5月。幕府の独裁制を強めようとするその勢いを止めるべく薩摩主導での四侯会議が行われ、これに山内容堂も出席していた。しかし慶喜の策に破れ、やむなく失敗に終わってしまう。これを嘆く中岡からの手紙が江戸で燻り続けていた乾の下に届き、諫死の覚悟で上京を決意。京についたこの日、早速近安楼にて中岡や谷干城らと合流し、大事の前の小事として小宴を開いていた。そこでにわかに、桜川はつみの名前が挙がる。
5月下旬、乾、容堂への目通りが叶う。尊王のもとに武力倒幕を解き、また、江戸にて他藩の同志3人を匿っている事を伝える。詳細
反乱分子を取り込むという政犯ともとれる申し開きをした乾に、容堂は『殺したくはない』の思いから『追って沙汰する』とし、寛容な対応を以て乾を手元に戻す。その『寛容』さはかつて同じ様に『徒党』の存在を明かして来た武市に対した時のそれとは全く性質の異なるものであった。
こまつといっしょ4R15
7月。土佐藩の勤王思想斡旋の為に京へ出ていた佐々木であったが、イカルス号事件の報を受け急遽帰藩する事となっていた。これを受けた龍馬が一旦松平春嶽の下へと走る最中、薩摩の船をかりるべく(薩摩藩士の)吉井と薩摩藩邸へと向かう。これにはつみが動向を申し出、小松との面会取次を吉井に望むのであった。詳細
薩摩の家老にその様な形で逢いに行かんとする姿に佐々木は驚くが、これまたすんなり受け入れられた事にも更に驚愕する。吉井はわざわざ自分を通さずとも『はつみが自分に会いたい時は何も気にする事なく自由に身一つで御花畑屋敷へ来てほしい』と小松本人が常にしている事に言及。はつみははつみなりに理由があって節度を保とうとしているが、いずれにしても佐々木には度肝を抜かれる会話であり、初めて知ったはつみと小松の実態であった。
道中、帰藩に向けて動く佐々木ははつみに対し『乾に何か言付けはあるか』と含みのある様子で声をかける。それは極めて個人的な感情に基く『含み』であり、佐々木の様子から何となく察したはつみは少し困った様に笑顔を見せた。
「…そうですね…わざわざ気にかけて下さって有難う御座います。乾に手紙を書こうと思うんですけど…この後少し、乾の近況などをお尋ねしてもいいですか?もうずっと連絡も取れてなくて、乾が今どこにいるのかも知らなかったから…」
その後、佐々木と共に小松がいる『御花畑屋敷』へ到着。すぐに小松と会った。佐々木が船を借り受ける話をつけた後で、彼と会話する。
はつみは、このイカルス号事件に際し土佐自らが解決の為に動く事になった事と、時世の状況的に開国黎明期よりも更に洗練された外交的対応が求められる事などの認識を共有し、結果的に、薩摩の様に土佐と英国が認め合える顛末となる様、土佐はじめ龍馬ら海援隊も心身を尽くす。故に、中岡が心配する様な『土佐のいない維新』となる事のない様、どうか気に留めて欲しいと丁寧に申し出た。小松はいつもの様に真摯に話を聞いてくれている様であったが、真摯に受け止めるが故に、包み隠さずこうも返して来た。
「じゃっどん、時が来たれば我らは即座に立上がりもす。いかな理由があろうとそん時土佐が明確な立場をとらねば、我らは土佐抜きで物事を構えにゃならんでごわす。」
「その時は…薩土密約に基き、土佐の乾が必ず立ち上がります。」
戦の無い討幕…つまり完全な大政奉還を目指す龍馬に付き添うはつみであったが『土佐には薩摩らと思想を同じくする乾退助がおり、天下回天の事については必ず、彼は結果を伴う行動を起こします。その為に今、中岡さんとも連携を取りながら本腰で軍備改革に着手している様です。時が来た時、もし土佐が英国や幕府との対応にグズついて身動き取れずにいる様であれば、乾にGOサインを出して下さい。』と強く主張する。 小松達にしても薩土密約を取り交わした乾の行動には期待をしている所でもあり、小松はしっかりとはつみの言葉を受け止めた後で「しっかと心に刻んでおきもんそ」と返した。
帰藩の為、忙しそうに早くも席を立とうとするはつみを思わず引き留める小松。見つめ合った二人に本能的に察した佐々木は、慌てた様にすぐさま席を外した。
…前回正妻や琴の存在を理由に頑なに拒否された事を思い出し、咄嗟に手を離す小松。あれからはつみとの事を考え、後悔と共に現実を受け入れねばならないと己を律しようとした。しかし…凛と返り咲く君は美しいと思わずにはいられない…君を美しいと思う男が他にもいる現実に苛立ちと焦燥を感じずにはいられない…と言う。
土佐佐々木ら土佐藩士らを薩摩船「三邦丸」で送る手はずを整えたと報告に現れた吉井が、部屋の外で茫然と立つ佐々木に声をかけ、二人して中の会話を聞いてしまい、茫然と目を見合わせていた。
そこへ更に、客人と主をもてなそうと茶器を持って現れた琴に気付くと、彼女を伴って部屋の前から去っていった。部屋の中では何か密事的な事が行われようとしていた…。(実際行われる事はなかったが)
―土佐―
英雄の器
6月。京にて容堂と合流した乾は、容堂とともに土佐へ帰藩。間もなく軍備御用兼帯に再任した。小笠原と協力し、永牢処分を受けていた土佐勤王党員ら6名を釈放。これを受けた土佐の勤王派下士達は乾を盟主とする討幕活動を決断する。
そんな下士達からの熱量を受けつつ、今後について語り合う乾、佐々木、小笠原。「長州には高杉晋作という、藩改革と防衛にひと肌もふた肌も脱ぎ活躍した御仁がおられたそうじゃ。我が藩にその類の英雄がおるとすれば、それはおんしじゃ。乾。」小笠原と佐々木は乾へ言う。
「土佐・勤王の盟主となれ」「おんしが一藩勤王への舵を切るんじゃ」
詳細
黒船来航以降激しく揺れ続ける古き大樹たる幕府。図らずも朝敵との誹りを受け幕府と表立って対立に至り意図せず割拠の形を成す事となったす長州。その長州と手を組まんとし圧倒的財力と知見を以て新時代を切り拓こうとする薩摩。揺れ動く諸藩。したたかに日本を見つめる列強諸国。時世を見極めきれない容堂は乾を再び大目付へ昇進させ、軍備御用を兼任させていた。
土佐藩内は未だ藩を挙げての思想統一には至っておらず、小八木ら佐幕派や寺村ら公武合体派などがこぞって乾ら勤王派と対峙している形ではあったが、乾は京にて独自に締結させた『薩土密約』に備え、いつ『倒幕』となっても動ける様、長州の英雄高杉晋作の軍事を目の当たりにしてきた中岡から助言を受けつつ大がかりな軍備改革と人事斡旋に取り掛かっていた。勤王を誓い合ったの盟友・佐々木三四郎を京へと送り出す事について一波乱ありながらも、慶応元年の処分以降永牢となっていた土佐勤王党員らを6名釈放させるなど、思い切った改革を続ける乾。土佐のあらゆる人物が唱えながらもただの理想論でしかなかった『一藩勤王』『上下一体』が、今ようやく乾の名の元に形を成そうとしていた。
女傑評議11R15
(英雄の器、直後)
土佐きっての武力倒幕派会議が解散となった後、小笠原が佐々木にコソコソと肘打ちする。小笠原の妙な目くばせに気付いた佐々木は「あ~(桜川の事か…)」と目を泳がせた後、わざとらしく咳払いをしてから乾に声をかけた。詳細
「俺はこの後すぐにでも京へ行く。」
「おう。斬られんよう気ぃつけや」
苦笑する佐々木は、また小笠原と視線を合わせた後で仕方なさそうに話を続ける。
「あ~、その、桜川はどうしちゅう?」
「(ヘタクソ!!!)」
あまりに直球すぎる佐々木の問い質しに小笠原が心の中で悲鳴を上げる。乾は顔色一つ変えないが腕を組み、顎を触りながらまっすぐに佐々木を見やった。
「…知らん。なぜそがな事を聞く?」
一見は不動の表情ながら、動揺…というよりは心が揺さぶられたであろう気配を察知する事ができる。佐々木を押しのけた小笠原が、神妙な顔で乾の『跡取り』について言及した。一昨年、はつみに声が似ているというきっかけで関係を持った久川晋吉の姉・牧野が子を産んだが、次女であった。正妻の鈴との間には2人目の子はまだ出来ておらず、途中約2年に及ぶ江戸詰め期間もあった為、乾の後継ぎ問題は水面下においてかなり逼迫した問題ともなっている事を、小笠原たちも案じていた様であった。
乾はため息をつき、その事なら先日土佐藩医師・萩原復斎の娘・薬子を抱いた事をしれっと伝える。しかしそれも結局は、5月に京で対面した者達とはつみの話になった事が原因で忘れたくても忘れられずにいた色情に抗えなかった訳である。容堂付の医者の娘という事で以前から顔見知りであり、甲斐甲斐しい娘であった薬子を抱いてしまった…という状況。しかし見方を変えれば、容堂を含む周囲の者がいまだ嫡子のいない乾に薬子との逢瀬を仕向けたとも考えられる。
小笠原たちにそこまでの内情を話した訳ではなかったが、長い江戸滞在ではそういった話の無かった乾がここにきて勢いで薬子を抱いたのだろうという事は二人も察しが付いた様だ。
「桜川は妾にせんがか?」
「…あれは子が産めんそうじゃ」
はつみを妾にしないのはそんな事が理由ではなかったが、早々に切り上げたい話題でもあったのでそう応えた。気を遣った彼らは跡取りの事を気にかけつつも話題を取り下げたが、彼らの気遣いも間違っている訳ではないと重々承知している。武家の主にとって嫡男の誕生は責務であり、乾は当主となって早7年、齢も30となったが、その責務はいまだ果たせていない。
…妻や妾達に何かしら不満がある訳ではない。
だがそれ以上に、この期に及んでもまだ、はつみをち正妻に迎えたい、独占したい等と考えている未練たらしい自分の一面に辟易する想いであった。
7月、後藤、寺村ら大政奉還案献策の為土佐帰藩。容堂、藩主の許しを得る。
7月、寺村左膳、参政へ再任。
7月、乾、参政へ昇進。軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。
銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織(迅衝隊の前身)
谷干城、小目付のまま軍備用・文武調役兼帯
一日千秋
8月、去る6月長崎にて起こっていたイカルス号事件につき、京へ出ていた後藤象二郎や佐々木三四郎らが急遽対応する事になった。大阪から出港し徳島へ立ち寄っている英国に先立ち、佐々木ら土佐上士と坂本龍馬、はつみらを乗せた薩摩船『三邦丸』や幕府艦『回天』が土佐須崎に入る。…龍馬、はつみらにとっては久方振りの土佐であったが、上陸する事は許されなかった。詳細
参政へと昇進していた乾は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告し、諸部隊を砲台陣地および要所の守備に配置。下船した佐々木三四郎に会い、束の間の会合を果たす。諸事情報交換の最後に、今回は土佐に上陸できず土佐帆船夕顔丸にて待機中であるはつみからあずかった手紙を渡され、ここ1,2年の彼女の様子について佐々木が知り得た話をざっと聞かされる。また、薩摩の若き家老であり、京政治において影の中心人物とも言われる小松帯刀とはつみの只ならぬ関係についても、佐々木が見聞きした事をそのまま伝えられた。乾が手紙を読みたがっているのを何となく察し、佐々木は『城へ急ぐ』と言って彼を開放してやるのだった。
活人剣・真
乾ははつみからの手紙にあった通り以蔵と話をするべく、突如吹井の武市生家を訪れた。上士の話など聞きたくもないと黙する以蔵であったが、乾はその様な態度に怒る事はなく寧ろはつみが彼を推す理由を察して『なるほど』と頷いた。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんの剣で土佐を、この国を守れ」
詳細
イカルス号事件に係る夕顔丸、回天、南海丸らが、英国公使館からの現場監督としてアーネスト・サトウを乗せて土佐を去り長崎へ向かった。乾が指揮していた湾岸の戦闘体勢もこれにて一旦解除される。
これを機に乾は時間をとって吹井の里で墓守をする以蔵を自ら訪ねた。臆する未亡人・富には丁寧に挨拶をし、許可を得た上で以蔵が利用しているという離れの小屋へと向かう。案内される最中、以蔵が殆ど無償で墓守をしてくれている事、それどころか出稼ぎで稼いだ銭を何かと常に渡してくれる事、普段は武市が遺した書物などを読んだり節操正しく生活している事などを聞かされた。
彼は無気力な人間であるというのが昔からの話ではあったが、上士に対しては並々ならぬ反抗心を抱き、かつ、先の獄中においては拷問に遭っても決して自白しなかった精神力があると認識を改められたばかりである。
例の如く何も話す気はないと黙し拒否すら示す以蔵であったが、先日土佐沖に異国の船がやってきて、龍馬やはつみらも一緒だった事やはつみから以蔵に会う様に言伝があったと切り出すと、「おおかたの事は調べん時に洗いざらいしゃべったじゃろうが…」と呟きながらも対応する姿勢をみせた。
以蔵と話す内に取り調べの際には聞く事の無かった『以蔵の剣』について触れる事となる。いまや苗字帯刀剥奪とされ大小も持たぬ以蔵が、それでも武市の墓守をし武市の未亡人富を守ろうとする為の心の剣『活人剣』。はつみから言われた「武市に育てられたその剣で武市を守れ。大切な人を守る為の剣。人を活かす為の剣」が確かにそこにあった。乾は、はつみが文で言っていた『以蔵は他の人には成し得ない変化をその人生に見出した』という意味が理解できた気がする。彼は昔見知っていた卑屈なばかりの以蔵ではない。今の彼は、確かに輝く何かをその心身に宿している様に思えたのだ。
乾は上士下士関係なく力量を図りたいといって手合わせを申し出る。己も柔術には自信があり、こちらは素手、相手は木刀とはいえまったくもって隙を見いだせない。…以蔵は、間違いなく武市の懐刀であった。
「以蔵。別撰隊へ来い。おまんの剣で土佐を、この国を守れ」
以蔵にしてみれば一方的な志だけを受け入れるのは癪であったろうが、乾が指揮を執る別撰隊に所属すれば『給金』が支払われる事などを伝えると、彼は受け入れてくれた。…それすらも、恐らくは武市家の為であろう事は安易に察する事ができた。
女傑評議11
別撰隊に加入し、ひとまずは圧倒的強さを以て歩兵伍長となった以蔵。髪を切り、皆から歓迎され、自分の存在意義を初めて見出しているかの日々を送っていた。詳細
きっかけははつみからの文ではあったものの乾も自然と乾を気に掛ける様になり、彼次第ではもっと取り立ててやるつもりでいた。時世をよく知らずひたすら武に邁進するその姿に若い頃の自分が重ね見え、軍略を通して武士としての気構えも養う様にと、自らも読み込んだ孫子を勧めたりなどする。…そんな乾に対し、以蔵は『乾』という上士個人に対してずっと気にかかっていた事を打ち明けた。
文久2年秋、江戸ではつみと何があったのかと。
あの頃からはつみは内面的に大きく変わった。その変化には性的なものも伴い、その前後で乾と頻繁に会っていたのも察知していた。…以蔵にとってはその変化こそが『きっかけ』であり『ただ一つの言い訳』であったのだ。当時、はつみに恋をしていたと気付いたのも、はつみと距離を生じさせる様な酷い事をしてしまったのも…
只有赤心明
8月、容堂、後藤象二郎と寺村左膳に大政奉還案建白書の作成と提出時期の調整を指示。出兵については『暫時御見合』とした。直ちに抗議に入る乾であったが、容堂からはアメリカ留学の内示が出され、軍備用兼帯致道館掛を解職されるとの命が下される。詳細
仕置役(参政)としての職は継続しているものの、これまで画期的に行ってきた軍備改革を継続・維持させる事ができない。そんな矢先、今度は江戸で乾からその義侠心を見込まれていた土佐刀鍛冶の東行秀が、乾の藩政に背く倒幕行動を京の寺村らに対して暴露した。直ちに寺村が動き、息のかかった者が土佐へ送られると同時に土佐勤王党員・島村寿太郎(武市の叔父にあたる)らの耳にも入る。島村は乾に対し脱藩をすすめるが、乾は『既に消化済みの事案』『容堂公から直々に沙汰を待てと言われている』だとして堂々としていた。寺村らはこの件が容堂公『公認』である事に驚きを隠せず、以後は
世界へ咲き誇る桜
9月下旬、海援隊がライフル3000丁を伴って土佐に到着した。坂本龍馬およびはつみらも上陸し、坂本家や武市家などに顔を出していると聞く。殊更驚かされたのは、長崎にてはつみが外交の手腕を発揮し、再びの事件勃発を阻止しただけでなくイカルス号事件をも解決に導いた事についてであった。
ある日、乾のもとへ坂本龍馬が現れる。
詳細
容堂はじめ藩論が『武力を伴わない大政奉還案』となっている為、もはや土佐勤王派の首魁とも言える存在感を発揮している乾は参政という強力な立場にありながらも、時世に際する方針を定める様な藩政からは遠ざけられている節があった。彼らとの直接的な面会をするきっかけもなく日々の仕事をして過ごしていたが、長崎にてほぼはつみと行動を共にした佐々木三四郎からの報せにより、彼女が主体となってイカルス号事件を解決、英国との外交問題を極めて友好的にまとめたと知る。
江戸留守居役の頃にはつみと横濱へ行き、時務を識る者は俊傑に在りと感じたが…言葉通りに才を開花させたはつみに誇らしささえ感じた。
そんなある日、坂本龍馬が一人で乾のもとへとやってきた。後藤とはつみの事で、相談があると言う。聞けば、今回のイカルス号事件解決の最終合意の為に再び長崎で会合があるのだが、英国公使館側が、卓越した英会話力とぐろーばる思想に富み、事件解決の一翼を担ったはつみの同席を望んでいると後藤に提示したのだが、はつみはこれを頑なに辞退しているのだとの事だった。
武市や土佐勤王党弾圧の一件以来、はつみは後藤を信用しきれずにいるという。いや、正確には信頼云々ではなく、武市に与えられた罪状にまったくもって納得がいかず、その怒りが遺恨という形で後藤に向いている様なのだと。海援隊や土佐商会の仕事に差支えはなくイカルス号事件にも積極的に協力してくれたが、後藤とは関わろうとしない。小松に仲介を申し出てグラバー商会で海外貿易などを独自に学び出したのも、もしかしたらそういった感情が少なからずあったからなのかも知れない、と。
―土佐勤王党を弾圧・処刑する為に、土佐藩が…つまり容堂があらゆる強引さと執着を以て挑んできたのは、武市が処刑された直後に異例中の異例とも言える論功行賞などというものが大々的に行われた事からも明白である。更にはその前後において、吉田東洋の義理甥であり吉田を亡き父に代わる育ての親ともする後藤が特に嫌疑などもなく大目付の職を解任されたり再任されたりとしていたのも、東洋暗殺の件に詮議が絡み何かしらの考慮が後藤に成されていた事は間違いないと、乾も考える。
龍馬は海援隊や土佐との間に過去の遺恨を持ち込む気はないとし、後藤と同じく上士であり武市投獄時に大目付役も請け負っていた乾がはつみを説得できる様な詳しい事情を開示できるのなら、そうして欲しい。そうする事が、はつみを真の意味で解放してやれるのだとも言った。
龍馬の意を汲んだ乾はこれを引き受ける。―が、『どうなっても知らぬぞ』と一言を付け加えた。…龍馬のはつみに対する感情は『保護者』のそれを気負っている様に見せかけているが、そうではない事を見抜いたからだ。かといって龍馬は知ってか知らぬかはさておき自分にも長年積もり積もった想いというものがあると明確に宣言する。…龍馬の方も、いろは丸の一見以来いよいよ『保護者』ではいられなくなる瞬間に何度も見え、今回も隠し切れなかったが故に看破された事を苦笑がちに白状した。それでも、はつみの心が軽やかになり、世界へ咲き誇る日本の桜となれるのなら…と、乾に託した。
取引という名の私情R18
坂本家に入っていたはつみをいつぞやの様に直接迎えに行った乾は、また、いつかの料亭へと連れていく。はつみの腰元には、武市の未亡人・富から授かった武市の忘れ形見である短刀が差し込まれていた。
詳細
乾はまず、前回はつみが土佐湾に入った際に受け取った文の通りに以蔵へ声をかけた事を伝える。彼が『活人剣』を胸に、苦難を味わいながらも今輝きを放たんとする男へと変われたのははつみの影響が多大にある事。その事を何よりも以蔵本人と、その以蔵を武市と共に見守ってきた富が認めている事を述べた。短刀に手を添えて噛みしめる様に聞いていたはつみは、目じりを赤くして乾にも謝辞をのべる。そんなはつみに対し、乾は「今こそおんしの番なのではないか」と切り口を返す。一体何の事かと向けられる視線に耐え切れず、柄にもなく一瞬視線を落とした乾であったが「今となって以蔵は一閃光るもんをその心身に宿し、見違えたようじゃと皆が言いよる。…次はおんしが、その輝きを取り戻す番であろう」と述べ、「俺は土佐勤王の徒として覚悟を決めちゅう。武市殿の宿願と以蔵の事も自分が引き受けちゃるき、おんしは私怨を越えてやるべきことを成せ」と、飾り気のない愚直な言葉と共に、再び真っすぐな視線を以て告げる。
「藩は確かに愚かな事をした。俺などはほぼ影響もない程に微力であった。…だがおんしは違う。今、その気になれば土佐を動かす事もできよう。それだけの力量がある、その責任がある。」と。
…乾からの言葉は厳しくも現実を見据え、それでいて優しく背を押すかの様だった。彼自身が、その思想を貫くが為に長く疎外される日々をただただ耐え忍んできた事も知っているからこそ、その厳しい言葉には激励の意を明確に感じ取る事ができた。
加えて、もっとも土佐勤王の徒に相応しいとする者から『武市らの意思を引き継ぐ』と力強く言われた心ははつみの自覚なくも安堵し、その頑なであった最奥の扉を開く。武市と以蔵が辿った獄中闘争の険しさを想い、短刀を握りしめるはつみ。その向こうには、虎太郎、長次郎、内蔵太、東洋…そしてなにより、今目の前で土佐勤王の全てをその双肩に担い盟主となろうとする乾が、人知れず抱いているであろう想いを抱いても尚、毅然とあらんとする姿に、涙がぽろぽろと溢れてくる。
…彼が説得に来た理由も何となく察していた。龍馬か誰かがきっと、自分が後藤や容堂に対して抱く確執をほどき、真の意味で土佐との友好を続けられる様にと…英国との懸け橋になれとしているのだという事を。
「…後藤さんに会うよ…。宜しくお願いします…」
そう言って俯くはつみに乾はこらえきれず、差し伸ばして一旦戻しかけた手を再び伸ばし、体を抱き寄せた。
今あるのは『互いに己が成すべき事』だけ。もはや『取引』は存在しない。しかし『取引』なんていう口実が無ければ心のままに抱き寄せる事もできなくなってしまっていた。二人の間で初めて『取引』が行われた時から、こんな歪な関係になってしまう事は分かりきっていたはずなのに…
和解
龍馬、そして乾の説得を受け、土佐容堂公に拝謁するはつみ。その場には後藤、佐々木、そして乾も同席した。イカルス号事件解決の最終同意会議に際し、英国側が望む通り御雇外国御用掛兼通詞として一時的に土佐の正式な役職を受ける事となる。容堂公には2度目の目見えであった。
実力主義・土佐正宗
9月下旬、はつみ達が再び長崎へ舞い戻る頃、乾は歩兵大隊司令に任ぜられ、再び軍改革及び調練に携わっていた。詳細
藩論は変わらず『武力行使を伴わない大政奉還』であったが、乾が発注し中岡や龍馬らの斡旋により持ち込まれた洋式銃を扱う訓練に最適であるのもやはり江戸で西洋兵術と砲術を学んだ乾しか見当たらなかったのだ。そして、武力倒幕なのか、それとも武力行使なしの倒幕なのか…どっちに転ぶかがまた読み切れないでいる色も伺えた。
乾自身が江戸で学んだ洋式軍略、そして中岡から伝え聞く長州や薩摩の次世代的な軍備をもとに、洋銃を手にした迅衝隊および別撰隊が日々形になってゆく。
10月に入り、はつみが長崎で『外交官』としての手腕を振るっているであろう頃、乾は以蔵を呼び出した。土佐藩政が迷走する中にあっても以蔵は引き続き軍に勤め、孫子書を読み、そして砲術訓練についても精力的に取り組んだ。政治の事は乾や彼が信任している上士一味、そして獄中武市の右腕であり続けた島村寿之助ら土佐勤王党員らに任せる。以蔵は得た給料の殆どは富、そして京の妻子へと送っていた為いつまでたっても貧相極まりない身なり。いまだに大小のうち小一本すらも持ち合わせていない有様であったが、木刀を振り続ける等の自己研鑽は怠らず、軍内での剣技乱取り稽古等や仕合い等においては誰にも負ける事が無かった。以蔵の行動についてはつみから聞いていた乾は清貧の武士たるをゆく以蔵に益々感心し、迅衝隊でもちらほらと着用者が見受けられる様にあった洋装一式と長年愛用していた刀を一振、個人的に与える事にした。その刀は容堂公にして『土佐正宗』とまで言われ『た』名刀であった。…今となっては『裏切りの刀』などと謂れ、特に勤王派からは避けられている様であったが。何故『裏切り』などと言われる様になったかの経緯では乾がその張本人であったし、その様に言われる刀を以蔵に託すその意味も乾の心の中にのみ存在していた。以蔵はそれを聞き、あっけなく理解を示す。
無言ながらも興味深そうに刀を見ている以蔵に「ちょっと抜いてみい」と言う乾の言葉通り、一旦腰に差した後中庭に降りると、居合いの型をとって引き抜いて見せた。一流の剣士に振られる一流の刀のきらめきが何と鋭く美しい事か。
「君に振られたがっちょる様に見えるな」
本質を見極め、くだらない俗論に惑わされない以蔵の清貧なる精神に、乾は満足を示す。その意が以蔵にも伝わり、幼少期より以蔵の人格形成にまで影響をもたらした『上士嫌い』は、乾の存在を以てほぼ払拭されようとしていた。
10月上旬、山内容堂名義にて老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出
寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝悌・神山郡廉らが名を連ねる
10月中旬、乾、容堂へ建言をするも『退助また暴論を吐くか』と笑って取り合わなかった。
乾、大政奉還の手応えを得た小八木政躬や寺村左膳により歩兵大隊司令をはく奪され、再び失脚。