著だ。彼もまた例外なく、はつみに対して深々と礼を取ると去って行く。9月といえどまだ外は残暑の気配が強い。はつみは額の汗を拭いながら去っていく下男の後ろ姿を見送っていた。一度振り返りまた会釈をして、彼は走り去った。
「(長州上屋敷のある桜田門前からここまでって、半刻くらいかかるんだよね…いつも申し訳ないなぁ)」
 誰かを当たり前のように『使う』のは、武士の特権でもあるのだろう。当然この旅籠にも、土佐の坂本家などにも下男や飯炊き女など雑用専門のスタッフの様な者がいるが、はつみは彼らを使い走りの様に扱う事は到底出来なかった。…だからといって、『この時代では当たり前の事』を否定し、それを成す人を批判する立場にない事も理解してはいるのだが…。

 今はひとまず、暑い中を再び徒歩で去っていく『お言伝の方』が無事藩邸に戻れる事を祈りながら、自室へと戻るのだった。




 頃合いのいいところで自室へと戻ったはつみは、早速高杉からの伝言紙を広げてみる。四つ折りにされた掌大の紙を拡げると、そこには、ここから徒歩でおよそ四半刻程、つまりおよそ30分程の所にある新橋の料亭名と共に、『松』と一言が書かれており…。
 要するに、新橋の店で待つという高杉からの呼び出しであった。

―あの辺りは銀座の花街と言われており、和親条約のあった安政年の頃から急に花街として発展したらしい。大名屋敷などが連なる武家町から程よい距離にあり、また、東海道品川宿からの導線もある事で、外国人公使らをはじめとする要人達が利用するにも適している。粋な料亭に芸者を呼んで遊ぶ武士や外国人客といった、安定した収入のある客が多いというわけだ。
 高杉もまた、おそらくではあるが、常連なのだろう。そして今日も非番か何かなのをいい事に、まだ日の高い内から飲み歩き、女性を侍らせているのだろう…などと想像してしまう。
 それにつけても、相手の事情も関係なくたったひと言『松』とだけ書いて酒場に呼び出すというのも、正直気になるところではあるのだが…。

 そんな事を思いながらも、ひとまず外出の準備をするのだった。



 
 江戸、すなわち現代で言う皇居や東京駅を中心としたおおまかな地理関係は把握しているが、如何せん『徒歩移動』である為、道を歩いている内に見失う方向感覚や体力の問題が常に付きまとう。この時代の人からすれば四半刻ほどの徒歩移動など苦でもないだろうが、はつみはしっかりと地図を携え、手拭いと水を入れた竹筒を併せ持ち、日よけの笠まで被って外へ出た。



 案の定、板橋付近に付いた後の細かい路地で大いに迷い、実際に高杉が待つ料亭に辿り着けたのは、『旅籠・桃乃屋』を出て一刻が過ぎての事。刻限にして八つ刻に差し掛かろうとする頃になっていた。
 店の者に案内されて高杉のいる部屋へと案内してもらうと、それまでチョンチョンと聞こえていた月琴の音がふいに止む。

「来たか」
「すみません。お待たせしました。…っと…」

 部屋に入ると、高杉が馴染みにしているらしき女が月琴を鳴らす手を止めたままはつみをじっと見つめている。高杉が同席する酒席でよく見かける女性だ。彼のお気に入り…なのだろうか?―しかしながら、決して歓迎を受けている視線では無いことから察するに、女の方もいわゆる『高杉専』である事を自負しているかの様だ。
 しかし、敢えて言葉にして言うのであれば、はつみにとって『高杉の女事情』はさほど問題ではない。他人の恋バナとして興味があるかと言われればそれは勿論あるが、そこに自分が割って入ろうなどとは爪の先程も考えていなかったし興味も無かった。女の冷ややかな視線を受けながら入室すると、彼が座っている部屋の奥までは進もうとせず、開いた襖のすぐ近くに腰を下ろして正座をした。距離はあれど、視線はまっすぐに高杉を捕らえている。

「…それより高杉さん、毎日毎日昼間からお酒飲んでたら、体に悪いですよ?」

 高杉は、顔をみせるなり説教してきたはつみへ向けて露骨に表情を歪めた。

「なんだ、開口一番説教か?」

「違います。高杉さんを心配しているんです」

 『高杉晋作といえば結核』
 ―そんな情報が頭にあるはつみにとっては、高杉には日頃から身体を労わって欲しいと思ってこそ言うのである。彼がどこで結核菌に感染したのかは分からないが、それなりに健康を保つ様に心掛けていれば、結核が『発症』するのを抑える事ができるのでは?と考えての事だった。医療を専攻していないはつみにとって、予防接種も治療薬もないこの現代で彼の発病を防ぐにはこれぐらいの事しか思いつかない。
 ―それで万が一、高杉が結核を発症せずに済むのであれば、歴史そのものを変えてしまう事になる。それも大変な事だとは思うが、そもそも目の前でその人が『不摂生』をしている姿を見て、見ぬ振りをする事はできない。歴史の事が無かったとしても、人として彼の酒量には一言添えたいと思っていただろう…と、頭のどこかで自分に折り合いをつけながら、高杉の健康を案じているのは本心であった。

 しかし当然ながら、はつみのそんな思考など知る由もない高杉には、彼女の言う事がいちいちひっかかる。

「君は、僕が酒に飲まれる様なヤワな男だと思っとるのか?」

 『彼は日頃からこのような人物なのだろうか?』『それとも今は機嫌が悪いだけ?』―と、はつみの眉が俄かに潜まる。
 こう言っては何だが、今日は、たった一言『松』と書かれた伝言を受け、残暑ながらも炎天下の中を急遽ここまでやってきた。もっと言えば、いつもいつも長州藩邸から旅籠・桃乃屋まで紙きれ一枚の伝言の為に往復させられている、気の毒な下男の事もある。

 …こんな事を考えてしまう程の高杉の傍若無人ぶりに、思わず語気が強まってしまった。

「そんなんじゃないです。誰だって、いつもお酒を飲んでいたら身体を悪くしますよって話です。」

「フン」

「それで…今日はどんなお話があったのですか?」

「…まったく、つくづく色気も無ければ空気も読まん奴だな。ちっとはこやつを見習ったらどうなんだ?」

 そう言って、隣にべったり張り付いて酒を注いでくれる女から酌を受け、また飲み干す高杉。



旧イラスト
「……お邪魔でしたら帰りますけど。」  しかし、はつみの苛立ちがいい加減表面化してきた所を察したのか、それとも単に頃合いだと見計らったのか。高杉は極めて分かりやすく息を付いてから女に合図を出した。すぐに察した彼女は、最後に高杉の肩をひと撫でし、そのまま両手を床について首を垂れる。そしてゆっくりと彼の前を辞し、しずしずと移動し始めた。どうやら退出する様だ。 「……では、失礼致します。」  …退室の際、彼女ははつみのすぐそばを通り過ぎて行くと言うのに、会釈の一つも無ければ視線すらよこす事も無く、つんと首筋を見せたまま行ってしまった。心底どうでもいい色恋沙汰の矛先を向けられたと察したはつみは小さく息を付き、気持ちを切り替える様にして立ち上がる。そして、部屋の奥で手酌酒を煽る高杉の元へと真っすぐ進んでいった。 「それじゃ…、高杉さんのお話を聞かせてください」 「ふん。で?君はいつになったら僕に抱かれるんだ?」 「…はあ?」 「冗談だ。いちいち真に受けるヤツだな」  この空気でどういうつもりの冗談だ?と半ば本気で眉間にしわを寄せるはつみとは打って変わって、高杉の方は皮肉を交えた様な笑みを浮かべて『クッ』と鼻で笑っている。膳を避けて身を乗り出すと、『あーあー』と哀れむ様な様子ではつみの眉間の皴をつつき、からかった。 「寝るのは冗談だが、一つ提案があってな。…僕と土佐へ行かんか?」  またからかっているのかと思ったが、どうやらそうではない様だ。 「僕は長井を斬る。そして亡命しようと考えた。」 「ええ……」  高杉達長州の若手尊王派は幕府に対して破約攘夷を掲げ、藩主の東勤阻止に向けて裏工作を行っている。しかしそれを長井雅楽を筆頭とする俗論派が妨害していたのは、はつみも知るところであった。ところがどうやら、此度その裏工作が完全に水泡と帰したらしいのだ。  京、そしてここ江戸での斡旋活動を終え、公武合体論の道筋を強固に取り付けた長井は、長州へと帰路を取りすでに江戸を去った。萩では藩主東勤の為の大名行列の準備が着々と行われているらしく、京や江戸での成果を以て正式に藩主へ進言するつもりなのだろう。これに対し、高杉らの様な『江戸詰め』で動けない武士達ではなく『遊学』として江戸に来ていた久坂がすぐに動き、周布政之助と共に長井を追いかけたのだが、そのまま帰藩命令が出されるのではないかという懸念がされている様だった。帰藩すればまた許可が出るまで外へ出る事はできない。江戸や京での工作ができなくなるだけでなく、入れ替わる形で藩主が東勤に出立すれば、彼らは萩に閉じ込められるだけで何も出来なくなってしまうだろう。  特に久坂は尊攘派の志士としてすでに頭角を表している。これにより、高杉や桂らもまた、公武合体論へと傾く時世からあぶり出される流れが止められなくなるののでは無いかと強く懸念されていたのだった。  ―テコでも動かないものを排除するには、もはや破壊するしかない。  つまり、暗殺に出る事を、彼は決めた様だった。  長井が長州へ戻る前に斬り、そのままほとぼりが冷めるまで土佐へ亡命すると言うのだ。 「このままでは我が殿は俗論にたぶらかされたままじゃ。松蔭先生を殺したのも、元はと言えばあの長井だからな。ヤツは斬られて当然という訳だ。」  この時代の血生臭い所が、いよいよ目の前に迫る緊迫感を覚えるはつみ。そして何より、近々燻り続けていた高杉の言動についてまさに桂が言っていた通りとなった事にも驚きつつ、高杉との会話をすすめた。 「…桂さんは、この事を知っているんですか?」 「…いや。僕は、君に話をしている。」  どうやらはつみへ一番に話を持ちかけたらしい。…藩の大切な事を、何故自分に?と思うと同時に、桂に打ち明ければ抑止されると分かっているから、彼には相談をしなかったのかも知れないとも考える。暴挙に出た後の亡命計画を考えれば、他藩の者に相談しようという気にもなるかも知れない…。それでも自分を選ぶ理由としてはどれも弱い。何故?とも思うはつみであったが。  いずれにしても、桂が『はつみになら高杉を止められる』と言ったのは、こういう事を見通しての事だったのだろうか? 「確かに長井さんがいなくなったら、長州の方針は変えやすくなるかも知れないけど…」  はつみの口から否定的な言葉が出た瞬間、彼女が言い終わる前に高杉から懸念の声が放たれた。 「…君、桂さんに何か言われているな?」  発言の裏に潜む動きを暴こうとするその言葉から、どうやら桂から何かしらの先手を打たれている様子のはつみが気に入らないらしい。彼は途端に気を悪くした様子で反り返り、手元の酒を注ぎ始めた。 「…確かに、桂さんは高杉さんが無茶しないかと心配されていました。」 「なるほど。それで君がお守役を買って出たわけだ。」 「わたしがこうして高杉さんと話をする事は、お守をしている事になるんですか?」  否定もしないはつみに、高杉はますます得体の知れない怒りの様な感情が込み上げてくる。それでもまだ好きな様にしゃべらせてはいるが、最早まともな返事もせず、乱暴に酒を煽っては矢継ぎ早に酒を注いだ。  一方、はつみはにわかに震える手をぐっと押さえ込みながら、毅然と高杉を見つめている。  …震えているのは、高杉の不機嫌を目の当たりにしての事ではない。はつみにとって、今回の様な状況は何度も『シミュレーション』してきた事だったからだ。  ―なぜなら、この文久元年の夏、ついに、武市半平太を筆頭とする土佐勤王党が発足した。このまま『歴史通り』に月日がすぎれば、近い将来彼らは必ず、長州における長井雅樂と尊攘派の対立模様と同じ状況に陥る。  ―そして、彼らもまた『吉田東洋を斬る』と言い出し…それを実行に移すのである。  その事件で失われる命とは、大変世話になった吉田東洋のものだけではない。時勢をも巻き込んで巡りにめぐった結果、東洋の死を時世の中でうやむやにしなかった山内容堂によって、武市らもまた、終わりを迎える事になるのである。  …『それ』を彼らにさせなければ、土佐の大切な人達が殺し合うような事はなくなるかも知れない…。  ―ではその話が出た時、歴史の流れを運命の外へと持っていくには、一体どう対処すればいい…?  そもそも、そのように歴史を変えようとする事など、可能なのだろうか……?  そんな事を考えていた矢先に、まったく似たような話を高杉からもたらされたという訳だ。長井という大きな政敵を斬り、そしてこのタイミングで高杉が長州から亡命する…。歴史的にはどちらも無かった事だと記憶しているが、もし今起こりうるのなら、長州の在り方を大きく変える…そして『歴史』を大きく変えるその分岐点に突然投げ出されたのではと察し、震えを覚えていたのだ。  高杉がやろうとしている長井雅樂の暗殺が成れば、たとえその瞬間には突破口となり得ても、罪や遺恨を得る事に変わりはない。彼が突然亡命などと言い出したのはその『遺恨』から逃れる為のものなのだろうが、罪や因果応報とは生きる限り付きまとうものである。その結果、武市の運命の様に、一生足元にまとわりつく因果となりうる可能性も大きいのだ。  だが高杉にとってみれば、そんなはつみの奇想天外な事情からくる心情などわかるはずもない。  ―寧ろ今はただ、はつみに見え隠れする桂の影、いや、『他の誰かに言われたから自分に付き合っている』といった姿勢が気に入らないのだ。じろりとはつみを睨みつけ、気に入らないその言動を詰め始めた。 「お守でないと言うのなら君の意見を聞かせろ」 「上手くいかないから暗殺とか…そういう手段に出るのは、高杉さんの器じゃないと思います」 「器だと?君に僕の何がわかる。適当を申すなよ。」 「適当じゃないです!桂さんだって同じ事を言ってました!」 「…っ。」  高杉からすれば、これでも露骨に不機嫌を晒すのを我慢してやっている方だというのに、純真なのか鈍感なのか分からない程に傷口へ塩を塗る発言を重ねるはつみ。その上尚も、説教めいた反論が続いた。 「今長井さんをどうこうしなくても、長州に勤王の流れは必ずやってきます。その流れは高杉さんや桂さん達が中心になって作っていくものだし、この先高杉さんが長州にいなかったら、乗れる波にも乗れなくなってしまう時が来ると思います」  『知った風な口を…』とでも思っているのだろうか。高杉は黙ったまま意味ありげな視線を送り続けてくる。しばらく沈黙が続いた後、高杉は彼女を鼻先で嘲る様な態度で突き放した。 「…あいわかった、所詮これは我ら長州人がやらねばならぬ事。松陰先生の敵討ちでもあるしな。僕は君が理解できなくともやるつもりだ」 「え?ちょ…」  手にしていた杯を乱暴に置いた高杉が、刀を手にして立ち上がろうとする。これを引き留める様にはつみも立ち上がったが、横に並んだはつみを高杉は睨み付け…いや、睨み上げ、ますます心がムキになっていくのを自制できずにいた。話の根幹とは関係ないが、自分より背が高いのも気に入らない。つくづく『好みでない女』だと。…自らの私情が見え隠れしてしまっている事に気付きもしない様子で、引き続きはつみを責める言葉を並べ始めた。 「君は桂さんに言われていたから僕の話を聞き、そして桂さんの意見に基づいて反論しておるのだろう?先だっては面白い奴だと思うておったが、そも長州人でもない君に長州の行く末にかかる話を持ちかけた僕が間違っておったわ。―胸糞悪い!」  まるではつみが高杉の期待を裏切ってしまったかの如く傍若無人な物言いであったが、じゃあ何を裏切ったのかと考えれば、ただの『焼き餅』とも取れてしまう。要するに、自分だけはとっておきの話を期待して待っていたというのに、他の男に先手を打たれ、その通りに動いて自分に反論を申し立てている彼女が、至極気に入らないという主張に聞こえてしまう。  はつみとしては当然、『そんな事がある訳ない』と、即座にその考えは切り捨ててしまうのだが。  そして高杉にも、はっきりとしたその自覚はない。  ただただ、気にはかかるが癪に障る女であると。   …捨て置けない、不愉快な女だという印象だけが先行していた。 「―君との話は終わりだ。君が去らないなら僕が去るまでだ!」 「―えっ、待ってください、高杉さん!」  高杉ははつみを押しのけて部屋を出ようとするが、慌てて引き戻そうと腕を掴んできた彼女を更に振り払う。 「いよいよふしだらな女だな!武士の袖に縋りつくなんぞ、抱き捨てられた女のやる事だ、弁えろ!」 「ふしだら…?」  かくいうはつみも、こう見えて土佐参政の吉田東洋らから一目置かれる程の論客である。この時代、喧嘩となれば大声での罵詈雑言が飛び交うのも当然のことで、気の強さがなければ動揺しうる場面で絶対的な俯瞰の意見を述べ、土佐の熱血漢達を何度もうならせてきた。女だからとか器量がどうとかいう、そういう見かけ通りの『朗らかふんわり気質』という訳では決してない。…つまるところ、目前の高杉が織りなすその理不尽な我が儘っぷりに、とうとう、単純に、人として、腹が立つのをこらえきれなくなっていた。 「その男装は一体何の為だ?男の格好をして時世に首を突っ込み、価値ある桂さんの様な人の懐に入り込んでから、女の弱みを見せて秘密を握るか。―ハッ!なるほど、間者としては使えるかもな。だが僕は、そんなやり口で男の懐に入り込む女がいちばん反吐が出る」 「…はあぁ???」  かの幕末の英雄『高杉晋作』。  その人を表す言葉としては、暴れ牛、陽頑、電光石火などと評され、一方では傍若無人で短気、猪突猛進な様子、武士としてのプライドの高い様子、そして賢がりな様子もまた、彼の人間味深い所を知れる逸話として後世の人々から広く愛されるものとなっていた。  …はつみが実際に目の当たりにした彼もまた、概ねその通りであると言える。だがそこには、やはりどこかで『歴史上の偉人』としての彼に対する無条件のリスペクトや、贔屓目の様なものがあったかもしれない。  今、この時点で、はつみの中にあった高杉晋作という男に対する『気遣い』の様なものが、焼き切れてしまった。 「…高杉さんが私の行動をどう言うかは、この際どうだっていいです。土佐でも長崎でも、好き勝手に色んな事を言う人はいましたから。」  声を荒げるでもなく反骨の波動を放つはつみ。天真爛漫だと思っていた彼女から発せられる、感情を押し殺したかの様な冷たい声は、その響きだけでも意外性を高め、高杉の胸をぐっとしめ上げた。だが当然、その程度の事に怯む様な彼ではない。 「申し開きもせんとは、いよいよ―…」 「―だけどそんな言い方は、私を信頼してくれた桂さんを侮辱している事にもなりますよ?」 「なに?」 「高杉さんは、桂さんがわたしとお話してくれる様になったのは、色気仕掛けなんかに屈したからだとお考えなんですか?」 「そうは言うておらん。」  正直、思いもよらず痛い所を突かれたとも思う高杉だったが、表情が変わらない様に堪えてはつみを睨みつける。まったく面倒な事に、彼女もまた、負けじと真正面から睨み返し…いや、睨み『下し』ながら、更に反論を続けて来た。 「ていうか何なんですか?さっきから。桂さんがどうのこうのって。高杉さんが今日わたしをここへ呼び出してお話してくれた事って、こんな話じゃなかったですよね?」 「煩い奴だな…」  そしてはつみもまた、日頃は察しの良さも際立つし時世を俯瞰で語る事もできる一方で、自身に向けられる感情に関しては察しの悪さが際立つ。激情家の割に素直になれない節のある高杉とのやり取りは劇薬となる事も想定できるが、その逆もまた然りといったところだ。つまり、かみ合わせが悪い時はとことん悪いと言える。 「わたしが桂さんに言われて来た事が気に入らないのかも知れませんけど、桂さんに関係なく、わたしの意見を言わせてもらいます。」 「…とっくに言いまくっておるだろうが」 「今、藩政改革が大変なのはわかります。だけどそんな日和見の殺人ばかりを続けていたら、混乱を招くばかりです。国力も安定していない上に井の中の蛙のままでは、世界の列強とまともに渡り合っていくなんてできない。高杉さんはそれを分かっているから、西洋式の富国強兵諭を強く唱えていたんじゃないんですか?」 「藩政を掌握した後は、成破の盟約に基づいた政策がとられる。指針は定かなのだから混乱する事はない。富国強兵については君の言う通りでもある。だが、どの政策の下でそれを行うかを考えねばならん。今はダメだ、それでは長井の航海遠略策と同じになると話し合うただろう。」 「だからといって殺人はダメだと言っているんです。桜田門外の変があって、世の混乱を招いた井伊大老が殺されて、幕府は何か変わりましたか?時世は何か変わりましたか?変わっていないから、今も高杉さんや桂さん達は勤王を唱え続けているし、幕府自体の糾弾や幕政改革を目指しているんじゃないですか。殺しても意味がないのなら、殺さない方が将来の為になる事だってあります。」 「それは腐っても幕府じゃ。脳無しの大老が一人殺されたくらいでは抜本的な改革にはならん。新たな大老の首に挿げ替えられるだけじゃからな。そのような事は皆わかっておる。大事なのは幕府に風穴を開け、平和呆けした上に帝への不敬を省みぬ奴らの目を覚ます事。諸藩にもこれを知らしめ、その上で幕政改革を行うことじゃ。その意味では桜田の事も十分に意味はあった。」 「でも西洋列強は内乱で自ら勝手に衰退していく日本の回復を待ってくれる訳ではありません。国内の混乱と消費、そして人材の枯渇は、そのまま国力の低下となって海外からの侵略を許す事に繋がります。」 「なればこそ、急がねばならん。急ぐのならば目の前の壁は迂回せず突き壊すまで。破城槌の如くな。」 「…だから、どうしても力任せに事を成したいのなら、殺すのではなく拉致でいいじゃないですか。殺すのはダメなんです。もう戻ってこれないし、その遺恨はずっと根深くて、高杉さんを追いかけ続ける事になるんです。」 「―ハッ。その顔でよう言うたとは思うが、まだまだぬるいな。遺恨が怖くて刀が持てるか。」  ここで、白熱する応酬は振り出しに戻ってしまった事に二人同時に気付いてしまい、言葉が掻き消えてしまう。…というのも、一見ここまで意見が対峙している様には見えるが、時世に対する根本的な考え方はやはり限りなく寄り添っている二人なのである。ただ目の前の壁をいかにして突破するかという点について、高杉は命を省みないという点においては最も『武士』らしい主張をし、現代人であり生死の一線から遠い所で心穏やかに平穏に生きてきたはつみの感覚では、それはないと主張をする。このすれ違いであった。そして、はつみにとってはやはり、『歴史』の事もある…。 「…誰かを斬る事や、その為に罪を得る事を、高杉さんが恐れている訳ではない事はわかります。武士は、そういうものなんだって…なんとなくだけど理解しているつもりです。だけど実際、そのせいで処罰や報復を受ける様な事があったり…この先もっと長州が危機に陥る事になった時に高杉さんが長州にいなかったら、誰が長州を支えるんですか?」 「その時は桂さんなり久坂なり、旗を振れる者はおるだろう」  躊躇う事なく信頼する仲間の名をあげる高杉。  とはいえ、彼女は一体どこに視点を置いているのかと疑問に思う瞬間が湧くぐらい、随分と飛躍した話ではないかとも思う。しかし不思議な事に、こうしてはつみの真剣なまなざしを見ていると適当な事を言っている風にも思えず…本当に自分の事を考え、己の言葉でそういってくれているのだろうか?という気持ちと共に、彼女には桂の息が、他の男の息がかかっているから今ここにいる。暴れ牛の歩みが留まる様、耳障りの良い事を言っているだけに過ぎないのでは?―と思ってしまう自分もいる。 「―何故そのような事を言う?」 「高杉さんは、長州に必要な人だから…」 「……」  真っすぐにそう言われ、思わず胸に刺さってしまった。  …近々で、自分がこうして昼間から女酒に入り浸っている理由の大きなところは、桂や久坂らの工作活動に際して自分の最も推すところとする策がなかなか聞き届けられない、適用されないという事にある。熊本の西洋識者である横井小楠を招致するのも、西洋式富国強兵を急ぐべきと進言したのも、『今は時期が悪い』『今はまだ時が早い』と言われ、横に置かれて来た。その理由も論理的には分かってはいるが、しかし、主に仕える武士として今必要だと思った策をこれだけ進言しても聞き入れてもらえぬというのは、すなわち『己の発言は求められてはいない』『必要がない』と言われているも同意義ではないかと思う所が、彼の中ではどうしても大きく反響してしまっていたのだ。  それでも桂や伊藤俊輔などはよく話を聞いてくれるし、久坂らも松下村塾で切磋琢磨し合っただけあって信頼のおける、頼れる仲間だ。間違いはないと思っている。  だがそれでも内心の奥深く、頑固なだけに誰にも晒せずにいた所に手を伸ばしてくれたのは…直感で『面白い奴』と思った、彼女が初めてだった。  『高杉さんは、長州に必要な人だから』    その一言が高杉の胸にどれだけ刺さったかも知らず、はつみは更に言葉を続けた。 「長州が立ち上がろうとする時、高杉さんの知識や存在そのものが絶対に必要になる時がくるんです。だから今、高杉さんが暗殺だなんて手段に出て亡命までするなんて事が、本当にいい案だとは思えません。…きれいごとにしか聞こえないかも知れないけど……」  明確に思う所があるというのに、やんわりとしか説明できない事に、はつみは目を伏せ口角を引き縛って俯いた。この先『歴史通り』に時世が進めば、長州内において数度に亘って起こる藩政の掌握と解放だけでなく、西洋艦隊による砲撃や幕府の長州討伐への対応など、高杉が中心となって対処する重要な出来事がいくつもある。長州が高杉を必要とするという根拠はこれだ。  しかしはつみには、それを説明する事ができない…。  この先何が起こるかという事を自分だけが知っていても、彼らやこの時代の人達に説明してはならない気がしていた。『長州には高杉が必要だ』と言ったとて、根拠を説明しなければただのきれいごと。ただの壮大な夢や希望、都合のいい妄想を語っているだけに過ぎないのだ。  だから、中途半端に口にしてしまった事を却って後悔し、言葉がしりすぼみに消えていく。  一体どう伝えたらいいのだろうと、唇を噛みしめて俯いてしまっていた。  そんなはつみを目の前に見て、高杉は思う。  ―なぜ君が苦しそうな顔をするのだ? と。  単純に、喧嘩腰に詰められて苦しそうにしている訳ではない事は伝わっていた。彼女が今言葉にしている以外にも何か思うところがあって、それを言えずにいるのであろうという事に気が付いたのだ。長州に自分が必要だと言い切ってくれたその言葉や一貫して変わらない根本的な主張から、彼女の言葉に嘘はない様に思える。だが、彼女には『桂に言われたからここに来た』という事実もある。  …僕の為を思っての事ではなく、桂の役に立ちたくてここにいるんだろう?  なのに何故、何がそんなに苦しいんだ?  それは、僕の事で苦しんでくれているのか…?  ―渦巻く考察の最中で明確に言える事は、  『君は誰の為を思って今ここにいるのか』  『すべてを聞き届けたい』  『知りたい』  こういった衝動が際立っていったという事だった。  反論もなく黙っていた高杉であったが、突然はつみの肩を掴み、力任せに引き寄せる。 「きゃ!?」  足払いをして軽々と押し倒し、組み敷く様にして両手首を抑えつけ、馬乗りとなった。身長ははつみの方が高くても、力の差はあまりにも歴然としすぎていた。四肢をついてはつみを見下ろす高杉は、驚き硬直する彼女をジロリと睨みつける。 「…そこまで言うのなら、体を張ってでも僕を止める覚悟があるのだろう?」 「え…―っ!?」  そこからグイと胸元を押し広げられて目を剥くはつみであったが、そんな状況にあってもここは冷静に務めようと、ぐっと堪える。―恋愛経験の少ないはつみの直感など信じるに値しないものではあったが、本能的に、また何か『武士に試されている』様な煌めきを彼の瞳の奥に感じたのだ。  ―心臓は口から躍り出てきそうな程にドクドクと脈打ち、顔も火が出そうなほど熱い。押し広げられた胸元に外気を感じて体の芯から震えが来たが、逃げ場を封じる様に腰の上に跨ってこちらを見下ろす高杉の視線からは逃げ出さない様、荒れる呼吸を抑えつけながら唇を噛んだ。 「……。」  胸元を剥いだ手をそっと握り締めてきただけで抵抗を示さないはつみを、高杉はじっと見下ろす。 「…なぜ逃げん。」 「…さっき…色仕掛けをするような女は反吐が出るって言ってたし…わたしはそんな事しませんけど…何か、試されてるのかな…とか思って…」 「都合のいい解釈だが、間違っているな。君は武士というものも分かっとらんが、男も知らんのか?」  口元を僅かに歪め、逃げるも自由だと言わんばかりの沈黙を挟む高杉。突然男に押し倒されたのだから流石に不安や恐怖で泣き出しでもするかと思っていたが、はつみの表情に強張った様子はあれど、恐怖で取り乱す様な色は伺えない。…それとも、男装をして男達の中に飛び込み、武士である自分に真っ向から反抗し説教をするだけあって、危機感のない馬鹿な女なのか?…或いは本当に、色仕掛けで情報を得る事に慣れ、男を手玉に取ってきた女なのだろうか…? 「…逃げぬのなら、このまま抱くぞ。君の本心が聞きたいからな…」  疑惑はさておき、華奢な両肩を上から抑えつけると、はつみの反応を愉しむかの様に顔を近づけていく。彼女の言う通り、本気で肉体的な悦楽を求めての行動ではなかったが、もしはつみがこのまま無抵抗であり、男を色仕掛けで捌く様な売女同等の女であるなら、『浮世離れした器量を備えた珍しい男装の女』として、一時の慰めに手籠めにしてやろうと思わないでもない。  ―ただその場合であっても、彼女の思い通りにはさせない。  痴情に絆され、洗いざらい喋らされ、こちらの言い分を聞かざるを得なくなるのは、彼女の方だろう―。  強張るはつみの顔が、高杉の影にゆっくりと隠れていく。押し広げた襟元の間から、白く美しく伸びた鎖骨と、乳房へと続く滑らかな膨らみが見えた。その左右中心からすらりと首筋が伸び、高杉はまるで誘いを受るかの様に、唇を寄せていく。 「ーっ…!?!?」  高杉の髪がふわりとはつみの頬に触れ、くすぐる様にゆっくりと輪郭をなでると、咄嗟に息を飲んだはつみの喉が閉まるのを感じた。構わず首筋の近くですうっと深く香りを嗅ぐと、ぎゅっと肩が強張り、彼女の吐息が短く途切れ途切れになって震えるのを耳元に感じる。散々生意気な事を豪語していた割に、こんな小手先のふれあいで初心な反応を見せるはつみに対し、経験が豊富だとはとても思えず、鼻で笑った。 「…フン。桂さんに『高杉を止めろ』と、そう頼まれたのだろう?  僕を止めたいのなら、もう少しでも艶を出してみたらどうだ…」  赤く染まった可愛らしい耳たぶのそばへ唇を寄せ、『そうすれば、聞いてやらんでもないぞ』と怪しく呟くと、面白いほどにまた反応を見せる。彼女の背後に、桂が…別の男がいると悟ってから感じていた釈然としない腹立だしさは、まだ腹の奥に残っているが、それでも今この瞬間は、完全に主導権を握れた様に思えていた。  ―そんな折、はつみが少しだけ顔を向けながら、震える声で問いかける。 「…高杉さんの志は、女の人を抱きさえすれば、簡単に辞められるものなんですか…?」 「………なんじゃと…」  優勢の立場にありながらも、その一言には聞き捨てならないとばかりに、高杉の動きが止まった。ゆっくりと頭をあげると、望まぬ男に今にも犯されようとしていると言うのに、何の情緒も沸かない反抗的な視線でこちらを見るはつみの顔があった。押し付けた肩も、声も、はだけた胸元も全てが『望まない』とばかりに震えているのに、その視線だけは…深い翡翠色に鼈甲の滲む美しいその瞳だけは、気高ささえ感じさせる程に、真っすぐ高杉を見据えている。 「…その程度のものなんでしたら…  …本当に私の『解釈違い』なのでしたら…   …正直、見損ないました。」 「………」 「…それで気が済むなら、どうぞ、好きにしてください。」  はつみは目を閉じ、震える胸元に深く息を吸い込んではゆっくりと吐き出し、覚悟を決めた様に動かなくなった。上に覆いかぶさる高杉もはつみを見下ろしたまま、動かない。…いや、動けずにいた。  ―いちいち痛い所を突いて、見透かしている様な発言や視線が実に気に入らない。  …そして実際、今の彼女の言葉とこの状況を鑑みて、返す言葉がない。  やはり彼女とは、その言葉も、肌でさえも、重ねるにつれて苛立ちの色が濃くなっていくのは明白だった。  …それでも不思議かな、日本の行く末を思案する方向は奇妙な程に同じで。  彼女の話を聞くのは面白くもあり、  興味深くもあって…  もっと知りたい、  もっと知ってほしいと思う…  …しばらくすると、とっさの行動に出た高杉の方が折れた。 「…やめだやめだっ!つまらん。」 「……。」 「君と僕とは、相性が悪い様だな!」  はつみの上から退いた高杉は勢いよく立ち上がり、捨て台詞の様にそう言うと再び座に戻っていった。襟元を直しつつ起き上がったはつみは、乱れた袴をバンと叩いて織り込むと背筋を伸ばし、改めて正座をする。 「おい、居るか!酒を持ってこい!」  その間に手酌酒をしていた高杉は酒が少ない事に気付き、外に向かって叫んでいた。察するに、先ほどの女を呼びつけている様だ。そんな自分へいぶかしげな表情のまま視線を投げてくるはつみには見向きもせず、再び酒を注ぎながら高杉は言った。 「桂さんに伝えろ。僕は心配に当たる様な真似はしないと。」 「…本当ですか?」  はつみの念を押す質問に高杉は答えず、ヤケクソの様にまた酒をあおる。そんな高杉に一抹の不安をぬぐいきれないはつみは、襖の向こうの廊下を女が歩いてくる気配を感じつつ、高杉をじっと見つめた。 「…高杉さん」 「………」  高杉はよほど機嫌を損ねたのか、一切、返事をする気配も見せない。  あの高杉晋作を、怒らせてしまった…。  だが不思議な事に、こうして彼と対峙していると、どこかわがままな青年と向き合っているだけの様な気もしてしまう。  『勝手に拗ねてればいいじゃない』と。  ―悪く言えば敬意が足りない、だが善く言えば、親しみと共に等身大に彼を感じている。  …これもまた、まったく世界観の違う場所で生まれ育ったが故のズレ、自分特有の感性であり価値観というものなのだろうか…。  ―いずれにしても、はつみはあの『暴れ牛』とも評された高杉晋作に対して萎縮し、閉口するという事もせず、嫌でも耳から言葉は聞こえているだろうと高を括る拗ねて黙っているならはなく、ただ伝えるべき事を伝えようと努めた。 「…高杉さんがこの先も無茶をしないと約束してくれるなら…その代償として本当にわたしなんかをご所望なのであれば、さっきみたいな事も覚悟を決めます。それでも、私はこの時代を生きていく為に自分が女である事を武器にしている訳じゃないし…好きな人だっています。その意味を十分に理解してくれるなら。」  『好きな人』とは桂の事だろうと早合点しながらも、はつみに横顔を向けたまま次々に酒をあおる高杉は『ちっ』と舌打ちをして返答する。 「…『この時代』か。はっ、時代を語るにしては考えが甘いな。目の前に欲をぶら下げて交わしたどうでもいい口約束を、本気で守る者が世の中にどれだけいると言うんだ?」 「武士に二言はない、とはそういう事じゃないんですか?」 「単純にそれを鵜呑みにしておる様では、『この時代』を語るなんぞ100年早いな。」 「そうかもしれないけど…!高杉さんは長州にとって大事な人なんです!だから、わたしに差し出せるのはこれしかないから…」 「もういい!黙れ!」  カタンッと音を立てて、手にしていた杯を不機嫌そうに盆の上に捨て置く。そしてようやく、はつみへ視線をやった。射貫く様な、強い眼差しで。 「―君はよっぽど桂さんの味方をしたい様だな。…僕の話を聞くのではなく…。」 「…『桂さんの味方』…?」  はつみが言葉を失った瞬間に、間合い良く先ほどの女が外から声をかけてきた。高杉は女に入室を促し、現れた女はまっすぐに高杉の傍へ向かうと、艶めかしい動きで腰を下ろし、酒瓶を手にする。  …出る幕のない部屋の雰囲気に、退室を余儀なくされたと感じたはつみは潔く両手をついて首を垂れた。 「…高杉さんを信じています。高杉さんは大丈夫だって、『桂さんにも』伝えておきますから。」 「……ちっ」 「………。」  高杉からは、もう舌打ち意外に何も返答が来ないであろう事を悟ったはつみは、深々と礼をしてから部屋を出ていった。  …はつみが出て行った部屋は、不自然な程に静まり返る。  そんな中、これまではつみの方など見向きもしなかった女の目が、先ほどまで彼女がいた場所を無表情で見つめていた。そして、一言も発しないながらも、どうにもこうにも腑に落ちていない表情を浮かべている高杉の横顔へ更に近寄って、問うた。 「高杉様…あの勇ましいお嬢さんに惚れてますのん?」  女の質問に、高杉は視線も投げずに鼻で笑った。 「ーハッ。あれは真にやりにくい女じゃぞ。誰が惚れるか。」  平然とした様子で答えた高杉であったが、手にしていた杯を盆に置くとそれを払いのけて突然女を押し倒した。有無も言わさない様子でその唇に吸い付き、着物の裾を捲し上げる…。  その様子は、何か雑念でも振り払うかの様に、強引で一心不乱だった。 **********  店を出たはつみは、晴れ渡った明るい空の下で顔を曇らせていた。  高杉を怒らせてしまった事を心配しているのは勿論だし、思いもしなかった展開になった事にも思考を巡らせるべきであったのだが、『君とは相性が悪い』といわれた事が、自分でも驚くほどに突き刺さっていた。『桂の味方なんだな』という言葉もひっかかった。男を色気で手玉に取る様な女だと思われているかも知れない事にも傷付いた。  …要するに、心の中はぐちゃぐちゃだった。  彼にとって、自分が傍にいては苛立つ素でしかないのだろうか?  『女』を武器にしたくないと言いながら、今回の様に相手がそれを望むなら自分は体を投げ出す覚悟があると言ったのも、矛盾してはいないだろうか?  そもそもそんな、『性』を取引に使う覚悟など、本当に自分の中にあったのだろうか?今日は、高杉の方から『鎌』をかけて来た感が否めない。彼が本気でないと心のどこかで決めつけていたからこそ、あんな大胆な事を言ってのける事ができたのではないか…?  …高杉は傍若無人だし、伝え聞く『暴れ牛』そのものだ。  だが、それは彼が実直な性格である事も表している。  ウワの言動が大嫌いで、自分を誤魔化して生きる事を苦手とする、まっすぐな武士だ。  そんな彼に対して、とても卑怯なやり方ではなかっただろうか。  もしあのまま、自分の見込み違いで本当に行為が進んでいたとしたら…  受け入れたんだろうか。まだどうなるかも分からない、未来の高杉と長州の為に。 …武市への想いがちらつく、この心を押し殺してでも? 自分でも自分の気持ちの整理が付かないままため息をつき、はつみは店を去っていく。 そして桂に報告する為、長州藩邸桜田上屋敷へと向かうのだった…。 暴れ牛・前編