―表紙― 物語






土佐日常編
安政6年5月―万延元年閏3月

●安政6年…武市30歳・はつみ18歳
 ―土佐―
あこがれの人
5月。龍馬に連れられ、自分が倒れていたという鏡川の河川へとやってきたはつみ。椿の花もどこにも咲いていないし一体何だったのかと謎は深まる一方、向こう側から人が歩いて来た。それに気付いた龍馬が大きく手を振るところまではよかったが、続けて「お~い!武市さん!以蔵さんー!」と何気なく口にしたその名に思わず飛びあがってしまうはつみ。こちらへ向かってやってきた二人は武市半平太と岡田以蔵。…特に武市半平太は、はつみが『憧れ』とするかの幕末志士であった。
牝牡驪黄…前編・後編
7月。はつみが持つ海外の言葉や文化に対する異常な見識の深さについて、仁井田の『よーろっぱ』こと川島猪三郎から河田小龍へと伝わる。河田小龍はかの中浜万次郎が米国から帰藩した際に土佐参政吉田東洋の命により万次郎と寝食を共にし、海外情勢等について根掘り葉掘り聞き出した経緯があり、はつみの事を東洋に報告。東洋がはつみを呼び出した。
龍馬から急報を聞いた武市はすぐ坂本家を訪ね、東洋の様子を聞く為はつみの帰りを待つ。しかし帰宅したはつみを一目見て雷に打たれた様な心地に陥り、半ば茫然とした様子でその日は話も辞退し、帰宅してしまうのだった。
川遊び
8月。『はつみ塾』もそこそこに川涼みも兼ねて鮎を捕りに行こうと鏡川へ出かけた。道中武市と以蔵に鉢合わせ、はつみは勇気を出して二人も同行しないかと声をかける。はつみが武市を意識しているのは周りの男達が見ても明白であったが、その言動が余りにも『常識離れ』していた為、敬愛なのか慕情なのかを推し量る以前の衝撃に見舞われていた。武市本人がどう捉えているかも不明であったが、龍馬だけは、はつみが東洋に呼び出されたあの日から武市の表情にわずかなほころびがチラつく事に気付いていた。
恋心…前編(WEB漫画)・後編(挿絵付)
9月。はつみの武市への想いは『幕末史の中でお気に入りの武士』『憧れ』といったミーハー的なところから、本物の『恋心』へと変貌していた。いや、『…してしまっていた』。恋をして世界が明るくなるばかりではなく辛く感じてしまうのは、武市が『誠実』『堅物』からの『愛妻家』である事を、すでによく分かっていたからであった。
美人画指南
10月。はつみの秘めた想いを汲んだ龍馬が、武市に『美人画』の指南を申し出ていた。彼の美人画は表に出される事はあまりなかったのだが中々の腕前で、「折角そういった稀な腕があるのだから、巷で騒がれる血生臭い攘夷事ばかりでなく時には日本の芸にも触れて心を柔らかく保とう」と言うのが龍馬の言い分であった。はつみの開国思想も含め、この場にはそういったものは関係なく―という事である。武市道場によく出入りをする虎太郎らは激怒し話を聞きつけた安芸の中岡からも叱咤文が送りつけられたが、意外や意外にも武市はこの話に乗ってくれていた。


長崎遊学編
万延元年4月―万延2年2月

●万延元年…武市31歳・はつみ19歳
 ―土佐―
この時代に来た理由
4月から長崎遊学に出ていたはつみ、土佐の面々へと手紙を出す。
長崎土産
7月、武市達に買っていた長崎土産(夫婦茶碗)を渡しに道場へ行く。日々尊王攘夷論が加熱する場となっていた道場では尚更はつみの居場所はなくなっていた。
詳細しかし武市は子弟らを下げてから改めてはつみと龍馬、寅之進を引き入れ、話を聞いてくれた。武市達は近日中に西国剣術へ出る事が決まっており、事前の調べものなどで少々慌ただしい様子でもあった。この西国修行について、はつみ達とは目的を別とする事ははつみも『歴史上』知っており、にわかに『その先にある武市や以蔵の未来』を想ってしまう。武市の運命が『歴史通りに進む』という事に深い不安を抱くのはこれが初めての事であった。
想いは天袋の最奥へ
12月、西国剣術修行から戻った武市は、大刀(肥前國河内守藤氏正廣)や平田篤胤の著書にて尊王攘夷派志士のバイブルとも言える『霊の真柱』を購入し、富などへもささやかな土産を持っていたが…実はもう一点、戸惑いながらも購入したものがあった。
詳細  思想は若干違いながらも卓越した才で道を切り拓こうとするはつみの為に購入した、肥前忠吉銘の短刀だ。迷っている事自体がやましいことの証明であり不義の極みだと己を恥じたが、だからといって妻に打ち明ける事もできず。結局武市はその一点ものを天袋(天井下の収納)へとしまい込むのであった。


確 変
文久元年3月

●文久元年…武市32歳・はつみ20歳
 ―土佐―
井口村永福寺事件
3月。池田寅之進を中心とする『井口村永福寺事件』が勃発する。
城下から鏡川を遠く下った先にある吹井村へと帰省していた武市がこの急報を受けた時には、永福寺ではかなりの郷士達が集まっている事が想定された。彼らが暴発し、上士との間で内紛状態となり藩の取り潰しへと連なる最悪の展開を阻止するために武市も駆け付けるが、駆け付けた先で眼にしたのは、女娘であるはつみが身を挺して寅之進を庇い、圧倒的な『俯瞰的知識』を以て郷士達を論破する姿であった。
それぞれの江戸へ(全編会話)… 前編・中編・後編
4月。武市はこの夏江戸へ出るつもりでいたのだが、井口村事件を経て天涯孤独となった寅之進に対し、共に江戸を出て江戸剣術修行に励む事を勧めた。井口村事件は関わった多くの郷士、引いては上士らにとって大きく印象的な事件となっただろう。それだけでなく、武市ははつみが否応なく『時世』へ飛び出す定めの人間である事を強く察していた。事件解決のため「出来事の中心である寅之進が責任を取る事になるやもしれん」と発言した自分に反し、はつみは凄まじい熱量を以て常識を覆し、上士である乾と協力して寅之進を守り抜いた。その事が、武市も、そして寅之進本人も『尋常』の事ではない様に思えていた。…であれば自分は寅之進に道を示し、その意思があるのなら支援をするのが務めだと考えたのである。
「寅之進よ、はつみ殿をその剣で守っていく気概はあるか」と。
東海道・珍道中…前編・後編
6月。龍馬、武市、寅之進らと共に陸路江戸へ向かう。春と初夏の間とも言える気候で過ごしやすく大阪辺りまでは順調であった。しかし東海道を進み初めてから徐々にはつみが遅れ始めるが、例になく賑やかな旅路となったのはやはり彼女の存在が大きかった。そんな折、この4月に英国公使ラザフォード・オールコックの騎馬一行が東海道を進んでいた事を知る。長崎から江戸までを陸路で移動したという。彼らが遺した物を読み解くはつみを見て、誇らしくもありどこか複雑な想いも抱く武市。


江戸遊学編
文久元年6月―12月

●文久元年…武市32歳・はつみ20歳
 ―江戸―
お見舞い
6月。長い旅路と初夏の気候で体調を崩したはつみは、江戸に入るなり病床に伏せてしまった。土佐藩中屋敷近くの宿へ入ったはつみのもとに、風鈴を持った武市が現れる。二人に何かが起こる訳では決してなかったが…武市と共に顔を出した以蔵はそっと席を外したのだった。
越えられない一線
8月中旬。武市は尊王攘夷論を唱える志士達と会合を重ね、着々と『土佐一藩勤王』の構想を練っている様であった。
詳細 武市が唱える一藩勤王の『先』を知るはつみは、彼の活動が広く深くなるに比例して不安を増大させる。『尊王』と『攘夷』をあえて切り離し、土佐の精神的支柱である隠居・容堂の思想も交えながら武市に話を持ち掛けるが、彼は「はつみ殿に時世を語る才がある事は承知じゃが、これより先は女子には危険な所じゃ」と言って『巻き込まない』姿勢を崩さなかった。
この日、土佐藩邸中屋敷からもそう遠くない両国・隅田川で花火大会が行われるとの事で、意気揚々と繰り出すはつみや龍馬達と一緒に武市も同行した。活気づく江戸中の人達が花火を見ようと押し掛けごった返す中、只でさえ土地勘もなくはぐれそうになったはつみは『(例え男装をしていようとも)往来で男女が近付くとは不埒だ』と怒られそうだと思いつつも、勇気を出して武市の袖を取る。武市ははつみに気付き、振り返った…。
帰藩
9月。 江戸に来てからというもの、武市はその『尊王攘夷』に関する活動に関してははつみを遠ざけていた。8月末に自らを党首として土佐勤王党を立ち上げた武市は、その勢力拡大、斡旋活動として早速土佐へ戻る事となった。はつみは改めて武市の元へ出向き話をするが、やはり『同志として』受け入れられる事はなかった。


一念発起編
文久2年1月―同年6月

●文久2年…武市33歳・はつみ21歳
 ―土佐―
子無きは去らずとも不貞は去れ
1月。龍馬とはつみが帰藩してから間もなく、勤王党員の吉村虎太郎や柊智らが押し掛けてくる。「富が病気で実家へ帰ったので、しばらくの間武市の家事手伝いをしてほしい」との事であり、はつみは暫く武市の身の回りの世話をする事となった。
詳細  はつみは何も知らず、富が病気で実家へ帰ったのでしばらくの間武市の家の家事手伝いをしてほしいと聞かされてやってくる。この時代の家事などまったく得意でもないのに…と思っていたが、4日目になると武市の不在を狙って押し掛けてきた吉村らから『役目』について説かれる。武市の子を成せ、と。ショックを受けたが武市の逸話にそういった話があった事を思い出し、富は病気ではなく『吉村らに追い出された』という事も悟った。そして、自分は恐らく妊娠ができない体なのだと言う事も今までにない程強烈な現実として突き付けられてしまう。
 夜、武市に吉村らの事を話し、「もし自分がそうできるなら(そうしたかったが、自分は子を成せない体なのでお暇させて下さい)…」と言いかけた所で、話を遮る様に「巻き込んでしまってすまない」「帰りなさい」と言われる。武市も内心動揺しており、はつみが身を投げ出そうという意味で言葉を発しようとしたのを柄にもなく早とちりしてしまったが故のすれ違い。
 はつみとしては理由を話す前にそう言われてしまったので、巻き込まれた挙句武市から一方的にフラれたかの様な心理的ダメージを負ってしまう。それでもはつみは『…自分がそうしたかったけれど、自分は子を成せない体であるため、辞退を申し出るつもりでいた』と伝え、少ない荷物をまとめて走り去った。
 思わぬ告白に思わず武市も声を掛けたが、はつみは一切振り返る事なく家を出て行ったのだった。畳に涙の痕が滲んでいた。

 翌日の昼には富が呼び戻され、どういう事かと駆け付けた虎太郎らに対し珍しく激怒する武市。富はそこまで怒らなくても…と声を掛けたが、珍しく怒る武市ははつみの秘密を知った事を富に話し、虎太郎らが自分以上に自分の事を案じての事とは言え、不要に富やはつみを傷つけた等と怒っており、富には「子の事は気負う必要はない。そういった定めじゃ」と言って書斎へ行ってしまった。夫の気遣いが嬉しくない訳ではなかったが、彼があんなに激怒しているのは恐らく『はつみの事があったから』ではなかろうかと、この時察してしまった富であった。
後始末
泣きながら出て行ったはつみと入れ替わる様にして、龍馬が武市のもとへと怒鳴り込んできた。いつもは朗らかな彼が血相を変え、「…そがぁな事ではつみさんを泣かすな。いくら武市さんでも、わしは堪忍できんぞ…」と眉間に力を込めている。
詳細 今回の件は全て吉村らによる『大きなお節介』であり、はつみの身体の事情も含めて全て知らなかった武市は、故に、昨晩のはつみとのやり取りを深く後悔している様だった。龍馬は武市のもとを去ったその足で虎太郎らがたむろしている道場へと行き、虎太郎と柊に竹刀を投げつけて『稽古をつけてやるから同時にかかってこい』と言う。『大きなお節介』を武市から叱責されて機嫌も悪かった吉村は、龍馬が『ご立腹』しているのがはつみの件だという事を察して「またあの女子か…」と漏らし、苛立ちを隠し切れない苦々しい表情のまま竹刀を手にする。激しく打ち合う彼らの元に現れた武市もまた、制止することなく自ら竹刀を手にしていた。
仮SS/勧誘
2月。土佐内では徒党を組む事を禁止されている中、武市らが中心となって発足した土佐勤王党には多くの郷士達が参加を望み、『尊王攘夷論』『夷狄打ち払うべし』『幕府から理不尽に隠居をさせられた容堂公の擁護』がこれまで以上の苛烈さを以て急速に膨れ上がっていた。しかし武市半平太をはじめとする直訴は文字通り『門前払い』をされ、『このままでは薩摩、長州に出し抜かれ土佐が無様にも藩論を変えられぬ軟弱と謗られ、置き去りとなってしまう』といった焦燥と苛立ちが、勤王党内に募る。
抑止
2月。桜川はつみが参政・吉田東洋から呼び出しを受け。藩校・文武館で外国語教授を持ち掛けるといった話も出ているらしいと噂になっていく。
詳細 井口村永福寺事件で『はつみの圧倒的な論説に丸め込まれた』という記憶も新しい尊攘派郷士達にとって、その存在は『思想を憚らんとする壁』としても『女』としても疑わしく煩わしい事この上なく、龍馬や寅之進、内蔵太などといったはつみと極めて親しい者が少ない事もあって『はつみを斬る』といった話まで出てきた。それを耳にするでもなくそうなるであろう事を予見していた武市は『(はつみを斬る事は)容認しない』と周囲を牽制し、一切揺るがぬ姿勢を貫く。
「桜川殿は変わった趣向の持ち主ではあるが時世や藩政に影響を及ぼさんとする意図は持ち合わせていない。それも見極めず見境なく殺すというのは、志も識別もない盗賊・悪党共と同位である」
 とすら断言し、彼らを制止していた。
仮SS/明日、来年、そのずっと先
 単身、武市が以蔵のもとを尋ねる。仲間内から「桜川を斬るべきではないか」とする打診があった時点で『いつかこうなる事は分かっていた』筈であったが、実際その時が来ると大事な政策も手につかなくなりそうな程に心労が増し、こうしてただ一人で歩いている間にも常に眉間のしわが刻まれる事態となっていた。剣の素振りをしていた以蔵は武市本人の気配と共に一層深く刻まれた眉間のシワに気付き、無言のまま木刀を降ろす。
因縁の嚆矢
2月。吉田東洋により土佐『尊王攘夷派』の動きが抑圧される中、気の逸る吉村虎太郎は土佐国境近辺で流浪の尊王志士・本間精一郎と会合するなどその活動を活性化させていた。  
詳細帰還した龍馬が武市の元を訪ねていたその日、道場に駆け付けた柊からある一報がもたらされる。国境付近の吉村から連絡あり、東国の勤王志士・本間精一郎が武市との面会を希望しているとの事であった。併せて薩摩挙兵上洛の兆しについての更なる情報などもざっと記されており、本間が情報提供をしてくれるという。無言の武市に代わり、龍馬がはてと小首をかしげる。どこかで聞いた名だったが…と思案し、やがて江戸遊学の際はつみに言い寄って来た男であると思い出した。 「…今は大事な時期であり、上士らぁも我々の動きに過敏になっておる。」  本間がどいういったツテで武市との面会を望んだかは定かではなかった。薩摩の情報を持っていると言う事は、華山殿あたりと接触したのだろうか…。江戸で彼の名を聞いた事はあったが並んで聞いた清河八郎の事といい、あまり良い印象ではなかった。はつみと接触していた事も知っている。
脱藩(長編)
3月。一藩勤王に傾かない土佐から、勤王志士達の脱藩が相次ぐ。吉村虎太郎、沢村惣之丞などが脱藩し、ついには坂本龍馬まで土佐を飛び出してしまった。龍馬に至っては、実弟の脱藩罪が家族に及ぶを一身に引き受けた姉・栄の悲劇、そしてはつみを置いて行った経緯など、武市も知っておくべき点が多く。…はつみはまるでいつかこの時が来る事分かっていたかの様に、意味深自分を責めていた。「もっといい結末があったはずなのに」と嘆く彼女に、そっと寄り添った。
仮SS/活人剣
4月。吉田東洋の新居が完成し祝事などで警戒が緩む中、土佐勤王党の一味が吉田東洋の周囲に密着していた。そんな折、買い物からの帰り道にあったはつみは通り雨に見舞われてしまい、以蔵と共に適当な木の下で雨宿りをしていた。…そこへ突然、バシャバシャとこちらへ駆け寄る足音が響き渡り―…
夢幻の如くR15
はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。
吉田東洋暗殺。
斬奸状が張り出されていたが犯人は分からず…だが、その時雨上がりの中を慌てた様子で駆け抜ける上士・谷干城の姿が目撃されていた。本人は『急な雨に降られ慌てていた』と供述し、断固として関りを拒否している。
運命を変える為に
6月。藩主豊範を抱き込み政権を奪取した多くの土佐勤王党一派が、藩主参勤交代の途に随行した。
詳細しかし今の土佐にとっては幕府の御為にと課せられた参勤交代ですら『尊王攘夷』のきっかけに過ぎず、4月上洛を果たした薩摩に続き、土佐も上洛を果たさんと積極的に京での朝廷工作が行われている。幕府のうかがいも立てず直接朝廷に働きかけるなど、幕府からの謹慎蟄居を解かれたばかりでありながらもいまだ公武合体の思念を貫く容堂が容認するはずがない。はつみは自分が襲撃された事よりも東洋の暗殺から今この状態に至るまでが完全に『歴史通り』である事に一層強い懸念を覚える。このままでは武市は破滅の道へ進む…。思い詰めたはつみは、大変に厚かましく恩知らずである事を大いに承知の上で、坂本権平に相談を持ち掛けた。


京・天誅編
文久2年7月―文久3年3月

●文久2年…武市33歳・はつみ21歳
 ―大阪―
女の一念岩をも通す
7月。大坂での麻疹大流行を理由に参勤交代中の土佐大名行列は停滞している。しかしその裏ではこのまま上洛を果たす為の朝廷および江戸に鎮座する土佐隠居・容堂に対する工作が行われていた。
詳細藩主豊範は矢継ぎ早にあれこれと策を講じてくる勤王派から距離を置く為に『仮病』を利用して時間を作り、江戸にいる容堂への伺いを立てている程、土佐藩は急速すぎるほどに『一藩勤王』『尊王攘夷』へと大きく舵をきっていた。
その中心にいる武市の元へ、はつみが土佐を出たらしいという報告が入る。珍しく私情によりため息をつくと同時に、成るべくして成ったとも思う武市。自分を追いかけて来たのだろうという自覚もあった。武市は江戸の池田寅之進へ文を送り、江戸剣術修行終了に伴う帰藩について『大阪にてはつみと合流せよ』との指示を出した。
思い出作り
8月。男装に磨きをかけたはつみと、そのはつみを警護する為にと江戸から呼び寄せられた池田寅之進が大阪で武市の元へやってきても、土佐勤王党の動きに歴史的な変化がある訳ではなかった。武市ははつみを受け入れた訳ではなかったがもはや追い出す様な事もせず、柊、そして薩摩藩出身の田中新兵衛らが常にはつみを『監視』する事で、逆に『命を落とす様な最悪な事態』を免れているといった所だ。
詳細  柊と新兵衛がはつみに付く真の目的は『監視』である。武市に傾倒する柊は『子無しは去れ事件』の頃から、開国論者である癖に武市の『寵愛』を受けているはつみに対して尋常でない妬みと警戒心を抱いていたし、田中新兵衛の方は、彼こそ『攘夷派』の急先鋒を担う一因とも言える…天誅の仕事人であった。はつみともよく話す人物であったが、その心の奥では常にはつみを『品定め』している。『武市の女』でなければ、彼の仕事対象になっていたかもしれない。…だが、武市は自分の影響力を念頭に考えた上で、敢えて二人にはつみの監視をと告げた様だった。彼女が藩政および朝廷工作に影響を及ぼす事はない、もしその様な動きがあれば『報告するように』と。
 そして8月21日、上洛の為の朝廷工作が実を結び、京の三条実美らにより土佐を受け入れる体制が整ったとの報告が武市ら勤王党幹部らの元に舞い込む。容堂への報告は事後報告として『翌23日土佐藩主上洛』との決定も下し、さっそく上洛へと取り掛かる事が決定された。その束の間、ほっと一息をついた武市は明日までの時間を『大阪観光』に費やす事にしたのだった。皆で浄瑠璃を見に行こうと言う武市の申し出に、はつみは思わず心浮かれる想いで受け入れてしまう。
―しかし一方で、土佐勤王党の一味は『京天誅旋風』の先駆けとなる殺人を犯そうとしていた。
 ―京―
夏の病…前編・後編
8月末。土佐藩主は上洛を果たし、河原町土佐藩邸へ到着。そのまま妙心寺へと進むも、武市は随行できない程に体調を崩し藩邸にて寝込んでしまっていた。土佐藩邸に残留した武市には、以蔵や寅之進、はつみの他、去年の終わりから『土佐勤王党』に血判し武市を盲目的に傾倒しきっている柊智(ひいらぎさとし)が付き、看病を行っていた。
詳細 閏8月1日を以て他藩応接役へと昇進するも頭痛は続き高熱も引かず、京で一番と言われる新宮良民の診察を受けようやく「きん(火ヘンに欣)衝脳」と診断される。治療が開始されるがはつみの想像を絶する『130匹を超える大量の蛭に血を吸わせる』という怪奇極まる(瀉血治療を見込んだ)とんでもない医療行為が行われた。その後、はつみは気を取り戻し、時に悲鳴を上げながらも持てる衛生・栄養知識を用いて献身的に看病を続ける。学校の家庭科で習った程度ながらにも、きちんと5大栄養バランスのとれた食事、水分補給、清潔を意識したといったあくまで基礎的な事ではあったが、ある意味すさまじい『医療行為』が平然と行われる世にあっては殆ど重視されない『基礎中の基礎』でもあった。
 一方、柊ははつみを信じようとせず、やることなす事全部に疑惑と反抗心を見せつけ、流石のはつみもキレ気味になって喧嘩一歩手前になるなど…寝込む武市を困らせていた。彼は寅之進よりも更に1つ年下の梼原村出身で、15になる前から江戸へ出る程の学才があるとのの噂だ。少し前にはつみの『女子』の部分を傷つけた『子無きは去れ事件』の首謀者一味でもあり、ともに過激な発言で土佐尊王攘夷を誓い合った吉村虎太郎らが脱藩しても尚、藩改革の実行を武市に夢見て、そのままそばに居続けた。今回武市がたおれた際にもはつみのせいではないのか等とイチャモンを付けたり、はつみと『レスバ』でもするかの勢いで、土佐一藩が掲げる『尊王攘夷』とはつみの思想について語り合おうなどと挑発してくるなど、確かに『利発』そうではあったが執着の激しい不安定な青年との印象だ。
 彼がはつみや以蔵、寅之進らに冷たく当たるのは他に気に入らない点がある様で、口癖が『何故武市先生はおまんらぁのようなもんを近くにおいておられるがじゃ』『武市先生の足手まといになっちゅう自覚はないがか?』であった。つまり、思想も違うのに何故武市先生から目をかけられているのだと…まさかとは思うが『ねえどうしてそんなに武市さんとの事を怒るの?もしかして焼き餅なの?』と尋ねると、図星のあまり…という顔色のままに手にしていた貴重な野菜をへし折ってしまうという事もあった。

はつみは(出来る限りの)徹底した栄養管理と水分補給を続け、その甲斐あってか史実では10日程寝込んだとされた病気がおよそ5,6日程で回復となったり、医者も予定よりも5割速く回復した事に驚いた。そして武市本人も改まって皆に礼を述べる。医者が見込んだ日数よりも1日でも早く復帰できた事は、今この大事な時にあっては大変に喜ばしい事だと…「ありがとう。世話になったな、はつみ」と述べた。
言葉を無くしながらも顔を真っ赤にして頷くはつみに、武市は『もう少し寝る、ゆうげの刻には起こしてくれ』と言って布団に入ってしまった。…なぜなら、彼がはつみを『名の呼び捨て』で呼んだのはこれが初めてだったから。
…これには、日頃からぶつくさと煩かった柊も黙っているしかなかった。
添わぬうちが花
 閏8月。翌日からの復帰を決めた武市の元に、義兄弟とまで契りを結び、時にはつみと行動を共にして『監視』を続ける田中新兵衛が改めて顔を出しに来た。彼が武市と交わしたかった話の本題は別にあったが、病の件、そして今は席を外しているはつみに関する雑談が進んでいく。
詳細 優れた剣豪である新兵衛は身体の動きなどからはつみが女である事はとっくに見抜いており、真面目を絵に描いた様な人柄である武市にも女を嗜む一面があるのだなと思ってはいたという。度肝を抜かれて言葉を失っている武市に構わず話は続き、『しかし療養中も男女としての動きが何もない』事に疑問を抱いたと述べた。
「兄上とはつみどんは男女の仲ではないでございもすか?」
「…違う。俺には土佐に正妻がおる。」
 一瞬どもりそうになるのを何とか堪えた武市は、表向きには表情を崩さず冷静に答える。しかし『冷静さを保とう』とする時点ですでに冷静でない自分の本心を自覚してしまっており、やはり他では経験する事のない心臓の高鳴りなど身体的変化を抑え込もうとする、そしてまた冷静さを保とうとし…という繰り返し。新兵衛はそれを見抜いてか見抜かないでか、腕を組み更に問うた。 「…兄上程の方ともあれば、妾でも囲えばよか」
「望むところではない。」
「あんおなごが拒んどると?」
「拒むも何も、そがぁな関係ではないちゆうちょる」
 印象通り『真面目を絵に描いた様な人柄』だが、ここまで堅物だとは思ってもいなかった新兵衛は若干込み上げてしまう微笑みを押し殺そうとして咳をする。それが演技だと気付いていた武市は何も言わず、煙管に煙草を詰め、火をつけた。妙な間が出来たが構わず『他に何か用があったがじゃろう』と言う武市に、新兵衛は改まった様子で胡坐を組み直したが―
「…まあ、男女ん恋は沿わんうちが花ちゆうでごわすな」
 と、あえてしつこく話を続けた。
「新兵衛、ええ加減にせんか。今最も大事な時に浮ついた話で皆の士気を下げとうないき。」
「おいはどげんしたらよかこつか。こんまで通り、はつみどんの事は監視と護衛をすればよかでごわすか」
「…ああ。」
 煙管を灰受けに置き、こちらをじっと深堀する様な視線を送ってくる新兵衛に視線を返す。
「おんしが何ら考えを改める必要はないぜよ」
「…じゃっどんはつみどんは尊王の志あれど開国の気骨があるっちゅう話じゃが。おいの前でそげんな発言があれば…」
 と、ただの『男女の話』では済まなくなる含みを持たせる新兵衛であったが、武市は動じる事はなくそれを受け止める。
「その前に、必要があれば寅之進あたりにはつみの事情や素性をよく聞くとえい。俺の名を出せば包み隠さず話してくれるじゃろう。俺が言える事は、あれは世相だ世論をどうにかする為にこの京まで来た訳ではない。あれは…俺に何かを伝える為に、命を懸けてここへ来ておるんじゃ。」
「……であれば。今、尊王攘夷を率いちょるんは兄上でごわす。失礼じゃっどん、もしあん娘の甘言が兄上の耳に入っこつがあれば…」
「いや……そういう事ではないのだ…」
 普段あまり私情を込めて話をせず明瞭な語り口で聞き手を引き込む武市であったが、どうも釈然としないのは『一人の男として』の顔がちらつくからに他ならない。本能的に込み上げてくる私情が『大義や貞操観念に取って代わってはならない』とする誠実すぎる面と鬩ぎ合い、彼を決して素直にはさせないのだろう。その堅物さは下手をすれば妻以外の女は知らないのやも…とも想像がつく。妾、愛人などといった話も多々ある中、本来ここ日本では一夫多妻は認められておらず、男女の不義密通つまり不倫浮気も幕府が定めた『御定書百箇条』にて罪と認定され、その上『死罪』とされている。そんな中で清廉な武士であればある程『妻以外の女を知らぬ』といった者も珍しくはない訳で、つまり『女との駆け引き、恋というもの』を知らないが故に、己の心情を言葉にしようとする武市を困惑させている感は否めない。
 …だが、女性蔑視の文化が色濃い薩摩に生まれ育った新兵衛であっても、時として女は『その利用価値』によって、藩を、国を、時代を動かしかねないのも確かだと思う。いや、蔑視しているからこそその女性の人生などお構いなしの『物扱い』めいた発想が定着するのか…。と江戸から最も遠い外様藩でありながら幕府に深く関与し続けた薩摩はまさにそうする事で生き永らえて来たと同時に、藩内外においても女を巡る血みどろの騒動が起こっている。…そういう意味も込めて、新兵衛は今一度この言葉を述べた。
「…やっぱい、男女ん恋は沿わんうちが花ちゆうでごわすな」
「…はぁ…もうえい。この話は終わりじゃ。」
 呆れてため息をつく武市に『こいは流石にしつこかったでごわすな』と笑う新兵衛。気を取り直して、情報収集していた『本間精一郎』について話し始めるのであった。
身から出る錆
閏8月。本間がはつみ達の前に現れ、(江戸遊学時の)よしみで武市に会わせて欲しい等と言う。柊や新兵衛がはつみの素行や人間関係を監視していた事もあり、あえて彼らも交えての『座してゆっくり話をする』状況となるが、これが思わぬ事態を招く事となった。
詳細勤王草莽の志士として国々を奔走し、京においては高貴な方(青蓮院宮)の元を出入りしながら多くの志士と交流する本間は、江戸にいる容堂と上洛中の藩主及び武市ら攘夷派との間に軋轢があると考え、『土佐の一藩勤王』に疑問を呈する様になっていた。反論する柊に対しては青蓮院宮の名前まで出して強引に論破しようとする。梼原村の神童として若い頃から安井息軒に学び短期間ながらも昌平黌にも推された柊もかなり弁舌が立つ人物であったが、本間も越後商人の息子でありながら江戸勘定奉行・川路聖謨に引き立てられ、そして彼もまた昌平黌を出た利発な頭脳を持つ。それでいて勝気でどこか相手を小馬鹿にする様な物言いの癖がある男であった為、柊とは必要以上の言い合いになり、隣で聞いていた田中新兵衛もだんだんと目が据わっていく様子が見て取れた。はつみはこれを見て初めて、歴史上本間が『遭難』した理由が分かった気がした。
終わりと始まり…前編・後編R15
閏8月20日、本間精一郎暗殺。
詳細 先の9日、武市が書いた『新兵設置』『大政奉還、王政復古』に係る建白書が土佐藩主の名で提出され、三条ら尊王攘夷派の公卿をはじめ志士の間で話題になっていた。しかしこれに突っかかって来たのが諸国をめぐる勤王派・本間精一郎であった。
土佐の主導権はあくまで江戸に座する容堂にあり、現在上洛している土佐藩主でもなければ当然武市半平太でもない。その容堂は薩摩らと同調し公武合体論を推し進めており、容堂が将軍に見え幕府に意見するはあくまで『幕政改革』に係る意見であって尊王攘夷を根幹とした思想は取り合っていない。この様に一枚岩となっていない状態でなされた建白書にどれだけの価値があるのか。只でさえ政治手腕に長けた薩摩が公家の一味と結託し和宮降嫁などといった強力な公武合体策を押し続けている中で、土佐の上辺工作はどこまで信用できるのか―。といった事を尊王攘夷志士達の間で説いて回っているという噂が、とある飯処で夕食をとっていたはつみ、寅之進、以蔵の耳に入ったのである。
はつみよりも武市ら周辺の実状に詳しい以蔵は、これについて「藩邸の者らぁは『本間がうそぶいてちょる』『妨害行為じゃ』と憤っておった」と言う。また、本間は見栄えの良い煌びやかな身なりをしていたが金子に事欠いていた様で、品の良い噂は聞かぬとも。最近、はつみの挙動の監視も兼ねて行動を共にしていた柊や新兵衛は『所用がある』と言ってこの日は別行動をとっていた。様々な要因が繋がり、胸騒ぎを感じたはつみは寅之進の制止も聞かず夜の町へと駆け出す。黙って追従する以蔵、慌てて追いかける寅之進と共に本間を探したが……。
寵愛
9月。他藩応接役として毎日来る人訪ねる人ありといった忙しい日々を過ごし、合間を縫って密事会合をこなす武市。早々に土佐藩邸を出、木屋町通り三条にある四国屋丹虎を寓居とする事となった。しかしここで思いもしない事態となる。武市がはつみと寅之進を寓居に匿うと言い出したのだ。はつみを寓居に住まわすのは武市なりの思案の末に出された『理由』がある…というのが武市の言い分であるが、それを自ら語る事はなかったし周囲は様々に物を言う。とりわけ武市に心酔していた柊が、最も強い風嵐を以てはつみに当たろうとしていた。
詳細 はつみに関しては以前から開国論者である事を始め、永福寺事件での郷士との対立っぷりや、吉田東洋、本間精一郎といった勤王党とは相容れぬ形で逝った者達と交流があった為に良くない注目を集めていた。はつみは基本的には武市や彼女の周りにいる『理解者』にしか『開国富国強兵』等を説く事をしておらず、政治的に影響を及ぼす訳ではないというのが武市なりの認識であった。しかし直情的で極めて高度な知識を有する訳でもない土佐郷士達には刺激が強すぎる傾向にあり、事実土佐を出る前には何者かに襲撃された事もあった。渦の中心であるこの京にあって、目の届かぬ所にいては武市の抑止力も効かぬと判断した故、はつみ達を寓居に迎え手元に置く決断をした武市であった。  同志達の中…とりわけ城下出身である者の中にははつみが女であると言う事を知る者もおり、故に『武市先生の妾か』と噂されている事も承知の上だった。その様な噂が富の耳に入れば余計な心配をさせてしまうやも知れぬと思いながらも、自分の側から離れようとせず何かしら羽ばたきを見せようとするはつみを放り出す事もできなかった。『武市が妾を囲っている』との噂は甘んじて受け入れ、この京で何かを成そうとする彼女を守る事を決意したのであった。
京料亭『白蓮』との出会い
10月。武市は勅使東下を裏から指導する人物として日々激務をこなしており、同じ寓居内に住んでいるとはいえ中々会ったりゆっくりと話す事ができずにいた。その日、はつみと寅之進は四条通りを超えたあたりの往来で何やら揉め事に遭遇してしまう。しかしこの出来事こそが、はつみが周囲を気にする事なく滞在できる『居場所』との出会いとなる。
『守る』という事R15
10月の始め、今となっては公武合体路線を明確に周知され尚も突き進む薩摩・島津久光(三郎)の懐刀・小松帯刀(家老見習)が再入京したが、その小松とはつみが会っていた為にまたもやはつみに対するアタリが炎上する。
詳細  二人が単に『長崎遊学時の知己』である事を知っていた武市であったが、いかな人望厚い党首とはいえ火が付きやすい土佐藩士らを抑え込む事が困難であるという事は今に始まった事ではなかった。同時期、長年三条家に仕えた土佐上士の娘・平井加尾の帰藩に伴う送別会が行われるが、武市は諸事気遣った上ではつみへの出席を辞退させる。その後日、ある事件が起こってしまう。ある日の朝、はつみの部屋(武市寓居)の前の板床に一つの袋が放り投げられており、部屋から出てそのまま前進した際にうっかり踏みつけてしまう。瞬間、おぞましい感触と漏れ出た鳴き声、染み出した血に驚き悲鳴をあげた。屋敷に同居している寅之進や武市、柊らが駆け付け、袋の中に切り刻まれたネズミがいた事を確認。『袋のねずみ』武市、抑えてはいるが珍しく怒りの表情を見せこれに対応。後に、はつみの希望でねずみの墓を作った。
 はつみに対しても、これを機に小松の事など話をして『周囲を刺激しない様に』『くれぐらも身を守る様に』と伝えると同時に、自らの江戸行の事も話す。はつみは武市の話で小松が薩摩の家老(見習い)となっている事を知ったくらいで、そもそも彼とは長崎遊学時に知り合い、ほんの数日共に学んだという昔の友人の様だものだと説明。政治的な話は一切していないと真正面から言い切った。それ以上に気になるのは、武市の江戸行きだと言い、はつみは辛そうに言葉を詰まらせる。…つまり勅使東下にて将軍に対し攘夷と新兵設置などを迫り…そして土佐の「いち上士」にすぎない武市が将軍のお目見えになるという、公武合体派である容堂の疑惑や苛立ちを決定的なものにする『歴史の一大事』がついに眼前に迫ってしまった事に焦りを禁じ得ないし、しかし武市本人に言う訳にもいかないと思って言葉を失くしてしまったのだった。武市達にとってははつみと薩摩家老・小松の関係の方が気がかりであったが、はつみにとってはまったくの逆だった。
 『はつみはただ自分の身を案じているのだ』『そこに政治的な工作を諮ろうなどと言った意図は、やはり見受けられない。』という事だけは明確に武市の認知するところとなり、しばしの沈黙の後、「…俺の事は、案ずるな…」と告げた。極めて言葉を選びながら、たどたどしくはあったが
「……おんしが俺の側におると言って聞かんのであれば、おんしの事は出来る限り俺が守る。…やき、無茶だけはするな。」  と。武市からこんな肯定的な声をかけてもらえたのは、美人画講習を受けていた時以来かも知れない…と、震えながら舞い上がってしまうはつみ。はつみの様子を見て、『恋』を知らなかった武市であってもやはりそこに『男女の感情』がある事を否定できない。…今、この感情に対し素直に振舞えるのなら…彼女を抱き締めているのだろうと思いつつ、理性でそれは堪えていた。

 だが、武市の周囲にいる柊など過激な攘夷論者達は、例え武市の言葉であってもなかなかそれを聞き入れようとはしなかった。辛うじて、刀に手をかける事だけは抑えられている…といっても過言ではない状況だ。
 そんな中で、はつみは武市を追って江戸へ行くつもりだとの情報が以蔵から入る。…土佐にあっては一度襲撃もされ、東洋や本間との関わり、更には、きな臭い薩摩家老との関わりまであったと知られ、更に厳しい視線が集まっている事も承知だろうに…。何故ここまでして自分の側から離れようとしないのか…。それは本当に『恋』の感情からくる情熱なのか?武市には分からなかった。
 ―江戸―
仮SS/江戸取引1
11月。土佐藩主豊範が伴奉する勅使・三条ら一行が江戸に入る。武市は柳川左門との名を用い雑掌として同行したが、『輿』よりも高貴な者が利用する『乗り物』が朝廷からあてがわれ、江戸では勅使らと共に直接将軍に見える予定でもある程、今や勤王派の実権を握る人物となっていた。…周囲の皆ははつみが『武市を追いかけて江戸までやってきた』と勘違いしていたが、実は少し違う。京において三条卿、姉ヶ小路卿ら勅使と共に江戸へ行かんと準備をする武市を見ていて、はつみはとあるひらめきを抱き、それ故に江戸行きを決意したのであった。
女傑評議5
世間では英国公使一行が江戸に滞在し老中等との会談を勧めているとの情報もありつつ、勅使に対しては将軍の病気などを理由にいまだ日程のつかない日々が続いていた。そんな最中、懇意の仲でもある武市と長州の久坂玄瑞は互いに坂本龍馬と柊智、高杉晋作を連れ立って会合し、時勢を語らっていた。
詳細その中でどこからともなく女志士であるはつみの話となり、賛否両論が沸き起こる。龍馬が『まぁまぁ』と間を取り持つが久坂と柊は同調して勢いを増し、武市は閉口してしまう。はつみの事を開国派だ間者だ危険人物だと言う久坂や柊に対し、意外にも庇護に回る人物がいた。それは上海帰りの高杉晋作。これにより場は更に炎上し、口を滑らせた久坂と高杉から近々外国人公使を天誅するという計画が発覚してしまう。―ここから、俗にいう梅屋敷事件へと繋がるのであった。
仮SS/江戸取引2
12月の始め。はつみは乾退助との『取引』によって得た最大の『好機』に対峙しようとしていた。…かつて自分を引き立てようとしてくれた参政・吉田東洋。その東洋を己の右腕の様に起用していた土佐前藩主・容堂公との会談である。

●文久三年…武市34歳・はつみ22歳
 ―京―
嵐の前の静けさ
昨年末、武市はついに『留守居組』への昇進通達を受け、名実ともに『上士』となった。これは藩主による引き立てのみならず、背後にて真の実権を握る容堂にも認められたという事だと殆どの者が信じて疑わずにおり、勤王党同志達による京・公卿衆への周旋活動は更に強硬的なものへとなっていく。薩摩へ一時帰藩していた田中新兵衛も、揺るがぬ尊王攘夷の思想を抱いたまま再び武市の元へ現れていた。
そして1月1日。この日武市は平井らと共にささやかながらも酒肴をつまみ、和歌を詠んだりと久方振りにゆるりと羽を伸ばす穏やかな正月を過ごしていた。
詳細 一方、この席にははつみの姿がなかった。武市達勅使一行とは別働だったとはいえ12月末には京に帰還したはずだったが、その後この寓居に戻る事はなかったのだ。はつみの事は禁句かとでも言わんばかりの空気の中、怖いもの知らずの新兵衛はしれっとした様子で武市に訪ねる。歯切れの悪い返答があった後で姉ヶ小路公知による訪問があり勝海舟の話題となった事で空気が変わったが、しばらくして再び新兵衛が武市に働きかけ、今度は『初詣』へと誘った。それは『白蓮』への初詣であった。
歴史の力
 1月上旬に容堂が入京し、入れ替わる様にして武市が一時帰藩の為土佐へ発ってしばらくが経っていた。その最中、江戸ではつみと『上士』である乾との間で何があったかを察していた以蔵が、情事を以てはつみに想いを吐露し、そのまま姿を消した。その直後、山内容堂の来訪者であった池内大学を殺害した犯人が以蔵であるとの噂がはつみの耳にも届く。
詳細 出奔の事は兎も角、池内大学殺害の犯人は『以蔵ではない』。これは明確な濡れ衣であり、そして図らずも歴史とは違う展開を見せていた。はつみの知る歴史では、確かに池内大学暗殺には岡田以蔵が関わっているとする傾向が強かった為である。
自分がどれだけ強く意識をし、先を見据えたつもりで行動しても武市の思想や行動は変わらない。しかし以蔵の行動は大きな変貌を見せていた。これまで彼は一度も人を斬らず、『密事』に加わってもいない。その事が結果的に別の形で『不満』や『疎外感』を産み出していたが、武市との関係性も昔から続く『第一の師弟』そのものを保っている。…故に、周囲の者達からの妙な偏見や僻みも相まって、今の『罪の擦り付け』といった現象が起こっているのもある。しかし史実とは違う展開を見せながらも、以蔵が失踪する時期や以蔵を犯罪者へと駆り立てるこの流れは、結果的には史実と同じ方向性へ向かおうとしている様にも思える。…果たしてこれは歴史が修正しようとする力なのか。寅之進の時とは違って桜清丸が熱を放つなどの変化を見せる事はなく、ルシも変わった反応を見せる事はない。当然、ルシファが出てくる事もない。何故こうなったのか。どうやったら武市の運命もこの様に導く事ができたのか…塞ぎ込むはつみを寅之進が心配するが、胸中に渦巻く不安や懸念を打ち明ける事は誰にもできなかった。
思想違え何する者ぞ
1月末頃。一時土佐へ帰藩していた武市が再び京へと戻ってきた。早速容堂との直接対決かとも思われたが、ここにきて高熱を出し再び寝込んでしまったと、はつみが滞在している白蓮へと新兵衛が報せに来る。以蔵の事もありはつみは寓居へ駆け付け、柊達のきつい視線を背に武市の看病に取り掛かった。武市は病床にあったが、駆け付けたはつみに対しては当の本人が思わず躊躇ってしまう程、優しく対応してくれる。それは、昨年江戸から戻って以来はつみとの距離を感じていただけに、理性では抑えきれない嬉しさが漏れ出た結果だった。
詳細 ある日、快方へ向かう兆しが見えた武市に対し思い切って建言を行う。つい先日も容堂が藩主豊範を土佐へ返したのを期に土佐下士達を呼び出し、軽格の身でありながら京の高貴な方々へ直接政治周旋を行うといった身分を弁えぬ活動に対し大叱責を行った。にも関わらずその翌日には武市の右腕・平井収二郎が再び周旋活動を行い、いよいよ容堂の逆鱗に触れて一切の活動を禁止されてしまった。藩主の名において命じられていた下士たちへの探索方等の役目を全て解任し、今後一定期間、帰藩した下士達の再入京を禁ずると言ったふれまで出した。
はつみは一連の流れを改めて丁寧に武市に説き、その打開策として、再度…再度の開国富国強兵論か…もしくは脱藩を説く。尊王の志を忘れる訳ではない事を説き、まずは姉小路公知が勝海舟から説かれた摂海防衛策についてを詳しく話を聞いてみないかなど…。武市の意思や思想が明確に変わる事はなかったが、はつみが知る歴史とは違う兆しが現れている事に気付く。
最終的に「自分はたとえ思想が違い突き放されようとも武市の命を守ろうとする者である。絶対にあきらめない」と言い残して去った後の部屋で、武市は一人、天を仰ぎ深く息をついたのだった。
(1月31日)賀川肇の首が慶喜がいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じるためある意味身動きを拘束される事となる。)
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の生首が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月11日)攘夷期限を迫る暴動を起こした中山忠光が長州・久坂らの元へ転がり込むが、手に負えない久坂らが武市の所へ転がり込む。武市の案にて、久坂達の対関白・断食座り込み(ストライキ)が決行され、久坂ら姉ヶ小路公知ら12名の血判書を用いて後押しした。孝明天皇は直奏を受け入れ、攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に下す。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。時勢を見る容堂は、先日帝から勅命が下った事も当然把握していた。その為、武市らの『土佐勤王党』に内心腸煮えくりかえる想いを抱きつつも、むしろ寄り添うが如く言葉を下す。甘いものが好物であるとする武市に『菓子』を送るなどするが、労っての『菓子』なのか、それとも『下士である事をゆめゆめ忘れるな』という皮肉を込めての菓子であったのかは定かでない。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。
(2月25日)京藩邸にておよそ半月の謹慎処分を受けていた坂本龍馬が、この日『御叱り』を以て脱藩罪を罷免され、解放。下田会談による勝海舟と山内容堂による特例の措置が実行された。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。

越えられない壁
2月中旬。容堂が入京してからたったひと月程の間ながら、ここ半年で猛威を振るった『土佐勤王一派』の勢いはみるみる内に先細りの様子を見せている。『土佐勤王一派』つまり『土佐勤王党』という、土佐藩政においては認められていない『徒党』の存在をついに容堂が耳にし、それについて直接武市からの報告を要求した。一方、藩邸には脱藩をしたはずの龍馬の姿もあった。
詳細 武市は容堂と対面してこれを釈明しながらも内心『覚悟』をしていたが、この件について何か処罰されたり叱責を受けるといった事は起こらずにいた。下士達に対しては身分を越えた国事斡旋を行うべからずと厳しく取り締まる一方で、武市に対しては『ねんごろに』対応をしている事が、勤王党一味の危機的状況に対する認識を混乱させる効果もみせている。無論、はつみはその容堂の態度の『裏』を知っている為、焦燥は募る一方だ。彼女の表情が目に見えて日に日に強張っていく頃、およそ一年前に脱藩した坂本龍馬が『12日間の謹慎』という短期間での簡易的な処罰にて例外的にその罪を許されていた。龍馬の謹慎があける2月下旬、彼は藩邸に出ていた武市と再会し思わぬ話を聞かされる。龍馬、そして武市にはそれぞれ越えなければならない壁が存在する事を、自覚していた。
春雨(挿絵付)
2月下旬。優しい雨の中で、二人はただ連れ添って歩いた。それだけの事が、二人にとってはどれだけか大きく心通わせる出来事であっただろう…
詳細 土佐勤王党への弾圧が決定的に始まるきっかけとなる青蓮院宮令旨問題への取り締まりが、歴史通りに動き始める。相次ぐ天誅の首謀者として武市の名が上げられ、土佐佐幕派の者には武市こそ斬るべきとの声も上がっていると聞く。土佐武市の影響力が急速に落ちていく中で長州が尊王攘夷を大きく掲げ、対し公武合体ありきの幕政改革を目指し朝廷と幕府の間を上手く取り持たんとする薩摩との軋轢が深刻になっていた。武市は薩摩と長州の間を取り持つべきとの考えも持ってはいたが、薩摩からはその存在を疎ましくも思われ始めている。容堂に青蓮院宮の令旨について『密告』をしたのも、藩の垣根を越えて容堂から信用を置かれていた薩摩の高崎猪太郎という男であった程だ。
この日、寓居内ではつみが武市と話をしていると、武市の義兄弟の契りを結び尊王攘夷という思想を『天誅』の形で世に示さんとする薩摩の田中新兵衛が顔を出しに来た。心に余裕のなくなっていたはつみは、新兵衛に対し明け透けな問答をしてしまう。見かねた武市に諭され、はつみは感情のやり場を無くし雨の中外へと飛び出してしまう。
慕情と後悔の狭間で…前編・後編R15
雨の中を連れ立って帰った武市とはつみであったが、寓居に戻ったところで『何か』が起こる訳ではなかった。武市が見せた無骨な優しさと愛情に大きく心が揺れたはつみは、新兵衛に言われた事もあって文字通り『身を挺して』の訴えに出る事を決意する。
詳細 これまで、正妻と鴛鴦夫婦とまで言われる武市にそういった感情を表立って見せた事はない…つもりだ。しかしそれでも何故か二人の間には妙な掛け合いが生じ、結果、鈍感極まるはつみですら『もしかしたら…』と思える様な出来事が生じている。…江戸での花火大会、子無きは去れの事件、龍馬の脱藩、はつみが襲撃を受けた時の豹変ぶり…京での日々と、今日の事が最もたる例である。…愛妻家、天皇好きと言われる武市であっても、言い出せないでいるこの想いを告げたら、もしかしたら……と己惚れてしまう程度には、互いの心の距離感が近い事を感じていた。
 夜、まだ雨音が耳に優しくささやく中、男装を脱ぎ捨て武市の部屋へと向かったが…理性を振り絞って武市が紡ぎ出した言葉は、やはりあの時と同じ、『帰りなさい』の一言であった…
椿の押し花
3月。武市の様子は史実とは違い、容堂とのすれ違いを明確に理解している様であり、また、出奔した以蔵への理解や関係性にも変化が見られていた。はつみのこれまでの言動が多少の影響を及ぼしている事は間違いない。しかしそれでも尚、武市は土佐勤王党での在り方を変えようとせず、正面から容堂と対峙し正義を説く姿勢を崩そうとしなかった。
詳細  もう一押しが足りない…。この後、史実では容堂が乾らと共に帰藩の途につき、武市は所用の為それを追いかけて京を出たまま二度と戻ってこれない…寧ろ土佐から『一生』出られなくなる定めとなっている。懸念は深まるばかり、先日の件もあって、はつみの表情はまったく晴れやかなものではなかった。
 そんな矢先、一晩降った雪が武市寓居の中庭に咲く椿へ優しく舞い積もり、短くも武市と雪椿の鑑賞をする流れとなる。 …二人の間には何も進展はない。だが、確かに結ばれた心の温かさがあった。…はつみは武市がこのまま土佐へ行くと言うのであれば自身も共に行く覚悟を決めたと言う。武市は土佐へはくるなと言うが、はつみの表情は悲痛な決意が相まってますます影を落とし込んでいた。そんな彼女に、武市は……一歩歩み寄る。
赤椿の『我が運命君の掌中にあり』との花言葉にあやかり、武市が差し出してくれた一輪を押し花にして大切に持ち歩いた。
人斬り
3月下旬。武市と市中を散策していると、壬生浪士組と名乗って市中警護を行う沖田総司らと遭遇した。彼らははつみとは江戸遊学時からの知己であり、特に沖田ははつみに対し並々ならぬ私情を持ち合わせていた。始め出会った時、彼らははつみと共に歩く男が『土佐尊王攘夷派の大物・武市半平太』だとは気付かなかったが、互いに別れたところで図らずも彼の正体について耳にする事となる。「武市半平太!」と叫びながら突如往来で抜刀した男達が、殺気を纏って襲い掛かった所に居合わせる形となった為である。咄嗟に振り返った沖田達がそれを目撃した時、凶刃はためらいもなく武市達に向かって振り降ろされようとしていた。―刹那、はつみの桜清丸が初めてその神気を振るう。
漢気…龍馬、内蔵太編・乾編
『武市、桜川、池田、往来にて刃傷沙汰』との報は各方面へと飛び交い、その日の内に伏見から駆け付けた龍馬と池内蔵太が武市寓居に雪崩れ込んでくる。そして更に深夜、容堂の側用人でありながら強靭な尊王思想を抱く乾退助までもがやってきた。武市は、はつみの周囲には『ありのままの』彼女を守らんとする者が多くいる事を知る。
最後の記憶…前編・中編・後編
武市襲撃事件の直後、土佐藩は武市に対し特に労うといった姿勢などは見せなかったが、ただ唐突に『京留守居役』とするとの通達を出した。そして容堂ら一行は何事もなかったかの様に、予定通りに土佐帰藩の途に出た。容堂は武市との直接会合においては最後まで明確な敵意を表す事は無く、寧ろ留守居組からの大抜擢ともいえる昇進を認めた形で京を離れるに至る。その際、武市が『先手を打ち全て誠心誠意を以て打ち明ける』として土佐勤王党の血判状を見せた時ですら、容堂は『お国の為なれば』『しかし藩政では認められていない。何かあった時に困るから今の内に焼き捨てた方がよい』などと容認する姿勢を見せた為に、武市も含む周囲の勤王党員達全員がホッと一息を突く様な瞬間さえあった程だった。
詳細 しかし帰藩の途につく際には、既に禁足の処分を与えていた平井収二郎に加え、先の青蓮院宮令旨問題における首謀者である同・平井、間崎哲馬、弘瀬健太が改めて捕らえられ、強制帰藩となっていた。無論、他の下士達に対し政治斡旋などするべからず等の御触れは取り下げられてはいない。この様な状況で武市だけが『京・留守居役』への大抜擢なのである。武市は『京留守居役として』平井らの正当性・重要性を主張するが、藩に聞き入れられる様子は一切見られなかった。
…やはりこれは単なる昇進ではなく、長州や薩摩、朝廷など時世への動きを注視しつつもなんとかして武市を『土佐藩政による絶え間ない監視の元、縫い留める』為の昇進であったとはつみは懸念し、武市自身も感付く。はつみはこの気付きと確信をもっともっと早くに与えたかった。そうならなかったのは、完全に己の力不足であったと苦々しく俯き唇を食いしばるしかできないでいた。
武市は同志らを救い出すべく、容堂とすれ違いで入京した土佐の重臣・深尾鼎と様々な共謀を図るが容堂は飄々とこれを切り抜ける。『やはり自分が出ていかなければ何事も成らない。その為に党首たる己が脱藩を図るは一切あり得ない』とする頑なまでに誠実なその性格は、変えられなかった。
武市は容堂を追って京を出る事を決意し、漏れなくはつみもそれに随行すると言う。…彼女を止める事はしなかった。ただ最後に、武市ははつみに嘘をつき、書簡を持たせて彼女を龍馬の元へと送り出す。
…その秘めた想いについては、寧ろずっとずっと嘘をつき通していたと自覚しながら。


京・天狗編
文久3年4月―元治元年6月

●文久3年…武市34歳・はつみ22歳

 ―土佐―
6月~8月
 容堂による土佐勤王派および土佐勤王党弾圧への動きはもはや疑いようもなかった。武市の奮闘も空しく、同志である平井、間崎、弘瀬らは6月に入牢・切腹となり、武市が頼りとしていた上士および重臣の勤王派・小南五郎右衛門、渡辺弥久馬、乾退助、そして深尾鼎らも皆、6月頃を以て一斉に失脚している。
詳細 後ろ盾を無くし、容堂が硬く国境を閉ざした為に長州や京・朝廷からの援護も得られぬ武市であったが、その後も容堂と対峙し建言まで行い、4時間、5時間にも及ぶ対談を数回繰り返している。容堂の武市に対する態度ははっきりせず、会談の様子だけをみれば穏やかに時世を語り合うといったものであり、時には内政事情を打ち明けあたかも武市を信頼しているかの様な振舞が続いていた。しかしその間にも、武市を頼り国境付近へ現れる長州藩士達はことごとく追い返されており外部と連携をとる術は全て阻止されていた。
業を煮やし続ける土佐勤王党員でもある中岡慎太郎らは、武市に対し大義の為に脱藩すべしと説くのだが、日本が揺れ動くこの時世だからこそ土佐の為にも『一藩勤王』との大義を曲げない武市は、脱藩の誘いには断固として頷かなかった。

そんな矢先の8月17日、大和にて『天誅組』とする尊王攘夷派の志士らが挙兵する。武市もよく知る若く勇ましい公卿・中山忠光を擁し、参謀としては土佐下士の出身である吉村虎太郎が付き、同じく土佐の池内蔵太や那須信吾らも幹部としてその名を連ねていた。尊王攘夷を先走る彼らは、幕府が自ら定め朝廷に奉じたはずの『5月10日の攘夷決行日』に際し、当事者であるにも関わらず何の行動もしなかった事に堪えきれぬ程の強い不満を持ち、時世に『風穴』を開ける為に『打倒幕府』へと立ち上がっていた。しかしその動きは筒抜けであり、彼らが挙兵した翌日、まるで準備が整っていたかの如く、京・御所を公武合体派が占拠する。孝明天皇のもと、青蓮院宮をはじめとする公武合体派の公卿衆、薩摩、会津らがすみやかに兵を動員し、尊王攘夷派の公卿、藩(主に長州)を一斉に排除した。
818の政変である。

この政変の報が土佐へ舞い込んだのは8月23日頃の事。
この日から、土佐藩政は不気味なほどに沈黙をもたらしていた。
告白
818政変からおよそひと月が経とうとしていた9月半ば。長州ら尊王攘夷派が『朝敵』となった報が武市の耳に入ったという事は、容堂も当然聞き及んだと安易に想像がつく。…であれば、これまで時世に鑑み隠されてきたその牙がいよいよ武市に向けられるであろう事も想定できた。
詳細 現役の『京留守居役』である武市を特別な意味もなく『対談の為だけに』長く土佐へ留まらせていたのは、この流れが来る事をまっていたに違いない。腹をくくった武市は同胞たちにも相談し、重要書類等の処分等諸事対策を決行する。そして極めて個人的な事として、およそ3年前の九州探索の折に購入して以来人目のつかない天袋の隅に押し隠していた桐の箱を取り出した。それを紫の絹風呂敷で丁寧に包み、座した自分の手前にそっと置くと、難しい事は何も知らず奥で家事をしている正妻の富を呼び出した。
妻には家を守ってもらう事になる。これから起こるであろう事の説明をしてやる必要があると考えた。そしてその上で、長く『夫としての不義』を押し隠していた心の内を告白し、謝罪し…恥を忍んで『一つの言伝』を託す為に。

9月21日、武市半平太 投獄

●文久4年/元治元年…武市35歳・はつみ23歳
 ―土佐―

土佐では多くの土佐勤王党員が『親族預かり』『謹慎、蟄居』等の処分を受け、武市を始めとする数名の党員が投獄されるといった『土佐勤王派・大弾圧』が進行中であった。獄中の武市らについては詮議(取調べや拷問)がいまだ始まっておらず、狭く不衛生な牢内で季節の移り変わりに晒されるという日々を送っている。
詳細詮議が始まらない理由は定かではない。京・朝廷内において土佐の存在を示し牽引した武市が突然『投獄』となった事に対する世間の関心が下火になるのを待っているのか、長く牢獄生活を送らせる事で心身的な弱体を狙い、詮議の際に耐える為の気力体力を奪い自白させる事が目的なのか。それとも、詮議を前に土佐勤王党の『粗』を探す事に時間を費やしているのか…。
今後、武市達に対してどのような嫌疑を以てどのような詮議が行われ、そしてどのような処罰が見込まれるのかといった事は、誰も明確な予想を立てられずにいた。


あれほど誠実と言われる武市から敢えて騙され、突き放される形で袂を分かったはつみはその拠点を大阪へ移し、坂本龍馬らと行動を共にしていた。 武市を救い出す事を諦めていないはつみは、己が持つ『未来の知識』の有用性を自覚し、これを以て『外から』土佐へ揺さぶりをかける方針へと切り替えていた。その為にはやはりどうしても容堂に近付き、或いは認められて発言権を得る必要があると考える。四賢侯の一人でもある容堂を相手に途方もない話の様にも思えるが、かつて吉田東洋が自分の才を見出してくれ、その縁もあって容堂の記憶に自分の名が刻まれていたという事実を素直に受け止めれば、まったく考えられないという話ではない。それほどまでに、開国や異国に関する知識・言語能力というのは今後さらに重宝されてくるであろう『貴重な武器』であると、考えを改めたのだった。
以前、容堂と会合した際には武市の事を上手く切り出す事ができないままに話が終わってしまった。…同じ失敗はもう繰り返さないと心に誓い、龍馬の厚意と誘いにあやかって幕府軍艦奉行並・勝海舟の私塾『勝海軍塾』へと入門する。
世界水準
1月。土佐藩による下士一斉帰藩命令に伴い、それに従う意向の無い龍馬らは江戸等へ拡散し、或いは脱藩をするといった土佐者が多く出ていた。
一方はつみは土佐内の『協力者』である乾との連絡がすっかり絶たれている事もあり、また、これこそ土佐藩政へ直接『開国富国強兵』について話ができるチャンスではないかと考え、帰藩命令に乗じる形で土佐へ向け出立していた。
詳細 『土佐に対する海外情勢に関する当たりは必ず反応がある。』 東洋や容堂、そして勝の反応を直接見て確信…否、成就させなければ成らない『チャンス』であると強く心に決意していたというのも勿論だが、江戸へ雲隠れしている龍馬に黙って土佐帰藩を決めたのは、彼がいれば必ず反対されると思ったというのも、正直なところであった。
陸路土佐へ向かう道中、途中襲撃を受け寅之進が負傷したりと散々な目に遭った。しかし勝や海軍塾生きっての剣豪・黒木の助けもあって海路を行く事となり、何とか土佐の隣国である宇和島藩へと到着する。宇和島藩には容堂と同じ四賢侯との誉れ高い隠居・伊達宗城公がおり、土佐と同じ様に藩の精神的支柱として座していた。宗城公はかねてより開国事情、そして海外そのものに対する興味や造詣が深い人物であり、土佐の東洋や容堂、そして自分と同じ様にはつみの事を『面白がる』だろうと勝は言う。また、はつみが長崎留学時に宇和島藩出身の女医・楠本イネなどと交流があった事などを伝えると益々『面白れぇ!』『世間てのは狭いもんだねェ!』と言って膝を叩く程に喜んでいた。その楠本イネこそ、かの著名な西洋医・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト医師の娘であり、宇和島藩主時代の宗城公の援助を受け西洋女医・産科医としての権威へと進まんとする人物であったのだ。
その宗城に対し勝海舟からの心強い紹介状を得ていたはつみは、早速これを奉行所へ提出。年が明けたところで宗城から直接、館への招待を受けていた。
土佐帰藩
1月末。宇和島隠居・宗城に送り出されたはつみ達であったが、現在入出国が厳戒態勢にある土佐の国境で押し留められ、半月近くが経過しようとしていた。関所到着当初、寅之進には帰藩命令が出ていたものの同行するはつみ、陸奥、黒木は入国が認められなかった。関所としては、はつみ達は追い返したいが寅之進は帰藩させるべき…困った門番らは藩庁へ問い合わせた様で、その返答がこの日、半月も経過してようやくはつみ達のもとに届いたという訳である。
そしてはつみ達の前に現れたのは乾ではなく、岩崎弥太郎という下横目。そして彼に付いてきた物々しい装備の男達数名であった。
届かない声
土佐城下へ到着したはつみ。当然ながら寅之進とは強制的に弾き剥がされ、坂本家にも入れずどこの宿かも分からぬ部屋に押し込まれていた。憤慨していた所、翌日になって突然『出頭命令』を受け、止むを得ず連れられるがままに南会所へと向かう。そこは武市をはじめとする数名の土佐勤王党員らが投獄されている牢獄のある場所であった。
詳細 『協力願い』の名目で色々と質問を浴びせられる。何故土佐を出たのか。京では何をしていたのか。武市達との関係はどのようなものだったのか。…など。武市達の獄中闘争に直接関わってくる様な深く切り込む様な質問ではなかったが、それには理由があった。
―はつみに対する今回の詮議は特別な形で実行されていた。通常、詮議の内容が外に漏れ聞こえるという事はありえないが、この時は獄舎と空間的に繋がっている『中敷き』辺りに屏風が立てかけられ、その中で詮議を受けていたのである。その上、質疑を投げかける役人ははつみが安政6年に拘留された際にも顔を突き合わせた記憶のある『しゃがれ声モラハラ気質の小目付・野中太内』であった事もあって、無用に神経を逆なでられたはつみの論客っぷりが発揮されてしまう。…つまり、はつみがここにいるという事実が本人の声と共に武市達へ周知されていたのだ。
はつみにかけられる質問や聞こえてくる内容が大したものではない事も、藩の考慮に含まれているのだろう。京での天誅被害者である本間精一郎の第一発見者がはつみである事は周知の通りであるにも関わらず、この詮議でその名が出される事はなかった。はつみとのやり取りを武市らに聞かれている(聞かせている)中で、藩庁側の手の内を読まれぬ様深入りしない質問をする程度に留められていた為である。
『はつみという『見過ごせない人物』を手中に収めているという揺さぶりの一手かも知れない。』武市は不動のまま目を閉じて牢内に座していたが…耳に届く懐かしい声色で溢れそうになる想いに必死に蓋をするには、言葉を発さずただひたすらに無を演じている現状は却って都合が良かった。
(2月20日)~『元治元年』に改元~

獄中の桜
4月。青白くやせ細った己の顔を見て『この世の人間ではない』と自嘲する手紙を妻に送る武市は、まだ詮議も始まらぬ牢で日々を送っている。とある同志を通して『匿名の手紙』が獄中へと届き、はつみが『無事』土佐から出た事を知り、安堵する。この手紙をよこした匿名の人物についても心当たりがあった。…恐らく乾退助であろう。…自分では何もしれやれなかった。そしてはつみにはやはり、自分の元にいるよりも相応しい場所があった。これが傷心というものなのかと想い更ける武市を慰めるかの如く、彼に心開く心優しい門番たちが、獄中生活の慰みにと桜の枝や袋一杯の蛍を差し入れていく。
岡田以蔵、入獄
6月14日。これまで帰藩命令には従わず脱藩状態であった岡田以蔵が自主的に帰藩し、すぐさま投獄された。ながらく牢にて放置されていた武市らであったが、この5月からついに尋問という名の獄中闘争が始まっており、下士以下軽格の者は拷問もいとわないと予測される中で、武節・学識ともに稀薄な以蔵の捕縛は獄中同志らを不安にさせる。
詳細 特に武市の実弟である田内衛吉などは、文久2年の大阪・土佐下横目天誅や小田原での天誅について直接以蔵とやり取りがあった為、それを吐かれてしまってはお終いだと一層の不安を掻き立てていた。
一方、以蔵に何かしらの『期待』をしたらしい役人達はすぐさま以蔵を詮議に呼び出した。今の所以蔵を詰める表向きの理由は『勝海舟護衛時の殺人、桜川はつみ護衛時に田中新兵衛と私闘に及んだ罪』の様だが、以蔵が長い間武市の愛弟子として同行していた事は既に周知の通りであり、土佐勤王党による天誅に関する事案に係る自白を期待しているというのが実状であった。


襲 撃
元治元年6月―7月

●元治元年…武市35歳・はつみ23歳

 失脚中の勤王派上士・乾らの尽力により土佐を脱していたはつみは無事に京・大阪へ戻り、4月には以蔵の子供が生まれる出産に立ち会い、今こそ生まれ変わろうとする彼と対面していた。その後、5月に開設されたばかりの神戸海軍操練所に改めて属し、その拠点を神戸へと移している。

 6月始め、密会中の長州派30名程が新選組の襲撃を受け壊滅させられるという、後世においても「幕末の一大事件といえば」でその名が多く挙げられる程有名となった『池田屋事件』が勃発。更にその5日後には会津藩士と土佐藩士の間でいざこざがあり結局両藩ともに切腹者を出すという明保野亭事件が起こり、新選組と長州・土佐尊王攘夷派との軋轢は極めて深刻な事態となっていた。
その矢先。
兼ねてより『間者』を揶揄した名称『天狗』との誤解を受け数度に渡り襲撃を受け、これを切り抜けてきたはつみであったが、遂に彼らの凶刃に斃れてしまう。
獄中の武市がこれを知る由もなかった。


 ―土佐―

人以仁義栄
7月。武市は獄中においてその心の内を漢詩にし、やせ衰えた自画像を以て認めた。(富には『少々盛って美男に描いた』と自嘲している。)差し入れられた桜や蛍に思い馳せた事、クソ虫こと伊藤礼平の煩わしくも好人物であった様子、そして獄中闘争よおび容堂への思い…全て飲み込み、仲間との結束でこの困難を乗り越えるのだと決意を込める。
詳細 皆の心配の種であった以蔵は非常によくやっていた。度々呼び出され詮議は進んでいる様ではあったが、土佐勤王党に係る影響は今の所見られない。確かに以蔵ははつみの護衛に出していた事もあり勤王党の密事には加担していない。しかしそれでも内情についてはあれこれと知っているため、責められればいつ口を割ってしまうかと皆不安だったのだ。以前、以蔵が『活人剣』について口にするなどして精神的な成長の兆しが見られた事があったが、それにははつみの影響が多大にある様に思われた。獄中の仲間から『以蔵が髪を切りよった』『思いもよらぬ器量良しにて』と驚きの報告も入っている。常に前髪を垂らし顔を隠していたのには理由があるのだが、それを知る者は極めて少ない。これについても以前はつみから『以蔵の前髪を切ってやった』との話を聞いていたが、ここに来ても自ずからその様にしているという事は明らかに心境の変化があったという事だろうと思い馳せた。


東西奔走編
元治元年7月~慶応元年5月

●元治元年…武市35歳・はつみ23歳

 尊王攘夷派の凶刃に倒れたはつみであったが、勝海舟および勝海軍塾(神戸海軍操練所含)による庇護のもと、現場に居合わせた新選組や、報を聞いて駆け付けた薩摩小松による迅速な援助もあり一命は取り留めた。しかしその背中には著しい刀傷が残る結果となる。

そんな中、はつみは一縷の望みを見出していた。
詳細  とある事情から、はつみは池内蔵太による手引きのもと、『四カ国連合艦隊による報復戦争』真っ最中の長州・伊藤、そして高杉らと合流し、更には長崎遊学以来の知己であるアレクサンダー・シーボルトらと再会。以前よりひょんな事から『ペンフレンド』となっていた同英国領事館付き通訳生のアーネスト・サトウとも初めて顔を合わせていた。そして図らずも英国公使ラザフォード・オールコックにまで謁見する流れとなっていた。
 文久元年以来これまた横濱で出会って以来の知己である英国人画家のチャールズ・ワーグマンが手がけた人気の風刺冊子『ジャパン・パンチ』にて『抑圧された女神』という『社会にその才を抑圧される女性』といった社会問題を題材とした人気キャラクターが出てくるのだが、そのモデルがはつみである事は英国公使館内では知られた事実であったのが興味を持たれた要因であった。
もともと知己であった人物がいた事もあって彼らは友好的に接してくれたが、この時は『長州萩・熊谷家へ贈られた老シーボルトのピアノ』がきっかけで、異文化交流としても非常に『ポジティブ』な結果を残す事ができていた。(無論、攘夷派からは更にきつい視線を浴びる事にはなっていたが)

―はつみは、土佐を動かすには『これ』しかないと考える。
自分がこれまで進めてきた英会話術も最大限の形で活かし、土佐容堂へアピールする事ができる。
 大坂へ戻るなり、丁度江戸へ帰府命令の出ていた勝海舟に直談判して共に横濱へと向かい、ある策を以て英国領事館へ向かう。
この頃英国はすでに薩英戦争および長州攘夷戦争を経て薩摩や長州とは友好関係を結んでおり、弱体化する幕府へ付きっ切りとなるフランスとは違い、幕府を文字通りに『支える』各雄藩・大名との交流に重きを置く方針をとっていた。その為、今後もあらゆる藩への友好的交流と貿易関係を結んでいくはず。歴史上土佐も決して例外ではない。それに先駆け、はつみが自前の知識と語学力を以て仲介する形で土佐と英国が友好関係を結べば、何かしらの形で土佐内部において発言権が生まれるのではないかと考えたのであった。…文久2年時の江戸、乾との取引といい、あらゆる人脈を『利用』する形となる事に複雑な思いも勿論あったが、こういった活動こそが志士達が率先して行っていた『周旋活動』そのものであり、自分も彼らと同じ様に未来を切り拓いていくのだと割り切って乗り込んでゆく。

―しかし、何故武市の運命はこんなにもはつみを拒絶するのか…はつみが英国公使館を尋ねた時には公使ラザフォード・オールコックは早々に帰国の途に付く事が決定しており、次期公使の赴任についての詳細は勿論、公使不在の穴を埋める為の臨時役である代理公使すらも来日していない。つまり英国公使館として外交上の決定権を持つ人物が不在というこの上ない『バッドタイミング』であった。

 更にその直後、江戸へ帰府していた勝海舟は池田屋事件等の狼藉者が海軍塾などに多数在籍していた等が直近の大きな理由としてあらぬ疑いをかけられ、失脚。勝海軍塾および、この初夏にようやく開設となった神戸海軍操練所そのものまでが取り潰し決定となってしまう。はつみらは勝が残した言葉の通り薩摩を頼り、その庇護を受ける形となる。

秋。薩摩庇護の下、引き続き勉学に励む事はできたが自由に動く事はできない。しかしはつみはまだ諦める事無く、むしろ土佐容堂と思想が近い薩摩の元に在るのならばあるいは…と必死に武市の元へ辿り着く為の策を考えていた。目下、頼りは小松帯刀であったが…。


 ―土佐―
歴史の歪み…前半R15・後半R15
11月。土佐勤王党員への取調べは夏の頃より苛烈さを増し、下士達に対しては拷問も行われる様になっていた。武市はというと腹痛・下痢・発熱を伴う『疝気』を患い、立ち上がれない時がある程の深刻な体調不良を度々引き起こしている。皆心身ともに極めて過酷な状況にあり、体が折れ気が弱って自白してはならぬとの事から、イザという時の自決用経口毒まで用意する事態となっていた。
詳細  これだけを見ても凄惨たる獄中闘争ではあるが、それでも史実とは違う『好転的な』現象が要所要所で起こっている事を、大阪薩摩藩邸にて身動きできずにいるはつみは知る由もない。
土佐藩庁が期待した『以蔵の自白による事態好転』にはなっておらず、武市と共に投獄された勤王党員および以蔵ら下士組は日々の拷問に遭いながらも自白をせずにいた為、詮議は証拠不十分として行き詰ってしまう。しかし容堂始め佐幕・公武合体派の執念も凄まじかった。去る文久3年3月頃に容堂が武市から示された『土佐勤王党血判状』に書かれていた名前の記憶や土佐『外部』からの情報を『見込み』容疑として調べ上げ、該当者に対し出頭要請や親族預けを申し付けた。中には出頭詮議の際に上手く立ち回れず関係性を看破されてしまい、結果、逮捕され投獄となる者が出てきたのだ。それが、史実でも『自白組』とされた以蔵以外の3人。彼らによって再び詮議に勢いがつき始めたのが9月の事であった。
久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の3名。史実では以蔵が自白した事によって8月に投獄となった者達である。今回以蔵が自白しない関係で彼らの投獄時期に変動が出たが、結局は歴史修正の因果が及んだか逮捕となり、拷問適応で自白へと至った。
それではなぜ、寅之進や以蔵はその修正を受けていないのか?
そして今、武市の実弟である田内衛吉も、その謎めいた歴史の歪みの因果を顕著に受けようとしていた。

●元治2年/慶応元年…武市36歳・はつみ24歳

1月。
昨年7月から奉行に復職し8月から大目付兼任として武市らの詮議を担当していた勤王派・乾退助が、1月になって突如『武市瑞山上士昇格に便宜を図ったとする深尾丹波の罪を被る』という理由で解任されてしまう。彼は立場上表立って味方という訳にもいかなかったが、他の大目付らとは違い勤王党一派に同情的であり、彼らを罰する為の罪を発掘する事に躍起になってる他の目付らとは違い、単純明快に『罪があったのか、なかったのか』を公正に見極めようとする大目付であった。同時期に、かの吉田東洋の甥である後藤象二郎も大目付役を解かれていたが、乾の解任とはまた状況が違うものであった事が、この獄中闘争へどの様な意味をなすのかを考える。
覚り
1月。武市、逮捕を受けた時と詮議の重点が変わってきている事を悟る。つまり『同盟(血盟徒党)問題』『国事周旋(京師)問題』、『吉田東洋殺害』。京での暗殺など個々の事ではなく、それらが繫ぐものつまり「土佐勤王党」と「その党首である自分」に対する「政犯および『吉田東洋暗殺』についての詮議」というざっくりと間口の広い…且つ、極めて限定的な一点を詰めた容疑であると。
詳細 恐らく、これまでの詮議、拷問では満足の行く極刑を与えられる程の証言を得られなかったのだろう。そもそも容堂の根底には『藩主や容堂を差し置いて藩法に背く謀反ともとれる徒党』を組み、その上で、『己の右腕たる吉田東洋を暗殺せしめた』、『幕府ありきの土佐、その幕府を正す為の幕政改革ではなく、野蛮て浅慮な尊王攘夷という思想のもと認めぬ国事周旋の尻ぬぐいをさせられた』といった事があったと。
…はつみが遠巻きに言いながらも恐れて止まなかった真実とは、こういう事だったのだと真に理解へと至る武市。しかし感傷に浸る暇はなく、もはやまともに座っている事すらもできない病み抜いた体であってもまだ党首としてやるべき事、立ちはだかるべき瀬戸際にあると気力を奮い立たせる。『ならば』とばかりに過去の容堂公との会話と認知について明確に証言してみせた。
 すると以降は(一時的に)盟への事は一言も言われなくなり、詮議も一時中断となった。
苛政R15
1月末。数日の詮議中断を経て、再び下士組への詮議・拷問が始まる。これまで望む展開を得られずついにしびれを切らした藩政は、これまで獄外において『親類預け』として謹慎させていた勤王党員達を唐突に『疑いあり』として次々と逮捕、投獄していく。その急すぎる動きには藩側の焦りもにじみ出ていた。
。 そして3月。容堂が入庁し、この獄のどこかから詮議の様子を伺う。
…それから間もなく、武市の古くからの同志であり投獄初期からの同志でもあった島村衛吉が、拷問により死亡してしまった。
詳細 武市の逮捕・投獄と同時に入獄していた島村衛吉は、武市自身も塾頭を務めた江戸桃井道場で同じく塾頭に抜擢された剣豪でもあった。故に気丈な衛吉は日頃の詮議においても非常に語気の強い応答、態度を改めなかった事で目付たちを怒らせる事も多かった。
その様子を容堂が見た事が関係しているかどうかは憶測でしかないが、3月20日、武市の妻の親族である衛吉は上士格であったにも関わらず、此度この獄中闘争において初めて『下へ落とされ』拷問適応となる。3月20日から23日まで毎日拷問が行われ、その様子は外で聞いている武市達も不審に思う程に尋常でなく苛烈であり、結果、23日3回目の拷問において衛吉は圧死してしまった。
初期から獄にいる森田金三郎ら数名や以蔵などはもう何度拷問にかけられたか分からないが、あくまで自白を目的とした拷問であり致命傷を負った事は未だにない。だが衛吉はたった3度の拷問で、さらにその拷問中に死んだのである。江戸桃井の塾頭を務める程の剣豪であった衛吉が、手足を拘束され抗う事もできない状態で耐え抜きながら『死ぬほど』に絞め殺された。親族に対しては『拷問後牢に戻った所で衰弱し死に至った』『格別の計らいを以て首を落とさずそのまま帰宅させる』等とうそぶいたとの情報も入ってくる。
果たして衛吉に対し、藩政は一体何を問うて『死ぬほど』の激しい責めを行ったのか。状況から考えれば見せしめであったのではないかとすら考えられる。あまりにも無念、あまりにも『苛政』であると、藩政…容堂に憤り、嘆いた。

●慶応元年へ改元…武市36歳・はつみ24歳

『大航海時代』の到来
5月。はつみは薩摩の若家老・小松や龍馬ら元海軍塾生・神戸海軍操練所生らと共に長崎鼻・山川港に滞在している。…そう。土佐とは殆ど関係の場所にやってきていた。
詳細 日本全国及び琉球など薩摩の公益事業の要となる大港で、ここを取り仕切っているのも小松であった。大交易社『やまき』を運営する大豪商浜崎家が所有する巨大な造船所や千人風呂と言われる巨大すぎる温泉、たくさんの船、荷物、人夫でいっぱいの港と宿場大変な煌びやかさと賑わいを見せている。長崎や横濱といった異国との貿易で富を得た町を見た事もあったはつみであったが、この風景を見て改めて、かつてイギリスなどの西洋人が航路を切り拓いてアメリカ大陸やインドを発見し、交易事業を以て世界の一体化が急速に広がった時代について想い馳せる。
物思うはつみの頭の中身を覗きたがる小松は話を聞き出して感心し、『やまき』の浜崎にも興味を持たれこの話をするのだが、この事業がもっと早く土佐にも入っていたら…武市の目に見せる事が出来たなら…と次第に口を紡いでしまう。土佐の獄中闘争について詳しい情報を知る者は、少なくとも周囲には一人としていない。土佐は相変わらず他藩からの出入りを厳格に取り締まっており、はつみはもはや藁にもすがる思いで、獄中において歴史の改変が起こっている事を祈るしかできないでいた。
獄中闘争の終わり
5月。武市に対し、『茫漠たる国事への違反』『謀反』『徒党』といった国事犯へ対する辛辣な言葉が連なる。それは容堂が『勤王派』であれば『正義』『精忠』といった言葉として出てくるはずのものであり、その意味するところはつまり武市らとの対立である。土佐勤王党に対し猛然と『対立』し、妥協する事はない。以前武市にかけた数々の労いや気遣いの言葉は偽りであり、今となっては同情の余地すらもないという意味だった。
詳細 また武市は詮議の最中「三条実美に討幕を申し出た事があるだろう」とも言われ、これに対し『帝や朝廷の御為に三条様姉ヶ小路様方と思索した数々の事案を不躾に『討幕』などと敵対の一言にまとめて済ませるのか』と心底驚く。昨今、土佐の脱藩浪士達も多く加勢したと聞く天誅組の件や正義派が台頭した長州の影響か、『土佐は反幕ではない』と主張したいが為の擦り付けのような罪状を申し付けようとしているのかとすら思えた。
そして、後藤からの『御見付予告』があって重罪の予感を妻・富へ認めたその数日後の28日。容堂が入庁し、詮議場には後藤を始めこれまで詮議に関わってきた役人達がずらりと居並ぶ中、ついに獄中闘争の終わりを告げる『御見付』が告げられた。「御見付」とは、自白や証拠、証言などを参照としない、いわゆる一方的な断罪であった。
余生
閏5月。『疝気』による激しい痛みや発作に伏せつつも処分の沙汰を待つばかりの武市は、恐らくは一方的で厳しい沙汰が下されるのであろうと覚悟をし、『余生』のつもりで日々を過ごしていた。『余生』と覚悟をして残りの日々を生きる武市ではあったが、同情的で協力的な門番が様々な話、外の様子を聞かせてくれるのが有難かった。
詳細  ある日、牢番から土佐の若き藩主・豊範についての話を聞く。  容堂の実弟である民部は勤王派であり、武市ら勤王党ともかなり綿密な関りを持っていた。獄中闘争中においても武市らへの同情的な姿勢を見せていたが、藩主・豊範は文久2年の参勤交代時の頃から常に容堂の顔色を伺いながらといった印象が強く、今となってはまさか擁護される事はあるまいと思っていた。
しかし、幕府が旗を振る長州征討の為に自ら出兵する際、藩主豊範は隠居・容堂に対し『武市ら忠義の士に恩赦を』と、出獄について願い出たというのである。しかし極めて激しく叱りつけられた上に武市ら土佐勤王党らの不忠、悪人ぶりを説き、ついに豊範は『実父である前前藩主豊資の屋敷で泣いたらしい』と聞く。
…例え噂であるとしても武市は涙をこらえる事ができなかった。文久2年の秋、豊範公が参内する前日に御所内の地図を急遽所望したが何とかこれを調達した。それをしっかりと頭に叩き込んだ豊範公は土佐藩主として参内、帝への拝謁を立派に成し遂げたのである。…あの時の心底ほっとし、充実した表情を今でも忘れる事はなかった。…とはいえ、土佐の藩政はいまだに隠居・容堂公の鶴の一声で左右する現状にある。故もあり、豊範は立派な藩主であれど、どこかで隠居・容堂公の傀儡であるかの様に感じていた自分を…心底恥じもした。

 武市は以蔵へも、ここにきて初めて獄中書簡を発した。今回の獄中闘争において、以蔵だけは少々毛色の違う状況で入牢となっていた事は随分前から把握している事だった為、彼には『勤王党同志外』として一切の書簡も伝言すらも出さずにいた。元々以蔵が投獄された当初の理由は『勝海舟護衛時の殺人と、桜川はつみ護衛時に田中新兵衛と私闘に及んだ罪』であったが、藩政にとってそれは口実にすぎなかった。以蔵は文久3年の池内大学暗殺の主犯としてまことしやかな噂となってしまった為に、取り立てて目立った動きの見られなかったその裏では武市や土佐勤王党の密事に関わっているのではないかと強く疑われていたのだ。
 以蔵の昔からの無気力さを知る上士らは『いたぶれば必ず吐く』とくくって新証言の獲得を期待していた。…故に、彼は身に覚えのない勤王党の『密事』について様々に聞かれ、『自白せよ』と散々に拷問される事態となっていたのだ。実際、はつみと行動を共にしていた以蔵は土佐勤王党として『密事』に関わってはいないが、それを『詳しく知る』節もあった。故に間接的な自白をしてしまうのではないかと獄中でも不安視されていた。…しかし彼は何も吐く事はなかった。いや、自分の件については素直に自白をしていたが、その事が土佐勤王党に何ら害を及ぼす事はなかった。彼が犯した殺人や私闘はどう切り取って見ても『要人護衛による受動的な抜刀・殺傷』案件であり、もはやその要人、つまり幕臣・勝海舟に対して証言を求める程の事でもないと言うのは暗黙の了解であった。…これをどうやって土佐勤王党に絡めて行くか、詮議において藩はあの手この手で屁理屈のように以蔵へ迫ったが、結局勤王党の件については知らぬ存ぜぬを見事貫いたのである。
以蔵の精神的な成長にははつみの影が見えたし、二人の間で何かがあったのか、以蔵の身辺に何かあったのか…見当も付かない。それでも、殆ど濡れ衣とも言える拷問を耐え抜いた事実だけはただ昂然と目の前にある。その以蔵に対し武市は素直に感心し、そして拷問を耐え抜いた他の同志に対するのと同じ様に、感謝の念に堪えなかった。

 妻の富へも、御目付があった5月28日の時点で書を認め、斬首、よくて切腹の処罰を覚悟する様にと伝え、『永遠の暇乞い』を申し出ていた。以後も武市からの文は続いたものの、自らの体調や獄中生活、死後の事を見据えた内容が続く。元々、万が一の事を考えて富からしっかりした文が返ってくる事は少なかった。弁当の希望や良くしてくれる牢番への接待、絵筆や衣類などの依頼などあれば実物を以て返してくれるのが常。武士の妻としてすがったりする事なく毅然と振舞い、主人に家の心配はさせまいとする意識を常に保っていたが故ある。…一度は男装をして牢にまで会いにこようとした妻を、そう言って諭したのは武市本人だったから。誰が見ても『立派な内助の功』であったと、富を褒め称えたであろう。
…しかしこの日は少々違った。卸したてのまっさらな白装束が届けられ、短くはあったが文が添えられていた。
『家の責務は一命を賭して成します。
 諸事しかと承ります。
 最後のお勤めが立派に果たされる様お祈り申し上げます。』
 大筋この様な事であったが、『諸事』を汲み取った武市はまことに良い嫁をもらいながらもこの様な形で永別を迎える惜別の念と共に、不義をした己の人生最大の『恥』をその妻に託す事への自責の念に駆られる。士道に反する弱く女々しい心を認識しつつも、目を閉じ、長く息をつきながらあえてそれを飲み込んだ。
不鳴蛍焦身
閏5月。同志であり長らく武市に良くしてくれていた門番が、不意に武市へ情報をもたらした。宇和島方面の関所で、またにわかに動きがあると言うのだ。その人物は、以前はつみが入国した際に同行していた何某という二人らしいが、今回は薩摩藩のれっきとした通行手形を持っているという。通行書の出所が容堂と懇意の薩摩であろうが依然として入国者には厳しくあたる土佐であったが、この報を受けて武市は想い更ける。
詳細 …そうする内に、全ての事情の要点にはつみという存在がいた事を今まで以上に強く再確認するに至った。彼女が初めて容堂と接点を持った時、長崎で開花した才、寅之進の井口村事件で発揮した信じられぬ程の先見性。…自身の開国論とはそぐわぬのに何故か土佐勤王党へ入る事を強く望み、龍馬の脱藩を『止められなかった』と嘆き、東洋暗殺の前にはまるで身を捨てて何かを守るかの様に忠告と『尊王開国』への建言を諦めなかった。
京まで追いかけて来ようとした時も、京ではつみをを寓居に匿ったのも、全て、自分を『慕い』追いかけてくる彼女を『守ってやっている』つもりでいた。『妾』だと周囲から誤解されてでも党首である己の側に置いておくことが、血気流行る者達が却ってはつみへ『天誅』を仕掛ける事はないだろうと考えていたからである。
…だが、もし、自分が守られていたのだとしたら…
 はつみが自分を守ろうとしていたのだとしたら?
はつみは、その発言が命の危険すらも招くと分かっていながら、常に『土佐の真の方針』『容堂の本心』『抗いようのない開国への流れ』について話していた。それに感化されてか実際に気付きを得る事もあった上に、以蔵の剣才を持て余してしまう稀薄な胆力をここまで引き上げた事にも『何をしたのか』『以蔵の何を知り、胸を打つ説得をする事ができたのか』と強い疑問は残る。本間天誅の際、まるで先読みをしていたかの様に現場へ居合わせたのも、今回の関所での騒動も、妙に都合が良すぎはしないだろうか。情報を知っていたのか?
…そして最もたるは、出会った時の事だ。
「ずっと憧れていて」「尊敬しています」
嘘を言っている表情ではなかったが極めて心外な出来事であった。初めて出会ったのに往来で堂々と話しかけてくるどころか、記憶を失くしているというのに何を血迷った事を言う娘かと思った…。
もし、彼女が本当に『かぐや姫』だったのだとしたら…。
『全て』を知る天女だったのだとしたら…?
…こんな突拍子な妄想を真に受けるなどいよいよ気も弱ったか、とも思う。もはや真相は定かではない。確かめる時間も恐らく見込めない。…静かに閉じた武市の眼に、東洋の屋敷から帰ってきた際のはつみの姿が思い浮かぶ。『まったく自分は妻帯者であるのに風変わりな娘に熱視線を送られて迷惑だ』などと思っていた自分は、あの時『女性らしく』着飾った彼女を目にし、それまで生きて来て初めて『心を奪われた』心地に陥った。
…あの時、初めて恋に落ちたのだと…自覚した。
そもそも、『風変わりな』『迷惑な』などと意識して拒絶する言い訳をいちいち見出していた時点で、既に落ちていたのかも知れない…。

 …思案の後、どこからか現れた蛍が、まるで寄り添うかの様に光を灯す。去年に蛍を見た時もはつみの事を想っていたと思い出し、ひとり自嘲する武市であった。『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』とは誰が詠んだ歌だったか。
獄中からわずかに見える、小さく切り取られた空へと、遠く視線を投げかける。
「願わくば君に、とこしえの幸あらん事を」

閏5月11日、土佐、武市半平太切腹
去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる

他、
牢舎九名…園村新作(元上士)、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
斬首三名…久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
継続二名…檜垣清治、今橋権助
御預け一名…小南五郎右衛門(元上士。苗字刀取上)
名字帯刀剥奪、城下禁足…岡田以蔵
(不明一名…吉永良吉)






―以下、後日談―



才気飛翔編
慶応2年7月―慶応3年9月

●慶応3年…武市--歳・はつみ26歳
 ―土佐―

墓前対話
慶応3年秋。土佐参政へと返り咲いた乾の依頼で買い付けた銃3000丁を海援隊として搬入すると共に、およそ6年ぶりに土佐へ上陸した龍馬。その傍らにはつみの姿もあった。
詳細 薩摩小松支援のもと長年の努力を開花させたはつみはようやく『時代』に受け入れられ始めていた。同年6月に勃発したイカルス号事件を『解決』へと導き、以前は挫折した土佐と英国の外交面にまで影響を及ぼす人物となるが、武市を救えなかった悔恨の想いが後藤や容堂への深刻な確執ともなっている。
龍馬ははつみを連れ、吹井の武市旧家を訪ねた。そこには富と、長年の家来である丑五郎がおり、獄中闘争の末に士分剥奪・廃嫡・追放処分の末に富や武市の親族らに受け入れられて墓守をする以蔵の姿があった。
悔恨の想いと共に富へ遠慮するはつみは、武市の墓前には向かわず水を汲むふりをしてその場を離れる。
愛情と恋心
旧武市家から少しばかり丘を下り歩いた所に歩道の分かれ道があり、しげしげと葉をつけた桜の樹が立っていた。以蔵もよく佇むその桜の木の下でぼうっとするはつみの下に、紫の上等な絹布で包んだ小荷物を携えた富がそっと近付いていく。


幕府終焉編
慶応3年12月―明治元年11月

●慶応4年/明治元年…武市--歳・はつみ27歳

 ―土佐―
大政奉還、王政復古を経てついに1月3日。朝廷以下雄藩連合による官軍と幕府軍による戦争の火蓋が切って落とされた。
詳細 土佐では勤王の党首として藩政に返り咲いた乾が迅衝隊を結成し挙兵。はつみと乾の働きかけにより幼い頃からの心的外傷(トラウマ)を払拭し、士分剥奪等の処分も解除された以蔵も迅衝隊に参加。遊撃精鋭隊の小隊長に取り立てられていた。しかし家督は弟に譲り、以蔵は『岡田』の苗字を自ら捨てる。以蔵は継続的に富や京の妻子へと金銭の仕送りをしていたが、此度『活人剣』を抱き、武市の『一藩勤王の志』を乾のもと実現させる為にしばし暇を請う旨を手紙にしたためていた。
剣技には優れてもその無気力さと学識の無さが珠に傷とされていた以蔵であったが、物事を見極め瞬時に行動へ移すという地頭の良さがここに来て冴え渡っていた。そしてまるで新たな人生を歩んでいるかの様に前を見据えるまなざしが、これまでとは見違える様な輝きを彼にもたらしている。今も黙して言葉少ない彼であったが、それでも尚、かつて彼を誤解した仲間達だけでなく彼を詰りいたぶった一部の上士達までもが、以蔵という人間を認め受け入れ始めていた。


獄中闘争の終焉からおよそ2年間。以蔵がその真心を以て謙虚に富や武市の墓を守ってくれた姿を見ていた富は、進発にあたり受け取った文書からも以蔵の強い輝きを改めて感じ取る。

肥前国河内守藤氏正広
1月19日。土佐迅衝隊は官軍として四国平定に乗り出し、驚くほど迅速にこれを成し遂げていた。乾率いる衝隊本隊が無抵抗開城の丸亀城に入るという土佐300年ぶりの快挙がなされたその日、陣中の以蔵の元へ実弟の岡田啓吉が駆け付けた。迅衝隊には軍飛脚を始めとする様々な後方支援が充実していたが、それを利用せず自らの足で駆け付けたには大きな理由があった。
詳細
武市家や京の妻子へ出来る限りの金銭を送り続けていた以蔵は、士分剥奪が赦されたあとも暫くは清貧を極めた様な出で立ちであった。彼の所業に感心した乾から『土佐正宗』を贈られるまでは大小の小すらも持ち合わせず木刀で軍の操練に出る程であったが、ここにきて、以蔵への期待心を込められた二振り目の刀が預けられる事となる。
武市半平太の遺刀、肥前国河内守藤氏正広。
官軍として土佐が発つとあれば、武市もさぞかし共に参りたかったであろう。以蔵からの暇の手紙を受け取った富が、そんな武市の心を以蔵に託さんと贈ってきたのだった。柄にもなく震える手でそれを受けとった以蔵は、武市に語り掛ける様に目を閉じ、そして再び前を向くとしっかりと腰に差す。
―以後、武市の心は以蔵と共に官軍として戊辰戦争を駆け抜けていく。様々な激戦や衝撃的な場面を経て幕府という巨木が倒れ、はつみが言っていた様な開国の世が広がっていく様を見守りながら。




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