陸奥陽之助関係年表

※創作ネタは含まず
※最終更新2021.10.20

弘化元年7月7日、和歌山生まれ。
父・和歌山藩士伊達藤二郎宗広・勘定吟味役。
幕末維新期における有数の文人・歌人であり、嘉永元年に成った『大勢三転考』は 明治以前の代表的史書の史書として注目される。

嘉永5年藩政改革の為父宗広失脚。伊達家は一切の家禄を失い路頭に迷う。 小次郎、幼年ながらも父の為に憤り報復を叫び、天領の代官になる事を勧められこれに励む。

安政4年伊達一家、伊都郡入郷村の庄屋に住まいを提供してもらい、岡家の世話になる事で落ち着く。
大和五條の森鉄之助食客となり漢学や算術を学ぶ。

安政5年
中村小次郎15歳、高野山江戸在番所の寺男として江戸に出る。 困窮を極め筆耕(書き物)等の内職などで口を糊し(ギリギリの生活)三年間をしのいだ。

文久元年
父、兄、許され和歌山に帰る。
父に会う為帰京するも再度江戸へ向かった。 この頃安井息軒を知り、安井もまた陸奥の才能を認める。『昌平黌』へ推薦か?

文久2年正月、兄宗興の手紙により昌平黌へ通っている事が書かれている。(儒官の推薦がなければ入れない)
2月、安井息軒『三計塾』に入塾。
(明治以降陸奥と親しかった大江卓回想)
→「この頃陸奥は病気をして医者宅で養生していた際に治療に来ていた女がいた。 狭い家の中で朝晩顔を合わせ、陸奥より年上であったが苦労人であった陸奥を可愛がった様で 好い仲になったとの事。彼女は江戸深川(花町)の芸者で名を香川といった。
後に吉原「稲本楼」に努め、その頃よく吉原へ通った」
(伊藤俊輔曰はく)「吉原通いが露見して破門された」
また一説には、陸奥はとにかく有能だが態度が悪く周囲の塾生を見下し調和を乱す気があった。 その為安井は陸奥を破門としたともある。いずれにせよ陸奥は破門された。
安井の後輩である水本成美に学ぶ 水本の書生をしている頃、鍛治屋橋屋敷で山内容堂に会っている。(大江談)

義兄宗興、尊王攘夷活動に携わる為脱藩する。

文久3年義兄宗興、赦され帰藩する。紀州担当{他藩応接役ってこと?}として京で活動する。
3月、坂本龍馬と出会い海軍塾に入る。
6月、将軍上洛に伴い京・大坂入りしていた勝海舟に対し水戸の兜(甲)惣助と大和の乾という浪士が天誅を企てるも、情勢を探るうちに勝に感化されてゆく乾。兜はこの乾を殺害せしめようと拉致したが、親友であった陸奥が一早く異変に気付く。その時既に発足していた勝海舟の塾に坂本龍馬なる主要人物のもとへ駆け付け助力を申し出る。龍馬が損得関係無しに決闘を受けてまで乾を助けた事、勝海舟が介入した事によって乾も龍馬も無事の内に事が収まった事を受け、龍馬の元(勝門下)へと合流した。
11月24日、紀藩伊達小次郎として広瀬元恭の『時習堂』に入塾する。

元治2年(慶応元年)
4月、西郷、小松らと鹿児島へ至る。以後薩摩藩士として活動。
5月、汽船開聞丸購入の為小松と共に長崎へ至る
亀山社中発足。同門(安井息軒)の池内蔵太。
錦戸広樹という名を用い、白峰駿馬らと共に英語教師であった何礼之助の塾へ通う。 (何家の日記には陸奥の動静が名指しで記されており、100人を超える塾生がいる中で 特に注意を向けられるべき人物とされていたと解釈できる。)
同時期、英国長崎領事館のラウダ―に英語習得の相談をし、長崎~上海間のイギリス船に乗り込んでいた。

慶応3年4月、海援隊発足
7月、「商法之愚案」の執筆完了。
「商船運送之事」「取組商売之事」「商船より船持に運上を出せしむる事」国際商法(主にイギリス)を引き合いに、商業による利益をいかにあげるかといった論文。company(株式会社)についても論じている。
8月、「商法之愚案」を龍馬に見せる。
龍馬は「商法の事については陸奥さえウンと言えば金の事はどうにでもするよ」と大絶賛している。この後、商事担当となり一切を任される。

11月15日、近江屋事件
12月7日、天満屋事件に白峰らと参加
12月末、兵庫開港大阪開市
土州陸奥陽之助としてアーネスト・サトウを訪ね、新政府の認知と急務について話をする。
「維新の急務は到底開国進取の政策を執らるるの他策なし」と岩倉に説く。

慶応4(明治元年)
1月、外国事務局御用掛
3月、徴士外国事務局権判事
4月、『人材登用』についての意見書を兼ねた辞職願を提出。
閏4月16日発行『中外新聞』にこの意見書が掲載される。 儒学に倣い明治新政府の方針を称賛した上で「自分の様に能力のないものが外国事務局判事の 重職を得てしまっている。」と(思ってもいない事を)書く事で、能力本位の人材登用が 行われていない事を訴えている。 (この頃の太政官の人選についてはアーネスト・サトウも『現状において高貴な生まれの 傀儡達が要職を独占しており、実務派その配下たちによって担当されていた。 太古からの地位や先例は実質的に何の意味も成しておらず、そうした古い地位は 名簿から消し去らねばならないだろう』と記している。)
5月、会計官権判事。鉱鉄船購売御用中会計事務局兼務の為。小松帯刀(外国事務局判事)が米軍艦ストーンウォール号の名義変更および引き渡し要求に成功するが金銭が足りず、その金銭工面の為に陸奥陽之助が会計官権判事へ異動となった。
大阪の商家相手に見事成功し、名を挙げる。
6月、会計官権判事を免ぜられる。会計官総裁であった三岡八郎(由利公正)と意見が合わず、口角沫を飛ばし大に激論する事数回に及び、故ついに会計官を免じられたとの事。
大阪府権判事となる。後藤象二郎の周旋を受け。


明治2(1869)
1月、摂津県知事となる。(豊崎県と改称されたので豊崎県知事となる)
6月、兵庫県知事(前任は伊藤俊輔)
8月、兵庫県知事を免じられる。中央政府において大隈伊藤の開進派と保守派との間に 氷炭相容れざるものがあり、各県知事の属する党派に因って免ぜられる者多く自分もその一人だったとある。
10月、大隈伊藤らに上京を促されるも辞退し和歌山に帰り藩政改革に参与。



明治3年3月、和歌山藩執事として渡欧。イギリス、ドイツ(プロイセン)、フランスなどに滞在。



明治4年5月、帰国。和歌山藩庁に出仕。
6月、和歌山藩藩戌営都督心得・権大参事。鳥尾小弥太、林董、星享、小松済治などがいた。
8月、神奈川県知事。大江卓、神鞭知常(安井息軒門下)らに助けられる。

明治5年4月、「田租改正議」を建白。参議大隈重信や大蔵大輔井上馨の認める所となる。
6月、大蔵省三等出仕兼租税頭

明治6年7月、岩倉使節団一行から一足先に帰国した木戸に留守中の事情を伝える。
10月、西郷、板垣、江藤、後藤、福島らが辞任。下野する。

明治7年1月、1日、藩閥政権を批判した「日本人」を木戸に提出する。
15日、征韓論に組する者にあらずとするも、下野して運動するが得策として辞任する。
17日、板垣、後藤らが「民選議員設立建白書」を提出
2月、佐賀の乱

明治8年2月、木戸が大阪会議で示した申合せの草案には陸奥によって書かれた部分がある。
4月、元老院議官。「立法の源」たる元老院の議官に任ぜられ期待に勇んでいる。
他、後藤象二郎、由利公正、福岡孝弟、山口尚芳、吉井友実、島尾小弥太、
三浦梧楼、津田出、河野敏鎌、松岡時敏、加藤弘之。
7月、元老院議官追加任命→佐々木高行、斎藤利行、有栖川宮熾仁親王、柳原前光、佐野常民、
黒田清綱、長谷信篤、大給恒、壬生基修、秋月種樹
11月、元老院幹事

明治10年
1月、元老院副議長に仮任。地方制度改革を建議。
12月、刑法草按審査委員。


も、もういいや…
以下略
1978.6土佐立志社陰謀事件で拘引される
1883.1宮城監獄より出獄
1884.4~86.2欧米歴訪
1887.4特命全権公使
1888.2ワシントン在勤仰付
1890.2メキシコ駐箚公使
1890.5第1次山県内閣農商務大臣
1890.7~91.9衆議院議員
1891.5~92.3第1次松方内閣農商務大臣
1891.8~9内閣政務部長
1892.3枢密顧問官
1892.8~96.5第2次伊藤内閣外務大臣
1895.2日清講和条約全権弁理大臣
1897.8.24死去