●文久2年…武市33歳・はつみ21歳
―大阪―
女の一念岩をも通す
7月。大坂での麻疹大流行を理由に参勤交代中の土佐大名行列は停滞している。しかしその裏ではこのまま上洛を果たす為の朝廷および江戸に鎮座する土佐隠居・容堂に対する工作が行われていた。
詳細藩主豊範は矢継ぎ早にあれこれと策を講じてくる勤王派から距離を置く為に『仮病』を利用して時間を作り、江戸にいる容堂への伺いを立てている程、土佐藩は急速すぎるほどに『一藩勤王』『尊王攘夷』へと大きく舵をきっていた。
その中心にいる武市の元へ、はつみが土佐を出たらしいという報告が入る。珍しく私情によりため息をつくと同時に、成るべくして成ったとも思う武市。自分を追いかけて来たのだろうという自覚もあった。武市は江戸の池田寅之進へ文を送り、江戸剣術修行終了に伴う帰藩について『大阪にてはつみと合流せよ』との指示を出した。
思い出作り
8月。男装に磨きをかけたはつみと、そのはつみを警護する為にと江戸から呼び寄せられた池田寅之進が大阪で武市の元へやってきても、土佐勤王党の動きに歴史的な変化がある訳ではなかった。武市ははつみを受け入れた訳ではなかったがもはや追い出す様な事もせず、柊、そして薩摩藩出身の田中新兵衛らが常にはつみを『監視』する事で、逆に『命を落とす様な最悪な事態』を免れているといった所だ。詳細
柊と新兵衛がはつみに付く真の目的は『監視』である。武市に傾倒する柊は『子無しは去れ事件』の頃から、開国論者である癖に武市の『寵愛』を受けているはつみに対して尋常でない妬みと警戒心を抱いていたし、田中新兵衛の方は、彼こそ『攘夷派』の急先鋒を担う一因とも言える…天誅の仕事人であった。はつみともよく話す人物であったが、その心の奥では常にはつみを『品定め』している。『武市の女』でなければ、彼の仕事対象になっていたかもしれない。…だが、武市は自分の影響力を念頭に考えた上で、敢えて二人にはつみの監視をと告げた様だった。彼女が藩政および朝廷工作に影響を及ぼす事はない、もしその様な動きがあれば『報告するように』と。
そして8月21日、上洛の為の朝廷工作が実を結び、京の三条実美らにより土佐を受け入れる体制が整ったとの報告が武市ら勤王党幹部らの元に舞い込む。容堂への報告は事後報告として『翌23日土佐藩主上洛』との決定も下し、さっそく上洛へと取り掛かる事が決定された。その束の間、ほっと一息をついた武市は明日までの時間を『大阪観光』に費やす事にしたのだった。皆で浄瑠璃を見に行こうと言う武市の申し出に、はつみは思わず心浮かれる想いで受け入れてしまう。
―しかし一方で、土佐勤王党の一味は『京天誅旋風』の先駆けとなる殺人を犯そうとしていた。
―京―
夏の病…前編・後編
8月末。土佐藩主は上洛を果たし、河原町土佐藩邸へ到着。そのまま妙心寺へと進むも、武市は随行できない程に体調を崩し藩邸にて寝込んでしまっていた。土佐藩邸に残留した武市には、以蔵や寅之進、はつみの他、去年の終わりから『土佐勤王党』に血判し武市を盲目的に傾倒しきっている柊智(ひいらぎさとし)が付き、看病を行っていた。
詳細
閏8月1日を以て他藩応接役へと昇進するも頭痛は続き高熱も引かず、京で一番と言われる新宮良民の診察を受けようやく「きん(火ヘンに欣)衝脳」と診断される。治療が開始されるがはつみの想像を絶する『130匹を超える大量の蛭に血を吸わせる』という怪奇極まる(瀉血治療を見込んだ)とんでもない医療行為が行われた。その後、はつみは気を取り戻し、時に悲鳴を上げながらも持てる衛生・栄養知識を用いて献身的に看病を続ける。学校の家庭科で習った程度ながらにも、きちんと5大栄養バランスのとれた食事、水分補給、清潔を意識したといったあくまで基礎的な事ではあったが、ある意味すさまじい『医療行為』が平然と行われる世にあっては殆ど重視されない『基礎中の基礎』でもあった。
一方、柊ははつみを信じようとせず、やることなす事全部に疑惑と反抗心を見せつけ、流石のはつみもキレ気味になって喧嘩一歩手前になるなど…寝込む武市を困らせていた。彼は寅之進よりも更に1つ年下の梼原村出身で、15になる前から江戸へ出る程の学才があるとのの噂だ。少し前にはつみの『女子』の部分を傷つけた『子無きは去れ事件』の首謀者一味でもあり、ともに過激な発言で土佐尊王攘夷を誓い合った吉村虎太郎らが脱藩しても尚、藩改革の実行を武市に夢見て、そのままそばに居続けた。今回武市がたおれた際にもはつみのせいではないのか等とイチャモンを付けたり、はつみと『レスバ』でもするかの勢いで、土佐一藩が掲げる『尊王攘夷』とはつみの思想について語り合おうなどと挑発してくるなど、確かに『利発』そうではあったが執着の激しい不安定な青年との印象だ。
彼がはつみや以蔵、寅之進らに冷たく当たるのは他に気に入らない点がある様で、口癖が『何故武市先生はおまんらぁのようなもんを近くにおいておられるがじゃ』『武市先生の足手まといになっちゅう自覚はないがか?』であった。つまり、思想も違うのに何故武市先生から目をかけられているのだと…まさかとは思うが『ねえどうしてそんなに武市さんとの事を怒るの?もしかして焼き餅なの?』と尋ねると、図星のあまり…という顔色のままに手にしていた貴重な野菜をへし折ってしまうという事もあった。
はつみは(出来る限りの)徹底した栄養管理と水分補給を続け、その甲斐あってか史実では10日程寝込んだとされた病気がおよそ5,6日程で回復となったり、医者も予定よりも5割速く回復した事に驚いた。そして武市本人も改まって皆に礼を述べる。医者が見込んだ日数よりも1日でも早く復帰できた事は、今この大事な時にあっては大変に喜ばしい事だと…「ありがとう。世話になったな、はつみ」と述べた。
言葉を無くしながらも顔を真っ赤にして頷くはつみに、武市は『もう少し寝る、ゆうげの刻には起こしてくれ』と言って布団に入ってしまった。…なぜなら、彼がはつみを『名の呼び捨て』で呼んだのはこれが初めてだったから。
…これには、日頃からぶつくさと煩かった柊も黙っているしかなかった。
添わぬうちが花
閏8月。翌日からの復帰を決めた武市の元に、義兄弟とまで契りを結び、時にはつみと行動を共にして『監視』を続ける田中新兵衛が改めて顔を出しに来た。彼が武市と交わしたかった話の本題は別にあったが、病の件、そして今は席を外しているはつみに関する雑談が進んでいく。
詳細
優れた剣豪である新兵衛は身体の動きなどからはつみが女である事はとっくに見抜いており、真面目を絵に描いた様な人柄である武市にも女を嗜む一面があるのだなと思ってはいたという。度肝を抜かれて言葉を失っている武市に構わず話は続き、『しかし療養中も男女としての動きが何もない』事に疑問を抱いたと述べた。
「兄上とはつみどんは男女の仲ではないでございもすか?」
「…違う。俺には土佐に正妻がおる。」
一瞬どもりそうになるのを何とか堪えた武市は、表向きには表情を崩さず冷静に答える。しかし『冷静さを保とう』とする時点ですでに冷静でない自分の本心を自覚してしまっており、やはり他では経験する事のない心臓の高鳴りなど身体的変化を抑え込もうとする、そしてまた冷静さを保とうとし…という繰り返し。新兵衛はそれを見抜いてか見抜かないでか、腕を組み更に問うた。
「…兄上程の方ともあれば、妾でも囲えばよか」
「望むところではない。」
「あんおなごが拒んどると?」
「拒むも何も、そがぁな関係ではないちゆうちょる」
印象通り『真面目を絵に描いた様な人柄』だが、ここまで堅物だとは思ってもいなかった新兵衛は若干込み上げてしまう微笑みを押し殺そうとして咳をする。それが演技だと気付いていた武市は何も言わず、煙管に煙草を詰め、火をつけた。妙な間が出来たが構わず『他に何か用があったがじゃろう』と言う武市に、新兵衛は改まった様子で胡坐を組み直したが―
「…まあ、男女ん恋は沿わんうちが花ちゆうでごわすな」
と、あえてしつこく話を続けた。
「新兵衛、ええ加減にせんか。今最も大事な時に浮ついた話で皆の士気を下げとうないき。」
「おいはどげんしたらよかこつか。こんまで通り、はつみどんの事は監視と護衛をすればよかでごわすか」
「…ああ。」
煙管を灰受けに置き、こちらをじっと深堀する様な視線を送ってくる新兵衛に視線を返す。
「おんしが何ら考えを改める必要はないぜよ」
「…じゃっどんはつみどんは尊王の志あれど開国の気骨があるっちゅう話じゃが。おいの前でそげんな発言があれば…」
と、ただの『男女の話』では済まなくなる含みを持たせる新兵衛であったが、武市は動じる事はなくそれを受け止める。
「その前に、必要があれば寅之進あたりにはつみの事情や素性をよく聞くとえい。俺の名を出せば包み隠さず話してくれるじゃろう。俺が言える事は、あれは世相だ世論をどうにかする為にこの京まで来た訳ではない。あれは…俺に何かを伝える為に、命を懸けてここへ来ておるんじゃ。」
「……であれば。今、尊王攘夷を率いちょるんは兄上でごわす。失礼じゃっどん、もしあん娘の甘言が兄上の耳に入っこつがあれば…」
「いや……そういう事ではないのだ…」
普段あまり私情を込めて話をせず明瞭な語り口で聞き手を引き込む武市であったが、どうも釈然としないのは『一人の男として』の顔がちらつくからに他ならない。本能的に込み上げてくる私情が『大義や貞操観念に取って代わってはならない』とする誠実すぎる面と鬩ぎ合い、彼を決して素直にはさせないのだろう。その堅物さは下手をすれば妻以外の女は知らないのやも…とも想像がつく。妾、愛人などといった話も多々ある中、本来ここ日本では一夫多妻は認められておらず、男女の不義密通つまり不倫浮気も幕府が定めた『御定書百箇条』にて罪と認定され、その上『死罪』とされている。そんな中で清廉な武士であればある程『妻以外の女を知らぬ』といった者も珍しくはない訳で、つまり『女との駆け引き、恋というもの』を知らないが故に、己の心情を言葉にしようとする武市を困惑させている感は否めない。
…だが、女性蔑視の文化が色濃い薩摩に生まれ育った新兵衛であっても、時として女は『その利用価値』によって、藩を、国を、時代を動かしかねないのも確かだと思う。いや、蔑視しているからこそその女性の人生などお構いなしの『物扱い』めいた発想が定着するのか…。と江戸から最も遠い外様藩でありながら幕府に深く関与し続けた薩摩はまさにそうする事で生き永らえて来たと同時に、藩内外においても女を巡る血みどろの騒動が起こっている。…そういう意味も込めて、新兵衛は今一度この言葉を述べた。
「…やっぱい、男女ん恋は沿わんうちが花ちゆうでごわすな」
「…はぁ…もうえい。この話は終わりじゃ。」
呆れてため息をつく武市に『こいは流石にしつこかったでごわすな』と笑う新兵衛。気を取り直して、情報収集していた『本間精一郎』について話し始めるのであった。
身から出る錆
閏8月。本間がはつみ達の前に現れ、(江戸遊学時の)よしみで武市に会わせて欲しい等と言う。柊や新兵衛がはつみの素行や人間関係を監視していた事もあり、あえて彼らも交えての『座してゆっくり話をする』状況となるが、これが思わぬ事態を招く事となった。
詳細勤王草莽の志士として国々を奔走し、京においては高貴な方(青蓮院宮)の元を出入りしながら多くの志士と交流する本間は、江戸にいる容堂と上洛中の藩主及び武市ら攘夷派との間に軋轢があると考え、『土佐の一藩勤王』に疑問を呈する様になっていた。反論する柊に対しては青蓮院宮の名前まで出して強引に論破しようとする。梼原村の神童として若い頃から安井息軒に学び短期間ながらも昌平黌にも推された柊もかなり弁舌が立つ人物であったが、本間も越後商人の息子でありながら江戸勘定奉行・川路聖謨に引き立てられ、そして彼もまた昌平黌を出た利発な頭脳を持つ。それでいて勝気でどこか相手を小馬鹿にする様な物言いの癖がある男であった為、柊とは必要以上の言い合いになり、隣で聞いていた田中新兵衛もだんだんと目が据わっていく様子が見て取れた。はつみはこれを見て初めて、歴史上本間が『遭難』した理由が分かった気がした。
終わりと始まり…前編・後編R15
閏8月20日、本間精一郎暗殺。
詳細
先の9日、武市が書いた『新兵設置』『大政奉還、王政復古』に係る建白書が土佐藩主の名で提出され、三条ら尊王攘夷派の公卿をはじめ志士の間で話題になっていた。しかしこれに突っかかって来たのが諸国をめぐる勤王派・本間精一郎であった。
土佐の主導権はあくまで江戸に座する容堂にあり、現在上洛している土佐藩主でもなければ当然武市半平太でもない。その容堂は薩摩らと同調し公武合体論を推し進めており、容堂が将軍に見え幕府に意見するはあくまで『幕政改革』に係る意見であって尊王攘夷を根幹とした思想は取り合っていない。この様に一枚岩となっていない状態でなされた建白書にどれだけの価値があるのか。只でさえ政治手腕に長けた薩摩が公家の一味と結託し和宮降嫁などといった強力な公武合体策を押し続けている中で、土佐の上辺工作はどこまで信用できるのか―。といった事を尊王攘夷志士達の間で説いて回っているという噂が、とある飯処で夕食をとっていたはつみ、寅之進、以蔵の耳に入ったのである。
はつみよりも武市ら周辺の実状に詳しい以蔵は、これについて「藩邸の者らぁは『本間がうそぶいてちょる』『妨害行為じゃ』と憤っておった」と言う。また、本間は見栄えの良い煌びやかな身なりをしていたが金子に事欠いていた様で、品の良い噂は聞かぬとも。最近、はつみの挙動の監視も兼ねて行動を共にしていた柊や新兵衛は『所用がある』と言ってこの日は別行動をとっていた。様々な要因が繋がり、胸騒ぎを感じたはつみは寅之進の制止も聞かず夜の町へと駆け出す。黙って追従する以蔵、慌てて追いかける寅之進と共に本間を探したが……。
寵愛
9月。他藩応接役として毎日来る人訪ねる人ありといった忙しい日々を過ごし、合間を縫って密事会合をこなす武市。早々に土佐藩邸を出、木屋町通り三条にある四国屋丹虎を寓居とする事となった。しかしここで思いもしない事態となる。武市がはつみと寅之進を寓居に匿うと言い出したのだ。はつみを寓居に住まわすのは武市なりの思案の末に出された『理由』がある…というのが武市の言い分であるが、それを自ら語る事はなかったし周囲は様々に物を言う。とりわけ武市に心酔していた柊が、最も強い風嵐を以てはつみに当たろうとしていた。
詳細
はつみに関しては以前から開国論者である事を始め、永福寺事件での郷士との対立っぷりや、吉田東洋、本間精一郎といった勤王党とは相容れぬ形で逝った者達と交流があった為に良くない注目を集めていた。はつみは基本的には武市や彼女の周りにいる『理解者』にしか『開国富国強兵』等を説く事をしておらず、政治的に影響を及ぼす訳ではないというのが武市なりの認識であった。しかし直情的で極めて高度な知識を有する訳でもない土佐郷士達には刺激が強すぎる傾向にあり、事実土佐を出る前には何者かに襲撃された事もあった。渦の中心であるこの京にあって、目の届かぬ所にいては武市の抑止力も効かぬと判断した故、はつみ達を寓居に迎え手元に置く決断をした武市であった。
同志達の中…とりわけ城下出身である者の中にははつみが女であると言う事を知る者もおり、故に『武市先生の妾か』と噂されている事も承知の上だった。その様な噂が富の耳に入れば余計な心配をさせてしまうやも知れぬと思いながらも、自分の側から離れようとせず何かしら羽ばたきを見せようとするはつみを放り出す事もできなかった。『武市が妾を囲っている』との噂は甘んじて受け入れ、この京で何かを成そうとする彼女を守る事を決意したのであった。
京料亭『白蓮』との出会い
10月。武市は勅使東下を裏から指導する人物として日々激務をこなしており、同じ寓居内に住んでいるとはいえ中々会ったりゆっくりと話す事ができずにいた。その日、はつみと寅之進は四条通りを超えたあたりの往来で何やら揉め事に遭遇してしまう。しかしこの出来事こそが、はつみが周囲を気にする事なく滞在できる『居場所』との出会いとなる。
『守る』という事R15
10月の始め、今となっては公武合体路線を明確に周知され尚も突き進む薩摩・島津久光(三郎)の懐刀・小松帯刀(家老見習)が再入京したが、その小松とはつみが会っていた為にまたもやはつみに対するアタリが炎上する。
詳細
二人が単に『長崎遊学時の知己』である事を知っていた武市であったが、いかな人望厚い党首とはいえ火が付きやすい土佐藩士らを抑え込む事が困難であるという事は今に始まった事ではなかった。同時期、長年三条家に仕えた土佐上士の娘・平井加尾の帰藩に伴う送別会が行われるが、武市は諸事気遣った上ではつみへの出席を辞退させる。その後日、ある事件が起こってしまう。ある日の朝、はつみの部屋(武市寓居)の前の板床に一つの袋が放り投げられており、部屋から出てそのまま前進した際にうっかり踏みつけてしまう。瞬間、おぞましい感触と漏れ出た鳴き声、染み出した血に驚き悲鳴をあげた。屋敷に同居している寅之進や武市、柊らが駆け付け、袋の中に切り刻まれたネズミがいた事を確認。『袋のねずみ』武市、抑えてはいるが珍しく怒りの表情を見せこれに対応。後に、はつみの希望でねずみの墓を作った。
はつみに対しても、これを機に小松の事など話をして『周囲を刺激しない様に』『くれぐらも身を守る様に』と伝えると同時に、自らの江戸行の事も話す。はつみは武市の話で小松が薩摩の家老(見習い)となっている事を知ったくらいで、そもそも彼とは長崎遊学時に知り合い、ほんの数日共に学んだという昔の友人の様だものだと説明。政治的な話は一切していないと真正面から言い切った。それ以上に気になるのは、武市の江戸行きだと言い、はつみは辛そうに言葉を詰まらせる。…つまり勅使東下にて将軍に対し攘夷と新兵設置などを迫り…そして土佐の「いち上士」にすぎない武市が将軍のお目見えになるという、公武合体派である容堂の疑惑や苛立ちを決定的なものにする『歴史の一大事』がついに眼前に迫ってしまった事に焦りを禁じ得ないし、しかし武市本人に言う訳にもいかないと思って言葉を失くしてしまったのだった。武市達にとってははつみと薩摩家老・小松の関係の方が気がかりであったが、はつみにとってはまったくの逆だった。
『はつみはただ自分の身を案じているのだ』『そこに政治的な工作を諮ろうなどと言った意図は、やはり見受けられない。』という事だけは明確に武市の認知するところとなり、しばしの沈黙の後、「…俺の事は、案ずるな…」と告げた。極めて言葉を選びながら、たどたどしくはあったが
「……おんしが俺の側におると言って聞かんのであれば、おんしの事は出来る限り俺が守る。…やき、無茶だけはするな。」
と。武市からこんな肯定的な声をかけてもらえたのは、美人画講習を受けていた時以来かも知れない…と、震えながら舞い上がってしまうはつみ。はつみの様子を見て、『恋』を知らなかった武市であってもやはりそこに『男女の感情』がある事を否定できない。…今、この感情に対し素直に振舞えるのなら…彼女を抱き締めているのだろうと思いつつ、理性でそれは堪えていた。
だが、武市の周囲にいる柊など過激な攘夷論者達は、例え武市の言葉であってもなかなかそれを聞き入れようとはしなかった。辛うじて、刀に手をかける事だけは抑えられている…といっても過言ではない状況だ。
そんな中で、はつみは武市を追って江戸へ行くつもりだとの情報が以蔵から入る。…土佐にあっては一度襲撃もされ、東洋や本間との関わり、更には、きな臭い薩摩家老との関わりまであったと知られ、更に厳しい視線が集まっている事も承知だろうに…。何故ここまでして自分の側から離れようとしないのか…。それは本当に『恋』の感情からくる情熱なのか?武市には分からなかった。
―江戸―
仮SS/江戸取引1
11月。土佐藩主豊範が伴奉する勅使・三条ら一行が江戸に入る。武市は柳川左門との名を用い雑掌として同行したが、『輿』よりも高貴な者が利用する『乗り物』が朝廷からあてがわれ、江戸では勅使らと共に直接将軍に見える予定でもある程、今や勤王派の実権を握る人物となっていた。…周囲の皆ははつみが『武市を追いかけて江戸までやってきた』と勘違いしていたが、実は少し違う。京において三条卿、姉ヶ小路卿ら勅使と共に江戸へ行かんと準備をする武市を見ていて、はつみはとあるひらめきを抱き、それ故に江戸行きを決意したのであった。
女傑評議5
世間では英国公使一行が江戸に滞在し老中等との会談を勧めているとの情報もありつつ、勅使に対しては将軍の病気などを理由にいまだ日程のつかない日々が続いていた。そんな最中、懇意の仲でもある武市と長州の久坂玄瑞は互いに坂本龍馬と柊智、高杉晋作を連れ立って会合し、時勢を語らっていた。詳細その中でどこからともなく女志士であるはつみの話となり、賛否両論が沸き起こる。龍馬が『まぁまぁ』と間を取り持つが久坂と柊は同調して勢いを増し、武市は閉口してしまう。はつみの事を開国派だ間者だ危険人物だと言う久坂や柊に対し、意外にも庇護に回る人物がいた。それは上海帰りの高杉晋作。これにより場は更に炎上し、口を滑らせた久坂と高杉から近々外国人公使を天誅するという計画が発覚してしまう。―ここから、俗にいう梅屋敷事件へと繋がるのであった。
仮SS/江戸取引2
12月の始め。はつみは乾退助との『取引』によって得た最大の『好機』に対峙しようとしていた。…かつて自分を引き立てようとしてくれた参政・吉田東洋。その東洋を己の右腕の様に起用していた土佐前藩主・容堂公との会談である。
●文久三年…武市34歳・はつみ22歳
―京―
嵐の前の静けさ
昨年末、武市はついに『留守居組』への昇進通達を受け、名実ともに『上士』となった。これは藩主による引き立てのみならず、背後にて真の実権を握る容堂にも認められたという事だと殆どの者が信じて疑わずにおり、勤王党同志達による京・公卿衆への周旋活動は更に強硬的なものへとなっていく。薩摩へ一時帰藩していた田中新兵衛も、揺るがぬ尊王攘夷の思想を抱いたまま再び武市の元へ現れていた。
そして1月1日。この日武市は平井らと共にささやかながらも酒肴をつまみ、和歌を詠んだりと久方振りにゆるりと羽を伸ばす穏やかな正月を過ごしていた。詳細
一方、この席にははつみの姿がなかった。武市達勅使一行とは別働だったとはいえ12月末には京に帰還したはずだったが、その後この寓居に戻る事はなかったのだ。はつみの事は禁句かとでも言わんばかりの空気の中、怖いもの知らずの新兵衛はしれっとした様子で武市に訪ねる。歯切れの悪い返答があった後で姉ヶ小路公知による訪問があり勝海舟の話題となった事で空気が変わったが、しばらくして再び新兵衛が武市に働きかけ、今度は『初詣』へと誘った。それは『白蓮』への初詣であった。
歴史の力
1月上旬に容堂が入京し、入れ替わる様にして武市が一時帰藩の為土佐へ発ってしばらくが経っていた。その最中、江戸ではつみと『上士』である乾との間で何があったかを察していた以蔵が、情事を以てはつみに想いを吐露し、そのまま姿を消した。その直後、山内容堂の来訪者であった池内大学を殺害した犯人が以蔵であるとの噂がはつみの耳にも届く。詳細
出奔の事は兎も角、池内大学殺害の犯人は『以蔵ではない』。これは明確な濡れ衣であり、そして図らずも歴史とは違う展開を見せていた。はつみの知る歴史では、確かに池内大学暗殺には岡田以蔵が関わっているとする傾向が強かった為である。
自分がどれだけ強く意識をし、先を見据えたつもりで行動しても武市の思想や行動は変わらない。しかし以蔵の行動は大きな変貌を見せていた。これまで彼は一度も人を斬らず、『密事』に加わってもいない。その事が結果的に別の形で『不満』や『疎外感』を産み出していたが、武市との関係性も昔から続く『第一の師弟』そのものを保っている。…故に、周囲の者達からの妙な偏見や僻みも相まって、今の『罪の擦り付け』といった現象が起こっているのもある。しかし史実とは違う展開を見せながらも、以蔵が失踪する時期や以蔵を犯罪者へと駆り立てるこの流れは、結果的には史実と同じ方向性へ向かおうとしている様にも思える。…果たしてこれは歴史が修正しようとする力なのか。寅之進の時とは違って桜清丸が熱を放つなどの変化を見せる事はなく、ルシも変わった反応を見せる事はない。当然、ルシファが出てくる事もない。何故こうなったのか。どうやったら武市の運命もこの様に導く事ができたのか…塞ぎ込むはつみを寅之進が心配するが、胸中に渦巻く不安や懸念を打ち明ける事は誰にもできなかった。
思想違え何する者ぞ
1月末頃。一時土佐へ帰藩していた武市が再び京へと戻ってきた。早速容堂との直接対決かとも思われたが、ここにきて高熱を出し再び寝込んでしまったと、はつみが滞在している白蓮へと新兵衛が報せに来る。以蔵の事もありはつみは寓居へ駆け付け、柊達のきつい視線を背に武市の看病に取り掛かった。武市は病床にあったが、駆け付けたはつみに対しては当の本人が思わず躊躇ってしまう程、優しく対応してくれる。それは、昨年江戸から戻って以来はつみとの距離を感じていただけに、理性では抑えきれない嬉しさが漏れ出た結果だった。
詳細
ある日、快方へ向かう兆しが見えた武市に対し思い切って建言を行う。つい先日も容堂が藩主豊範を土佐へ返したのを期に土佐下士達を呼び出し、軽格の身でありながら京の高貴な方々へ直接政治周旋を行うといった身分を弁えぬ活動に対し大叱責を行った。にも関わらずその翌日には武市の右腕・平井収二郎が再び周旋活動を行い、いよいよ容堂の逆鱗に触れて一切の活動を禁止されてしまった。藩主の名において命じられていた下士たちへの探索方等の役目を全て解任し、今後一定期間、帰藩した下士達の再入京を禁ずると言ったふれまで出した。
はつみは一連の流れを改めて丁寧に武市に説き、その打開策として、再度…再度の開国富国強兵論か…もしくは脱藩を説く。尊王の志を忘れる訳ではない事を説き、まずは姉小路公知が勝海舟から説かれた摂海防衛策についてを詳しく話を聞いてみないかなど…。武市の意思や思想が明確に変わる事はなかったが、はつみが知る歴史とは違う兆しが現れている事に気付く。
最終的に「自分はたとえ思想が違い突き放されようとも武市の命を守ろうとする者である。絶対にあきらめない」と言い残して去った後の部屋で、武市は一人、天を仰ぎ深く息をついたのだった。
(1月31日)賀川肇の首が慶喜がいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じるためある意味身動きを拘束される事となる。)
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の生首が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月11日)攘夷期限を迫る暴動を起こした中山忠光が長州・久坂らの元へ転がり込むが、手に負えない久坂らが武市の所へ転がり込む。武市の案にて、久坂達の対関白・断食座り込み(ストライキ)が決行され、久坂ら姉ヶ小路公知ら12名の血判書を用いて後押しした。孝明天皇は直奏を受け入れ、攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に下す。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。時勢を見る容堂は、先日帝から勅命が下った事も当然把握していた。その為、武市らの『土佐勤王党』に内心腸煮えくりかえる想いを抱きつつも、むしろ寄り添うが如く言葉を下す。甘いものが好物であるとする武市に『菓子』を送るなどするが、労っての『菓子』なのか、それとも『下士である事をゆめゆめ忘れるな』という皮肉を込めての菓子であったのかは定かでない。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。
(2月25日)京藩邸にておよそ半月の謹慎処分を受けていた坂本龍馬が、この日『御叱り』を以て脱藩罪を罷免され、解放。下田会談による勝海舟と山内容堂による特例の措置が実行された。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。
越えられない壁
2月中旬。容堂が入京してからたったひと月程の間ながら、ここ半年で猛威を振るった『土佐勤王一派』の勢いはみるみる内に先細りの様子を見せている。『土佐勤王一派』つまり『土佐勤王党』という、土佐藩政においては認められていない『徒党』の存在をついに容堂が耳にし、それについて直接武市からの報告を要求した。一方、藩邸には脱藩をしたはずの龍馬の姿もあった。詳細
武市は容堂と対面してこれを釈明しながらも内心『覚悟』をしていたが、この件について何か処罰されたり叱責を受けるといった事は起こらずにいた。下士達に対しては身分を越えた国事斡旋を行うべからずと厳しく取り締まる一方で、武市に対しては『ねんごろに』対応をしている事が、勤王党一味の危機的状況に対する認識を混乱させる効果もみせている。無論、はつみはその容堂の態度の『裏』を知っている為、焦燥は募る一方だ。彼女の表情が目に見えて日に日に強張っていく頃、およそ一年前に脱藩した坂本龍馬が『12日間の謹慎』という短期間での簡易的な処罰にて例外的にその罪を許されていた。龍馬の謹慎があける2月下旬、彼は藩邸に出ていた武市と再会し思わぬ話を聞かされる。龍馬、そして武市にはそれぞれ越えなければならない壁が存在する事を、自覚していた。
春雨(挿絵付)
2月下旬。優しい雨の中で、二人はただ連れ添って歩いた。それだけの事が、二人にとってはどれだけか大きく心通わせる出来事であっただろう…詳細
土佐勤王党への弾圧が決定的に始まるきっかけとなる青蓮院宮令旨問題への取り締まりが、歴史通りに動き始める。相次ぐ天誅の首謀者として武市の名が上げられ、土佐佐幕派の者には武市こそ斬るべきとの声も上がっていると聞く。土佐武市の影響力が急速に落ちていく中で長州が尊王攘夷を大きく掲げ、対し公武合体ありきの幕政改革を目指し朝廷と幕府の間を上手く取り持たんとする薩摩との軋轢が深刻になっていた。武市は薩摩と長州の間を取り持つべきとの考えも持ってはいたが、薩摩からはその存在を疎ましくも思われ始めている。容堂に青蓮院宮の令旨について『密告』をしたのも、藩の垣根を越えて容堂から信用を置かれていた薩摩の高崎猪太郎という男であった程だ。
この日、寓居内ではつみが武市と話をしていると、武市の義兄弟の契りを結び尊王攘夷という思想を『天誅』の形で世に示さんとする薩摩の田中新兵衛が顔を出しに来た。心に余裕のなくなっていたはつみは、新兵衛に対し明け透けな問答をしてしまう。見かねた武市に諭され、はつみは感情のやり場を無くし雨の中外へと飛び出してしまう。
慕情と後悔の狭間で…前編・後編R15
雨の中を連れ立って帰った武市とはつみであったが、寓居に戻ったところで『何か』が起こる訳ではなかった。武市が見せた無骨な優しさと愛情に大きく心が揺れたはつみは、新兵衛に言われた事もあって文字通り『身を挺して』の訴えに出る事を決意する。詳細
これまで、正妻と鴛鴦夫婦とまで言われる武市にそういった感情を表立って見せた事はない…つもりだ。しかしそれでも何故か二人の間には妙な掛け合いが生じ、結果、鈍感極まるはつみですら『もしかしたら…』と思える様な出来事が生じている。…江戸での花火大会、子無きは去れの事件、龍馬の脱藩、はつみが襲撃を受けた時の豹変ぶり…京での日々と、今日の事が最もたる例である。…愛妻家、天皇好きと言われる武市であっても、言い出せないでいるこの想いを告げたら、もしかしたら……と己惚れてしまう程度には、互いの心の距離感が近い事を感じていた。
夜、まだ雨音が耳に優しくささやく中、男装を脱ぎ捨て武市の部屋へと向かったが…理性を振り絞って武市が紡ぎ出した言葉は、やはりあの時と同じ、『帰りなさい』の一言であった…
椿の押し花
3月。武市の様子は史実とは違い、容堂とのすれ違いを明確に理解している様であり、また、出奔した以蔵への理解や関係性にも変化が見られていた。はつみのこれまでの言動が多少の影響を及ぼしている事は間違いない。しかしそれでも尚、武市は土佐勤王党での在り方を変えようとせず、正面から容堂と対峙し正義を説く姿勢を崩そうとしなかった。
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もう一押しが足りない…。この後、史実では容堂が乾らと共に帰藩の途につき、武市は所用の為それを追いかけて京を出たまま二度と戻ってこれない…寧ろ土佐から『一生』出られなくなる定めとなっている。懸念は深まるばかり、先日の件もあって、はつみの表情はまったく晴れやかなものではなかった。
そんな矢先、一晩降った雪が武市寓居の中庭に咲く椿へ優しく舞い積もり、短くも武市と雪椿の鑑賞をする流れとなる。
…二人の間には何も進展はない。だが、確かに結ばれた心の温かさがあった。…はつみは武市がこのまま土佐へ行くと言うのであれば自身も共に行く覚悟を決めたと言う。武市は土佐へはくるなと言うが、はつみの表情は悲痛な決意が相まってますます影を落とし込んでいた。そんな彼女に、武市は……一歩歩み寄る。
赤椿の『我が運命君の掌中にあり』との花言葉にあやかり、武市が差し出してくれた一輪を押し花にして大切に持ち歩いた。
人斬り
3月下旬。武市と市中を散策していると、壬生浪士組と名乗って市中警護を行う沖田総司らと遭遇した。彼らははつみとは江戸遊学時からの知己であり、特に沖田ははつみに対し並々ならぬ私情を持ち合わせていた。始め出会った時、彼らははつみと共に歩く男が『土佐尊王攘夷派の大物・武市半平太』だとは気付かなかったが、互いに別れたところで図らずも彼の正体について耳にする事となる。「武市半平太!」と叫びながら突如往来で抜刀した男達が、殺気を纏って襲い掛かった所に居合わせる形となった為である。咄嗟に振り返った沖田達がそれを目撃した時、凶刃はためらいもなく武市達に向かって振り降ろされようとしていた。―刹那、はつみの桜清丸が初めてその神気を振るう。
漢気…龍馬、内蔵太編・乾編
『武市、桜川、池田、往来にて刃傷沙汰』との報は各方面へと飛び交い、その日の内に伏見から駆け付けた龍馬と池内蔵太が武市寓居に雪崩れ込んでくる。そして更に深夜、容堂の側用人でありながら強靭な尊王思想を抱く乾退助までもがやってきた。武市は、はつみの周囲には『ありのままの』彼女を守らんとする者が多くいる事を知る。
最後の記憶…前編・中編・後編
武市襲撃事件の直後、土佐藩は武市に対し特に労うといった姿勢などは見せなかったが、ただ唐突に『京留守居役』とするとの通達を出した。そして容堂ら一行は何事もなかったかの様に、予定通りに土佐帰藩の途に出た。容堂は武市との直接会合においては最後まで明確な敵意を表す事は無く、寧ろ留守居組からの大抜擢ともいえる昇進を認めた形で京を離れるに至る。その際、武市が『先手を打ち全て誠心誠意を以て打ち明ける』として土佐勤王党の血判状を見せた時ですら、容堂は『お国の為なれば』『しかし藩政では認められていない。何かあった時に困るから今の内に焼き捨てた方がよい』などと容認する姿勢を見せた為に、武市も含む周囲の勤王党員達全員がホッと一息を突く様な瞬間さえあった程だった。詳細
しかし帰藩の途につく際には、既に禁足の処分を与えていた平井収二郎に加え、先の青蓮院宮令旨問題における首謀者である同・平井、間崎哲馬、弘瀬健太が改めて捕らえられ、強制帰藩となっていた。無論、他の下士達に対し政治斡旋などするべからず等の御触れは取り下げられてはいない。この様な状況で武市だけが『京・留守居役』への大抜擢なのである。武市は『京留守居役として』平井らの正当性・重要性を主張するが、藩に聞き入れられる様子は一切見られなかった。
…やはりこれは単なる昇進ではなく、長州や薩摩、朝廷など時世への動きを注視しつつもなんとかして武市を『土佐藩政による絶え間ない監視の元、縫い留める』為の昇進であったとはつみは懸念し、武市自身も感付く。はつみはこの気付きと確信をもっともっと早くに与えたかった。そうならなかったのは、完全に己の力不足であったと苦々しく俯き唇を食いしばるしかできないでいた。
武市は同志らを救い出すべく、容堂とすれ違いで入京した土佐の重臣・深尾鼎と様々な共謀を図るが容堂は飄々とこれを切り抜ける。『やはり自分が出ていかなければ何事も成らない。その為に党首たる己が脱藩を図るは一切あり得ない』とする頑なまでに誠実なその性格は、変えられなかった。
武市は容堂を追って京を出る事を決意し、漏れなくはつみもそれに随行すると言う。…彼女を止める事はしなかった。ただ最後に、武市ははつみに嘘をつき、書簡を持たせて彼女を龍馬の元へと送り出す。
…その秘めた想いについては、寧ろずっとずっと嘘をつき通していたと自覚しながら。
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