―表紙― 乾退助外伝 物語






土佐降臨編
安政6年3月―4月

●安政6年…乾22歳・はつみ18歳
 ―土佐―
桜降る
3月。桜の花がチラホラと咲き始めるころ、桜川はつみが土佐城下・鏡川付近に現れる。
坂本家に保護されるが、その浮世離れした容姿と言動で『かぐや姫』との噂が巷に出回った。
結果、不審人物として詮議対象となったはつみの身柄保護・保証に際し、この2月に2年間の追放処分から城下へと戻ったばかりの乾が関わる事となった。とある理由から坂本家と協力体制を取る事になる。


土佐日常編
安政6年5月―万延元年閏3月

●安政6年…乾22歳・はつみ18歳
 ―土佐―
牝牡驪黄…前編・後編
はつみが持つ海外の言葉や文化に対する異常な見識の深さについて、仁井田の『よーろっぱ』こと川島猪三郎から河田小龍へと伝わる。河田小龍はかの中浜万次郎が米国から帰藩した際に土佐参政吉田東洋の命により万次郎と寝食を共にし、海外情勢等について根掘り葉掘り聞き出した経緯があり、はつみの事を東洋に報告。東洋がはつみを呼び出した。
坂本家では大大大騒ぎとなり、一方乾も、後藤象二郎らの噂話からこの事を知る。
逢瀬(挿絵付)R15
馬廻り組乾家嫡男という身分にも関わらず、郷士の家に居候する根なし草たるはつみを堂々と料亭に誘う。 その意味を坂本家の誰もが理解し、はつみを心配し何とも言えぬ様子でどこに出ても恥ずかしくない様準備をしてくれた。はつみは上士と下士の身分格差だけでなくこの時代の女性の立場についても身を以て知るきっかけとなる。
恋は思案の外
6月。乾から再び呼び出され、蛍狩りへ連れ出される。
前回失敗した逢瀬に続き改めて婚姻について語るが、まだ日常ですら地に足のついてない心地でいるはつみには武士との恋愛や結婚といった事はピンとこない。 ただ、乾は急いでいる様であった。
時間切れR15
 8月。乾から再び呼び出され、仁淀川での鮎釣りへ連れ出される。馬に乗せられ、はつみは生まれて初めての乗馬となった。真顔で下ネタを言う乾だが内心浮かれている。実は鮎の塩焼きや半熟卵が好きらしく、乾がつったものや作ったものを一緒に食べたりして楽しんだ。
詳細  上士、下士(郷士)、あるいは武士の家というものをまだよく分かっていないはつみであったが、上士である乾もこんなに気さくで自然派なところがあったのだと思う。また、乾は先日はつみが東洋に呼び出されていた事を口にし、女だてらに『中浜万次郎の再来として期待されている』事、『尊王思想、そして攘夷と開国』についてを落ち着いた様子で話す。
 少し距離が縮まったかの様にも思えたが、乾は家の祝言が決まった事などを淡々と話して伝え、「俺とは一緒になれぬと思え」等という。乾の結婚には驚きつつも最後の台詞には「?」な反応を見せるはつみに若干モヤった表情を見せた乾は「…叶わぬのならせめておんしを抱きたい」と率直に述べる。「恋人にもなってないのに『せめて抱きたい』は順番が違くない?」とツッコミを入れるはつみであったが、口を塞がれる。これははつみのファーストキスであった。
帰りの馬上でははつみが異常に意識してしまった為に変に空回った会話になるか、無言でいる時間も多い様に感じた。

 後日、乾が武家の娘と祝言を挙げた事を知り、彼の言っていた事や願っていた事の本質を知る事となった。

・IFルート『乾外伝:日日是好日』


9月。小谷善五郎の娘・鈴と3度目の婚姻。


長崎遊学編
万延元年4月―万延2年2月

●万延元年…乾23歳・はつみ19歳
 ―土佐―

閏3月、父:正成死去。家督相続

6月、長女・兵生まれる。

長崎土産あります!
7月。はつみが帰藩した事を聞いた乾が、団らん中の坂本家に乗り込んでくる。権平ひっくり返る。はつみたちが長崎へ出た事も知らなかった(伝えられていなかった)事を詰めてきたが、土産があると知ると何となく腑に落ちた様で(はつみが気にかけてくれてた事に一旦満足した様で)大人しく帰っていった。しかしそれが夫婦茶碗であった事に、やはり物思わずにいはいられない乾であった。


確 変
文久元年3月

●文久元年…乾24歳・はつみ20歳
 ―土佐―
仮SS/井口村永福寺事件
3月。乙女に使いを頼まれたはつみと龍馬は、すっかりはつみに傾倒している寅之進と遭遇し、共に出かけていた。用事を済ませた帰宅途中で血相を変えた新宮馬之助に遭遇し、寅之進の弟が上士に斬られたという一大事件を知る。
 乾と龍馬の建言により、吉田東洋の口添えを得た上で藩は以下の処遇を各所に申し渡した。
・山田広衛…
 無礼打ち殺人罪により向こう1年の蟄居・謹慎
・乾退助…
 不敬罪につき10日間の蟄居・謹慎
・坂本龍馬…
 不敬罪につき一か月間の蟄居・謹慎
・池田寅之進…
 不問。非とする所無し。

解き放たれる運命
永福寺事件において吉田東洋に許可なく無礼な建言をしたとして不敬罪を得ていた乾。およそ10日間の蟄居・謹慎が明けた頃、乾との面会を望んだ。
それぞれの江戸へ(全編会話)… 前編・中編・後編
4月。東洋から呼び出されたはつみが屋敷へ向かうと、鉢合わせる様に乾も現れた。東洋ははつみが江戸遊学へ出る事を藩への届け出を通して察知しており、『おんしの目から見た横濱や異国人の様子をきかせてくれ』と私的に依頼する。更に、その報告を乾にも共有するという、一風変わった通達であった。乾は生粋の『勤王家』であり、しからば『攘夷』というのが彼の思想であるのだが、東洋は何を思っているのか。乾が下がり、残されたはつみは東洋から永福寺事件の処分に関する話と、それに関わる乾の話を聞く。
東洋との話を終え席を外すと、屋敷の外で乾が待っていた。


江戸遊学編
文久元年6月―12月

●文久元年…乾24歳・はつみ20歳
 ―江戸―
江戸からの恋文
9月。江戸遊学中のはつみから、横濱視察に関する報告の書簡(手紙)が坂本家を通して東洋に提出される。東洋は乾を呼び出し手紙を見せ、その文面の奇抜さと共に報告内容の客観的かつ論理的な内容とそこから導き出す理想論に唸ってみせた。
詳細 貿易、教育、富国強兵。この頃既に『尊王攘夷』をその心に掲げていた為に開国思想の匂いがプンプンする報告を目の当たりにして黙する乾に対し「『尊王の志あらば直ちに攘夷』というだけでは、真の攘夷には至れぬ」「帝が憂いておられるのは『開国』そのものではなく、不平等なままに条約させられた修好通商条約によって日本が搾取され日本の文化や民の生活が崩壊する事である」「尊王思想と開国論は別であり、しかし表裏一定でもあるのじゃ」と窘め、東洋やはつみが言わんとする『真の攘夷』について語り始める。…そして、乾に『江戸留守居役兼軍備御用』として江戸詰めに励む様、沙汰がなされた。
勤王の徒
11月。乾は江戸留守居役兼軍備御用(容堂の側用人)に抜擢され、江戸・鍛冶橋土佐上屋敷に入った。(容堂は品川大井村土佐下屋敷で現在も蟄居中)そして早速、はつみが顔を出しているであろう築地の土佐藩中屋敷へと通知を送り呼び出したが、龍馬と以蔵がついてきた事に対し大変珍しく露骨に顔をしかめる。止むを得ず乾ははつみを含む彼らに対し、尊王攘夷と開国について話をする。何だかんだと話してはいても、乾はまだ自分で『夷狄』を見た事がなかった。はつみは横濱なら行った事があるし多少は異文化に触れる観光案内をする事もできると伝える。
仮SS/時務を識る者は俊傑に在りR15
12月、乾の思想は変わらず『尊王攘夷』ではあったが、東洋の狙い通りはつみとの語らいによって巷で流行り病の様に吹き荒れる安直な其とは一段違う思考へと変貌しかけていた。乾は幕府文久遣欧使節団出港の視察と称して横濱へ出る許可を得た様で、通訳にとこじつけてはつみを呼び出す。しかしまたもや、今度は龍馬と寅之進がついてきた為に再び露骨なしかめ面を見せた。
文通ノススメR15
12月を以てはつみ、龍馬、内蔵太、以蔵らの江戸滞在期限となっていた。乾は寅之進からの書状ではつみらの送別会に招待されていたがこれに参加する事は辞退し、代わりに非番の日を使って築地中屋敷に現れ、はつみが宿泊している旅籠、そして今出ている千葉道場にまで顔を出した。
詳細  土佐の江戸留守居役が突然訪ねてきた為に緊張が走る小千葉道重太郎と佐那子、笑いつつもどこか気まずそうな龍馬。重太郎は彼とはつみの為に気を利かせて人払いをするが、はつみが帰藩するにあたり『文をよこすように』とする乾の話を物陰から聞いて、皆で顔を突き合わせては『どういう事だ?』『恋文か?』『いや報告じゃないか?』等と論議が巻き起こっていた。龍馬は愉快そうに話をするが、佐那子には彼が少しばかり無理をして明るく振舞っている様にも見えていた。  単刀直入に話すだけ話した乾は重太郎に改めて礼をとり、颯爽と立ち去ってしまった。『文を出す様に』これだけの事をわざわざ話す為だけに来てくれた乾に置いて行かれた形のはつみであったが、先日の横濱帰りの事といい、少し気になったので彼を追いかける事にする。龍馬は快く送り出し、重太郎は飲み直そうといい、佐那子は重太郎に肩を抱かれて奥へとつられる龍馬の後ろ姿を少し切なそうに見つめていた…。  態々帰路に着く乾を追いかけ少し一緒に歩く途中、神社に立ち寄り旅の安全を祈る。…そして「嫁を得ようが子を得ようが、生きる場所が遠かろうが…俺の気持ちは変わらん」「じゃが、恩師の説く思想についてはもう一考してやってもええと思うておる。俺はこの江戸で、真に帝の御為となる事とは何かを見定める。」と告げた。


一念発起編
文久2年1月―同年6月

●文久2年…乾25歳・はつみ21歳
 ―江戸―
意気投合
1月。一大決心をして自身の婚姻を取りやめ、再び江戸に残留した内蔵太。はつみから託された書状をきっかけに乾と出会う。二人とも『尊王攘夷』論者であったが、はつみという存在を通して『開国を以て真の攘夷』『尊王と開国は対立せず』とする話に興味を持つという共通の状況にあり、巷で大流行りの『尊王攘夷』とは少しだけ毛色の違う見解を抱く様になっていた。
詳細  加えて、土佐の性質、容堂が隠居に至った実態、そして薩摩の思想などをそれぞれの立場から公明正大に見極めようとし、結果、現段階に至っては『一藩勤王』は極めて難しいであろう事に同意。しかしそれでも、『尊王』の大義を志すのであれば死も恐れず燃え尽きるまで!とでも言わんばかりに腹を割った話合いが進み、結果、彼らは好く意気投合した。
 また、乾は内蔵太に対し共通の知人であるはつみをどう思うかも訪ねる。乾は当然思想についての質問をしたのだが、はつみを『男』と勘違いし『はつみに想いを寄せる男色傾向にある自分』に思う所のあった内蔵太は勝手にうわずってしまう。しかし乾は城下でも『かつて男色事件を引き起こし処罰までされた男』として一時噂にもなった人物であるからして、彼ならば分かってくれるのでは…と的外れな返答をしてしまう。…乾からはあっさりと「あれは単純に『まぐわい』への興味にすぎん。俺が好きなのは女子じゃ」と、ここでは意気投合とはならなかった。だがこれはこれで尊敬してしまいそうになる程の潔さで返答を受けた事により、『俺もあの様にはっきり割り切れたら…』と更に深く真剣に悩んでしまうのであった。
 2月、寺村道成(左膳。28歳)容堂の側用人として江戸詰となる。佐幕思考である彼は以後事ある毎に乾と対立する事となる。

仮SS/勧誘
2月。土佐内では徒党を組む事を禁止されている中、武市らが中心となって発足した土佐勤王党には多くの郷士達が参加を望み、『尊王攘夷論』『夷狄打ち払うべし』『幕府から理不尽に隠居をさせられた容堂公の擁護』がこれまで以上の苛烈さを以て急速に膨れ上がっていた。しかし武市半平太をはじめとする直訴は文字通り『門前払い』をされ、『このままでは薩摩、長州に出し抜かれ土佐が無様にも藩論を変えられぬ軟弱と謗られ、置き去りとなってしまう』といった焦燥と苛立ちが、勤王党内に募る。
 そんなある日、はつみは再び吉田東洋からの呼び出しを受けていた。
夢幻の如くR15
はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。
吉田東洋暗殺。
斬奸状が張り出されていたが犯人は分からず…だが、その時雨上がりの中を慌てた様子で駆け抜ける上士・谷干城の姿が目撃されていた。本人は『急な雨に降られ慌てていた』と供述し、断固として関りを拒否している。
状況不明
4月下旬。山内容堂が幕府から許され、帰国・対客・文通を許される事となった。乾は内蔵太と寅之進を呼び出し時世を語らう。
詳細 東洋暗殺の報を耳にしてから更に半月程が経過していたが、乾はもちろん、内蔵太や寅之進であっても、はつみなどからの直接の文はいまだ届かずにいた。
 乾の話では、一時的に東洋暗殺の下手人ではないかとの噂もあった谷干城が藩主・豊範の側近に取り立てられ、武市ら勤王派が藩政を掌握するのもそう遠くないとの事である。また、坂本龍馬が3月中に脱藩したらしいとの情報も追って伝えられたばかりであった。一方ではつみに関する情報は『特にはなく』、暴徒(上士の誰か)に襲われ以蔵に助けられたという話は江戸には入っていない。つまり、乾達がはつみの事で知れるところは良く言えば『無事』、悪く言えば『状況不明』といったところ。はつみが東洋に取り立てられようとしていた点、以前から吉村や中岡など『尊王攘夷派』からのあたりが強かった点、容堂の処分が明けた事により土佐藩政との摩擦が生じるであろう状況が、今後どの様に作用していくのか…摩擦から生じる政治対立の矛先が無力なはつみに向きはしないだろうか。はつみの安全に関しては三人三様に心配の種が大きく芽吹いていた。


京・天誅編
文久2年7月―文久3年3月

●文久2年…乾25歳・はつみ21歳
 ―江戸―
尊王と攘夷
7月。江戸にて剣術修行を続けていた池田寅之進が、土佐藩の参勤交代に合わせて上京するよう武市から招集があったという。その事を水面下で書簡のやり取りをしていた間崎哲馬からの書状で知った乾は、帰藩を目前にした寅之進を呼び出した。
詳細 一人上士の元へ向かい緊張する様子の寅之進であったが、武市やはつみから見込まれているだけあってかはつみの思想や時世への見解について訪ねると饒舌に話して見せる。乾もようやく「『尊王の志あらば直ちに攘夷』というだけでは、真の攘夷には至れぬ」と言った故・吉田東洋やはつみらの言葉の本質を理解し、はつみやはつみに傾倒する寅之進の思想に理解を示す事もできる様になっていた。
時に、乾ははつみから頼りは届いているかと寅之進に訪ねる。実は寅之進も今年の4月からまったく音沙汰無い事に心配をしており、今回の武市からの手紙で息災であるという事を知ったと返した。
8月、山内容堂、蟄居先の鮫洲山内家屋敷から鍛冶橋土佐上屋敷へと移る。
容堂、佐幕派の寺村道成を参政へと登用。

仮SS/江戸取引1
11月。土佐藩主豊範が伴奉する勅使・三条ら一行が江戸に入る。武市は柳川左門との名を用い雑掌として同行したが、『輿』よりも高貴な者が利用する『乗り物』が朝廷からあてがわれ、江戸では勅使らと共に直接将軍に見える予定でもある程、今や勤王派の実権を握る人物となっていた。…周囲の皆ははつみが『武市を追いかけて江戸までやってきた』と勘違いしていたが、実は少し違う。京において三条卿、姉ヶ小路卿ら勅使と共に江戸へ行かんと準備をする武市を見ていて、はつみはとあるひらめきを抱き、それ故に江戸行きを決意したのであった。
11月、乾、容堂の御前で寺村左膳と時世討論に及ぶ。

仮SS/江戸取引2
12月の始め。はつみは乾退助との『取引』によって得た最大の『好機』に対峙しようとしていた。…かつて自分を引き立てようとしてくれた参政・吉田東洋。その東洋を己の右腕の様に起用していた土佐前藩主・容堂公との会談である。
仮SS/江戸取引3R18
12月上旬。江戸での策をようやく終えた武市ら勅使一行は、今となっては公武合体派として違う路線をゆく薩摩の動きを警戒して颯爽と京へ帰って行った。それを見計らった様に、乾ははつみを呼び出す書簡を送る。

●文久三年…乾26歳・はつみ22歳
―下田―
下田会議
1月、年明け早々。山内容堂らは借り受けた筑前の蒸気船・大鵬丸に乗り込み、天候不良の為下田で碇泊。宝福寺へと入った。
詳細 容堂ら、「蒸気船多少の風程度何とする」とシケの中出港するが、高波に加え逆風もあり船は大揺れに揺れ船の上にて全員が『ころけまわり』、全員が大酔いに大酔いとなる。慌てて下田へ引き返す舵を切り、猛烈な風にあおられ猛スピードで下田に到着した。容堂はこの時の事を宇和島の盟友・伊達宗城へ手紙で知らせており「九死に一生を得た」と伝えている。  ある日、その下田に勝海舟がやってきた。面会し、坂本龍馬の脱藩罪を免ぜられる方向で話がつく。また亀弥太らの修行を認め励むよう言伝る。(急ぎ蒸気船を買う手はずをしており人手が欲しい所でもあった)
 そして容堂の方から『英語を話し西洋文化に通じた者』としてはつみの話題が上がるも、勝の門下にはいない。「坂本龍馬からそれらしき逸材がいると聞いた事があったが、土佐の御仁(武市)に夢中でこっちにはこなかったヨ。やりたい事があるとかナントカ…ってねぇ。」と返し、思いのほか容堂は身を乗り出した。…江戸から出立の前に、薩摩の大久保らから『土佐勤王党』という攘夷派の徒党について聞かされていた為である。更に大久保には『天誅を繰り返す下士を押さえて下さい』とも言われており、はつみがいかな形でもそちらへ切り込んでいるのなら利用できるのではとも考える。興味深く聞く容堂。そしてすぐ傍で控えていた乾や寺村なども、容堂と勝の話を聞いていた。
 ―京―
仮SS/他人行儀
1月、入京。容堂の思想は明らかに公武合体と言われるものであり、京へ入った狙いも上辺には武市の根回しを受けた朝廷からの招集に応えた形ではあるものの、実際には容堂の意に反して行われる郷士達による政治的挙動を停止させる事に目的があった。
仮SS/内部分裂
1月下旬。容堂が京に入った事を受けてか藩主豊範はそうそうに土佐へ帰藩する事となった。…藩主を帰藩させた後の京で、容堂がその手腕を振るうのも時間の問題であった。土佐勤王『派』が藩政を掌握した当初から藩主の側近へと取り立てられていた谷干城に会った乾は、『佐幕派の上士たちの間の中で武市を斬るといった話がある』との話を聞く。

(1月31日)賀川肇の首が慶喜がいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じるためある意味身動きを拘束される事となる。)
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の生首が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月11日)攘夷期限を迫る暴動を起こした中山忠光が長州・久坂らの元へ転がり込むが、手に負えない久坂らが武市の所へ転がり込む。武市の案にて、久坂達の対関白・断食座り込み(ストライキ)が決行され、久坂ら姉ヶ小路公知ら12名の血判書を用いて後押しした。孝明天皇は直奏を受け入れ、攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に下す。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。時勢を見る容堂は、先日帝から勅命が下った事も当然把握していた。その為、武市らの『土佐勤王党』に内心腸煮えくりかえる想いを抱きつつも、むしろ寄り添うが如く言葉を下す。甘いものが好物であるとする武市に『菓子』を送るなどするが、労っての『菓子』なのか、それとも『下士である事をゆめゆめ忘れるな』という皮肉を込めての菓子であったのかは定かでない。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。
(2月25日)京藩邸にておよそ半月の謹慎処分を受けていた坂本龍馬が、この日『御叱り』を以て脱藩罪を罷免され、解放。下田会談による勝海舟と山内容堂による特例の措置が実行された。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。

漢気
3月。乾ら容堂側近のもとに『武市半平太、桜川はつみ刃傷沙汰』との報せが飛び込む。
詳細 容堂や小八木、寺村ら佐幕・公武合体派らにとって武市やその他下士(郷士)らによる政治工作などは目ざわり以外の何物でもなく、容堂をとりまく有力な上士達の間では『武市を切るべし』との声もそこかしこから聞こえている…とは、先日藩主豊範と共に土佐へ帰藩した谷干城からも聞いた通りの事である。しかし武市半平太は『京留守居組』であり、もし意図的に襲撃されたとなればそれなりに騒ぎとなる出来事だ。…しかし下手人の情報も含め、『無事だったらしい』という事以外詳しい情報も入ってこなかった。無事だったならと思う反面、今すぐ駆け付けたいとする想いにも駆られる。そんな矢先、容堂に呼び出され渦中の武市襲撃について尋ねられる。詳しい事情を知らない乾は当然答えられる様な情報を持ち合わせていなかったが、容堂が知りたいのははつみの安否である様だった。「あの者とは親しいのじゃろう?」とからかう様に問う容堂。ひとしきり戯れが続いた後で、容堂は「桜川の様子を見て参れ」「ついでに半平太の様子も聞かせよ」と言う。
―乾は土佐藩邸にいる武市を初めて訪ねた。はつみではなく武市を尋ねたのは勿論、物申したい事があったからである。
4月、容堂らと共に帰藩したのち、佐幕・公武合体派の台頭により失脚。

満たされぬ全てR18
5月。失脚した乾は藩政へ返り咲く事以外にももう一つの『やるべきこと』を家の者達から急かされていた。…乾家の嫡男をもうける事である。
詳細 正妻の鈴との間に生まれた長女・兵は早3歳となっていた。鈴とは折り合いが悪い訳ではなく、途中江戸および京赴任で家を空けたが、こうして戻ってからも再び夜伽に励んでいる。しかし失脚の憂き目に遭い、勤王派として誼を通じた土佐勤王党・間崎哲馬らもほぼ逃れようもなく斬首(よくて切腹)路線にありどうする事もできない。そしてはつみの事も割り切れず…。鬱屈としていた乾は、久川晋吉という上士と呑んだ際に見かけた姉・牧野と勢いで一夜を過ごしてしまう。土佐の鈍りさえなければ、声の感じが少しはつみに似ている…それだけの理由で欲情を抑える事ができなかった。
8月、京にて818政変
 土佐にて土佐勤王党弾圧始まる。
9月、乾、容堂の側用人に再度就任
 武市半平太、投獄
10月、深尾丹波組・御馬廻組頭に復職


京・天狗編
文久3年4月―元治元年6月

●文久4年/元治元年…乾27歳・はつみ23歳
 ―土佐―

1月、後藤象二郎、福岡藤次ら『新おこぜ組』再台頭

現状打破
2月。最後にはつみと会い、容堂と共に京を去ってから悠に1年が経とうとしていた。御馬廻組に復職していた乾は勤王党弾圧はもとより藩政の主だった所にはさほど関わりない所で日々を過ごしている。はつみに関して言えば、京で別れて以来私信を飛ばしているにも関わらず、最初の1通2通以降ぷっつり連絡が途絶え、彼女や彼女の周りの人物たちの安否すら分からないという現状だ。―しかしある日、転機の前兆であるかの様に上空を旋回する『白い隼』の姿を認めた。
詳細 昨年の大和挙兵に基く818政変により情勢は大きく変わり、土佐においても武市半平太をはじめ土佐勤王党員達が次々と逮捕・投獄されている。朝廷及び幕府の距離が再び近付き、その背後には薩摩の存在が強くある所までは情報を得ていたが、藩政から遠ざけられている今となっては詳しい事は分からない。勤王派であった故に失脚した一時期から再びこうして取り立てられている事には容堂からの寵愛もあったが、未だその公正明大な性質を世に出す事もできずくすぶる乾に対して頭角を見せ始めたのが、幼馴染であり吉田東洋を叔父・育ての親とする後藤象二郎らであった。彼らやその息がかかったと思わしき者達が盛んに城下と国境とを行き来しているのも捉えているが、その理由は分からない。一つ二つわかる事があるとすれば、土佐藩は京江戸において存在感を高める薩摩に取って代わろうとする事は考えておらず、ただ国を閉ざし、その腹に抱えた武市半平太という巨魁をどうするべきかという時世に対する停滞の時を迎えているという事。そして、はつみとの私信が途絶えているという事だ。
…そんな折、宇和島側の関所から『脱藩人らしき男』が捕らえられ山田獄舎に連れて行かれたらしいとの報告を同志から受け、更にはつみが常に従えていた白き隼の姿を上空に認めた。
乾ははつみが土佐にいる事を確信し、そして行動に出る。
天佑神助…前編・後編
案の定、白い隼が示してくれたのははつみと寅之進の二人が入国したという事実であった。しかし厳重に『土佐の護衛』がついている為接触が難しく、様子を伺う乾。まずまずの詮議を終えた寅之進が、持ち主がいなくなって荒れ果てた実家に戻ったのを好機と見て、内密に接触を試みる。
詳細 寅之進と合流を果たした乾であったが、公に逢うのは立場上非常に危険であるというのが双方の考えであった。乾は下男を一人雇い、『寅之進自身が自宅修理や家財整理の為に雇った』と見せかけて寅之進の側に置いた。
そうして秘密裏に乾と通じていた寅之進の下に、はつみの白き隼ルシが姿を現す。やはり大変賢い鳥であり、はつみが託したであろう手紙が脚に巻き付けてあって『I am fine.』と書かれていた。寅之進はこれをすぐさま、乾が寅之進の身辺に忍ばせている下男へと通達する。受け取った乾は信頼できる者を動員し、こちらに動きを合わせている気配すらある白き隼が旋回するあたりの建物を、周囲から怪しまれない様、後藤らから放たれた下横目らが見ていても分からない様にさり気なく捜索。内情を探り、はつみらしき人物が囚われているという料亭一室を見つけた所で、数名を上手く出入りさせた。
手筈を整えるまでの間、はつみの部屋には毎日の様に後藤や寺村が訪れ、京や神戸での事、周囲との人間関係などについてもつぶさに聞き出している様であった。場所は和やかな料亭の一室ながら、さながら詮議・取調べそのものである。
そしてより気配が目立たなくなるとある雨の夜、夜空から見守るかの様に旋回する白き隼の姿を認めつつ、乾自ら、今彼女が泣いているその一室へと乗り込んで行った。
(2月20日)~『元治元年』に改元~

性に合わぬ…前編・後編
失脚した身である乾にとって、すでに獄中にある土佐勤王党員らに対しては手の施しようもなかったが、はつみや寅之進を土佐から逃してやる事だけは今目の前にある己の使命だと心得ていた。基本的に乾の言動は強気の正面突破である。しかし他者の話を聞き他者を守ろうとする姿勢も持ち合わせている事は、彼の周りにいる者ならば身分問わず知り得る所。まるで賭けでもある様な規律破りであったが、乾の古くからの友であり志を共にする小笠原唯八、佐々木三四郎、片岡健吉、そして同じく失脚させられていた谷干城それぞれが、水面下にて各々慎重に動き、出来うるだけの力を尽くして協力をしてくれていた。
詳細 この時、かつて谷がはつみを襲撃(拉致しようと)した犯人であった事が明るみとなり、乾と谷が『腹を割って』話す状況にもなってしまう。場は騒然としたが、『尊王』を思えばこそ乾は谷の行動を理解する事ができたし、谷もまた、はつみに対する『開国論一辺倒』とする行き過ぎた誤解を解くに至った。
そして一同はどうやってはつみや寅之進を外へ出してやるかと話し合う訳だが…例え性に合わない策であってもきっちりとはつみ達を逃す為の軍略『陽動』として、『一芝居』打つという結論に至る。そしてこの『一芝居』に思わず力が入りすぎてしまう。
届かぬ想いR15
3月中旬深夜、雨。危険を犯しながらもはつみに会い支え続けていた乾が、ついに行動を起こすと告げた。はつみは乾に連れられ、闇夜に紛れながら馬で須崎方面へと向かう。須崎は現代において武市の銅像が立っており、現地まで観光しに行った事を思い出していた。
詳細 馬にまたがる乾の前に乗せられ、雨風を避ける皮掛けを被せられ…強く抱きしめられる。それぞれに思う事を打ち明ける事もなく、振り付ける雨の中を馬はひたすらに進み、まだ夜が明ける前に海岸へと到着した。機を合わせる様にして自宅から逃亡を謀っていた寅之進と合流すると、乾の裏手引きによって須崎沖に碇泊中の帆船に乗り込む。少し後から乾の小姓らしき少年達が追い付き、乗っていた馬から飛び降り息を切らしながら「今の所追手は見当たらない」と報告をする。はつみ達は押し出される様にして小舟へと乗せられ、一刻も早く沖へ行くようにと慌ただしい別れとなる。小舟の船頭と寅之進から「早く」と呼ばれながらも自分を振り返るはつみに、乾は…
3月15日、次女:軍 生まれる。母は妾:政野



襲撃
元治元年6月―7月

●元治元年…乾27歳・はつみ23歳

6月、寺村左膳、容堂側用人役を罷免

6月24日、奸婦襲撃事件。
 柊智ら長州・水戸派攘夷志士による、桜川はつみ襲撃事件。
 土佐は異常なまでに国境を閉ざしており、時世に関わる情報を知り得る者もごく一部とされる中、桜川のごとき一介の人物がどこでどの様な目に遭っているかなど、乾は知る由もなかった。当然ながら、書簡の行き来も途絶えたままであった。

7月3日、実姉、死去
7月、町奉行に就任。後藤、大監察(大目付)外輪物頭 就任


東西奔走編
元治元年7月~慶応元年閏5月

●元治元年…乾27歳・はつみ23歳


※乾のビジュアル(髪型)が『中期』に変わる※

8月、大監察(大目付)を兼任。土佐勤王党の詮議に関わる。
●元治2年/慶応元年…乾28歳・はつみ24歳

1月、大目付・軍備御用を罷免
 深尾丹波に武市絡みの嫌疑あり、その罪を被ってとの事。
3月、謹慎を命ぜられる
寤寐思服(ごびしふく)
4月、謹慎が解かれ江戸へ兵学修行。洋式(オランダ式)騎兵術修行を命ぜられ、安政5年の頃より容堂の小姓を務めていた真鍋正精(18)と江戸へ入った。
詳細  土佐から距離を置かれる様に、或いは頭を冷やせと言われんばかりに江戸での兵学修行に出された乾は、真鍋正精(まなべまさよし)と江戸へ向かう。真鍋とは江戸留守居役を務めた頃から何かと顔を合わせ行動も共にした人物であり気も打ち解けていたが、恐らくは、乾を気に掛ける容堂からの『御目付役』といった所だろう。
乾は極めて真面目に西洋騎兵術及び砲術を学ぶ一方で、はつみの足取りも何気なく探る。しかし江戸で得られた事といえば『はつみが在籍していた勝海軍塾・神戸海軍操練所は勝海舟の失脚を以て解体されたらしい』という、あまり良くない報せであった。まさか野放しにされた訳ではなかろうと思いながら日々を過ごすが、ある日、勤王の同志である小笠原唯八からの文で『坂本龍馬や桜川ら元海軍塾生らは現在薩摩に匿われている』との実態が明らかとなる。
今最も『雄藩』として筆頭に挙げられる薩摩に匿われているのであれば、問題はなかろうと文を閉じる乾。―はつみを真に助ける藩が土佐ではない事、そして自分ではない事に波立つ心を鎮めながら。

以後、はつみとは会う事も文を交換する事もなく月日が過ぎてゆく。

閏5月11日、武市ら土佐勤王党処分決行される。
詳細 武市半平太切腹。自白組斬首。
 去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる

―他、
 御預け一名…小南五郎右衛門(元上士。苗字刀取上)
 牢舎九名…園村新作(元上士)、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
 斬首三名…久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
 継続二名…檜垣清治、今橋権助
 名字帯刀剥奪、城下禁足…岡田以蔵
 (不明一名…吉永良吉)


朧月編
慶応元年閏5月~慶応2年5月

●慶応元年…乾28歳・はつみ24歳

詳細 閏5月17日、土佐異例の論功行賞
 徒目付・土居弥之助、弘田久助…御組入り
 徒目付・岸本円蔵…白札昇進
 岡崎喜久馬…米4斗拝領
 大監察らは御酒頂戴
表向きは藩主からだが、その本質は容堂によるもの。

後藤、大目付役を解任

●慶応2年…乾29歳・はつみ25歳

1月、薩長同盟成る
2月、参政後藤、小目付小笠原唯八、鹿児島視察。

5月、乾、江戸滞留継続の命が下りる。


才気飛翔編
慶応2年7月―慶応3年9月

●慶応2年…乾29歳・はつみ25歳

詳細 7月20日、将軍徳川家茂、逝去
7月、後藤、中浜万次郎ら12人と長崎貿易の推進にあたる(いよいよ開国化が進む)
 ロシア音楽団に遭遇し、衝撃を受ける(後はつみのピアノにリンクする)
8月慶喜、禁裏守衛総督辞任・徳川宗家相続
8月、後藤、中浜万次郎ら6名、グラバーと共に上海へ
 容堂、大目付・佐々木三四郎や元土佐勤王党郷士ら(島村寿之助)らに西国(大宰府)探索方を命じる。
9月、上記佐々木ら、大宰府にて土方楠左衛門らから薩長同盟の報を聞き、急ぎ土佐へ持ち帰る。

9月末、乾、江戸騎兵術修行の命が解かれる。
10月、はつみ、小松に対し英国商人グラバーのもとで世界の交易について学ぶ事を望む。

12月5日、徳川慶喜・15代将軍就任

12月、乾、水戸浪士(相楽総三ら)を独断で江戸藩邸に匿う。
12月、乾、刀鍛冶の左行秀を義侠心のある男と見込み、水戸浪士の件打ち明ける。

12月25日、孝明天皇、崩御
●慶応3年…乾30歳・はつみ26歳
詳細 1月9日、睦仁天皇・践祚(後の明治天皇)
2月、龍馬・中岡、脱藩罪を許される
3月、徳川慶喜、大阪にて各国公使と会見。
4月、寺村左膳、容堂の側用人に再任。
4月、海援隊発足
4月、はつみ、いろは丸沈没事件で仮死状態となる
5月、山内容堂、寺村らを連れて入京。四侯会議に挑む

 ―京―
女傑評議10
5月。幕府の独裁制を強めようとするその勢いを止めるべく薩摩主導での四侯会議が行われ、これに山内容堂も出席していた。しかし慶喜の策に破れ、やむなく失敗に終わってしまう。これを嘆く中岡からの手紙が江戸で燻り続けていた乾の下に届き、諫死の覚悟で上京を決意。京についたこの日、早速近安楼にて中岡や谷干城らと合流し、大事の前の小事として小宴を開いていた。そこでにわかに、桜川はつみの名前が挙がる。

5月下旬、乾、容堂への目通りが叶う。尊王のもとに武力倒幕を解き、また、江戸にて他藩の同志3人を匿っている事を伝える。
詳細 反乱分子を取り込むという政犯ともとれる申し開きをした乾に、容堂は『殺したくはない』の思いから『追って沙汰する』とし、寛容な対応を以て乾を手元に戻す。その『寛容』さはかつて同じ様に『徒党』の存在を明かして来た武市に対した時のそれとは全く性質の異なるものであった。
こまつといっしょ4R15
7月。土佐藩の勤王思想斡旋の為に京へ出ていた佐々木であったが、イカルス号事件の報を受け急遽帰藩する事となっていた。これを受けた龍馬が一旦松平春嶽の下へと走る最中、薩摩の船をかりるべく(薩摩藩士の)吉井と薩摩藩邸へと向かう。これにはつみが動向を申し出、小松との面会取次を吉井に望むのであった。
詳細 薩摩の家老にその様な形で逢いに行かんとする姿に佐々木は驚くが、これまたすんなり受け入れられた事にも更に驚愕する。吉井はわざわざ自分を通さずとも『はつみが自分に会いたい時は何も気にする事なく自由に身一つで御花畑屋敷へ来てほしい』と小松本人が常にしている事に言及。はつみははつみなりに理由があって節度を保とうとしているが、いずれにしても佐々木には度肝を抜かれる会話であり、初めて知ったはつみと小松の実態であった。
道中、帰藩に向けて動く佐々木ははつみに対し『乾に何か言付けはあるか』と含みのある様子で声をかける。それは極めて個人的な感情に基く『含み』であり、佐々木の様子から何となく察したはつみは少し困った様に笑顔を見せた。
「…そうですね…わざわざ気にかけて下さって有難う御座います。乾に手紙を書こうと思うんですけど…この後少し、乾の近況などをお尋ねしてもいいですか?もうずっと連絡も取れてなくて、乾が今どこにいるのかも知らなかったから…」

 その後、佐々木と共に小松がいる『御花畑屋敷』へ到着。すぐに小松と会った。佐々木が船を借り受ける話をつけた後で、彼と会話する。
はつみは、このイカルス号事件に際し土佐自らが解決の為に動く事になった事と、時世の状況的に開国黎明期よりも更に洗練された外交的対応が求められる事などの認識を共有し、結果的に、薩摩の様に土佐と英国が認め合える顛末となる様、土佐はじめ龍馬ら海援隊も心身を尽くす。故に、中岡が心配する様な『土佐のいない維新』となる事のない様、どうか気に留めて欲しいと丁寧に申し出た。小松はいつもの様に真摯に話を聞いてくれている様であったが、真摯に受け止めるが故に、包み隠さずこうも返して来た。
「じゃっどん、時が来たれば我らは即座に立上がりもす。いかな理由があろうとそん時土佐が明確な立場をとらねば、我らは土佐抜きで物事を構えにゃならんでごわす。」
「その時は…薩土密約に基き、土佐の乾が必ず立ち上がります。」
 戦の無い討幕…つまり完全な大政奉還を目指す龍馬に付き添うはつみであったが『土佐には薩摩らと思想を同じくする乾退助がおり、天下回天の事については必ず、彼は結果を伴う行動を起こします。その為に今、中岡さんとも連携を取りながら本腰で軍備改革に着手している様です。時が来た時、もし土佐が英国や幕府との対応にグズついて身動き取れずにいる様であれば、乾にGOサインを出して下さい。』と強く主張する。 小松達にしても薩土密約を取り交わした乾の行動には期待をしている所でもあり、小松はしっかりとはつみの言葉を受け止めた後で「しっかと心に刻んでおきもんそ」と返した。

帰藩の為、忙しそうに早くも席を立とうとするはつみを思わず引き留める小松。見つめ合った二人に本能的に察した佐々木は、慌てた様にすぐさま席を外した。
…前回正妻や琴の存在を理由に頑なに拒否された事を思い出し、咄嗟に手を離す小松。あれからはつみとの事を考え、後悔と共に現実を受け入れねばならないと己を律しようとした。しかし…凛と返り咲く君は美しいと思わずにはいられない…君を美しいと思う男が他にもいる現実に苛立ちと焦燥を感じずにはいられない…と言う。
土佐佐々木ら土佐藩士らを薩摩船「三邦丸」で送る手はずを整えたと報告に現れた吉井が、部屋の外で茫然と立つ佐々木に声をかけ、二人して中の会話を聞いてしまい、茫然と目を見合わせていた。
そこへ更に、客人と主をもてなそうと茶器を持って現れた琴に気付くと、彼女を伴って部屋の前から去っていった。部屋の中では何か密事的な事が行われようとしていた…。(実際行われる事はなかったが)
 ―土佐―
英雄の器
6月。京にて容堂と合流した乾は、容堂とともに土佐へ帰藩。間もなく軍備御用兼帯に再任した。小笠原と協力し、永牢処分を受けていた土佐勤王党員ら6名を釈放。これを受けた土佐の勤王派下士達は乾を盟主とする討幕活動を決断する。
そんな下士達からの熱量を受けつつ、今後について語り合う乾、佐々木、小笠原。「長州には高杉晋作という、藩改革と防衛にひと肌もふた肌も脱ぎ活躍した御仁がおられたそうじゃ。我が藩にその類の英雄がおるとすれば、それはおんしじゃ。乾。」小笠原と佐々木は乾へ言う。
「土佐・勤王の盟主となれ」「おんしが一藩勤王への舵を切るんじゃ」
詳細 黒船来航以降激しく揺れ続ける古き大樹たる幕府。図らずも朝敵との誹りを受け幕府と表立って対立に至り意図せず割拠の形を成す事となったす長州。その長州と手を組まんとし圧倒的財力と知見を以て新時代を切り拓こうとする薩摩。揺れ動く諸藩。したたかに日本を見つめる列強諸国。時世を見極めきれない容堂は乾を再び大目付へ昇進させ、軍備御用を兼任させていた。
土佐藩内は未だ藩を挙げての思想統一には至っておらず、小八木ら佐幕派や寺村ら公武合体派などがこぞって乾ら勤王派と対峙している形ではあったが、乾は京にて独自に締結させた『薩土密約』に備え、いつ『倒幕』となっても動ける様、長州の英雄高杉晋作の軍事を目の当たりにしてきた中岡から助言を受けつつ大がかりな軍備改革と人事斡旋に取り掛かっていた。勤王を誓い合ったの盟友・佐々木三四郎を京へと送り出す事について一波乱ありながらも、慶応元年の処分以降永牢となっていた土佐勤王党員らを6名釈放させるなど、思い切った改革を続ける乾。土佐のあらゆる人物が唱えながらもただの理想論でしかなかった『一藩勤王』『上下一体』が、今ようやく乾の名の元に形を成そうとしていた。
女傑評議11R15
(英雄の器、直後)
土佐きっての武力倒幕派会議が解散となった後、小笠原が佐々木にコソコソと肘打ちする。小笠原の妙な目くばせに気付いた佐々木は「あ~(桜川の事か…)」と目を泳がせた後、わざとらしく咳払いをしてから乾に声をかけた。
詳細 「俺はこの後すぐにでも京へ行く。」
「おう。斬られんよう気ぃつけや」
 苦笑する佐々木は、また小笠原と視線を合わせた後で仕方なさそうに話を続ける。
「あ~、その、桜川はどうしちゅう?」
「(ヘタクソ!!!)」
 あまりに直球すぎる佐々木の問い質しに小笠原が心の中で悲鳴を上げる。乾は顔色一つ変えないが腕を組み、顎を触りながらまっすぐに佐々木を見やった。
「…知らん。なぜそがな事を聞く?」
 一見は不動の表情ながら、動揺…というよりは心が揺さぶられたであろう気配を察知する事ができる。佐々木を押しのけた小笠原が、神妙な顔で乾の『跡取り』について言及した。一昨年、はつみに声が似ているというきっかけで関係を持った久川晋吉の姉・牧野が子を産んだが、次女であった。正妻の鈴との間には2人目の子はまだ出来ておらず、途中約2年に及ぶ江戸詰め期間もあった為、乾の後継ぎ問題は水面下においてかなり逼迫した問題ともなっている事を、小笠原たちも案じていた様であった。
乾はため息をつき、その事なら先日土佐藩医師・萩原復斎の娘・薬子を抱いた事をしれっと伝える。しかしそれも結局は、5月に京で対面した者達とはつみの話になった事が原因で忘れたくても忘れられずにいた色情に抗えなかった訳である。容堂付の医者の娘という事で以前から顔見知りであり、甲斐甲斐しい娘であった薬子を抱いてしまった…という状況。しかし見方を変えれば、容堂を含む周囲の者がいまだ嫡子のいない乾に薬子との逢瀬を仕向けたとも考えられる。
小笠原たちにそこまでの内情を話した訳ではなかったが、長い江戸滞在ではそういった話の無かった乾がここにきて勢いで薬子を抱いたのだろうという事は二人も察しが付いた様だ。
「桜川は妾にせんがか?」
「…あれは子が産めんそうじゃ」
 はつみを妾にしないのはそんな事が理由ではなかったが、早々に切り上げたい話題でもあったのでそう応えた。気を遣った彼らは跡取りの事を気にかけつつも話題を取り下げたが、彼らの気遣いも間違っている訳ではないと重々承知している。武家の主にとって嫡男の誕生は責務であり、乾は当主となって早7年、齢も30となったが、その責務はいまだ果たせていない。
…妻や妾達に何かしら不満がある訳ではない。
だがそれ以上に、この期に及んでもまだ、はつみをち正妻に迎えたい、独占したい等と考えている未練たらしい自分の一面に辟易する想いであった。

7月、後藤、寺村ら大政奉還案献策の為土佐帰藩。容堂、藩主の許しを得る。
7月、寺村左膳、参政へ再任。
7月、乾、参政へ昇進。軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。
 銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織(迅衝隊の前身)
 谷干城、小目付のまま軍備用・文武調役兼帯
一日千秋
8月、去る6月長崎にて起こっていたイカルス号事件につき、京へ出ていた後藤象二郎や佐々木三四郎らが急遽対応する事になった。大阪から出港し徳島へ立ち寄っている英国に先立ち、佐々木ら土佐上士と坂本龍馬、はつみらを乗せた薩摩船『三邦丸』や幕府艦『回天』が土佐須崎に入る。…龍馬、はつみらにとっては久方振りの土佐であったが、上陸する事は許されなかった。
詳細 参政へと昇進していた乾は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告し、諸部隊を砲台陣地および要所の守備に配置。下船した佐々木三四郎に会い、束の間の会合を果たす。諸事情報交換の最後に、今回は土佐に上陸できず土佐帆船夕顔丸にて待機中であるはつみからあずかった手紙を渡され、ここ1,2年の彼女の様子について佐々木が知り得た話をざっと聞かされる。また、薩摩の若き家老であり、京政治において影の中心人物とも言われる小松帯刀とはつみの只ならぬ関係についても、佐々木が見聞きした事をそのまま伝えられた。乾が手紙を読みたがっているのを何となく察し、佐々木は『城へ急ぐ』と言って彼を開放してやるのだった。
活人剣・真
乾ははつみからの手紙にあった通り以蔵と話をするべく、突如吹井の武市生家を訪れた。上士の話など聞きたくもないと黙する以蔵であったが、乾はその様な態度に怒る事はなく寧ろはつみが彼を推す理由を察して『なるほど』と頷いた。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんの剣で土佐を、この国を守れ」
詳細 イカルス号事件に係る夕顔丸、回天、南海丸らが、英国公使館からの現場監督としてアーネスト・サトウを乗せて土佐を去り長崎へ向かった。乾が指揮していた湾岸の戦闘体勢もこれにて一旦解除される。
これを機に乾は時間をとって吹井の里で墓守をする以蔵を自ら訪ねた。臆する未亡人・富には丁寧に挨拶をし、許可を得た上で以蔵が利用しているという離れの小屋へと向かう。案内される最中、以蔵が殆ど無償で墓守をしてくれている事、それどころか出稼ぎで稼いだ銭を何かと常に渡してくれる事、普段は武市が遺した書物などを読んだり節操正しく生活している事などを聞かされた。
彼は無気力な人間であるというのが昔からの話ではあったが、上士に対しては並々ならぬ反抗心を抱き、かつ、先の獄中においては拷問に遭っても決して自白しなかった精神力があると認識を改められたばかりである。
例の如く何も話す気はないと黙し拒否すら示す以蔵であったが、先日土佐沖に異国の船がやってきて、龍馬やはつみらも一緒だった事やはつみから以蔵に会う様に言伝があったと切り出すと、「おおかたの事は調べん時に洗いざらいしゃべったじゃろうが…」と呟きながらも対応する姿勢をみせた。
以蔵と話す内に取り調べの際には聞く事の無かった『以蔵の剣』について触れる事となる。いまや苗字帯刀剥奪とされ大小も持たぬ以蔵が、それでも武市の墓守をし武市の未亡人富を守ろうとする為の心の剣『活人剣』。はつみから言われた「武市に育てられたその剣で武市を守れ。大切な人を守る為の剣。人を活かす為の剣」が確かにそこにあった。乾は、はつみが文で言っていた『以蔵は他の人には成し得ない変化をその人生に見出した』という意味が理解できた気がする。彼は昔見知っていた卑屈なばかりの以蔵ではない。今の彼は、確かに輝く何かをその心身に宿している様に思えたのだ。
乾は上士下士関係なく力量を図りたいといって手合わせを申し出る。己も柔術には自信があり、こちらは素手、相手は木刀とはいえまったくもって隙を見いだせない。…以蔵は、間違いなく武市の懐刀であった。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんの剣で土佐を、この国を守れ」
 以蔵にしてみれば一方的な志だけを受け入れるのは癪であったろうが、乾が指揮を執る別撰隊に所属すれば『給金』が支払われる事などを伝えると、彼は受け入れてくれた。…それすらも、恐らくは武市家の為であろう事は安易に察する事ができた。
女傑評議11
別撰隊に加入し、ひとまずは圧倒的強さを以て歩兵伍長となった以蔵。髪を切り、皆から歓迎され、自分の存在意義を初めて見出しているかの日々を送っていた。
詳細 きっかけははつみからの文ではあったものの乾も自然と乾を気に掛ける様になり、彼次第ではもっと取り立ててやるつもりでいた。時世をよく知らずひたすら武に邁進するその姿に若い頃の自分が重ね見え、軍略を通して武士としての気構えも養う様にと、自らも読み込んだ孫子を勧めたりなどする。…そんな乾に対し、以蔵は『乾』という上士個人に対してずっと気にかかっていた事を打ち明けた。
 文久2年秋、江戸ではつみと何があったのかと。
 あの頃からはつみは内面的に大きく変わった。その変化には性的なものも伴い、その前後で乾と頻繁に会っていたのも察知していた。…以蔵にとってはその変化こそが『きっかけ』であり『ただ一つの言い訳』であったのだ。当時、はつみに恋をしていたと気付いたのも、はつみと距離を生じさせる様な酷い事をしてしまったのも…
只有赤心明
8月、容堂、後藤象二郎と寺村左膳に大政奉還案建白書の作成と提出時期の調整を指示。出兵については『暫時御見合』とした。直ちに抗議に入る乾であったが、容堂からはアメリカ留学の内示が出され、軍備用兼帯致道館掛を解職されるとの命が下される。
詳細 仕置役(参政)としての職は継続しているものの、これまで画期的に行ってきた軍備改革を継続・維持させる事ができない。そんな矢先、今度は江戸で乾からその義侠心を見込まれていた土佐刀鍛冶の東行秀が、乾の藩政に背く倒幕行動を京の寺村らに対して暴露した。直ちに寺村が動き、息のかかった者が土佐へ送られると同時に土佐勤王党員・島村寿太郎(武市の叔父にあたる)らの耳にも入る。島村は乾に対し脱藩をすすめるが、乾は『既に消化済みの事案』『容堂公から直々に沙汰を待てと言われている』だとして堂々としていた。寺村らはこの件が容堂公『公認』である事に驚きを隠せず、以後は
世界へ咲き誇る桜
9月下旬、海援隊がライフル3000丁を伴って土佐に到着した。坂本龍馬およびはつみらも上陸し、坂本家や武市家などに顔を出していると聞く。殊更驚かされたのは、長崎にてはつみが外交の手腕を発揮し、再びの事件勃発を阻止しただけでなくイカルス号事件をも解決に導いた事についてであった。
ある日、乾のもとへ坂本龍馬が現れる。
詳細 容堂はじめ藩論が『武力を伴わない大政奉還案』となっている為、もはや土佐勤王派の首魁とも言える存在感を発揮している乾は参政という強力な立場にありながらも、時世に際する方針を定める様な藩政からは遠ざけられている節があった。彼らとの直接的な面会をするきっかけもなく日々の仕事をして過ごしていたが、長崎にてほぼはつみと行動を共にした佐々木三四郎からの報せにより、彼女が主体となってイカルス号事件を解決、英国との外交問題を極めて友好的にまとめたと知る。
江戸留守居役の頃にはつみと横濱へ行き、時務を識る者は俊傑に在りと感じたが…言葉通りに才を開花させたはつみに誇らしささえ感じた。
そんなある日、坂本龍馬が一人で乾のもとへとやってきた。後藤とはつみの事で、相談があると言う。聞けば、今回のイカルス号事件解決の最終合意の為に再び長崎で会合があるのだが、英国公使館側が、卓越した英会話力とぐろーばる思想に富み、事件解決の一翼を担ったはつみの同席を望んでいると後藤に提示したのだが、はつみはこれを頑なに辞退しているのだとの事だった。
武市や土佐勤王党弾圧の一件以来、はつみは後藤を信用しきれずにいるという。いや、正確には信頼云々ではなく、武市に与えられた罪状にまったくもって納得がいかず、その怒りが遺恨という形で後藤に向いている様なのだと。海援隊や土佐商会の仕事に差支えはなくイカルス号事件にも積極的に協力してくれたが、後藤とは関わろうとしない。小松に仲介を申し出てグラバー商会で海外貿易などを独自に学び出したのも、もしかしたらそういった感情が少なからずあったからなのかも知れない、と。
―土佐勤王党を弾圧・処刑する為に、土佐藩が…つまり容堂があらゆる強引さと執着を以て挑んできたのは、武市が処刑された直後に異例中の異例とも言える論功行賞などというものが大々的に行われた事からも明白である。更にはその前後において、吉田東洋の義理甥であり吉田を亡き父に代わる育ての親ともする後藤が特に嫌疑などもなく大目付の職を解任されたり再任されたりとしていたのも、東洋暗殺の件に詮議が絡み何かしらの考慮が後藤に成されていた事は間違いないと、乾も考える。
龍馬は海援隊や土佐との間に過去の遺恨を持ち込む気はないとし、後藤と同じく上士であり武市投獄時に大目付役も請け負っていた乾がはつみを説得できる様な詳しい事情を開示できるのなら、そうして欲しい。そうする事が、はつみを真の意味で解放してやれるのだとも言った。
龍馬の意を汲んだ乾はこれを引き受ける。―が、『どうなっても知らぬぞ』と一言を付け加えた。…龍馬のはつみに対する感情は『保護者』のそれを気負っている様に見せかけているが、そうではない事を見抜いたからだ。かといって龍馬は知ってか知らぬかはさておき自分にも長年積もり積もった想いというものがあると明確に宣言する。…龍馬の方も、いろは丸の一見以来いよいよ『保護者』ではいられなくなる瞬間に何度も見え、今回も隠し切れなかったが故に看破された事を苦笑がちに白状した。それでも、はつみの心が軽やかになり、世界へ咲き誇る日本の桜となれるのなら…と、乾に託した。
取引という名の私情R18
坂本家に入っていたはつみをいつぞやの様に直接迎えに行った乾は、また、いつかの料亭へと連れていく。はつみの腰元には、武市の未亡人・富から授かった武市の忘れ形見である短刀が差し込まれていた。
詳細 乾はまず、前回はつみが土佐湾に入った際に受け取った文の通りに以蔵へ声をかけた事を伝える。彼が『活人剣』を胸に、苦難を味わいながらも今輝きを放たんとする男へと変われたのははつみの影響が多大にある事。その事を何よりも以蔵本人と、その以蔵を武市と共に見守ってきた富が認めている事を述べた。短刀に手を添えて噛みしめる様に聞いていたはつみは、目じりを赤くして乾にも謝辞をのべる。そんなはつみに対し、乾は「今こそおんしの番なのではないか」と切り口を返す。一体何の事かと向けられる視線に耐え切れず、柄にもなく一瞬視線を落とした乾であったが「今となって以蔵は一閃光るもんをその心身に宿し、見違えたようじゃと皆が言いよる。…次はおんしが、その輝きを取り戻す番であろう」と述べ、「俺は土佐勤王の徒として覚悟を決めちゅう。武市殿の宿願と以蔵の事も自分が引き受けちゃるき、おんしは私怨を越えてやるべきことを成せ」と、飾り気のない愚直な言葉と共に、再び真っすぐな視線を以て告げる。
「藩は確かに愚かな事をした。俺などはほぼ影響もない程に微力であった。…だがおんしは違う。今、その気になれば土佐を動かす事もできよう。それだけの力量がある、その責任がある。」と。
…乾からの言葉は厳しくも現実を見据え、それでいて優しく背を押すかの様だった。彼自身が、その思想を貫くが為に長く疎外される日々をただただ耐え忍んできた事も知っているからこそ、その厳しい言葉には激励の意を明確に感じ取る事ができた。
加えて、もっとも土佐勤王の徒に相応しいとする者から『武市らの意思を引き継ぐ』と力強く言われた心ははつみの自覚なくも安堵し、その頑なであった最奥の扉を開く。武市と以蔵が辿った獄中闘争の険しさを想い、短刀を握りしめるはつみ。その向こうには、虎太郎、長次郎、内蔵太、東洋…そしてなにより、今目の前で土佐勤王の全てをその双肩に担い盟主となろうとする乾が、人知れず抱いているであろう想いを抱いても尚、毅然とあらんとする姿に、涙がぽろぽろと溢れてくる。
…彼が説得に来た理由も何となく察していた。龍馬か誰かがきっと、自分が後藤や容堂に対して抱く確執をほどき、真の意味で土佐との友好を続けられる様にと…英国との懸け橋になれとしているのだという事を。
「…後藤さんに会うよ…。宜しくお願いします…」
 そう言って俯くはつみに乾はこらえきれず、差し伸ばして一旦戻しかけた手を再び伸ばし、体を抱き寄せた。
今あるのは『互いに己が成すべき事』だけ。もはや『取引』は存在しない。しかし『取引』なんていう口実が無ければ心のままに抱き寄せる事もできなくなってしまっていた。二人の間で初めて『取引』が行われた時から、こんな歪な関係になってしまう事は分かりきっていたはずなのに…
和解
龍馬、そして乾の説得を受け、土佐容堂公に拝謁するはつみ。その場には後藤、佐々木、そして乾も同席した。イカルス号事件解決の最終同意会議に際し、英国側が望む通り御雇外国御用掛兼通詞として一時的に土佐の正式な役職を受ける事となる。容堂公には2度目の目見えであった。
実力主義・土佐正宗
9月下旬、はつみ達が再び長崎へ舞い戻る頃、乾は歩兵大隊司令に任ぜられ、再び軍改革及び調練に携わっていた。
詳細 藩論は変わらず『武力行使を伴わない大政奉還』であったが、乾が発注し中岡や龍馬らの斡旋により持ち込まれた洋式銃を扱う訓練に最適であるのもやはり江戸で西洋兵術と砲術を学んだ乾しか見当たらなかったのだ。そして、武力倒幕なのか、それとも武力行使なしの倒幕なのか…どっちに転ぶかがまた読み切れないでいる色も伺えた。
乾自身が江戸で学んだ洋式軍略、そして中岡から伝え聞く長州や薩摩の次世代的な軍備をもとに、洋銃を手にした迅衝隊および別撰隊が日々形になってゆく。
10月に入り、はつみが長崎で『外交官』としての手腕を振るっているであろう頃、乾は以蔵を呼び出した。土佐藩政が迷走する中にあっても以蔵は引き続き軍に勤め、孫子書を読み、そして砲術訓練についても精力的に取り組んだ。政治の事は乾や彼が信任している上士一味、そして獄中武市の右腕であり続けた島村寿之助ら土佐勤王党員らに任せる。以蔵は得た給料の殆どは富、そして京の妻子へと送っていた為いつまでたっても貧相極まりない身なり。いまだに大小のうち小一本すらも持ち合わせていない有様であったが、木刀を振り続ける等の自己研鑽は怠らず、軍内での剣技乱取り稽古等や仕合い等においては誰にも負ける事が無かった。以蔵の行動についてはつみから聞いていた乾は清貧の武士たるをゆく以蔵に益々感心し、迅衝隊でもちらほらと着用者が見受けられる様にあった洋装一式と長年愛用していた刀を一振、個人的に与える事にした。その刀は容堂公にして『土佐正宗』とまで言われ『た』名刀であった。…今となっては『裏切りの刀』などと謂れ、特に勤王派からは避けられている様であったが。何故『裏切り』などと言われる様になったかの経緯では乾がその張本人であったし、その様に言われる刀を以蔵に託すその意味も乾の心の中にのみ存在していた。以蔵はそれを聞き、あっけなく理解を示す。
無言ながらも興味深そうに刀を見ている以蔵に「ちょっと抜いてみい」と言う乾の言葉通り、一旦腰に差した後中庭に降りると、居合いの型をとって引き抜いて見せた。一流の剣士に振られる一流の刀のきらめきが何と鋭く美しい事か。
「君に振られたがっちょる様に見えるな」
 本質を見極め、くだらない俗論に惑わされない以蔵の清貧なる精神に、乾は満足を示す。その意が以蔵にも伝わり、幼少期より以蔵の人格形成にまで影響をもたらした『上士嫌い』は、乾の存在を以てほぼ払拭されようとしていた。
10月上旬、山内容堂名義にて老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出
 寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝悌・神山郡廉らが名を連ねる

10月中旬、乾、容堂へ建言をするも『退助また暴論を吐くか』と笑って取り合わなかった。
 乾、大政奉還の手応えを得た小八木政躬や寺村左膳により歩兵大隊司令をはく奪され、再び失脚。


幕府終焉編
慶応3年12月―明治元年11月

●慶応3年…乾30歳・はつみ26歳
 ―土佐―
土佐の運命
『12月』。坂本龍馬および中岡慎太郎が何者かの凶刃に斃れた。
 先10月の上旬に大政奉還の建白提出が成って以降、再々再度失脚させられていた乾の耳にも急報が入る。大政奉還後も薩摩ら雄藩の武力倒幕路線にジリジリとしていた土佐佐幕派・公武合体派であったが、この報を聞いた彼らは大いに喜んだ。一方、またも土佐内にて燻る勤王派は乾の自宅へと槍を以て集まり、沙汰を待つといった事態にまで陥る。以蔵も真っ先に乾の元へ馳せ参じた。

●慶応4年/明治元年…乾31歳・はつみ27歳

 ―土佐―
土佐迅衝隊、進発
1月6日。京にて西郷から『薩土密約に基く挙兵を以て四国を制圧せよ』との命を受けた谷干城が、急ぎに急ぎ土佐へ帰藩。土佐勤王派の盟主として乾が参政へ返り咲き、容堂のいない土佐から進発する事を大決断。土佐正規軍・迅衝隊を編成。追って錦の御旗も到着し、いまだ京における容堂ら佐幕派の動向は未知数でありながらも『官軍』として進軍する。

進発時、この四国統一がなった後には単身で(以蔵ら少数精鋭と共に)京・容堂の元へと馳せ参じる事を心に誓う。一藩勤王、一君万民とする大義のもと、身分や進退などは一切顧みない事の表れとして髪束を切り落とした。

※乾のビジュアル(髪型)が『後期』に変わる※
詳細  1月1日に神戸開港大阪開市を控えた京阪では、それとは別に幕府と薩摩ら倒幕勢力の睨み合いが続いていた。確かに兵が集まりつつあったが『本当に戦が起こるのか…?』と疑心暗鬼で妙な緊迫感が続く中で、3日、遂に鳥羽伏見にて幕府軍との戦が勃発。驚くべき報が土佐に舞い込み藩庁が大いに取り乱す中、谷が挙兵の命を以て土佐へと飛び込んできたのであった。

 佐幕派らは薩摩の挙兵と共に土佐が朝敵となりうる事態に怯んでおり、板垣の盟友にして旧友である谷、片岡健吉、上士格でありながらかつて武市の右腕として奔走し一時期は士分剥奪もの処分を受けた小南五郎右衛門など勤王派によって乾の失脚が解かれる。乾、薩土密約に基き雄藩と共に勤王の志のもと挙兵する事を一方的に宣言。ただちに深尾成質を総督、乾退助を大隊司令とした迅衝隊を編成し、総督府からの命令である『四国統一』へと向け進発した。また、板垣が編成した迅衝隊は略奪や戦後犯罪を犯さない規律正しい正義の軍、官軍の名に恥じぬ部隊として名を馳せる事となる。

『いやしくも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ』

 戦地における略奪、放火、婦女子に対する乱暴行為を堅く禁じ、違反者は軍法会議に掛ける。
 有罪の場合は即刻処刑が断行されると告知。
 兼ねてより軍事改革を行っていた乾により、迅衝隊は近代的軍隊としての画期的な組織となっていた。

  ・給料制。毎月俸給を現金で支給。
  ・病気欠勤が認められており、従軍医師の診断書と隊長の印を受け「欠勤願」を提出することが出来た。
  ・隊内に「野戦病院」があり、従軍医師団が同行していた。
  ・洋式の軍服は京都出発前に個人が注文して作った。
   ※だいたい全体の洋式服が揃ったのは江戸を出る頃だったらしい。
  ・隊内に「砲銃局」があり、スペンサー七連銃を販売していた。
  ・小隊を左半隊・右半隊に分け、半小隊で行動することができた。
  ・隊内に「軍事郵便」といえる飛脚便があった。
実際、四国統一直後の高松城においてにわかに軍規を犯した者が3人程捕らえられ、彼らは容赦なく断罪された。このように厳しい規律があったにも関わらず、上士下士に隔たりなく課された平等な規律や気高い志と報酬も整っていた迅衝隊兵士の士気は、非常に高かった。
 しかしこの進発は土佐本土に座する藩主の認知の下行われたものではあるが、京に座する土佐の最高指導者である容堂と根強い佐幕派、公武合体派がこの挙兵を良しとしていない事は明白だ。これが成らねば真の『一藩勤王』『上下一体』とは成らない。倒幕挙兵に至った今となっては、最悪の場合彼ら全員を拘束する必要も出てくる可能性も否定できない。
土佐迅衝隊、四国統一。及び乾嫡男誕生等、詳細
詳細 13日、土佐迅衝隊600人、土佐を出陣。北山越え(参勤交代ルート)からの進軍。
 勅命くる。「高松、川之江、松山を鎮撫せよ」四国(自国以外)を東から西まですべて鎮撫せよとの事。高松(東)、川之江(中央)、松山(西)という地理的状況の中、まず各地へ兵を分けるのは愚策、であればとどこか一方を責めている間にどこかから背後を狙われる挟撃に遭う可能性あり。手間取って上洛に時間がかかる事があってもならない。その様な状況の中で乾の軍略は冴え渡っていた。
 乾、谷干城を伝令として土佐城下へ飛ばし、第二軍を設けて西・松山鎮撫を指示。自らは第二軍の援軍を根拠に、現在地から最も近い中央・川之江へと向かった。川之江は幕領であったが兵も少なく、さしたる抵抗もなく鎮撫に成功する。
19日、乾ら迅衝隊本隊、鳥坂峠を越えて東・讃岐国は高松藩(丸亀藩)丸亀城下へ入る。土佐軍が讃岐へ侵攻したのは長宗我部以来300年ぶりの快挙であった。
 京より錦の御旗を伝奏した大目付・本山茂任、樋口真吉ら、勅令と共に到着。
 丸亀藩、即刻恭順。支藩の多度津藩と共に、乾ら迅衝隊の旗下へ入った。かつて久坂玄瑞らと通じた為に幽閉していた土肥実光を即刻釈放し、参謀へと据える。まったく同じ状況で今現在の立場にあった乾は土肥実光を信じた。
 高松藩士・長谷川惣右衛門が本陣乾の元を訪れ、朝廷への謝罪歎願の取成しを求める。高松藩、恭順を決め、乾ら官軍迅衝隊を受け入れる準備を始める。藩主・松平頼聡は城を去り、浄願寺で謹慎に入る。
20日、乾本隊、錦の御旗を先頭に、丸亀、多度津藩兵を先鋒道案内させながら進軍。乾のこの進軍は『もはや高松は逆賊の孤軍となる』といった心理的効果が抜群であった。
 丸亀街道は予め高松藩によって急遽清掃され、各所に接待所が設けられ、草鞋まで準備して迎えの準備が成り門前には『降参』と書いた白旗を掲げ、家老が裃を着て平伏土下座にて出迎える。乾は城門前に「当分、土佐領御預地」と高札を立て、真行寺に本陣を敷いた。かつて逃亡中の高杉晋作を匿った罪状で牢獄にいた日柳燕石、出獄解放。

21日、乾、丸亀、多度津藩兵を帰藩させ、自身は在京の容堂や上士らを説得する為、軍を率いず丸亀を発つ。船に乗り上洛を目指すが、乾を阻止せんとする保守派・佐幕派の動きが四国内外で見受けられる。独断挙兵、軍の私物化など言語道断として切腹させる勢いの者もいた様だ。これらに遭遇しない様巧みにかわしながら上洛を果たし、容堂以下上士らの説得に成功する。

27日、松山藩、松山討伐の勅令以来、先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立し混乱を極めたが、最終的には官軍・土佐軍に対し戦わずして恭順を示した。

2月3日、
 迅衝隊北川宅之助配下の足軽・大久保虎太郎、楠永鉄太郎、岡上先之進、国沢守衛の4名、松下城下の呉服店にて『略奪行為』に値する強引な値切り、脅しを行う。
??日、呉服屋を脅した4名、迅衝隊軍議にかけられ隊規違反と認定。斬首される。以後迅衝隊は会津まで駆け抜けるが『正義』を履き違える事無く正々堂々と戦い抜き、『最も規律正しい軍隊』と言われる事になる。
『いやしくも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ』
 ―京―
大志:土佐勤王、成る
1月下旬日。圧倒的な進軍を見せ直ちに四国を統一した乾は、容堂の了承を得る為に自らが単身京へと乗り込む。真に『土佐一藩勤王』と成すためには藩主および容堂の承認が必要となる。
詳細土佐の敵対派閥は錦の御旗に慄き、藩主の了承も得た。しかし在京の佐幕派・公武合体派達は『乾が軍を私物化し独断で進発した』などとのたまい、これを逃れようのない重罪とし切腹を申し付けんとしており、容堂への謁見も断固拒絶・阻止の姿勢を見せている。乾ら勤王派にとっても、そして彼ら佐幕・公武合体派にとっても容堂こそが最後にして最大の砦という訳であり、残念ながらそこには藩主の言動による影響は見込まれていない様に思われる。武市の時の様な再びの内部決裂に陥ろうとしていた。京への道中張り巡らされているであろう包囲網に捕まり、一方的に罪状を申し付けられればその時点で容堂への謁見はできなくなる。あるいは兵を率いたまま脱藩となるか…。乾は以蔵ら小精鋭の護衛らと共に、神速の如く京へと向かった。
新たな時代へ
乾は薩摩西郷に並ぶ御親征東山道先鋒総督軍参謀へ就任し、更に土佐軍大隊司令兼総督も兼任する身となった。土佐迅衝隊および他藩の正規軍を伴い、2月14日を以て東山道方面へ出陣したという。
戦禍を逃れる為、小松庇護のもと大阪薩摩藩邸に移動していたはつみのもとに、小笠原唯八が一通の書簡を持って現れる。
詳細 乾や佐々木三四郎と勤王の誓いを立てた一人であったが、彼は中岡の陸援隊に所属していた為、陸援隊が拝命した帝及び都の警護を担う御親兵として留まっていたのだ。許されるなら乾とともに行きたかった…と一言漏らした後、気丈に視線を上げ乾から預かった書簡を確かに届けて去っていった。  はつみは小松の庇護を受けているといっても決して自由の身分ではなかった。屋敷の中ではある程度の行動は許されたものの外出は許されず、来客やこういった手紙のやり取りも必ず監視の目が入った。もっと言えば、龍馬が亡くなったという報告は受けたがこういった幽閉状態であったため、葬儀というものには参列する事ができなかった。…彼らとは違う目的を以て行動していた為少なからず警戒されている、薩摩ら討幕派らにとって今はどんな不穏分子も押さえておきたいところだろうと考えれば今の状況にも納得できたが、龍馬亡き今何かを起こす気力などあるはずもない。今もまた「すまん。念のため、確認させていただく」と言いながら乾からの書簡を確認する小松に、無気力ゆえのわずらわしさすら禁じ得ずにいた。
その小松が文を持つ手をおろした時、妙な表情をしていた事に意識が引き寄せられる。一体何が書かれていたのかと紙面を受け取ると、そこには崩し文字で勢いよく書かれた文字が並んでいた。あの様な大役を担った人物なのであり出陣前という事もあって忙しかったのだろうか、くずし字であった事もありはつみには読む事ができなかった。そのため、小松も立ち合う中で寅之進が『翻訳』し読み上げてくれたのだが……その内容は簡潔に言えば『志を遂げた後もまだこの命があったのなら、君を迎えに行く』とする…いわゆる『ラブレター』であった。 。

 ※以下、戊辰戦争略式。板垣・土佐関連を抜粋※

甲州勝沼の戦い・略式
3月6日、『甲州勝沼の戦い』
 板垣迅衝隊及び各藩支隊、元新選組近藤ら甲州鎮撫隊を戦闘開始およそ2時間で潰走させる。
3月14日、江戸総攻撃中止
Problem occurred.
江戸総攻撃中止が成ったと勝からの報告を受け、サトウと共に横濱領事館(公使館)へと戻って来たはつみ。江戸総攻撃中止に至る経緯を公使パークスへ報告した後、別件としてパークスが一通の書簡を取り出した。『差出人の乾という人物について調べさせてもらったのだが、官軍総督軍の板垣参謀と同一人物の様だ。心当たりはあるかね?』と、あからさまに不穏な雰囲気で尋ねられ緊張するはつみ。
詳細 乾=板垣である事には驚かないが、パークスはその短気な性格と日本人の『(幕府)役人』に対するあまり宜しくない印象により『新政府からの依頼ではつみを預かる立場として、その書簡の中身を確認する義務がある』などと言い出し、要は『板垣は『偽名』を使ってまで私信をよこしてきた』『はつみはスパイではないか』と疑っているという事だった。はつみはこの展開に、つい先月あたりのデジャヴか何かという程なんとも言えない予感を覚えたが、抗う術もなく。案の定手紙はパークスの命令によりサトウの手によって暴かれる事となってしまった。
…ごくごく短い手紙であったが、その意味は明白であった。例によって内容は『ラブレター』の様なもので、また、戦略上の事もあって名を板垣に改めた為認識しておいてほしいとの内容も明確に記されている。差出人を『乾』としたのは、はつみが差出人を認識しやすくする為だけの事であった事も明白だ。
 佐藤が手紙を訳し終わった後、はつみはなんとも言えぬ顔で俯き、サトウとパークスは言葉を無くし微妙な空気が漂ってしまう。三者ともに微動だにせぬ中、パークスはキョロキョロと眼球を動かしアイコンタクトのみで互い意思疎通を試みようとしていた。当然ながらパークス独特のスパイ容疑はきれいさっぱり取り払われ、『…女性のプライベートへ安易に踏み込むという無粋極まりない失態を許してほしい』…とまで言わしめる事態となる。…前回の小松の時といい手紙の差出人本人は露知らぬ事であり、はつみは気恥ずかしさ気まずさもあったが乾に申し訳ないとすら思うのであった。
3月25日、『次男』乾正士 生まれる。母は妾:薬子
5月15日、『板垣鉾太郎 生まれる(1868年7月4日)母は正妻:鈴
※妾と正妻から相次いで男児が生まれた事、戦時中板垣姓を立てた事等により少々ややこしくなっている。正妻の子であり板垣家嫡男とする鉾太郎を『長男』とし、次男と長男の立場を入れ替えたか}
会津へ至る戦い・略式
詳細
世直し一揆
4月1日、宇都宮から農民一揆による打ち壊しに際し通報が入る。
 新政府軍が宇都宮へ兵を派遣した先、新選組らが潜伏しているところに遭遇。
 新政府軍、宇都宮城に入るも旧幕府軍による集中攻撃を受ける事となる。
 『第1次宇都宮城攻城戦』
4月19日、新政府軍、宇都宮城を一旦離脱。
4月20日、大鳥ら旧幕府軍が宇都宮城に入る。
4月22日、壬生安塚の戦い。旧幕府軍の勢い強く、苛烈な戦い。
 土方ら新選組や永倉ら靖兵隊も参戦
『第2次宇都宮城攻城戦』
4月23日、苛烈を極める戦の末、新政府軍が宇都宮城を奪還。
 新選組副長・土方歳三が負傷の為戦線離脱。
 援軍の為進軍していた板垣ら土佐迅衝隊本隊は参戦に至らず、兵力温存のまま壬生城に入る。
4月25日、板垣、日光東照宮が戦禍に巻き込まれる事を回避する為、現地の住職を説得。
 日光山での決戦を望んでいた大鳥ら旧幕府軍であったが会津方面へと移動した。
4月29日、板垣土佐迅衝隊が今市に入る。日光守備の彦根藩と交代および協力体制を取り、
 大鳥以下旧幕府軍の布陣に警戒しながら軍備を増強していく。
閏4月1日、高徳の戦い
 哨戒中の土佐藩1小隊、今市へ向け進軍してきた旧幕府軍靖兵隊ら60名と戦闘。50名の死傷者を出し退却する靖兵隊を深追いし、鬼怒川を渡ってまで追撃してしまう。高徳にて追い詰めるが永倉ら残兵10名程の猛攻を受ける。必要以上の深追いに出た1小隊を援護する為派遣された別動隊の内、以蔵率いる遊歩兵隊が一早く駆け付け土佐兵らの撤退に至る。
以蔵VS永倉
閏4月18日、大桑での前哨戦
 この日敵軍100人程の出撃を受け土佐藩諸隊および急報を受けた彦根藩小隊が緊急出撃する。
 大桑にて旧幕府軍を撃退し、大いに士気上昇する。
閏4月19日、栗原、柄倉の戦い
閏4月21日、『第一次今市の戦い』
 板垣は壬生に出張中。片岡源馬、谷干城、祖父江可成が共同で指揮を行った。大鳥軍と会津軍の連携が取れていなかった為旧幕府軍の当初の策及び一斉攻撃は成らなかったが、損害状況はほぼ同程度でこの日の戦闘は終わった。
 以後、板垣は防戦迎撃戦に向けて今市の陣を臨時の要塞へと展開させていく。しかし新政府軍は宇都宮警備に兵を割き、土佐本隊のうち二隊は負傷者等を江戸へ護送する必要があったなど、哨戒中に発生する小戦闘等の損害も含め人員的に苦境を強いられつつあった。
5月6日、『第二次今市の戦い』
 今市に残る土佐兵は驚くべきことに以蔵小隊を含む4小隊と砲一門のみであったが、板垣はすでに増援の手はずを整えており計画的投入のため各方面へ指示を飛ばしていた。旧幕府軍を迎撃し持久戦を展開する4小隊に対し、板垣は鼓舞して戦況にあたる。土佐兵はすさまじい銃撃戦で敵兵の接近および侵入を防いでいた。  しかし朝6時に到着を予定していた援軍は遅れており正午になってもその気配はなく、板垣は作戦変更し攻戦へと打って出る。山地を迂回し敵兵の左背面から奇襲をかけ、そこから各地小隊と連携して選曲を切り拓くというものだが、これに以蔵の隊が抜擢される。
 奇襲は見事成功し、しかも敵増援はなく予備部隊さえもいない状況。大鳥軍は途端に防戦となり局面は大きく変わってゆく。更にダメ押しで遅れていた土佐軍及び新政府援軍が続々と到着。大鳥軍本営がある森友へ進撃する。この本営にも予備兵などは配備されておらず、大鳥らは文字通り命からがら散り散りになって潰走。会津と撤退連携も取れない程の敗戦となった。

会津戦争・略式
詳細 閏4月20日、会津兵と新選組(土方離脱中のため斎藤指揮)が白河城を侵攻する。
閏4月25日、『白河口の戦い』
 新政府軍、白河城攻略。白河城に入る。
 以降およそ3か月に渡り白河城7度の防衛戦(新選組含)
 (板垣支隊は6月上旬に白河城へ入る)
6月24日、板垣、棚倉城攻略。板垣、各藩兵混合の800を率いて進軍。
7月13日、磐城の戦い。新政府軍が平城を攻略
7月16日、『二本松の戦い』
 浅川の戦い、板垣、棚倉城から援軍を出す
7月26日、板垣ら三春藩の恭順を受け入れ、三春城に入る
7月27日、板垣ら新政府軍本隊が二本松本宮へ向かう際中、
 薩摩3隊と、以蔵が所属する土佐2小隊『独断』の『糠沢夜間奇襲戦』が勃発。
7月29日、本宮から二手に分かれて進軍する新政府軍。
 これまで板垣が主導として行ってきた戦術と違い、今回は勢いに任せ、
 慎重性と合理性に欠ける戦略。積極戦を好む薩摩主導の戦略であった。
 先日の突然の糠沢夜襲との絡みと、板垣が内々に以蔵から聞いた奇襲当時の様子。
 二本松・尼子平の戦い。進発する板垣支隊が迎撃に遭う。
 大壇口の戦い。尼子平を切り抜け二本松城に差し掛かる直前、砲撃に遭う。
 以蔵、突撃した大壇口陣にて二本松少年隊と遭遇する。
 以蔵、突撃した二本松城下で取り残された老兵や少年兵と遭遇する。
 二人を捕虜として保護する。
8月20日、『母成峠の戦い』
 濃霧戦。旧幕府軍は母成峠の要所三点に台場を設け、更に天然要塞である勝岩付近にも布陣。新政府軍土佐迅衝隊は勝岩に進撃し、そこで大鳥配下の伝習第一大隊、新選組と激突。
 (以蔵VS斎藤)
8月22日、戸ノ口原の戦い。会津軍、白虎隊を投入。新政府軍、猪苗代を突破。
 十六橋を制す。
 西郷頼母の婦女一族、集団自決の様子が発見される。
 他、市中内においても200名以上もの婦女が自決。
8月23日、『会津攻防戦』
 新政府軍、江戸街道と進撃し会津城下へ突入。
 土佐迅衝隊、北出丸へ向かうが山本八重ら鉄砲隊の抵抗に遭い、死傷者を出す。
 板垣の盟友にして、官職を辞して馳せ参じていた小笠原唯八、(大総督府諸道軍監 土佐藩・牧野群馬)若松城内から狙撃され負傷。25日戦死。
 (その距離700m以上。旧式武器が殆どであった)
 会津内においてその距離を狙撃できる銃を持っていたのは、女ながらに銃隊を率い自らも自前のスペンサー銃を操っていた山本八重のみであったと言われている。)
 小笠原唯八の弟・迅衝隊小笠原三番隊隊長・小笠原茂連、銃隊の弾に被弾し戦死。
 戸ノ口原の戦いから飯盛山へ退却していた白虎隊士中二番隊、城下の戦況を見ながら今後の方針を激論の末、一斉自決。
8月25日、涙橋の戦い。婦女隊参戦。
 会津新選組斎藤一、城外において粘り強くゲリラ戦を展開
8月25日、小笠原唯八、会津鉄砲隊により討死
 (江戸にて新政府に出仕し北町奉行を務めていたが、辞職し板垣を追いかけ迅衝隊に参加していた)
10月 4日、朝廷より凱旋の令を拝し、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊は凱旋の途につく
10月24日、土佐藩迅衝隊大軍監・谷干城、東京へ凱旋
10月29日、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助、東京へ凱旋
10月30日、迅衝隊士530名が土佐に凱旋(第一陣)
11月、板垣、江戸城にて明治天皇に拝謁
11月 5日、板垣、谷ら本営以下442名が土佐に凱旋(第二陣)

 ―東京―
英雄の凱旋
10月30日、板垣視点。
 およそ10か月に及ぶ厳しい遠征から、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊の面々が行列を成し日々帰還を果たす。そんな中、名実ともに新政府軍の英雄となった板垣退助も29日に江戸改め東京へと凱旋した。横濱公使館(領事館)でサトウのサポートをしながらも翻訳・通訳などといった事務仕事をしていたはつみも、板垣および以蔵、土佐藩の凱旋を耳にするが…。
詳細 東京へ凱旋してから土佐へ帰藩するまでの期間は極めて最小限に留めようとするのが板垣の方針であった。10か月もの長い間、兵達には最小限の食事と硬く時に雨ざらしの寝床、戦時中独特の精神が荒む戦も多々強いた為、彼らの為にも一刻も早く故郷へ経つ必要があった。とはいえ板垣はこの会津戦争強いては戊辰戦争を新政府軍の『完全勝利』へ導いたとされる英雄であり、その彼だからこそ発言力の及ぶ『真の一君万民』としての戦後処理の問題など、早速為さねばならない案件も山積みであった。東京に滞在する短期の間、自身の疲れを癒す暇もなく次から次へと面会や予定が舞い込む中で、『軍を預かる身として戦時中は割り切るべきだ』と己を律し頭の隅に追いやっていたはつみの事がチラつき始める。
抑えきれず、横濱英国領事館へと手紙を出す。短い文であったが11月上旬の帰藩前に会いたいと率直に書かれていた。…しかしその頃丁度、北方の函館が旧幕府軍に占拠されたとの方が公使館宛てに舞い込んでおり、大混乱に陥っている当地の西洋人らを保護し、実際の状況を見極める為に第一書記官であるフランシス・オッティウェル・アダムスらが派遣されようとするなどこちらも非常に慌ただしい真っ最中であった。彼の通訳としてミットフォードが付いたが、現地にて外国人を保護する為の補佐通訳官としてはつみも同行する事となる。(一般人との接触も多く見込まれ、また混乱下にある事も想定された為、即戦力となりうる技量の高い通訳官が必須とされた為)あまりに急ぐ案件であった為、はつみは板垣の手紙に対し会う事ができないとする返信を慌てて記し、これをサトウに託した。


未来へ
明治元年11月―明治2年2月

●明治元年…乾31歳・はつみ27歳
 ―土佐―
二人の距離
12月。英国留学を決意したはつみが大阪・京・土佐を訪問していた。土佐にて髪を切った板垣と初めて対面する。もはや誰もが板垣を英雄とあがめていたが、本人はまったく変わらず、今は一君万民に則った治政が行われる為の骨組みを思案しているという。板垣の思想に対し、はつみは心から賛同し感動し、尊敬の意を示した。…そんなはつみに対し、板垣は二人の関係について訪ねる。
はつみ、月経が再開する。

●明治2年…乾32歳・はつみ28歳

 ―横濱―
同床異夢R18
1月中旬。14日の京にて版籍奉還についての会合を控えて土佐湾を出航していた板垣は、その前に横濱まで足を延ばした。
これが三度目の正直。最後の『取引』とする為に。
『…ごめんね、乾…』
 あの日、はつみがそう言った意味をようやく理解するに至った。
詳細と簡易SSR18  ある日の昼過ぎ、横濱英国公使館(領事館)へはつみを訪ねてやってきたのは、かの会津戦争を経て先月土佐へ凱旋した土佐の英雄・板垣退助の同志・真辺正精であった。元々は小姓役として山内容堂に仕えていたが、文久元年に乾が江戸留守居役となった頃から何かと行動を共にしている、若く見眼麗しい武士である。

 真辺が『かの板垣退助』の使いとして横濱領事館へやってきた時、通訳官であるサトウはアレクサンダーへの引継ぎの為江戸に出ていた。その為一番初めに真辺に対応した通訳官は『他人の恋愛事』に対して妙に敏感なミットフォードであった。ミットフォードを介してはつみが呼び立てられるが、三者面談の形となる。はつみは殆ど気にはしていないが彼女がこの英国領事館に在籍しているのは半分『人質』の様なものでもあり、パークス公使も今となってははつみを受け入れてはいるものの完全に野放しとしている訳ではない。ミットフォード立ち合いのもと真辺が板垣の待つホテルをはつみに告げ去っていったあとで、何か含みのある視線で目くばせをする。
「君のプライベートに踏み込みたい訳ではないのだけれど…『あの』板垣と会うなら、念のためサー・パークスに報告しておいた方がいいかもね?」
「そうですよね…じゃあ、」
 ミットフォードと共にパークスの執務室へと向かい、板垣と会う事を報告する。彼との事にあたっては過去に2度程『スパイ書簡と疑われて実はラブレターだった』という流れで私的な手紙が晒された事もあり、パークスも妙に疑う事なく理解を示した。以前の様に『勘ぐり』が行き過ぎて、政務に全く関係のない女性のプライベートへ必要以上に介入するという紳士らしからぬ醜態を犯さなぬ様振舞っているようにも見えたが。

 夕方、勤務を終えて外へ出ると、真辺が出迎えてくれた。
「え?!もしかしてずっと待っててくれたの?」
「ご迷惑でしたら、相済みませぬ。」
 武士らしく背筋を正しかっちりとした礼をとる真辺であったが、耳や鼻の頭などがだいぶ赤くなっているのを見るとどうやら外で待っていたらしい。
「全然、迷惑なんかじゃないけど…寒かっただろうなって思って…」
「…板垣様の事を想うと、何としても桜川殿をお連れ致したく…」
 寒空の下、海風も冷たい港町で長い間待っていてくれたのは、一重に主を想う武士精神故にであった。真辺と共に横濱の来賓向けホテルに向かいながら『もしや板垣に何かあったのか』と尋ねるが、板垣と直接話すようにと諭される。切羽詰まっていない様子からして体調が悪いだのという事ではなさそうな気もしたが、それ以上に…何となく思い当たる節もあった。
 この、料亭や宿に呼び出される状況…。
 いつぞやの状況と似ていると思いつつ、板垣の待つ場所へと向かう。

 豪華なエントランスに入ると真辺が手続きを取り、板垣が宿泊する部屋の番号を伝えてきた。
「私は控えておりまする。何かありましたらば、このろびぃにて。」
 彼が同席しないという事は、やはり板垣と二人になるべくしてなる様な呼び出し目的だという事を察する。男が用意した部屋の鍵を受け取るという少し現代めいた生々しいやり取りに妙な緊張を覚えつつ、ホテルの最上階である三階の部屋を目指した。

 長い階段を登るのももう慣れたものである。3階まで登り該当のドアに対しコンコンと呼び音を立てると、思ったよりも率直な様子で板垣が現れた。
「おう」
「あっ、乾!…久しぶり!」
 といっても先月少し会ったばかりなのだが、先ほどの察し故に妙に心構えをしてしまって思わず口をついて出てしまった。昨今、はつみも含め皆がこぞって洋装をとりいれようとする中、彼はこの横濱に来ても尚、毅然と和装姿で背を正していた。
「…まあ、入れ。」
「は、はい!お邪魔しま~す…」
 はつみが何を察しているのか妙に緊張した様子なのを『やれやれ』と言わんばかりに迎え入れる板垣であった。

 このホテルは現横濱において最高級の『洋風ホテル』である。はつみが足を踏み入れたのは初めてで、板垣から部屋内に通される合間も、高く大きな窓辺から見渡せる思わずオーシャンビューに『うわぁ~』と声を漏らしながらあちこち見て回り始めてしまっていた。
「このほてるいうがに来るんは初めてかえ」
「うん!通訳の仕事でロビースペースには来たことあるんだけど、お部屋に入るのは初めて!」
 あちこちの『ドア』を手慣れた様子で開けては楽しそうに内見を続けるはつみを見ながら、部屋の中央に置かれた大き目のソファへ腰かける板垣。
「ほいたら、好きなだけ見たらええ」
 『普通』であれば、土佐参政である上に此度の戊辰戦争において官軍勝利の立役者という極めて高い立場にある板垣を気遣うのが常で、この様に待たせるなどあり得ない事だろう。だが板垣は、はつみにとっては安政6年の出会い頭から歯に衣着せぬ実直な物言いで『無茶振り』をしてくる『乾』のままだ。…彼との『割り切った取引』で過去に二度身体を重ねたというのも、はつみが板垣を『ある意味特別』に感じる所以ではあるのかも知れない。そしてそう思うのは、なんだかんだで割り切れずこうしてはつみを呼び出してしまう板垣にとっても同じ。板垣自身も皆が恭しくして距離を取ろうとする中ではつみが変わらずにいてくれる事を、内心喜ばしく感じていた。  あらゆる部屋を内見をしていたはつみであったが、板垣がいるリビングソファの丁度対角線上に見える部屋からなんとも言えぬ顔で出て来たのを目撃して、『ん?』と眉をあげる板垣。間もなくして、彼女が今見た部屋が大きなベッドの置かれた部屋だという事に気が付いて珍しく吹き出してしまった。すぐに取り繕って、はつみをソファに座らせた。
「…気が済んだなら、座れ」
「う、うん!洋風でお洒落なお部屋だったね!」
 見るからに焦った様子で愛想笑いを浮かべつつ戻ってきたはつみは、板垣に勧められるままソファに腰かける。そこから少々の沈黙に流石のはつみも『あれ…?』と緊張感を覚えた直後、板垣は『ただ白黒はっきりさせねばならぬ事がある故に、改めてここに来た』と述べた。余計なお膳立てなどなく単刀直入に用件を話すのは、いかにも板垣らしい。板垣の話に、はつみは素直に耳を傾けた。

「おんしを土佐の外国官として召し抱えゆう準備ができちゅう。それには土佐上士としての正式な身分が保証されちゅうが、おんしにその気があるんであれば俺の正妻として迎えちゃる。如何か。」

「うん…―えっ?!」

 そう遠くない過去には、同じく土佐参政である後藤もサトウやはつみを特別顧問として土佐に雇おうとする動きがあったのは確かだ。だがその話を板垣が持ってくるのは少々意外であったし、特に後半の極めて私的な提案については不意打ちであった…いや、考えないようにしていたといった方が正しいかも知れない。
 視線を落として硬直気味となったはつみに対し、板垣は緊張した様子もなく背もたれに深くもたれて話を続ける。
「その『えっ』いうがは、俺の個人的な召し抱えに対してかえ」
「いや…う、うん…」
「今更驚くような事でもなかろうが」
 板垣の言う通りであって、彼は安政6年に出会った当初からはつみを妻に迎えようとしていた。この事は今までにも数回に渡って直接はつみに伝えられていたが、何かとウマは合うのに立場や距離、タイミング的に相容れぬ二人は心を通じ合わせる事はなく、それを埋め合わせる為の時間もなかった。いつしか業を煮やした板垣の提案とはつみの利益によって『取引』が生じ、『取引として』身体の関係をもったのだが、その事が二人の関係を更に歪で割り切ったものとしたと言ってもいい。更にはつみからすれば「『取引』として身体を重ねた事で乾も満足したのでは」と思うところでもあったのだ。
 割りきった『取引』を受け入れた事も含め、この時代の男達の『性』に対するポジティブネスは、性に対するモラルやハードルがある程度跳ね上がったが故に草食男子なるものが跋扈していた現代に生きていたはつみにとって、つくづく理解を越えるものであった。そしてそれとは別に、古来より政治を牛耳る男達が女性の存在を『そういった取引』に見いだしていたのも、歴史を傍観してきた者としては「この時代ではそういうものなのか…」と『郷に入れば郷に従えの精神』で承知せざるを得ない状況であった。故に、我が身の事でありながらも『根なし草の自分にできる唯一の取引なのだ』と割りきろうとしていたのだ。

 ―だからこそ、板垣がまだはつみを『娶ろう』としている事に驚いた。

「…あの…今更聞くんだけど…私がそれを承諾したとして、奥さんはどうするの…?」

「無論、離縁する」

「それは、ダメだよ…」

 やっぱり…とばかりに俯くはつみであったが、板垣の方はそれこそ「今更」とばかりに動じることなく想いを告げる。

「おんしを妾として迎える気はない。それに俺は今の妻を娶る前にも2度離縁をしておる。それが何故かわかるか?」

 板垣が今の妻を娶ったのは、はつみと出会たその年の終わりの頃であった。その前に二度離縁していたのは初耳であり、当然その理由など知るよしもない。

「『ちがう』と思うたからじゃ。」

「ちがうって何が?」

「俺もまだ若ぅて父上もお元気じゃったき。周囲が決めたおなごでは納得がいかんかった。」

 確かにその真っ直ぐすぎる簡潔な考え方は板垣らしいといえば板垣らしいだろう。特に若い頃の彼は一時期追放処分を受けるほどやんちゃ極まる青年だったらしいとは歴史上の知識として何となく知っていた。加えて今の妻を娶ったのも、『父親の体調が芳しくなく、近い内の家督相続を視野に入れての家を挙げての見合いであった』『だから当時、婚姻を申し込んだはつみの答えを急いでいた』というのは本人から直接聞いた事である。武家の嫡男としての揺るがない道をえらび、本人同士の婚姻ではなく『家としての婚姻を選んだ』のだと。ここで更に、板垣は意外なことを言い始めた。

「国が開き、時代は変わった。当然守るべき我が国の風習もあるけんど、婚姻の概念いうがは諸外国の様にもっと自由に開放されて然るべきもんじゃと思う。」

「そ、そう…だよね。そういう意味では、乾が言ってる事はブレてないなって思うけど…」

「そうじゃ。俺は好いたおなごを嫁にしたい。」

「………」

 淡々と簡潔に話す板垣の視線がまっすぐにはつみを捉えている。はつみはぐっと迫る胸を抑えながらもたまらず視線を反らせてしまうが…彼の想いを知ったからこそ伝えなければと、再び彼を見据えた。

 はつみは乾の支援と言葉に何度も助けられ、支えられた。そこには『取引』があったのだとしても、乾が自分にその価値があると認めてくれたからこそ『取引』に至れたのだと思うし、時代的、政治的背景を鑑みても明らかに乾の負担の方が大きかったと思う。本当に感謝の念に絶えない。しかし…自分は今の英国領事館での仕事と留学、世界へ開けた仕事に遣り甲斐を感じている。そして、板垣には感謝しているが、妻になる事はとてもできそうにない…。
 率直なその想いを、彼に告げた。決して上からの目線で言っている訳ではなく、一句一句慎重に言葉を選びながら、できるだけ丁寧に。

「…わかった」

 板垣は表情を変えることもなく、意外とあっさりとそれらの申し出を受け止めた。だが、

「俺はおんしを諦める。その代わりに一晩床を共にしろ」

 と、驚くほど率直に申し出る。

「えっ?!」

「これが三度目の『取引』じゃ。三度目の正直でもあるな。今回限りでこの馬鹿げた『取引』も、おんしへの未練たらしい心とも区切りをつける。…俺は白黒つけねば合点がゆかぬ性分やき」

「……乾…」

 立ち上がった板垣がはつみの目の前に迫り、ソファに押し付けるように乗り掛かってくる。近付かれると、板垣の昔から変わらぬ上品な香りがふわりとはつみの思考力を奪い、初めての行為の時から性感と結びつけられる様に調教された成果なのか、思わず下半身が疼くのを感じてしまう。当然、そのように仕込んだ本人である板垣もわかっていてこのような行動に出ているのだ。

「ええか、これは『取引』じゃ…今から明日の朝までは俺だけの女であると…素直に応じろ…そうすれば……俺はお前を諦めちゃる」

 硬直するはつみの「無言」を「了」と受け止めた板垣は、ソファの背もたれに押し付けたはつみの上に跨がり細い首筋と顎に手を添えて顔を向けさせた。板垣の前髪がサラリとかかるほど間近に見つめあい、

「…ただ、おんしを諦めるきっかけが欲しいだけじゃ……」

 と本心を囁いて、口付けた。板垣の襟元からほのかに感じる香りに、否応なく心身が反応してしまう。




 行為は「契約の間」、つまり翌日の朝まで、板垣の気が済むまで続けられた。途中混浴、夕食とあり、酒を勧められて酔ったはつみに「正形(まさかた)」と諱呼びを要求し、耳が聞こえにくいからもっとよく声を聞かせろと、直接声が響くほど抱き締めながら、もう何度となく突き崩され自身の愛液でトロトロになりきった蜜壺へと再挿入される。相性の良い体は幾度となく甘美な刺激を与え続けられ、挿入されるだけでビクビクとひきつって板垣を悦ばせた。
「今は…俺の事だけを見ちょれ…」
 正常位のままはつみの奥、子宮口をひたすら単調に責め続け、長く押し潰し、擦りあげ、また責め続け…と、中イキと潮吹きをさせ続ける。板垣もこのような女はやはり他に知らずで尚更興奮がやまず、自身も2度、3度と絶頂を迎え、はつみの腹から胸までをも汗と唾液と精液まみれにしてもまだ収まらなかった。

「ははっ…俺の事が、忘れられんようになるやも…しれんのう…!」
「そうなったれば…いつでも土佐へ来い…そもそも取引なんぞ、はなから必要なかったんじゃ…俺は…おんしが求めるなら……俺はっ…」

 自分でも驚くほど、この13年に及ぶ恋は執念深いものだったらしい。精力的にも体力的にも余裕がなくなり、そして彼女を抱く機会としても『これで最後』なのだと思うと、余計に熱く激しさを増していく…。
 はつみがついに果てを極め気を飛ばしても、板垣は収まらない。うつ伏せに寝るはつみの上から優しく背中を撫で腰を掴むとまた挿入し、彼女の抵抗がないのをいいことに腰の下へ布団を敷き詰める様にして浮かせると指で穴瑠をいじった。潔癖の気がある板垣であったがはつみのそこには愛しさと興味、そして背徳感といった感情のみで嫌気は無く、射精時にはそこへ雁首を押し付け、その中へ向けて出した。場所はどこであれはつみの中に射精する事がたまらず、もう何度目かの射精だというのに長く板垣を昇天させ続ける。…やがて射精を終えると、その分いつもよりも長めに続いた筋肉の緊張が一気にほどけ、深く息を切らしながらはつみの背中へとかぶさる様にして脱力する。眠る彼女の汗ばんだ甘い体を愛おし気に口付けて舐め、そして撫でながら、その隣へと転がり横になった。

 夜中、眠るはつみを見つめながら緩く身体を愛でていたところに、はつみが少し目覚める。板垣はここぞとばかりに口付け再び愛撫し、間近にその顔を望みながら挿入。寝起きとまどろみの中で喘ぐはつみに

「これで…最後じゃ…」

 と話しかけ、

「好きじゃ…」
「おんしの声を、肌の甘さも…熱も…忘れとうない…」
「全部、俺のもんにしたいっ…!」

 と、切実な愛の言葉を囁きながら絶頂を与え続ける。『月経が再開したから、子供ができてしまう…』等といって、心底惚れている武士の子種を平然と断る様な愛しい女のそこに全て渾身の力を以て出し切りたいとする衝動をこらえながら引き抜き、最後、その高揚しきった顔に射精した。…顔中に浴びせられる精液を、舌を出して受け入れようとするその表情を他の男も見たのか…或いは、今後見る事になるのか…。そんな事を想いながら、ようやく満足したかの様に覇気を落とした棒をねっとりと舐め取らせ、さらにその後ゆっくりと、深く深く口付けをした。
最後にはつみが
「…有り難う…ごめんね……乾…」
 と自発的に言った事に、心から満足する。

 初夜を過ごした時の台詞と同じ…その真の意味を、今ようやく理解する事ができた。彼女は始めから、自分の事を男として欲してはいなかった。彼女にとってこれは『取引』であり、その『取引』を申し出たのは他でもない自分であったのだと。
 …何度体を重ねても、心が重なり合う事はなかった。
 重なり合うはずもなかった。



 …はつみが目覚めると朝になっており、板垣の姿は無かった。
 体中、そして確か顔にもかけられた体液も大方綺麗に拭われている事に気付く。慌ててガウンを羽織りベランダに駆け出し港を見下ろすと、早朝朝焼けの中、まさに土佐の帆船が出港しようとする所だった。

 船の上では、ホテルの一室からはつみが手を振る姿を遠見が捉えており、その報告を受けた板垣も手渡された双眼鏡ではつみの姿を確認していた。慌ててガウンを羽織ったのだろう、乳房が見えそうだったので遠見には「もう見るなよ」と釘を差しながら双眼鏡を返す。
 板垣もはつみに背を向け、吹き抜ける潮風と眩しく差し込む朝日を正面から受け止めるが如く船首に立つ。長年の恋を諦めた直後だったが、彼らしく白黒はっきり決着付き、心身ともにも大変満足している様な顔立ちであった。

 はつみはその後ホテルの貸し切り風呂に入り身を整えたが、板垣が用意してくれていたモーニングサービスを利用する事なく、豪華なホテルを板垣の名前でチェックアウトした。当然ながら、会計も全て板垣が済ませている。
 初めての朝帰りという形で自宅に戻る。心配して…しかし相手が板垣なだけにある程度予想していた様子で出迎えた寅之進に謝り、そして乾への拭いきれない罪悪感と感謝に張り裂けそうな心をなんとか平静に装って、出勤をするのだった。




※ブラウザでお戻りください