江戸遊学編
文久元年6月~12月―江戸―
仮SS/【高杉・桂・伊藤】お手並み拝見
8月。桂に誘われて昼食に出ていたところで、伊藤俊輔と高下駄を履いた着流しの武士に遭遇する。
【高杉】百聞は一見にしかず
色々と思う所のあった高杉が、自らはつみを訪ねてやってくる。こうして不意を突いて尋ねても男の格好をしていたが、やはりこやつは女だと悟る。…悟って尚『知りたい』とする欲求が自身の中にある事を自覚すると同時に、フと香ったよく知る香りに、何かが琴線に触れてしまった。
仮SS/【高杉・桂】暴れ牛 R15 (挿絵付)
9月。公武合体を望む帝は長州藩長井雅樂の『航海遠略策』を良策とし、これが名実ともに主要藩論となるだけでなく朝廷幕府の両方から信を受ける事態となっていた。水戸との『成破の盟約』を果たさんと画策する桂や久坂、そして高杉らは焦燥を極め、事ここに至って高杉の機嫌は特に悪く…これはこれで、いつ何をしでかすか分からない―と、桂の懸念…いや、ボヤキを聞く。
仮SS/【桂・高杉・久坂・伊藤】女傑評議
9月。4人で飲んでいた矢先、話題がはつみの話になる。切り出したのは伊藤で、彼もなかなかに物好きな事から少々浮ついた話題として『桜川殿はやはりどう見ても女子ですよね?最初は騙されかけましたよー』とその名を出した様であった。
詳細
しかし高杉はあからさまに機嫌を悪くして無言になり、久坂は難しそうに眉間にしわを寄せて酒を煽り出す。とかく久坂に至っては、はつみの事を『あくまで開国派』と言い切り、同志とは思えていない様であった。久坂のはつみ評論を聞いていた高杉は、先日の一件ではつみに対して苛ついていたにも拘らず、久坂に対してはそのはつみを庇うような形で口を挟んでいく。桂と伊藤は驚いて顔を見合わせ、二人の言い合いをじっくりと見届けるのだった。
仮SS/【高杉・桂・伊藤】はつみ塾入門?
10月20日。長井の件から一転して、なんと高杉の幕府英国使節団入りが決まる。桂や周布による周旋があっての事だが、彼らの予想通り、高杉は誰それを斬ったり亡命するなどいった暴言を履かなくなり、寧ろ英語を学ぼうという発想にまで至るようになっていた。その宛てはもちろん桜川はつみであった。
仮SS/【龍馬・桂・高杉】女傑評議その2
11月頃。英国遊学の話がなくなった高杉を励まそうと連れ出していた桂と、龍馬がばったりと出くわす。そのまま飲みに行く事になった3人であったが、龍馬がはつみに次いで『異国』の事を話せる男であった事もあって、高杉の英国遊学が中止になった点に嫌味なく同情を示す。それなりに打ち解けて無礼講となり、女遊びが始まる。
「坂本君は奥方が国におられるのか?」
「いやいや、わしは部屋住みじゃき。そうでのうてもわしなんぞに嫁ぐ嫁などおらんきね!」
ここから、男達の女関係についてあらゆる情報交換が行われ…そして追求こそしなかったが、皆が皆はつみに『一目』置いているというのを何となく察しあう三人であった。
仮SS/【高杉】浅草寺クリスマス
12月23日。改めて上海渡航が決まった。あと10日もしない内に江戸を出立する為、準備や下調べに掛かり切りとなると懸念して急遽はつみを呼び出した。
一念発起編
文久2年1月~6月―長崎~上海―
仮SS/【高杉】異文化こみゅにけーしょん
1月から長崎入りをしていた高杉であったが、上海の情勢が芳しくないとして長期滞在をする事態となっていた。当初3月出航との予定でもあったが、それも伸びに伸びて4月の中旬である。そしてようやく、幕府が所有する蒸気船『千歳丸』の整備が整い次第近日中に出航との報せが舞い込んでいた。
京・天誅編
文久2年7月~文久3年3月―京―
仮SS/【高杉】唇に金平糖
上洛中の長州藩主に上海視察の報告をする為に上京していた高杉は、土佐藩邸にてはつみと『偶然』再会する。
―江戸―
(閏8月下旬)高杉、世子に防長割拠を建言した後、脱藩。『狂挙』に出る。
(9月)高杉、加藤有隣に諭されて帰藩。うやむやに許される。
仮SS/【高杉・伊藤】虫の居所
11月。京では良い形で別れた高杉を尋ねる為、長州藩邸へ手紙を出していたはつみ。それを受け取った伊藤がわざわざ旅籠を訪れてくれたので、そのまま高杉がいるという料亭へと足を運ぶ事となった。
仮SS/【龍馬・武市・高杉・久坂・柊】女傑評議5
11月。梅屋敷事件の前日、萬年屋にて龍馬・武市・高杉・久坂・柊(武市の供)の面子で呑んでいた。互いの思念を確認し合う良い雰囲気での会合であったが、その中で桜川はつみの事が話題にのぼり、事態は一変する。
●文久三年…高杉25歳・はつみ23歳
(1月13日)高杉、伊藤らと共に江戸にて高槻藩士・宇野八郎を殺害。
(1月)長州世子、江戸出立。世子小姓の聞多らも同行するが高杉は江戸に残り酒色に日をとざす。高杉は江戸に残って酒色におぼれ、「狂」の字を好んで変名や詩を詠む。師・松陰も得た陽明学「世に容れられぬ、至誠にして純粋なやむにやまれぬ行動」
仮SS/【高杉・以蔵】東狂 R15
2月。高杉には「小三」という馴染みの芸者がいたが、口が軽かった為一方的に別れを告げていた。このように、彼はまた、酒色に溺れるや廃れた日々を送っていたのだが、そこへ思いもよらぬ、土佐からの客人が現れた。岡田以蔵という軽格の武士だ。
(2月下旬)高杉、世子に言われて迎えに来た井上聞多と共にぶししぶ江戸を発つ。
―京―
(3月4日)14代将軍家茂、299年ぶりの将軍上洛。
(3月11日)孝明天皇、将軍家茂、賀茂社行幸。
(3月11日)高杉、上京。賀茂社行幸を雨の中遠巻きに見る。
桂や周布と話すが、割拠論は受け入れられない。かかる時間は10年と言われ、10年暇を乞う。笠間亡命事件と外国人襲撃未遂事件の処分という事で受理される。
(3月23日)将軍家茂が近々帰東するという噂を聞き周布へ相談し、家茂が抑留の勅諚を拒否すれば斬ろうと説く。将軍を斬る為の刀として毛利の家紋を削り落とした大業物を受け取るが、昨年末に結成された御楯組は26人もいたのに、今回応じる者は入江九一ただ一人だった。嘆き、酒色に溺れる。
※この頃、伊藤の脅しによって男から解放され自由の身になった幾松と桂が恋人同士となっている。
断髪し、東行と名乗る。
※高杉晋作、ビジュアル変更
仮SS/【高杉・伊藤】傍若無人
3月。高杉の様子を池内蔵太から伝え聞いたはつみが、高杉の根城(妙満寺境内の一隅)へ顔を出した事で、二人は昨年秋の江戸で喧嘩別れをして以来の再会となったが…。
京・天狗編
文久3年4月~元治元年6月(4月10日)10年休職中の高杉、堀真五郎に連れられやさぐれ状態のまま山口へ帰藩。妻雅子と二人だけの庵に引きこもる
(5月10日)長州、馬関を通過する外国商船に向けて『攘夷』を決行する。
下関攘夷戦争及び奇兵隊創立
(5月10日)下関攘夷戦争。深夜、田ノ浦に碇泊していた米国商船ペンブロック号を砲撃。高杉、武装もしていない商船を次々と砲撃して『攘夷攘夷』と湧き立つ藩政に心底呆れる。武装した外国船による報復が必ず行われるだろうと予見した。
(5月)長州ファイブ、英国留学へ向け出港
(6月1日)長州世子定広、壬戌丸で小郡へ帰還する予定だったが中山忠光以下光明党60人の訪問を受ける。姉ヶ小路公知暗殺を受け、中央政情を探る為の暇乞いであった。
世子定広が帰還しようとした時、異国軍艦からの号砲が響き渡る。
(6月1日)馬関攘夷報復戦1戦、米国艦ワイオミング号。
砲6門搭載700トンたった一隻により亀山砲台が跡形もなく破壊され、壬戌丸、庚申丸が轟沈、癸亥丸大破。死傷者100名の被害を出した。世子定広は上陸し伊崎の日和山から一部始終を観戦、目に焼き付けた。
(6月)長州藩政会議にて世子が高杉を指名起用。藩庁慌てて高杉を招集。応じない高杉。
(6月5日)高杉、請われて藩政に復帰。政務座役・奇兵隊総督
(6月5日)馬関攘夷報復戦2戦、仏国セミラミス号、タンクレード号。
(6月11日)高杉、自ら筆を振るって白石邸の本門に『奇兵隊』の札を掲げる。
『奇兵隊は陪臣軽率藩士を選ばず同様に相交わり、もっぱら力量を以て貴び、堅固の隊を整える』
仮SS/【高杉】今生かぐや姫
6月。―少なくとも、目の前でかぐや姫との思い出を語る高杉を見ていれば、彼がその心に彼女の残像を抱き続けている事は明白に思えた。…これは、長年あらゆる人を見て来た白石の直感にすぎないが…その直感こそ侮れないという事を、白石自身が自負している。
うの との出会い
6月中旬。当時、大身組から真っ先に奇兵隊への入隊を希望した総奉行使番・宮城彦助(51)や下関新地会所にて総奉行手元役を務めていた来嶋又兵衛らの協力を得た事もあり、奇兵隊の人数は70名を超える所帯へと成長していた。拡大する奇兵隊を阿弥陀寺と隣の極楽寺へ移転し、高杉自身も一旦白石邸を出て西ノ端の入江和作の家へ寄宿する事となる。
殊更、寄宿する事になった総督高杉にも多少の息抜きは必要であろうと、激務の合間を縫って徒歩数分の所にある花町へと案内する。この日は堺屋の此ノ糸という芸者たちが場に華を添えてくれた。途中まで小難しい思想の話をしていた高杉たちも、酒が進むにつれて余興を楽しむ余裕が出て来たところで、入江が小気味よく三味線を鳴らす芸者を連れて高杉のところへと押しやった。
押し付けられて小恥ずかしそうに身なりを直する此ノ糸を見ていた高杉は、手元の三味線を見て機嫌よく手を伸ばす。
「三味線か、どれ僕に貸してみたまえ」
「まあ、お上手。身体が躍り出してしまいそうやわ」
そう言って此ノ糸は立ち上がると、高杉の三味線に合わせて可憐に踊り始めた。高杉は満足気に三味線を鳴らして久方振りの芸者遊びを楽しみながらも、心の中ですでに妻以外の誰かの存在を思い浮かべている事にはすでに自覚を持つ所であった。
…そこへ更に三人目の存在が現れ、『両花艶美を競う』どころではなくなるとは、この時はまだ思いもしなかったが。
こうして楽しい一夜が…出会いとなる一夜が過ぎ去っていくのだった。
仮SS/【高杉】奇兵隊、理想と現実
8月16日。かねてより軋轢が生じていた奇兵隊と先鋒隊の間で、死傷者を伴う教法寺事件が勃発する。400石の大身ながら一早く奇兵隊へ編入希望を出してくれた宮城彦助と共に高杉もこれに巻き込まれ、そして長州は時勢のあおりを受け混迷を極めた。
(8月17日)天誅組の乱
内蔵太、天誅組の幹部として紀伊へ向かっていたが幕府の反撃を察知し急ぎ戦場へ戻る。
(8月18日)818政変。
仮SS/【高杉】電光石火の如く
部屋を出た高杉は怒りに燃えていた。そして教法寺事件の顛末を聞き付けた周布らと協力し、奇兵隊を山口政事堂の喉元、小郡へと転陣させる策を即座に展開する。
(9月24-27日)長州、来嶋や久坂らの帰藩を受け御前会議が行われる。しかし高杉の『割拠論』はいまだ受け入れられず、高杉は再び『10年暇』の続きとして総辞職する。
(10月1日)休職の高杉に新知160石を与え世子奥番頭を任命。高杉は父の「育み」を卒し自立する。
詳細
長州藩主、全藩士に向け親書をくだす。
「たとえ防長二州が滅びようと一致団結、この艱難を乗り切ろう」
高杉は「そうせい公」が見せるリーダーシップを前向きに受け入れるも、軍備が今のままでは
決意も無駄になり長州は焦土と化すだろうと先読みしている。
(11月15日)高杉、世子上京用掛を任命される。名を東一と改める。世子に先駆け久坂らが上京し調整を図るが、朝廷に受け入れられる様子がない。正義派の中でも過激派とされる人達が、次第に進発の動きを見せ始める様になる。
●文久4年/元治元年…高杉26歳・はつみ24歳
―長州・三田尻―
(1月)三田尻に布陣する来嶋又兵衛。遊撃軍一同亡命し、上京しようと言い出す。これに対し世子定広は、高杉に藩主父子による直書を持たせ、来嶋の鎮撫に向かわせる。
(1月28日) 高杉、進発上京を息巻く来嶋又兵衛を世子の名のもとに4日間説得するが、5日目になって自らが脱藩し上京するに至る。
「僕の得意とするのは真の割拠であり真の進発だ。ウワの割拠は不得意である。ウワの進発は聞くも腹が立つ」
来嶋が聞かぬのなら京師にて工作を行う桂や久坂を説く必要があると考えた。故に、今回の脱藩は『狂挙』ではない。この様な経緯故に申し開きも立つと考えていた。
―京―
仮SS/【桂、高杉、久坂、中岡】女傑評議6
2月2日。河原町藩邸に入ると面々と再会し、進発の時期を更に熟考する必要があると説くが、高杉の思想と主張はまたも彼らに深く刺さる事はなかった。
ある日、桂が中岡にはつみの事を訪ねる。昨年の12月に長州出身の浪士が『桜川はつみを仕損じた』と話していたのを聞いたと、顔色を変えていた。中岡や久坂ははつみに対し厳しい意見を述べるが、桂と高杉は彼女を擁護する様な意見を述べ、謎の小競り合いが始まる。
(2月20日)~『元治元年』に改元~
―長州・萩―
脱藩罪
(2月29日)島津暗殺の話は立ち消え脱藩者として居場所もなく無為な日々を過ごす高杉は世子の書簡を受けて帰藩した。しかし、即座に親類預けとなり、更にこの日、脱藩罪にて野山獄入牢となる。
『新地160石を以てお取立てになった格別のご寵愛を良い事に、自分だけの了見で潔白がましい振舞を以て新地を投げ打つなど、古今にその例を見ない』
知行没収、雅子は親類(高杉家)に引き取られた。
また、野山獄に投獄された者はそのほとんどが処刑を受けており生きて出る者は殆どないとの噂もあった為、高杉はいよいよ覚悟を決めながら、読書や詩作などをして沙汰が下るのを待ち続けた。時に、酔った周布が罪を得るのを承知で高杉に会いに来るなどある中、およそ3か月程の獄中生活を送った。
(6月1日)高杉、出獄して座敷牢へ移るも、実家の奥二間を締めきって釘付けにし鍵をかけられ、謹慎蟄居、面会謝絶。
(6月10日)長州藩士・井上(志道)馨、伊藤俊輔、イギリスから帰国。横濱にて英オールコック公使らと面会し下関砲撃への猶予を交渉。受け入れられる。
(6月12日)池田屋事件の報が山口に入る。過激派達が報復に出んと進発の動きを見せる。周布は謹慎、高杉は入獄、桂は不明のため、過激派を止める者がいない。
来嶋と久坂が遊撃軍、有志隊を率いてついに進発。家老や諸隊も続々とこれに続く。
―横濱―
仮SS/【サトウ・伊藤】It’s a small world.EP1
6月18日。英国ら四カ国が下関近郊調査の為出航。サトウ、伊藤、井上らもこれに乗船し、互いの公文書を翻訳し合ったりイギリス留学の感想や航海中の様子などを話したりして、極めて穏やかにおよそ4日間を過ごす。
詳細
この時伊藤らは、1861年に横濱で発行されたというジャパンパンチの複製をロンドンで手にし、そこに書かれていた風刺は素直に
胸に刺さり、日本は変わらなければならない事を考えるきっかけともなったという。
サトウは『抑圧されたミューズ』の話をし、そこから桜川はつみの話へと発展していく中で伊藤も彼女をよく知っていたと知り、サトウの態度が更に軟化するのを察する伊藤。この時初めて、はつみとサトウ、アレクサンダーらの誼を知ったのであった。
姫島沖に到着すると伊藤らは7/6に再会を約束し、下船して帰藩した。
この時同船していたサトウの教師は『長州がこれまでの様な『尊王攘夷』を貫くのであれば彼らは十中八九切腹を申し付けられる事となるだろう。』と言い、サトウは厳格すぎる日本文化の一旦を生々しく耳にした事で、咄嗟に友達の無事を願うのであった。
サトウ、再会期日まで周辺の村等で薪水を得ながら下関周辺を測量・砲台監察。
姫島はじめ他の漁村も大抵は皆親切であったが、伊予の伊美という村は一切拒否した。
(6月21日)久坂ら長州進発隊および中岡、内蔵太、柊らが所属する忠勇隊、京天王山に本営を展開する。
(6月24日)イギリスより帰藩した伊藤、井上。藩庁にて海外の情勢を説き、攘夷が無謀なこと、開国の必要性を必死に訴える。
襲撃
元治元年6月~7月―京―
(6月24日)奸婦襲撃事件。
柊智ら長州・水戸派攘夷志士による桜川はつみ襲撃事件。
高杉がこの事を知るのは、数か月先の事である。
(6月26日)長州寄組・国司信濃、進発。以降も永代家老らによる長州本隊の進発が続く。
東西奔走編
元治元年7月~慶応元年閏5月―京―
7月19日・禁門の変
長州、世子軍の到着を待たず来嶋久坂らを始め先発軍1200が暴発。攻撃を仕掛けたが、西洋兵器を駆使する薩摩は数倍の軍事力を誇り、致命的な程の長州派惨敗を喫する。
来嶋又兵衛、入江九一、戦死。
久坂玄瑞、寺島忠三郎、互いに刺し違えて自刃。
池田屋事件を生き延びていた桂小五郎、再び消息不明。
桂小五郎(16の時から)の養子、桂勝三郎(17)、負傷し大阪桜宮にて自刃
真木和泉、天王山へ退き同志と共に自刃。
(7月21日)四国多度津に寄港していた世子軍、京の異変を聞きやむなく撤退。長州兵達は命からがら、散り散りとなって逃亡した。
(7月23日)長州討伐発令。幕府、勅命により中国、四国、九州21藩に出兵を命じる。
―長州・萩―
仮SS/【高杉・聞多】長州激震
世子進発までの情報提供と、聞多がサトウから聞いたはつみの話。禁門変の情報はまだ伝わっていない。
―長州・下関―
仮SS/【内蔵太・伊藤】窮途末路
7月28日。長州下関。の京師における『禁門の変』にて大敗を喫し、多くの犠牲を出した長州本隊が散り散りとなり命からがらの状態で帰藩してくる中、これに平行する形で長州に迫りくる西洋四国連合艦隊による報復砲撃を何とか回避する為に英国から急遽帰国していた伊藤俊輔が、人を探していた。
下関戦争・四カ国艦隊砲撃
(8月4日)四カ国艦隊、馬関海峡を望む海域に臨戦態勢で碇泊
(8月4日)高杉、直ちに藩庁へ出頭せよとの命を受ける。
(8月4日)井上聞多、馬関沖に圧倒的威圧感で現れた外国艦隊と止戦交渉する様命じられる。
(8月5日14:00)井上聞多、下関奉行がユーライアラス号に乗船し軍事行動の停止を促すが
サトウは『平和的な解決を試みる段階はすでに過ぎ去った』という返事しかできない状況だった
(8月5日)高杉、いきなり応接掛を申し付けられ、講和交渉使節となる。
(8月5日)長州忠勇隊、再編成。隊長・中岡、第三伍長・池内蔵太(細川左馬之助)
(8月5日)16:10砲撃開始。下関戦争・四カ国艦隊砲撃。英国旗艦ユーライアラス号始め、英9艦隊、仏3艦隊、蘭4艦隊、米1艦、計17隻から成る四カ国艦隊。総砲門数288門、兵力5000人の上陸兵。
これに対し長州守備は
前田台場を総監赤禰武人指揮下の奇兵隊、長府藩報国隊、壇ノ浦台場を軍監山県狂介指揮下の奇兵隊、膺懲隊、新地に馬関総奉行の藩兵、彦島を荻野隊と長府藩兵、総勢2000、各種旧式大砲120門であった。
快晴の下関海峡に砲声が轟きわたる。前田砲台はたちまち沈黙した。
(8月5日)井上、敵が上陸したら小郡で支えると申し出ると受理され、第四大隊をもらい受け小郡代官に任命さる。
高杉、急遽罪を許されて政務座役に再任。井上、伊藤と共に小郡へ出張する。
(8月6日)下関戦争。朝霧が晴れるのを待って壇之浦に集中砲火が行われた。
10時、2000の外国兵が前田に上陸。長州兵は頑強に抵抗を見せ、日没まで陸戦を繰り広げた。
しかし守備兵はついに陣を捨て、長府へと後退する。
仮SS/【高杉・伊藤・聞多】魔王・宍戸行馬
伊藤や井上による藩政説得も空しく、ついに四カ国艦隊による報復攻撃が始まった。 高杉はまたも慌てる政府から引っ張り出され、事情もよく分からぬままに政務座役へ再任。外国との講和談判へと駆り出された。
詳細
世子、前田孫右衛門、毛利登人、山田宇右衛門、渡辺内蔵太、大和国之助、波多野金吾、
井上聞多、伊藤俊輔、高杉晋作が狭い部屋に顔を突き合わせる。
政府方が口を開くと、一か月かけて和平交渉の説得を続けて来た井上聞多が「それみたことか」と嚙みついた。
「外国と和を講ずるほかあるまい」
「焦土と化しても攘夷を行うと決議したではありませんか。今更何の面目があって和議を説くのですか。」
「手を尽くして国を救うのが臣子の分。いたずらに討ち死にするのが武士道ではない」
「…っ!?!?」
まさにその為に散々走り回っていた井上聞多だけに、血相を変えて部屋を飛び出す。
高杉が部屋を覗くと短刀を逆手に持ち腹を切ろうとしていた。
驚きこれを諫めていると、政府方が『世子がお呼びです』と言ってくる。行かぬと言うがしつこい。
井上を引きずって席に戻るが、その井上が世子と大議論を展開した。
流石の高杉も改めて井上を隣室へと連れ出し、和議にしようと説得する。井上は世子や政府方へ
言いたい事を言い終えると、講和使節の適任者として高杉の名を挙げた。
これまで『再三』会議を重ね猶予を貰った自分や伊藤では最早信用してもらえない。
かといって他に気骨のある者は高杉の他にはいない、と断言する。
世子はこれを即承諾し、井上の進言する通り、高杉を一時的に家老へと召し上げた。家老首座宍戸備前の養子・宍戸刑馬として、講和交渉正使を命じられる。
(8月8日12:00)魔王高杉、宍戸刑馬として英国旗艦ユーライアラス号乗船。第一回講和談判。
書類に外国慣例上の不備があり、48時間の猶予が認められる。
(8月8日)高杉と伊藤、国際法に則った書類に必要な藩主署名の直書をもらう為世子のいる船木へ向かう。
この時船木代官・久保断三が危機を告げてくれた。『長府藩・報国隊の連中が講和に反対し藩政へ迫った所、
政府方は高杉、井上、伊藤に責任転嫁して言い逃れをした為、連中は高杉達を狙っている』との事。
高杉と伊藤は久保から公金100両ずつを受け取り、闇夜を有帆村に逃れ潜伏した。
「毛利はもうだめじゃ。毛利の子孫を連れ出して一旗揚げようか」と高杉は長嘆息した。
(8月10日)第二回講和談判。高杉(宍戸)と伊藤は病欠という事で出席しなかった。
井上、談判後、自身の安全も顧みず世子がいる船木へ単身急行。世子にはこの四カ国連合との講和談判が
決してあまいものではない事、それこそ武力行使となれば長州は焦土と化す可能性がある事を説き、
「講和会議の席に付いたからといって必ず講和が成るものではない。」
「しかるべき人で対応せねば外国人たちを納得させる事はできない。」
と覚悟させた。長州政府、壇之浦に布陣していた奇兵隊、膺懲隊を宮市へ転陣させる。
(兵を下げ外国側への戦意が無い事を示したか、幕府側を警戒したか)
(8月11日)井上、山県半蔵らと共に有帆村潜伏中の高杉らを連れ戻す。
(8月14日)第三回講和談判。
講和条件
・下関海峡解放、通航の自由と薪水補給の為の下関開港・寄港許可
・砲台の構築及び修築の停止
・賠償金請求
高杉、3つめの『賠償金請求』に関して頑強に反対する。そもそも攘夷を帝に上奏したのは将軍であり
長州はそれによりもたらされた勅命に従ったまで。故に賠償請求についてまずは幕府に責任があると主張。
これが認められ、賠償金に関しては幕府との交渉に委ねられる事となった。
講和条件とは別に、英国からの彦島租借要求にも断固拒絶する。これは、外国人の租界地となった上海を目の当たりにした彼の考えとしては絶対に譲れるものではなかった。
かくして講和談判は終了となる。
アーネスト・サトウ曰はく
「長州人を破って以来、我々は長州人を友好的に見る様になり尊敬の念すら抱き始めていた」
横井小楠の「外交論・第一義」、はつみが常々話していた「国際法に基づく外交思想」などが
高杉によって実現された瞬間であった。
仮SS/【内蔵太、柊、伊藤】鬼椿権蔵、長州に参る
8月15日、朝。神戸からはるばる旅をしてきたはつみら一行は、いよいよ下関を目前とする長州・三田尻に到達していた。
仮SS/【高杉】邂逅
はつみと予期せぬ再会を果たし、また、一仕事成し遂げた後だった事もあって高杉の胸中では高ぶりが留まらない。それなのに「積もる話はあるが、まずは皆、旅の疲れを癒してくれ。」と言ってしれっと去る高杉。
仮SS/【高杉・龍馬】似た者同士
はつみが英国の外交官と『接待』している間、高杉と龍馬は共に破壊された台場を見に行く。比較的穏やかに過ごしていた矢先、高杉の耳にはつみが背中を斬られたという事実が突然飛び込む。
仮SS/First meeting. 和親パーリナイ
アレク、サトウ、チャールズ、ベアトがはつみとの誼で白石邸に招待される。高杉こと宍戸行馬、伊藤も合流。龍馬、寅之進、陸奥、お万里が参加した。
仮SS/【高杉】まるで『女装』
シーボルトのピアノが白石邸に運び込まれて以来、聞きなれぬ音色に導かれ、白石邸の周りに人だかりができる。高杉の要請により奇兵隊の一部が派遣され、周囲を警備している。更に高杉が白石にはつみの為の着物を用立てる様指示しており、はつみやお万里はそれを着て演奏会をする事になっていたのだが、はつみが女性らしく着飾る姿を初めて見て、出た言葉がこれだった。
詳細
はつみと一通り戯れの口喧嘩をした後、高杉も袴をつけるべく白石邸の別室へと促される。そこへ白石が現れ、仕立てた着物を出しながら、いつか聞いた『今生かぐや姫』について話し始める。高杉が、白石も彼女と会う時がくるだろうと予見した通りとなったが、高杉から言伝られた言葉は、まだ彼女に伝えてはいないと。…明日の演奏会のあと、かぐや姫はまた遠い所へと去っていくのだと聞いている。今度こそは後悔のない様に、そして伝えるべき事はご自分の口で伝えるべきだと、ゆっくりと丁寧に説いた。高杉は終始黙って聞いていたが、試着が終わって部屋を出る時にはたと立ち止まり、肩なめに視線をよこして「…感謝する」と、二重の意味を込めた言葉を放った。
白石は深々と頭を下げ、そして若々しい青年の情熱を前に、嬉しさとも羨ましさとも思える胸の高揚を覚えるのだった。
仮SS/音楽は国境、そして時代を越えて
8月21日。演奏会と四カ国艦隊の引き上げ日に相応しい、素晴らしい天気に恵まれていた。朝の涼しい内に港へピアノを持ち出す。噂を聞きつけた多くの外国人が上陸し、または小舟で港近くまで漕ぎつけている。長州人は子供から老人まで大勢集まっており、藩政のもとしのぎを削り合う思想とは裏腹に、多くの人が西洋楽器による音楽会に興味を示している。
詳細
宍戸刑馬(高杉)、伊藤、井上、アレクサンダー、サトウら外交官が最前列に招待され、チャールズやベアトもそれぞれスケッチや撮影のスペースを設けられた。公使も艦長や提督らと共に上陸し、遠くの安全な場所から見学している。熊谷家六代目当主五一は目立つ事を考慮し、招待を辞退していた。
長州とオランダ、イギリスを繫ぐピアノに思いを込めてと表し、演奏。ピアノの周辺には赤い絨毯が敷かれ、日除けの為に寅之進が和傘を持ち、タイトルを日本語と英語で書いた紙を曲ごとにお万里が掲示するスタイルをとっている。
美しい女性がピアノを奏でる傍ら、どこからともなくルシが現れピアノにとまった事で神秘的な雰囲気が加わり、特に西洋の人達は感嘆のため息をもらした。
・ショパン/華麗なる大円舞曲
・海の街(はつみの大好きなギブリ映画から。)
・世界と約束(はつみの大好きなギブリ映画から。語り引き。禁門の変の後だった為、多くの人々が惜別の想いのもと涙した。)
仮SS/【高杉】君が好きだ
演奏会が大成功の内に終わり、午後の出港に向けて片付けが行われる中、高杉はあらゆる人からひっぱりだこのはつみを連れ出していた。
彼の髪がフワリと眼前に迫るのを感じると共に、背中を力強く引き寄せられた。ぎゅっと締め付ける様な圧迫感に包まれ、一手遅れて、抱き締められている事に気付く…。
(8月21日)アーネスト・サトウらおよび2艦隊を残留させ、四カ国艦隊の大半が撤収。はつみらも共に去っていった。
仮SS/【高杉】逃亡
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(9月)長州、再び俗論派(恭順派)台頭。
(9月)高杉、石州堺軍務管轄を解任される。翌日、政務座役辞表提出。菊屋横丁へ戻る。
―長州・萩―
(9月25日)井上聞多、俗論派の刺客に襲われ重体。気丈にも毎日のように武備恭順を説き続けていた。
(9日26日)周布政之助、突如自決。
(10月5日)高杉、長男・梅之進うまれる。
(10月24日)長州、宍戸九郎兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、野山獄へ投獄。他多くの『正義派』が解任・謹慎など申し付けられる。高杉父・小忠太も解任・謹慎となった。
(10月25日)高杉、筑前へ向け脱走。長州諸隊と俗論討奸をはかるつもり。白石邸に潜伏し、筑前へと脱走した。
(11月11日)長州正義派・家老・益田右衛門之介、国司信濃、切腹
(11月12日)長州正義派・永代家老・福原越後、切腹。野山獄に容れられていた4人の正義派参謀ら斬首。
(11月)長州諸隊、五卿を奉じ団結して「武備恭順」を貫こうと図る。
(11月15日)長州下関田耕村潜伏中の元公家・中山忠光、俗論派により絞殺。
(11月15日)五卿を奉じた諸隊、下関へ転陣。長府、清末の支藩主に正義の回復を嘆願。
五卿、功山寺に潜寓。
遊撃隊(石川小五郎総督)江雪庵へと転陣。
御楯隊(太田市之進総督)修善寺へと転陣。伊藤俊輔の力士隊も預かっている。
奇兵隊(赤禰武人総督)覚苑寺へ転陣、徳応寺、長願寺に分営。
膺懲隊(赤河敬三総督)本覚寺へと転陣。
八幡隊(堀真五郎総督)清末領小月に駐在。
―長州~福岡・平尾山荘―
仮SS/【高杉】正義の士
11月。月形洗蔵の斡旋で野村望東尼と出会った高杉は、同志と共にここ平尾山荘へ潜伏していた。そこへ報が届く。
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俗論恭順派に掌握される長州は、幕府と戦う事なく恭順の意を示し、禁門の変で進発した永代家老以下家老3名の切腹と参謀4名の斬首を受け入れた。 『国賊』の誹りを受けたまま隠遁していた中山忠光も殺され、更には五卿をも引き渡し、藩主父子には謝罪の上蟄居などを要求されているとの情報を受ける。今や何の後ろ盾もない高杉であったが、ただ正義の為には命など二の次。今こそが『その時』だと悟った。
「あなた様が成さねば誰に成し得る事ができましょう」
「うん。昔、同じような事を言った者がおる。『その時』長州に僕がおらねば成る事も成らぬとな。望東尼よ、その心がわかるか?」
「その方には、今この時が見えていたのでしょう。あなた様の身内に宿る、正義の炎と共に。」
「…そうか…かぐや姫には、僕らには見えないものが見え、知り得ないものを知っていたのかも知れないな…」
―長州・功山寺―
仮SS/【内蔵太・伊藤】雷電と共に
12月。『長州には眠れる虎、いや猛牛あり』と、伏する高杉に期待を寄せた内蔵太が中国探索を切り上げ長州に戻る。
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同時に、四カ国艦隊長州戦争以来連絡を取り合う様になっていた伊藤と合流した。文久3年、それまで燻っていた高杉が彗星の如く現れ、俗論党に掌握されていた藩政を奇兵隊一隊以て電光石火の如く開放せしめた。伊藤も内蔵太もその時は長州に居なかったが、此度もきっと高杉という雷電が俗論派を焼き切ってくれるだろうと信じていた。
そして柊と共に中国地方から京へ至るまでの土地で情報収集をしていた内蔵太は、伊藤や高杉の士気を爆裂的に上げさせる極秘情報…つまり、桂との再会とその生存についての情報を携えていた。伊藤も歓びに溢れそうになる感情を押し殺し、二人高杉のもとへ向かう。
仮SS/【高杉】剛毅果断、時来たる
「幕府と俗論政府が手を結ぶ前、すなわち今しかない。」
詳細
奇兵隊および諸隊への説得を続ける高杉であったが、武備恭順を説きつつ幕府との戦を避けようと独自路線を行く赤禰や 撤兵条約に含まれる五卿の福岡移転に食いつき、高杉との足並みを揃えなくなってきた月形ら、それら全ての間を駆け回る忠勇隊隊長・中岡らとの動きも合わせる事が難しく、時ばかりが過ぎてゆく。高杉の視野には、五卿を失った途端、幕軍よりも先に俗論派が正義を打ち滅ぼすであろう道筋だけははっきりと見えていた。
「幕府と俗論政府が手を結ぶ前、すなわち今しかない。」
決意をする。命は惜しくない。長州の正義の為には 『成』さねばならない。正義の為に散っていった仲間達、はつみの言葉、内蔵太がもたらした情報も胸に抱き、高杉は下関にいる伊藤の元へと向かう。高杉と合流し、話を聞いた伊藤と内蔵太は即座に「やりましょう」と答えた。
伊藤は力士隊の所へ、内蔵太は自身が所属していた忠勇隊の元へと走っていった。浪士組で結成されていた忠勇隊は中岡が隊長に任命されていたものの、中岡は現在五卿の身柄安全と薩摩との間で奔走していた為、石川小五郎の元、改めて遊撃隊へと加わった。
(12月15日)高杉、深夜。雪。功山寺挙兵
詳細
功山寺門前に集まったのは
伊藤俊輔以下力士隊約60名(太田市之進が力士隊を閉じ込めた為、壁を乗り越えた半数が挙兵に加わった)
遊撃隊総督・石川小五郎、以下、佐世八十郎、山県九右衛門(大和国之助実弟)ら、内蔵太。総勢およそ80名。
高杉が功山寺へ上って行こうとする時、先に大激論を交わした太田や野村らが『議論は違えど』と別盃して見送る。
五卿に別れを告げる為本殿へのぼり、五卿世話役の土佐浪士・土方楠左衛門と久留米藩士・水野丹後らが
煮豆の入った重箱と徳利を差し出す。間もなく三条実美が現れ、高杉は大音声で別れを述べた。
「これより、長州男児の肝っ玉をお目にかけましょう」
山門へ下り馬上より先を見据える。紺糸おどしの腹巻に桃型の兜を首に引っ掛けていた。
奇兵隊の福田きょう平が駆け付け、馬前に膝を付き雪上に両手をつく。
獄中の苦しみをお忘れかと言って引き止めるが
「苦しみを恐れて何ができる」
と、高杉は昂然として隊を進めたのだった。
―長州・下関、三田尻―
仮SS/【高杉】船上クリスマス
12月25日。三田尻で拿捕した蒸気軍艦・癸亥丸で下関へ向かう船中、大庭伝七に遺書にも似た書簡を書く高杉。そんな最中、気付けば『12月25日』である事に気付く。…それも、『ほわいとくりすます』であった。
(12月)『追討』令を受けた萩軍本隊、出動する。
●元治二年/慶応元年…高杉27歳、はつみ25歳
(1月)高杉ら遊撃隊に正義派の奇兵隊が呼応。快進撃を続ける。
―長州・萩―
仮SS/【高杉】「回復私議」
軍艦を奪い、庄屋民衆ら5万に迫る支援を受ける高杉ら遊撃隊に対し、奇兵隊諸隊もついに応じ萩正規軍と激突した。 数に劣るが遥かに士気が高い正義派は高杉の覇気に満ちた指揮の下、まさに電光石火再来が如く、山口の制圧へ至る。そして恭順派の本営である萩へと迫った高杉はついに、再び正義派に勝利をもたらした。
(4月7日)『慶応元年』へ改元
(4月18日)幕府、(第二次)長州征討進発令。
―長州・下関―
仮SS/【高杉、内蔵太】頑固と素直
表向きは藩主に弓引いた形の高杉は藩政から身を引き、外遊を志しこれが受け入れられ、伊藤と共に長崎に留まっていた。 しかし第二次長州征討の報を受け考えを改め、長州下関へ戻る。再び萩藩による下関領地替えの件に着手し「回復私議」でも述べた様に開港を推し進めようとしたが、長府・清末の攘夷党に命を狙われる。
詳細
その噂は癸亥丸に乗り込んで操練技術を磨いていた内蔵太の耳にも届くほどで、高杉を守らんと内蔵太が駆け付けた所で刺客に襲われてしまう。井戸の中に飛び込んで事無きを得た二人であったが、暫くそこで息をひそめる間に緊張感無くはつみの話で盛り上がる。(はつみから貰った巾着袋、はつみから貰った赤いちりめん布。互いに『見たことあるなそれ…』から始まった)。更に、高杉は内蔵太に対して『君の僕に対する第一印象はどうだったんだ?』と、ある程度の見解があって改めて尋ねてみた。内蔵太は、文久元年から三年の間はいつも色酒に溺れ、出奔紛いの事を繰り返していると聞いた高杉を見て、何を成そうとする御仁なのだろうかと思っていたと。「それは狂ってるな」と他人事の様に反応した高杉は「僕は狂おうと必死だった。だから君の見解は大正解だ」とも言って笑った。あまりにも軽快に笑うので、思わず『静かにしてつかあさい…!』といなしてしまう内蔵太であった。 そうこうする内に二人は井戸を出て、暫く、高杉が亡命を決めるその時まで行動を共にする事になる。
―IF・現代―
【高杉IF】高杉晋作異聞奇譚
刺客に襲われ井戸に飛び込んだ高杉。気が付くと見知らぬ河のほとりに経っていた。 驚く程滑らかに整地された地面に立ち、川の対岸には縦長の箱状の建物が立ち並ぶ。 背後に足音が聞こえて振り返るとはつみとそっくりの顔をした女が立っており、 心配そうな、否、怪訝そうな、不安そうな表情で自分を見ていた―。
(工事中。近日再公開)
(4月)高杉、村田蔵六へ密かに桂の動向を確認し、そのままうのと従僕民蔵を連れて四国へ亡命。
詳細
内蔵太を誘うが、内蔵太は高杉と話をした事で一層、龍馬やはつみらと共に行く決意をしたと告げる。
高杉は大らかにその心情を受け入れ、大いに励む様肩を叩いて去っていった。
井上聞多、別府へ向かい潜伏。伊藤俊輔、下関外浜町の船宿伊勢屋に隠れる。
―終―
朧月編
慶応元年閏5月~慶応2年6月―長州・下関―
仮SS/【龍馬、桂、高杉、内蔵太、柊】女傑評議8
7月。高杉、うのと四国亡命から戻るもすっきりしない『風邪』が続く中、 薩長同盟と武器購入の件での会合が下関で行われる。その途中で、長崎のはつみから武市半平太が処刑されたとする急報がもたらされた。
詳細
土佐の偉大な勤王志士が処罰されるとは…と肩を落とす一行。そして、龍馬と柊はこの報が『はつみから』もたらされた点についても、深刻な表情を浮かべていた。内蔵太と桂、そして高杉は、この時初めて、はつみと武市の関係について『明確』に知る事となる。
柊曰はく「文久2年の時。二人は結ばれていた訳ではないが、心は通い合っていた。」
(9月26日)高杉、谷仙蔵へと改名。桂、木戸貫治へと改名。
仮SS/【高杉・木戸】運命の影
10月。武市の死からおよそ半年後。鹿児島・小松の元で休養していたはつみが薩長同盟に際し木戸らの対薩摩感情を緩和する目的で上陸した
詳細
。
高杉にとって、はつみとはまた一年ぶりほどの再会。それも高杉が想いを告げてから初となる再会であったが、龍馬や内蔵太が言っていた通り、はつみの憔悴っぷりは火を見るより明らかであった。かつ、高杉は相変わらず慢性的に体調がイマイチで『風邪』で寝込む事もじわりと増えており、二人ともあの日の事には触れない様な距離感で接している。とりわけ、はつみは高杉の体調不良について『心当たりがある』為、それどころではなかったとも言える。精の付く料理や漢方、西洋の優れた医者に見てもらった方がいいなどと心配してまたも大きな世話を焼こうとするが、高杉ははつみの言動をいつも以上に注視していた。『君は、この時が見えていたのか?』と。
一方、木戸は内政を進める為に萩へ戻らねばならない。薩摩に頭を下げるぐらいなら死をも覚悟、他の誰かを立てて話を進めればよいとまで言う木戸に、流石の龍馬も苦戦していた。しかもこの下関や三田尻でユニオン号の引き渡しや運用条件などに関し急ぎ調整しなければならない事もあり、木戸を引き留める事も龍馬が萩へ行く事も適わない状態だ。
「…はつみ。君が来てくれるかい?」
話を聞きたくない訳ではないのだと言う木戸の誘いを、受け入れるしかない。龍馬もはつみに任せると言って送り出す姿勢だ。木戸とはつみ、そして四カ国艦隊との戦争時以来、木戸付きの従者となっている柊と共に、萩への連絡船に乗り込むのだった。
仮SS/【高杉、寅之進、陸奥】女傑評議9
内政の為に萩へ戻った木戸を説得し続ける為、木戸と共に下関を出たはつみを心配する寅之進と陸奥。 高杉は木戸がその内心に抱く『彼らしくない』はつみへの心境を思い、故に二人の関係がどうなるかと思案していた。また、寅之進らから武市の件に関するはつみのこれまでの行動歴などを聞き、とある仮説が高杉の中で強まってゆく。
仮SS/【柊・内蔵太・桂・高杉】憎愛の果てに R15
12月。薩長同盟の機運が高まる頃。武市の訃報を受けて以来ずっと不安定な精神状態であった柊が、ある晩、白石邸で宿泊中のはつみを襲った。
●慶応2年…高杉28歳・はつみ26歳
仮SS/【龍馬・高杉・内蔵太】下心ではない
1月。薩長同盟の為に先に京へ入った桂を追いかける為、はつみと龍馬、内蔵太がいよいよ出発する目処がたった。高杉、上海と長崎で購入した拳銃S&WM2Aを龍馬へ贈り、内蔵太には長刀を与えた。
詳細
はつみにも、以前の髪飾りではなく龍馬と同じリボルバー銃と装備用のショルダーホルスターを渡したのだが、これが思いもよらず、胸や身体のラインを浮き立たせるもので、高杉をはじめ龍馬らも思わず鼻の下を伸ばす事になってしまった。こんな時に下心があった訳ではないという高杉に、龍馬も内蔵太もにやけ顔で『ありがとう』と述べていた。
―終―
転機
慶応2年7月(6月7日~8月)第二次長州征討・四境戦争
―丙寅丸―
【高杉】三千世界の鴉を殺し…
・前編
丙寅丸にて大島奪還へと向かう高杉(谷)のもとに、亀山社中操船の乙丑丸(ユニオン号)が間に合う。龍馬らに同行する形で姿を現したはつみの様子を見た伊藤俊輔が、出会った頃の回想をする。
・中編
「どうせ戦に赴くのであれば、一度はこの高杉の戦をお目にかけたい。来い、はつみ。」
「―はい。」
・後編
(僕の思う『恋人』はな…恋をした相手、それはもうすでに『恋人』だ…)
だから、君の膝枕を要求するのだ。
【高杉】奇襲、丙寅丸【挿絵付】
「諸君。いよいよ出るぞ。」
闇に潜んだまま、しかし真夏の熱波の様に燻る士気に気押される様子もなく、高杉は堂々と演説を続けた。
【高杉】ぬしと朝寝がしてみたい R18
歴史上鮮やかに残る丙寅丸奇襲戦の直後、咳の発作を起こし船室で喀血する高杉を見て「やはり」と漏らすはつみ。 高杉は自分の身など二の次ではつみの秘密の核心に迫り、朧めいたその心に手を差し伸ばす。
―終―
才気飛翔編
慶応2年8月~慶応3年9月―長州・下関―
仮SS/【高杉】恋をしている
9月。恩義を忘れず救出してもらえた事に感謝し、そして高杉という稀有な御仁に再会できた事を毎日噛みしめるように生きる望東尼。
(10月27日)高杉、病状悪化、療養専念の為、馬関口陸海参謀解任され桜山東行庵にて療養。
●慶応3年…高杉29歳・はつみ27歳
【高杉】相縁奇縁 R18
1月。下関で療養中の高杉を見舞う。
「妻には愛情、妾には慕情、尼には人情。それとは別に、尊く親愛の念を抱く人がいる。…君だ。」
【高杉】君に降る花、そよぐ春風
4月14日。
訪れる初夏。春風がはつみの頬を撫で、去ってゆく。
―終―