土佐日常編

安政6年5月~万延元年閏3月

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●安政6年…武市30歳・はつみ19歳

―土佐―


【武市・以蔵】あこがれの人


5月。はつみにとって武市半平太は『大人の男性として素敵』であり『憧れの武士』であった。
詳細

龍馬に連れられ、自分が倒れていたという鏡川の河川へとやってきたはつみ。椿の花もどこにも咲いていないし一体何だったのかと謎は深まる一方、向こう側から人が歩いて来た。それに気付いた龍馬が大きく手を振るところまではよかったが、続けて「お~い!武市さん!以蔵さんー!」と何気なく口にしたその名に思わず飛びあがってしまうはつみ。こちらへ向かってやってきた二人は武市半平太と岡田以蔵。…特に武市半平太は、はつみが『憧れ』とするかの幕末志士であった。
はつみにとって武市半平太は『大人の男性として素敵』であり『憧れの武士』であった。しかし武市は男装をするはつみに対し『何か理由があるのだろうが、道を外れすぎる事で見失うものもある。気を付けられよ』と告げ、以蔵ははつみの身分や上士絡みの経緯に疑念を抱いている様で、かなりそっけない出会いとなってしまった。



【東洋、龍馬、乾、武市】牝牡驪黄…前編・後編


7月。吉田東洋がはつみを呼び出す。参政から直々に声がかかったという事で坂本家では大身乾家嫡男からの呼び出し以上に大大大、大大大騒ぎとなった。
詳細

仁井田のよーろっぱ猪三郎からはつみの事を聞いた河田小龍が、『中浜万次郎と類似人物』として更に土佐参政・東洋へ報告していた。河田小龍はかの中浜万次郎が米国から帰藩した際に土佐参政吉田東洋の命により万次郎と寝食を共にし、海外情勢等について根掘り葉掘り聞き出した経緯がある。小龍の報告を受け入れた東洋がはつみを呼び出したのだった。参政から直々に声がかかったという事で坂本家では大身乾家嫡男からの呼び出し以上に大大大、大大大騒ぎとなり、はつみは例え大名の前へ出したとしても決して恥ずかしくない様な『正しい』装いを強制される。
一方、龍馬から急報を聞いた武市はすぐ坂本家を訪ね、東洋の様子を聞く為はつみの帰りを待つ。しかし帰宅したはつみを一目見て雷に打たれた様な心地に陥り、半ば茫然とした様子でその日は話も辞退し、帰宅してしまうのだった。



【龍馬、武市、寅之進、以蔵】川遊び


8月。『はつみ塾』もそこそこに川涼みも兼ねて鮎を捕りに行こうと鏡川へ出かけた。
詳細

道中武市と以蔵に鉢合わせ、はつみは勇気を出して二人も同行しないかと声をかける。はつみが武市を意識しているのは周りの男達が見ても明白であったが、その言動が余りにも『常識離れ』していた為、敬愛なのか慕情なのかを推し量る以前の衝撃に見舞われていた。武市本人がどう捉えているかも不明であったが、龍馬だけは、はつみが東洋に呼び出されたあの日から武市の表情にわずかなほころびがチラつく事に気付いていた。



【武市】恋心…前編(WEB漫画)・後編(挿絵付)


9月。はつみの武市への想いは『幕末史の中でお気に入りの武士』『憧れ』といったミーハー的なところから、本物の『恋心』へと変貌していた。いや、『…してしまっていた』。恋をして世界が明るくなるばかりではなく辛く感じてしまうのは、武市が『誠実』『堅物』からの『愛妻家』である事を、すでによく分かっていたからであった。

【武市】美人画指南


10月。はつみの秘めた想いを汲んだ龍馬が、武市に『美人画』の指南を申し出ていた。
詳細

彼の美人画は表に出される事はあまりなかったのだが中々の腕前で、「折角そういった稀な腕があるのだから、巷で騒がれる血生臭い攘夷事ばかりでなく時には日本の芸にも触れて心を柔らかく保とう」と言うのが龍馬の言い分であった。はつみの開国思想も含め、この場にはそういったものは関係なく―という事である。武市道場によく出入りをする虎太郎らは激怒し話を聞きつけた安芸の中岡からも叱咤文が送りつけられたが、意外や意外にも武市はこの話に乗ってくれていた。


長崎遊学編

万延元年4月―万延2年2月

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●万延元年…武市31歳・はつみ20歳

 ―長崎―


【武市・ルシファ】この時代に来た理由


5月。長崎遊学に出ていたはつみが、坂本家、そして武市へと初めて手紙を書く。

 ―土佐―


【武市・以蔵】長崎土産


武市達に買っていた長崎土産(夫婦茶碗)を渡しに道場へ行く。日々尊王攘夷論が加熱する場となっていた道場では尚更はつみの居場所はなくなっていた。
詳細

しかし武市は子弟らを下げてから改めてはつみと龍馬、寅之進を引き入れ、話を聞いてくれた。武市達は近日中に西国剣術へ出る事が決まっており、事前の調べものなどで少々慌ただしい様子でもあった。彼らの西国修行についてははつみも『歴史上』知っており、にわかに『その先にある武市や以蔵の未来』を想ってしまう。武市の運命が『歴史通りに進む』という事に深い不安を抱くのは、これが初めての事であった。



【武市】想いは天袋の最奥へ


12月。西国剣術修行から戻った武市は、一点、戸惑いながらも購入したものがあった。
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西国剣術修行から戻った武市は、大刀(肥前國河内守藤氏正廣)や平田篤胤の著書にて尊王攘夷派志士のバイブルとも言える『霊の真柱』を購入し、富などへもささやかな土産を持っていたが…実はもう一点、戸惑いながらも購入したものがあった。
思想は若干違いながらも卓越した才で道を切り拓こうとするはつみの為に購入した、肥前忠吉銘の短刀だ。迷っている事自体がやましいことの証明であり不義の極みだと己を恥じたが、だからといって妻に打ち明ける事もできず。結局武市はその一点ものを天袋(天井下の収納)へとしまい込むのであった。


確変

文久元年3月

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●文久元年…武市32歳・はつみ21歳


仮SS/井口村永福寺事件


3月。池田寅之進を中心とする『井口村永福寺事件』が勃発する。

それぞれの江戸へ(全編会話)… 前編・中編・後編


4月。凄絶な経験を経て天涯孤独となった寅之進に対し、武市が江戸剣術修行を勧める。
詳細

武市はこの夏江戸へ出るつもりでいたのだが、井口村事件を経て天涯孤独となった寅之進に対し、共に江戸を出て江戸剣術修行に励む事を勧めた。井口村事件は関わった多くの郷士、引いては上士らにとって大きく印象的な事件となっただろう。それだけでなく、武市ははつみが否応なく『時世』へ飛び出す定めの人間である事を強く察していた。事件解決のため「出来事の中心である寅之進が責任を取る事になるやもしれん」と発言した自分に反し、はつみは凄まじい熱量を以て常識を覆し、上士である乾と協力して寅之進を守り抜いた。その事が、武市も、そして寅之進本人も『尋常』の事ではない様に思えていた。…であれば自分は寅之進に道を示し、その意思があるのなら支援をするのが務めだと考えたのである。
「寅之進よ、はつみ殿をその剣で守っていく気概はあるか」と



―東海道―


【龍馬、武市、寅之進】東海道・珍道中…前編・後編


春と初夏の間とも言える気候で過ごしやすく大阪辺りまでは順調であった。しかし東海道を進み初めてから徐々にはつみが遅れ始める。
詳細

はつみも日々の運動や長崎留学で徒歩への耐性や体力面の向上が見られたものの、やはり一日に歩ける距離は男性らの足に及ぶわけが無かった。東海道を結ぶ各宿場、つまり1日地で歩くべき距離の平均は概ね25~30km前後にも及び、止むを得ず大八車に乗せて貰ったり籠にのせて貰ったり、おぶさってもらったり、体を揉んでもらったりと、やけに『賑やか』な旅道中となっていた。
そんな折、この4月に英国公使ラザフォード・オールコックの騎馬一行が東海道を進んでいた事を知る。驚くべき事に長崎から江戸までを陸路で移動し、更に、土佐を出立するのと入れ違いで舞い込んでいた5月末の江戸東禅寺での外国人殺傷事件はこれを『日本の土地が穢された』とする者達の暴挙であった事も宿場伝いに聞いた。一方、道中外国人の絵描きが様々な「すけっち」を残しており、はつみは紙の端に走り書きされていた英文を読み『チャールズ・W』とする人物によるものだと翻訳。「すけっち」は宿場町などの風景から、そこで働く人々、子供、その笑顔を模写したものであり、日本の風景や日本人に対する純粋な『興味』や『好意』が見て取れた。東禅寺事件の悲惨さを聞く一方で「すけっち」や外国人が通過した形跡を教えてくれた人々は彼らに対し友好的、もしくは少なくとも嫌悪や敵対心を思わせる様な反応で無かった事が、はつみには嬉しく思えたし、実際に「すけっち」を持っていた町人などは、恐らく直に接したであろう外国人らに対し悪い印象は持っていない様であった。彼らにも私達と同じ様に芸術を理解し、趣味や特技があり、家族がいて良心があるのだと説くはつみに、龍馬ら3人はそれぞれの反応をみせるのだった。


江戸遊学編

文久元年6月~12月

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●文久元年…武市32歳・はつみ21歳

―江戸―


【武市・以蔵】お見舞い


土佐藩中屋敷近くの宿へ入ったはつみのもとに、風鈴を持った武市が現れる。
詳細

二人に何かが起こる訳では決してなかったが…武市と共に顔を出した以蔵は『武市が風鈴を用意した』事自体に思う所あり、そっと席を外したのだった。
残った二人は寅之進や以蔵の進路について話す。寅之進はまだどの道場の門を叩くか決めかねている様だ。以蔵も剣の稽古は捗っているものの、何がしたいという思想は見られないと言う。はつみはこの江戸で発足するであろう土佐勤王党や以蔵の事を気に掛けていたが伝える事など出来る訳もなく、ただ心の中で、武市や以蔵の事を案じていた。



仮SS/【武市・龍馬】越えられない一線(隅田川花火大会)


この日、土佐藩邸中屋敷からもそう遠くない両国・隅田川で花火大会が行われるとの事で、意気揚々と繰り出すはつみや龍馬達と一緒に武市も同行した。(させられた、ともいう)

【武市】帰藩


9月。江戸に来てからというもの、武市はその『尊王攘夷』に関する活動に関してははつみを遠ざけていた。8月末に自らを党首として土佐勤王党を立ち上げた武市は、その勢力拡大、斡旋活動として早速土佐へ戻る事となる。はつみは改めて武市の元へ出向き話をするが、やはり『同志として』受け入れられる事はなかった。

一念発起編

文久2年1月~6月

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●文久二年…武市33歳・はつみ22歳

―土佐―


【武市・柊・吉村】仮SS/子無きは去らずとも不貞は去れ


1月。武市の嫡男がいまだ生まれていない事は、当の本人よりも武市を崇拝する周囲の者達の方が黙っていられない状況であった。中でも吉村虎太郎や柊らが画策をし、武市の正妻・富を実家へ帰らせるところからこの事件は始まる。

【龍馬・武市】仮SS/後始末


吉村と柊らの計画は大失敗に終わり、誰も幸せになれない結末を結ぶ。中でも完全なる飛び火を受けて傷付き帰ってきたはつみを見た龍馬が珍しく怒り、武市の下へと怒鳴り込みに行く。

仮SS/【東洋・武市】勧誘


2月。江戸出立前の取り決め通り、江戸や横濱で知り得た事とはつみの見解や記憶などについて報告をする。

【武市】抑止


参政吉田東洋について、土佐勤王党は門前払いをされる一方で、「あの桜川はつみはわざわざ呼び出され『開国』の話をしている」「桜川を斬るべきではないか」と、柊や那須らが騒ぎ始める。
詳細

それを武市は冷静に、だが異例とも言える言葉によって抑えようとしていた。言わなければ伝わらないという事は、先日の子無きはさ去れ事件で実感し記憶にも新しい。
「桜川殿は変わった趣向の持ち主ではあるが、時世や藩政に影響を及ぼさんとする意図や野心は持ち合わせていない。それも見極めず見境なく殺すというのは、志も識別もない盗賊・悪党共と同位である」



仮SS/【武市・以蔵】明日、来年、そのずっと先


単身、武市が以蔵のもとを尋ねる。以蔵は武市本人の気配と共に一層深く刻まれた眉間のシワに気付き、無言のまま木刀を降ろした。

【武市、龍馬、柊、本間】因縁の嚆矢


吉田東洋により土佐『尊王攘夷派』の動きが抑圧される中、気の逸る吉村虎太郎は土佐国境近辺で流浪の尊王志士・本間精一郎と会合するなど、その活動を活性化させていた。
詳細

帰還した龍馬が武市の元を訪ねていたその日、道場に駆け付けた柊からある一報がもたらされる。国境付近の吉村から連絡あり、東国の勤王志士・本間精一郎が武市との面会を希望しているとの事であった。併せて薩摩挙兵上洛の兆しについての更なる情報などもざっと記されており、本間が情報提供をしてくれるという。無言の武市に代わり、龍馬がはてと小首をかしげる。どこかで聞いた名だったが…と思案し、やがて江戸遊学の際はつみに言い寄って来た男であると思い出した。
一方の武市は、本間との面会を進める吉村に対し首を縦には振らずにいた。
「…今は藩内の思想統一が急務である中、佐幕派の上士らぁも我々の動きに過敏になっておる。国境などに出向いてむやみに刺激をするべきではない。」
 また、本間がどいういったツテで武市との面会を望んだかも定かではなかった。薩摩の情報を持っていると言う事は、江戸で武市と親しい仲となった華山あたりと接触したのだろうかと思案する武市。ただ、江戸で本間の名を聞いた事はあった。彼の噂と共に聞いた清河八郎の事といい、あまり良い印象ではなかった事が印象深い。そして、はつみと接触していた事も武市は知っていた。



【龍馬】脱藩… (長編)


3月。脱藩者が相次ぐ中、権平は龍馬に対して同じ轍を踏むなとばかりに監視を強くしていた。
詳細

そんな中、龍馬は花見と称して酒を持ち、坂本家の霊山でもある才谷山へとはつみを誘う。しかしそこで行われたのは花見ではなく、いつになく真剣な龍馬からの『告白』であった。一方、病気を患い床に伏せっていた権平の妻・直は、有望な龍馬やはつみ達を見て思う事があり、それを乙女に打ち明ける。
…事の顛末に際し、武市が坂本家を訪れる。…はつみはまるでいつかこの時が来る事分かっていたかの様に、意味深に自分を責めていた。「もっといい結末があったはずなのに」と嘆く彼女に、そっと寄り添った。



仮SS/【以蔵・武市】活人剣


4月。春の雨に見舞われてしまい、以蔵と共に適当な木の下で雨宿りをしていた。…そこへ突然、バシャバシャとこちらへ駆け寄る足音が響き渡り―…

仮SS/【武市・東洋】大義の為


はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。吉田東洋が暗殺された。

仮SS/【武市】運命を変える為に


6月。藩主豊範を抱き込み政権を奪取した多くの土佐勤王党一派が、藩主参勤交代の途に随行した。
詳細

しかし今の土佐にとっては幕府の御為にと課せられた参勤交代ですら『尊王攘夷』のきっかけに過ぎず、4月上洛を果たした薩摩に続き、土佐も上洛を果たさんと積極的に京での朝廷工作が行われている。幕府のうかがいも立てず直接朝廷に働きかけるなど、幕府からの謹慎蟄居を解かれたばかりでありながらもいまだ公武合体の思念を貫く容堂が容認するはずがない。はつみは自分が襲撃された事よりも東洋の暗殺から今この状態に至るまでが完全に『歴史通り』である事に一層強い懸念を覚える。このままでは武市は破滅の道へ進む…。思い詰めたはつみは、大変に厚かましく恩知らずである事を大いに承知の上で、坂本権平に相談を持ち掛けた。


京・天誅編

文久2年7月~文久3年3月

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●文久二年…武市33歳・はつみ22歳

―大坂―


【武市】女の一念岩をも通す


7月。大坂での麻疹大流行を理由に参勤交代中の土佐大名行列は停滞している。しかしその裏ではこのまま上洛を果たす為の朝廷および江戸に鎮座する土佐隠居・容堂に対する工作が行われていた。
詳細

藩主豊範は矢継ぎ早にあれこれと策を講じてくる勤王派から距離を置く為に『仮病』を利用して時間を作り、江戸にいる容堂への伺いを立てている程、土佐藩は急速すぎるほどに『一藩勤王』『尊王攘夷』へと大きく舵をきっていた。 その中心にいる武市の元へ、はつみが土佐を出たらしいという報告が入る。珍しく私情によりため息をつくと同時に、成るべくして成ったとも思う武市。自分を追いかけて来たのだろうという自覚もあった。武市は江戸の池田寅之進へ文を送り、江戸剣術修行終了に伴う帰藩について『大坂にてはつみと合流せよ』との指示を出した。



仮SS/【武市・新兵衛・柊】監視と護衛


武市の義兄弟でもある薩摩藩出身の田中新兵衛や、武市を妄信している土佐梼原村出身の土佐勤王党員柊智の二人は、はつみを疑問視すると同時に度々行動を共にするようになっていた。

【武市】思い出作り


8月。ひと月近くも大坂で停滞していた『参勤交代道中』の土佐の大名行列であったが、勤王派が画策していた上洛の為の朝廷工作が実を結び、京の三条実美らにより土佐を受け入れる体制が整ったとの報告が武市らの元に舞い込む。
詳細

容堂への報告は事後報告として『翌23日土佐藩主上洛』との決定も下し、さっそく上洛へと取り掛かる事が決定された。その束の間、ほっと一息をついた武市は明日までの時間を『大阪観光』に費やす事にしたのだった。皆で浄瑠璃を見に行こうと言う武市の申し出に、はつみは思わず心浮かれる想いで受け入れてしまう。 ―しかし一方で、土佐勤王党の一味は『京天誅旋風』の先駆けとなる殺人を犯そうとしていた。



―京―


仮SS/【武市・柊】夏の病


閏8月。土佐藩主上洛を成させた中心的人物である武市は、どうやってもこれに随行できない程に体調を崩し、藩邸にて寝込んでしまっていた。

仮SS/【武市・新兵衛】添わぬうちが花


翌日からの復帰を決めた武市の元に、この夏、武市と義兄弟の契りを結び、時にはつみと行動を共にする事で彼女を『護衛』しそして『監視』を続ける田中新兵衛が改めて顔を出しに来た。

仮SS/【本間・柊・田中】身から出る錆


買い出しに出ていたはつみは、突然、長刀を携えた華美な男に声をかけられた。

仮SS/【本間】終わりと始まり
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閏8月20日、本間精一郎暗殺。

仮SS/【武市・柊】寵愛(前編後編)


本間精一郎が辻切に遭ったという報が流れてから暫く経った頃、武市は寓居を得て土佐藩邸を出る事となり、その寓居にてはつみを保護するとの提案をする。これに強く反発したのが、武市を妄信しているはずの柊だった。

京料亭『白蓮』との出会い


9月。はつみは土佐勤王党の下っ端に襲われている商人と出会う。

仮SS/【寺村・武市・乾】嵐の予兆


9月末、江戸の容堂公の元から放たれた佐幕派の上士・寺村左膳は単身京へと乗り込んでおり、土佐勤王派が望んで工作していた朝廷からの容堂召喚の勅令を延期させるなど、内々での工作作業を行っていた。その工作が成った事を受け急ぎまた江戸へと戻ろうとするその前に、『桜川はつみ』なる者との面会を望む。

仮SS/【武市】『守る』という事
R15


10月。今となっては公武合体路線を明確に周知され尚も突き進む薩摩・島津久光(三郎)の懐刀・小松帯刀(家老見習)が再入京したが、その小松とはつみが白昼堂々、往来の真ん中で会っていた事が多くの攘夷派志士らに目撃されており、またもやはつみに対するアタリが炎上する事態となっていた。

仮SS/【武市】女の道にあだたぬ者


10月。勅使一行に同行する武市が江戸へ出立する前日。旅の準備も終わり、あとは明日の出立を待つばかりであった武市は、先日の『袋のねずみ』事件以来寓居から姿を消したはつみの事を考えていた。

―江戸―


仮SS/【乾】江戸取引・壱


10月。ある日、はつみは江戸留守居役にして容堂の側用人である乾退助と10か月ぶりに再会する為、鍛治屋橋の土佐上屋敷にやってきていた。

仮SS/【龍馬・武市・高杉・久坂・柊】女傑評議5


11月。勅使が江戸に到着してから半月が経過するも、勅使らはいまだ将軍家茂と会えずにいた。そんなある日、萬年屋にて龍馬・高杉・久坂・柊(武市の供)の面子で呑んでいた武市。互いの思念を確認し合う良い雰囲気での会合であったが、その中で桜川はつみの事が話題にのぼり、事態は一変する。

仮SS/【乾・容堂・武市】江戸取引・弐


12月。柳川左門という偽名での登城ながらも実際には土佐下士の身分にして将軍の御目見えとなった武市半平太。はつみはそんな武市に対し『もはや自分の言葉が届く様な人ではないのかも知れない…自分の都合で彼の運命を変えるなんてできないのかも知れない』と思いながらも、乾退助との『取引』によって得た最大の好機に対峙しようとしていた。

●文久三年…武市34歳、はつみ23歳

―京―


【武市・新兵衛】嵐の前の静けさ


1月。再び上京し武市と合流していた田中新兵衛ははつみの姿が見受けられない事を受け、武市に『初詣』を提案する

仮SS/【武市・以蔵・寅之進】歴史の力


京坂に人斬り以蔵の噂が流れ始める。池内大学殺害の犯人は『以蔵ではない』。これは明確な濡れ衣であり、そして図らずも歴史とは違う展開を見せていた

仮SS/【武市】思想違え何する者ぞ


一時土佐へ帰藩していた武市が再び京へと戻ってきた。早速容堂との直接対決かとも思われたが、ここにきて高熱を出し再び寝込んでしまった。

・山内容堂公、大坂・京へ至り、土佐勤王派への圧を強めていく。
詳細

(1月31日)賀川肇の首が慶喜がいる東本願寺へ、腕が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じるためある意味身動きを拘束される事となる。)
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の生首が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月11日)攘夷期限を迫る暴動を起こした中山忠光が長州・久坂らの元へ転がり込むが、手に負えない久坂らが武市の所へ転がり込む。武市の案にて、久坂達の対関白・断食座り込み(ストライキ)が決行され、久坂ら姉ヶ小路公知ら12名の血判書を用いて後押しした。孝明天皇は直奏を受け入れ、攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に下す。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。時勢を見る容堂は、先日帝から勅命が下った事も当然把握していた。その為、武市らの『土佐勤王党』に内心腸煮えくりかえる想いを抱きつつも、むしろ寄り添うが如く言葉を下す。甘いものが好物であるとする武市に『菓子』を送るなどするが、労っての『菓子』なのか、それとも『下士である事をゆめゆめ忘れるな』という皮肉を込めての菓子であったのかは定かでない。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。
(2月25日)京藩邸にておよそ半月の謹慎処分を受けていた坂本龍馬が、この日『御叱り』を以て脱藩罪を罷免され、解放。下田会談による勝海舟と山内容堂による特例の措置が実行された。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。




仮SS/【龍馬・武市】越えられない壁


およそ一年前に脱藩した坂本龍馬が『12日間の謹慎』という短期間での簡易的な処罰にて例外的にその罪を許されていた。
(2月)龍馬、権平と再会し喜び合う。

仮SS/【武市・以蔵】友人


武市のもとに以蔵の報が入り、彼について、はつみが『修正』を施した事に武市は深く感謝を示す。

仮SS/【武市・寅之進】春雨


ボロボロと溢れる涙を、降り注ぐ冷たい雨が隠し流していくかの様だった。

仮SS/【武市】慕情と後悔の狭間で…前編・後編
R15


この日、はつみは寝付けないでいた。手元にある火鉢に今晩だけで何本目かの炭をくべ、じわじわと燃える炭をじっと見下ろしている。

仮SS/【武市】椿の押し花


武市と椿を鑑賞した。美しく咲き誇った椿を見る目はどこか物悲しく、それは暗に、二人の心が寄り添っている様でそうでない在り様を映し出しているかの様でもあった。

仮SS/【武市・寅之進・沖田】人斬り
R15 微G


武市と市中を散策していると、壬生浪士組と名乗って市中警護を行う沖田総司らと遭遇。彼らとは何事も無く別れたが、その直後、武市を狙う刺客がはつみらを襲う。

仮SS/【武市・乾】漢気・乾退助編


事件があったその日。夜遅くであるにも関わらず寓居に来客の気配があった。柊が取り次ぎ、部屋に通されてきたのは、なんと上士の乾退助であった。

仮SS/【武市・龍馬】漢気・坂本龍馬編編


騒がしくばたばたと走り回り、中庭から姿を現したのは、いつもの朗らかな雰囲気とは打って変わって激高した様子の坂本龍馬であった。

仮SS/【武市・寅之進】最後の記憶


やはり、龍馬に託すしかないのだと…人知れず決心に至った。

京・天狗編

文久3年4月~元治元年6月

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●文久三年…武市34歳、はつみ23歳

―土佐―

京留守居組にまで大抜擢された武市であったが、薩長をつなぎ止める為の政策として容堂公との擦り合わせが必要であると考え、土佐へ帰藩中であった一行を追いかける。だが、これを機と捉えた容堂は「一存では決めかねる」と言って武市を土佐まで同行させた。そしてそのまま、土佐につなぎ止めたまま再入京を許す事はなかった。
詳細

(4月20日)将軍家茂、5月10日攘夷期限上奏・勅許を得る
(5月10日)下関攘夷戦争。
(5月20日)姉小路公知暗殺。義兄弟:田中新兵衛自刃
(6月8日)土佐勤王党員、間崎哲馬、弘瀬健太、平井収二郎、切腹
(8月18日)818政変。
天誅組主将中山忠光『逆賊』、『国賊』長州藩2000兵、七卿と共に都落ち。




【武市】告白


9月。投獄されるのは今日か、明日か…。武市は長年天袋の奥にしまったままであった一振りの短刀を取り出し、正妻・富を部屋に呼ぶ

●文久4年/元治元年…武市35歳・はつみ24歳

 ―土佐―


【武市】届かない声


2月。『捜査協力』の名目で色々と土佐勤王党や武市との事を『詮議』された。相手はしゃがれ声の小目付・野中太内。荒々しく威圧的にモラハラを行ってくる様な輩だった。はつみは自身の正当性や然るべき書状を持っている事を大前提に、かつてない程の論戦を繰り広げる。

(2月20日)~『元治元年』に改元~


【武市】獄中の桜


4月。青白くやせ細った己の顔を見て『この世の人間ではない』と自嘲する手紙を妻に送る武市は、まだ詮議も始まらぬ牢で日々を送っている。
詳細

とある同志を通して『匿名の手紙』が獄中へと届き、はつみが『無事』土佐から出た事を知り、安堵する。この手紙をよこした匿名の人物についても心当たりがあった。…恐らく乾退助であろう。…自分では何もしれやれなかった。そしてはつみにはやはり、自分の元にいるよりも相応しい場所があった。これが傷心というものなのかと想い更ける武市を慰めるかの如く、彼に心開く心優しい門番たちが、獄中生活の慰みにと桜の枝を差し入れる。これに癒しを感じる武市であったが、薄暗い獄中にあっては次第に花が色褪せて行く様子には却って哀愁を隠し切れずにいた。



【武市・以蔵】岡田以蔵、入獄


6月14日。これまで帰藩命令には従わず脱藩状態であった岡田以蔵が自主的に帰藩し、すぐさま投獄された。
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ながらく牢にて放置されていた武市らであったが、この5月からついに尋問という名の獄中闘争が始まっており、下士以下軽格の者は拷問もいとわないと予測される中で、武節・学識ともに稀薄な以蔵の捕縛は獄中同志らを不安にさせる。だが武市は、「以蔵は問題ない。この難局を切り抜けられる思慮と精神的支柱を備えた。」と評価し、以蔵に不安を感じる事はなかった。
一方、以蔵に何かしらの『期待』をしたらしい役人達はすぐさま以蔵を詮議に呼び出した。今の所以蔵を詰める表向きの理由は『勝海舟護衛時の殺人、桜川はつみ護衛時に田中新兵衛と私闘に及んだ罪』の様だが、以蔵が長い間武市の愛弟子として同行していた事は既に周知の通りであり、土佐勤王党による天誅等に関する事案に係る自白を期待しているというのが実状であった。
ある日、武市に差し入れられた袋一杯の蛍が、若干士気の下がる獄中内を一斉に飛び交っていく。この世のものならざるかの様な幻想的な風景に、思わず、はつみの姿を映し出してしまう。そして武市の傍を通った蛍がふわふわと漂いながら、風に乗せられ、少し離れた牢にいる以蔵の元まで飛んでいった。音もなく以蔵の肩に止まり、美しい光を放ち始める。…まるで何かが以蔵に微笑みかけているかの様に、優しく、いつまでも彼を照らし続けていた。


襲撃

元治元年6月~7月

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●元治元年…武市35歳、はつみ24歳

(6月24日)奸婦襲撃事件。
柊智ら長州・水戸派攘夷志士による桜川はつみ襲撃事件。


【武市】人以仁義栄


7月。花依清香愛 人以仁義榮 幽囚何可恥 只有赤心明
武市は獄中においてその心の内を漢詩にし、やせ衰えた自画像を以て認めた。
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富には心配をかけない様、『少々盛って美男に描いた』と自嘲している。差し入れられた桜や蛍に思い馳せた事、クソ虫こと伊藤礼平の煩わしくも好人物であった様子、そして獄中闘争よおび容堂への思い…全て飲み込み、仲間との結束でこの困難を乗り越えるのだと決意を込める。

皆の心配の種であった以蔵は非常によくやっていた。度々呼び出され詮議は進んでいる様ではあったが、土佐勤王党に係る影響は今の所見られない。確かに以蔵ははつみの護衛に出していた事もあり勤王党の密事には加担していない。しかしそれでも内情についてはあれこれと知っているため、責められればいつ口を割ってしまうかと皆不安だったのだ。
以前、以蔵が『活人剣』について口にするなどして精神的な成長の兆しが見られた事があったが、それにははつみの影響が多大にある様に思われた。獄中においては仲間の姿を見る事も適わない状況であったが、それでも同部屋の同志などからの手紙で『以蔵が髪を切りよった』『思いもよらぬ器量良しにて』と、驚きと共に友好的な報告も入っている。常に前髪を垂らし顔を隠していたのには理由があるのだが、それを知る者は極めて少ない。これについても以前はつみから『以蔵の前髪を切ってやった』との話を聞いていたが、あれから数年が経っても自ずからその様に手入れしているという事は、明らかに以蔵の心境に変化があったという事だろうと思い馳せた。
『人は仁義を以て栄える。』この詩に込めた想いは簡単に言い表せるものではなかったが、だが今の以蔵やはつみが以蔵に関わってやった事を思うだけでも、『仁』を感じる事ができた。


東西奔走編

元治元年7月~慶応元年閏5月

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●元治元年…武市35歳、はつみ24歳

 尊王攘夷派の凶刃に倒れたはつみであったが、勝海舟および勝海軍塾(神戸海軍操練所含)による庇護のもと、現場に居合わせた新選組や、報を聞いて駆け付けた薩摩小松による迅速な援助もあり一命は取り留めた。しかしその背中には著しい刀傷が残る結果となる。 そんな中、はつみは一縷の望みを見出していた。
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 とある事情から、はつみは池内蔵太による手引きのもと、『四カ国連合艦隊による報復戦争』真っ最中の長州・伊藤、そして高杉らと合流し、更には長崎遊学以来の知己であるアレクサンダー・シーボルトらと再会。以前よりひょんな事から『ペンフレンド』となっていた同英国領事館付き通訳生のアーネスト・サトウとも初めて顔を合わせていた。そして図らずも英国公使ラザフォード・オールコックにまで謁見する流れとなっていた。
 文久元年以来これまた横濱で出会って以来の知己である英国人画家のチャールズ・ワーグマンが手がけた人気の風刺冊子『ジャパン・パンチ』にて『抑圧された女神』という『社会にその才を抑圧される女性』といった社会問題を題材とした人気キャラクターが出てくるのだが、そのモデルがはつみである事は英国公使館内では知られた事実であったのが興味を持たれた要因であった。
もともと知己であった人物がいた事もあって彼らは友好的に接してくれたが、この時は『長州萩・熊谷家へ贈られた老シーボルトのピアノ』がきっかけで、異文化交流としても非常に『ポジティブ』な結果を残す事ができていた。(無論、攘夷派からは更にきつい視線を浴びる事にはなっていたが)

―はつみは、土佐を動かすには『これ』しかないと考える。
自分がこれまで進めてきた英会話術も最大限の形で活かし、土佐容堂へアピールする事ができる。

 大坂へ戻るなり、丁度江戸へ帰府命令の出ていた勝海舟に直談判して共に横濱へと向かい、ある策を以て英国領事館へ向かう。 この頃英国はすでに薩英戦争および長州攘夷戦争を経て薩摩や長州とは友好関係を結んでおり、弱体化する幕府へ付きっ切りとなるフランスとは違い、幕府を文字通りに『支える』各雄藩・大名との交流に重きを置く方針をとっていた。その為、今後もあらゆる藩への友好的交流と貿易関係を結んでいくはず。歴史上土佐も決して例外ではない。それに先駆け、はつみが自前の知識と語学力を以て仲介する形で土佐と英国が友好関係を結べば、何かしらの形で土佐内部において発言権が生まれるのではないかと考えたのであった。…文久2年時の江戸、乾との取引といい、あらゆる人脈を『利用』する形となる事に複雑な思いも勿論あったが、こういった活動こそが志士達が率先して行っていた『周旋活動』そのものであり、自分も彼らと同じ様に未来を切り拓いていくのだと割り切って乗り込んでゆく。

―しかし、何故武市の運命はこんなにもはつみを拒絶するのか…はつみが英国公使館を尋ねた時には公使ラザフォード・オールコックは早々に帰国の途に付く事が決定しており、次期公使の赴任についての詳細は勿論、公使不在の穴を埋める為の臨時役である代理公使すらも来日していない。つまり英国公使館として外交上の決定権を持つ人物が不在というこの上ない『バッドタイミング』であった。

 更にその直後、江戸へ帰府していた勝海舟は池田屋事件等の狼藉者が海軍塾などに多数在籍していた等が直近の大きな理由としてあらぬ疑いをかけられ、失脚。勝海軍塾および、この初夏にようやく開設となった神戸海軍操練所そのものまでが取り潰し決定となってしまう。はつみらは勝が残した言葉の通り薩摩を頼り、その庇護を受ける形となる。

秋。薩摩庇護の下、引き続き勉学に励む事はできたが自由に動く事はできない。しかしはつみはまだ諦める事無く、むしろ土佐容堂と思想が近い薩摩の元に在るのならばあるいは…と必死に武市の元へ辿り着く為の策を考えていた。目下、頼りは小松帯刀であったが…。



(7月19日)禁門の変
(7月24日)乾、町奉行に復帰・就任
(8月11日)乾、大目付を兼任
(8月)乾、『屏風囲い』にて武市を尋問。冒頭で『疝気』を見舞う。武市、この頃から腹痛(腹部の癌)に見舞われている。
(8月30日)幕府、長州藩主父子の官位、将軍偏諱の剥奪を発令。 (9月5日)土佐、武市らの解放を唱えた清岡道之助ら野根山23士、斬首
(9月11日)乾、後藤、武市尋問。東洋暗殺、盟、井上暗殺、本間暗殺等について尋問する。この尋問を期に、武市は『下へ落とされる(格下げされて拷問適応とされる)』事を覚悟する。
(9月24日)武市、自らのため毒薬を入手する。併せて弟田内衛吉への毒薬の差し入れを依頼。
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獄外参謀島村寿之介は武市の服毒に異を唱え、士節を全うし『拷に死すべし』と言う。
それは『拷問』というものを考えればいかに難しい事か、毎日死ぬ間際の色んな拷問を繰り返されれば 舌を噛み切るやもしれぬ。と武市は返している。体力があれば堪える事もできようが、ふんばりも効かぬ 立ち上がる事にも苦労する病の体では耐えられないかも知れない、という思いがあった。
病による激しい下痢のため、出廷できない日も増えてきていた。弟田内衛吉もまた『疝気』気味であった。彼に歴史の修正力が働こうとしていた。



【武市・以蔵】歴史の歪み


11月。土佐勤王党員への取調べは夏の頃より苛烈さを増し、下士達に対しては拷問も行われる様になっていた。れでも史実とは違う『好転的な』現象が要所要所で起こっている事を、大阪薩摩藩邸にて身動きできずにいるはつみは知る由もない。
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武市はというと腹痛・下痢・発熱を伴う『疝気』を患い、立ち上がれない時がある程の深刻な体調不良を度々引き起こしている。皆心身ともに極めて過酷な状況にあり、体が折れ気が弱って自白してはならぬとの事から、イザという時の自決用経口毒まで用意する事態となっていた。

 これだけを見ても凄惨たる獄中闘争ではあるが、それでも史実とは違う『好転的な』現象が要所要所で起こっている事を、大阪薩摩藩邸にて身動きできずにいるはつみは知る由もない。

土佐藩庁が期待した『以蔵の自白による事態好転』にはなっておらず、武市と共に投獄された勤王党員および以蔵ら下士組は日々の拷問に遭いながらも自白をせずにいた為、詮議は証拠不十分として行き詰ってしまう。しかし容堂始め佐幕・公武合体派の執念も凄まじかった。去る文久3年3月頃に容堂が武市から示された『土佐勤王党血判状』に書かれていた名前の記憶や土佐『外部』からの情報を『見込み』容疑として調べ上げ、該当者に対し出頭要請や親族預けを申し付けた。中には出頭詮議の際に上手く立ち回れず関係性を看破されてしまい、結果、逮捕され投獄となる者が出てきたのだ。それが、史実でも『自白組』とされた以蔵以外の3人。彼らによって再び詮議に勢いがつき始めたのが9月の事であった。
久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の3名。史実では以蔵が自白した事によって8月に投獄となった者達である。今回以蔵が自白しない関係で彼らの投獄時期に変動が出たが、結局は歴史修正の因果が及んだか逮捕となり、拷問適応で自白へと至った。

それではなぜ、寅之進や以蔵はその修正を受けていないのか?
そして今、武市の実弟である田内衛吉も、その謎めいた歴史の歪みの因果を顕著に受けようとしていた。


(11月11日)長州恭順派が台頭する。
(11月12日)長州正義派・永代家老・福原越後、切腹。野山獄に容れられていた4人の正義派参謀ら斬首。
(11月28日)田内衛吉、『疝気』が重くなり急激に蝕まれていく。
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(史実上では以蔵の自白によって拷問を繰り返され、耐え切れず天祥丸を含み自決した命日)


(12月)武市実弟・田内衛吉、獄中にておびただしい下血と発作を起こし、『病死』。
(12月)土佐、容堂が土佐勤王党の取調べを見る為入庁する日が増え始める。これによって拷問は苛烈さを増し、身分を落とされて拷問適応にされる者も増え始めた。

(12月15日)長州正義派:高杉、奇兵隊。功山寺挙兵

●元治二年/慶応元年…武市36歳、はつみ25歳

(1月)高杉ら正義派の奇兵隊が快進撃を続ける。
(1月14日)深尾丹波に「武市瑞山上士昇格に便宜を図った」疑いがかけられるが乾がその罪を被って大目付・軍備御用兼帯を解任される。
(1月)後藤象二郎、大目付役を解かれる。詮議(拷問組)再開。

【武市】覚り


1月。武市、逮捕を受けた時と詮議の重点が変わってきている事を悟る。
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つまり『同盟(血盟徒党)問題』『国事周旋(京師)問題』、『吉田東洋殺害』。京での暗殺など個々の事ではなく、それらが繫ぐもの、つまり「土佐勤王党」と「その党首である自分」に対する「政犯および『吉田東洋暗殺』についての詮議」というざっくりと間口の広い…且つ、極めて限定的な一点を詰めた容疑であると。
恐らく、これまでの詮議、拷問では満足の行く極刑を与えられる程の証言を得られなかったのだろう。そもそも容堂の根底には『藩主や容堂を差し置いて藩法に背く謀反ともとれる徒党』を組み、その上で、『己の右腕たる吉田東洋を暗殺せしめた』、『幕府ありきの土佐、その幕府を正す為の幕政改革ではなく、野蛮て浅慮な尊王攘夷という思想のもと認めぬ国事周旋の尻ぬぐいをさせられた』といった事があったと。
…はつみが遠巻きに言いながらも恐れて止まなかった真実とは、こういう事だったのだと真に理解へと至る武市。しかし感傷に浸る暇はなく、もはやまともに座っている事すらもできない病み抜いた体であってもまだ党首としてやるべき事、立ちはだかるべき瀬戸際にあると気力を奮い立たせる。『ならば』とばかりに過去の容堂公との会話と認知について明確に証言してみせた。
すると以降は(一時的に)盟への事は一言も言われなくなり、詮議も一時中断となった。


(2月)土佐、親族預けの勤王党員を『疑いあり』として次々に出頭命令および入獄させる。
(3月8日)容堂、入庁。南会所へ入る。島村衛吉取り調べ。苛烈に言い返す。
(3月20日)土佐・島村衛吉、『下に落とされ』拷問となる。
(3月22日)武市親族、出養生願を提出。
(3月23日)島村衛吉、拷問死。締め木による圧死。
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監察方は最初から殺すつもりかの如く大拷問を行い、武市の耳にもその断末魔の叫びや唸り声、拷問機の音が聞こえた。遺体は親族へ下げ渡される形となったが、藩庁からは『厳刑が予定されていたが山田獄舎へ戻った後病死した。首も落とさず渡す恩情の処置』とうそぶいた説明があった。
この時島村を拷問していたのは野中太内という、過去にはつみを詮議した事もあるしゃがれ声のモラハラ男。今年1月から大目付となっていた。


(3月26日)島村衛吉を獄門死させた野中太内、大目付と外輪物頭の役職を解かれる。
(3月27日)乾、謹慎を命ぜられる。
(3月27日)後藤象二郎、再び大目付役となり再登板する。武市は東洋の甥でもある後藤を警戒している。

【武市】苛政
R15


3月末。数日の詮議中断を経て、再び下士組への詮議・拷問が始まる。これまで望む展開を得られずついにしびれを切らした藩政は、これまで獄外において『親類預け』として謹慎させていた勤王党員達を唐突に『疑いあり』として次々と逮捕、投獄していく。その急すぎる動きには藩側の焦りもにじみ出ていた。
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容堂が入庁し、この獄のどこかから詮議の様子を伺う。…それから間もなく、武市の古くからの同志であり投獄初期からの同志でもあった島村衛吉が、拷問により死亡してしまった。
武市の逮捕・投獄と同時に入獄していた島村衛吉は、武市自身も塾頭を務めた江戸桃井道場で同じく塾頭に抜擢された剣豪でもあった。故に気丈な衛吉は日頃の詮議においても非常に語気の強い応答、態度を改めなかった事で目付たちを怒らせる事も多かった。
その様子を容堂が見た事が関係しているかどうかは憶測でしかないが、3月20日、武市の妻の親族である衛吉は上士格であったにも関わらず、此度この獄中闘争において初めて『下へ落とされ』拷問適応となる。3月20日から23日まで毎日拷問が行われ、その様子は外で聞いている武市達も不審に思う程に尋常でなく苛烈であり、結果、23日3回目の拷問において衛吉は圧死してしまった。

初期から獄にいる森田金三郎ら数名や以蔵などはもう何度拷問にかけられたか分からないが、あくまで自白を目的とした拷問であり致命傷を負った事は未だにない。だが衛吉はたった3度の拷問で、さらにその拷問中に死んだのである。江戸桃井の塾頭を務める程の剣豪であった衛吉が、手足を拘束され抗う事もできない状態で耐え抜きながら『死ぬほど』に絞め殺された。親族に対しては『拷問後牢に戻った所で衰弱し死に至った』『格別の計らいを以て首を落とさずそのまま帰宅させる』等とうそぶいたとの情報も入ってくる。

果たして衛吉に対し、藩政は一体何を問うて『死ぬほど』の激しい責めを行ったのか。状況から考えれば見せしめであったのではないかとすら考えられる。あまりにも無念、あまりにも『苛政』であると、藩政…容堂に憤り、嘆いた。



(4月7日)『慶応元年』へ改元

(4月18日)幕府、(第二次)長州征討進発令。

【小松、龍馬、武市】『大航海時代』の到来


5月。かつて、イギリスなどの西洋人が航路を切り拓き、アメリカ大陸やインドを発見。交易事業を以て世界の一体化が急速に広がった時代について想い馳せるはつみ。『やまき』の浜崎にも興味を持たれこの話をするが、この事業がもっと早く土佐にも入っていたら、武市の目に見せる事が出来たなら…と次第に口を紡いでしまう。
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はつみは薩摩の若家老・小松や龍馬ら元海軍塾生・神戸海軍操練所生らと共に長崎鼻・山川港に滞在している。…そう。土佐とは殆ど関係の場所にやってきていた。
日本全国及び琉球など薩摩の公益事業の要となる大港で、ここを取り仕切っているのも小松であった。大交易社『やまき』を運営する大豪商浜崎家が所有する巨大な造船所や千人風呂と言われる巨大すぎる温泉、たくさんの船、荷物、人夫でいっぱいの港と宿場大変な煌びやかさと賑わいを見せている。長崎や横濱といった異国との貿易で富を得た町を見た事もあったはつみであったが、この風景を見て改めて、かつてイギリスなどの西洋人が航路を切り拓いてアメリカ大陸やインドを発見し、交易事業を以て世界の一体化が急速に広がった時代について想い馳せる。
物思うはつみの頭の中身を覗きたがる小松は話を聞き出して感心し、『やまき』の浜崎にも興味を持たれこの話をするのだが、この事業がもっと早く土佐にも入っていたら…武市の目に見せる事が出来たなら…と次第に口を紡いでしまう。土佐の獄中闘争について詳しい情報を知る者は、少なくとも周囲には一人としていない。土佐は相変わらず他藩からの出入りを厳格に取り締まっており、はつみはもはや藁にもすがる思いで、獄中において歴史の改変が起こっている事を祈るしかできないでいた。



【武市・以蔵】獄中闘争の終わり


5月28日。武市、引きずられる様にして何とか出廷。後藤象二郎より御見付を受ける。「偽りを申し党を結び、お上を軽蔑し、京の高貴の方へ取り入り、隠居へ非礼な事度々あり。この上は当罰あるにつき心得よ」
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5月。武市に対し、『茫漠たる国事への違反』『謀反』『徒党』といった国事犯へ対する辛辣な言葉が連なる。それは容堂が『勤王派』であれば『正義』『精忠』といった言葉として出てくるはずのものであり、その意味するところはつまり武市らとの対立である。土佐勤王党に対し猛然と『対立』し、妥協する事はない。以前武市にかけた数々の労いや気遣いの言葉は偽りであり、今となっては同情の余地すらもないという意味だった。
また武市は詮議の最中「三条実美に討幕を申し出た事があるだろう」とも言われ、これに対し『帝や朝廷の御為に三条様姉ヶ小路様方と思索した数々の事案を不躾に『討幕』などと敵対の一言にまとめて済ませるのか』と心底驚く。昨今、土佐の脱藩浪士達も多く加勢したと聞く天誅組の件や正義派が台頭した長州の影響か、『土佐は反幕ではない』と主張したいが為の擦り付けのような罪状を申し付けようとしているのかとすら思えた。
そして、後藤からの『御見付予告』があって重罪の予感を妻・富へ認めたその数日後の28日。容堂が入庁し、詮議場には後藤を始めこれまで詮議に関わってきた役人達がずらりと居並ぶ中、ついに獄中闘争の終わりを告げる『御見付』が告げられた。
「御見付」とは、自白や証拠、証言などを参照としない、いわゆる一方的な断罪であった。


(閏5)土佐、土佐勤王党関連の詮議総仕上げとばかりに更に多くの士が出頭及び投獄、出廷となる。

【武市・以蔵】余生


閏5月。『疝気』による激しい痛みや発作に伏せつつも処分の沙汰を待つばかりの武市は、恐らくは一方的で厳しい沙汰が下されるのであろうと覚悟をし、『余生』のつもりで日々を過ごしていた。『余生』と覚悟をして残りの日々を生きる武市ではあったが、同情的で協力的な門番が様々な話、外の様子を聞かせてくれるのが有難かった。

仮SS/【武市】不鳴蛍焦身


…思案の後、どこからか現れた蛍が、まるで寄り添うかの様に光を灯す…。



―終―