土佐降臨編

安政6年3月~4月

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●安政6年…乾23歳・はつみ19歳
(※数え年)


―土佐―


(2月)乾:約3年間の廃嫡・追放処分を赦され高知城下へ戻る。

桜降る(全6話予定)


4月。桜の花がチラホラと咲き始めるころ、桜川はつみが土佐城下・鏡川付近に現れる。
乾は2か月ほど前に謹慎処分を免ぜられ、3年ぶりに城下へと戻ってきていた。父の体調が悪い中、乾家嫡男、部屋住みとして節度ある生活態度をするべきと己を改め日々を過ごしていたが、城下の噂となっていた『かぐや姫』の存在に興味を示す。3年に及ぶ追放処分の重みを一身に受けていたというのに、座敷牢という軟禁状態へと移された彼女のもとへと会いに行った。その場所は、因縁を感じさせる『月之瀬橋』近くの離れ庵。そこで『今生かぐや姫』へまさに一目惚れをした乾は、必ず解放してやると約束をする。
 そこから、はつみ保釈の為、坂本権平が訴えていた『はつみの刀』を詳しく調査する事に。最上大業物ともされるその刀の盗難歴や流通歴、果ては造り手たる『肥前忠吉』の認知を辿れば、その奇特性から身許が割れるかも知れないと考えたのだ。乾は幼馴染である後藤と共に吉田東洋の元へ行き『身分の高い人物が記憶を失くしている場合、土佐藩が責められる場合もある』と異例にも談判した。確かに最上大業物でもあれば、こんなにも堂々と盗難品として出回る訳はない…一理あると受け入れられ、上士であれで『部屋住み』に過ぎなかった乾は調査の為の特命を受けた。 そして、これを機に坂本龍馬と乾退助が出会い、共に『佐賀藩』へと向かう事になる。
 はつみが無事解放された後も、彼女の身に起こる不可思議な現象に対峙する為、二人は再度協力し、白隼の導きを受けながら『龍河洞』の『天狗の飲み水』を目指す。

土佐日常編

安政6年5月~万延元年閏3月

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●安政6年…乾23歳・はつみ19歳


―土佐―


逢瀬(挿絵付)R15


土佐のいごっそう乾退助は、身分など気にせず己の心に従い、堂々とはつみを華月楼という料亭に呼び出した。一方、坂本家は上士馬廻格である乾家の嫡男を相手に粗相があってはならないと考え、才谷屋も巻き込んで品の良い着物を用意し、はつみを着飾らせる。通常であれば、身分の高い武士が女を呼び出すという事が一体どういうことなのか、心当たりがない訳がないのだが、坂本家がこれを断ることなど出来るはずもなかった。故に皆、はつみの浮世めいた美しさに目を細めながらもどこか憂いを帯びた空気が坂本家を包み込んでいる。同じ『部屋住み』でも乾とは天地の差を感じずにはいられない龍馬は、黙ってその様子を見届けていた。そしてこの逢瀬は、幕末の世における身分格差の実態を初めて目の当たりにするのみならず、この時代の女性の立場についても身を以て知るきっかけとなる出来事となるのだった。

恋は思案の外


7月。乾から再び呼び出され、蛍狩りへ連れ出される。猪と遭遇し、乾が近くの棒を拾って素早くも勇敢に対処。木に突進して目を回した所を脇差で斬りつけ、追い払う。この時代特有の、躊躇いの内血生臭いシーンを見たはつみは、身を挺して守ってくれた乾に感謝をしつつも文化的なギャップにショックを受ける。…一方の乾。前回失敗した逢瀬に続き改めて婚姻について語るが、まだ日常ですら地に足のついてない上に今さっき強烈なショックを受けた心地でいるはつみには、武士との恋愛や結婚といった事はピンとこない、乾が悪いわけではない…だけど…としか答えられなかった。この場において無理強いはしない乾。ただ、「長くは待てぬ理由がある。」と言う。彼は急いでいる様であった。

牝牡驪黄…前編・後編


7月。なんと、土佐藩参政・吉田東洋がはつみを呼び出す。参政から直々に声がかかったという事で、坂本家では大身乾家嫡男からの呼び出し以上に大大大、大大大騒ぎとなった。
詳細

仁井田のよーろっぱ猪三郎からはつみの事を聞いた河田小龍が、『中浜万次郎と類似人物』として更に土佐参政・東洋へ報告していた。河田小龍はかの中浜万次郎が米国から帰藩した際に土佐参政吉田東洋の命により万次郎と寝食を共にし、海外情勢等について根掘り葉掘り聞き出した経緯がある。小龍の報告を受け入れた東洋がはつみを呼び出したのだった。参政から直々に声がかかったという事で坂本家では大身乾家嫡男からの呼び出し以上に大大大、大大大騒ぎとなり、はつみは例え大名の前へ出したとしても決して恥ずかしくない様な『正しい』装いを強制される。
一方、龍馬から急報を聞いた武市はすぐ坂本家を訪ね、東洋の様子を聞く為はつみの帰りを待つ。しかし帰宅したはつみを一目見て雷に打たれた様な心地に陥り、半ば茫然とした様子でその日は話も辞退し、帰宅してしまうのだった。


時間切れR15


8月。乾から再び呼び出され、仁淀川での鮎釣りへ連れ出される。


・IFルート『乾外伝:日日是好日』


※別館サイト公開予定


9月。小谷善五郎の娘・鈴と3度目の婚姻。


●万延元年…乾24歳・はつみ20歳

(閏3月)乾、父の死去に伴い家督相続。
馬廻役(250石、大名周りの補佐を行うエリート職)、免奉行となる。

長崎遊学編

万延元年4月~万延2年2月

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●万延元年…乾24歳・はつみ20歳


―土佐―


6月、長女・兵生まれる。


長崎土産あります!


7月。宴会の最中、なんと乾が坂本家に上がり込んできた。はつみが長崎へ出る事を事前に聞いておらず、その事を詰めに来たのだ。大身上士の飛び入りにひっくり返り酒気も一気に飛び去って大慌てする権平らを気にかける事無く、はつみと話をする乾。
詳細

はつみは乾にも土産を買っていたが、新婚であるが故に選ばれたであろう夫婦茶碗を、乾は無言で受け取り帰宅してしまう。…帰宅後、鈴に茶碗を渡し、喜んでいる顔を見てから席を外す。はつみの長崎土産は乾の本音を逆撫でする夫婦茶碗だけではなかった。数か月会えなかった期間があったからこそ明確に感じた、切望する心…そんな大きなおまけつきであった。

確 変

文久元年3月

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●文久元年…乾25歳・はつみ21歳

―土佐―

仮SS/井口村永福寺事件


3月。池田寅之進を中心とする『井口村永福寺事件』が勃発する。
(3月)井口村永福寺事件に際し、乾と龍馬の建言により吉田東洋の口添えを得た上で、藩は以下の処遇を各所に申し渡す。
詳細

・山田広衛…
 無礼打ち殺人罪により半年の蟄居・謹慎
・乾退助…
 不敬罪につき10日間の蟄居・謹慎
・坂本龍馬…
 不敬罪につき一か月間の蟄居・謹慎
・池田寅之進…
 弟の不敬罪、監督不行により家禄減額。

寅之進は刃を収め暴動は収まり、聞き取り調査により「ふっかけた」のは明らかに山田広衛の方であったにも拘らず、やはり上士側には軽めの処分しか与えられない事に郷士達は憤る。しかし、武市や龍馬、そしてはつみと苛烈に対峙した吉田虎太郎などは、こういった沙汰が下されることをはつみが既に予見しており、彼女がその場の感情だけで寅之進を庇っていたのではなく深い見識を持ち合わせた上で寅之進を、そして郷士達を救ったのだとも考えるようになる。つまるところ、腐っているのは上士達、ひいては藩政だけではない。徳川幕府が強いる圧政が全ての元凶なのだと、より明確に再認識した。且つその上で、再度重ねて、土佐の上層は腐りきってどうしようもないのだと。


仮SS/【乾】解き放たれる運命


永福寺事件において吉田東洋に許可なく無礼な建言をしたとして不敬罪を得ていた乾。およそ10日間の蟄居・謹慎が明けた頃、すぐに乾との面会を望んだ。彼が今回の事件において罪を被る事は、歴史にはなかった事であった。

それぞれの江戸へ(全編会話)… 中編


4月。東洋から呼び出されたはつみが屋敷へ向かうと、鉢合わせる様に乾も現れた。どうやら彼も、東洋から呼び出しを受けていた様だ。
東洋ははつみが江戸遊学へ出る事を藩への届け出を通して察知しており、『おんしの目から見た横濱や異国人の様子をきかせてくれ』と私的に依頼する。更に、その報告を乾にも共有するという、一風変わった通達であった。当然、乾も隣でこの話を聞いている状況である。乾は生粋の『勤王家』であり、しからば『攘夷』というのが今の彼の思想であるのだが、この事に対して東洋は何かを考えている様にも見えた。乾が下がり、残されたはつみは東洋から永福寺事件の処分に関する話と、それに関わる乾の話を聞く。 東洋との話を終え席を外すと、屋敷の外で乾が待っていた…。

江戸遊学編

文久元年6月~12月

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●文久元年…乾25歳・はつみ21歳


―土佐―

【乾・東洋】江戸へ恋文


10月。土佐参政・吉田東洋が乾退助を呼び出していた。「構わんき、近くに来いや」と言われた先で早速見せられたのは、一通の手紙であった。変わった字体であると共にこれまた変わった書面だが、読めなくはない。時折外国の文字が入り交じったりして…横濱の様子や経験談などが綴られている。最後まで読まなくても、差出人が誰かはすぐにわかった。

(10月)乾、江戸留守居役兼軍備御用、容堂の側用人に抜擢される。


―江戸―

(11月)乾、江戸に入る。


勤王の徒


11月。乾は江戸留守居役兼軍備御用(容堂の側用人)に抜擢され、江戸・鍛冶橋土佐上屋敷に入った。(容堂は品川大井村土佐下屋敷で現在も蟄居中)そして早速、はつみが顔を出しているであろう築地の土佐藩中屋敷へと通知を送り呼び出したのだが、龍馬と以蔵がついてきた事に対し大変珍しく露骨に顔をしかめる。これは明らかに『期待』を逸したが故の表情であって、龍馬からツッコミを受けるなど。已むを得ず乾ははつみを含む彼らを屋敷に上げ、尊王攘夷と開国について話をする運びとなった。何だかんだと話してはいても、乾はまだ自分で『夷狄』を見た事がなく、はつみは横濱なら行った事があるし多少は異文化に触れる観光案内をする事もできると伝える。


―横濱―

仮SS/時務を識る者は俊傑に在り
R15


12月、乾の思想は変わらず『尊王攘夷』ではあったが、東洋の狙い通り、はつみとの語らいによって巷で流行り病の様に吹き荒れる安直な其とは一段違う思考へと変貌しかけていた。乾は幕府文久遣欧使節団出港の視察と称して横濱へ出る許可を得た様で、通訳にとこじつけてはつみを呼び出す。しかしまたもや、今度は龍馬と寅之進がついてきた為に再び露骨なしかめ面を見せた。已むを得ず4人で出かけた横濱では、乾以外の3人が長崎で知り合ったアレクサンダー・シーボルトという少年と再会する。


―江戸―

文通ノススメ
R15


12月を以てはつみ、龍馬、内蔵太、以蔵らの江戸滞在期限となっていた。乾は寅之進からの書状ではつみらの送別会に招待されていたがこれに参加する事は辞退し、代わりに非番の日を使って築地中屋敷に現れ、はつみが宿泊している旅籠、そして今出ている千葉道場にまで顔を出した。

一念発起編

文久2年1月~同年6月

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●文久元年…乾26歳・はつみ22歳


―江戸―

意気投合


1月。一大決心をして自身の婚姻を取りやめ、再び江戸に残留した内蔵太。はつみから託された書状をきっかけに乾と出会う。二人とも『尊王攘夷』論者であったが、はつみという存在を通して『開国を以て真の攘夷』『尊王と開国は対立せず』とする話に興味を持つという共通の状況にあり、巷で大流行りの『尊王攘夷』とは少しだけ毛色の違う見解を抱く様になっていた。
詳細

 加えて、土佐の性質、容堂が隠居に至った実態、そして薩摩の思想などをそれぞれの立場から公明正大に見極めようとし、結果、現段階に至っては『一藩勤王』は極めて難しいであろう事に同意。しかしそれでも、『尊王』の大義を志すのであれば死も恐れず燃え尽きるまで!とでも言わんばかりに腹を割った話合いが進み、結果、彼らは好く意気投合した。
 また、乾は内蔵太に対し共通の知人であるはつみをどう思うかも訪ねる。乾は当然思想についての質問をしたのだが、はつみを『男』と勘違いし『はつみに想いを寄せる男色傾向にある自分』に思う所のあった内蔵太は勝手にうわずってしまう。更に奇妙な偶然だが、かつて、乾は城下において『か男色事件を引き起こし、度が過ぎた事から情状酌量にはならず処罰された上士』として一時噂にもなった人物であるからして、彼ならば分かってくれるのでは…と的外れな返答をしてしまう。よく分からないが『男色』について心外な勘違いをされていると受け止めた乾はあっさりと「あれは相手を懲らしめる為にとった馬鹿な手段であったが、他に言う事があるとすれば単に『まぐわい』への興味にすぎん。俺が好きなのは女子じゃ」と答え、内蔵太にとっての意気投合とはならなかった。だがこれはこれで尊敬してしまいそうになる程の潔さで返答を受けた事により、『俺もあの様にはっきり割り切れたら…』と更に深く真剣に悩んでしまうのであった。


 2月、寺村道成(左膳。28歳)容堂の側用人として江戸詰となる。佐幕思考(小此木らと同じ保守派であり、後藤らおこぜ組ともまた少し違う)である彼は、以後、事ある毎に乾と対立する事となる。

―土佐―

仮SS/勧誘


2月。土佐内では徒党を組む事を禁止されている中、武市らが中心となって発足した土佐勤王党には多くの郷士達が参加を望み、『尊王攘夷論』『夷狄打ち払うべし』『幕府から理不尽に隠居をさせられた容堂公の擁護』がこれまで以上の苛烈さを以て急速に膨れ上がっていた。しかし武市半平太をはじめとする直訴は文字通り『門前払い』をされ、『このままでは薩摩、長州に出し抜かれ土佐が無様にも藩論を変えられぬ軟弱と謗られ、置き去りとなってしまう』といった焦燥と苛立ちが、勤王党内に募る。
 そんなある日、はつみは再び吉田東洋からの呼び出しを受けていた。

仮SS/【以蔵・武市】活人剣


雨に見舞われてしまい、以蔵と共に適当な木の下で雨宿りをしていた。…そこへ突然、バシャバシャとこちらへ駆け寄る足音が響き渡り―…

仮SS/【武市・東洋】大義の為


はつみの襲撃があり、武市と以蔵が坂本家に駆け付けていた頃。吉田東洋が暗殺された。

【乾・内蔵太・寅之進】状況不明


山内容堂が幕府から許され、帰国・対客・文通を許される事となった。乾は内蔵太と寅之進を呼び出し時世を語らう。
詳細

東洋暗殺の報を耳にしてから更に半月程が経過していたが、乾はもちろん、内蔵太や寅之進であっても、はつみなどからの直接の文はいまだ届かずにいた。
乾の話では、一時的に東洋暗殺の下手人ではないかとの噂もあった谷干城が藩主・豊範の側近に取り立てられ、武市ら勤王派が藩政を掌握するのもそう遠くないとの事である。また、坂本龍馬が3月中に脱藩したらしいとの情報も追って伝えられたばかりであった。一方ではつみに関する情報は『特にはなく』、暴徒(上士の誰か)に襲われ以蔵に助けられたという話は江戸には入っていない。つまり、乾達がはつみの事で知れるところは良く言えば『無事』、悪く言えば『状況不明』といったところ。はつみが東洋に取り立てられようとしていた点、以前から吉村や中岡など『尊王攘夷派』からのあたりが強かった点、容堂の処分が明けた事により土佐藩政との摩擦が生じるであろう状況が、今後どの様に作用していくのか…摩擦から生じる政治対立の矛先が無力なはつみに向きはしないだろうか。はつみの安全に関しては三人三様に心配の種が大きく芽吹いていた。

京・天誅編

文久2年7月~文久3年3月

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●文久二年…乾26歳・はつみ22歳

―江戸―

【乾・寅之進】尊王と攘夷


7月。江戸にて剣術修行を続けていた池田寅之進が、土佐藩主の上洛に合わせて上京するよう武市から招集があったという。その事を水面下で書簡のやり取りをしていた間崎哲馬からの書状で知った乾は、帰藩を目前にした寅之進を呼び出した。
詳細

一人上士の元へ向かい緊張する様子の寅之進であったが、武市やはつみから見込まれているだけあってかはつみの思想や時世への見解について尋ねると饒舌に話して見せる。乾もようやく「『尊王の志あらば直ちに攘夷』というだけでは、真の攘夷には至れぬ」と言った故・吉田東洋やはつみらの言葉の本質を理解し、はつみやはつみに傾倒する寅之進の思想に理解を示す事もできる様になっていた。
 時に、はつみから頼りは届いているかと寅之進に訪ねる。実は寅之進も今年の4月からまったく音沙汰無い事に心配をしており、今回の武市からの手紙で息災であるという事を知ったと返した。

彼らはいまだ、東洋暗殺の日にはつみも襲撃を受けていた事を知らない。

8月、山内容堂、蟄居先の鮫洲山内家屋敷から鍛冶橋土佐上屋敷へと移る。
容堂、佐幕保守派の寺村道成(左膳、28歳)を側用人に登用。

―京―

土佐勤王党員らによる天誅が横行。時勢は土佐主導の尊王攘夷へ。
武市らの斡旋により、勅使東下が決定。
(帝の勅令を届けるのが勅使。今回は幕府および将軍家茂に対する攘夷催促や上洛等に関する勅令)
容堂の命を受けた寺村左膳、朝廷工作の為に京へ潜入する。

仮SS/【寺村・武市・乾】嵐の予兆


9月。江戸の容堂公の元から放たれた佐幕派の上士・寺村左膳は単身京へと乗り込んでおり、土佐勤王派が望んで工作していた朝廷からの容堂召喚の勅令を延期させるなど、内々での工作作業を行っていた。その工作が成った事を受け急ぎまた江戸へと戻ろうとするその前に、『桜川はつみ』なる者との面会を望む。

10月、武市の寓居に住まうはつみに対し、袋の鼠事件が起こる。

―江戸―

10月17日。乾、容堂の御前で寺村左膳と時世討論に及ぶ。
詳細

乾、山内容堂の御前において寺村道成と時勢について対論に及び、堂々と尊皇攘夷を唱える。 寺村の意見は容堂に感化されており当然容堂と一致する。 乾に関しては一重にその人物と英才振りをかっており、時勢が尊王攘夷へと傾倒した時の旗頭に乾を据えるといった構造があったのではとも思われる。実際この二人による討論の場を設けさせたのも、蘊蓄を垂れる寺村と誰にも構わず歯に衣着せぬ物言いで対峙する乾らを見てゲラゲラ笑っていただけで、実際に容堂が明確に意見する事は無かった。だがそのように酒を片手に笑い飛ばしながらも眼光は鋭く、彼らの意見を耳に入れていた事だろう。


仮SS/【乾・寺村】嵐の予兆2


10月。容堂公の御前で行われた佐幕派・寺村左膳と尊王派・乾退助による時世討論からの帰り際。親戚で幼いころから顔見知りの仲でありながらも、現時勢においては反対思想故に対立しているはずの左膳から呼び止められる。最近まで左膳が潜伏していた京にて得た情報として「君にとって有用な情報がある」などと遠回しに言ってくるので「俺に借りでも作らせる気か」など適当にあしらったが、桜川はつみと武市ら攘夷派についての事だと匂わされ、耳を貸す事にした。

10月28日、伴奉土佐藩主、のち勅使一行、順次江戸到着
11月、桜川はつみ、池田寅之進、岡田以蔵、江戸到着

仮SS/江戸取引1


11月。自身の身に危険が及ぶと分かっていながら江戸までやってきた理由は、『武市と山内容堂の間にある遺恨を少しでも減らす為』。吉田東洋暗殺の溝を越えてこれを成す為には、ただ無条件にきれいごとを並べるよりも『容堂にとって武市は利用価値のある人材であり、失っては困る人材である』と認識してもらう為に『歴史に無い角度から働きかける』事にあった。
そして、その為には、乾の力添えがどうしても必要だった。

(11月13日)土佐長州、蒲田長州藩梅屋敷事件
武市、久坂から英国公使館焼討の作戦がある事を聞かされるも同意せず、勅使や容堂公らにこれを通報する。 高杉らと土佐藩士広瀬健太ら11名の暴動を知った容堂、小南五郎衛門を長州桜田藩邸の世子(定広)へ派遣し、更に各所に警告をして横濱居留地などの警戒態勢を増強させた。 この事件は一見高杉ら長州藩士と、事件を事前に収めた長州世子定広公、土佐容堂公に掛かる話としてまとめられがちだが、土佐にとってはかの『永福寺事件』の再来であるかの様に、上士と下士の感情摩擦を激化させる一因となるものでもあった。
詳細

知らせを聞いた世子・定広、山縣、寺内らを伴い、鎮撫の為深夜22時頃11人がいる蒲田長州藩梅屋敷へ急行。 更に土佐からは藩主豊範の使者として林、諏訪を、容堂の使者として小笠原唯八、山地を派遣し、世子・定広を慰問せしめ、更に間崎哲馬、門多為之助、岡本常之進に命じて激徒の説得に向かわせた。
『激徒』とは、久坂玄瑞、高杉晋作を筆頭する11人の長州藩士で、他に土佐藩士が12人が加わっていた。ここには坂本龍馬も居合わせていた様だ。13日の夜に江戸を経ったが、途中の蒲田あたりで世子定広らが追いつき、梅屋敷にて一同介し涙して罪を謝罪し、中止に至ったという。この頃、長州藩邸から更に駆け付けた老臣・毛利登人をはじめ、木原又右衛門ら、周布政之助も一同に介した。土佐からの使者4名が梅屋敷に至った際には当然中止となった後で、世子定広は酒肴を振舞って一同を労う。しかし酔った周布がここで突如、宗次郎頭巾を被ったまま馬上から容堂公に対する暴言を吐き、事態が一転する。
「容堂公は中々御上手の御方、尊王攘夷を茶羅化しなさる」
 土佐の4人は鯉口を緩めん勢いで周布を取り囲んだが、高杉が咄嗟に踏み込んで周布を叱責、抜き身を放ち 「拙者が抜き打ちにいたす」と言って周布を斬りつけ(る振りをして馬に乗せる様促し逃がし)た。 土佐藩士山地と林がこれを追い立てようとするが、小笠原が君命を奉ずる身であればまず君主に報告をし、後に周布へ向かう。とこれを差し止めた。

舞台は翌日、梅屋敷から江戸へと移る。
土佐藩士4名は容堂公へと顛末を報告するが、容堂公は激怒し「君を辱められておきながらその場で相手を討ち取らんとは何事か」と叱責し、もとより周布の首を取りに行く覚悟でいた4人は即時長州藩邸へと向かった。行き違いで乾もこの話を聞き、小南、本山らと共に長州藩邸へと向かう。長州世子・定広は心底驚きながらも真摯に受け止め、即座に謝罪を述べると同時に周布を取調べ必要とあらば手打ちにもする事を告げると同時に、容堂公kにはその取調べの猶予を賜りたいと申し出る。土佐一同は世子・定広の言葉を以て一旦藩邸へと戻り、且つ、定広自身も即座に鍛冶橋土佐藩邸に馳せ参じると容堂公に面会を申し出、謝罪すると共に「藩主不在に付き随時猶予」の懇願をする。容堂の怒りは収まり、周布の死罪を求めず矛をおさめた。また翌16日には老臣・毛利登人を土佐藩邸へと招き酒を振舞って歓談し、件の件について高杉らの行動はお国の為にとったものであるから寛容に収めて下されと述べている。周布はこの後長州へと帰り座敷牢へと入った後、麻田と名を改めた。
これを以て『土佐と長州』間に走った緊張は寛恕される事となったが、『主君を侮辱された臣の在り方』について、吉田東洋暗殺以来沸々沸々と積み重なっていた上士と下士間の反目感情が大いに露出してしまったのである。

 切っ掛けとなったのは、乾と同じく『勤王』の思想を持ちながらも武市ら過激派の一味とは一線を敷き、土佐上士として主君への忠誠を貫いてこそ真実の道であるとする小笠原唯八である。『性剛胆絶倫、史書に通じ果断雷霆のごとし』、周りは彼を恐れ「かぶ犬」とあだ名し、乾とは、他に佐々木三四郎も交えた3人で『勤王の志』を誓い合った数少ない仲間でもある。小笠原は、周布への怒りを収めた容堂と介し、『そもそも件の事件があった時には激徒に加担しようとした郷士ら12人とそれを鎮圧に向かった間崎ら3名がいたはずだが、主君が辱められたというのにやつらは何の措置も取らなかった。それよりも誼のある長州藩士らに便宜を図り君主の為に刀を取る事もせぬとは土佐藩士たる持扶を有していない』と怒りをあらわにした。周布の件は藩同士の友好関係もあって穏便に済ませたが内心君主を侮辱された事そのものに怒りの収まらない小笠原と同じ様に、容堂も、内面苦虫を髪潰しながら武市ら過激派の『尻ぬぐい』を続けている様に収まりきらぬ感情があったのやも知れない。下士らを詰めようとする小笠原を止める事はなかった。
 当時下士らを説得鎮圧に向かわされていた間崎哲馬、門多為之助、岡本常之進らを呼び出し、詰問する小笠原。3人は当時、既に場は収まった後の宴に展開していると思い込みその場にいなかった為、そのような騒動があった事を知る由が無かったと弁明するが、引かぬ小笠原は『士分としてそのような言い分が通用すると思うな!』とますます怒りをあらわにする。だが他に言い分の無い、まさに寝耳に水状態の彼らであったが、岡本などは憤慨して「ならばこれまで潔く割腹し責任を負うべし」と叫ぶのに対し、間崎らは「このような事で割腹すれば嫌疑を実にするものである」と筋を正さんと憤慨していた。
 江戸に続々と到着する下士ら50人衆から、武市ら土佐勤王党の一派である島村寿太郎らもこの件に合流し始める。特に間崎は土佐勤王党の中でも武市の右腕とも左腕とも言える優れた人物であったが為、話は大きく広がりを見せていたのだ。武市は一見『見たか否かを言い争って割腹しないのは却って死を恐れていると取られる場合もある。そうでなければ潔く割腹するべき』と武士としての政論を述べ、しかし間崎が『死を恐れて割腹を拒んでいるのではない。身に覚えのない納得のいかぬ不名誉に我慢がならぬ一心だがこれ以上仲間を煩わせるのも忍びない故、宜しくお言葉に従うであろう』と返したため、寒菊亭に決別の宴を開く事となった。一件はやはり多くの郷士らにとって『理不尽』と憤慨され、まるで文久元年初めの永福寺事件の時の様に、下士らの間へと伝染して行った。

 一度『潔く割腹せよ』と意見した武市であったが、翌日容堂公に謁見し、間崎らの件について事情を話し嘆願する。容堂はこれを受け入れ『今は激動の時世であるから成すべき事を成し、いずれ我が馬前に討ち死にせよ』と許し、再び寒菊亭にてこの恩命を受けた郷士達は容堂公の懐深さに感涙した。その一方で、上士ら、特に小笠原にはますます反目の意を増すに至ってしまったのだった。表向きは同じ『勤王派』などと言っているだけに、その反発は根深いものとなっていく。


【乾・容堂】武士の本分


11月。容堂、乾に対し、件の『激徒』に対しどう対処すべきかを問う。これに対する乾の発言を聞いた重臣は「なんという危策、乾退助は命知らずである」と戸惑いを見せる程の、寸分の迷いもない勇猛果敢な武士たる気概を見せる乾。だがそんな乾にももう一つ、『武士たる本分』がある事を、容堂公は指摘する。嫡男の誕生についてだ。

仮SS/【乾・容堂・武市】江戸取引・弐


柳川左門という偽名での登城ながらも実際には土佐下士の身分にして将軍の御目見えとなった武市半平太。はつみはそんな武市に対し『もはや自分の言葉が届く様な人ではないのかも知れない…自分の都合で彼の運命を変えるなんてできないのかも知れない』と思いながらも、乾退助との『取引』によって得た最大の好機に対峙しようとしていた。

仮SS/【乾】江戸取引・参(前編・後編
R18


江戸での任務をようやく終えた武市ら勅使一行は、今となっては公武合体派として違う路線をゆく薩摩の動きを警戒して颯爽と京へ帰って行った。それを見計らった様に、乾ははつみを呼び出す書簡を送る。自分の力量不足が招いた結果はどうあれ、乾は難しい約束を果たしてくれた。今度は自分が、彼の願いを聞き入れる番だ…。



●文久三年…乾27歳・はつみ23歳

(1月)上洛前の容堂が薩摩藩邸を訪れ、後日、大久保が土佐藩邸の容堂、そして乾、小笠原を大久保が訪ねる。容堂公は京における土佐下士らの『暴挙』について、これを鎮めるものであると宣言した。
詳細

長州と薩摩の軋轢は深まる一方で、特に土佐に至っては下士が長州に寄り、上士は薩摩によるという内部分裂の様子が明るみとなっていた。下士の方については武市がこの溝を埋めるべく奮闘していたが、そもそも容堂と武市(一派)の溝が収まらぬため中々に難しい状態であった。 乾は小笠原と共に、相変わらずどの党にも属さぬ我が道の勤王を貫いていた。容堂公が薩摩と便宜を図るのは内心不本意ではあったが、その中にあっても忠義を以て中から勤王の声を上げ続ける。乾、小笠原に対峙した薩摩の大久保は後の手紙において『容堂公の傍には正義之者あり。実に純良之者にて君臣さすか殊勝に見受け候』と書き綴っている。


―下田―

下田会議


1月、年明け早々。山内容堂らは借り受けた筑前の蒸気船・大鵬丸に乗り込み、上京する。 しかし天候不良の為下田で碇泊。宝福寺へと入った。容堂公は、同じく船(蒸気船順動丸)で江戸東下中であった勝海舟と面会。坂本龍馬の脱藩罪を免ずる方向で話をつける。
詳細

 天候不良の為に下田に寄港した容堂ら、「蒸気船、多少の風程度何とする」とシケの中出港するが、高波に加え逆風もあり、船は大揺れに揺れ船の上にて全員が『ころけまわり』、全員が大酔いに大酔いとなる。慌てて下田へ引き返す舵を切り、猛烈な風にあおられ猛スピードで下田に到着した。容堂はこの時の事を宇和島の盟友・伊達宗城へ手紙で知らせており「九死に一生を得た」と伝えている。  ある日、その下田に勝海舟がやってきた。面会し、坂本龍馬の脱藩罪を免ぜられる方向で話がつく。また亀弥太らの修行を認め励むよう言伝る。(急ぎ蒸気船を買う手はずをしており人手が欲しい所でもあった)
 そして容堂の方から『英語を話し西洋文化に通じた者』としてはつみの話題が上がる。勝海舟も心当たりがあった様で「坂本からそれらしき逸材がいるとは聞いたが、そのコは土佐の御仁(武市)に夢中らしくこっちにはこなかったヨ。やりたい事があるとかナントカ…ってねぇ。」と返し、これを聞いた容堂は思いのほか身を乗り出す思いで耳を傾けていた。
江戸から出立の前に、薩摩の大久保らから『武市を筆頭とする土佐下士中心の過激勤王攘夷派は、『土佐勤王党』という徒党を組んでいる』という情報を聞かされていた為である。当然ながら桜川の事は記憶に新しい。東洋がその才の育成について長崎留学、江戸遊学など支援する程に気をかけていたのもそうだし、そこからどういう所以か、乾が斡旋してきた流れで目通りを許したのがつい先日の事だ。思う事は色々にあったが、兎に角その桜川がいかな形で『武市らの徒党』に切り込んでいるのなら利用できるのではないかと考えたのだ。興味深く、自分がまだ知らないはつみの情報を聞く容堂。そしてすぐ傍で控えていた乾や寺村なども、容堂と勝の話を聞いていた。京都への潜入において既に桜川と武市らの関係について情報を得ていた寺村は、この後、容堂に改めてその報告を行った。


―京―


仮SS/【乾・以蔵】懸念


1月22日、容堂公、大阪にて三か条の布告をなし、京で活動していた尊王攘夷派の土佐軽士らへ牽制する。とかく容堂の逆鱗に触れたのは、間崎哲馬など著しい意越権行為に及んだ青蓮院宮令旨事件についてである。これは、山内容堂によって牛耳られている土佐藩の藩改革を促す為に、事もあろうか中川宮朝彦親王に迫り、無理矢理の形で令旨を得たというものである。間崎は先の梅屋敷事件の折に露呈した上士下士の対立においても、渦中の人物としてその名が挙がっていた。これまでは尊王攘夷の為に朝廷工作に走っていた下士過激派達は、事ここにきてついに容堂公の存在の大きさを目の当たりにする事となり、藩政改革へと着実に工作を進めている事の証明でもあった。そんな中、乾は京にてその所在を掴んだ岡田以蔵に向けて若輩の上士・真辺正精(16)を派遣する。そしてはつみの所在と共に、ここまでに至る境遇の真実を知る。

仮SS/【乾・以蔵】他人行儀


25日。明保野亭に桜川はつみは現れた。だが、身体は結ばれたというのに、心はまるで他人の様に寄り添わない。二人の心は、あの江戸取引の日から大きくすれ違ってしまっていた。

仮SS/内部分裂


1月28日。容堂が京に入った事を受け、土佐藩主豊範は早々に土佐へ帰藩する。尊王攘夷派が藩政を握って以来、藩主の側近へと取り立てられていた上士:谷干城と会った乾は、『佐幕派の上士たちの間の中で武市を斬るといった話がある』との話を聞く。

時事略

(1月28日)容堂、河原町藩邸に損の攘夷派の軽格15名(平井収二郎含む)を呼び出し、大叱責する。
 同日、公卿・千種(ちぐざ)有文の家来、賀川肇天誅
(1月31日)賀川肇の『首』が慶喜のいる東本願寺へ、『腕』が岩倉具視邸へと投げ込まれる。
(2月1日)平井収二郎、他藩応接役を解かれ公家らへの周旋一切を禁止される。
(2月4日)容堂、軽格の探索御用を全て解任。小畑孫次郎を派遣し帰藩した軽格の再入京を禁止する。
(2月5日)武市、密事用を命じられる。(斡旋行動等について、藩政への報告義務が生じるためある意味身動きを拘束される事となる。)
(2月7日)容堂在中の河原町藩邸に里正惣助の『生首』が投げ込まれる。「酒の肴にもならぬ」と春嶽へ手紙。
(2月8日)容堂、春嶽からの慰めの手紙によって『土佐勤王党』という『徒党』の存在を初めて知る。
(2月)乾、卑劣な手段を以て君主を威嚇する下士勤王派に激怒する。上士50人組(臨時組)と共に、「我ら上士の内誰か一人でも天誅によって命落とす事があれば、断固として下士攘夷派の首領を討ち取り報復する」と誓い合う。しかし、武市に組しながらも容堂公の元を出入りし続けていた上士・小南五郎右衛門が、これを武市に密告する。
(2月)武市、河原町藩邸の乾を訪ね、先の件について問う。「例え誰かが斃れたとして、誰の仕業かも分からぬ中で全てを我が同志の責とするのはいささか酷ではないか。」乾は返す。
「確かに、必ずしも直ちにおんしらの一派だけを討つっちゅうわけやないき。じゃが、もう一度よう考えてみいや。おんしの同志らぁが、今後暗殺の暴挙に出んと断言できるがか。俺は、それを大いに疑うちゅうぜよ。 青天白日のもと、己の行いに疚しい事がないんであればそれでええ。じゃが、少しでもそがあな企てがあるとすれば、大丈夫たる武士としてその責任を断じて逃れるわけにはいかん。
昨日耳にしたんじゃが、おんしの同志らは尚も我が同志を狙いよるちゅう話じゃ。武士にとっちゃ身を辱めんことこそが本分ぜよ。もとより党派争いがもたらす災いの恐ろしさを俺はよう分かっちゅう。じゃが、俺らが結んだこの盟約はやむを得ず結んだものであって、決して好んでやっちゅうわけやないき。」
 武市はこの言を受け入れ言い返す事無く、その場を去ったという。
(2月11日)攘夷期限を迫る暴動を起こした中山忠光が長州・久坂らの元へ転がり込むが、手に負えない久坂らが武市の所へ転がり込む。武市の案にて、久坂達の対関白・断食座り込み(ストライキ)が決行され、久坂ら姉ヶ小路公知ら12名の血判書を用いて後押しした。孝明天皇は直奏を受け入れ、攘夷期限の回答を迫る勅命を幕府に下す。
(2月12日)武市、ついに容堂から呼び出され『一命を捨てて』容堂の前へ出る。攘夷期限問題、そして勤王党血盟に話が及ぶ。時勢を見る容堂は、先日帝から勅命が下った事も当然把握していた。その為、武市らの『土佐勤王党』に内心腸煮えくりかえる想いを抱きつつも、むしろ寄り添うが如く言葉を下す。甘いものが好物であるとする武市に『菓子』を送るなどするが、労っての『菓子』なのか、それとも『下士』である事をゆめゆめ忘れるなという皮肉を込めての菓子であったのかは定かでない。
(2月18日)孝明天皇、諸大名に勅書を下す。容堂、この辺りから『藩臣中に異議あり』として二条城での幕議を全て欠席する。
(2月25日)京藩邸にておよそ半月の謹慎処分を受けていた坂本龍馬が、この日『御叱り』を以て脱藩罪を罷免され、解放。下田会談による勝海舟と山内容堂による特例の措置が実行された。
(2月25日)間崎哲馬、土方楠左衛門、容堂に拝謁するも青蓮院宮令旨問題を詰められる。


(3月4日)14代将軍家茂、299年ぶりの将軍上洛。
(3月11日)孝明天皇、将軍家茂、賀茂社行幸。

仮SS/【武市・寅之進・沖田】人斬り
R15 微G


3月。武市とはつみらが市中を散策していると、壬生浪士組と名乗って市中警護を行う沖田総司らと遭遇。彼らとは何事も無く別れたが、その直後、武市を狙う刺客がはつみらを襲う。

仮SS/【武市・乾】漢気・乾退助編


『武市、桜川、池田、往来にて刃傷沙汰』との報は各方面へと飛び交う。武市が一人思案していた時、夜遅くであるにも関わらず寓居に来客の気配があった。柊が取り次ぎ、部屋に通されてきたのは、なんと上士の乾退助であった。

京・天狗編

文久3年4月~文久4年/元治元年6月

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●文久三年…乾27歳・はつみ23歳


―土佐―


4月、乾、容堂らや上士臨時組らと共に帰藩したのち、佐幕・公武合体派の台頭と容堂公への建言によって怒りを買い、失脚。

仮SS/【乾】満たされぬ全て
R18


5月。時世の煽りと共に容堂公への建言がきっかけで失脚した乾は、藩政へ返り咲く事以外にももう一つの『やるべきこと』を家の者達から急かされていた。…乾家の嫡男をもうける事である。

5月10日、下関攘夷戦争
5月、中岡、失脚した乾退助を訪ね腹を割って話をし、勤王のもと共闘する事を誓う。
6月、間崎哲馬、弘瀬健太、平井収二郎切腹 7月、薩英戦争
8月、京にて818政変。長州及び攘夷派は一掃され、一橋、会津、桑名、薩摩らによる公武合体論が台頭する。このあおりを受け、土佐では本格的に土佐勤王党弾圧が始まる。藩外に出ている下士を中心に随時帰藩命令が強化され、はつみは除外されていたが、龍馬や寅之進など、はつみの側に居る土佐藩士は殆どが帰藩命令の対象だった。
9月、乾、容堂の側用人に再度就任
 武市半平太、投獄
10月、深尾丹波組・御馬廻組頭に復職
10月、はつみ、春以来返信のない乾に再度手紙を出す。
12月、はつみ、一人土佐へ帰藩する事を決意。皆から止められるが、春に別れて以来乾との連絡がぷっつり途切れている事にも土佐への不信感があり、行って確かめると同時に海軍操練所の先見性とそれに対する土佐のメリットなどをしっかり説明してくると決意。(武市恩赦の為に)
12月、はつみ、土佐へ向かう道中で刺客に襲われるも寅之進に救われる。



●文久4年/元治元年…乾28歳・はつみ24歳


1月、後藤象二郎、福岡藤次ら『新おこぜ組』再台頭
1月10日、海軍奉行並・勝海舟、宇和島隠居・伊達宗城の書状を持ったはつみら、土佐関所へ到着。宇和島藩の護衛達と別れる。 勝の言っていた通り土佐側の関所はかなり物々しく、他藩藩士は容易に通り抜け出来る状態ではなかった。 土佐見張り番に対し2通の書状を見せ、乾に取次を願う。関所の宿にて待機する。

【寅之進・陸奥】土佐帰藩


1月末。はつみら、関所付近にて半月ほど散々待たされた後、乾ではなく岩崎弥太郎が現れる。乾への目通りについて尋ねるが自分が承ったとばかり言い逃れ、はぐらかされる。しかも例外なく陸奥や黒木は入国できず、帰国命令の出ていた寅之進は殆ど捕らえられる様な形で有無も言わさず『同行』を申し付けられた。

仮SS/【武市】届かない声


2月5日。はつみ、土佐城下到着後指定の宿に押し込まれていたが突然出頭命令を受け、南会所へと向かう。 『捜査協力』の名目で色々と土佐勤王党や武市との事を『詮議』された。相手はしゃがれ声の小目付・野中太内。荒々しく威圧的にモラハラを行ってくる様な輩だった。はつみは自身の正当性や然るべき書状を持っている事を大前提に、かつてない程の論戦を繰り広げる。

【乾】青天の霹靂


2月。深尾丹波組・御馬廻組『頭』に復職していた乾は、勤王党弾圧はもとより藩政のうち『国事』に携わる様な所には殆ど関わりのない所で日々を務めていた。宇和島関所の辺りで妙な動きがあると思案する最中、まさに青天の霹靂とも言わんばかりに『ケーン』と響く隼の声が、片耳しか聞こえない乾へとしかと届く。空を見上げ、そこに白き隼を黙認した乾は、ただ一つの事を確信する。―あの鳥は、常にはつみに追従していた賢き白隼だ。つまり、はつみが今、この土佐にいるのだと―。

仮SS/【乾・寅之進】現状打破


寅之進、藩命によりはつみの護衛役を解れ、追って沙汰するとして開放される。その矢先、独自に行動を開始していた乾と遭遇した。

仮SS/【乾・寅之進】天佑神助・前編


料亭の一室にて軟禁状態のはつみ。『全ての職を罷免された』という寅之進が心配で仕方なくなったはつみは、まさに『神頼み』の思いで総司の鳥笛を吹くと、窓際にルシが現れた。
「ルシ…!来てくれてありがとう…本当に賢い鳥だね…!」
 周囲にはバレていない事を確認。はつみは寅之進になら伝わるであろう『I am fine.』の一文を書き記し、ルシの脚に巻き付ける。
「お願い、寅くんを探して…」

仮SS/【乾】天佑神助・後編


 強く引き寄せ抱き締めてくる腕に驚き、戸惑いを見せながらも、身を委ねるはつみ。首元に押し当てられた乾の頬のぬくもりと共に吐息がかかるのを感じて、固く目を閉じた。
「謝るな」
 ぼそりと囁く声は、触れる肌から直接体内へ響くかの様にはつみの中へ浸透していく。拒絶しないはつみの様子を受け、乾は更に強く彼女を抱き締めた。


(2月20日)~『元治元年』に改元~


仮SS/【乾・谷干城】大義と私情


 失脚した身である乾にとって、すでに獄中にある土佐勤王党員らに対しては手の施しようもなかったが、はつみや寅之進を土佐から逃してやる事だけは今目の前にある己の使命だと心得ていた。

仮SS/【乾・寅之進】届かぬ想い
R15


3月中旬深夜。脱出の機会を伺っていた乾が、ついにこの日、行動を起こすと告げた。はつみは乾に連れられて料亭の一室を抜け出し、闇夜に紛れながら、馬で須崎湾へと向かう。
「…此度の事は借しじゃ。次に会うた時は、おんしを抱く。」
「…乾…死なないでね……」
 かくして、はつみ達は『晴れて』土佐脱藩となり、乾、そして武市ともはしばしの別れとなるのであった。

3月15日、次女:軍 生まれる。母は妾:政野

【武市・乾】獄中の桜


4月。武市が投獄されてから約半年が経とうとしていた。青白くやせ細った己の顔を見て『この世の人間ではない』と自嘲する手紙を妻に送る。そんな彼の元へ、一通の匿名文が届けられた。


―京―

6月5日、池田屋事件
6月10日、明保野亭事件

襲撃

元治元年6月~7月

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●元治元年…乾28歳・はつみ24歳


―土佐―


6月、寺村左膳、容堂側用人役を罷免

6月24日、奸婦襲撃事件。
京。桜川はつみ襲撃事件。土佐勤王党員:柊智らの他、長州・水戸派攘夷志士による襲撃。見廻りをしていた新選組の介入で一命をとりとめるが、背中に深手を負った。

 土佐は異常なまでに国境を閉ざしきっており、時世に関わる情報を知り得る者もごく一部とされる中、桜川のごとき一介の人物がどこでどの様な目に遭っているかなど、乾は知る由もなかった。
書簡の行き来も途絶えたままであった。

7月3日、乾の実姉、死去
7月9日、小笠原唯八、福岡藤次、後藤象二郎ら、大監察(大目付)就任

東西奔走編

治元年7月~慶応元年閏5月

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※乾のビジュアル(髪型)が変わる※

●元治元年…乾28歳・はつみ24歳


―土佐―


7月24日、乾、町奉行に就任。後藤と小笠原が連れ立って乾を訪れ、就官を勧説する。乾渋っていたがこれを承諾する。
7月27日、小笠原唯八、清岡道之助ら野根山23士の鎮圧に充てられる
8月11日、乾、大監察を兼任。
8月、大監察(大目付)を兼任。土佐勤王党の詮議に関わる。
9月、二十三士、斬首
上士・佐々木三四郎、藩庁より嫌疑をかけられるが乾の介入により免れる。

●元治2年/慶応元年…乾29歳・はつみ25歳

1月14日、乾、大目付・軍備御用を罷免。深尾丹波に「武市瑞山上士昇格に便宜を図った」疑いがかけられるが乾がその罪を被っての形で大目付・軍備御用兼帯を解任される。(藩政があまりにも容堂公の息にかかった意見ばかりで、自らなげうったとも)
乾、謹慎を命ぜられる

【乾】寤寐思服

(ごびしふく)
4月、謹慎が解かれ江戸へ兵学修行。洋式(オランダ式)騎兵術修行を命ぜられ、真辺正精(18)と江戸へ入った。
詳細

 土佐から距離を置かれる様に、或いは頭を冷やせと言われんばかりに江戸での兵学修行に出された乾は、真辺正精(まなべまさよし)と江戸へ向かう。真辺とは江戸留守居役を務めた頃から何かと顔を合わせ行動も共にした人物であり、かつて土佐へやってきたはつみを逃がす際にも秘密裏に協力をしてくれた同志である。が、今回の江戸同行については恐らく、乾を気に掛ける容堂公からの『御目付役』も兼ねていたと思われる。乾と同様、真辺自身も乾の人格とその思想に賛同しており、容堂政権との狭間で藻掻いていた。
 江戸に出た乾は幕臣らの中になじみ、極めて平穏に、かつ真面目に西洋騎兵術及び砲術を学ぶ。一方で、はつみの足取りも何気なく探った。しかし江戸で得られた事といえば、はつみが在籍していた『勝海軍塾・神戸海軍操練所は勝海舟の失脚を以て解体されたらしい』という、あまり良くない報せであった。まさか野放しにされた訳ではなかろうと思いながら日々を過ごすが、ある日、勤王の同志である小笠原唯八からの文で『坂本龍馬や桜川ら元海軍塾生らは現在薩摩に匿われているらしい』との実態が明らかとなる。
 今最も『雄藩』として筆頭に挙げられる薩摩に匿われているのであれば、一先ず命に関わる問題はなかろうと文を閉じる乾。―はつみを真に助ける藩が土佐ではない事、そして自分ではない事に波立つ心を鎮めながら。

この時もまだ、はつみが長州派の過激尊王攘夷派から襲撃をうけ深手を負ったこと、その後、四カ国艦隊による長州砲撃の際に乞われて長州へと赴き、非公式ながらも心に残る外交活動を行った事などについて、乾は知る由もなかった。
以後、はつみとは会う事も文を交換する事もなく、月日が過ぎてゆく。

閏5月11日、武市ら土佐勤王党処分決行される。
詳細

武市半平太切腹。自白組斬首。
 去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、爾来、京師高貴の御方へ容易ならざるの議屡々申上、将又御隠居様へ度々不届の義申上候事共総て臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を粉紊し、言語道断重々不届の至、屹度御不快に思召され、厳科に処されるべき筈之所、御慈恵を以切腹これを仰付けらる

―他、
 御預け一名…小南五郎右衛門(元上士。苗字刀取上)
 牢舎九名…園村新作(元上士)、森田金三郎、山本喜三之進、島村寿之助、小畑次郎、安岡覚之助、河野万寿弥、小畑孫三郎、島本審次郎
 斬首三名…久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
 継続二名…檜垣清治、今橋権助
 名字帯刀剥奪、城下禁足…岡田以蔵
 (不明一名…吉永良吉)

朧月編

慶応元年閏5月~慶応2年6月

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●慶応2年…乾30歳・はつみ26歳

1月、薩長同盟成る
2月、参政後藤、小目付小笠原唯八、鹿児島視察。
5月、乾、江戸滞留継続の命が下りる。

転機

慶応2年7月

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●慶応2年…乾30歳・はつみ26歳

時事略

(6月7日~8月)第二次長州征討・四境戦争
(6月17日)英・パークス公使、鹿児島訪問
(6月27日)英・パークス公使、宇和島訪問
(7月5日)イギリス軍艦が土佐浦戸を通過。『侮りを受けるべからず、先制攻撃』とばかりに大騒ぎとなるが、容堂が窘める。
(7月7日)後藤象二郎、中浜万次郎ら12人を伴って長崎へ発つ。従者横山、池道之助等。商用目的。 公武合体、開国論者へと傾倒しつつある後藤は藩政内において浮いており勤王党関係の者達からも狙われている。少し土佐を離れる狙いもあった。
(7月20日)将軍徳川家茂・逝去
(7月)土佐後藤、長崎にて貿易の推進にあたる。従者道之助、ロシア人音楽団に遭遇し衝撃を受ける。


才気飛翔編

慶応2年8月~慶応3年9月

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●慶応2年…乾30歳・はつみ26歳

時事略

7月20日、将軍徳川家茂、逝去
7月、後藤、中浜万次郎ら12人と長崎貿易の推進にあたる(いよいよ開国化が進む)
 ロシア音楽団に遭遇し、衝撃を受ける(後はつみのピアノにリンクする)
8月慶喜、禁裏守衛総督辞任・徳川宗家相続
8月、後藤、中浜万次郎ら6名、グラバーと共に上海へ
 容堂、大目付・佐々木三四郎や元土佐勤王党郷士ら(島村寿之助)らに西国(大宰府)探索方を命じる。
9月、上記佐々木ら、大宰府にて土方楠左衛門らから薩長同盟の報を聞き、急ぎ土佐へ持ち帰る。

9月末、乾、江戸騎兵術修行の命が解かれる。
10月、はつみ、小松に対し英国商人グラバーのもとで世界の交易について学ぶ事を望む。

12月5日、徳川慶喜・15代将軍就任

12月、乾、水戸浪士(相楽総三ら)を独断で江戸藩邸に匿う。
12月、乾、刀鍛冶の左行秀を義侠心のある男と見込み、水戸浪士の件打ち明ける。(後に裏切られる)


12月25日、孝明天皇、崩御


●慶応3年…乾31歳・はつみ27歳
時事略

1月9日、睦仁天皇・践祚(後の明治天皇)
2月、龍馬・中岡、脱藩罪を許される
3月、徳川慶喜、大阪にて各国公使と会見。
4月、寺村左膳、容堂の側用人に再任。
4月、海援隊発足
4月、はつみ、いろは丸沈没事件で仮死状態となる
5月、山内容堂、寺村らを連れて入京。四侯会議に挑む



―京―

【乾】女傑評議10


5月。幕府の独裁制を強めようとするその勢いを止めるべく薩摩主導での四侯会議が行われ、これに山内容堂も出席していた。しかし慶喜の策に破れ、やむなく失敗に終わってしまう。これを嘆く中岡からの手紙が江戸で燻り続けていた乾の下に届き、諫死の覚悟で上京を決意。京についたこの日、早速近安楼にて中岡や谷干城らと合流し、大事の前の小事として小宴を開いていた。そこでにわかに、桜川はつみの名前が挙がる。

時事略

(5月19日)乾、容堂に目通り願うが『討幕論』につき容堂に意に添わず会う事を許されない。
(5月21日)乾、中岡、谷ら、小松帯刀邸にて、帯刀、西郷吉之助、吉井幸輔らと会談。薩土密約を締結。 乾が江戸土佐藩邸に匿っていた水戸浪士の西郷への移管も条約内に含まれる。
(5月22日)薩摩、藩論を武力倒幕へ統一する。
(5月22日)中岡、土佐の勤王志士に勤王討幕の志ある者は門閥を越え乾を盟主とせよする激文を飛ばす。
(5月22日)乾、いまだ藩論を討幕へと決定しない容堂に対し、時勢を説く。 更に、藩論に逆らう形で江戸藩邸にて水戸浪士を匿っている事を告げ、覚悟を述べ、了承を得る。
反乱分子を取り込むという政犯ともとれる申し開きをした乾に対し、容堂は『追って沙汰する』とした。勿論薩摩の動きと共に時世への鋭い見解があっての事でもあるが、何より乾の公正明大な人格を見込んだ上で『殺したくはない』との思いから保留にした部分が大きい。その『寛容』さは、かの巨魁『武市半平太』に対した時のそれとは全く性質の異なるものであった。
乾、中岡らに銃の購入を命じる
(5月23日)容堂、帰国願いを出す。
(5月24日)将軍・慶喜、(以前から問題になっていた)兵庫開港の勅許を得る。
(5月25日)中岡、福岡藤次の支援のもと『陸援隊』結成。


6月、容堂と共に土佐へ帰藩する。寺村左膳、真辺栄三郎(正精ではない)、福岡藤次らを名代・山内兵之助補佐として京に置く。


―土佐―


6月、乾、大監察(大目付)、軍備御用兼帯となり大幅な軍備改革に取り掛かる。
6月、土佐藩医師・萩原復斎の娘・薬子、懐妊。
時事略

(6月13日)佐々木三四郎の京都出張問題。藩論の行く末。
(6月13日)後藤象二郎、容堂の要請により坂本龍馬と共に船中八策を携え上京。容堂は朝廷と幕府、双方の譲り合いにより円満な事態収拾を期待していた。一方、中岡はこの様な考えを持つ者に対して痛烈な批判を説き始めていた。
(6月)乾、佐々木三四郎と協力して土佐勤王党員6名を釈放。 土佐全土の勤王党が乾を盟主とする討幕を決断。 乾は推されて、武市と似た立場・土佐勤王の盟主となる。
更に町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告した。


仮SS/【乾】英雄の器


土佐上士内における勤王の同志、小笠原唯八、佐々木三四郎、そして乾退助の3人が、久々に集う。
「長州には高杉晋作という藩改革と防衛にひと肌もふた肌も脱ぎ活躍した御仁がおられたそうじゃ。 我が藩にその類の英雄がおるとすれば、それはおんしじゃ。乾。」
「土佐・勤王の、真の盟主となれ」

仮SS/【乾】女傑評議11


土佐きっての武力倒幕派会議が解散となった後、小笠原が佐々木にコソコソと肘打ちする。乾の嫡男の件、そしてかねてより開国論を展開し吉田東洋や容堂公の知己まで得た桜川とはどうなったのかを気にかけていた。佐々木は「あ~」と目を泳がせた後、わざとらしく咳払いをすると改まった様子で乾に声をかける。

時事略

6月15日、佐々木三四郎、乾の説得によって容堂の許可を得、京へ向かう。 全権委任の形ではないが、上京の上大義のある方向が見えれば決行せよ、との事
7月、長崎にてイカルス号事件勃発。土佐と英国の間で大きな亀裂が生じる事件となる。
7月、後藤象二郎ら、大政奉還案の為に帰藩し、容堂公と藩主の許しを得る。
7月、寺村左膳、参政となる。
7月、乾、土佐藩銃隊設置の令を発する。北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置し、近代式銃隊を主軸とする軍備改革を行う。
7月、乾、参政(仕置役)へ昇進。軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織(迅衝隊の前身)
上士勤王派・谷干城、小目付のまま軍備用・文武調役兼帯


7月、正妻鈴・懐妊

仮SS/【小松】こまつといっしょ5


佐々木らや龍馬らと再び長崎へ戻る事になったはつみは、藩邸内におよそ10か月ぶりに再会し、小松の求愛を受ける。

仮SS/【乾】一日千秋


8月3日。イカルス号事件・長崎検分の為、薩摩船「三邦丸」にて急遽土佐土佐へ戻った佐々木。はつみから預かっていた手紙を乾へ渡す。脱藩の身であり上陸は許されないままだが、龍馬やはつみらも同じ船に乗船していた。彼らは土佐帆船夕顔丸に乗り換える。

8月6日、乾、諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に配置。
詳細

イカルス号事件の為英国軍艦バジリスク号が須崎沖へ入る為、不測の事態に備えての事だが、後藤らは佐々木にこれを鎮圧する様命じる。しかし乾は職権を以てこれを断行し、西は須崎、東は種崎までに軍を展開させた。あまりの速さに藩庁は唖然としたという。
一方のはつみたち。須崎湾には幕府軍艦回天丸が碇泊しており、先の陸路旅で草津から合流したキツネ平山の部下二人と再度合流。土佐の戸川という者と大目付の二人が現れ、嫌疑がかかっている南海号という小型スクーナーは現在浦戸湾に碇泊している事を告げられる。南海号は事件当時下手人が乗り込んで出航したといった嫌疑がかけられていたが、これについては海援隊士にも船にも証拠となるものは見つからなかったと報告をする。
更に一方の後藤象二郎、迅速すぎる軍の展開を受け公使会見の場を英国軍艦へと変更。後日現れた英国艦バジリスク号にてパークスと会談する。報告内容に加え土佐の者が犯人でなかったとしても全力で捜査を続けると告げるのだが、パークス公使は土佐者が犯人であると信じて疑わなかったので彼を威嚇した。しかし威嚇しながらも『土佐とは友好的関係でありたい』などと随分不思議な言い回しをしていたとサトウ。また、パークスの怒りは平山にも及び、まるで使い走りの様で役に立たないと激怒した。更にはサトウに対し、彼の護衛である野口達が幕府のスパイだと思っているなどと言ってのけた。


仮SS/【乾、以蔵】活人剣・真


8月15日。はつみの手紙を読んだ乾が吹井の武市生家を訪れ、以蔵と再会する。勤王党の獄中闘争時にも何度か対面したが、今回は詮議や取調べなどではない。一人の男として会いに来たと述べる乾。

仮SS/【乾・以蔵】女傑評議12


別撰隊に加入し、ひとまずは圧倒的強さを以て歩兵伍長となった以蔵。髪を切り、皆から歓迎され、自分の存在意義を初めて見出しているかの日々を送っていた。

(8月20日)容堂、後藤象二郎と寺村左膳に大政奉還案建白書の作成と提出時期の調整を指示。 出兵については『暫時御見合』とした。容堂、乾にアメリカ留学を内示
(8月21日)乾、軍備用兼帯致道館掛を解職される。(参政のまま)
以蔵はそのまま別撰隊に所属。

【乾・以蔵】只有赤心明


9月。江戸で乾からその義侠心を見込まれていた土佐刀鍛冶の東行秀が京における乾の討幕活動を耳にして腰を抜かし、これは土佐勤王党の時の様に容堂公の逆鱗に触れるのではと、その時己に嫌疑がかかる事を恐れていた。以前乾が匿っていた水戸浪士の事を、書状の写しと共に江戸土佐藩に通報する。そしてその報は間もなく京・寺村左膳へと届き、寺村らはただちに動きを見せた。これを素早く察知した島村寿太郎から脱藩を勧められる乾であったが、『その件についてはとうの昔に容堂公の御前にて話をつけた。以来、処分の沙汰があるのを待つのみ』と返して堂々としていた。
容堂もまた乾を評価し庇っている事から、この件についてはまったくの不問となった。だが乾は、この東行秀から裏切られた事を肝に銘じた。
詳細

左行秀は容堂や東洋らもその腕を認める土佐藩お抱えの刀鍛冶であった。容堂はその刀を『今様政宗』と高く評価し、彼の刀は広く『土佐政宗』と周知される事にもなっていた。慶応元年の頃に江戸で乾と共に過ごしていた頃は銃器製造責任者として深く論じ合う事もあり、その中で義侠心有りと見込んで秘密を打ち明けていたのだった。




―長崎(はつみSide・イカルス号事件)―


(9月13日)はつみや寅之進という史実外からの介入により、イカルス事件が早期決着となる。

【海援隊・サトウ】イカルス号事件、解決 by capturing the criminal…前編・後編


詳細

イカルス号事件の勃発から二か月、サトウや龍馬らが長崎についてから一か月が経過しようとしていた。
この日、8月19日から別行動をとっていた寅之進と惣之丞がとある報告を行った。

そもそもはつみはこの海援隊に深く関わる事件を『歴史上の出来事』としてある程度記憶していたため、犯人は土佐藩士ではなくどこか別の藩士だという事だけは分かっていた。しかし、サトウらがあれだけ細かに洗い出しを行ったにもかかわらず犯人に辿り着けずにいる様に、これといった情報は見受けられず、自分が持つ情報を打ち出す為の切り口を見い出せずにいた。これは『未来の知識』である故にはつみもその事を誰にも相談しようがないまま、その時できる事をするだけだった。
だが、待ち望んだその切り口が、『先日から我々を尾行している者がいる』と言う寅之進からの不審者報告で見いだされたという訳だ。はつみは早速、その報告を元に『とある仮定』と称して『海援隊・土佐藩士以外の犯人疑惑』を打ち立てる。そして逆に不審者を張り込むと同時にしばらくは彼らを泳がせる。彼らを見かけた日時、場所、様子などを詳細に書き記す事にしたのだった。海援隊や土佐商会の全員がこれを知ると逆に気取られる可能性が高まる為、寅之進が不審者の報告をしたその場に居合わせた龍馬、はつみ、寅之進、陸奥、沢村惣之丞、高松太郎、そしてイカルス号事件解決の為に共に走り回っている佐々木三四郎のみで対処した。
はつみの仮説とは、事件の勃発から一か月が経過した所で急にイギリスによる検挙の動きが厳しくなり、それまで嫌疑を逃れ雲隠れしていた真犯人が事件解決への経緯を気にしているのではないかというもの。
8月19日以降、寅之進と惣之丞は、海援隊とは別行動をして慎重に彼らの素性を探り続けており、この日9月13日ついに、件の不審人物が福岡藩の藩士である事、そしてほぼ間違いなく、故意的に海援隊の動きを探っている様子を突き止めたのだった。


(9月14日)サトウ、平山、税関所にてはつみらの福岡藩士に関する『相談』を受ける。
詳細

税関所に現れたのは、はつみ、寅之進、陸奥の三人であった。(龍馬は武器購入の取引へ)
はつみ達はこの後奉行所へも同じものを提出する予定だとして、福岡藩士らに尾行された日時や場所、様子などをまとめたリストを手渡した。リストには、はつみ達の行く先々でこそこそと様子を伺うか大胆に通行人のふりをして通り過ぎ、食事をしている時にも偶然を装って何度も左右前後の席などに居合わせるなど明らかに不自然と思われて仕方ない行動歴が満載であったが、サトウはこれを自分達が預かる必要性について尋ねた。海援隊の身が危ない為取り締まってほしいという事であれば当然、自分達には関係ないものだと思ったのだった。
はつみはイカルス号事件の発生からおよそ一か月間、犯人検挙への進展が無かった事を口にした。そしてその後、幕府の主導で土佐藩海援隊に容疑がかかる事となり、イギリス公使パークス自らが事件解明の為土佐本国まで検分に出る事態となった。そして事件解決の為に公使館から遣わされたサトウや幕府若年寄の平山、そして海援隊責任者である龍馬が一同にして長崎入りしてから一か月が経過する。これはイカルス号事件の真犯人の心理状況を考えればか気が気でない事態になったという事である。あくまで仮説にすぎないが、彼らはイカルス号事件の進展について、サトウ達が『真犯人』に辿り着くかどうかを見極めようとしていたのではなかろうかと。嫌疑がかかっていた海援隊を尾行して話を漏れ聞こうとしていたと考えれば海援隊への尾行の様子にも辻褄が合うし、寧ろそれ以外、土佐及び海援隊が福岡藩士に追跡される様な事は一切心当たりが無いのだと。
一理あると頷き、サトウはリストを受け取る事にした。事件の検挙に繋がるものは状況解析、物的証拠の収集は勿論ながら、犯人の心理などからその行動を推察する事にも『センス』が問われるものである。尾行に気付いた護衛の優秀さに加え、そこから現実的な可能性を探る発想力、それに説得力を添える為のここまで徹底された書類を出された事は嬉しい誤算とでもいうべきか、実に賞賛すべき事であった。サトウは即座に行動へ移るとして、奉行所へはこのリストを元に、海援隊とは別に英国として福岡藩士への聴取を求めるとしてはつみ達と共に行くとまで言い出した。
必要な書類を用意する為、午後に再び会う事を約束して一旦はつみ達を帰らせる。そこで平山はリストの信憑性を疑ったが、サトウは構わず公式書簡の手続きへと移った。先日の土佐藩士と英米人のイザコザを収めたはつみの手腕といい、今回の事といい、事件勃発当初からこれまで何ら解決の糸口も見出せずにいる『政府』の人間が呈する疑惑と比較してどちらの助言を受ける事が賢明かなど、火を見るより明らかであった。


(9月16日)サトウ、英長崎領事フラワーズ、幕府若年寄平山とその部下、土佐藩佐々木ら奉行所にて福岡藩からの報告およびイカルス号事件関与の報告を受ける。
イカルス号事件真相:詳細 ・犯人は福岡藩藩士・金子才吉、42歳。英伝習生として航海・測量術を学んでいた。
・犯人は事件の二日後に狂乱状態で自決している。
・彼と同行していた伝習生7名が自訴している。
・7月6日、七夕の祭の最中。午前2時頃の事。金子を含む伝習生ら8人は丸山廊に入り寄合町まで来た時、外国人二人が酔いつぶれて寝ているのを提灯の灯りで認めた。その時、金子は突然刀を抜き二人の肩先めがけて斬りつけた。仲間たちは突然の凶行に驚くが既にどうしようもなく、その場を去って宿舎である播磨屋敷へと戻った。しかし金子は同行せず一人『山』に上ってしまった。
・7月7日の午後、伝習生の一人である富永のもとへ人夫が遣わされ、『迎えに来てくれ』と書かれた金子の名刺が手渡された。富永は金子が空腹でいると思い鮨を詰め、金子が潜伏している戸町屠殺場近くの薪置き場へ向かう。しかし金子は差し出された鮨を食べず、積み上げられている薪を捕手と見なすほど精神錯乱状態であった。富永は播磨屋敷へ戻る様説得するが応じず、砲台番の詰所へ行くと言うので海岸まで共に向かった。そこで『某がいるかどうか調べてきて欲しい』と言われたので丘を登ってその人の所在を調べて来たのだが、戻って来た時には金子は小舟に乗り一人漕ぎだし逃走した後であった。富永は大声で呼び戻したが金子が応じなかった為、寄宿して聞役栗田貫に報告した。
・同日の夜8時頃になって突然金子が戻ってきたが、聞役栗田は大事になると思い水の浦の福岡藩屯営所へ金子を送り気分を落ち着かせる為に座敷に居れ、役所書記仙田文次郎に監視を命じた。
・7月8日深夜、金子は仙田の刀掛けから大刀を奪い、腕をかき切った。死にきれず更に喉を突いて自殺。
・7月11日、金子の遺骸は丸棺に入れられ藩船蒼準丸にて福岡藩へ運ばれ、南茶園谷長栄寺に埋葬された。
・金子は事件前から気分不揃となり精神異常をきたしていたとも。
・事件当夜、伝習生の一人である粟野慎一郎(のちの駐露匿名全権大使。子爵)は、事の次第を内々に聞役栗田に報告していたのだが、栗田はこれを不問にし、あまつさえ箝口令をしいた。
・この度事件が発覚し、既に死亡している金子以外の伝習生ら7名は自訴した。
・また、海援隊の様子を見ていたのは先に出た役所書記・仙田文次郎。彼は金子がまさに狂乱の末自決したその場にいたが、その理由もとい彼が連れてこられ、海援隊の様子を見張る様に言われた理由がイカルス号事件に関わっているとまでは知らなかったという。だがその後、サトウらが長崎入りして以降イギリスによる追跡が厳しくなった事に危機感を抱いた栗田から、英国人らとも決して関わるなと内々に命を受け、もしやイカルス号事件に関係があるのでは…と察していたという。イカルス号事件の犯人はあくまで金子ではあるものの、その罪を隠した栗田については、おおよそはつみが予想した通りの心理的行動であった。




―土佐―


(9月24日)海援隊、土佐に入る。3000丁のライフル等積み荷卸作業。

仮SS/【乾・龍馬】世界へ咲き誇る桜


9月下旬、海援隊がライフル3000丁を伴って土佐に到着した。坂本龍馬およびはつみらも上陸し、坂本家や武市家などに顔を出していると聞く。殊更驚かされたのは、長崎にてはつみが外交の手腕を発揮し、再びの事件勃発を阻止しただけでなくイカルス号事件をも解決に導いた事についてであった。
ある日、乾のもとへ坂本龍馬が現れる。

【乾】取引という名の私情
R18


華月楼にてはつみと対峙する乾。実に3年ぶりの再会であった。
彼女が抱かれるのは、あの時、土佐から落ち延びた時の『借り』があるからなのか。それとも愛しい男が死んだ今、単純に誰かの情熱を浴びたいからなのか。取引、借り、想い人…何度閨を共にしても、どうしても彼女と同じ夢を見られそうにない…。まるで青二才の様にきしむ胸の内を押し殺す様に、乾ははつみを抱き締め、汗で滲む肌を重ねてゆく。

和解


はつみ、後藤、乾同席で容堂公に拝謁。イカルス号事件解決、英米水兵との揉め事回避などについて、英国のアーネスト・サトウから公式かつ丁寧な手紙が届いているという。土佐の面々と話をし、土佐の意を受け入れる。「東洋はおんしの才をよう認めちょった。こうなる事を見越しておったのやも知れぬのう。」褒めて遣わす、とばかりに放たれた容堂の言葉は、彼が思いもしない形ではつみに突き刺さる。「(だが武市は東洋を殺した)(だから土佐は武市を殺した)」はつみは両手をついて首を垂れると同時に、唇を噛みしめた。そんな彼女の様子を横から見届ける乾と後藤も、それぞれ胸に思う事を伏せたまま、ただ黙って、容堂とはつみの対面を見守るのであった。

(9月29日)乾、歩兵大隊司令に任ぜられる
(武器が到着した為、戻されたか)

【乾、以蔵】牝牡驪黄・土佐正宗


9月下旬、はつみ達が再び長崎へ舞い戻る頃、乾は歩兵大隊司令に任ぜられ、再び軍改革及び調練に携わっていた。そんな中、彼は以蔵を呼び出し、一振りの刀を授ける。土佐の刀鍛冶・東行秀。容堂公にして『土佐政宗』と称される名刀であったが、それは勤王派の面々からすれば『裏切り者の刀』とも言われる一振りであった。この刀を以蔵に授けた乾の意図とはー。


(10月1日)長崎、土佐・英会見。
詳細

仕置役(参政)後藤象二郎、大目付佐々木三四郎、御雇外国御用掛兼通詞はつみ、通詞陸奥陽之助
英国公使パークス、英国長崎領事マーカス・フラワーズ、二等書記官(兼通訳)A・B・ミットフォード、公使館付通訳官アーネスト・サトウ

(10月8日)乾、大政奉還建白書の提出を知り容堂へ建言をするも、容堂は『退助また暴論を吐くか』と取り合わなかった。

槿花一日

慶応3年10月~慶応3年11月

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●慶応3年…乾31歳・はつみ27歳


―土佐―


(11月)乾、全職解任、完全失脚
郡奉行・仕置役などを歴任する強硬な佐幕(保守)派・小八木五兵衛らにより。
※小八木五兵衛は山内始祖豊一の頃より藩主を支える600石取の大身である。強固な保守・佐幕派であり、『頑固党』とも言われていた。

運命の日

慶応3年12月

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●慶応三年…乾31歳・はつみ27歳

『12月5日』坂本龍馬・中岡慎太郎、暗殺

幕府終焉編

慶応3年12月~明治元年10月

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●慶応3年…乾31歳・はつみ27歳


―土佐―


【乾、以蔵】土佐の命運


『12月』。坂本龍馬および中岡慎太郎が何者かの凶刃に斃れた。
先10月の上旬に大政奉還の建白提出が成って以降、再々再度失脚させられていた乾の耳にも急報が入る。大政奉還後も薩摩ら雄藩の武力倒幕路線にジリジリとしていた土佐佐幕派・公武合体派であったが、この報を聞いた彼らは大いに喜んだ。一方、またも土佐内にて燻る勤王派は乾の自宅へと槍を以て集まり、沙汰を待つといった事態にまで陥る。以蔵も真っ先に乾の元へ馳せ参じた。


―京―

時事略

(12月7日)大阪開市・兵庫開港
(12月8日)長州藩主父子、三条実美、岩倉具視らの赦免決定。
(12月9日)会津公、京守護職辞任の意向を取り下げていたが慶喜により解任。御所を出る。 代わりに薩摩、長州、土佐が御所警護に入る。
王政復古。総裁、議定、参与(三職)によって新しい政府が構成される。
(12月13日)徳川慶喜、将軍を辞し大阪城へ入る
(12月24日)徳川慶喜、朝廷に将軍職返上を奏請
(12月27日)五卿帰京。参内


(12月28日)西郷、谷干城を呼び出し薩土討幕の密約に基き乾の上洛を促す。谷、即座に土佐へ発つ。


●慶応4年/明治元年…乾32歳・はつみ28歳

―京―

(1月3日)戊辰戦争開始・伏見戦争
新政府、『七事務局(七局)』を発足
(1月4日)京・土佐藩兵、藩命を待たず薩土密約に則って参戦。 土佐軍は官軍として錦の御旗を授かる。大目付・本山茂任、樋口真吉ら、伝奏の為、土佐乾の元へ出立。


―土佐―


【乾、以蔵】土佐迅衝隊、進発


1月6日。京にて西郷から『薩土密約に基く挙兵を以て四国を制圧せよ』との命を受けた谷干城が、急ぎに急ぎ土佐へ帰藩。土佐藩内に留まっていた佐幕派らは薩摩の挙兵と共に土佐が朝敵となりうる事態に怯み、一命を賭して藩主豊範公御前へと馳せ参じた乾が藩政に返り咲く。
乾、薩土密約に基き雄藩と共に勤王の志のもと挙兵する事を大宣言。深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成。谷、片岡健吉、真辺正精、上士格でありながらかつて武市の右腕として奔走し一時期は士分剥奪もの処分を受けた小南五郎右衛門などなど、多くの勤王派達が立ち上がった。
岡田以蔵、遊撃精鋭隊という一小隊の隊長へ取り立てられ、出立前に実家、富、京へと、短くも非常にしっかりとした手紙を送る。
迅衝隊、追って出発していた本山らの手によって錦の御旗が到着し、『四国統一』の勅令を下される。これにより土佐迅衝隊は『官軍』として進軍する。

進発時、乾は心に誓う。この四国統一がなった後には単身で(以蔵ら少数精鋭と共に)京・容堂の元へと馳せ参じると。一藩勤王、一君万民とする大義のもと、自身の保身や進退などは一切顧みない。それを決めるのは藩主であり、そして容堂公であるのだと。

迅衝隊、詳細

 1月1日に神戸開港大阪開市を控えた京阪では、それとは別に幕府と薩摩ら倒幕勢力の睨み合いが続いていた。確かに兵が集まりつつあったが『本当に戦が起こるのか…?』と疑心暗鬼で妙な緊迫感が続く中で、3日、遂に鳥羽伏見にて幕府軍との戦が勃発。驚くべき報が土佐に舞い込み藩庁が大いに取り乱す中、谷が挙兵の命を以て土佐へと飛び込んできたのであった。

 佐幕派らは薩摩の挙兵と共に土佐が朝敵となりうる事態に怯んでおり、板垣の盟友にして旧友である谷、片岡健吉、上士格でありながらかつて武市の右腕として奔走し一時期は士分剥奪もの処分を受けた小南五郎右衛門など勤王派によって乾の失脚が解かれる。乾、薩土密約に基き雄藩と共に勤王の志のもと挙兵する事を一方的に宣言。ただちに深尾成質を総督、乾退助を大隊司令とした迅衝隊を編成し、総督府からの命令である『四国統一』へと向け進発した。また、板垣が編成した迅衝隊は略奪や戦後犯罪を犯さない規律正しい正義の軍、官軍の名に恥じぬ部隊として名を馳せる事となる。

『いやしくも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ』

 戦地における略奪、放火、婦女子に対する乱暴行為を堅く禁じ、違反者は軍法会議に掛ける。
 有罪の場合は即刻処刑が断行されると告知。
 兼ねてより軍事改革を行っていた乾により、迅衝隊は近代的軍隊としての画期的な組織となっていた。

  ・給料制。毎月俸給を現金で支給。
  ・病気欠勤が認められており、従軍医師の診断書と隊長の印を受け「欠勤願」を提出することが出来た。
  ・隊内に「野戦病院」があり、従軍医師団が同行していた。
  ・洋式の軍服は京都出発前に個人が注文して作った。
   ※だいたい全体の洋式服が揃ったのは江戸を出る頃だったらしい。
  ・隊内に「砲銃局」があり、スペンサー七連銃を販売していた。
  ・小隊を左半隊・右半隊に分け、半小隊で行動することができた。
  ・隊内に「軍事郵便」といえる飛脚便があった。
実際、四国統一直後の高松城においてにわかに軍規を犯した者が3人程捕らえられ、彼らは容赦なく断罪された。このように厳しい規律があったにも関わらず、上士下士に隔たりなく課された平等な規律や気高い志と報酬も整っていた迅衝隊兵士の士気は、非常に高かった。
 しかしこの進発は土佐本土に座する藩主の認知の下行われたものではあるが、京に座する土佐の最高指導者である容堂と根強い佐幕派、公武合体派がこの挙兵を良しとしていない事は明白だ。これが成らねば真の『一藩勤王』『上下一体』とは成らない。倒幕挙兵に至った今となっては、最悪の場合彼ら全員を拘束する必要も出てくる可能性も否定できない。


(1月6-7日)慶喜、大阪城を退去し江戸へ。
(1月7日)新政府、慶喜追討令発布。
(1月13日)土佐、土佐迅衝隊600人、土佐を出陣。北山越え(参勤交代ルート)からの進軍。
「高松、川之江、松山を鎮撫せよ」四国(自国以外)を東から西まですべて鎮撫せよとの勅命。 谷を城下へ走らせ、2軍を設けて西部鎮撫を指示。以後丸亀藩、高松藩、松山藩と極めて無駄なく鎮撫する。
(1月19日)迅衝隊本隊、無抵抗開城の丸亀城に入る。土佐300年ぶりの快挙。

土佐迅衝隊、四国統一への経緯

13日、土佐迅衝隊600人、土佐を出陣。北山越え(参勤交代ルート)からの進軍。
 勅命くる。「高松、川之江、松山を鎮撫せよ」四国(自国以外)を東から西まですべて鎮撫せよとの事。高松(東)、川之江(中央)、松山(西)という地理的状況の中、まず各地へ兵を分けるのは愚策、であればとどこか一方を責めている間にどこかから背後を狙われる挟撃に遭う可能性あり。手間取って上洛に時間がかかる事があってもならない。その様な状況の中で乾の軍略は冴え渡っていた。

 乾、谷干城を伝令として土佐城下へ飛ばし、第二軍を設けて西・松山鎮撫を指示。自らは第二軍の援軍を根拠に、現在地から最も近い中央・川之江へと向かった。川之江は幕領であったが兵も少なく、さしたる抵抗もなく鎮撫に成功する。

19日、乾ら迅衝隊本隊、鳥坂峠を越えて東・讃岐国は高松藩(丸亀藩)丸亀城下へ入る。土佐軍が讃岐へ侵攻したのは長宗我部以来300年ぶりの快挙であった。

 京より錦の御旗を伝奏した大目付・本山茂任、樋口真吉ら、勅令と共に到着。

 丸亀藩、即刻恭順。支藩の多度津藩と共に、乾ら迅衝隊の旗下へ入った。かつて久坂玄瑞らと通じた為に幽閉していた土肥実光を即刻釈放し、参謀へと据える。まったく同じ状況で今現在の立場にあった乾は土肥実光を信じた。

 高松藩士・長谷川惣右衛門が本陣乾の元を訪れ、朝廷への謝罪歎願の取成しを求める。高松藩、恭順を決め、乾ら官軍迅衝隊を受け入れる準備を始める。藩主・松平頼聡は城を去り、浄願寺で謹慎に入る。

20日、乾本隊、錦の御旗を先頭に、丸亀、多度津藩兵を先鋒道案内させながら進軍。乾のこの進軍は『もはや高松は逆賊の孤軍となる』といった心理的効果が抜群であった。

 丸亀街道は予め高松藩によって急遽清掃され、各所に接待所が設けられ、草鞋まで準備して迎えの準備が成り門前には『降参』と書いた白旗を掲げ、家老が裃を着て平伏土下座にて出迎える。乾は城門前に「当分、土佐領御預地」と高札を立て、真行寺に本陣を敷いた。かつて逃亡中の高杉晋作を匿った罪状で牢獄にいた日柳燕石、出獄解放。

21日、乾、丸亀、多度津藩兵を帰藩させ、自身は在京の容堂や上士らを説得する為、軍を率いず丸亀を発つ。船に乗り上洛を目指すが、乾を阻止せんとする保守派・佐幕派の動きが四国内外で見受けられる。独断挙兵、軍の私物化など言語道断として切腹させる勢いの者もいた様だ。これらに遭遇しない様巧みにかわしながら上洛を果たし、容堂以下上士らの説得に成功する。

27日、松山藩、松山討伐の勅令以来、先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立し混乱を極めたが、最終的には官軍・土佐軍に対し戦わずして恭順を示した。

2月3日、迅衝隊北川宅之助配下の足軽・大久保虎太郎、楠永鉄太郎、岡上先之進、国沢守衛の4名、松下城下の呉服店にて『略奪行為』に値する強引な値切り、脅しを行う。

??日、呉服屋を脅した4名、迅衝隊軍議にかけられ隊規違反と認定。斬首される。以後迅衝隊は会津まで駆け抜けるが『正義』を履き違える事無く正々堂々と戦い抜き、『最も規律正しい軍隊』と言われる事になる。

『いやしくも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ』


仮SS/【以蔵】肥前国河内守藤氏正広


岡田以蔵の弟、岡田啓吉が陣へと駆け付ける。その手には、武市の遺刀『肥前国河内守藤氏正広』があった。

―京―

【乾・以蔵】大志:土佐勤王、成る


1月21日。乾、在京の容堂や上士らを説得する為、軍を率いず自ら丸亀を発つ。京からは乾を封じる為の藩命を携えた使者が放たれており、いわば包囲網が敷かれているとの情報も。彼らと出くわし命を下されれば、もはやその一命に背くしかない。武士の一分を放棄する事となっても、官軍としての土佐を率いらなければならない…と覚悟もしていた。身辺護衛として遊撃隊長の岡田以蔵ら数名を同行させ、京からの使者を巧みに交わしながら、ついに容堂公の御前へと辿り着いた。

(1月25日)六カ国、局外中立宣言
(2月7日)迅衝隊、上洛。乾らと合流。

(2月9日)新政府、東征大総督府を設置。東征大総督に新政府総裁・有栖川宮熾仁親王が就任。
東海道・東山道・北陸道の鎮撫使を改め『先鋒総督兼鎮撫使』をその指揮下に加える。後、鎮撫総督は先鋒総督へ改められ参謀として以下の人事が行われる。
・御親征東海道先鋒総督軍参謀・西郷隆盛
・御親征東山道先鋒総督軍参謀・乾退助

(2月13日)乾、土佐軍の大隊司令兼総督を兼任。佐々木から、はつみの身柄は薩摩にあるとの報告を受け、一旦安堵する。以蔵には妻子の元へ行く許可を出すが、彼は乾がその使命故にはつみに会いに行かない事を汲み、己も乾のもとに留まった。
(2月14日)英国ウィリス医師、書記官兼通訳官ミットフォード、京土佐藩邸に入る。 容堂は肝臓からの出血があり重篤であったが次第に持ち直す。
(2月14日)乾ら東山道先鋒総督軍が東山道へ向け出陣。

仮SS/【乾】ラブ・レター


2月14日。乾ら東山道先鋒総督軍が、東山道へ向け出陣する。彼らが移動を始めた頃、小松庇護のもと戦禍を逃れる為に大阪薩摩藩邸へと移動していたはつみのもとに、乾の長年の戦友・小笠原唯八が一通の書簡を持って現れた。

(2月18日)乾、甲府出身の先祖・板垣信方の『板垣』姓へと改名。
美濃大垣に到着し、ここで次に目指す甲府への攻略を練る際に改名を決めた。




※以下、戊辰戦争略式。板垣・土佐中心に時事関連を抜粋※



3月1日、はつみ、寅之進、『外国事務局御用掛・英国通訳事務、留学候補生』および、その護衛役を拝命。サトウらと共に横濱英国公使館(領事館)へ出向となる。
3月1日、行軍中の迅衝隊は二つに分かれ、板垣は甲州街道を全速力で進撃する。
3月6日、『甲州勝沼の戦い』
板垣迅衝隊及び各藩支隊、元新選組近藤ら甲州鎮撫隊を戦闘開始およそ2時間で潰走させる。
3月14日、江戸総攻撃中止


【板垣・サトウ】Problem occurred.


3月中旬。江戸総攻撃中止が成ったと勝からの報告を受け、サトウと共に横濱領事館(公使館)へと戻って来たはつみ。江戸総攻撃中止に至る経緯を公使パークスへ報告した後、別件としてパークスが一通の書簡を取り出した。
『差出人の乾という人物について調べさせてもらったのだが、官軍総督軍の板垣参謀と同一人物の様だ。心当たりはあるかね?』と、まるでスパイを疑っているかの様に不穏な雰囲気で尋ねられ、緊張するはつみ。


―乾、念願の嫡男誕生―
3月25日、『次男』乾正士 生まれる。母は妾:薬子
5月15日、『長男』板垣鉾太郎 生まれる(1868年7月4日)母は正妻:鈴
※妾と正妻から相次いで男児が生まれた事、戦時中板垣姓を立てた事等により少々ややこしくなっている。正妻の子であり板垣家嫡男とする鉾太郎を『長男』とし、次男と長男の立場を入れ替えたか}


※以下、板垣、会津へ至る戦い・略式※


詳細

世直し一揆
4月1日、宇都宮から農民一揆による打ち壊しに際し通報が入る。
新政府軍が宇都宮へ兵を派遣した先、新選組らが潜伏しているところに遭遇。
新政府軍、宇都宮城に入るも旧幕府軍による集中攻撃を受ける事となる。
『第1次宇都宮城攻城戦』
4月19日、新政府軍、宇都宮城を一旦離脱。
4月20日、大鳥ら旧幕府軍が宇都宮城に入る。
4月22日、壬生安塚の戦い。旧幕府軍の勢い強く、苛烈な戦い。土方ら新選組や永倉ら靖兵隊も参戦
『第2次宇都宮城攻城戦』
4月23日、苛烈を極める戦の末、新政府軍が宇都宮城を奪還。新選組副長・土方歳三が負傷の為戦線離脱。
援軍の為進軍していた板垣ら土佐迅衝隊本隊は参戦に至らず、兵力温存のまま壬生城に入る。
4月25日、板垣、日光東照宮が戦禍に巻き込まれる事を回避する為、現地の住職を説得。日光山での決戦を望んでいた大鳥ら旧幕府軍であったが会津方面へと移動した。
4月29日、板垣土佐迅衝隊が今市に入る。日光守備の彦根藩と交代および協力体制を取り、大鳥以下旧幕府軍の布陣に警戒しながら軍備を増強していく。
閏4月1日、高徳の戦い
哨戒中の土佐藩1小隊、今市へ向け進軍してきた旧幕府軍靖兵隊ら60名と戦闘。50名の死傷者を出し退却する靖兵隊を深追いし、鬼怒川を渡ってまで追撃してしまう。高徳にて追い詰めるが永倉ら残兵10名程の猛攻を受ける。必要以上の深追いに出た1小隊を援護する為派遣された別動隊の内、以蔵率いる遊歩兵隊が一早く駆け付け土佐兵らの撤退に至る。

以蔵VS永倉

閏4月18日、大桑での前哨戦
この日敵軍100人程の出撃を受け土佐藩諸隊および急報を受けた彦根藩小隊が緊急出撃する。大桑にて旧幕府軍を撃退し、大いに士気上昇する。
閏4月19日、栗原、柄倉の戦い
閏4月21日、『第一次今市の戦い』
板垣は壬生に出張中。片岡源馬、谷干城、祖父江可成が共同で指揮を行った。大鳥軍と会津軍の連携が取れていなかった為旧幕府軍の当初の策及び一斉攻撃は成らなかったが、損害状況はほぼ同程度でこの日の戦闘は終わった。
以後、板垣は防戦迎撃戦に向けて今市の陣を臨時の要塞へと展開させていく。しかし新政府軍は宇都宮警備に兵を割き、土佐本隊のうち二隊は負傷者等を江戸へ護送する必要があったなど、哨戒中に発生する小戦闘等の損害も含め人員的に苦境を強いられつつあった。
5月6日、『第二次今市の戦い』
今市に残る土佐兵は驚くべきことに以蔵小隊を含む4小隊と砲一門のみであったが、板垣はすでに増援の手はずを整えており計画的投入のため各方面へ指示を飛ばしていた。旧幕府軍を迎撃し持久戦を展開する4小隊に対し、板垣は鼓舞して戦況にあたる。土佐兵はすさまじい銃撃戦で敵兵の接近および侵入を防いでいた。しかし朝6時に到着を予定していた援軍は遅れており正午になってもその気配はなく、板垣は作戦変更し攻戦へと打って出る。山地を迂回し敵兵の左背面から奇襲をかけ、そこから各地小隊と連携して選曲を切り拓くというものだが、これに以蔵の隊が抜擢される。
奇襲は見事成功し、しかも敵増援はなく予備部隊さえもいない状況。大鳥軍は途端に防戦となり局面は大きく変わってゆく。更にダメ押しで遅れていた土佐軍及び新政府援軍が続々と到着。大鳥軍本営がある森友へ進撃する。この本営にも予備兵などは配備されておらず、大鳥らは文字通り命からがら散り散りになって潰走。会津と撤退連携も取れない程の敗戦となった。



※以下、会津戦争・略式※


詳細


閏4月20日、会津兵と新選組(土方離脱中のため斎藤指揮)が白河城を侵攻する。
閏4月25日、『白河口の戦い』
新政府軍、白河城攻略。白河城に入る。以降およそ3か月に渡り白河城7度の防衛戦(新選組含)(板垣支隊は6月上旬に白河城へ入る)
6月24日、板垣、棚倉城攻略。板垣、各藩兵混合の800を率いて進軍。

(7月)大阪開港

7月13日、磐城の戦い。新政府軍が平城を攻略
7月16日、『二本松の戦い』
 浅川の戦い、板垣、棚倉城から援軍を出す

(7月17日)江戸を東京と改称

7月26日、板垣ら三春藩の恭順を受け入れ、三春城に入る
7月27日、板垣ら新政府軍本隊が二本松本宮へ向かう際中、薩摩3隊と、以蔵が所属する土佐2小隊『独断』の『糠沢夜間奇襲戦』が勃発。
7月29日、本宮から二手に分かれて進軍する新政府軍。
これまで板垣が主導として行ってきた戦術と違い、今回は勢いに任せ、慎重性と合理性に欠ける戦略。積極戦を好む薩摩主導の戦略であった。 先日の突然の糠沢夜襲との絡みと、板垣が内々に以蔵から聞いた奇襲当時の様子。
二本松・尼子平の戦い。進発する板垣支隊が迎撃に遭う。
大壇口の戦い。尼子平を切り抜け二本松城に差し掛かる直前、砲撃に遭う。

以蔵、突撃した大壇口陣にて二本松少年隊と遭遇する。
以蔵、突撃した二本松城下で取り残された老兵や少年兵と遭遇する。
二人を捕虜として保護する。

8月20日、『母成峠の戦い』
濃霧戦。旧幕府軍は母成峠の要所三点に台場を設け、更に天然要塞である勝岩付近にも布陣。新政府軍土佐迅衝隊は勝岩に進撃し、そこで大鳥配下の伝習第一大隊、新選組と激突。

以蔵VS斎藤

8月22日、戸ノ口原の戦い。会津軍、白虎隊を投入。新政府軍、猪苗代を突破。十六橋を制す。
西郷頼母の婦女一族、集団自決の様子が発見される。他、市中内においても200名以上もの婦女が自決。
8月23日、『会津攻防戦』
新政府軍、江戸街道と進撃し会津城下へ突入。
土佐迅衝隊、北出丸へ向かうが山本八重ら鉄砲隊の抵抗に遭い、死傷者を出す。京から江戸新政府に出仕し北町奉行を務めていたが、辞職し、板垣を追いかけ迅衝隊に参加していた。大総督府諸道軍監 土佐藩・牧野群馬 若松城内から狙撃され負傷
(その距離700m以上。旧式武器が殆どであった)
会津内においてその距離を狙撃できる銃を持っていたのは、女ながらに銃隊を率い自らも自前のスペンサー銃を操っていた山本八重のみであったと言われている。)
小笠原唯八の弟・迅衝隊小笠原三番隊隊長・小笠原茂連、銃隊の弾に被弾し戦死。
戸ノ口原の戦いから飯盛山へ退却していた白虎隊士中二番隊、城下の戦況を見ながら今後の方針を激論の末、一斉自決。
8月25日、小笠原唯八、会津鉄砲隊により討死
8月25日、涙橋の戦い。婦女隊参戦。
会津新選組斎藤一、城外において粘り強くゲリラ戦を展開




(9月8日)明治へ改元
(9月22日)会津降伏
(9月27日)庄内藩降伏。東北戦争終息。

10月 4日、朝廷より凱旋の令を拝し、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊は凱旋の途につく

―東京奠都―

(10月13日)東京奠都。明治天皇が西国諸藩兵3300名に護られながら江戸城(千代田城)に入る。

10月24日、土佐藩迅衝隊大軍監・谷干城、東京へ凱旋

(10月26日)旧幕府軍、函館を占領
(10月28日)横濱英国公使館に、旧幕府軍が函館を占領したとの報が入る。

10月29日、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助、東京へ凱旋
10月30日、迅衝隊士530名が土佐に凱旋(第一陣)
11月、板垣、江戸城にて明治天皇に拝謁
11月 5日、板垣、谷ら本営以下442名が土佐に凱旋(第二陣)


―東京―

【板垣、サトウ】英雄の凱旋


10月30日、板垣視点。
およそ10か月に及ぶ厳しい遠征から、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊の面々が行列を成し、日々帰還を果たす。そんな中、名実ともに新政府軍の英雄となった板垣退助も29日に東京へと凱旋した。横濱公使館(領事館)でサトウのサポートをしながらも翻訳・通訳などといった事務仕事をしていたはつみも、板垣および以蔵、土佐藩の凱旋を耳にするが…。
詳細

東京へ凱旋してから土佐へ帰藩するまでの期間は極めて最小限に留めようとするのが板垣の方針であった。10か月もの長い間、兵達には最小限の食事と硬く時に雨ざらしの寝床、戦時中独特の精神が荒む戦も多々強いた為、彼らの為にも一刻も早く故郷へ経つ必要があった。とはいえ板垣はこの会津戦争強いては戊辰戦争を新政府軍の『完全勝利』へ導いたとされる英雄であり、その彼だからこそ発言力の及ぶ『真の一君万民』としての戦後処理の問題など、早速為さねばならない案件も山積みであった。東京に滞在する短期の間、自身の疲れを癒す暇もなく次から次へと面会や予定が舞い込む中で、『軍を預かる身として戦時中は割り切るべきだ』と己を律し頭の隅に追いやっていたはつみの事がチラつき始める。

抑えきれず、横濱英国領事館へと手紙を出す。短い文であったが11月上旬の帰藩前に会いたいと率直に書かれていた。…しかしその頃丁度、北方の函館が旧幕府軍に占拠されたとの方が公使館宛てに舞い込んでおり、大混乱に陥っている当地の西洋人らを保護し、実際の状況を見極める為に第一書記官であるフランシス・オッティウェル・アダムスらが派遣されようとするなどこちらも非常に慌ただしい真っ最中であった。
アダムスの通訳としてはミットフォードが付いたが、現地にて外国人を保護する為の補佐通訳官としてはつみも同行する事となる。(一般人との接触も多く見込まれ、また混乱下にある事も想定された為、即戦力となりうる技量の高い通訳官が必須とされた為)あまりに急ぐ案件であった為、はつみは板垣の手紙に対しては『会う事ができない』とする返信を慌てて記し、これをサトウに託したのだった。


(11月)板垣、江戸城にて明治天皇に拝謁。
(11月4日)はつみら、函館に入港する。土方ら前線の様子(松前城攻略)なども聞く。
(11月5日)板垣、谷ら、他土佐迅衝隊442名、土佐帆船夕顔丸等にて土佐へ向け出港
(11月12日)アダムズ、はつみらが函館から帰還する。

(11月19日)東京開市、新潟開港及び、西暦1969年1月1日
東京における外国人の通商と居住が認められる。

(11月19日)旧幕府軍追討令

(11月)以蔵、板垣の承認を得て土佐を出立。京『鈴蘭』へ至る。

未来へ

明治元年11月~明治2年2月

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●慶応3年…乾32歳・はつみ28歳

(11月下旬)はつみ、大阪にて療養中の小松やパークス公使の承諾を得て、 小松の見舞いと土佐へ挨拶をしに一時帰還する。(船で大阪経由)

―一時帰還:大阪~土佐―(往路船内)
12月。はつみ、大阪からの船の中で月経が再開した事に気付く。ここ数日の体調の悪さは疲れや風邪などではなく、月経に伴うものだったと結論。倒幕が成ったとみなし、ルシファ…四郎が成仏した事で、はつみは『この世界の人間』になれた。


―土佐―


【板垣】二人の距離


髪を切った板垣と初めて対面する。もはや誰もが板垣を英雄とあがめていたが、本人はまったく変わらず、今は一君万民に則った治政が行われる為の骨組みを思案していた。会津の父子や会津兵達への処罰にも寛大とし、特に列強諸国に対し国力を上げていく中で 日本民族間の遺恨を残し将来再び内部分裂という事があってはならないとするものであった。
そんな板垣の思想に対し、はつみは心から賛同し感動し、尊敬に至る。
…板垣は二人の関係についてはつみに訪ねる。帰国後、正式に土佐の外交員にならないかと声を掛ける。取引ではなく、正当な交渉として。


●明治2年…乾33歳・はつみ29歳


―横濱―


仮SS/【板垣】同床異夢:前編・後編
R18


1月中旬。14日の京にて版籍奉還についての会合を控えて土佐湾を出航していた板垣は、その前に横濱まで足を延ばした。 これが三度目の正直。最後の『取引』とする為に。
『…ごめんね、乾…』
 最後の逢瀬。合意の取引。汗ばむ肌を重ねる最中、はつみはその目尻から静かに涙をこぼしながら板垣を抱き締めていた。江戸で取引をしたあの日、土佐で寄り添い合ったあの日。はつみがそう言った意味を、ようやく理解するに至る板垣であった。

(1月14日)京・円山端寮において薩摩大久保、吉井、長州広沢、土佐板垣が版籍奉還の会合。
(このあと1月20日に薩長土肥4藩の藩主、新政府に対し版籍奉還の上表を提出。)
(以後、5月までの間に、わずかな藩を除く262藩主が同上表を提出)

(1月14日)アーネスト・サトウ、賜暇のため帰国。
野口富蔵、桜川はつみ、池田寅之進が留学のため同行。
パークス公使を始め、公使館職員の面々に最後の別れを告げる。ミットフォードからは花束を受け取り、アレクサンダーからは手紙を受け取った。そしてサトウのエスコートを受けP&O社が所有する804トンの蒸気船オタワ号に乗り込む。