浅草クリスマス:後編



―文久元年の冬至は十一月下旬に迎えており、日の入り自体がかなり早くなっている。加えて今日の天気は重い曇天だった事もあり、日中の日照そのものが殆ど無い。そんな中、高杉が豪語した通り二人は仲見世通りを片っ端から見てまわったのだが、あまりにも楽しかったせいか、荘厳な浅草寺への参拝を終えた頃には、すでに陽は大きく傾いていた。

 まだ暮れ六つでもないのにぼちぼちと灯篭や提灯が灯り始め、闇をはらんだ寒さは骨身を刺す様なするどさへと変わっていく。あれだけ賑わっていた仲見世通りも、一部の酒盛りで賑わう店以外はほとんどが仕事じまいで、屋台も人もどんどん捌けていた。昼間は楽しく賑やかに過ごしていた空間が、また一味違う、どこか切なげな冬の夕暮れと静けさの趣を帯び始めていた。

 提灯に照らされる浅草寺の参道・仲見世通りを戻る途中で、まだ商い中の茶屋を見つけ、そこで一旦腰を落ち着かせる二人。どちらも江戸出立の支度に追われる身ではあったが、今日という短すぎた一日の余韻にもう少しだけ浸っていたいという気持ちを持ち合わせていた。それを『一旦体を温めよう』という事にして、立ち寄ったのである。


 はつみはおしるこをいただき、高杉は甘酒を頼み、大きな火鉢を二人で囲む。
「あっ…凄い、見てください。灯篭や提灯に全部明かりが灯りましたよ…!」
 ちょうど、はつみの席から窓の外を見やると、灯籠や松明に照らされた浅草寺が夕闇の中で静かに浮かび上がって見えていた。参道に沿うように提灯が吊るされた仲見世通りの風景も相まって、素晴らしい光の景観となっている。
「この茶屋が遅くまで商いをしておるのも納得だな」
「はい。しっかり夜になったら、もっと綺麗なんだろうなぁ~」
「夜か。」
 『なんなら朝帰りにするか?』などと、軽口程度に思ったりもした高杉であったが、かつて伊藤俊輔に向けて放った『あやつは僕が抱くような女子ではない!』という言葉がまたもや頭をよぎり、不自然に言葉を飲み込んでしまった。あの言葉の何かが自分の歯止めになっている事をなんとなく察するのだが、はつみはというとそんな高杉の微細な心の状態など知る由もなく、他愛もない話の続きをしていた。

「今日は、本当に喧嘩ナシでしたね♪」
「…別に。これまでも喧嘩をせん日ぐらいあっただろう」
 何を言うかと思えば…と、やや力の抜けた視線を送る高杉に、はつみは悪戯っぽさを滲ませて微笑む。
「そうですけど…高杉さんに会えるのも最後かも知れないなって思ってたから、折角なら円満で楽しい思い出にしたいなって。ほらわたし、平和主義者なんで」
「ハハッ。いっそのこと幕府などいらんなどと言う日本一過激な輩が、どの口で言うておる。」
「あはは!それ!俊輔くんが言い出したんですよね?もう~やめてください」
 『今日が最後になるかもしれない』という気配を滲ませながらも、二人は相変わらず軽口を叩き合い、笑い合っていた。今日の終わりを噛みしめながらおしるこを飲むはつみを見やり、高杉はまだ伝えられていない話を―自分もすぐに江戸を発ち、上海への視察に出るという事をどう切り出そうかと、言葉を探す。


「…君の江戸遊学も、残り僅かだったな。」
 響きの良い高杉の声に、どこかしんみりとした色が伺える。真面目な話だと察したはつみは改めて背筋を伸ばした。
「はい、そうです。」
「まだ、英語の座学は続けておるのか?」
「はい。江戸に来れたお蔭で横濱にも通えましたし、前に比べたらかなり捗っています。土佐に帰ったらどうなるかは、見通しが立ってないけど…。」
 フと影を落としたはつみの表情から汲み取れるのは、土佐の情勢についてだった。

 この夏、土佐の攘夷派急先鋒たる武市半平太が土佐勤王党なる徒党を立ち上げた。高杉の同胞である久坂を始めとする志士達の間では、土佐への期待を込めて話題に上がる事もしばしばだ。しかし、土佐の武市ら尊王攘夷派も藩内の大きな壁に阻まれるであろう事もまた、予測されていたのだ。

 そしてその事は、はつみの今後の進退、あるいは無事かどうかにも影響するであろうと、高杉は予測していた。

 ―土佐前藩主にして賢人とも名高い山内容堂公は、将軍継嗣問題からの安政大獄の煽りを受け、隠居した。現在は土佐ではなく、この江戸で謹慎・蟄居中である。しかしこのような処罰を受けた容堂公も、そして容堂公の右腕とも呼べる存在感を放ち、今は若き土佐藩主による藩政を支えている参政・吉田東洋も、幕府への忠誠自体は変わらぬ『公武合体派』ではないかと周知されている。
 ここで言う武市らにとっての大きな壁とは、この『土佐の精神的主柱』たる容堂公と、吉田東洋の事なのである。

 壁があるならば、乗り越えていかねばならない。容堂公が江戸で蟄居中という事であれば、血気盛んな攘夷派達はこぞって、土佐に坐する参政・吉田東洋へと働きかける事となるだろう。故に、土佐本国では恐らく、激しい政治摩擦が勃発する。

 ―つまり、吉田東洋の見立てや支援によって遊学に出れているはつみに、影響がないと見る方が難しい状況なのだ。
 ましてや、如実に西洋の言語や文化に接するはつみの才は、『尊王攘夷』思考に凝り固まった者から見れば単純に『夷狄贔屓の開国派』などと見えてしまうだろう。これまでに西洋かぶれとされた先駆者達が、そういった過激な連中に斬られているのも事実。―どうやらはつみ自身も、その事を重々察している…様に見えた。

 ―そこまで悟った上で、高杉は口を開く。

「僕は、君に貰った『英単語帳』を今も重宝しておるぞ」
「えっ?」

 高杉からの思わぬ切り出しに、はつみの表情は手に取るように分かりやすく煌めく。瞳を瞬かせて声に弾みを出し、嬉しそうな反応を示した。狙い通りの反応だと思いながら、高杉は話を続ける。
「和訳も載っているものとなると、江戸広しと言っても殆ど見かけんしな。」
「ほんとですか!?わぁ…凄く嬉しいです!私に何か出来る事って、本当にこれしかないから…。」
 大事そうに両手で支えていたおしるこの椀を手前に置いたはつみは、その手を自分の胸の上で重ね合わせ、『よかったぁ』と肩を撫で落としながら高杉の言葉を噛みしめていた。そして『英単語帳』をきっかけに話題を見出したのか、真剣な表情で視線を投げかけてくる。
「あの…遣欧使節の事、本当に残念でしたね。高杉さんが凄く落ち込んでるって聞いて、本当は凄く気になっていたんです。」
「ああ…」
 そもそも高杉が『お手製英単語帳』なるものをはつみから受け取ったのも、元はと言えば遣欧使節団に参加する事になったという流れがあったからだった。―しかし、その使節団の話が立ち消えた事、気落ちして引きこもっている事などを、高杉自身がはつみへ直接連絡した事実はない。意気消沈し、日々の務めを果たすだけの引きこもりがちになり、日誌を書く事すらもやめ、はつみとも会わない日が続いたのは事実である。
 …それを彼女が知っていると言う事は、恐らくまた、桂か俊輔あたりから話を聞いたのだろう…などと思考が巡った。

 自分のいない所で―…。

 …―と、心の奥でまた虫がうずくのを感じてしまう。

 …感じてはいたのだが、その短気な苦虫は心の中で噛み潰してやった。

 今は、渦中の土佐へ帰藩する彼女を励ます。
 その為に話をしているのだから。


「…使節団の件については、君が知る通りだ。だがそれでも、僕は英語を学ぶ事が無駄になるとは思わなんだ」
「高杉さん……」
「西洋に染まれと言うておるのではないぞ。僕が今言いたいのはな、逆境故に君がその才を捨てるような事があっては、極めて残念だという事だ。…あの単語帳を作成するだけの努力を続け、今も尚続けている君たればこそなのだから。」

 高杉は至極真面目な顔ではつみを見つめる。今述べた言葉にも、彼の中にしっかりと根拠はあった。

 昨年、高杉と同じく西洋に関する知識を深める必要性を感じていた桂小五郎が、医者であり蘭学者でもある奇才・村田蔵六を招致している。実は高杉もこれに倣い、熊本の識者である横井小楠の招致を進言しているのだ。しかし村田の招致以来、時世の混迷が加速。武力行使に走る尊攘派たる水戸との成破の盟約を前に、西洋式富国強兵策は一旦据え置かれ。そして今は、長州内にて台頭し公武合体論を推し進める長井雅楽に対する工作と、幕府に圧をかけ外国人を牽制する小攘夷にかかりきりだ。
 もっと言うなら、今回舞い込んできた遣欧使節や上海視察の話も、高杉の燻る所を理解する桂があえて捩じ込んでくれたとする噂すらある。

 それらの示唆するところ。つまりはこういう事だ。
 蘭学、兵学、医学、算術等々、はつみの才は村田には遠く及ばない。しかしながら、時世が行き着くであろう先を思案すればこそ、今ある才が大きく華開く開くのを待つ価値はあると。
 桜川はつみという人物とは。世界の覇者たる西洋の文化に対する基本的な知識や順応する価値観を備え、特に西洋列強国の筆頭とも言える英国の言葉を解する事ができる点は非常なる強みだ。また、それらに共鳴するが如く俯瞰に徹した意見を持ち、時に常識を逸しながらも時代の先へ向かって核心を突くその視点は、今のところ理解を得る事は少なくとも『先駆者の一人』と言っても過言ではないだろう。俊輔が言う『日本一の過激論者』とは、あながち冗談だけでの発言ではないのだ。
 そして何より、彼女には、まるでその場を支配するかの様な口上の才と、それを放つ度量、そして抗いがたい華…人たらしの才がある。これらは所詮女子だの色仕掛けだのと言って見下し、捨て置く様なものでもなければ、努力で得られるものでもない。明らかなる、天賦の才だ。

 …そんな彼女自身、政の舞台へ上がってゆくといった野心は持ち合わせていない様であるが、そうしていられるのも今はまだ時世に秘匿されたともいえる存在だからこそ。遅かれ早かれ、必ず彼女の才が、女という立場にありながらも要人から求められる時代が来る。―それこそ、どこぞの藩へ何かしらの形で招致される事もあり得るやも知れない。
 …その事を、高杉のみならず桂も、そしてはつみの周囲にいる者達や土佐参政らも、『彼女の可能性」として感じ取っているのだ。

 互いに、今はまだ早すぎるとも言われる雌伏沈淪の時であり、決して、孤独であるが故の傷をなめ合う様な、馴れ合うだけの『ウワ』の関係を望んでいるものではない。だがそれでも、師弟、同門、同郷…そういった絆はなくとも稀な視野を持つ二人が奇妙な縁で出会ったのは、確かな事なのだ。

 それぞれ違う場所で孤立しながらも『互いを信じ合う』と言う事は、『己を信じる強さ』に繋がる。

 ―故に、君が贈ってくれた単語帳は、僕にとって重宝するに値するのだ。
 君がその志を捨てる様な事があってはならないのだ。

 ―と、伝えたかった。


「…聡い君ならば、この先の土佐での事も案じておるのだろう。」
「……」
 高杉の言葉は、胸に抱いている思いのほんの一端に過ぎない。だがはつみには、英単語帳の話が自分を励ますための口実である事だけは伝わっていた。
 高杉は、励まそうとしてくれている。
 ただの自意識過剰かも知れないと思いながらも不意に目頭が熱くなり、唇を噛んで瞬きを繰り返した。
「諦めるなよ」
「―はいっ」

 はつみの即答を受けた高杉は『うん』と頷き、わずかに口元へ笑みを浮かべる。
「よし。…君がそのつもりでおるのなら、僕からの報告もしやすいというものだ。」
「報告ですか?」

「―実は急遽ながら、上海視察団に参加する事が新たに決まってな。」
「わあ…!?本当ですか…!?」

 はつみは俄かに前のめりになると、瞳を瞬かせながら頬を高揚させた。
「おめでとうございます!二度も海外視察の話が来るなんて、やっぱり高杉さんは凄いです!」
 やっと上海渡航について報せる事ができただけでなく、思っていた以上の反応を浴びた高杉は、多少くすぐったそうにしながらも続けて応えてやった。
「今の幕府に舵取りを任せたままであれば、いずれここは上海の様になるやも知れん。そうならん為に現地を視察する。奴らの軍事力を目の当たりにする事ができる。実りのある旅になりそうだろう?」
「はい!流石です高杉さん。その通りです、無駄な事なんてひとつもないですから…!」
「ああ、そうじゃな。ちなみにだが、上海の事で君から何か言うておく事はあるか?」
「うーん、そうですね…さっきの話の流れになりますけど、上海には英国をはじめとする西洋列強の租界があると聞きますから、もしかしたら英語の知識も活きる場面が出てくるかもしれませんね!」
「―フッ。心得た。…相変わらず、よう知っておるな。」
 高杉の視線がぴたりとはつみに定まる。そして静かに、だが確かな決意を込めて続けた。

「…今回の務め、僕も改めて命を懸け、世界の縮図を見てくるつもりだ。そして必ず、富国強兵が不可欠であり幕政改革を断行せねばならんとする根拠を、僕なりの言葉で持ち帰る。」

「命をかけて…。そうですよね…」

 再び声を潜めたはつみは、神妙そうにつぶやく。海外渡航や外国視察とは一見華々しい旅路の様にも聞こえるが、外洋にまで飛び出すその航海自体がそもそも命の危険を帯びた旅路である。ましてや、到着した先の上海には租界されている地域の比較的近い場所でも戦争地帯があり、安全とは言い難い。
 『命を懸けて』とは、これ以上ないほど真摯な言葉なのだ。

「この日本から、旅のご無事を祈っています。」
「ああ。君もな」

 やがて、茶屋の主から遠慮がちに「そろそろ店じまいでして」と声がかかる。離席の必要を告げられて止む無く平熱に戻った二人は、名残惜しく思いつつも火鉢から離れた。


―だが、二人の心の中に灯った小さくも確かな種火は、彼らが店の外へ出て再び刺すような寒さに晒された後も、灯り続けていた。



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 茶屋を辞した二人は、浅草寺から雷門まで続く参道に並ぶ、幻想的に連なった提灯の光を辿るように歩き始める。先ほどよりも一層深まった夕闇の向こうでは、まだ酒を飲み騒いでいる者達がいる様で、その賑わう声が小さく辺りに響いていた。それ以外はしんみりと静かで、昼間の喧噪がまったく嘘のようだ。

 歩き始めてしばらくの間、二人は会話をするでもなく白い息を吐き出すだけで、心地よい沈黙に身を委ねていた。冷え切った石畳から伝わる冷気をつま先に感じながら、一歩一歩、この時間が終わっていく事を噛みしめるように歩みを進めていく。
 時折はつみが高杉へ視線を送り、それに気付いた高杉が笑うでも目を逸らすでもなくじっと見つめ返すと、はつみは『ふふっ』と笑って俯き、石畳を一つ、また一つと飛ばしながら歩く。石畳を跳ねるはつみの軽い足音を聞きながら、高杉は鼻から胸いっぱいに広がるまで冷たい空気を吸い込み、フウと長く吹き出して息を抜いた。


 何とも言えないこの二人の空気感に、訳もなくただ甘んじていたいと思う一方…仲見世通りの終わりと雷門が近付くにつれ、もしかしたらこれが今生の別れとなるかも知れないという考えが頭の中で大きくなっていく。


 もう話す事は本当にないのか。
 今一度、はつみの口から聞きたいと思う言葉はないのか?


 ―高杉にとってこの感覚に素直になるという事は、はつみに対して甘えを見せてしまうだとか、自分にとって何か大切なものを曝け出すかの様で、とても憚られたのだが…。二人の身体が雷門を通り過ぎ、今日の遠出もいよいよ終わりなのだと実感した時、突き動かされる様な何かに押し出される様にして言葉を漏らした。

「…以前、君が僕に言った言葉だが…」

 高杉より先行する形となっていたはつみが、立ち止まって振り返る。―彼女の背後に見える雷門前の広場には仲見世や浅草寺ほどの灯りもなく、店も軒並み終わり、帰宅途中の人がまばらに通りかかっているだけで随分としんみりしていた。そんな夕闇の伽藍洞に立つ彼女は、男装でありながらもまるで浮世人の様に怪し気なほど美しく、月も出ていないのに静かな光に照らされている様にも見える。
 …或いは、彼女に何かを求める高杉の心が、彼にそう見せたのだろうか。

「―はい、何ですか?高杉さん」

 改めて名を呼ばれた高杉は、浮き立ちそうだった思考をしっかりと抑えつけながら言葉の続きを告げる。それは以前、はつみから告げられた、もっとも印象深い言葉だった。


「―…長州に僕が必要となる時が、本当に来ると思うか?」

「…!」


 今、時世に対する高杉の進言は『時期尚早』として見送られるばかりで、であればさっさと政を動かす為にも政敵長井雅樂を斬ると言い出し、外からも藩を動かす為に亡命までしようとすらした事もあった。時世を語り合う仲間、見聞を訪ねて来る者もいたが、彼が培ってきた『識』を今こそお国の為に使おうとする同志はいなかったのだ。いつも、彼の身近にいる仲間の発言が採用され、高杉はただそれを眺め、故に腐る日もあった。

 侍は、主に仕え、主の役に立ってこその存在だ。
 帝の御為、藩主の御為―。

 この未曽有の時世にあって、『自分の才は主に求められる事はないのか』とも感じていた。そんな時に、はつみが真摯になってかけてくれた今の言葉が胸の奥深くにまで突き刺さり、今も尚、そこから熱を放っているのだ。

 これから命を懸けて外洋を渡り、西洋に呑まれた上海を…日本が辿ってはならない世界の縮図を見届ける。その前に今一度、彼女の生きた言葉を聞いておきたいと思ってしまった。

「―はい。勿論です。」

 彼女の返答には迷いも躊躇いもなく、そして力強く明確であった。

 はつみは高杉からの問いがかつて自分が言った言葉の引用である事をすぐに悟り、更に、素直でないあの高杉が『餞の言葉』を求めているのだと本能的に感じていた。笑みの欠片もない真面目な表情のままでいる高杉に面と向き合い、一呼吸置いた後に、思うがままの言葉を投げかける。

「世界はもう、日本を知ってしまったから。だから今、日本が一方的に破約攘夷を断行したとしても世界が日本を諦める事はないし、元の鎖国時代の日本に戻る事もできません。日本が日本らしく世界の一部になるには、世界の水準を知った上で、彼らと対等に渡り合う為の強い国力が必要になります。世界との条約を破棄するにしても、新しく条約を結ぶにしても、一番大事なのは世界に呑まれない事。それが、真の攘夷です。」

「吽……。」

 心地よい声とその眼差しに吸い込まれそうになりながらも、はつみの真摯な言葉は、孤高の道を歩まんとする高杉を鼓舞するように、その心へと浸透していく。高杉の背景にある仲見世の提灯と夕闇を同時に映し込んだせいだろうか、彼女の瞳はいつもよりも濃く輝く翡翠に鼈甲がにじむようで、まるで運命そのものに触れる深淵が、そこにあるかのようだ…。

「日本の歴史でも、世界の歴史でも、革命の時を歩んだ国は沢山存在します。だけどいつだって、転機となる出来事があって、英雄と呼ばれる人が現れました。…今の日本もまた、混迷を極めた時代です。自分達の志を信じて突き進んだ結果、もう戻れない事に気付く人達も出てくると思います。だけど、彼らが遺す志も引き受けて、どんな時でも『攘夷の本質』を見失うことなく、時世に翻弄される長州を強くし、日本に新しい時代の到来を告げる、そんな英雄が現れる…それが高杉さんだと、私は思っています」

「……そうか」


―『互いを信じると言う事は、己を信じる強さに繋がる。』

 はつみの言葉と自分の中にある言葉がまさに共鳴しているかの様に感じて、高杉は思わず視線を落とし、緩みそうになる口元を隠した。

…それにしたって、彼女の言葉は心の奥深く、誰にも見せた事のない、弱く迷ってばかりの部分にまで触れよう程に沁み込んでくる。こんなにも心を支えてくれる。自分を見失わない様、繋ぎ止めてくれる。
…これだけの恩恵が、果たして自分が彼女に投げかけた言葉にもあるだろうか…?


 ―彼女にも、自分の言葉が響いていて欲しい。

 自分の言葉が、支えの一つとなっていて欲しい。


 柄にもなく、そんな事を考えてしまっていた。



 しばらく無言で立ち尽くす高杉に対し、はつみが『高杉さん?』と小首をかしげた丁度その時、二人の視界にふわりと何かが舞い降りる。咄嗟に夜空を見上げると、重く垂れ込めた雲の合間から、無数の雪が静かに舞い落ちていた。


「…あ…雪だ…!わあ…!」

「………」


 寒さで赤く染まった柔らかそうなはつみの頬に、牡丹雪がひらと舞い落ちては体の熱で溶け、肌に馴染んでいく。その情景から視線を逸らす事も、言葉を挟む事もできず、ただ黙って見つめる高杉。
 彼にとっては今の今、かけてもらった言葉も咀嚼しきれていないというのに…天は雪を見舞い、はつみは彼の心境など一欠片ほども悟ろうともせず、降りしきる雪を無邪気に楽しんでいる。

 浮世の者達のなんと気ままな事かと…半ば呆れ、半ば自嘲。

 それでも、眩しくもないのに目を細め、目を離せずにいた。


「―今日は太陰暦の12月25日。しかも雪が降ったから、ホワイトクリスマスですよ。高杉さん♪」
「ああ……あ?」
 話かけられている、何か返さなければ…と、絞り出す様な声で返す高杉。
「ほわいと、は確か…『白』という意味だったな。」
「はい!そうです!」
「くりすますとはなんだ?」
 するとはつみは足先を高杉に向け、一歩二歩と自分が歩いた場所を戻りながら話を続ける。
「本来は、西歴上の12月25日の事をそう呼びます。白い雪が降ったから、ホワイトクリスマス。」
「ほお」
「クリスマスの語源は西洋からきていて、向こうでは意味合いも風習もかなり変わってくるんですけど、私の故郷ではただ大切な人と過ごしたり、贈り物を渡す日だったんです。」
「そのような風習は初めて聞くが…君の故郷の慣わしという事は、何か思い出したのか?」
 はつみは高杉の『思い出したのか?』という問いに対し、一瞬だけ不自然な様子で視線を泳がせたが、すぐに取り繕う。
「あ、うん…あの…横濱で見聞きする機会があって、そういうのもあったな~って…」
「…そうか。記憶を失くした者の独特の感覚やも知れんな。」
「…うん…それでですね、実は今日、クリスマスにちなんで用意してたものがあって…」
 そう言って、はつみは今日、ずっと肩からかけていた風呂敷状の袋のようなものを漁り出し、中から巾着を一つ取り出した。そして改めて両手に持ち直すと改まった様子で高杉に向き合い、差し出す。

「―はい!プレゼントです」

「ぷ…なんだ?」

「プレゼント。贈り物です。って言っても全然、大したものじゃないんですけど…。西洋のクッキーというお菓子に似せて作ってみたので、よかったら是非、食べてみてください」

 それは、12月25日という日に誘いを受けたはつみが、『高杉がクリスマスを狙って誘ってきたという事はないだろう』などと思いつつも、一方的に用意してきたプレゼントだった。高杉にとっては『ほわいと』も『くりすます』もよく分からないものでしかなかったが、雪には情緒を感じるし、贈り物にも悪い気はしない。
「かたじけない。では、遠慮なくいただこう」
 そう言って右手を差し出すと、掌に巾着がそっと乗せられた。はつみの指の温かさとすべらかな感触が伝わるが、巾着だけを残してすぐに引いてしまった。名残惜しいようなぬくもりを掌に残したまま、興味が向くがままに巾着の緒を緩めて中を覗き見ると、焼菓子のようなものが入っていた。そして次のその瞬間、ふわりと甘く香ばしい香りが鼻腔をかすめ、高杉は驚いた様子で、もう一度巾着の中を覗き込んだ。

「菓子のようだが…随分と香しいな。君が作ったのか?」
「はい!今日、高杉さんと会う前に作ってきました♪」

 得体の知れないものを渡されて疑ったりする訳ではなかったが、ここまで、高杉にとっては何やら見知らぬ文化の応酬で、一つ一つの状況を消化していく必要があった。少しの刻を置いてからようやく、はつみが繰り返すように語る『くりすますのぷれぜんと』という言葉の意味に、思考が追いつき始める。

 ―くりすますとかいう特別な日に、特別な相手へ物を贈る風習があるらしい。
 …そしてはつみは、自分にこの手製の焼き菓子を贈った。

 そこまで理解すると胸の奥で何かが込み上げ、気づけばそのまま言葉になって零れてしまった。

「…これは、僕にだけか?」

 ―それはあまりに率直すぎる問いだった。
 いつものように粋な言い回しをしたり、強がった否定も出来ない程、自分の本音だった。

 気付きと共に急速に流れていく思考の向こうには、これまで何かと妙な感情を掻き立てられていた桂や俊輔、坂本龍馬。はつみの周囲にいる男達の顔が浮かんでは消えていく。限られた刻の合間を縫ってマメにはつみと会っている桂。同年代である強みと豊かな社交性を持つ同士、顔を寄せ合って楽し気に内緒話をしている俊輔。そして『庇護する者』として実質はつみと共に生きている者・坂本龍馬…。この他にもはつみの周囲には何かと男がいて、そう言った風景を見る度に自分は不機嫌になっていた。その不機嫌さから、会う度に口論になったりもした。
 何故急に彼らの事を思い出し、そして優越感の様な心持でその記憶を辿っているのか…?

 ―そんなはずはないと思っていた。
 『嫉妬』である訳がないし、そもそも『抱くような女』でもないと思っていたのに…。

 こんな露骨な感情の正体に今更気付き、驚きとみっともなさに思わず口元へ手をやる程だった。


 ―そこへ、まるでこちらの心情を見計らったかの如く、心のどこかで期待していた答えが返ってくる。


「はい。高杉さんの分だけです」


 そう言って自分だけに微笑むはつみを見た瞬間…高杉の視界から急速に背景が消え、彼女だけが鮮明に映る感覚に陥った。


「―…っ」


 ハッとして強く目を閉じ、軽く頭を振りつけてから再び目を開く。彼女は小首をかしげ、こちらを覗き込むような視線を送っていた。男の心をまるで意に介さないその眼差しに、浮ついた熱がぎゅっと高杉の心を掴み、胸の鼓動を支配していく。



 ―抱き締めたい。



 唐突に、ただ漠然と、はつみの身体に腕を回し、抱き寄せたいと思った。



 一歩踏み出し、少しだけ自分よりも背の高いはつみに向けて両手を伸ばす。気が付いた彼女は眉を上げると同時に瞳を瞬かせ、次にはにかむ表情を浮かべてから、同じ様に両手を伸ばし広げてきた。

「―うん、ハグしましょう!」

「う、ん…?」

 自覚した熱のままに一歩を踏み出た高杉の心情とは違い、はつみは躊躇する事く、軽やかにその一歩を踏み出す。高杉が『ハグとは何じゃ』と考える暇もなくはつみが懐へと迫ったものだから、出かかった言葉を冷たい空気と一緒に呑み込んでしまう。それに気付かないはつみは、高杉の肩に顎を乗せるようにして前屈みとなり、意外と猫毛で柔らかな彼の黒髪を頬に感じながら、あやす様に背中をぽんぽんと叩いた。

「応援してます。高杉さん。
 上海、気を付けて行って来て下さいね…!」

「……っ」

 はつみにとっては何の気もない言葉がけであったが、高杉にとっては耳元をくすぐられた様に感じられ、柄にもなく硬直してしまった。その腕は緊張のあまり宙に固定されたままであったが、はつみからのふわりと軽い抱擁にまるで童心に戻ったかの様な安堵感も覚え始める。固まった身体が徐々に戻り、宙に浮いていた手は、遅れてそっと、はつみの背に添えられた。

 …雪が舞い振る寒空の下で、はつみに触れている部分にだけ感じられるほのかなぬくもり。交差する肩口から仄かに漂う清楚で甘い彼女の香りが、何とも言えない心地よさを感じさせる。

 自分の頬に落ちた雪は一瞬で溶け、蒸発してしまっているのではなかろうか。

 …そんな事を考えてしまう程、顔や耳が熱くなっているのも感じていた。



 しかし、心地よいその抱擁はあっけない程、余韻もなく終わってしまう。離れて行くはつみの体を引き戻して抱き締めるなど、却って野暮に感じるくらい、彼女はあと腐れのない笑顔のまま、高杉と向き合っていた。その様子から、確かにこの『ぷれぜんと』とやらは自分だけに用意された特別なものであったその一方で、『男女の熱情で行われたものでない』という事も、咄嗟に悟る。
「これは…ハグという…儀式か?」
 はつみが驚くほど堂々としているので、間を持たせたい高杉の方がぎくしゃくとして質問を繰り出してしまった。はつみは恥じらいや戸惑いといった感情など一欠片もない様子で素直に笑い、無邪気な言葉で高杉の問いに応える。
「ふふっ。儀式というよりは、挨拶みたいなものですかね?」
「挨拶か。…これが。」
「はい。あ、でも、親しい人としかやらないかも?」
「曖昧だな。…男女のそれではないんじゃな?」
「え?!ああ、なるほど!えっと、大丈夫、男女のそれではないです!あの、親しみを込めた挨拶、っていう感じです!すみません、距離感おかしいってよく言われるんですけど、こういう事ですよね…」
「…なるほど。わからん。」

 現代で聞いた事のあるような構文が高杉から飛び出し、はつみは照れ隠しもあったが思わず笑ってしまった。高杉は眉をあげて腕を組み、鼻から深く息を付く。笑っているはつみに対し内心思う事もあったが、やはり憎めないといった様子で静かに見つめた。上がる口角を、隠す様子もなく…。

 ―だが、確かに感じたはつみの熱や香りが自分の中から消えてしまわない様、心の中でしかと抱き締め、胸の奥へと押し留めていた。
 彼女がくれた、自分を信じる言葉と共に。



 改めて帰路につこうかと二人が微笑み合ったその時、境内の空気が、ふと張りつめる。
 その刹那―

―ゴォォ…ン…、ゴォォ…ン…

「わっ!えっ!?」
「暮れ六つか…」

 低く重い浅草寺の鐘の音が、人気の少ない雪の降る参道を、夕闇に暮れた浅草の地を、ゆっくりと満たしていく。雷門の前で向き合ったままの二人は、自分達を包み込む大きな響きに身を任せ、心地よくも思い出深いこの瞬間を分かち合っていた。
「…凄い、浅草寺の暮れ六つの鐘を、雪の中で聞けるなんて…。今日は本当に、いい思い出尽くしですね…!」
「…ああ。そうだな」
 無邪気に微笑むはつみとは違って、高杉の心は何か一線を越えたかのな境地にあった。だが、ここで引き止めようとしたりするのは、やはり野暮と言うものだろう。

「…帰るか」

「はいっ!」

 相変らず後腐れのないはつみの返事に頷いてから、高杉は歩き出した。はつみも彼に歩調を合わせながら、改めて彼への感謝を述べる。

「あ、あの…」

「うん?」

「…わたしが浅草に行きたいって言った事、覚えていてくれてて凄く嬉しかったです」

「ああ…」

「今度は、高杉さんが行きたい所へ、一緒に行きましょうね!」

「フッ…そうだな。必ずまた会おう。」



 こうして、二人は浅草を後にした。道半ばから雪はみぞれとなり、小雨へと変わっていった中、長州桜田藩邸前で二人は別れる。はつみを乗せた駕籠はそのまま、彼女が寝泊まりしている旅籠まで送り届けられた。

 …この別れは、もしかしたら二度と会えなくなるかもしれない別れだった。それでも時世の先を共有し合う思念が、きっとまた二人を引き合わせてくれるはずだと、二人ともが信じていた。


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 ―はつみが乗る駕籠を見送った高杉は、藩邸内の自室へと戻る。旅支度の途中という事もあり、文机の上には書きかけの挨拶状などでいっぱいになっていた。
 これを一端全て押しのけ、はつみからもらった巾着と、個人的な江戸詰め日誌である『初番手行日誌』を取り出す。そして徐に、巾着の中から『クッキー』を一枚取り出してみた。
「…なんだ?この形は…?」
 …見慣れない奇妙な形だが、明らかにその形となるよう形成された痕跡が見受けられる。高杉は自分の首も左右に傾げながらクッキーをくるくると回し、その形状について少し思案した。…桃に似せた形だろうか?面の下部分に横並びとなる二つの半円があり、その左右脇から伸びた弧が上側へ伸びて急速に収束する…。桃にしては収束部分が鋭利な気もするが…。―と、『ハート』を知らない高杉は正解にたどり着けないまま、―否、桃という事にして、そのクッキーを頬張った。噛めばポリポリと音が鳴るが、ほろほろと崩れせんべいの様な堅さはない。材料は何を使っているのか、不思議な甘さと香ばしさが融合しており、一言で言うなら『うまい』と表現できる菓子だった。
 続けてもう一枚を頬張りながら、今度は『初番手行日誌』の最後の頁を開く。
 そして筆を手にした。


文久元年 十二月二十五日

 浅草、暮れ六つから雪が降る。
 ほわいとくりすます。くきいなる焼き菓子をもらう。
 奇妙な形。なれど芳し。実に美味。

 僕、大いに感発す。



 …遣欧使節への参加が見送りとなり、意気消沈して日誌すらも書くのをやめたのが、10月の下旬。

 それ以来の手記であった。



―浅草クリスマス・完―





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